24.セイレーンの歌声



 年が明けて、街は新年の祭で盛り上がっていそうなものなのだが、もう一つパッとしない。余所者のファントムの目から見ても、タウの街は打ち沈んでいるように見えた。それも当然のことだろう。アヴァンティナ団とセイレーン党の相次ぐ派手な襲撃に遇い、そればかりか弟のベルラントまで暗殺されたセルパニ総統は、とうとうタウの町に戒厳令を布告した。
 とは言っても、タウの町民たちはそんなことは気に留めていないようだ。ただ、大通りという大通りを警備のためと称し、武装隊がやたらに横行する。衛兵の常駐地点も各所に設置された。それが目障りで、新年とは言ってもあまり外で騒げないのだ。自分たちが革命団と間違えられて捕まってはつまらない。
 それにしても、ファントムには気に懸かることがあった。総統セルパニとは強大な権力の所有者のようには思えるのだが、その総統の姿を一度も見たことがないのだ。もうタウに来てかなりの日数が経ったのに、名前ばかり聞かされるだけだ。
「総統のセルパニを見たことがあるか?」
 ファントムは目の前でご馳走を頬張っているヴィットーリオに訊いてみた。
「ないな」
「この町にずっと住んでるきみでもないのか。セルパニって本当にいるんだろうか?」
「それは鋭いが、愚問だよ」
「どうして?」
 ヴィットーリオは口の中の物をぐっと呑み込むと、葡萄酒を一口含んでからファントムの方に向き直った。
「つまりだな、今のセルパニ三世ってのは、祖父のセルパニ一世が武力革命でものにした地位を世襲しているに過ぎない。セルパニ一世のやったことがどうであれ、その子、その孫まで優れているなんてことはまずあり得ない。結局、セルパニがいようがいまいが、そんなことはどうでもいいわけだ。セルパニという名で、総統の地位に就いている者が存在していれば、それは誰であっても構わない。
 結局こういうことだな――革命でありついた地位と富と権力を手放したくない。それを子孫に至るまでずっと一族で手にしていたい。そういう取り巻き連がのさばっている限り、いようがいまいが、総統セルパニは永遠に存在し続ける。つまり傀儡だ」
 ファントムは頷いた。
「そうか、民衆の前に姿を見せないのは、もしものことを恐れてってことか」
「そういうことだ」
「ただの小心者だな」
「仕方がないさ。この町の小学校において、総統政府は革命の英雄セルパニを崇拝するように子供たちを躾ける。だけど今じゃほとんど無意味なことだね。目の前の現実が現実だからね。そこで全ての町民の怨嗟はセルパニに集まる。取り巻きどもは甘い汁だけ吸う。それを続けるためには、総統政権はあくまで存続しなければならない」
 ファントムは唸った。ヴィットーリオは再び料理に手を伸ばす。
「セルパニが傀儡だということはわかったよ。じゃあ、誰が実権を握ってるんだ?」
「あまり大きな声では言えないことなんだが、専門家として言わせてもらうと、まず軍事総監のパルマ、元老院議員で行政顧問のデュモン、こいつらもかつての革命家の子孫だ。だがこの二人は他の者と違って切れ者だ。もう一人、パトリオットのアルタリンツという者。こいつは名前しかわかっていなくて、大学の研究室でもその実体はつかめていない。表向きは普通の民間人だ。だけどこいつが実質上、パトリオットを動かしていると思われる」
 それを聞いて、ファントムは怪訝そうな表情を浮かべた。
「ついこの間、パトリオットの長官で、サイザル将軍という奴が、アヴァンティナの刺客に殺された。俺はこの目でそれを見たぞ」
「だからそれも名目上の長官であって、やっぱり傀儡だ。パトリオットは言わば総統の私設親衛隊で、政権保守のための最大の機関だ。公的な総司令官のサイザルが消されても、パトリオットの機能自体には何の支障も来たさない」
「それじゃあ、あの暗殺は無駄だったってことか?」
 ファントムの問いに、ヴィットーリオは即座に首を横に振った。
「そうとも言えないな。パトリオットのように秩序立った組織というものは、確かに強力だが、だからこそ弱点というものもある。指令系統の重要な部分が除去されると、その下部組織が面白いほど麻痺してしまうということだ。仮にサイザルではなくて、アルタリンツなる者を抹殺していれば、今頃パトリオットはほとんど動かなくなっていたことだろうよ。もっともそれは非常に困難なことには違いないだろうが。だけどアヴァンティナ団のサイザル暗殺の目的は別なところにある」
「と言うと?」
 そこでヴィットーリオは葡萄酒をごくりと一口飲み、一呼吸置いてから、
「つまり、民衆の支持を取りつけること。政権側を動揺させること。表向きだけとはいえ、鬼より怖いパトリオットの最高責任者たる者がアヴァンティナ団によって殺されたと噂が広まれば、これはセルパニ政権転覆のための大きな宣伝効果を生むことになる。逆にアルタリンツを抹殺できれば、政権側に実質面での大打撃を与えることになるが、これは一般への宣伝効果は全くない。つまりアヴァンティナ団は、とりあえず実より名を取ったわけだ。アルタリンツ抹殺の意図もないわけではないだろうが、これは極めて困難なことだ。要するにアヴァンティナ団の第一の目的は、あくまでも市民革命を誘発することであって、単独で総統側と武力闘争をすることではないみたいだな」

 その夜、灯りを消して下宿の自室で床に就いたあと、ファントムはなかなか寝つけなかった。昼間ヴィットーリオが言っていたことを思い出し、総統政府とアヴァンティナ団のことに考えを巡らせ、内戦となったあとのタウの町や自分の運命がどうなるかが、あれこれと頭に浮かんできた。だが、それらどの予測も自身で釈然とせず、もやもやとした気分だけが湧いてきて、それがいつまでも心の底で澱んでいた。暗い虚空を見つめていると、自分に懇願しているバンコスの顔がふと浮かび上がった。窓の外から、衛兵と酔っ払いが言い争っている声が聞こえてくる。
 そうやって取り留めもない考えに囚われたまま、眠れない夜を過ごしていると、突然階段をドタドタと踏み鳴らしながら二階に上がって来る足音が聞こえ、たちまち部屋の戸が開いて何人かが部屋の中へと入って来た。
「誰だ?」
 数人の衛兵がカンテラでファントムの顔を照らした。
「おまえはファントムだな」
「そうだ」
「おまえを連行する。裁判所から逮捕命令が出ている」
 ファントムは何か言おうとしたが、衛兵たちは彼を取り押さえようとすかさず部屋の中に乱入して来た。
「言いたいことがあれば、裁判所で喋るがいい」
「何の罪で捕らえられるんだ?」
「サイザル将軍暗殺の容疑だ」
「放せ」
 ファントムは衛兵の手を振り払うと、ゆっくりと寝台から下りた。
「抵抗はしない。黙ってついて行く。お望み通り、裁判所で申し開きしてやろう」
「武器を持ってないか確かめろ」
 衛兵はファントムの体を探った。
「何も持っていません」
「よし、では連れて行け」
 部屋から連れ出されると、向かいの部屋に住んでいる男が戸を開けて覗いていたが、オクスは出て来なかった。恐らく泥酔して眠り込んでいるのだろう。特にオクスに知らせようという気も起こらなかった。
 異様な雰囲気に包まれた夜の街を、ファントムはハンメル通りの裁判所へと連れて行かれた。途中、衛兵と町民が揉めているのに何度も出くわした。その光景を目にして、彼はいよいよ差し迫ったものを感じた。
 裁判所にはまだ灯りが煌々と燈っていた。この裁判所には法廷だけでなく、留置所もあれば、地下には拷問器具をずらりと並べた秘密の部屋もあるという。
「これから事情聴取を始める。ここに入れ」
 ある部屋の前までやって来ると、扉を開けた衛兵が無造作にファントムの背中を突き、部屋の中に押し込んだ。すぐさま扉が外から閉じられた。中には男が一人、テーブルを前にして座っているだけだ。男はファントムを認めると、すぐに声をかけてきた。
「おまえがファントムか? なんだ、まだ小僧じゃないか。まあ、突っ立ってないで、まずそこに座れ」
 男は顎をしゃくって向かい側の椅子を示してみせた。両肘をテーブルの上に突いて、顔の前で両手を組んでいる。ファントムはしばらく冷静な目つきで男を見ていたが、言われるがまま、黙って椅子に掛けた。
「俺がサイザル将軍を殺っただなんて、何かの間違いだろう。だいたい、サイザル将軍なんて顔を見たこともないし、全然知らない」
 じっと顔を睨んでいるだけで、男がなかなか口を開かないのに焦れてきて、とうとうファントムの方から先に喋り出した。
「まだ何も訊いちゃいないぞ」
「本当だ。濡れ衣だ」
 ファントムがだんだんむきになってくるのを見て、男はニタニタと笑った。
「おまえは嘘をつくのが下手だな。まあ、そのことはいい。おまえは明日にでも裁判を受けることになるが、その際、何を問われても知らぬ存ぜぬで通すのだ。この国の決まりで、おまえのような平民には弁護人はつかない。喋れば不利になるだけだ。何を言われても、黙って首を横に振るのだ」
「ええっ!」
 この男は一体何者なのか? 容疑者に向かって、決して口を割るななどと言う。本当にタウの役人なのだろうか? 思いもかけない男の態度に、ファントムは面食らってしまった。
「黙ってるも何も、本当に俺はサイザル将軍を殺してないんだから。あの晩、人魚亭で偶然一緒にいただけだ」
 男は不敵な笑みを浮かべた。
「あっ!」
 しまったと気づいたものの、もうあとの祭りだ。男はしばらくの間、ファントムの動揺を楽しんだあと、力が抜けたように背もたれに寄りかかり、半身になって片肘を載せた。
「だから何も喋るなと言ってあるだろう。おまえがサイザルを殺ったのでないことぐらい知っている。おまえが殺ったのは、サイザルの付き添いのパトリオット四名だ」
「三人だ!」
「ほらほら、またそうやってすぐにむきになってぼろを出す」
 ファントムはもうどうにでもなれという気になり、自分も背もたれに凭れかかった。取り調べとはいえ、この男の手口に腹が立った。こういう性格の人間が気に入らない。男はファントムの態度を見て取るや、またニタニタと笑いだした。
「やれやれ、腕は立つのかもしれんが、おつむの方はちょっとな。よくもこんな若造を選んだものだ」
「何っ!」
 ファントムは男の顔を睨み返した。
「おまえは知らんだろうが、この国の裁判というものは、最初から判決がわかっていてな、地位とか、財産とか、立場の弱い者が必ず負けることになっている。例外はない。明日の裁判では、おまえはもちろん立場の弱い側だ。だが、今みたいにぼろを出すことさえなければ、証拠は何も挙がっていないのだから、判事はおまえに殺人犯の罪を着せることはできない。結局、別の罪をおまえになすりつけて裁判は終了する。その罪は脱税だ」
「あんたは何者だ? 本当にこの裁判所の役人か?」
 前もって裁判の成り行きを被告に教えるなんて、これではまるで芝居ではないか、とファントムには馬鹿々々しく思えてきた。
「私は検事のヒューズだ。明日の法廷において、おまえの罪を告発する側だ。いいか、二度と言わんぞ。おまえは明日、何も知らぬで押し通すのだ。そうすれば、証拠は何一つないのだから、殺人罪にも反逆罪にもならん。おまえは単なる脱税者だ。罰を選ぶことができる。棒打ち二十か、一ヶ月のガレー船の漕ぎ手か。迷わずガレー船を選べ」
「なぜだ?」
 ヒューズはすぐには答えず、席を立ち、部屋にただ一つだけある窓辺へ歩み寄った。
「なぜガレー船を選ぶんだ?」
 ファントムが再び訊いた。
「そのガレー船は、セイレーン党によって襲われる」
「セイレーン党?」
「我々はバンコスと取引をした。ファントム、おまえは船が沈む前に、船底で衰弱しきっているある者を救出しなければならない」
 またあいつめ、勝手に決めやがって、とファントムは歯噛みしたくなった。
「あんたはセイレーン党か?」
「そうだ。そいつはタウの兵隊どもに、『死霊』と呼ばれて恐れられているオドル、アヴァンティナ団のオドルだ。しかしまだ正体はばれていない。今のうちに助け出す必要がある。オドルは傷が癒えれば、アルタリンツを殺しに行くだろう。それ故、ファントム、おまえは必ずオドルを救出しなければならない。故に、私はおまえを逃がさなければならない。巧くガレー船から脱出できれば、タウ海軍戦闘艦、クラーケン号の艦長、ゼメキス准将がおまえたち二人を拾い上げてくれる」
「ゼメキス?」
 その名を聞いて気になったが、フェノマ派に殺されたゼメキスとは関係ないのだろうと思い、ヒューズに訊くのはやめた。
「おまえが漕ぎ手として乗り込む船はバジリスク号、近々海賊討伐のため出撃するが、乗組員は一人も生きて帰らない。だがクラーケン号の方は無事で、そのままトラワー諸島のとある島へ向かい、おまえはそこで、我がセイレーン党の首領、キルケー様に会う」
「セイレーン党の首領のキルケーだって? なぜ俺が?」
「私に訊いても知らん。キルケー様がおまえを呼んでいるのだ。私にしても不思議でならん、なぜおまえのような奴が招かれるのか。さあ、やるのかやらんのか、どっちだ?」
「今の俺が選べる立場にあるとでも思っているのか?」
「よし、わかった。では言った通り、明日は余計なことは一言も喋るんじゃないぞ」
 ファントムはそのまま留置所に連れて行かれ、檻の中に入れられた。

 翌日の裁判でファントムは法廷に立たされ、脱税により有罪を言い渡された。裁判とは名ばかりで、ただ単に罪を一方的にあげつらい、刑を言い渡すだけのもので、あっと言う間に裁判は終了した。彼は自分に課せられる罰を選ぶ段になって、ヒューズの指図した通り、ガレー船の漕役刑を選んだ。傍聴席に押しかけていた一般市民たちは、その選択に、信じられないとでも言うように一概に溜息を洩らした。
「ガレー船なんてやめときな。死にに行くようなもんだ」
「棒叩きの方がずっとましさ」
 法廷から連れ出される時、親切心から言ってくれる見ず知らずの人たちもいたが、ファントムは黙ってその人たちに向かって頭を下げただけで、罰の変更を願い出ようとはしなかった。
 ヒューズを完全に信用していたわけではなかったし、タウの役人にはあまり好意を持ってもいなかったのだが、棒でぶたれてすごすごと帰るのも癪だった。何よりも、アヴァンティナ団の指導者の一人であるオドルをこの目で確認できること――オドルは『死霊』などと呼ばれて軍に恐れられているくらいだから、バンコスとは全然違ったタイプの人間に違いない。それと、これまでセイレーン党の者とはろくに接触がなく、出会ったことさえなかったものを、いきなりその首領にお目に掛かれるというのだ。そのことが彼を衝き動かしていた。
 それが何の意味を持つのか彼にはわかりもしないが、ヒューズが言うには、とにかくそのキルケーなる者が自分を呼んでいるというのだ。恐らくアヴァンティナのように超能力を持った者に違いない。いつものようにファントムの強い好奇心が頭をもたげ、知らぬ間に膨れ上がってしまったようだ。
 ファントムはそのままアルコ大橋を越え、アルコ島にあるタウの軍港まで連れて行かれ、戦闘艦バジリスク号に乗せられた。裁判所を出た時、ヒューズが近寄って来て、
「トラワー諸島に近づいたら、これで耳を塞いでおけ。忘れると、命取りになるかもしれんぞ」
 半分脅しているような口調で言うと、ファントムの手に何かを握らせた。掌を開いて見てみると、ただの蝋の塊だった。
 その日は停泊している船の中で寝たが、漕ぎ手たちは受刑者ばかりで、終身刑の者もいた。しかし、長期間ガレー船を漕ぎ続けているという者は稀だった。ほとんどの者が刑期を終える前に力尽きて死んでしまうからだ。食事は粗末で、何よりも衛生状態が極めて悪かった。漕ぎ手たちは甲板に出ることは許されない。鎖につながれ櫂を握っているか、さもなくば、更にその下にある船底部屋に押し込められているかのどちらかだ。日光に当たることはほとんどない。薄暗い中で汗みずくになり、更に暗い船底に詰め込まれて眠るだけだ。船底には黴の臭いと、排泄物を溜めた樽から漂い出る悪臭が充満していた。
「あんた、何の罪でこの船に来た?」
 ファントムが船底に放り込まれると、近くにいたまだ元気の残っていそうな受刑者が声をかけてきた。
「人殺しか?」
「税を納めなかったからだ」
 男は前歯の抜けた口を開け、笑ったような表情になった。笑っているのかどうかはよくわからない。
「だったら、棒叩きを選んどくべきだったな。こっちを選んだのは間違いだよ。俺も税を納めなかったんだが、ここはまるで地獄さ。俺はこの船に半年もいる。確かに一月と言われたはずなのに、いつまで経っても出してくれない」
「たぶん、明日になれば出られるよ」
 ファントムは小声で言った。男は髭面を歪めて弱々しく笑いながら、そのままその場に寝転がってしまった。
 ファントムには早速にもしなければならないことがあった。オドルを捜し出すことだ。船底は暗くて、一体何人いるのか見当がつかないが、床を埋め尽くすように多くの者たちが寝転がっていることは感じ取れた。
「オドル……、オドルはいるか?」
 この名前が上にいる海兵に聞かれてはまずい。ファントムは囁くように呼び続けながら、船底を手探りで進んだ。あちこちで鼾がしている。栄養不良と過労のため、受刑者たちは船底に下りると、泥のようになって眠り込んでしまうのだろう。
「うるせえぞ。人が寝てんだ。少しは静かにしねえか……」
 一人が目を醒まして声を上げた。怒鳴っているつもりなのだろうが、声には全く力がない。希望の光も射さない永遠の煉獄の中では、どんなに強靭な男であろうと、身も心もへなへなに萎えてしまうに違いない。暗さ故に表情一つ見ることもできないが、その声に、ファントムは哀れを催さずにはいられなかった。
(ここに来て良かった。この広い世界には、余所者には決して知ることのできないいろんな小さな世界がある。来なければ、この世界を知ることはあり得なかっただろう)
 ファントムはオドルに限らず全員を助けてやりたくなった。どんな悪事を働いてこの船に乗せられたかは知らないが、そんなことは関係なかった。
「みんな起きろ! 助かりたい奴はさっさと目を醒ますんだ!」
「何だ、何だ?」
「何だってんだよ?」
「いいから、自分のそばでまだ眠ってる奴がいたら、そいつも起こすんだ。この船底の連中を一人残らず起こすんだ」
 受刑者たちはあまり口応えをしなかった。疑問を口にすることもなく、黙って近くでまだ寝ている仲間を揺り起こし始めた。
「みんな起きたか? まだ寝ている奴はいないか?」
「死にかかってる奴がいるけど、話を聴いてんだか眠ってんだか、よくわかんねえな」
 ファントムは周囲の暗がりを見回してみた。みんな一応注目してくれているんだと察し、一人で頷いてみせた。
「まあいい。明日、この船はたぶん沈む。どういうふうに沈むのかはよくわからないけど、とにかく何でもいいから、トラワー諸島に近づいたら、みんな自分の耳を塞ぐんだ。絶対に外の物音を聞いちゃいけない。いいな、みんなわかったな。俺の言ったことを信じてくれるか?」
 返事はなかった。
「わかったのか?」
 ファントムはもう一度念を押した。
「ここから抜け出すためなら、それが嘘だろうと何でもするが、だけど上で櫂を漕ぐ時は、みんな足を鎖でつなぎ留められる。船が沈んじゃあ、誰も助からないぞ」
 暗がりから反論する声がした。ファントムは今日このガレー船に連れて来られたばかりで、船を漕いでいる時、どういう状況になるのかよくわからない。彼は暗がりの中でしばらく考え込んだ。ヒューズが言うには、どうやら耳を塞いでいないと助からないようだ。だとしたら、その時が来て、耳を塞いでいない海兵たちにまず変化が見られるだろう。その様子を見てから何か手を打つしかない。
「俺が何とかする」
 それだけ言うと、ファントムは横になった。他の者たちも再び眠りに入った。すぐにまた鼾が聞こえだす。自分の言ったことを真に受けてくれたかどうか、怪しいものだ。退屈極まりないこの船底で、しばしの座興としてお伽話を聞かされたぐらいにしか思われていないのかもしれない。

 翌朝早く、出撃命令が出された。船底の漕ぎ手たちが上に呼ばれる。受刑者たちは呼び声と共に起き上がり、蘇った死者たちが墓穴から這い出すかの如く、幽霊のような力の抜けた足取りで、順番に梯子段を上がって行った。
 全員が位置に着くと、漕ぎ手たちの片足首に鉄枷がはめられた。足枷は一本の長くて丈夫な鎖でつながっていて、その鎖も所々で船板に固定され、勝手な行動が取れなくしてあった。ファントムも櫂を目の前にしてつながれた。漕ぎ手には、これからどこへ、何の目的で向かうのかは一切知らされていない。
 前にいる兵の一人が、慣れた手つきで太鼓を叩き始めると、その拍子に合わせて、漕ぎ手たちは一斉に櫂を操り始めた。バジリスク号とクラーケン号の二艘の戦闘ガレオンは、ゆっくりとタウ軍港を離れ始めた。櫂を通す小さな穴から外の景色が辛うじて窺えるだけだ。大船の櫂は太くて長い。ゆっくり漕いでいるだけでも、慣れないファントムには応えた。彼は櫂を操りながら辺りをじっと観察し、脱出の方法を探っていた。
 太陽が沖天高く昇った頃、ようやく一回目の交代になった。船底にいた第二班が上がって来て、ファントムたちの班はまた船底に戻った。全身を汗が滝のように流れ落ちる。みんな水樽に群がった。しかししばらく経つと体が冷めてきて、たちまち冬の寒さに震えだした。疲労した肉体を揺れる船板の上に横たえながら、ファントムは考えた。
(足枷でつなぎ留められたままでは、逃げようにも逃げられない。まず足枷を外さなければならない。そのためには鍵が要る。鍵は、真ん中の通路を鞭を手にして行ったり来たりしている兵士の腰にぶら下がっている。つながれていては襲いにくい。次の交代の時に襲うのが一番だ。だがそれでは甲板上の兵が呼ばれ、作戦は失敗するに決まってる。やはり事を起こすのは何かが起こってからだ。一体何が起こるというのだろう……?)
 ファントムは知らぬ間にうとうととまどろんでいた。やがて食糧が下りて来た。その物音で目を醒ます。量はかなりあるが、パサパサのパンと水だけの食事を終えると、ファントムは船底の全員に向かって言った。
「交代の命令があったら、何でもいいから耳に詰めておけ。次に上で漕いでいる頃に、そろそろ何かが起こるぞ」
「だけど、海賊船に出くわして、調子が変わった時はどうすんだ?」
「え?」
「太鼓の音が聞こえねえぞ」
 戦闘艦はその用途上、高速航行が要求される時がある。従って漕ぎ手にとっては、櫂を漕ぐピッチが何段階にも分かれていることになる。そのテンポを合わせるため、鼓手をやる専門の兵数名がいるのだ。ファントムはそんなことは知らなかった。
「馬鹿だな。鼓手の腕の振りを見てりゃあ見当がつくだろが」
 誰かが言うと、
「そうだな。それもそうだ」
 みんな耳を塞ぐ物を捜し始めた。
 次の交代の時、上へ行く連中は耳の穴に何かを詰め込んだ。入れ替わりに船底に下りる連中に向かい、ファントムは自分の耳に指を当てて合図を送った。何人かがそれを見て、目立たぬように頷いてみせた。再びファントムは足枷をはめられ、鎖につながれた。外では日が傾きかけているのがわかる。もうトラワー諸島に近づいているはずだ。相変わらず単調な波の音と、櫂が軋む音と、鼓手が打つ太鼓の音しかない。たまに鞭を手にした兵が、腕の動きが鈍ってきた受刑者を叱咤し、鞭を打ちつける音が響いた。しかし漕ぎ手たちにはほとんど何も聞こえなかった。
 そうしていると、やがて甲板上で動きがあった。
「海賊船発見!」
「戦闘準備!」
「戦闘準備!」
 甲板で同じ言葉が連呼された。ファントムを含めた漕ぎ手たちには聞こえないが、下の兵たちも慌ただしく動き始めた。
「戦闘速度!」
 なるほど鼓手の手にした撥の回転が速くなっている。漕ぎ手たちはそれに合わせようと、櫂を漕ぐ手の動きを速めた。
 音がよく聞こえないというのは不便なものだ。目から入って来た映像のみで状況を推し量らねばならない。ファントムは外の様子が知りたくなって、櫂を漕ぎながら少し屈み込み、櫂穴から外に目をやったが、波しか見えなかった。やがて方向転換の合図がやたらに出始める。面舵、取舵と、目まぐるしく入れ替わった。どうやら海賊船相手に戦闘が始まったようだ。
 そうやって船が蛇行を重ねているうちに、櫂穴を通して船の姿がちらっと見えた。一瞬だったが、マストに掲げられた旗印がファントムの目に焼きついた。風に翻るその旗は、まるで大きな鳥が翼を広げて空を飛んでいるように見えた。
「少女の顔をした鳥……」
 ヴィットーリオから聞かされた、あれこそセイレーン党の徽だ。
 島影もたまに見えた。かなり近いところに小島がいくつもある。どうやらセイレーン党の海賊船はジグザグ航行をしながら逃げているようで、バジリスク号がそれを追跡していることがわかってきた。波が岩に激しくぶつかり砕け散るのが見える。しかし聞こえてくるのは自分の体内から出る早鐘のような鼓動の音だけ。漕ぎ手たちは次々にバタバタと倒れだした。すかさず交代要員が船底から引き上げられてきた。
 漕艇ピッチは既に突撃速度へと変わっていたが、どうしたことか、突如鼓手の手の動きが止まっていた。眼がとろんとしてしまっている。他の兵士たちも同じようになってしまっていた。
(とうとう何かが起こったんだ。こいつら一体何を聞いたんだろう?)
 しばらく様子を窺っていると、一人の漕ぎ手が何か叫んでいるように見えた。櫂穴の外を指差して、しきりにみんなに何かの合図を送っている。それに気づいた者たちは次々に櫂から手を放し、櫂穴から外を覗いた。ファントムは反対側の舷側にいたので、何が起こったのかよくわからなかった。だが、今こそ脱出の機会と踏んで、ふらふらと近くまで歩いて来た兵士の腕をつかむと、力任せに引きずり倒した。素早く腰の鍵を奪い取り、自分の足枷を外した。しかし兵士は抵抗する姿勢も見せず、そのまま立ち上がると、ふらふらと階段の方へ歩いて行った。
 ファントムは急いで反対側の舷側へ歩み寄り、櫂穴から外を見た。潮が猛烈な勢いで渦巻いている。船はそちらの方へ引き寄せられているようだ。
「まずい! 漕げ! 漕げっ!」
 ファントムは身振りで合図を送った。渦巻きから逃れようと、何人かは必死で櫂を操っていたが、間もなく強い衝撃を受け、全員その場にひっくり返ってしまった。
 船首の方から海水が流れ込んできた。大岩に正面からまともに激突してしまったようだ。漕ぎ手たちは大混乱となった。ファントムは落とした鍵を拾い上げ、近くの者から手当たりしだいに足枷を外していこうとしたが、急げば急ぐほど手元が狂って、鍵穴に鍵が巧く合ってくれない。
 受刑者たちは暴れたり、足枷を自分の手で外そうと試みたり、神に祈ったりと様々だったが、全て無駄なことだった。水嵩はどんどん増してくる。
「早くしないと、早くしないと」
 しかし一人ずつ足枷を外していても埒が明かない。これではほとんどの者が溺れ死んでしまう。水嵩は更に増し、足枷に鍵を合わせるのも困難になってきた。船底から上がって来た者たちもいたが、梯子段一つなので、なかなか全員は上がって来れない。
「駄目だ。間に合わない!」
 ファントムが悲鳴にも似た声を上げたちょうどその時、下から水を掻き分けて上がって来た大柄な男が、漕ぎ手を繋いでいる鎖を両手につかむと、勢いをつけて持ち上げた。
「うわあっ!」
 まだつながっていた者たちは全員ひっくり返って水の中に潜った。船板が壊れ、固定されていた太い鉄の鎖が外れた。
 ファントムは男の怪力に驚き呆れ、しばらくぽかんとしていた。男は続けて足元の分厚い板を拳一つで叩き割った。船底に水がどうっと流れ込む。下でもがいていた者たちが、泡食って割れ目から這い上がって来た。次に男は船の胴体を蹴破った。船首から流れて来ていた海水がそこから流れ出した。もう海面がそこまで迫ってきている。船は沈みかけていて、船首の方へと傾き始めている。
 怪力男は受刑者たちを手当たりしだいに引っつかんでは、穴から海へ向けて放り投げた。続いて鎖をつかみ上げると、自ら海へ飛び出した。鎖につながれていた受刑者たちが、続けざまに穴の外へと引きずられて行った。しばらく呆然と事態を眺めていたファントムも我に返り、近くでぐったりとしていた男の腕をつかむと、自分も船体から飛び出した。
 渦潮が近い。受刑者たちは近くの岩に取りすがろうと、あらん限りの力で水を掻き分けた。岩はすぐ目の前にあるのだが、潮の流れに逆らっているので、なかなか近づいて来てくれない。ここまで来たというのに、自由と生存を目前にして、力尽きて海中に消えて行く者もあった。
 やっとのことで岩に辿り着くことができた時には、もう岩の上に這い上がることもできないくらいに疲れ果てていた。一旦つかんだ岩から手が離れ、そのまま海の藻屑と消え去る者さえいた。
「頑張れ! ここで気を抜いちゃ何にもならないんだぞ!」
 ファントムが叫んだが、誰にも聞こえるはずがない。生き残った者たちが、海上に突き出た岩の上にやっとのことで這い上がり、後ろを振り返って見た時には、バジリスク号は渦潮の真ん中でくるくる回転しながら、その姿を消し去ろうとしているところだった。
「助かった……。もういいだろう」
 各自が自分の行動を不便なものにしてきた耳栓を抜き取った。途端に、自然の叫びが――波が激しく岩に当たって砕ける音と、ゴーゴーと逆巻く怒涛の唸りが耳に飛び込んできた。それとは別に、誰かが歌を歌っているようにも聞こえる。複数の女の声で、合唱しているのではなく、めいめいがてんでばらばらに声を絞り出しているのだが、それらが合わさって、世にも稀な一つの美しい旋律を形成しているかのように聞こえてくる。その歌声を、ファントムはどこかで経験したことがあるような気がした。
(そうだ。リリスの笛の音に似ている)
 聴いているだけで全身の疲れを癒してくれた、あの甘美な笛の音。少し違ってはいるが、この歌声も限りなく心地好い。何の抵抗も感じさせずに、柔らかに、耳から頭の中へとゆっくりと侵入して来て、そのまま頭の中に留まり、緩やかに、渦潮のように回転を始めると、液体へと変化した音声が、周囲の脳を徐々に溶かしながら、だんだんクリームのように泡立っていく。頭の中にはしだいに芳香が立ち込めていくかのようだ。
 歌声は、渦潮の向こうの小島から、風に乗って流れてくる。ずっと遠くの水平線では、今まさに夕日が沈もうとしていた。夕日は淡い光をふりまき、そこからはオレンジ色に染まった霞が空一面に浮かんでいる。
 岩の上にいた男たちは誰一人例外なく、あの小島の崖の上で歌っている少女たちの下へ行き、一緒に歌ってみたいという衝動に駆られた。男たちは何の躊躇いもなしに、再び苦しみの海の中へと次々に入って行った。鎖で数珠つなぎになっていた者たちも、一斉に海の中へと滑り込んだ。先程までの苦しみを思い出せる者は一人もいなかった。みんながみんなクラゲのように潮流に身を任せ、気持ちは歌姫たちのいる楽園の小島へ、体は逆巻く渦潮の中心へと向かっていた。
 そこへガレー船が一艘、この無上の喜びを理解しないかのように猛スピードで近づいて来た。たちまちのうちに船縁に現れた数人の男たちが海に飛び込み、漂っている者たちの腰に綱を結びつけた。船の上にいる男たちがそれをしゃにむに手繰り上げる。しかし全てのクラゲを拾い上げることはできなかった。
 とうとう渦潮の中に吸い込まれ、回りながら海中へと消えてしまう者が出た。鎖でつながっていた男たちも、連なったまま、流木のように波間に浮き沈みしていたが、やがて全員が渦に呑み込まれてしまった。ガレー船は早々に救出を打ち切り、再び全速力で危険な海域を離れて行った。

 救われた男たちの、宙を漂っていた視線の焦点がようやく定まってきた。
「何のために耳栓をしていたのだ? あれでは少しも役に立っていないではないか」
 誰かがファントムの前にいて、彼のことを非難していた。彼は目の前に立っている男を見上げた。海兵の将校の軍服を着ている。
「あんたは……誰?」
「私は艦長のゼメキスだ」
「ああ、そうか。ここはクラーケン号の上だな。今までのは何だったんだろう?」
 正気に戻ったものの、まだ気分はふんわかとしている。
「肝心な時になって耳栓を外すとは、全くもって間が抜けている。済んだことを言っても意味のないことだが、私は危うく吊るし首になるところだったぞ。あの渦巻いていた辺りがセイレーンの島々だ。いいか、セイレーンの怪しい歌声を聴いて、その誘惑から逃れられる者はいない。きみが余計な奴まで逃がすから、見つけるのにも手間取ったのだ。もう少しでこの船も海底に引き込まれるところだったんだぞ」
「余計な奴らって、誰のことを指して言ってるんだ?」
 ゼメキスの言葉が引っ掛かり、ファントムはムッとなった。
「私の使命は、きみとオドルの二人を助けること、それだけだ」
「オドルはどうしたんだ?」
「そこにいる」
 ゼメキスが顔を向けた先には、あの大活躍の男がぐったりとなって、舷側に凭れ掛かっていた。
「やっぱりあいつがオドルだったのか」
 よく見てみると、オドルの片目は潰れていて、膿が溜まっていた。裁判所で衛兵からひどい拷問を受けたのかもしれない。しかしあれだけ強靭な精神力と体力を持っているなら、きっと拷問されても口を割らなかったに違いない。事実、オドルはもう衰弱しきっていて、今にも死にかけているように見えた。
「ところで――」
 ファントムはまたゼメキスを見上げた。
「何かな?」
「もう死んだけど、もしかして、あんたは衛兵の隊長だったゼメキスという人と関係があるんじゃないのか?」
「それは私の兄のロベールだ。私はアルベール。アルベール・ゼメキス。タウ海軍准将、戦闘艦クラーケン号艦長。もっともそのような肩書きはもうすぐ無意味になるがな。ところでファントム、きみは私の兄の死を目撃していたそうだな。どんな死に方だった?」
 ファントムはしばらく黙り込んだ。
「言えないよ」
「生きたままはらわたを引きずり出され、泣きながら死んでいったか」
「知ってるのか?」
「聞いただけだ。ロベールは私にとっては良い兄だったが、仕事の上ではその非情さ故に多くの者から憎まれていた。いずれにしろ、ろくな死に方はしなかっただろう。済んだことはいい。ファントム、これからきみをある所まで連れて行く。いいな。それが私の任務だから」
 ファントムは頷こうとして大きなくしゃみをした。恍惚感がすっかり消え失せているのに気づいたその途端、急に寒さが身に凍みてきた。空を見渡すと、日は既に沈んでいたが、まだ明るさが少しだけ残っている。あれからそんなに時間は経っていないようだ。宵の明星が鮮やかに光り輝いている。
「ようやく元に戻ったようだな。さあ、中に入るがいい。ストーブに火を入れてある。夜明け前には島に着くぞ」
 アルベールは先に立って船室の中へ入って行った。

 空が明るくなりかけた頃、海兵がファントムを起こしにやって来た。
「艦長からの伝言です。もう少しで到着ですが、それまでに朝食をとっておいて下さい」
 給仕が二人、ファントムの個室に食事の皿を運び込んだ。
「あ……、ああ、ありがとう」
 ファントムは寝ぼけ眼をこすりながら起き上がった。食事はかなり豪勢なものだった。
「へーえ、個室にご馳走付き。バジリスク号に乗るかクラーケン号に乗るかで、こんなにも待遇が違ってたのか。これなら初めっからこっちの方に乗っていれば良かったな」
 独り言を言いながら、料理に胡椒をしこたま振りかけた。くしゃみがやたらに出た。食事を終えると間もなく船が停まり、アルベールが入って来た。
「着いたぞ」
「ここがキルケーの島か?」
「そうだ」
 アルベールはファントムに部屋から出るよう促した。入江の中で碇を下ろすと、そこから小舟を下ろしてそれに乗せられた。
「オドルは行かないのか?」
「奴は関係ない。ひどく衰弱しているので寝かせてある。キルケー様が呼んでいるのはきみだけだ。私もキルケー様の所までは行けない。あの城だ。一人で歩いて行け」
「キルケーってどんな人だ?」
 砂浜に下り立ったファントムは、小舟を返そうとするアルベールたちの方を振り返って訊いた。
「人ではない」
「じゃあ、怪物か何かか?」
「そんなものでもない。姿は人間の女性だ。私も会ったことはない。聞いただけだ」
「ふうん。どうして会ったこともない奴に従ってるんだ?」
「なぜかと言うと……」
 アルベールはしばらく言葉を探しているようだったが、やがて、
「説明してもわかるまい」
 それだけ言って、さっさと兵たちに小舟を出させようとした。
「早く出せ、あいつらが来ないうちに」
「あいつらって誰だ?」
 気になってファントムが尋ねたが、
「気にするな。また迎えに来る」
 ファントムは首を傾げながらも、また城の方を向いて歩いて行こうとした。
「彼女を怒らせない方が身のためだぞ」
 小舟を進ませながら、アルベールが忠告してきた。
「なんで?」
「あれを見ろ」
 指差した方を見やると、色とりどりの花が咲き乱れた草原で、家畜や獣が草を食んだり、駆け回ったりしていた。
「怒らせると、おまえもあんなふうに姿を変えられてしまうぞ」
 ファントムは顔をしかめた。
「変な所に連れて来られたもんだ」
 そのまま振り返りもせず、白壁の城目指して歩いて行く。まるでこの島にだけ春が訪れて来ているかのようで、吹く風は暖かく、色とりどりに染まった草原を優しく揺らしていた。空では小鳥たちがさえずっている。歩いているだけで、体じゅうが汗ばんでくるのを感じた。
 草原にいた、牛、馬、豚、羊、山羊、犬、猫、それにライオンや虎、豹、狼、熊などの猛獣までもが、ファントムの姿を見かけると、さも懐かしそうにみんな駆け寄って来た。頭をこすりつけ、ファントムの顔を舐め回す。お蔭で顔じゅうあらゆる動物の涎でびしょびしょにされてしまった。
「もういい、もういいよ。そんなに人間が恋しいか? だけど、その姿のままこの楽園で暮らしている方が、きっと幸せだと思うぞ」
 ファントムがキルケーの城へ向かって歩いて行く間、獣たちは嬉しそうに鳴きながらついて来たが、城の中には入ろうとしなかった。彼は一人で城門をくぐった。
 館の大きな扉を開けようと手を出すと、彼が触れる前に、扉は音もなく独りでに内側へと開いた。少しばかり薄気味悪くなり、中へは入らずに覗いていると、
「遠慮しないで入って来いよ、若造」
 中で生意気そうなかん高い声がした。誰も見当たらないので益々訝しがっていると、
「何怯えてんだ、弱虫野郎」
 また例の声がした。キョロキョロ見回しているうちに、大広間の丸い柱の一本に何かがへばりついているのに気がついた。よく見ると、掌ほどの大きさしかない侏儒で、そいつが柱の上の方に両手足でしがみついていて、洟を垂らしながらこちらに顔を向けている。
「なんだ、ビビッてるのか」
 ファントムはゆっくりと大広間に歩み入ると、侏儒を無視して、しばらく辺りを見回してみた。柱につかまっている侏儒以外、この部屋には誰もいないようだ。
「おい、小僧、俺を無視するな」
 侏儒が頭のてっぺんから絞り出すようなかん高い声を上げた。
「小僧だって? 侏儒のくせして」
 侏儒は相変わらず柱にしがみついたまま、洟を垂らしている。
「ここに何しに来た、小僧?」
「キルケーに会いに来たんだ。キルケーはどこだ?」
「俺に訊いてるのか? 俺が知るはずないだろう」
「おまえ、そこで一体何やってんだ?」
「見ての通り、柱につかまってんだ」
「そんなことして楽しいか?」
「楽しそうに見えるか?」
「まあね。結構楽しそうだ」
 ファントムは鼻先で笑ってみせた。侏儒は真っ赤になってかん高い声でわめき始める。
「馬鹿言うな! 楽しいわけないだろ! こいつは拷問だ!」
「だったら無理しないで下りて来いよ」
「下りれるもんならとっくに下りてらあ」
「どうやってそこまで登ったんだ?」
「キルケーの奴がふざけてこんなことしやがったんだ。ちょいとあいつの菓子をつまみ食いしただけなのに。血も涙もないあまだ」
「あっはっはっ、そりゃ愉快だ」
「愉快なもんか。おい、頼むから、ここから下ろしてくれ。下ろしてくれたら、礼を言ってやってもいいぞ」
 ファントムはふざけて腕を伸ばし、人差し指で侏儒の尻をちょんちょんとつついた。
「おまえなんかに、誰が教えてやるもんか。やなこった」
「別に構わないさ、自分で捜すから」
 ファントムは歩き出した。入口の広間には、壁という壁に扉がいくつもついている。
「ああ、待てよ。キルケーは正面の部屋だ」
 侏儒が言うのを聞いて、ファントムは正面の扉へと歩み寄った。
「さあ、教えてやったんだ。さっさとここから下ろせ。あっ、開けるな! 開ける前に俺を下ろせ。その扉を開けるのは、俺を下に下ろしてからだ」
 ファントムは慌てる侏儒の小さな顔を見つめた。
「何だか怪しいな」
「怪しいことなんかあるもんか」
「ほんとにキルケーはこの部屋の中か?」
「ほんとさ。だけど扉を開けるのは、俺をまず下ろしてからにしろ。駄目だ、俺を先に下ろせ、俺を――」
 ファントムが正面の扉の把手を握って引くと、いきなり開いた扉から水が噴き出してきた。
「うわあーっ!」
 よける暇もなく激流に押し流されてしまう。入口の広間はあっと言う間に水浸しになり、どんどん水位が上がっていく。ファントムは慌てて水面に浮かび上がった。
「何だよ、これは!」
「だから俺を下ろしてから開けろって言ったんだ。おい、早く扉を閉めろ。溺れたらどうすんだ?」
 すぐ下まで水が迫ってくると、侏儒は大いに慌てた。
「水の間の扉を開けたのは誰?」
 激流の音と共に女の声がした。
「おおーい、キルケー、何とかしてくれぇー。このままだと溺れてしまうよぉー」
「そうだそうだ。菓子をつまみ食いしたことは謝ってやってもいいからよー」
「そう言うあなたは誰?」
 また声が響いたが、姿が見えない。
「俺はビュービューだ」
「おまえじゃないの。もう一人の方」
 ファントムは口の中に入ってくる激流を吐き出しながら、必死になって叫んだ。
「俺はファントムだ。あんたが呼んでるって言……言うから、わっ……わざわざ来てやったのに……、ひどい出迎え方じゃなっ……なっうわっ…………ないか!」
「ああ、ファントム。じゃあ、そのままそこで泳いでいなさい。もうすぐ私の所まで辿り着くわ」
「ええ?」
 ファントムは上の方を見上げた。ちょうど真上の二階の渡り廊下の手すりに手を掛けて、女がこちらを見下ろしていた。
「なんだ、そんな所にっ……いたのか」
 水嵩がどんどん増して、やがてファントムは二階の手すりを捕まえることができた。そのまま渡り廊下に這い上がった。
「あの侏儒、どこ行ったんだろう? 姿が見えなくなったぞ。大丈夫かなあ」
「おチビさんはいいのよ。ほっときなさい。待っていたわ、ファントム、さあ、こっちにいらっしゃい」
 ファントムはびしょ濡れになった体から雫を滴らせながら、キルケーについて行った。キルケーは凄い美女だったが、大柄で、ファントムよりずっと背が高かった。キルケーは何度も角を曲がって、なおも長い廊下をどんどん歩いて行く。長い白い衣装の裾と袂がひらひらしていた。

 やがて広々とした部屋に辿り着くと、キルケーはようやく足を止めた。所々に太くて丸い柱が立っているが、三方には壁がなく、周囲の美しい景色が見渡せた。しばらく景色に見とれていたが、キルケーはと言えば、椅子に腰掛けているだけで、別に何も大したことは訊いてこない。
「あなたも座れば」
 ファントムは我に返って、
「ああ。ところで――」
 用件を訊こうとしたのだが、それをキルケーが遮った。
「ここは気に入って?」
「うん、とてもいい所だよ」
「じゃ、ずっとここで暮らす?」
「それは――」
「おほほ、あの獣たちみたいにはなりたくないってわけ?」
「まあ、ここにいたい気もするけど、俺にはしなくちゃならないことがあるから」
「知ってるわ。だからあなたを呼んだのよ」
「俺に用って何? なぜ俺なんかを? あなたはセイレーン党の首領なんだろ?」
 キルケーは掌を握った。次に開いた時には、植物の種みたいな物が三つ載っていた。キルケーはその種を大理石の床に蒔いた。床に落ちた三つの種はみるみるうちに根を張り、茎がにょきにょきと伸び始めた。見ているうちに、それが三人の人間の女になった。
「冷たい飲み物が欲しいわ。運んでちょうだい」
 キルケーが言うと、三人の女は黙ってお辞儀して、そのままで入口から出て行った。
「あんなのは退屈しのぎのお遊びよ」
「え、何が?」
「革命団のこと。私が考えついたんじゃないわ。私は今みたいに種を蒔いただけ。種が勝手にしたことよ」
「…………」
 革命団もさりながら、まさしくアヴァンティナと張り合うだけのとんでもない魔女だと思った。
「私は魔女なんかじゃないわ。そして、アヴァンティナは魔族」
 たった今思ったことを見透かされ、ファントムはギクリとした。
「飲みなさい。爽やかな気分になれてよ」
 いつの間にかさっきの三人が戻って来ていた。飲み物の器と果物を盛った皿を、ファントムとキルケーの間にあるテーブルの上に置いた。ファントムは器を手に取り、口をつけた。一口飲み下してみたが、この世の物とも思えない素晴らしい味だった。
「これは?」
「ふっふっふっ、あなたをこのままここに引き留めておきたいけれど、でもそうもいかないわね、約束だから」
「約束……?」
「まあ、それはどうでもいいの」
 ファントムはまた不思議な飲み物に口をつけた。
「アヴァンティナが魔族だって? じゃあ、キルケー、あなたは? アルベールがあなたは人間じゃないって言ってた、人間の姿はしているけれど」
「この世界には様々な種族が住んでいるわ」
「それで……、それであなたは一体何? もしかして、女神なのか?」
「おほほほほ、神というのは、人間が考えつくほどちっぽけなものでもないし、人格などは持っていないわ。人に似た姿なども持っていない。人間たちは大きな勘違いをしているのよ。彼らが神だと思い込んでいるのは、実は天上界の者たち。彼らのことを天使と呼んでもいいかしら。天使たちは人間の力では到底及びもつかない芸当ができるの。だから人間たちは、天使のすることを見て、神が奇跡を起こしたのだと信じ込むのよ。
 でも天使は天上界の住民であって、全宇宙の支配者ではないわ。ただ、人間界の者よりは次元が高いというだけ。だから彼らが人間界を思い通りにしたいと欲すれば、何だって思い通りにできるわ。人災は、人間界の者が引き起こす災いのこと。でも天災は、天上界の者が引き起こす災い」
「……! つまり、ヨーデムがそれで、彼らはこの地を根絶やしにしようと考えていて、それで――」
「そう。このプレトでは、天上界を指してヨーデムと呼んでいるの。でも、天上界の者全てがこの人間界を滅ぼそうと思っているわけではなく、あの世界にも人間界と同じように、力の強い支配者という者たちがいて、その一部の者たちが今、他の世界を思うがままにしようとしているの。
 簡単に言うと、今現在の天上界の支配者たちは、わがままな奴らの集まりということ。でも、たとえそうする力があるにしても、好き勝手に他界を変容させてしまうことは、天使だからと言って許されることではないわ。そうは思わなくって?」
「確かに、そう思うよ。それはそうなんだけど、ちょっと待ってくれ。話があまりにも唐突で、信じられないことばかりだし……。まず、一つ教えてくれないか?」
「ええ、いいわよ」
 ファントムは一呼吸置くと、唾をごくりと呑み込んだ。
「ガブリエルのことだけど、俺は何よりもガブリエルのことが知りたいんだ。そのためにこの世界にいると言っても言い過ぎじゃない」
「ええ」
「キルケー、あなたはヨーデムのことを知ってるんだから、ガブリエルのことも知ってるんだろう?」
「知っているわ、弟ですもの」
「お、弟だって! ガブリエルはあなたの弟なのか?」
 ファントムはあまりの驚きに、口をあんぐりと開けたままでいた。
「ええ。でも、人間を含めた他の動物のように、同じ母親から生まれたというんじゃないわ。私たちは元は一つで、そこからいくつかに分かれたのよ。それが私たちの誕生よ」
「そ、それじゃあ、ガブリエルは秘文の中でヨーデムの者たちのことを同胞だと呼んでいたけど、それならばやっぱりガブリエルはヨーデムの、つまり天上界の者で、そうすると、キルケー、あなたもまた天上界の者ということに――」
「果物でもいかが? ファントム」
 キルケーは興奮するファントムの言葉を遮り、果物を手に取り自分の口に運んだ。
「あ、ああ、ありがとう」
 ファントムも今までに見たこともないその果物を一つ取って齧ってみた。一口齧ると、これまた途方もなく気分が良くなった。
「あなたの考えていることは違ってるわ。生まれる場所を選んだのよ、ガブリエルも私もヨーデムを」
「選んだ? 生まれる場所を自分で選ぶことができるのか?」
 キルケーは微笑んで、また果物を一つ口に運んだ。
「ええ。ガブリエルがヨーデムの者たちを同胞と呼ぶのは、生まれ育った場所が同じだからよ。でも私の弟は天上界の天使などではないわ。人間界であろうと、天上界であろうと、地獄界であろうと、修羅界であろうと、そこに生きる全ての生物は、初めて生まれてから何度も何度も生まれ変わってきた。そして、それを繰り返すうちにだんだん天上界か地獄界に近づいて行き、やがて何度目かの生まれ変わりの時、どちらかに生まれつくと、永遠にそこで暮らすことになるの。もう二度と死ぬことも生まれることもない。
 人間界や畜生界に生まれつくのは、最も生まれ変わりの激しい時期にあることを意味し、これらの世界に生存しているということは、つまりは、その者が迷える魂であるということを意味しているのよ」
「迷える魂……。なるほど、そう言われてみればそうだ」
 ファントムは頷いてみせた。
「天使もそういうこと。何度か生まれ変わった結果よ。でもガブリエルは違うの。つまり私も。私たちは初めて生まれたのであり、永久にこのままよ、再び神が呼び戻すまでは」
「神が呼び戻す?」
 キルケーの言うことは、ファントムにとっては何から何まで新鮮であると同時に、不思議な言葉ばかりだった。
「私たちにも、どういう理由でそうなったのかまではわからないけれど、私たちが生まれる時は、この世に重要な役目がある時なのよ。それが今。初めて生まれたのだから、これからどうなるかまでは知らないわ。神がある場所に漏れ出した所に私たちは生まれる。つまり、私たちは半神よ」
「半神……」
 ファントムはその不思議な言葉を呟いてみた。
「実体を持った神の一部。それ故に、神ほどの力は持ってはいないわ。それどころか、実体を持って生まれ出た場所を支配している狭い法則に囚われてしまうことだってままあることなのよ。でも、そこは自らが選んだ場所には違いないわ」
「ガブリエルが天上界を選び、あなたがこの世界を選んだのはなぜ?」
「私はこの世界を選んだんじゃないわ。天上界からここに下りて来ているだけよ」
「それは、どういったわけで?」
「今のあの世界が嫌になったから。と言うより、今の天上界の支配者たちが嫌いだから」
 キルケーは飲み物の器を手に取り、外の景色に目をやった。部屋には明るい光が流れ込んできている。ファントムも爽やかな気分にしてくれる飲み物をまた飲んだ。
「じゃあ、ガブリエルも同じように?」
 キルケーは物憂げな表情で首を振った。
「違うわ。ガブリエルは私よりもずっとお人好しで、他人を疑うなんてことを知らなかったの。だから、ヨーデムの支配者たちと対立した時に騙し討ちにされ――」
「何だって! じゃあ今は――」
「死んでいるわ、人間の目から見ればだけど。私たちは一度生まれると二度と生まれ変わらないって言ったでしょう。だから死にもしないのよ、神が呼び戻さない限り」
 キルケーのその言葉を聞き、ファントムは愕然となった。思わず持っていた器を床に落としてしまった。
「お代わりは?」
 落ちた器を見ながらキルケーが訊いた。
「持って来てちょうだい」
 召使いに向かって言った。
「じゃあ、俺がガブリエルを捜しているのは無駄なのか……?」
 ファントムの様子を見て、キルケーは笑い出した。
「いいえ、全くその逆よ。ガブリエルはヨーデムで騙し討ちに遭い、一時的に命は果てたとしても、ちゃんとその時のために次の手を打ってあったのよ。つまり彼を復活させるべく、このプレトの世界が動くように。ファントム、あなたはガブリエルに選ばれたの。彼はこの世界に復活すべく、壮大な仕掛けをした舞台を用意してから去って行ったのよ。
 この世界におけるごく少数の信頼できる者たちにその役割を与えた。その誰一人として結果がどうなるかなんて知らないわ。でも、そのちょっとした仕掛けがこのプレト全体を動かし、やがては自然にこの世界を救うこととなるでしょう。いいえ、私にだってその結末も、成功するかどうかさえも読めないわ。
 でも、天上界の支配者たちは、ちょっとガブリエルを侮りすぎていたようね。彼はそれほど弱い半神でもないわ。ヨーデムの天使たちも気づかぬうちに復活を遂げ、次にヨーデムの支配者たちと戦う時は、必ず勝つことでしょう。そうよ、ガブリエルは二度と負けはしない。最後の最後には勝つように、自ら仕組んだのだから。所詮、天使ごときに半神を倒すことなど不可能なのよ」
 ファントムは、キルケーがガブリエルのことで少しも心配している様子も見せないので納得して、
「よくわかったよ。だけどなんでこの俺が選ばれたんだ? 俺は別の世界にいたはずだし、ガブリエルに会ったこともない」
「それは今は言えないわ。あなたは知らない方がいいのよ。長い時間を費やすことにはなるでしょうけれど、あなたがやがてガブリエルに出会った時、ガブリエルが教えてくれるわ。今は知らない方がいいの」
 キルケーは美しい顔に微笑を浮かべてみせた。
「そう。それじゃあそのことはいいとして、もう一つだけ教えてくれ。あなたたちはいくつかに分かれたと言ってたけど、あなたとガブリエルの他に半神はいるのか?」
「いるわ。私たちは恐らく、六つか七つに分かれたはずよ。いえ、もしかするとそれ以上に」
「どうしてはっきりわからないんだ?」
「私は早くに分かれてこの体に生まれ出たからよ。真っ先に分かれて生まれ出たのは長兄のギース。彼は生誕地として地獄界を選んだわ」
「魔王のギースは半神だって?」
 ファントムは驚いて大声を上げた。キルケーは平然としたまま頷くと、
「ギースは地獄界に生まれついたことで、地獄界の掟に従わざるを得なかった。彼はこの世界に肉体を持っているわ。それは地獄界とこの世界とをつないでいる境界にできた綻び目でもあるのよ。この世界に悪がはびこれば、それに伴い、ギースはこの世界での力を増大させるのよ。地獄界の掟は詰まるところ、全てのものを支配すること。でなければ支配されること。彼は半神であるが故に、地獄でも最高の力を持ち、地獄の大王として君臨しているの。
 彼を殺すことはできないけれど、この世界から追い払うことはできるわ。かつてガブリエルは兄であるギースとこの世界で闘った。ガブリエルはフオク・ホーケンの力も借りて、ギースをこの世の肉体から地獄界へと追い返したの。元は一つであった兄弟だというのに、生まれた世界があまりにも違いすぎたため、出会えば必ず相争わなければならない宿命を背負ったのよ。もしかすると、私たち半神こそ本当の迷える魂なのかもしれないわね。
 次に分かれて生まれ出たのが次兄のマクマホンで、彼は餓鬼界を選んだわ。マクマホンもまた、自分が生まれた世界の掟を超越することができなかった。彼は天上界を除いては、あとの世界を自由に往き来することができるの。彼はやがてこの世界に現われ、長兄を再びこの世に呼び寄せるでしょう。でも彼はその生まれ故、元いた神の手元へと戻してしまうことはできるの。
 次に私、キルケーが生まれ出て、天上界を選んだのだけど、さっきも言ったように嫌気が差して逃げ出したの。だから私は天使と同等の力は持っているし、いえ、それ以上の力は持っているわ。私は半神だもの。でも、今の天上界には十二天使と呼ばれる支配者たちがいて、彼らは特別に進化した天使たちなのよ。起こり得るはずのないことなのだけれど、なぜかそうなってしまったのよ。これは神の悪戯なのか、それとも神さえも予期せぬ出来事だったのか……。
 次に分かれて生まれ出たのがラバスで、彼は畜生界を選んだわ。彼はこのプレトに特別な肉体を持っているの」
「ラバスって聞いたことがある。確か伝説の町だとか……」
「これをご覧なさい」
 キルケーはいつの間にか片手にキラキラとよく輝く小さな瓶を持っていて、それをファントムの前に置いた。
「これは……何?」
「ガブリエルからあなたへの言伝てよ。つまり秘文の続き。これを見た者は一人もいない。私も開けてみたことはないの。あなたのためだけに書き残されたものなのよ。さあ、今こそ開けてご覧なさい」
 ファントムは恐る恐る片手で瓶をつかむと、口を塞いでいるコルク栓をもう一方の手で引き抜いた。スポンッと音がして、栓は簡単に抜けた。瓶を逆さにして、中にある丸めた紙切れを出した。彼は全身が汗ばむのを感じた。ガブリエルが自分一人に宛てて書き残していったと聞いては、興奮せずにはいられなかった。
 丸められた紙切れをそろそろと開くと、たちまちファントムの目は紙の上に書かれたほんの数行しかない文章に牽きつけられた。
「あっ……! この文字は……」
「このプレトの世界では、恐らくあなたをおいて他に、そこに書かれた文字が読める者はいないでしょう」
 それはプレトの文字ではなかった。ファントムは貪るようにガブリエルの第二の秘文を読んだ。
『敵は二つある。第一の敵は地獄であり、第二の敵は天国である。ラバスはむしろ、頼もしい味方である。善悪の根源を見出し、彼を眠りから呼び醒ますのだ。根源に触れることは、第一の敵を眠りから醒ますことになろうが、第二の敵をも倒すためには、あえてこのことを行わねばならない。彼は第二の敵の野望を打ち砕いてくれるだろう。汚名を受くことを恐れるな。それこそまさしく誉れなのだ』
 ファントムは察した、フオクが自分をこのプレトに連れて来た時、なぜ言葉はこの世界のものに変えたが、文字の記憶だけは以前の世界のものを残しておいたのかということを。お蔭でプレトの文字を一から覚えなければならない羽目になったが、フオクは決してうっかり忘れていたわけではなかったのだ。
「あなたはこれで第二の秘文まで見た。実はガブリエルの秘文は四つあるの。そして、この第二の秘文から最終の第四の秘文までは、ガブリエルと、ファントム、あなた二人だけの作戦計画なのよ」
 キルケーは微笑を浮かべながら言った。
「作戦とは?」
「そこにある通り、二つの強敵を倒すため、ガブリエルが隠した起死回生の秘策を導き出すこと」
「そんなこと言われたって、俺には何が何だか、一体何をすればいいのか、さっぱりわからないよ。とにかくこうか? ここにある通り、善悪の根源を見つけ出し、それに触れること。そうすればあなたの弟の半神ラバスが眠りから醒める。じゃあ、そのラバスはどこにいる? 伝説の町ラバスに行けばいるのか?」
「そうよ」
「それじゃあ、まずラバスの町を見つけ出して――」
「お待ちなさい」
 キルケーはゆっくりと首を左右に振った。美しい髪が白い頬にかかる。
「今のあなたの力では、眠れる巨人ラバスを見つけ出すなど到底不可能よ。そんなに生易しいことじゃないのよ、ラバスのいる所まで辿り着くということは。それまでには、あなたが今までに巡り遇ってきたどの危険な出来事をも遥かに上回る危険に出くわすでしょうし、そもそもラバスへ至る道を見つけ出すことさえ非常に困難なことなの、そして、残り二つの秘文を探し出すことも。
 わかったわね。あなたの為すべきことは、あくまで二つの強敵を倒すため、他の何者にも為し得ない最も困難な道を行くことなのよ。だからタウの革命がどうの、ピグニアとオーヴァールの戦いがどうのなんて、些細なことはどうでもいい。あなたはひたすら自分の腕を磨き、まずは誰にも負けない剣士にならなければならないのよ。でないと、この作戦の成功はおぼつかないわ。
 そして同時に、ラバスを目醒めさせることができるのは、ガブリエルがいない今、ファントム、あなた以外には誰もいないの。残された時間はたっぷりあるとはとても言えないけれど、それまでに充分力をつけてさえいれば、その時が必ず訪れて来るわ。その秘文にあるように、ラバスを目醒めさせることができるかどうかに、第二の敵、つまり天上界の者たちを防ぎ止めることができるかどうかが懸かっているのよ」
 大僧正ラムンテは、自分とオクスにガブリエルの秘文を見せたことによって、二人に重荷を背負わせたのだとヴィ・ヨームは言っていた。ラムンテはその重荷の具体的な内容を自身では知っていなかったのかもしれない。だが、ファントムはようやくそれが何なのか、今知ることができた。知りたがっていたことをやっと知ることができたのだ。それは自分がフオク・ホーケンによってこの世界に連れて来られた理由に相違ないだろう。
 しかしそれを知った今、気が遠くなるほど恐ろしく巨大で、達成する見込みの全く持てない困難極まりない使命に、彼はたじろがずにはいられなかった。『なぜ俺が――』この世界にやって来たばかりの頃に、彼の頭を常に支配していて、やがていつの間にか消えていたその言葉が再び湧いてきて、彼の頭の中で膨れ上がった。
「キルケー、なぜあなたが、あなたがそれをしないんだ?」
 ファントムは目を伏せて不服そうに言った。
「私には無理なのよ」
(では俺にならできるとでも言うのか)
「なぜ俺が?」
「ガブリエルが選んだのよ、あなたを」
「他に半神は、ラバスのあとに半神はいないのか?」
 ファントムの恨みの籠もった視線を受け止めても、キルケーはただただ微笑を浮かべているだけだった。
「ラバスの次はガブリエルで、天上界を去った私の代わりにあそこに生まれ出たのだけれど、それからあとのことは、私が生まれ出てからかなり経つし、私はずっとここにいるから、よく知らないわ。あと二人の妹か弟がいるはずだけど、一人は修羅界に生まれ出て、闘いに明け暮れる宿命を背負い、もう一人は、最も弱くて、浅はかな知恵しか持たない人間界をわざわざ選んで生まれ出たはずだということしか知らないわ」
「その半神は、なんで弱々しい人間なんかを選んだんだろう?」
「なぜかしら? 本人に訊いてみなきゃわからないわね」

 ファントムはキルケーの城をあとにした。果物と飲み物のお蔭で、今までに経験したことがないほど爽やかな気分になったのだが、キルケーから驚くべき内容の話の数々を聴かされ、同時に重苦しい気分がズシーンと心にのしかかっていた。
「よう、小僧、もう帰るのか」
 いつの間にか庭先に侏儒のビュービューがいて、暗い顔つきをして館から出て来たファントムに呼びかけた。
「ああ、おまえか」
「また戻って来るのか?」
「さあ、どうだろう? わからないよ」
 その時、草原にいた獣たちがファントムの姿を認めて、またもや駆け寄って来た。
「わあー、追っ払ってくれ! 追っ払ってくれ! 俺を木の上に避難させてくれ!」
 侏儒のビュービューはかん高い声を上げ、ファントムの周りを走り回った。
「こいつらが嫌いなのか?」
「そうに決まってらい! こんな奴ら、大っ嫌いだ」
「おまえの方こそ意地悪するから、こいつらに嫌われてるんじゃないのか?」
「知るか!」
「まあいい、上げてやろう。木の上でいいんだな」
「そうだ。早くしろ!」
 ファントムはビュービューをつまんで近くの木の幹に持って行った。ビュービューはがむしゃらにそこにしがみついた。ファントムはそのまま浜辺の方へ向かった。獣たちが嬉しそうについて来る。
「おーい、もういい。小僧、下ろせ」
 ビュービューが後ろから呼びかけてきた。ファントムは後ろを振り返ると、
「なんだ、上げろだの下ろせだの、わがままな奴だな。少しは自分で何とかしようって気にならないのか?」
「下ろしてくれたら、その時は礼を言ってやってもいいぞ」
「もう知らないよ。勝手に下りてくれ」
 くるりと向き直ると、そのまますたすたと歩き出した。
「何だと、薄情者! おまえみたいな薄情な奴は、キルケーに豚に変えてもらえば良かったんだ。いいや、おまえなんか猫になっちまえ、猿にされちまえ!」
「好きなだけほざいてろ、おチビさん」
「俺のことをチビだと言ったな! 今度やって来た時には絶対に許さないぞ! おい、早くここから下ろせ!」
 ファントムはもう振り返りもせず、笑いながら浜辺の方へ進んで行った。その後ろ姿を、城の上からキルケーが見送っていた。
「ファントム、よく来てくれたわね、この世界に。もしもあなたがあの光の果汁を飲んで種になってしまうようだったら、あの誘惑の果実を食べて獣に変身してしまうようだったら、私はあなたを単なる下僕として、単なるペットとして、ここにいつまでも置いておいたことでしょう。でもあなたは、果汁の毒にも果実の毒にも少しも侵されはしなかった。
 私にとってはちょっぴり残念なことだけど、けれども喜ばしいことよ。あなたの魂がこよなく気高く、どこまでも澄んでいる証拠よ。だからこそあなたは、己が使命を必ず全うするはず。何も恐れることはないわ。何も迷うことはないのよ。あなたは必ず正しい道を歩むでしょうし、必ずや敵に打ち勝つことができるはず。
 あなたはあえて人間界を選んだ。それ故にもう自分でもその理由さえ覚えてはいないでしょうけれど、今日初めてあなたと会ってみて、あなたが人間界を選んだ理由が私にはわかるような気がしたわ。なぜなら、人間界に生まれ出たあなたにしかできないことが、この世界にはたくさんあるからよ。
 あなたは今でこそ自分の持つ力を知らないでしょうが、ここはまさにあなたの独壇場よ。やがてあなたは自分の持つ偉大な力に少しずつ気づいていくはずだわ。なぜなら、あなたは紛れもない半神、一番最後に生まれ出た、神の切り札なのだから。
 私たちに課された使命は、平衡を失い、傾きかけたこの宇宙の秩序を回復させること。敵は間もなくやって来る。さあ、行きなさい、我が愛する弟よ。再びセイレーンたちの誘惑の歌声を耳にしても、もう二度とあなたは心惑わされることもないでしょう」
 キルケーは微笑みながら独り呟いた。




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