23.襲   撃



 金の分配が済むと、ドラドは宝箱二つを重そうに抱えながらどこかへ消えてしまった。
「今日は遅いから、借金は明日返すとして、俺たちはとりあえず腹ごしらえといくか」
「それがいい。久しぶりにゆっくりと味わって食べたいよ」
「そのあとはゆっくり眠りたいな」
 三人は帰還の報告がてら、エローラの店まで足を伸ばして食事することにした。途中でヴィットーリオも誘っていく。
 エローラの店に着くと、みんな大喜びで、早速冒険の達成祝いが行われた。セバスチャンは酒をたっぷり買ってきた。オクスはヒュドラの首を見せてみんなを怖がらせた。夜遅くまで冒険の話で盛り上がった。ところがタウまで帰って来てほっとしたこともあり、酔いが回ると疲れがどっと出て、ファントムとオクスとムーンの三人は、知らず知らずのうちに店で眠り込んでしまった。
 翌朝になるとセバスチャンに叩き起こされた。
「いつまで寝てるんだい。店を開けなきゃなんないんだ。さっさと起きな!」
 怒鳴りながら、床に転がって眠りこけている三人を次々に引きずり起こしていく。
「やれやれ、昨日の熱烈な歓待ぶりはどこ行ったんだ?」
「こんなもん置いとかれちゃ、客が逃げちまうんだよ!」
 そう言うと、オクスにヒュドラの首を投げつけた。
「ちぇっ、あばすれが! おまえはきっと、生まれて来る場所を体ごと間違えたんだ」
 三人は店を出ると、だるい体を引きずって、まずは美術館へと赴いた。ヴィットーリオの同僚たちに配当金を渡すと、その足で大学の生物学室まで行き、生物学者たちが集まったところで、持ち帰った品物を取り出して見せた。およそ注文の品とは違っていたが、これが大ムカデの牙、これがお化けキノコの傘の一部、これが巨大蜂の針、これが吸血コウモリの翼、と一々説明していくと、学者たちは食い入るようにそれらを見ていた。
 特に、出発前には顔を見せなかった学部長とやらが部屋にいて、噛みつき魚に襲われたが、持って帰るのは忘れたのだと言うと、大層興味を示し、三人にまた頼まれてくれないかと言い出す始末だった。三人は、しばらくは行く気がしないからいずれまたと適当にあしらって、やっとのことで生物学室を出た。結局オクスは、ヒュドラの首だけは誰にも見せようとはしなかった。大学を出ると、ムーンはファントムとオクスに自分の下宿先を教えて帰って行った。体がだるくてたまらないので、ファントムとオクスも下宿に寝に帰った。
 目が醒めると、既に次の日の朝になっていた。ファントムとオクスはめしを食いにエローラの店へ行く。
「これからどうする?」
 ファントムが訊くと、
「しばらくは働く気がしねえな。休養だ」
 オクスの意見にファントムも頷いた。
「だったら今晩、あたしたちと一緒にお芝居を見に行かない? 今日から『ネディン橋の別れ』っていう素敵なお芝居が始まるのよ」
 エローラが勧めると、
「ああ、それもいいけど、晩が来るまで何しよう? 何しろ丸一日眠ってたんで、目が腐りそうだ」
「丸一日眠ってたですって? どうすればそんな離れ業ができるのよ」
 エローラは目を丸くした。
「まあ、いいわ。それなら昼間は闘技場にでも行って来れば? 確か、今日と明日はタウの町道場対抗戦をやってるはずよ」
「そうかい。そんじゃあそいつでも見て暇潰しするか。俺にはベルモン通りのハイカラな娯楽より、黴臭いオルフォイア通りの方が性に合ってるみたいだ」

 オクスとファントムは朝食を食べ終えると、店からオルフォイア通りを真っ直ぐ行った所にある闘技場へ行ってみた。入口に、『剣術道場対抗選手権大会』と大書された垂れ幕が下がっている。
「入場料銅三枚か、期待できそうもないな」
 二人は入口で銅貨三枚ずつ払って場内に入った。あまり広くはない室内闘技場だ。
「やけに狭いな。それに、客もあんまり入ってないし」
「こんなもんさ。おまえはアルバの闘技場しか知らねえからだ。あそこには全国から腕自慢が集まって来る。あそこは別格さ」
 二人はがらんとした客席の最前列に陣取った。格闘場では、剣士たちが防具を身に着け、木剣を手にして、気勢を上げながら試合を繰り広げている。
「大したことないな。暇潰しにもならない」
「ああ、どいつもこいつもド素人以下だぜ」
 オクスは売り子から酒を買って飲み始めた。二人が退屈しながら格闘場の方をぼうっと見ていると、
「おい」
 いきなり後ろから呼びかけてくる者があった。何気なく振り向くと、
「やっぱりだ。こんな所にいたとはなあ」
 呼びかけてきた者が笑い声を上げた。
「ペレクルストじゃないか!」
 二人ともびっくりした。
「そう言えば、ペレクルストがタウにいるってマリオネステが言ってたっけ」
「マリオネステ? おまえたち、一体どこから来たんだ? ジャバドゥ先生の所へ行ったんじゃなかったのか?」
「行った、行った。行って入門したにはしたんだが、チャカタンへ行け、お次はタウへ行け――こうだ。そいでもって今はここにいるってわけさ」
 オクスは酒臭い息をペレクルストに吐きかけた。
「マリオネステが言ってたとはどういうことだ?」
「それは、仕事のついでにロカスタに寄ったんだよ」
「なるほど。ということは、おまえたちはタウの住人になってるってわけか?」
「まあ、そういうことだな。ジャバドゥが言うには、それが修業なんだとよ」
「ハッハッハッ、体よく放り出されたな」
「やっぱりそう思うか?」
 オクスは売り子を呼んでまた酒を買った。
「とにかくあの人は弟子を持ちたがらない。他人の面倒を見るのが嫌いなんだ。でも、ジャバドゥ先生の言う通りにしてれば、剣の腕は上がるよ、たぶんな」
「そう言えばそうかもしれねえ」
「ところでおまえたち、暇そうだな」
「今は暇だよ。つまらねえ試合を見せられて、退屈してるところさ」
 オクスは今買ったばかりの酒瓶をもう空にしてしまった。
「だったらどうだ、明日の試合に出てみる気はないか?」
「冗談だろ。あんな三下奴相手にやれるもんか」
「いやいや、実を言うと、俺はドワロン道場で免許皆伝にしてもらったのはいいんだが、タウ辺りで情勢を眺めてろって言われて、ここまで来てみたものの、特に何をするってこともない。仕方なく町道場の師範代をして食いつないでるって有様だ。今日は門弟たちを引き連れての対抗戦なんだが、はっきり言って、どいつもこいつもてんで話にならない。全く見込みのない奴らばかりなんだ。今日の個人戦は最初から諦めてるが、明日の団体総当たり戦まで初戦敗退ってわけにはいかなくてな。あまりにも成績が悪いと、この首が危ない。そこでおまえたち二人に助っ人を頼みたいんだが」
 オクスは肩をそびやかした。
「そりゃ感心しないな。ズルだぜ、それは」
「どこでもやってるさ、道場の名を上げるために剣士を傭うなんてことは。ひどい所だと、全員臨時傭いで固めてるなんて卑怯なのもある」
「とにかく、今は大仕事を終えたばかりでくたくたなんだ。そいつは遠慮したいね」
 ペレクルストはそれを聞くとすんなりと諦めたようだった。
「ま、明日のことは明日のこととして、これからうちの道場まで来ないか。こんなものを見ててもつまらないだろ」
「そりゃ構わないけど、道場で何すんだ?」
「おまえたちがどれくらい腕を上げたか見てやろうと思ってな。あと一人でうちは全滅だから、すぐにも戻ろう。ほら、あいつでおしまいだ」
 ペレクルストは格闘場の方を指差した。と見る間に、そこで行われていた試合が片づいた。
「これで全部終了した。道場に戻るぞ」
「負けたのか?」
「ああ」
 ペレクルストは門弟たちを集めた。ファントムとオクスは一緒について道場へと向かった。
 道場はモーレー川を越えたクルーナ通り九番街にあった。道場に着くと、まずペレクルストが寝たきりの師範の所へ行き、全員初戦敗退の報告をした。道場主は寝たまま悲しそうな顔をして頷いただけだった。それから道場に門弟全員を座らせ一通り訓戒すると、明日の団体戦に向けてこれから特訓すると言った。
「おまえさん、真面目に稽古つけてやってんのかよ? 三十人ばかりいて、全員初戦負けなんてひどすぎるぜ。相手にもろくな奴がいないってのに」
 オクスが言うと、
「手を抜いてるわけじゃないんだが、ちょっと厳しくすると、ここの奴らはすぐに音を上げて辞めてしまうんだ。やりにくくてしょうがない。まあ、俺には教える才能がまるでないってことがわかったよ」
 ペレクルストは照れ笑いでごまかした。そこでオクスが門弟たちに稽古をつけてやることになった。まずは全員を前にして活を入れる。
「いいか、てめえら、そんなへっぴり腰でやってたんじゃあ、いつまで経ったって一丁前の剣士になんかなれやしねえぞ! やる気がねえんならさっさと辞めちまえっ! 剣士になんかなるこたねえ、堅気の仕事でおとなしく一生を終えりゃあそれでいいんだ」
 オクスがいきなりそんなことを言い出したので、ペレクルストは慌てた。
「おいおい、あんまり余計なことを言うなよな。飯の種なんだから」
「わかってらい」
 オクスはそれから門弟たちをビシビシしごいた。門弟たちはたちまち音を上げ、道場に転がったままぶうぶう文句を言い始める。
「なんだい、こいつら? 根性の一かけらもありゃしねえ!」
 オクスが腹を立てると、
「まあまあ、そう言うなって。急なしごきには慣れてないんだ」
 ペレクルストはオクスをなだめると、ひっくり返っている門弟たちに向かい、
「これから手本を見せてやるから、よく見とけ」
 オクスと試合を始めようとした。
「おもしれえ。アルバの雪辱を果たしてやるぜ」
「よし、それじゃあファントムも一緒にかかって来い。二人がかりでないと、俺の方が退屈だ」
「何だと!」
 オクスはカッとなると、
「あの時みてえに楽にはいかせねえぜ」
「いや、俺はできないよ」
 ところがファントムが試合を拒否した。
「なんだ、怖じ気づいたか?」
「今は剣が使えないんだ」
 布で固く縛ってある右手首を見せた。
「そうだ、こいつは今、右手の骨が折れてるかもしれない。俺一人で充分だぜ」
 そう言うや、オクスは鎮魂の戦斧を取り上げた。
「なんだ、真剣勝負でいく気か?」
「あたぼうよ」
「よし、いいだろう。こいつらにも一度、真剣の醍醐味を見せてやりたいと思ってたところだ」
 ペレクルストは自分で真剣を取って来た。両者向かい合うと、門弟たちは壁際に寄って、道場の中央を広く空けた。
「いいか、これは今年のアルバの競技会の決勝戦の再現だ。おまえたちには滅多にお目に掛かれないんだから、ようく見ておけよ」
 ペレクルストがそう言うと、さすがにアルバの競技会のことは知っている者が何人もいて、おーっ、と歓声が上がった。それでも、洟を垂らしながらあらぬ方を見ている者もいた。
 オクスは鎮魂の戦斧を構えたが、かつてペレクルストに完全に手玉に取られた苦い思いがあるからか、いつものように勢いで相手を押しまくろうとはせず、ずっと守勢でいて、ペレクルストに隙ができるのを待つつもりでいるかのようだ。
(こいつ、守りでいく気か。ならば――)
 ペレクルストは様子窺いに早速踏み込んだ。オクスは軽く弾き返したが、返し技も出さずに再び守勢を取った。ペレクルストは次には素早い連続技でガンガン打ち込んでいったが、オクスは全て受け返した。その打ち合いのテンポがしだいに速くなり、見学している門弟たちには一々目で追うことができなくなった。
(今日はいやに慎重だな)
 オクスの闘いぶりを見て、ファントムは思った。
 それにしても、アルバの競技会の時とは全く別人の試合を見ている気分だ。あの時自分はずぶの素人だったが、素人目に見ても、あの時のオクスの闘いぶりは無謀だったように思える。もちろんあの時のオクスはわざと負けるつもりだったから、そう見えたのは当然だったのだろうが、それに比べると、今日のオクスはまるで違う。相手の動きをよく捉えているばかりか、先を読んでいるようにも思えてくる。
 やがてオクスも調子に乗ってきたようで、攻勢に転じだした。ペレクルストの剣とオクスの戦斧が猛烈にぶつかり合い、激しく火花を散らした。それが延々と続き、ファントムにも二人の動きを捉えるのが苦しくなってきた。門弟たちはもう呆気に取られっ放しで、この凄まじい試合をぽかんと口を開けて眺めているばかりだ。タウの町道場で稽古する程度だから、恐らくこのようなものにはお目にかかったことはないに違いない。
 それにしても、ファントムは改めてアルバの四剣の凄さを思い知った。ファントムが見届けることができただけでも、これまでにオクスは、ペレクルスト相手に二十種類以上の返し技を繰り出している。その中には取って置きの奥の手もあるのだろうか、ファントムが今までに見たことがない技がいくつもあった。無論、オクスがこんなに長く闘ったことがないから、自然とそんな奥の手も出て来たのだろうが、そのような技を引き出させる原因は、ペレクルストの側から複雑な複合技が次々と飛び出して来るからに他ならない。
 もしかするとペレクルストは、門弟たちに活を入れるために、わざと試合にけりをつけずにいるのかもしれない。試合が果てしなく続くのを見ていると、何となくファントムにはそんな気がしてきた。そうであろうとなかろうと、あれだけの剣技を身につけることができれば素晴らしいだろうなあ、とペレクルストに敬服するばかりだった。とにかく自分はまだまだアルバの四剣の足元にも及ばないということを痛烈に思い知らされた。剣を踊らせるということをドワロンが言っていたが、まさに今のペレクルストのようなことだろう。まるで剣が体の一部になってしまったかのように思える。
 門弟たちはついて行けなくなって、二人の試合にとうとう飽きてきたようで、あくびをしだす者も出てきた。その気配を察したのかどうか、ペレクルストが急に体を退いた。
「これくらいにしとこうじゃないか。いつまでやってもきりがない」
 オクスはいつものようにカーッと燃えてはいないようで、
「ああ。くたびれたぜ」
 さっさと斧を退いてしまった。
「しかし、かなり腕を上げたな」
 ペレクルストは本当にそう思ってオクスを誉めたのだが、
「冗談だろ」
 オクスは一言で済ませてしまった。
 ファントムとオクスは道場を出て、近所の食堂へ昼飯を食いに行った。
「今日の試合は凄かったな。あんなの今までに見たこともない。競技会の時の、ペレクルストとバーンの闘いより凄かった」
 ファントムが感心して言うと、
「ペレクルストは手を抜いてたぜ、確かに」
「ほんとか?」
「この前とは違ってた。今日のは見世物だ」
「ふうん……」
 ファントムは驚いてしまってしばらくは口がきけなかった。
「それにしても、今日はいろいろと技が出たな、俺が今までに見たこともないような」
「相手が強いと自然に出て来るんだ。無意識に出て来るようにならなきゃ、まだ技を身につけたことにゃならない。考えてるようじゃ駄目だ」
「なるほど。俺にも教えてくれないか。技の一つくらい身につけたいんだ」
 オクスはしばらく考えていたようだが、やがて口を開く。
「教わって身につくもんじゃないけど、そうだな……、例えば相手の攻撃を自分の得物で受け止めたとする。ガッと受けてそこで一呼吸置くと、これは完全な守りだ。相手を勢いづかせてしまうかもしれない。そういうつもりで受けるんじゃなくて、受けた剣を間を置かずにそのまま動かせる方向に持って行く。これは口で言うようにた易くはない。場数を踏まないと身につくもんじゃないが、闘いの時はいつも心掛けてると、いつかは身につくだろうさ。
 とにかく守りと攻めを分けて考えちゃいけない。守りは攻めに転じ、攻めは守りに転じるものと心掛けとくことだ。でないと、大勢を相手に勝つのは難しくなる。ペレクルストなんかは違うな。俺のもう一歩先を行ってる。守りも攻めもない。全てが一つだ」
「ふうん、守りも攻めも同じか……」
 ファントムは頷くには頷いたが、その辺のところになってくるとよくわからなかった。やはりオクスは自分の数歩先を行ってるんだと感心した。

 夕方になると、ファントムとオクスはエローラたちと連れ立って、ベルモン通りにある劇場へ芝居を見に行った。席に着いたのは良いのだが、芝居が始まると、オクスは早々に居眠りを始め、途中から大鼾をかきだし、周囲の観客から大いにひんしゅくを買った。アジャンタは無表情のまま見ていたが、エローラとセバスチャンは芝居の途中からハンカチを噛み締め、遂にはおんおんと声を上げて泣きだす始末だった。
「本当に良かったわねえ。感動だわ」
 芝居が幕を閉じると、エローラは目を真っ赤にしたままファントムに感想を求めた。
「あ、ああ、結構良かったよ」
 実はファントムも目を開けていたものの、リリスの言っていたことをふと思い出し、ほとんどそのことばかり考えていたのだ。アヴァンティナとディングスタとスヴァルヒンという、考えつくこともできないつながり、リリスが言っていた、バンコスとソレルとオドルという、タウにおけるアヴァンティナ団の指導者らしき者のこと、アヴァンティナ団は元々ディングスタのために作られたということ……、考えれば考えるほど謎めいてくる。それで芝居の内容など覚えてはいないのだ。
「嘘つくんじゃないよ、ずっとぼうっとしてたくせして。ファントムは芝居なんか見てなかったんだよ」
 セバスチャンがファントムの嘘を見透かして、非難めいた口調で言った。
「い、いやあ、見てないこともなかったんだけど……」
 ファントムは笑ってごまかそうとした。
「それよりもこいつさ、何とかしなきゃなんないのは!」
 そう言って、セバスチャンは眠っているオクスの頭を一つ張り飛ばした。オクスはぐうぐう高鼾で眠りこけている。それを見てエローラも溜息をついた。
「そうねえ、あんたたちにはこのお芝居なんかは、ちょっと高尚すぎたようね」
 エローラが皮肉っぽく言うと、
「まあ、そういうとこかな。俺には難しくてよくわからなかったよ」
 ファントムはエローラを適当にあしらおうとしたが、
「あーあ、どうしてあの感動が、あなたたち男の人にはわからないんでしょう? 親が無理やり別れさせようと結婚話を持ち出したのを振り切って、無実の罪で牢獄に入れられようとする恋人を、ネディン橋まで見送りに来てみると、男は女の将来を思いやり、もう愛してはいないんだと一言だけ言い残すと、灰色の壁の向こうへと去って行くのよ。でも女は、あの人以外の妻になる気はないと、男が牢獄の中へと姿を消したあと、真冬のセチル川に身を投げて、あくまで男に操を立てようとしたのよ」
「可哀そうな話だねえ」
「でももっと可哀そうなのはその先で、間もなく革命が起こり、男は釈放されるのよ。でも自由になったその足で女の家に駆けつけてみると、愛する女はもうこの世を去っていた――こんな悲しいお話があるでしょうか!」
 エローラは芝居の山場を低い声で話して聞かすと、また一しきり泣き続けた。
「可哀そうな話だね。泣けてきたよ」
「そうでしょう」
「エローラでも男女の恋愛に感動するんだな。初めて知った」
「当然よ。あたしを馬鹿にしないでよ」
「い、いや、冗談だよ」
 そう言っていると、今まで眠っていたオクスがむくむくと起きだして、
「おう、もう芝居済んだか。それじゃあ、帰ってめしにしようじゃないか」
 と場違いなことを言ったので、ファントムは思わず吹き出してしまった。
 劇場の外へ出ると、とっくに夜になっていて、五人は劇場の近くの食堂に入ろうとしたが、その時、近くで人だかりがして、わいわい騒いでいるのに気づいた。野次馬根性でそこまで行ってみると、人が何人か血を流して道に倒れていた。
「何があったんだ?」
 オクスが人を捕まえて訊いてみると、
「アヴァンティナに殺られたんだ」
 なるほどそこには例のアヴァンティナの徽が描かれた紙切れが落ちていた。
「こいつは誰なんだ?」
「判事のランフェルだ」
 殺された者の顔を見知っている者がいて、そう言った。エローラたちが嫌がるので、そのままその場を離れたが、ファントムは帰りにヴィットーリオの所に寄ってみた。
「判事のランフェルって知ってるか?」
「名前は知ってるけど、どうかしたのか?」
「さっきアヴァンティナ団に殺されたんだ。通りがかりに死体を見たよ」
「へーえ」
 ヴィットーリオには興味がなさそうだ。
「なぜ殺されたんだろう?」
「なぜって、何か裁判の恨みでもあったんだろう。そう何でも僕に訊かれても困るな。いくら何でも、些細な判決の記録まで一々覚えていられやしない。ランフェルが殺されたからって、きみに何の関係があるって言うんだ」
「いや、ランフェルという人のことよりも、アヴァンティナ団の意図するところを知りたいだけなんだ」
 しつこく食い下がるファントムに、ヴィットーリオはうんざりしたようなそぶりをしてみせた。
「それはきみが前に言ってたじゃないか、アヴァンティナもセイレーンもディングスタに乗り換えたって。そうさ、僕にはそんなこと予想もつかなかったよ。この僕を嘲笑しに来たってわけか? 僕は学者であって、神様じゃないからね。時には予測も外れるさ」
 ヴィットーリオは半ば不貞腐れて言った。確かにファントムにも、自分がヴィットーリオに何を尋ねに来たのか、今となってわからなくなってしまった。
 しかし帰りがけにふと思いついて、ヴィットーリオに尋ねてみた。
「ところで、バンコス、ソレル、オドルっていう三人の名に心当たりはないか?」
「ないこともないが、何だって言うんだ、薮から棒に?」
「何者なんだ?」
「聞いたことある名前だけど、オドルという名前はこの町ではありふれた名前だ。そう、有名なところでは……、いや、ちょっと待てよ」
 ヴィットーリオは再び自室へと引き返し、机の引出しの中をしばらく探っていたが、その中から一冊の紙の束を抜き出した。
「情勢予測学者というのは、人名に詳しくなければならない。だからみんなこういうのを持ってる。有名人名簿だ。と言っても、専門家用のものだから、有名どころからあまり大したことない者まで一応集めてる」
 ファントムはその名簿をヴィットーリオから受け取り、しばらく眺めていた。
「ほんとだ、オドルというのはこの中だけでも十人以上もいる。これじゃどれだか見当がつかないな」
「一体何を見つけてるんだ?」
「いや……。ソレルは三人。商館の主、工場主、役者。役者か……。バンコスは……一人か。だったらこいつの可能性が高い。職業は大学教授。大学教授?」
 ファントムはヴィットーリオの顔を覗き込んだ。
「ああ、大して名のある人じゃないけど、タウには大学は一つしかない。バンコス教授はもちろんうちの大学の教授だ。僕は会ったこともないが、形而上学か何だかの、役に立たないことをやってる目立たない人だ」
「会えないだろうか?」
「会うのはわけないだろう。会ってどうするんだ?」
 ヴィットーリオはファントムが何を企んでいるのだろうかと怪しみだしている。
「いや、それならまだいい。人違いかもしれないし。バンコス教授のことで何か知っていることはないか?」
「知らないな。やってることがやってることだし、あまり学生も集まって来ないみたいだよ。特に何も聞いたことはない。なんだ、学問でも始めるつもりか? やるんならそんなつまらないことじゃなくて、情勢予測学にしとけよ。弟子にしてやるぞ」
「それだけは遠慮しとくよ」
「ちぇっ」
 話はそれっきりになったが、ファントムはついでにヴィットーリオからガブリエルの書の写しを借りて帰った。しばらくじっくり読んでみようと考えたのだ。

 翌日はオクスと二人で再び闘技場へ行った。試合に興味はないが、ペレクルストの道場のことが気になった。いよいよ試合開始という時になると、貴賓席に男が姿を現し、何か喋った。その男は大臣のベルラントという者で、聞けば総統セルパニの弟だということだ。ベルラントは、大会に参加している剣士諸君が腕を磨き、タウの町を守る実力を養って欲しいと述べた。
「わざとらしいことぬかしやがる。徴兵でも始める気かよ。ひょっとすると俺たちも危ねえぞ。ピグニアと戦争になったら、兵隊に採られるかもしれねえ。それともアヴァンティナ団に不意討ちを食らって犬死にするかもな」
 オクスは冗談とも本気とも取れるようなことを言った。
 その時だった、ベルラントが引き揚げようとすると、下の席で拍手をしながら、数人の男が貴賓席の方へと段を上がって行った。と見るや、いきなり上着を脱いだ。どれも短刀を身に着けていて、それを引き抜くなり、ベルラント目がけて襲いかかった。ベルラントは慌てて奥の通路へ逃げようとしたが、貴賓席の上からもたちまち刺客が飛び下りて来た。あっと言う間にベルラントの護衛や側近たちが刺し殺される。ベルラントも逃げおおせることができなくて、刺されてその場に倒れた。
 客は少なかったが、闘技場は大騒ぎとなった。主催者側の者たちが大臣を助け起こしてみた時には、ベルラントは既に事切れていた。数人の刺客たちはいつの間にか煙のように姿を消していた。
「すげえ! 殺ったな。あいつらアヴァンティナか?」
 オクスは興奮していた。ファントムもあの刺客たちの手並にはすっかり驚かされた。結局団体戦は中止となり、ファントムとオクスはとりあえず下宿に引き返した。
 下宿屋に戻ると、二人の見知らぬ男が現れた。
「おまえたち、ここの住人だな」
 男の一人がファントムとオクスに向かって不躾に言った。
「おまえたちは何だ?」
「税の徴収に来た」
「なんだ、税吏か。見ての通りの貧乏暮らしだ。払う金なんか持ってねえぜ。来年来な」
 オクスが軽くあしらおうとすると、税吏はカッと目を剥いて、
「持ってないとは言わさんぞ。周旋所で聞いてきてるんだ。おまえたちは最近、結構稼いだそうじゃないか」
「ちぇっ、シーファーの野郎、余計なこと喋りやがって。言っとくがな、傭われ剣士ってのは、あんたたちが考えているほどには儲からないんだよ。食うや食わずの繰り返しだ」
 税吏がそんな言い訳を聞く耳など持つはずがない。オクスに詰め寄って、
「払う気がないのならそれでもいいが、払わないのなら、この町の決まりだ、年が明けてから三十日間の労役に就いてもらうことになるが、それでもいいんだな?」
「労役って、何すんだ?」
「恐らく来年は城壁の拡張工事だろう」
 オクスは不満げに口を尖らせた。
「ちぇっ、それが共和国のやり方かよ。税金の方はいくらなんだ?」
「一般人は金十。その他特別の収入があれば、その分多めに納めなくてはならない。おまえたちは特別税の対象者だ。言っておくが、ごまかしは利かんぞ」
「畜生、住みにくい町だぜ、全く」
 オクスはセルパニの総統政府が大嫌いなので、いつまでも税吏との間で払え払わんの押し問答をしていたが、すると、また別の誰かがそこへ上がって来た。
「よう、こんなクソ野郎どもと口をきくだけ無駄だぜ」
 あとから来た見知らぬ男はそう言うや、
「さあ、とっとと失せやがれっ!」
 二人の税吏を殴る蹴る、たちまち追い返してしまった。
「あんた誰だい?」
 オクスは不思議に思って、訝しそうな表情を見知らぬその男に向けた。
「俺はちょっとここを通りかかっただけさ。ところで、あんたたち二人に折入っての相談があるんだが」
「通りがかりの者が、一体何の相談だ?」
「まあまあ、慌てずにゆっくり話そうぜ」
 男は二人をオクスの部屋に押し込んだ。
「話ってのは何だ?」
「あんたたち二人の噂を聞いてな、オクスにファントム。俺たちの仲間に誘いに来たってわけよ」
「仲間だと?」
 二人は益々訝しげな表情になった。
「そんなに胡散臭そうに俺を見るなよ。誤解してもらっちゃ困るが、俺たちは悪いことをしてるわけじゃねえ。世の中を少しでも良くしようって集まりさ」
「今みてえなことが、その世の中を良くするってことかい?」
「まあ、いろいろあらあな。あんな反吐の出そうな奴らはな、ぶん殴って脅しつけてやりゃあ、それでおしまいだ」
「おまえたちの仲間ってのはつまり――」
「お察しの通り」
 男は懐から青い布を取り出し、自分の頭に巻きつけてみせた。
「アヴァンティナ団か」
「そういうことで」
「とっととけえんな」
「つれないこと言ってくれるじゃねえか。俺たちはあんたたちのことをちゃあんと調べてる、骨のある奴らだってな」
「ふん、どういうふうに俺たちのことを思ってんのか知らねえが、帰っておまえの親分に言うんだな、軽く見てもらっちゃ困る、オクスがそう言ってたとな」
 男は弱りきった顔つきをしてみせた。
「ところで、バンコス、ソレル、オドル、この名を知ってるか?」
 男がしばらく口を閉じたのを見て、こんどはファントムが訊いた。
「なんでまたその名を?」
 男は少々面食らった様子だった。
「まあ、いいじゃないか。何者なんだ?」
「そいつばかりはあんたたちにも言えねえなあ」
「だったらここではっきり返事をしよう、断る」
 男はまた何か言って誘おうとしたが、ファントムが、
「少なくとも俺は、いい加減な理由で人殺しの集団に仲間入りする気なんかないんだ。今言った三人のうち、一人でもいいから会わせて話を聞かせてくれると言うんなら、その時は改めて考えてもいいが」
 男はみるみるしかめっ面になった。
「しょうがねえ。そんじゃあ、訊いてみよう。とにかく少し待っててくれ。もう一度戻って来っからよ。そんなことは、俺の一存じゃ決められねえんだ。何しろ、俺もお頭には会ったことがねえんだから」
 男は急いで階段を下って行った。
「おかしな約束なんかして、どういうつもりだ?」
「あいつはお頭だと言ってただろ。やっぱりバンコスとソレルとオドルは、アヴァンティナ団の指導者なんだ」
「そんなことを確かめるためにあんなこと言ったのか? どうかしてるぜ」
 オクスが咎めたが、ファントムは別に気にしていない様子だった。
 それからファントムはすぐに大学へ行ってみた。バンコス教授の所在を尋ねてみると、ここしばらく形而上学は開講されていなく、バンコス教授は大学に不在だと確認できた。
「いよいよ怪しいな。ということは、近頃の襲撃事件を指揮してるんだろうし、もしもバンコス教授がアヴァンティナ団のバンコスだとすれば、もっと大規模な襲撃があるかもしれないな」
 ファントムはそう独りごちた。
 例の男はなかなか戻って来ない。夜になって寝ようとしていると、やっと戻って来た。
「明日の夕暮れ時にユーコン浜で待っててくれ。も一つ、その前に議事堂で面白い見世物があるぞ。見に行くがいい」
 それだけ言ってさっさと帰って行った。

 翌日、ファントムとオクスは議事堂の方へ行ってみた。
「面白い見世物って何だろな。またやる気なんだろうか?」
「きっとそうだろう」
 昨夜男が言っていたことは、襲撃のことだとは容易に察しがついたが、問題はアヴァンティナ団が何をするかということだ。議事堂まで来てみてわかったことだが、今はちょうど議会が開かれていた。
「もしかして、議会の真っ最中に殴り込みをかける気じゃないだろうか?」
「うーん」
 ファントムは思わず唸った。間違いなくオクスの言う通りだろう。
「だとしたら……」
 とファントムは考えた。だとしたら、アヴァンティナ団のことだ、無防備の議員たちなど、ほとんど皆殺しにしてしまうかもしれない。そうなれば総統の方はもちろん黙ってはいないだろう。革命団に議会を潰されなどすれば、自分の威信にも関わってくる。だとしたら……、
「内乱だ! このままだとタウの町で内乱が起きるぞ!」
 ファントムは思わず叫んだ。
「そうなるだろうなあ」
「何呑気なこと言ってるんだ。そうなったら、総統政府とアヴァンティナ団だけの問題じゃなくなるぞ。民間人にも大きな犠牲が出るに決まってる」
「だけどいつかはそうなるんだ。その時がやって来たってことだろう」
 ファントムには更に腑に落ちないことがあった。近頃特にアヴァンティナ団の襲撃が激しくなってきている。そのアヴァンティナ団やセイレーン党に指図しているのは、辿って行けば、今ではどちらもディングスタということになる。噂では、ディングスタは最近サラワンに移って来ているということだ。現在のディングスタの実力を持ってすれば、エトヴィクを陥とした余勢を駆って、タウ政府を攻め亡ぼすことなどわけないはずだ。なのに目と鼻の先のサラワンにじっと軍を留めたまま、動く気配も見せない。
 まずアヴァンティナとセイレーンに散々町の中で暴れさせ、タウの軍隊が大きな痛手を被ったところで初めて攻め込んで来る気だろうか? ダフネ、ビンライム、エトヴィクと、電光石火の勢いで我がものとしてしまったあのディングスタにしてみれば、あまりにも慎重すぎる話だ。
 しかし問題なのは、ディングスタがサラワンにいるということだ。エトヴィクにではなく、サラワンにいて、なかなかタウに軍を差し向けて来ない理由としては、一つしか考えられない。オーヴァールに備えているということだ。タウを攻め取る時に、オーヴァールが背後を襲うことを警戒してか、それともタウより先にオーヴァールを攻めようと考えていて、その間はタウを混乱させておこうという魂胆なのか、それはどちらかわからない。
 いずれにしても、これから起こる大襲撃は、ディングスタの指図には違いないのだ。生半可なことでは済まないだろう。取り越し苦労であって欲しいとファントムは願った。だがオクスの言うように、タウの内乱は、いつかは必ず起こることには違いないのだ。ファントムはしばらくタウに住んでいて、そのことを膚でじかに感じ取っていた。
「でも、議会を襲撃する気だとすれば、何であの野郎は、わざわざ俺たちにそのことを教えたんだろう? 俺たちはアヴァンティナに加わるなんてまだ言ってねえぜ。大事な秘密じゃねえかよ」
 干肉を頬張りながら襲撃事件を待っているオクスは、まるで他人事のように言った。それでもそう言われてみれば、確かにそのこともファントムには腑に落ちない。
(なぜ俺たちに秘密を洩らしたりなんかしたんだろう? 俺たちを仲間に引き入れるために、自分たちの実力のほどを見せつけようとしてのことだろうか?)
 どうも納得のできる答は得られなかった。
 そうしていると、やがて議事堂の前が騒々しくなってきた。太鼓を叩き、笛を吹き鳴らしながら、賑やかな行列がセルパニ広場の方からこちらに向かって行進して来る。いつの間にか見物人も大勢集まって来ていた。
「何だ、何だ?」
 オクスは行列の方に気を取られた。見れば、おかしななりをした連中ばかりだ。
「へっ、見世物って、もしかしてこのことかよ」
 それなら良かったとファントムがほっとしかけた時、目の前まで来ていた行列が突如立ち止まった。そこで楽器を鳴らし、歌を歌って、一層騒がしい音を立て始めた。それがいつまでも続くので、とうとう議事堂から誰かが苦情を言いに出て来た。
「静かにせんか、審議中だぞ!」
 議事堂の職員がいくら怒鳴っても、行列の中の者たちは一向に意に介さない。やがて議員が何人かパラパラと表に出て来た。
「静かにしろ、気違いどもめ!」
 議員たちは口々にわめき立てたが、すると行列はにわかに演奏をやめた。次に、何人かが手に手にプラカードを持ってサッと掲げた。『セルパニの手先ども、死ね』、そう書いてある。議員たちはギョッとした。
「まずい!」
 反対側にいて、プラカードの文字は見えなかったが、ファントムはただならぬ気配を感じ、腰を下ろしていた向かいの裁判所の石段から立ち上がった。その時には既に、行列の連中がどこから取り出したのか、手に手に刃物を持って、どうっと議事堂の正面玄関に向かって一斉に押し寄せていた。議員たちは慌てて議事堂の中に逃げ込んだが、暴徒たちはそれを追って、そのまま議事堂の中へと殺到した。中から物凄い悲鳴が次々と聞こえてくる。周囲の民衆たちは混乱して逃げ惑うかと思いきや、
「殺っちまえっ!」
 みんな口々に暴徒たちを応援している。
「やれやれ、襲撃にしては手が込んでやがる。こいつらもこいつらだ」
 オクスは口ではそう言っていたが、干肉の残りを口の中に押し込んで、面白そうに見物している。どうやらこの場で気が気でないのは、ファントムたった一人だけのようだ。
「あっ、そういうことか!」
 ファントムは突然大声を上げた。
「どうした?」
「このことを知らされていたのは俺たちだけじゃないんだ。ここに集まって来ているみんなだ。見世物ってことで、噂になっても疑われなかったんだ。こんな手を使って襲撃するなんて思われもしないから、かえって怪しまれずに済む。大した自信だ。襲撃の宣伝を前もっておおっぴらにやるとは、総統政府を完全に舐めきってる」
「なるほど。どっちにしたって見世物には違いねえや」
 二人は感心したように顔を見合わせた。
「こいつらは薄々感づいていたはずだ、俺たちと同じように。だけどばれなかった。みんな襲撃を支持してるってことだ。ほら、これを見てみろ」
 ファントムは大喜びしている見物人たちを指差した。
 やがて議事堂が煙を上げ始めた。中にいるアヴァンティナ団が放火したのだろう。わずかに逃げ出して来た議員たちがいたが、たちまち民衆たちに囲まれてなぶり殺しにされた。
「ひどいことするな。あんまりだ」
 ファントムは顔を背けたが、ところがまたしても別の所で悲鳴が上がった。衛兵隊が武器を持って、暴動鎮圧に乗り出して来たのだ。これには素手の見物人たちでは敵わない。たちまち大混乱を来し始めた。
「こっちの方がひどいぜ」
 オクスが呻いた。見ると、衛兵たちは見境なしに民衆たちを斬り殺している。
「畜生、弱い者苛めしやがって!」
 オクスはとうとうたまりかね、戦斧をつかんで雑踏の中へ飛び出して行った。
「あっ、待て、オクス!」
 ファントムが止めても間に合わなかった。オクスは早くも三人四人と衛兵を斬り殺していた。
「クソッ、まんまとはめられたな」
 仕方なく、ファントムも剣を抜き放って加勢に出た。今となってやっとあの男が見世物に誘った意図がわかった。これで自分たち二人はお尋ね者となってしまうのだ。しかし今更気づいてももう遅かった。やがて議員を殺し尽くしたアヴァンティナ団の連中が外に出て来て、衛兵隊と格闘を始めたが、広場の方の兵舎から重装隊も繰り出して来て、議事堂前は大乱闘となった。
 乱闘はやがて一旦やむかに見えた。政府側の衛兵、重装兵たちが数多く討たれ、数の上でアヴァンティナ側が圧倒的になってきたので、残った兵士たちは次々に逃げ始めた。ところが広場とは反対の方角、総統邸の方から新たな部隊が押し寄せて来た。この者たちは衛兵の服装もしていなければ、重装備もしていない。剣一本持っているだけで、その数も知れていた。しかしいざ衝突してみると、存外に強力な部隊だとわかった。もはや議事堂前には、死体以外にはアヴァンティナの面々と、この謎の軍団しか残っていなかった。
 驚いたことに、あれほど優勢だったアヴァンティナ団が、今度は逆に押され気味になってきている。ファントムは急いでオクスの袖を引っ張った。
「おい、そろそろ引き揚げよう。いつまでも関わり合ってると馬鹿を見るぞ」
 オクスは頷いて、二人して広場の方へ向かって駆けると、そこから七番街を南へ行き、オルフォイア通りの人混みの中へと逃げ込んだ。
「ここまで来れば大丈夫だ」
 オクスは息を切らしながらそう言ったが、市場も何だかいつもと様子が違う。議事堂襲撃の噂が既に広まっているようだ。それとなく耳を傾けていると、別の噂が聞こえてきた。アルコ大橋を渡ったアルコ島にある海兵の基地を、セイレーン党らしき者たちが大挙して襲ったというのだ。
「奴ら、示し合わせてやってるのかもしれないぞ」
「ああ、だけど今度のは今までの襲撃と違って、簡単に収まりそうにないような気がするな」
 オクスは、巻き込まれたとはいえ、今の今まで襲撃に加わって逃げて来たことはころっと忘れたかのように、またぞろ野次馬根性を見せ始めた。
「どうだ、アルコ島の方も見に行ってみないか?」
「それはよそう。今はおとなしくしてた方がいいよ」
「そうか。そうかもしれねえな。それにしても、さっきの奴らは鍛えられ方が違ってたようだぜ。あれがパトリオットか?」
「たぶんそうだろう」
 二人はあの強力な部隊の集団戦法とじかにぶつかってみて、パトリオットというのが単なる暗殺団ではないことを思い知った。
「しかしこれからどうする気だ? こうなったら、総統政府を一気にぶっ潰すしかねえだろう。アヴァンティナ団に味方する気にもなれねえが、かと言って、セルパニの側につくわけにはなおさらいかねえ。どうやら端で見てるってわけにもいかなくなったようだし、こうなったら仕方がねえ、アヴァンティナのために一肌脱いでやるとするか」
「アヴァンティナのためじゃない、ディングスタのためだろ」
 ファントムは妙なことにこだわった。ディングスタのことが癪に障って仕方がない。別にディングスタが自分たちを引き込もうと罠に掛けたわけでもないのだが、結果的にはディングスタのために動かされることになってしまう。
「とにかく夕方になってからユーコン浜へ行ってみよう。全てはそれからだ」
 ちょっとアヴァンティナ団の指導者をつついてやろうと思っていたのだが、今はそれどころではない、重大な決断をしなければならなくなってしまった。ファントムは、あの男の口車に乗せられ、野次馬根性で議事堂までのこのこと出かけて行ってしまった自分のことが悔やまれて仕方がなかった。

 ファントムとオクスは日が暮れるまで街中をうろうろして時間を潰していたが、至る所で今回の襲撃のことが話題になっていて、タウの町全体に不穏な空気が漂っていた。日が暮れかかると、リーブラ通りを歩き、リネン岬地区の方へとユーコン橋を越えた。すると、橋の袂に誰かいて、二人に声をかけてきた。
「革命団に加わるとは、感心しねえな」
 声をかけてきたのは他でもない、ドラドだった。
「なんだ、なんでおまえがそのことを知ってるんだ?」
 オクスが不思議そうに訊いた。
「俺様は地獄耳だ。なあ、ファントム、俺がトネクトサス沼でおまえに言ったことをもう忘れちまったのか? 悪いことは言わねえ、ここから元来た道を引き返しな」
 ファントムはドラドのそばまでゆっくり近づいて行った。
「おまえの言ったことはよくわかってるよ。だけど俺たちはもう自由が利かなくなってきてるんだ。まだはっきりとは決めかねているけど。なあ、おまえはどう思う、このまま内戦になると思うか?」
「なるな。だけど今回は巧くいくかどうか疑問だな。俺の見たところじゃ、成功する見込みは五分ってところか」
 ファントムはしばらく考え込んだ。
「五分五分か。まあ、それはそれとして、これからリリスが言ってたバンコスかソレルかオドルかの誰かに会って話をするんだ」
「おまえたちに会うのはバンコスだ」
「どうしてそこまで知ってるんだ?」
 ドラドは薄闇の中でニヤリとした。
「知ってるついでにもっと教えてやるからよく聴け。あいつはおまえたちをとんでもないことに使おうと企んでる。おまえたちは捨て石にされるぞ、きっと。いいか、奴の口車には絶対に乗るなよ。痛い目に遭ったことのある俺が言ってるんだ、今度だけは何も言わずに、俺の言うことを聴け」
 ドラドはそれだけ言うと去って行った。ファントムもオクスも、もとより口車になんか乗せられるものかと肝に銘じながら、ユーコン浜へと出てみた。波打ち際まで行ってアルコ島の方を眺めたあと、浜の真ん中辺りまで戻って腰を下ろした。冬の夕暮れ時のユーコン浜には、乞食が一人ぽつんと座っている他は誰もいない。砂浜はリネン岬の方へとずっと続いている。
「バンコスとやらはまだ来てないみてえだな。仲間に誘うのに待たせる気か」
 オクスは浜の先の方に目をやった。砂浜はどこまでも続き、やがて夕闇の中に溶け込んでいる。
「ユーコン浜のどこかは聞いてなかったな。この浜はやけに長そうだぜ」
「うん……」
 海からは冷たい風が吹きつけてくる。二人は身震いして膝小僧を抱えた。
「ほんとに現れるのか?」
「わからないよ」
「寒くてやりきれん。いい加減に帰ろうぜ」
 オクスはとうとう音を上げた。ファントムもどうしようかと躊躇った。既に日は没していて、辺りは闇に覆われようとしている。オクスはこらえきれずに、その辺から流木を集めて来ると、火を起こし始めた。懐から袋を取り出し、干肉を引っ張り出す。それを棒に突き刺して、火で炙って食べた。
 二人が肉を焼いて食べていると、後ろの方にいた乞食が匂いに釣られて寄って来た。
「おまえも食うか?」
 乞食は嬉しそうな顔をして干肉を受け取ると、それを貪り食った。それからもかなり待ったが、バンコスらしき者は現れない。
「馬鹿々々しい。もう帰ろうぜ」
 オクスはとうとう痺れを切らして立ち上がった。ファントムも頷いて立ち上がろうとすると、乞食が二人の前に泥のついた椀を置いた。ファントムは銀貨を取り出してその中に入れてやった。さあ、引き揚げようとなった時、乞食はまたしても椀を指差した。
「図々しい乞食だぜ」
 オクスはそう言いながらも、銀貨を一枚乞食に投げてやった。いよいよ二人が立ち去ろうとすると、今度は二人の足を引っ張ってくる。
「いい加減にしろよ、乞食! もう銀貨二枚もくれてやっただろ」
 オクスが怒鳴ると、乞食は何も言わずに、二人に座れと身振りで示した。
「なんだい、こっちはおまえにつき合ってるほど暇じゃねえんだよ」
 乞食は構わずに、懐から何か取り出して、二人の方に差し出した。
「これを預かってある」
 見ると、小さな箱だった。ファントムは手に取って蓋を開けてみた。中には紙切れと金貨が何枚か入っていた。紙切れに書かれた文字を、燃え尽きかけている焚火に照らして読んでみる。
「今夜、パトリオットの長官、サイザル将軍を刺せ。将軍はウル通り、リネン岬二番街の情婦の所にいる。詳しくは乞食に訊け」
 聞いていたオクスはカンカンになった。
「何だい、それは! もう俺たちを手下にしたつもりでいやがる。バンコスっていう奴は、とことんふざけた野郎だ!」
「これを誰から預かった?」
 ファントムが乞食に訊くと、
「知らねえ人だ」
「でも、詳しいことはあんたに訊けと書いてあるぞ」
 ファントムは紙切れを乞食に見せた。
「おいらは頼まれただけさ。この先をリネン岬二番街に折れ、ウル通りを越えて、左手の最初の路地を入った所にある、人魚亭という小さな酒場だ」
 乞食はそれ以上は何も言わなかった。
「そうか。じゃあ、あんたにこれを頼んだ奴にもう一度会ったら、これをそいつに突き返してくれ、俺たちは殺し屋じゃないと言ってな。馬鹿にしてる。ほんとにバンコスというのは見下げ果てた奴だ」
 ファントムは紙切れを小箱の中に戻すと、憤然としたままそれを乞食の手に返した。

「寒い思いをして、結局馬鹿を見ただけだったな」
 下宿に戻る途中でオクスがぼやいた。
「でもドラドはなぜあんなことを言ったんだろう? 俺たちに警告めいたことをして。結局バンコスは現れなかったっていうのに」
「俺たちはアヴァンティナ団に見くびられてるってことさ」
「それならなぜ俺たちを襲撃になんか巻き込んだんだ?」
「そんなこと、俺に訊いたって知らねえや」
 二人はやがてエローラの店の前まで戻って来た。
「灯りが消えてやがる。もう寝たのか。今日は早いな」
「今日は街中がごたついてたからだろう」
「そうか。それにしても腹が減った。寝てるのなら、起こして何か作ってもらおう」
「そりゃ悪いよ。よそう」
「なあに、構うもんか。まだ寝るには早すぎる」
 オクスは気にしないで、扉を開けて店の中へ入って行った。
「おーい、エローラ、お客さんだぜ」
 オクスは暗がりでエローラを呼んだが、たちまち何かに躓いて転んだ。
「畜生、何だい、こんな所に植木鉢なんか転がしやがって!」
「おかしいな、静まり返ってる。出かけたのかな?」
 二人は灯りを点けようと、手探りでランプを探した。しかしそこらじゅうに何やら散らばっている様子だ。ようやくランプを探り当てて灯を入れてみると、店の中が荒らされているのだとわかった。
「こりゃもしかして、こそ泥に入られたんじゃねえか。開けっ放しでどっかへ出かけるからだ。こんな街で、不用心にも程がある。またくだらねえ芝居でも見に行ってんだろ」
 仕方がないので、調理場で適当に食う物を捜していると、店の扉が開いた。二人がそっちを向くと、誰かが戸の陰からこちらを窺っているようだ。
「もう店はやってないぜ。また明日来な」
 オクスが戸口の方に向かって言うと、中を覗いていた者が入って来た。
「一体どこ行ってたんだ? あっちこっち捜し回ったんだぞ」
 そう言っているのは他でもない、ヴィットーリオだった。
「なあんだ、おまえか」
「なあんだじゃないよ。大変なことになったぞ。エローラたちが襲われて――」
「何っ!」
「じゃあこれは――」
「とにかくついて来いよ。もう医者に連れてってあるから」
 三人は急いで表へ飛び出した。
「大丈夫、怪我はしたけど命に別状はない」
 慌てる二人の様子を見て、ヴィットーリオは急いで言った。
「押し込みか?」
「まだはっきりとしたことはわからない。僕が来た時には、三人とも店の中で倒れてて、客に介抱されてたんだ。向かいの馬車屋に運んでもらったんだが、遅れてたら大変なことになってたかもしれない」
 医者の所に着くと、エローラとアジャンタは寝かされていた。セバスチャンは気丈なためか、頭や腕にぐるぐる包帯を巻きつけてはいたが、それでも椅子に腰掛けていた。ファントムたちがやって来たと知ると、エローラは早速ぶつぶつ文句を言い始めた。それがいつまでも続いて際限がない。アジャンタは何も言わずじっと寝ていたが、オクスの顔を見ると、ニコッと弱々しげに笑った。
「誰にやられた? 仇を取ってやる」
「誰にですって? もちろんアヴァンティナの悪党どもよ! 確かに頭に青い布を巻いてたわ。どうしてあたしたちみたいなか弱い者を苛めなきゃなんないのよ? アヴァンティナなんて、もう最低ね!」
 それだけ文句が言えるところを見ると、幸いエローラは大したことない様子だ。
「アヴァンティナだと? あいつら、ふざけやがって!」
 オクスが戦斧をつかんで出て行こうとすると、
「まあ、いいから、ちょっと来いよ」
 ヴィットーリオが慌ててオクスとファントムを病室の外へ連れ出した。
「何だ?」
「確かにやったのは一見アヴァンティナ団のようだ」
「一見だと?」
「そうだ。これを見てみろ。これが店に落ちてた」
 ヴィットーリオは紙切れを取り出して二人に見せた。例のアヴァンティナの徽だ。
「やっぱりアヴァンティナじゃねえか」
「ところがよく見ると違うんだ。こいつは今までの物とは違ってる。つまり、騙りかもしれない」
「ほんとだ。どこが違うかよくわからないけど、前に見たのとはどことなく絵の雰囲気が違ってるな」
 そう言うと、ファントムは絵をしばらく見つめていた。
「じゃあ、何かい、アヴァンティナを騙ったただの押し込み強盗ってわけか?」
 オクスは苛立っている様子だ。
「いや、そうでもないみたいだ。エローラは何も取られてないって言ってる。とにかくそいつらは店に押し入って来て、三人を殴る蹴るしてそのまま帰って行ったそうだ」
 ヴィットーリオの言うことを聞くと、二人は少し冷静になった。
「なるほど、アヴァンティナがあんなちっぽけな店を襲うこと自体おかしいし、それに、殺しもしないで怪我だけさせてそれっきりってのも変だ」
「ふん、俺にはわかったぜ。これは俺たちに腹いせのつもりだ」
「腹いせって?」
「さっき断ってきただろう。それを根に持ってるんだ」
 オクスにそう言われてみると、なるほどそれもあり得る、とファントムは思った。しかしアヴァンティナ団とはその程度の連中なのだろうか?
「とにかく待てよ。これはアヴァンティナ団の仕業だと一概には決めつけられない。それよりも、俺に名案がある」
 ファントムはそう言うと、例の紙切れを持ったまま出て行こうとした。
「おい、どこ行くんだ?」
「アヴァンティナ団の仕業かどうか確かめてくる。おまえはついて来るな。おまえが来ると、騒ぎを引き起こすだけだから」
「おい、ちょっと待てよ」
 オクスが呼び止めるのも聞かずに、ファントムはさっさと出て行った。目指すは人魚亭だ。そこで自分たちが断ったパトリオットの長官暗殺がある。自分たちが断ったので中止というわけでもあるまい。必ず他のアヴァンティナ団の者がやるはずだ。ファントムは再びリネン岬地区の方へと向かった。

 乞食が言っていた辺りまで来てみると、人魚の形をした灯篭に灯が燈っていた。
「ここか」
 ファントムはしばらく辺りの様子を窺ってから、人魚亭の扉を押した。中には灯りが煌々と燈されている。奥のテーブルで騒いでいる連中がいたが、他にはわずかばかりの客が静かに飲んでいるだけだ。ファントムは店の中がよく見渡せるように、カウンターの一番端っこの席に座った。
「何にする?」
 女将が注文を訊いてくる。
「何でもいい、酒をくれ」
 ファントムは酒の注がれた器を前に置いて、そのまましばらく酒場の様子を窺っていた。やがてぽつりぽつりと客が帰りだした。
「あら、将軍――」
 奥のテーブルで女を横に座らせて騒いでいた連中の間からそんな声が聞こえてきたので、思わずファントムはその方に目を向けた。
 やや若い男が三人と、あと一人が少し年配の男、それぞれ酒場女の肩や腰に手を回して、陽気に酒を飲んでいる。しばらく様子を窺っていると、年配の男がやたらに金をばらまき、その度に女たちがキャーキャー歓声を上げた。
(あいつがサイザル将軍か。あれで本当にパトリオットの総司令官か?)
 男たちは今夜狙われているとも知らず、全く警戒を怠っている。男のにやけた締まりのない顔が、ファントムにはいやに鼻についた。しかし四人とも剣を傍らの壁に立て掛けているし、パトリオットである可能性が高い。
 そうしていると、ファントムの背後の扉を押して客が入って来た。何気なく振り返ってみて、背筋がゾクッとした。恐ろしく体がでかくて、厳めしい面構えの男が、腰の帯に手斧をぶち込んで、そこに立っていた。ファントムは慌てて視線を逸らし、前にある器を手に取った。男は明らかに殺気を帯びている。こいつが刺客かもしれない、そう考えていると、大男はファントムの隣に来て腰を下ろした。かなりしつこくファントムのなりをじろじろ眺めている。
「おい」
 大男はファントムに声をかけた。
「えっ?」
 何気ない表情でその方を向くと、大男はじっとファントムを睨んでいた。
「そこ、どけ」
「なんでだ?」
「そこは俺の席だ」
 ムカッと来たが、ここで事を起こしてはと思い、平然としたまま酒器を持って立ち上がった。そのままカウンターの反対の端まで行って腰を下ろす。テーブルの連中は彼の真後ろになった。今度はそこでテーブルの連中の話に聞き耳を立てていると、大男がまたしても近づいて来た。
「おい、てめえ! 気に入らねえ。こっから出て行け!」
「なんで気に入らないんだ? ほっといてくれ」
「若造のくせにそんな物ぶら下げやがって。そいつを寄越せ!」
 大男はファントムの剣に手を掛けた。
「何をするっ!」
 ファントムはサッと立ち上がるや、思わずラムゼリーを抜いてしまった。
「やる気か?」
 大男も腰から手斧を引っこ抜いた。騒いでいた女たちが急に静かになった。女将が向こうでファントムに目配せしている。相手になるなと言いたいようだ。どうやらこの無頼漢は質の悪い奴らしい。
「わかったよ。俺が出て行く」
 ファントムは抜いた剣をすんなりと鞘に収め、カウンターの上に銀貨を載せると、そのまま立ち去ろうとした。ところが、
「待て! この野郎、気に入らねえ! ぶっ殺してやる!」
 大男は手斧を振りかざしてファントムにかかって来た。ファントムは一旦収めた剣を抜こうとしたが、左手しか使えないので咄嗟には抜けなかった。慌てて体を交わす。ファントムに交わされた大男は、そのまま奥まで突っ込んで行った。大男の正面には例の将軍と呼ばれていた男がいた。大男はなりふり構わず正面の将軍に向かって手斧を振り下ろした。
「ギャッ!」
 将軍と呼ばれていた男が悲鳴を上げたかと思うと、もう頭をかち割られていた。そばにいた女たちがギャーギャーわめいて床を這いずり回った。他の三人の男たちは急いで壁に立て掛けてある剣をつかんだ。大男は向きを変え、再びファントムに向かって来た。
「来やがれ、若造!」
 怒鳴ったかと思うと、ファントムの腕をぐいとつかんで、あっと言う間に怪力で店の外まで引っ張り出した。そのまま路地の奥へとファントムの体をぐいぐい引きずって行く。
「何するんだ、放せっ!」
 ファントムはもがこうとしたが、男の万力のような怪力でつかまれて何もできない。路地はすぐに行き止まりになった。
「おまえ、何考えてんだ?」
「いいから、その前にあいつらを片づけちまおう」
 後ろにはもうあの三人の男たちが剣を抜き放って迫って来ていた。ファントムは急いで剣を抜いた。妙な具合になってしまった。一体どちらを相手にしていいのかよくわからないが、とにかく闘わなくてはならないようだ。ファントムは左手に剣を持つと、路地の壁を右手にした。大男は手斧一つで迎え撃つ気だ。
 パトリオットらしき三人は、抜き身を手にして飛びかかってきた。ファントムは一人、二人とその剣を弾き返した。手斧の大男はどうしようもない。もう一人の振った剣の刃が、大男の上腕部をかすめた。ファントムは咄嗟にその方に切っ先を突き出した。パトリオットの一人は喉を切られ、よたよたと壁際までよろめいてから倒れた。
 途端に残りの二人の剣が突き出て来た。ファントムは一人の剣を弾き返すと、続けざまにもう一人の剣を受けた。受けたまま、自分の剣を相手の剣の刃に沿って滑らせ、間髪置かず相手の喉を掻き切った。残りの一人がまた斬りかかってきたが、ファントムは瞬時に横に跳び、着地するより早く剣を薙いだ。最後の一人の胸がぱっくりと割れ、男は胸を押さえてドサッと地面に落ちた。
「やっぱり聞いてた通りだ」
「何だって?」
「俺一人だととっくに殺されてただろうよ」
 大男は腕の傷口を押さえて言った。
「あんたは誰だ? こいつらは?」
 大男は答えずに、ただニヤッと笑った。その時、笑い声が聞こえてきた。何者かがこちらに近づいて来る。
「ハッハッハッ、金じゃ動かんのを見て、本物と思ったよ」
 近づいて来た者の顔を見て、ファントムはびっくりした。ユーコン浜にいた乞食だった。彼は一瞬にして悟った。
「またあんたたちにまんまと乗せられてしまったようだな。なんで俺たちを巻き込もうとするんだ? いい迷惑だ」
 乞食は笑いながら、転がっているパトリオットの死体を順に検めた。
「ハッハッ、今更言っても始まらん。諦めるんだな。ハッハッ」
「さっき殺したのはサイザル将軍か?」
「そうだ」
「でも、もし俺がここに来なかったら?」
「必ず来ると思ってた」
「そうかな。ある事件があって、その真相を確かめにたまたま来てみただけだぞ」
「どうであろうと、ちゃんとやって来たじゃないか」
 エローラの店を襲ったのはあんたたちか、とファントムは尋ねようとしたが、それはやめにした。それをこの乞食が肯定するはずもない。もしかすると、やはりアヴァンティナ団が店を襲い、それをいかにも偽者の仕業だとすぐわかるように仕組んだ。そうなると、怒りは別の方向へ向けられるのだ。それがパトリオットのしたことだと自分たちが勘違いしたとしたら、必ず居所のわかっているパトリオットの長官に復讐しに行くだろうと。そうだとしたら、アヴァンティナ団の意図するところとは少しばかりずれてはいたが、結果は同じことになった。つまり、自分はアヴァンティナ団に手を貸してしまったのだ。
「あんたは一体誰なんだ?」
 乞食はニタッと笑った。
「わしはバンコスという者だ」
 やはりドラドの言っていた通り、自分たちはバンコスと会っていたのだった。
「なぜこうまでして、俺たちを仲間に入れたがるんだ?」
「あんたたちの腕は実証済みだ。噂にもなってる。ウーリックの事件もそうだし、何と言っても、ナーガの塔まで行って帰って来た」
「たかが噂ぐらいで人を信用するのか?」
「いいや、それだけじゃない。ドラディンガから聞いている」
 なるほど、とファントムは頷いた。ドラディンガが自分とオクスをバンコスに勧めていたのか。
「でも、俺たちはドラディンガに誘われた時、はっきりと断ったはずだぞ。それなのに、こうまでするとは強引すぎるじゃないか。卑怯だぞ」
 バンコスは首を横に振った。相変わらず笑みを浮かべている。
「いいや、それだけじゃない。ご主人様から言われてる、あんたたちを仲間にするが良いとな」
「ご主人様って?」
「あんたはナーガの塔から戻って来たんだろう?」
「あっ!」
(そうか、アヴァンティナか)
 ファントムは独りごちた。そう考えると、アヴァンティナは思っていたよりずっとしたたかな女だ。アヴァンティナの持つ超能力のことを考えると、もしかすると、こうなることまで読んでいたのかもしれない。
「とにかく乗りかかった船だ」
 大男が言った。
「嫌ならアヴァンティナ団に加わらなくてもいい。しかしこれから内戦が始まるのだ。その時にはまた手を貸してはくれまいか?」
 バンコスはファントムに向かって哀願するような目つきをして言った。




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