22.蛇 女
三つの賢者の石を手に入れたファントムたちは、早速階段を駆け下りて塔からの脱出を試みた。しかし七階には翼の生えた大蛇が四人を待ち受けていた。
「よくもお父様を殺したわね。おまえたちも殺してやる」
大蛇は宙を飛んで四人に襲いかかってきた。四人はてんでに武器を打ちつけたが、大蛇の膚は鋼鉄よりも硬く、全く刃が立たない。攻めあぐねていると、大蛇の眼が赤く光った。するとたちまち床から炎が噴き出した。四人は炎を避けて逃げ回った。ムーンが慌てて冷気凍結の呪文を唱える。床の一部が凍りついて火が収まった。だが次に大蛇の眼が青く光ると、たちまち部屋の中に猛吹雪が巻き起こった。四人は壁に叩きつけられ、激しい雪と氷の攻撃に、みるみる全身が凍えてきた。
「ムーン、何とかしろっ!」
ムーンは凍える手で何とかワイバーンの牙をつかむと、呪文を唱えて牙を床に投げつけた。激しい爆発と共に氷の破片がドサッと飛び散り、床に大きな穴が空いた。
「飛び込めっ!」
四人は次々に床の穴へと飛び込んだ。
「いててててっ……」
ドラド以外の三人は着地にしくじって呻いている。
「ラミア、その人間どもを食い殺しておしまいっ!」
上からアヴァンティナの声が降って来た。見るとラミアがいたが、首から上が大蛇となっている。衣装の裾からも太くて長い尻尾が出ていた。四人は慌てて武器を構えたが、驚いたことに、ラミアの体からは腕が何本も生えてきた。十二本になった手がそれぞれ剣をつかみ、四人まとめて相手にしようと打ちかかってきた。
十二本の腕は別個に動き、しかも凄まじい速さで剣を振った。四人は四方に散ってラミアを攻めようとしたが、たちまちラミアの肩からもう一本首が出て、背中の方も見えるようになった。四人はこれまたラミアをも攻めあぐねた。と、尻尾が伸びて高速で回転しだす。四人は足を払われて床に叩きつけられた。次にはラミアの腹から蛇の首がにゅっと現れ、それが牙を剥いてファントムに襲いかかった。ファントムは咄嗟に左手のラムゼリーで蛇の首を刎ねた。首は血を噴いて宙に舞い上がったが、それが空中で一瞬静止したかと思うと、再び牙を剥いて襲いかかってきた。
四人はラミアの恐るべき攻撃に防戦一方になってしまった。ムーンがとうとう隙を見て呪文を唱えると、最後のワイバーンの牙をラミアの足元に叩きつけた。爆音と爆風が湧き起こり、煙と塵埃が立ち昇った。床が吹き飛んで大きな穴が空いている。近くにはラミアの剣が散乱していた。
「やったあ!」
ムーンは床に空いた穴に近寄って下を覗き込んだ。
「早くここから下りよう」
そう言った瞬間に、上から大蛇の尻尾がシュルシュルッと降りて来た。全員が驚いて見上げると、完全に大蛇の姿へと変わったラミアが天井にへばりついていた。長く伸びたラミアの尻尾はたちまちのうちにムーンの体に巻きついた。そのままムーンは空中に持ち上げられてしまった。残りの三人が急いでムーンを助けようとすると、ラミアは更に三本の尻尾を伸ばし、たちまち三人の体も空中に持ち上げてしまった。
ファントムとオクスとドラドは、それぞれ自分に巻きついたラミアの尻尾を断ち切ろうとした。しかし武器を振り下ろそうとした瞬間に、彼らに巻きついていた尻尾が二つに分かれ、その片方がそれぞれの手首をつかんでしまった。何をやっても全く歯が立たない。ラミアは尻尾を緩めたり絞めつけたりして四人をいたぶり始めた。次には壁、床、天井と、所構わず四人の体を打ちつけた。四人は体じゅうが擦り切れ、頭、口、鼻と、至る所から血を流し、とうとう武器も取り落としてしまった。ムーンは既に気を失い、他の三人もぐったりとなって抵抗する力も失せてしまった。
ラミアはとうとう牙を剥き、一人ずつ食い殺そうとした。ところがその時、ファントムとオクスの体を絞めつけているラミアの太い尻尾から、俄かに煙が立ち昇り始めた。
「ギャーッ!」
途端にラミアは凄まじい悲鳴を上げ、四人を床に放り出すと、元の蛇の姿へと戻り、煙を上げながら天井に空いた穴を通ってスルスルと七階へ逃げて行った。
ファントムとオクスとドラドの三人はぐったりとなっていたが、力を振り絞ってムーンを助け起こした。やがてムーンは意識を取り戻した。
「今のは何だったんだ?」
ドラドが不思議がって訊くと、
「たぶんこれだろう」
ファントムは帯の下に挟んであったプレトの護符を懐から取り出した。オクスも自分の護符を手に取って、不思議そうに眺めている。
「世の中には不思議なことがあるもんだ」
「これで護符の威力がわかっただろう?」
「ああ。俺もこれからはプレトの神を信じることにしよう」
四人はほっと一息つくのもほどほどにして、急いで塔からの脱出を再開した。またアヴァンティナやラミアがいつ襲ってくるかもしれない。疲労は極限に達していたが、体に鞭打って下の階へと下りて行った。五階の下り階段の手前には、まだ楯を被せられたままのメデューサの死骸が転がっていた。四階、三階と下りて行くと、まだ蛇がうじゃうじゃと蠢いていたので、火で脅しながら進んだ。
しかし二階まで下りて来ると、どこから現れたのか、またもやホブゴブリンどもが襲いかかってきた。これは何とか倒したが、体がガタガタで、上りの時のように楽にはいかなかった。
「もう駄目だ……。歩けない」
ムーンは床にへたばってしまった。
「あと少しだ、この下は一階だ。出られるんだぞ」
ムーンはうつ伏せになって動こうとしない。三人は無理やりムーンを引っ張って、一階へと下りて行った。
ところが一階まで下りて来たものの、入って来た時の出入口が見つからない。
「確か四つあったはずなのに……」
炬火の灯で照らして壁を隈なく探ってみたが、やはり出口はどこにもなかった。
「そんな馬鹿な!」
しばらく辺りをうろつき回っていると、そのうちに床が急に開き、四人は叫び声を上げて落とし穴の底へと落ちて行った。バシャッと水飛沫が上がる。四人は慌てて立ち上がった。壁に篝火が焚かれていて、腰ぐらいまである澄んだ水の底に、小石がたくさんあるのがわかる。小石だけではなく、人間の骨も散らばっていた。
「そこで骨になってしまうがいいわ」
どこからともなくアヴァンティナの声が響いた。四人は辺りを見回してみたが、アヴァンティナの姿はどこにも見当たらない。四人は少し水の中を歩いてみた。
「この水はゆっくりと流れてるぞ。どこかに出口がきっとあるはずだ」
「しっ!」
ドラドが口に指を当てた。
「向こうに何かいる」
ドラドは水の流れて行く暗がりにじっと目を凝らした。確かに何か大きな物が水の上に出ている。
「岩じゃないのか?」
オクスが目を凝らして訊いたが、
「いや、岩じゃない。ちょっと見てくる」
ドラドはそう言って水の中に潜った。しばらくして戻って来ると、
「岩じゃなかったな。怪物だ。ヒュドラだ」
「ヒュドラ!」
「おい、大声出すなよ。奴は眠ってる。化け物が目を醒まさないうちに、早いとこここから抜け出そうぜ」
「でもどこから出ればいいんだ?」
ファントムはまた辺りを見回した。
「残念だが、化け物の向こうにも出口はなかったぜ」
「もう一度あの落とし穴の上まで登れないだろうか?」
「無理だな、高すぎる。おまけにこんな石の壁じゃ、這い上がることもできやしない」
「どうせ死ぬんなら、その前にゆっくりと眠りたいな」
ムーンはそう言うと、水の中に座り込もうとした。
「馬鹿! 溺れ死んでしまうぞ。まだ諦めるな。出口を捜そう」
ファントムとオクスでムーンの体を抱え上げた。しかし実は四人とも立っていられないくらいくたくたで、水の中でもどこでも寝転がりたかった。
しばらくの間はヒュドラを起こさないよう静かに周囲を探っていたが、どこにも脱出口がないとわかると、四人は今度こそ気が抜けてしまい、何もする気がなくなってしまった。
「この壁を吹っ飛ばしてみたらどうだ?」
オクスがムーンに言ったが、
「もうワイバーンの牙は使い果たしてしまったよ。物体爆破の呪文は使えない」
四人は腰まで水に浸かったまま、壁に凭れてぼうっとしていた。何の名案も浮かんでこない。考える気力さえ失せていた。
「俺たちもこんなふうになっちまうんだろうか?」
オクスが足元に沈んでいる骨を見て言った。
「そうかもな」
かなり時が経ち、不意にさざ波が立って自分たちの体にぶつかっているのに気づいた。
「どうやらお目醒めのようだぜ」
ドラドが言うと、みんな落ちかけている瞼を上げた。
「やばい、こっちに向かって来るぞ!」
しかしヒュドラは深みに潜ってしまった。四人ともヒュドラを見失ってしまったが、武器を抜かりなく構え、耳を澄まして辺りに注意を払っていた。
ところが突然四人の前の水面が盛り上がり、そこからヒュドラが首を出した。
「うわぁー!」
四人は腰が抜けんばかりに驚いた。
「一、二、三、四、五、六、七、八……、九つだ。確かに首が九つあるぞ」
ムーンが驚きの声を上げた。
「馬鹿、数えてる場合か!」
ファントムが怒鳴った。首を切ってはならないとわかっていても、襲って来るヒュドラの首を前にしては、ついつい斬りつけてしまう。ヒュドラの首が刎ね飛ばされると、次には切り口から二つの首が生えてきた。
「あっ! 怪物事典に書いてある通りだ」
「おまえこそ何呑気なこと言ってるんだ」
「どうすりゃいいんだ?」
「こうすりゃいいんだ!」
オクスは戦斧でヒュドラの顔を縦に叩き割った。ヒュドラは鳴き声を上げはしたものの、左右に分かれた顔の間から、新たな首がにょきにょきと生えてきた。
「こりゃ駄目だ」
四人は横へ横へと退いて行く。途端にヒュドラの真ん中の首が鳴き声を上げ、口から黄色い煙を吐き出した。
「わあっ!」
四人は咄嗟に水の中に潜った。
「ぷはぁっ!」
息が苦しくなって水の上に顔を出すと、またもやヒュドラの複数の首が襲ってきた。ムーンは水中に落ちた麻袋から銀の小箱を取り出すと、急いで呪文を唱え、マーメイドの小箱を開いた。途端に小箱から白い煙が湧き起こり、ヒュドラを包み込んだ。四人に噛みついていたヒュドラの首が離れ、ヒュドラは痙攣し始めた。やがて水の中で動かなくなった。
「やったぞ!」
ファントムが叫んだが、
「いや、死んじゃいないんだ。麻痺させただけだ。初めてこの不具無能の術を使ったから、いつまで保つか自信がないよ」
ムーンは急いで持ち物を水中から引き上げた。
「よし、じゃあ今のうちにこいつの胴を切り刻んじまえ。首が駄目なら胴を切ればいいのさ」
オクスは言うが早いか、戦斧をつかんでヒュドラの胴を滅多斬りにした。辺りはヒュドラの血に染まった。
「首も焼いてしまえばいいんだ」
首も切り、すかさず篝の薪を切り口に押しつけて焼いてしまう。しかし真ん中の首だけは切れなかった。
「いいじゃないか。体をとことん切り刻んでやったんだ。首一本じゃ大したことないさ。これじゃ怪物ヒュドラも形なしだぜ」
オクスが笑い声を上げた。その笑い声が地下の洞窟の中でわんわんと響き渡った。だが四人ともにわかに息苦しくなってきた。
「どうしたんだ……急に苦しく……なってきたぞ」
喉が痛いし、目がチカチカする。耳鳴りがガンガンしてくるし、水に浸かった足腰がひりひりしてきた。
「さっきヒュドラが吐いた……黄色い息のせいじゃ……ないか」
四人はたちまち顔を両手で覆って水の中に膝を着いた。するとその時、再びヒュドラの鳴き声が聞こえた。慌ててそっちを向くと、点滅する目の前でヒュドラの不死の首が暴れている。驚いたことに、胴を切り離した不死の首から、みるみるうちに胴が生えていく。やがて胴が元通りになると、そこから首が八本生え始めた。
「今度こそ本当におしまいだ。もう手の打ちようがない」
四人は今度こそ絶望的になり、完全に諦めてしまった。すると突然、近くの壁の一部が音を立てて開き始めた。
「こっちよ。早くここにお入りなさい」
四人は荷物を引っつかむと、壁に空いた穴の中へと次々に飛び込んだ。この際穴の中がどうなっていようと構ってはいられない。
穴の中は狭い通路になっていて、壁に篝火が焚かれている。その明かりに照らされて、一人の女が立っていた。
「あっ、リリス!」
「早く入って。ヒュドラが追って来るわよ」
最後にオクスが通路に飛び込むと、壁の隠し戸はまた音を立てて閉まっていく。半分ほど石の扉が閉まった時、ヒュドラの首が一本、二本と中に躍り込んで来た。
「しつこいんだよ、こん畜生!」
オクスは戦斧でヒュドラの首を立て続けに切り落とした。ところが他の首がまた入って来た。しかし石の扉は止まらずに閉じていき、ヒュドラの首を三つ挟むと、次にはその首を切断してしまった。ヒュドラの首が三つ、ボタボタボタッと床に転げ落ちた。
「さんざん苦しませてくれた記念に、一つ持って帰ってやろう」
オクスはちぎれたヒュドラの首を一つ拾い上げた。
「さあ、ここから出ましょう」
リリスは四人の前に立って、通路の奥へと進んで行く。四人はリリスに助けられて少々当惑していたが、とにかく彼女について行くしかなかった。ただ、リリスがいつ襲ってこないとも限らない。疲労困憊しているとはいえ、気を許すことはできなかった。
天井からは水滴がぽたぽたと落ちて来る。通路の所々に水溜まりができていた。やがて壁の篝火が揺らぎだした。どこからか風が吹き込んで来ているようだ。風が吹いて来る方へ行くと、そこでは草が揺れていた。
「出口よ」
リリスは振り返りもせずにそう言うと、草を両手で掻き分けた。土の階段が現れた。雨の降る音が聞こえてくる。土の階段を数段上ると、そこはもう外界だった。雨がザーザー降って地面はぬかるんでいるが、東の空がほのかに明るい。五人は大木の陰へ行って雨を避けた。
「疲れてるんでしょう? 少し眠ったら?」
リリスが言うと、
「ああ、言われなくたってそうするよ」
オクスとムーンはあっと言う間に眠り込んでしまった。
「あなたたちは寝ないの?」
「ああ」
ファントムとドラドは無理して座ったままでいたが、
「私を警戒することなんかないわ。殺すつもりなら、あなたたちをヒュドラの洞窟から助けたりなんかしないもの」
リリスがそう言うと、
「それもそうだな」
とりあえず二人は横になった。しかしその途端に、抗うことのできない眠気に襲われてしまった。
笛の音が聞こえる。ファントムがハッと気づくと、雨はもうやんでいて、太陽が空高く輝いていた。リリスが地面に腰を下ろして一人で笛を吹いている。ファントムはしばらく黙ったまま、リリスの吹く笛の音に聞き惚れていた。ふと見ると、ナーガの塔は自分たちのすぐ近くにあった。
「リリス、よくも邪魔したわね。あとでお仕置きしてやるから」
塔の方から声がして、青空に響き渡った。アヴァンティナの声だった。リリスは平気で笛を吹き続けている。
「アヴァンティナはあんなこと言ってるぞ。俺たちを助けて良かったのか?」
ファントムはリリスの背中に声をかけたが、リリスはまだ笛を吹き続けている。しばらくしてから笛をはたとやめた。
「いいのよ。お姉様はあんなこと言ってるだけよ」
そう言うと、また笛を吹きだした。ファントムはそれ以上何も訊かず、リリスの笛に耳を傾けた。リリスの笛の音を聴いていると、全身に溜まった疲れが急速に癒されていくようで、妙に心地好い。やがて他の三人も順に目を醒ました。
「ああ、助かったんだな」
ムーンがぽつりと言った。しばらくは四人とも黙ってリリスの笛を聴いていた。
やがてリリスは唇から笛を放した。
「なんで俺たちを助けたんだ?」
オクスがリリスに訊くと、
「助けたかったからよ」
「うーん、なるほど。それ以上明快な答はなさそうだな」
ムーンは一声唸ると笑い出した。
「しかし俺たちはあんたのおやっさんのナーガを殺したんだぜ。あんたはそのことを知らないのか?」
オクスが納得できずに再び訊くと、
「お父様は千年も生きてきたのよ。もうそろそろ死んだ方がいいのよ。お父様はこれまでに、ホビットだとか、ドワーフだとか、人間だとか、エルフだとか、いろいろなヒューマノイドの生き肝を食べて生き長らえてきたの。だからとうとう罰が当たったのよ」
みんなそんなことを言うリリスのことが解せない。
「わからねえなあ。俺たち人間にしてみれば、俺たちはあんたにとっちゃ親の仇。殺して当然だぜ」
「…………?」
リリスには、オクスの言っていることこそ理解できないようだ。
「もういいじゃねえか。あんまりこっちの都合が悪くなるようなこと言うなよ。助けてもらったんだから、それでいいじゃねえか」
ドラドはリリスの気が変わると困ると思い、オクスを黙らせようとした。
「でもあんたの姉ちゃんたちは追って来ないなあ。もう諦めたのか?」
「ラミア姉様は火傷して寝てるわ」
「それはこれのせいだと思うんだ」
ファントムとオクスはプレトの護符を取り出してリリスに見せた。
「そうよ。ラミア姉様はあなたたちを食べようとしたでしょ? 邪まな心を起こすと罰が当たるのよ」
ファントムは、フェノマ派の司祭が護符をつかんで焼け焦げた時のことを思い出した。
「このプレトの護符を知ってるのか?」
「知らない」
リリスはまた笛を吹き始めた。
「じゃあ、なぜわかるんだ? この文字が読めるのか?」
リリスは首を横に振った。
「私は文字なんか読めないわ」
「じゃあなぜ?」
「見ればわかるわ」
「え?」
どうもリリスには不思議な能力がありそうなのだが、今一つ本性がつかめない。
「きみはアヴァンティナやラミアの妹なんだろう? だったらきみも大蛇なのか?」
リリスは笑って笛を吹くのをやめた。
「私たちには人間と蛇の血が混じっているのよ。私には人間の血が多いから、蛇の姿でいるのは大変なの。ラミア姉様は蛇の血の方が多いから、あまり長く人間の姿ではいられないわ。アヴァンティナ姉様は人間の血と蛇の血が半分ずつだから、どっちの姿でもしていられるのよ」
話を聴けば聴くほど不思議な娘だ。
「アヴァンティナは俺たちを生かして返さないって言ってたぞ。また追っかけて来るだろうな」
リリスはファントムの質問にまた首を振った。
「来ないわ。アヴァンティナ姉様はお日様が嫌いなの。でも私は好きよ。姉様は魔女に呪いを掛けられて、塔から外へは出られなくされてしまったのよ」
ファントムたちはナーガの塔の方に目をやった。
「魔女って、スヴァルヒンか?」
「そうよ。アヴァンティナ姉様は昔、沼で行き倒れになっていた男を助けて面倒を見てあげたの。でもお姉様はその男をだんだん愛するようになり、やがて男は元気になると、必ず偉くなってお姉様を迎えに来ると言って去って行ったわ。でもその男はもう偉くなったのに、まだお姉様を迎えには来ないの……」
リリスは初めて悲しそうな顔をした。
「スヴァルヒンがその男を奪って行ったと、きみのお姉さんは言ってたけど……」
「その通りよ。スヴァルヒンは横恋慕して、その男にお姉様が蛇の化身だって教えたの。それでも安心できなくて、ここまでやって来て、お姉様に呪いを掛けて塔から出られなくしてしまったのよ」
「きみのお姉さんでもスヴァルヒンには敵わないのか?」
驚いたファントムが訊くと、
「スヴァルヒンの呪詛はこの世の誰の呪いよりも強いのよ。スヴァルヒンは悪魔の血を受けているから。昔はお姉様のお友達だったんだけど、その男を自分のものにするためここにやって来て、お姉様に魔性の糸で織った衣を着せ、コカトリスの血と自分の血を混ぜたお酒を飲ませたの。お姉様はスヴァルヒンを疑ったりなんかしなかったから、まんまと騙されて、スヴァルヒンが口にした呪いの言葉通りになってしまったの」
「へーえ、聞いてみると、アヴァンティナって可哀そうだなあ」
ファントムの洩らした言葉に、オクスとムーンも頷いた。
「だからお姉様のしたことを恨まないであげてね」
「わかったよ。それにしてもスヴァルヒンって奴は、どこででも悪いことばかりしてるんだな」
「スヴァルヒンはもうすぐお妃になるのよ」
「お妃って、誰の?」
「ディングスタよ」
「ええっ?」
みんな驚きの声を上げた。
「じゃあ、その男というのは、ディングスタのことか?」
「そう」
「スヴァルヒンがお妃になって、それじゃあディングスタは一体――」
「皇帝になるのよ」
ファントムは考え込んだ。確かにスヴァルヒンがアルバを襲ったことなどは、ディングスタの指図だったことは知っている。
「でもみんなから憎まれているスヴァルヒンなんかを妃にして、自分は皇帝になるなんて、誰も黙っちゃいないだろう。ディングスタの人気はがた落ちになるぞ」
「そんなことないわ。スヴァルヒンがお妃様の恰好をしてるのを見ても、誰もそれが魔女のスヴァルヒンだとは気がつかないわよ」
ファントムは、アルバで見たスヴァルヒンの氷のように冷たい美貌を思い浮かべた。しかし確かにリリスの言う通りかもしれない。みんなスヴァルヒンを恐れるばかりで、実際は誰もスヴァルヒンの顔などよく見ていないに違いない。皇帝になった時のディングスタの隣に座っている皇妃が、まさかあの魔女のスヴァルヒンだとは誰一人として思いもよらないだろう。
「ラミア姉様は乱暴者だけど、アヴァンティナ姉様は本当はとっても優しい女なの。あんなふうに他人を苛めて喜ぶようになったのも、みんなスヴァルヒンのせいなのよ。だからお姉様の呪いを解いて、元の優しいお姉様に戻してあげて」
それを聞いて四人とも黙り込んでしまった。
「スヴァルヒンの呪いを解くなんてとてもとても、できやしないよ」
ムーンが言うと、リリスは明るい表情をして首を振った。
「スヴァルヒンの呪いを解くには二つの方法があるわ。一つはスヴァルヒンを殺すこと」
「そりゃ難しい。ドワロンならできるかもしれないけどな」
オクスは、かつてドワロンがスヴァルヒンをきりきり舞させていたのを思い出して言った。
「もう一つは? もう一つの方法ってのは何だ?」
「スヴァルヒン自身に呪いを解かせることよ。どちらにしたって、あなたたちにお願いするしかないの」
「まさか。そいつだってかなり難しいぜ。どうやってスヴァルヒンにやらせるんだ? 説得するか? 頼み込むか? それとも脅して呪いを解かせるか? あいつがどこにいるのかさえわからねえんだ」
オクスは投げやりな言い方をした。
「とにかく俺たちには無理だ。ディングスタにでも頼みなよ」
ドラドも勝手なことを言って、知ったことかという顔をしている。ファントムは、プレトの世界に来たばかりの時に出会った岩人のズグや、座ったままの老婆のことを思い出した。
「いつか呪いを解いてやるさ」
ぽつりと呟いた。
「大丈夫かよ、そんなこと請け合って。できもしない約束なんかするもんじゃねえぞ」
オクスがたしなめたが、
「いや、できると信じれば必ずできる。ドワロン先生もジャバドゥ先生もそう言ってたじゃないか」
ファントムは自身ありげに断言した。
「まあ、先生に頼んでやっつけてもらってもいいか」
オクスはそう言って笑い出した。
「先生はそんなことしてくれないさ。殺す気ならとっくにやってるはずだ。あの人たちは滅多なことでは人を殺さない。だけど俺がいつか呪いを解かせてやる、必ず」
「おまえに似合わず、今日はいやに強気だな」
(必ずやると誓ったんだから……)
ファントムは口には出さず、心の中でそう言った。
「ところで、もう一つ教えてくれないか?」
ファントムはリリスの方を向いて言った。
「なあに?」
「アヴァンティナ団て知ってるか?」
「知ってるわよ」
リリスはまた笛を唇に当てた。
「きみのお姉さんと何か関係があるのか? きみのお姉さんにも訊いてみたんだけど、何も教えてくれなかった」
リリスはしばらく笛を吹き続けた。
「アヴァンティナ団の奴が言ってたんだが、親玉の名前は誰でも知ってるが、姿は誰も見たことがないって。もしかして、きみのお姉さんがタウのアヴァンティナ団の首領なんじゃないか?」
リリスはパタッと笛を吹くのをやめると、
「私には興味がないからよく知らないけど、たぶんあなたの言う通りよ。詳しく知りたければタウに戻って、バンコスとソレルとオドルに訊いてみるといいわ」
「そいつは何者なんだ、そのバンコスとソレルとオドルっていうのは?」
「お姉様の召使いよ。お姉様が命令したのかどうかは知らないけど、ある日バンコスとソレルとオドルがタウの町へ行き、そこでアヴァンティナ団を作ったのよ」
ドラドを除く三人はじっとリリスの話に聴き入っていたが、ドラドだけは眠そうな眼をして木の幹に凭れ掛かっていた。
「何の目的でそんなものを作らせたんだ?」
「私は知らないわ。お姉様が命令したとすれば、それはディングスタのためよ」
「ディングスタのため?」
「お姉様はディングスタを決して恨んではいないの。今でも愛してるのよ」
リリスは笛を吹きながらどこかへ行ってしまった。
「さあ、さっさとタウに戻って、石ころを金に換えてしまおうぜ」
ドラドは早々に立ち上がると、川縁の方へと歩き出した。
「もう一眠りしたいとこだけど、しょうがない、行くとするか」
オクスも麻袋と戦斧を持って立ち上がった。
昨日上陸した所まで来てみると、筏が五艘ほど岸に引き揚げられたままになっていた。
「筏が残ってるぜ。さあ、川をさっさと渡っちまおう」
四人が筏を川の中へと押し始めた時、不意に近くの草叢から六人の男が飛び出して来た。
「よお、待ちな!」
ファントムたちは振り返った。
「何だ、てめえらは?」
六人の冒険者の一人がニヤッと笑みを浮かべた。
「傷だらけになってまで俺たちのために宝を取って来るとは、全くご苦労なこった」
冒険者たちは大笑いした。
「てめえらのために取ってきたんじゃねえや。もちろん自分のためにだ」
ドラドは冒険者たちを睨んだ。
「さっさと賢者の石を出しなっ!」
冒険者六人はサッと武器を構えた。
「おい、後悔する前に警告しといてやろう。二つに一つだぜ。とっとと尻尾を巻いて消え失せるか、それともその不細工な面を叩き割られるか。さあ、どっちだ?」
オクスが怒鳴ると、
「うるせえ! 答はこれだっ!」
冒険者の一人が段平を振り上げてオクスに飛びかかった。しかしそれより早くオクスの戦斧が唸りを上げ、冒険者は頭を割られて地面に転がった。ドラドも素早く一人の喉元に短剣を当てて掻き切っていた。もう一人がわめき声を上げながらファントムに鎚矛で打ちかかっていったが、ファントムは左手でサッと剣を抜くや、冒険者の鎚矛が振り下ろされる前に、剣の腹を横っ面にしたたかに打ちつけていた。冒険者は血反吐を吐いて倒れると、地面にうずくまった。残りの三人は早くも怖じ気づき、武器を放り出して逃げて行く。
「待ちやがれ!」
オクスとドラドは弓に矢をつがえると、逃げる悪党どもの背中に狙いをつけた。
「やめろよ!」
ファントムが言ったが、オクスもドラドも聞かずに矢を放った。ビュンッ、ビュンッ、ビュンッと、立て続けに三回矢唸りがした。ドラドは得意の短弓で、間髪置かずに二本の矢を連続して放っていた。逃げようとしていた冒険者たちは矢を背中に受けてよろめき、たちまちバタバタと倒れた。オクスは、ファントムが剣で撲って地に這わせた冒険者の腹を蹴飛ばして、ごろりと仰向けに転がした。
「まだ生きてやがる」
「息の根を止めちまえよ」
ドラドがけしかけると、オクスは頷いて戦斧を振り上げた。冒険者は地に転がったまま命乞いをした。
「やめろ!」
ファントムは慌てて剣を放り出し、オクスの腕をつかんだ。
「邪魔すんなよ。俺は頭に来てんだ。こんな悪党は殺しちまうのが世のため人のためさ。こいつらみてえに楽して他人の手柄を横取りしようなんて奴らは、特に気に入らねえな」
「そうだ、オクスの言う通りだ。おまえは考えが甘すぎんだよ、ファントム。そんなことじゃあ、タウの町では生き残れねえぜ」
ドラドがそう言うと、
「じゃあ勝手にしろっ! もうおまえたちとは組まない!」
ファントムはプイッと横を向いて、そのままさっさと筏に麻袋と剣を載せると、一人で筏を川の中へと押し始めた。
「おいおい、どうする? 一人で行かせるのか?」
ムーンはおどおどしながらオクスとドラドの方を向いて言った。
「一人で帰れるもんか! 化け物に食われちまうぞっ!」
オクスがファントムの背中に向かって叫んだが、ファントムは知らん顔して筏を押し続けた。
「一人で帰すのはまずいから、とりあえず俺がついてくことにするよ」
ムーンは急いで麻袋を拾い上げ、ファントムと一緒に筏を押し始めた。
「ちぇっ、石はどうする気だよ?」
ドラドが言うと、ファントムは懐から三つの賢者の石を取り出し、ドラドの足元に叩きつけた。
「こんな物、くれてやるっ!」
そしてまたムーンと二人で筏をうんうんと押し始めた。ドラドは慌てて賢者の石を拾い上げた。
「おい、落ち着いて話し合おうじゃないか。こんなつまらないことで仲間割れするなんて良くないぜ」
オクスは少々不安になってきて言った。
「つまらないことだって? もう無用に殺すのはやめるって約束したじゃないか。それをすぐに忘れて、おまえはカッとなれば見境なく誰でも殺そうとするんだ。こんな弱い奴を殺して嬉しいか? 悪党と見れば誰だって殺して済まそうとするおまえこそ悪党じゃないのか! ラムンテ大僧正に何て言われた?」
ファントムとムーンは筏を川に浮かべると、櫂を漕ぎ始めた。
「待てよ!」
オクスとドラドは急いで岸を蹴って筏に飛び乗った。
「ごめん、ごめん、俺たちが悪かったよ」
しかしその時、ムーンが叫び声を上げた。
「また来たぞ、噛みつき魚だ!」
四人は筏に飛び乗ってきた噛みつき魚の群を慌てて叩き潰した。そうやって悪戦苦闘しながら何とか向こう岸へと辿り着いた。
その晩は湿原で野宿した。その日はとても疲れていたが、ここで怪物に眠っているところを襲われては元も子もないので、見張りは二人ずつ交代ですることにした。
「なあ、ドラド、デュラン商館の隊商護衛隊の隊長をしているドラディンガって知ってるか?」
オクスとムーンが眠ってから、ファントムは焚火に当たりながら、ふと思いついたように言った。
「知ってるさ」
ドラドは草を丸めてポイッと焚火の中に投げ込んだ。
「ドラディンガはおまえのことを知っているようだったぞ」
「そりゃそうだろう、俺の兄貴だったから」
「えっ、兄弟なのか!」
「昔はな」
「昔はって、今は違うのか?」
ドラドは黙って頷くと、また草を火の中に放り込んだ。
「どうして今は兄弟じゃないんだ?」
「もう縁を切ったからさ。おまえはあいつがアヴァンティナ団に加わってるってことは知ってるだろ?」
「知ってるよ」
「俺も昔はそうだった」
「抜けたのか?」
ドラドは頷いてみせた。
「若気の至りってやつかな、俺も兄貴も最初は復讐したいが一心で奴らの誘いに飛びついたのさ」
「復讐?」
「そうだ。俺たちの親父は人がいいだけの平々凡々なタウの職人だった。ところが知り合いの借金の訴訟に巻き込まれ、親父は裁判に連座させられ、あとは裁判所のお決まりの判決、棒叩き二十回ってやつだ。だけど元々頑丈な人間じゃなかったから、棒叩きに遭った三日後には死んじまった。
それでも借金の方はまだ片がついてなかった。店を始めるってんで、近所の者が共同で金を借りてやったんだが、その野郎が夜逃げしちまって、とうとう俺の妹二人は借金取りに無理やり連れて行かれ、奴隷商人に引き渡された。アヴァンティナ団てえのは、その頃はまだちっぽけなもんだったんだが、俺たちみてえに役人や金持ちからひどい目に遭わされた者たちの所にやって来て、復讐したいと思ってる奴らを誘うのさ」
ドラドの話を聴いていて、ファントムは思った――オクスといい、アジャンタといい、ムーンといい、ドラディンガとこのドラドの兄弟といい、タウの町に生まれ育った者は誰も似たような暗い過去を引きずっている。生い立ちを聴けば、必ずどこかで屈曲してきている。タウに来てまだいくらも経ってはいないというのに、幸福に育ってきた者に出会うのは稀で、何らかの翳のある者ばかりが自分の周りには多すぎる。カルディの一家もそうだった。カルディは短いその一生を、とうとう幸福に巡り会えずに終えてしまったが。つまりあの大都市は――タウの町は、まるで不幸な人間の坩堝だ。
「なぜなんだ?」
ファントムは思わず声に出した。
「えっ、何が?」
「なぜあの町には不幸な人間が多いんだ?」
「なぜって、世の中なんてそんなものさ。不幸な奴がいるから幸福な奴が生まれ、幸せにやってけるんだ。結局強い者の勝ちさ」
「そうだろうか?」
ファントムはドラドの言葉に納得しかね、むきになって言った。
「そうさ。生きるってことはな、その一握りの幸福な人間になるために、闘い続けるってことさ。人生は闘争なんだ」
「それはおかしい。理不尽だ!」
「おかしかないさ。いつの世も正直者は馬鹿を見る。ずる賢い奴が勝つことになってる。それがこの世の仕組みだ」
ドラドは焚火の中に棒の先を突っ込んで、燃え残りを掻き混ぜた。
「だから泥棒をやってるってわけか?」
「俺はドラディンガほど間抜けでもない。アヴァンティナ団なんて、結局権力者に利用されているだけだ。いくら言っても、ドラディンガにはそのことがわからなかった。兄貴はとにかく親父を引っ立てて行った衛兵と、棒叩きの刑を言い渡した裁判官が憎い。タウの衛兵の恰好をしてれば誰でも、判事の黒衣を着てれば誰でもだ。
だけど俺はそうじゃない。最初はあいつと同じ気持ちで衛兵どもを襲撃していたが、俺はそのうち、自分が思い違いをしているって気がついたんだ。いくら衛兵や裁判官を殺したって、俺たちみたいに不幸な一家の数は増えこそすれ、減りはしなかった。奴らはただ単にタウの政庁に雇われて、上から言われた通りにやってるだけなんだ。餌欲しさに主人の命令に従うただの犬ころどもだ。
あいつらは自分の信念に従って行動してるわけじゃない。いや、信念なんか持っちゃいねえ。そんな犬ころを殺したところで、政庁はまた新しく野良犬を拾ってくる、自分たちの代わりに汚い仕事をしてくれる犬ころをな。餌を与えてくれるなら、弱い者苛めも喜んでやろうという野良犬はごまんといるんだ。つまりそんな政府の番犬を蹴殺したところで、タウの平民の数が減るに過ぎないのさ」
ドラドは手元の草を引きちぎって丸め、火の中へ力いっぱい投げ込んだ。
「そりゃそうだ。おまえの言う通りだ。間違った社会の仕組みと、自分のためだけにその仕組みをかたくなに守り通そうとする統治者が悪いんだろう」
「そういうことさ。だけど俺に何ができる? この手で仕組みを変えることができるか? 俺は兄貴と激しく言い合った末、とうとう喧嘩別れした。結局俺一人でできることというのはこれさ、富を独占している者から奪い、貧しい者へ分配する。ある所からない所へと移す。もっとも俺一人の力じゃたかが知れてるだろうけど。だが……、まあ見てなよ、アルガエオスからもふんだくってやるから」
ファントムはしばらく考え込んだ。確かにドラドは彼なりに信念を持って盗みをやっているようだ。その手段は良くないかもしれないが、何もできない自分がそのことを批判できるものではない。自分にだってわかっている、この世の仕組みが何か根本から間違っているのだということが。だが、間違っているのは体制だけなんだろうか? 上から与えられるのを待っているばかりで、それで本当に良いのだろうか?
「他にもっといい手段はないんだろうか?」
「知らねえな。俺のやり方はこうだ――毒には毒を」
しかしそれでは悪循環じゃないだろうか? それではいつまで経っても間違った仕組みは良くならないのでは? ファントムはドラドの考えを認めながらも、もう一つしっくりと来なかった。それでは悪い奴らのために、自分まで悪くなってしまうだけだ。
「でも悪党からとはいえ、盗めばおまえも同じ悪党だぞ」
ドラドは怒りもせず、フッと笑った。
「ふん、悪党で結構さ。いつまでも綺麗事言ってじっとしてたって始まらねえんだ。これだけははっきりしている――何もしなければ決して良くはならない、どんどん悪くなっていく。俺は俺の頭で思いつくことを、思いついたらすぐに行動に移すまでだ。
自分自身で俺のやり方を批評するなら、俺のやり方は凄く消極的だ、平和的だ。だけどほんの少しでもタウの極悪人どもに嫌がらせができる。奴らはどんな正論を聞かされようが、どんなに庶民から非難されようが、少しも腹に応えはしねえ。ところがたったの金貨一枚盗まれようものなら、金壺をがんがん叩いて、死ぬほど悔しがりながらわめき散らすだろうよ。何しろ命の次に大切にしている物を奪われたんだからな。
アヴァンティナ団は積極的で、暴力的だ。世の中を変えるということに関してだけ言えばな。だけどあいつらの変革は、余計な犠牲を必要としすぎるのさ。おまえはそんな荒療治の方が素晴らしいと思うのか?」
ファントムにはドラドの言うことが一々もっともだと思えた。すっかり彼のことを見直した。
四人はタウへの帰り途でも獣や怪物に襲われ、散々な目に遭ってようやくタウの町へと戻って来ることができた。ところがタウの西門ももうすくだという所までやって来た時、
「おい、嫌な奴らが待ち伏せしてるぞ」
ムーンが門前の方を見て言った。
「誰だい、嫌な奴って?」
「キューラにゾーラだ」
見ると、紫のマントを身にまとった女が二人、じっと佇んでこちらを見ている。
「あいつら今まで何してたんだろう?」
「ははあ、結局こういうことか。あいつらには宝を探す気なんて最初からなかったんだ。あそこでずっと待っていて、賢者の石を横取りする気でいるに違いない」
ムーンはさも忌々しそうに地団太踏んだ。
「知らん顔して通り過ぎりゃあいいじゃねえか」
オクスが言うと、
「あいつらはそんなに甘くはないぞ。悪知恵だけは誰よりも働くんだから」
「じゃあ、北門へ回るってのはどうだ?」
「駄目だ。もうこっちに気づいてる」
「心配すんなって。魔女の一人や二人、屁とも思わねえや」
ドラドは平然として進んで行く。
「おい、ドラド、何があってもお宝だけは渡すんじゃないぞ。ここでそれを奪われたら、俺たち三人には借金だけが残るんだからな」
ムーンが心配して言うと、
「俺様に任せときなって」
やがて門の前まで来ると、案の定、キューラ姉妹が四人を呼び止めた。
「おまえたち、何も言わずに持ってる物を出しな」
「え? もしかして、そいつは俺たちに言ってんのか?」
オクスは空とぼけてみせた。
「あんたたちの他に誰がいるってのさ。何かいい物を持って帰って来ただろう? そいつをさっさと出すんだよ!」
「何かいい物じゃわかんねえな。一体何のことだ?」
「とぼけるんじゃないよ! あんたたちがナーガの塔から戻って来たってことはわかってるんだ。さっさと賢者の石をこっちに渡すんだよ、さもないと痛い目を見るよ!」
キューラ姉妹は手にした鞭で地面をピシリと打った。
「この尼ぁ! 女だと思って大目に見てりゃ、とことんつけ上がりやがって!」
オクスは戦斧をキューラ目がけて振り下ろした。キューラは素早く跳び退がると、体がそのまま宙に浮かんだ。
「しゃらくせえ真似しやがる。雌猫め!」
オクスは猛烈な勢いで斧を振り回したが、キューラとゾーラの体はそのまま高々と浮かび上がってしまった。
「ちぇっ、降りて来やがれ、あばすれめ! 降りて来ない気なら、嫌でも降ろしてやる」
そう言うと、オクスはサッと弓を執り、矢をつがえて、宙に浮かんでいるキューラに狙いをつけた。ところがたちまちキューラの体がいくつにも分かれた。
「あっはっはっ、そんなおもちゃであたいとやる気かい? 当たるもんなら当ててみな」
そう言うや、空中にキューラの分身が十ほど現れた。
「それならみんなまとめて射落としてやるぜ!」
オクスは次々に矢を執っては、片っ端からキューラの分身を射まくった。しかし矢はどれもこれもキューラの幻の体を通り抜けてしまう。
「あっははは、矢はそれでおしまいかい? それじゃあ今度はこっちから行くよ!」
キューラは口の中で何やら唱え始めた。
「やばい、呪文を使ってくるぞ。逃げろ!」
ムーンが慌てて走り出した。と、逃げ出す暇もなく、キューラが粉と何かの鉄片を振りまくと、たちまちシュッシュッと音がして、空中を刃物が飛び回った。オクスとファントムとドラドの三人は、慌てて得物で刃を弾き返した。ムーンは咄嗟に地面に伏せた。たくさんの刃がしばらくの間、四人の周りをビュンビュン飛び回った。
「やばいぜ、こりゃ。逃げるが勝ちだ!」
ドラドが叫ぶと同時に、四人は一目散に西へ向かって走り出した。
「おっと、逃がさないよ!」
今度は妹のゾーラの方が呪文を唱えると、サッと鉄片をまいた。途端に四人の目の前に太い鉄格子が聳え立った。左右にも後ろにも知らぬ間に鉄格子が立っていて、見上げると、それが天高くどこまでも伸びている。四人は檻の中に閉じ込められてしまった。
ムーンは持ち物の中からこっそり聖なる鈴を取り出し、
「今に見てろ、口がきけなくしてやる」
そう言うと、呪文を唱え始めた。キューラ姉妹に騒擾沈黙の呪文を掛けて黙らせようとしたのだが、キューラは素早くそれを見て取り、蝋燭を手にしてムーンよりも先に呪文を唱え終えてしまった。途端に地鳴りが聞こえ始め、地面には地割れが起こった。
「うわあー!」
四人は慌てて跳びすさり、地割れを避けようとしたが、地が激しく揺れ始め、とても立ってはいられなくなった。と、次には地面の裂け目から大きな火柱が湧き立った。四人は這ったまま逃げ惑う。
「こいつは夢幻影像の術だ。みんな幻なんだぞ!」
ムーンは必死になって叫んだ。
「ふん、知ったふうな口きくじゃないか。それならこれではどうだい!」
キューラは妖精の蝋燭から立ち昇る紫の炎を通して四人を睨み据えた。すると今度は地面からにょきにょきと木が生えてきた。木はくねくねと曲がりながら四人の体にからみついてきた。いくらもがいても全く抜け出すことができない。
「畜生! 放しやがれ、化け物!」
オクスはさんざんわめきながら暴れたが、暴れれば暴れるほど手足がきつく締めつけられてくるようだ。と、次には目の前で上がっていた火柱が、炎に包まれた巨人へと姿を変えた。
「うわあー、助けてくれぇー!」
ムーンが悲鳴を上げた。炎の巨人はわっはっはっと天にも届く馬鹿でかい笑い声を上げたかと思うと、大きく息を吸い込んで吐き出した。それが猛烈な火炎となって四人の頭の上に降って来た。
やられた、と思ったが、ふと目を開けると、今まで見てきた物は何一つなかった。四人は仰向けになって地べたに転がっているだけだった。
「何だい、人をからかうのもいい加減にしろってんだ!」
オクスは怒り心頭に発し、再び戦斧を拾い上げると、キューラ姉妹にかかって行こうとした。ところがまたもやゾーラが呪文を唱えると、今度は四人の周囲がいきなり真っ暗闇になってしまった。全く何も見えない。
「畜生、ぶっ殺してやるっ!」
オクスは斧を盲滅法に振り回した。
「危ない、やめろ!」
近くでファントムの叫ぶ声がしたので、オクスはビクッとして斧を振る手を止めた。
「あっははは、愉快、愉快」
暗闇にキューラとゾーラの笑い声が響く。どこにいるんだろうと、四人は暗闇の中で耳を澄ましてみたが、そうしていると、いきなり得体の知れない物に上から押し潰された。
「げっ!」
何だかわからないが、四人はとてつもなく重い物に上から押さえつけられ、地面に這いつくばった。苦しくて息ができない。気を失いそうになった時、キューラが何やらまた呪文を唱えた。急に体がふわーっと軽くなる。
「さあ、お立ち、四人のかわいい坊やたち。これからあたいの言うことを聴くんだよ」
そう言われると、四人はなぜだかわからないがスーッと立ち上がってしまった。
「駄目だ。こいつは絶対に渡さねえぞ!」
ドラドはそう言うや、懐に手を突っ込んで三つの石を握り締めた。キューラはそれを見てニヤッとすると、
「さあ、いい子だから、その石を三つともこっちに渡すのよ」
ドラドは抗うこともできず、キューラに言われるがままに懐から手を出し、石を三つともキューラの前に差し出してしまった。
「そう、おりこうさんね」
キューラはドラドが両手で握り締めている掌を開かせ、石を取り上げてしまった。
「馬鹿! 渡すんじゃねえ!」
「ドラド、しっかりするんだ!」
他の三人は口々に叫んでドラドを止めようとしたが、何せ体が言うことを聞かず、どうすることもできない。
「あなたたちはお黙りなさい」
そう言われると、三人とも全く口がきけなくなってしまった。
「それじゃあ最後は、みんなでワンちゃんの真似をして遊びましょうね。ほら、鳴いてごらんなさい」
どうしたことか、四人はキューラの言うなりになって、たちまち四つん這いになると、口々にワンワン吠え始めた。
「ママはこれからお勤めに行って来るから、みんなしばらくいい子にして、お犬さんごっこで遊んでるのよ」
キューラ姉妹は三つの石を手に入れると、犬になったつもりでワンワン吠えている四人をあとにして、町の門の中へとさっさと姿を消してしまった。
四人はしばらくの間、町の門前で四つん這いになって吠え続けていたが、ようやくのことで呪文が解ける。門番が外に出て来て、そんな四人を見てゲラゲラ笑っていた。
「ワンワン、ワンワン」
「いつまでやってんだよ、バーカ」
まだ四つん這いになって吠えているドラドに向かってオクスが言った。それを聞いてドラドも吠えるのをやめた。
「畜生、意地汚い魔女どもにまんまとお宝を横取りされちまったぜ」
「死ぬような思いまでしてここまでやっと帰って来れたっていうのに、あと一歩のところで……、クソッ!」
ムーンは歯ぎしりしながら悔し涙さえ浮かべている。キューラ姉妹に魔法で負けたから、他の三人よりも悔しいようだ。
ファントムとオクスとムーンが肩を落として座り込んでいると、
「ヘッヘッヘッヘッ」
ドラドが急に笑い始めた。
「おまえ、気が変になっちまったんじゃねえのか?」
オクスはドラドの額に手をやった。
「よせやい、俺は正気だぜ」
ドラドはオクスの手を払いのけると、自分の股間に手を突っ込んだ。他の三人は呆れてそんなドラドを見ている。
「こいつ、ほんとにイカれちまったみたいだ」
ドラドはニッと笑って、股間に突っ込んだ手をサッと抜いた。その手には革袋が握り締められていた。
「俺はな――」
そう言って三人の方に向き直った。
「出発前にあの雌猫どもがうろついてるのを見かけた時から、どうせこういうことになるもんだとあらかじめ読んでたのさ」
そう言って革袋の紐をほどくと、中から賢者の石が三つ出て来た。
「あっ、これは!」
「奴らが持ってったのは真っ赤な贋物よ。帰り途で同じ大きさの石ころを拾い、こいつを真似て適当に模様を塗りたくっておいたのさ。あいつらはアルガエオスに石を見せるまでは、あれが贋物だってことには気がつかねえさ」
「へーえ、なかなかやるじゃねえか」
三人ともすっかりドラドに感心した。
「まあな。おまえたちトウシロとはちっとばかし違わあ。キューラが催眠術を使ってきたんで、やばいと思ってさっさと贋物の方をつかんだんだ。間抜けなキューラは、俺が握り締めてる方を奪い取って、ちっとも疑わなかったってわけだ。さあ、こいつをアルガエオスの所へ持って行って、金に換えようぜ」
三人はしきりに感心したが、ファントムはふと心配になって、
「だけど、アルガエオスの所であれが贋物だってわかったら、キューラとゾーラはまた俺たちを狙ってくるんじゃないか?」
「そうだとも。とにかくキューラ姉妹の呪文はとてつもなく素早いぞ」
ムーンも心配して言ったが、
「大丈夫さ。この次はこっちが待ち伏せして、奴らに呪文を唱える隙を与えなきゃいいんだ。いいか――」
ドラドは三人の耳を集めてひそひそと何事か囁いた。
「よし」
三人は承知して頷いた。
「今日という今日こそ、あのあばずれどもにこの俺様が引導を渡してやる」
ドラドはニヤッと笑って立ち上がった。
町の西門を入った所に墓地がある。ドラドは先頭に立って墓地の中へと入って行った。墓場には人っ子一人いなく、西陽が射して、墓石の影を長々と地面に投じていた。ドラドは他の三人に何事か言い含め、ファントムに賢者の石三つを手渡すと、近くにあるタウの富豪のものであろう大きな霊廟の所まで歩いて行き、パッと跳び上がって霊廟の屋根の縁をつかむと、いとも簡単に屋根の上に上がってしまった。屋根の中央には小さな尖塔が立っている。ドラドはその尖塔をするするとよじ登り、そこからしばらく遠くを眺めていた。
しばらくしてキューラ姉妹がこちらに向かってやって来るのを認めると、尖塔の上から三人に合図を送り、また屋根の上まで下りて来て、そこで尖塔の陰に身を隠した。オクスは墓石の裏に隠れ、弓を執って矢をつがえた。ファントムとムーンがやにわに言い争いを始めた。
「こいつは元々俺が言い出したんだから、俺の取り分は七百だ」
「七百とはひどいじゃないか! どこまで意地汚い奴だ。最初の約束はおまえが五百五十、俺が四百五十だったはずだぞ!」
二人は墓地の外まで聞こえるように、大声でわめき始めた。
「そんな約束した覚えはない! だいたいあの二人を始末したのはこの俺だ。おまえにあいつらが殺れたとでも言うのか? あいつらが生きていたら、山分けにしても二百五十ずつだ。じゃあ、三百でもありがたいと思え!」
「何を! 身勝手な理屈をつけやがって、がめつい奴め、自分は七百も取っといて!」
ファントムとムーンのやり取りを聞きつけ、キューラ姉妹はまなじりを吊り上げて墓地の中へと入って来た。
「おまえたち、よくも騙してくれたわね! 贋の石なんかつかませてくれて! キューラとゾーラを見くびるんじゃないよ! 今度はさっきみたいに優しくなんかしてやるもんか。キューラ姉妹の本当の恐ろしさを思い知らせてやる!」
ファントムとムーンはギョッとして後ずさりした。
「さあ、本物の石を寄越しな! それともこの墓場で眠りたいってのかい?」
「わ、わかった。降参だ。命ばかりは……」
そう言うと、ファントムはキューラに賢者の石を手渡した。キューラはそれを手にすると、一瞬ニヤッと笑った。その時だった、同時に二つの矢唸りがしたかと思うと、その瞬間にキューラとゾーラの眉間にそれぞれ矢が突き立っていた。キューラとゾーラは白眼を剥いて仰向けにぶっ倒れた。オクスとドラドが近づいて来る。
「二人ともなかなかの名演技だったぜ。あれなら劇場へ行って役者になっても充分やってける」
オクスが冗談を言って笑った。
「もう死んでるぞ。魔法を使わなければただの女か」
ファントムはキューラとゾーラの喉元に触って息をしていないことを確かめると、賢者の石を死体から取り返した。
「ふん、悪行の報いだ。これがタウ一の魔女の姉妹か。キューラにゾーラよ、あまりにも呆気ない最期だったな。おまえたち二人にはお似合いだぜ」
ドラドはキューラとゾーラの死体に向かって吐き捨てるように言った。
四人は墓地にキューラ姉妹のむくろを打ち捨てたまま、アルガエオス邸目指して街を歩いて行った。アルガエオスの邸に着いた頃には、日がとっぷりと暮れてしまっていた。
「さあ、これで金貨千枚が手に入るぞ。苦労したかいがあったっていうもんだ」
オクスが嬉しそうに言うと、ドラドが、
「そうだとも。せっかく苦労してこいつを手に入れたんだ。正直に金貨千枚をもらって帰るって手はないぜ。俺がこいつを金貨二千枚の値打ちにしてやろうじゃねえか」
そう言うと、ファントムの手から石を一つ取り上げた。
「どうする気だ?」
三人はドラドに注目した。
「おまえたち三人で、まずその石二つを持ってアルガエオスと取引して来い」
「約束は三つで金貨千枚だったはずだぞ」
「なに、アルガエオスは大富豪だ。おまえたちは金貨千枚でないとその二つの石を渡さないって言い張ればいい。そうすればやっこさん、いつかは必ず千枚出すって言い出すに決まってる」
「よし、わかった。俺に任せろ」
オクスはファントムから二つの石を引ったくり、アルガエオス邸へと入って行った。
邸に入ってアルガエオスに賢者の石を見せると、アルガエオスは三人を、邸内にある妙な建物の中へと伴って行った。扉を開けると、中では数十本もの蝋燭に灯が煌々と燈っていて、三人には何だかわけがわからない錬金術の器具が所狭しと並んでいた。
アルガエオスは受け取った賢者の石を明るい所へ持って行き、それを光に照らして虫眼鏡で子細に検分しながら、分厚い書物を開いて、そこに記された言葉としばらく見比べていた。やがて顔を上げると、
「間違いない。第一の石と第三の石だ。ところで、第二の石はどうなったのだ? 発見できなかったのか?」
「ナーガの塔にはそれだけしかなかった。石は二つだけだ」
オクスが答えると、
「では仕方がない。賞金は金貨六百枚ということにさせてもらうぞ」
アルガエオスは二つの賢者の石を机の上に載せた。たちまちオクスは口を尖らせた。
「冗談じゃねえ、約束は金貨千枚だ。俺たちにとっちゃあ、二つ持ち帰るも三つ持ち帰るも、同じ危険を冒して石を取って来たことには変わりねえんだ」
「しかし、前もって断っておいたはずだ、三つとも持ち帰った場合に限り、金貨千枚の賞金を与えると」
アルガエオスはオクスの言い分を聞き入れようとはしない。
「ああ、そうかよ。それじゃあ石は返してもらうぜ。そいつはまだあんたのもんじゃねえ。なに、他の錬金術師に当たって、金貨千枚で買い取ってもらうまでさ」
「ああ、待て待て!」
オクスが石をつかんでさっさと扉の外へ出て行こうとするのを見て、アルガエオスは大いに慌てた。
「では七百ではどうだ?」
「…………」
「八百?」
「俺は約束を守らねえ野郎がだいっきれえなんだ」
「わかった、わかった、負けたよ。約束通り千枚出そう」
アルガエオスは召使いを呼んで宝箱を運んで来させた。
「ほら、千枚だ。確かめろ」
アルガエオスは宝箱の鍵を開け、三人に中の金貨を見せた。オクスはその中に手を突っ込んで掻き混ぜると、そのあとすぐに蓋をした。
「数えることもねえ。あんたを信用するよ。何しろ大金持ちだ」
そう言って二つの石をアルガエオスに渡すと、三人で宝箱を持って外へ出て行った。
三人が箱を持って出て来て、上手く金貨千枚せしめたのを見て取ると、今度は入れ替わりにドラドが残りの石を持って邸の中へ入って行った。
「賢者の石を持ち帰ったぜ」
ドラドが告げると、アルガエオスは怪訝そうな顔で、
「何? つい今し方、他の者が賢者の石をここに持って来たところだぞ」
「まあ、調べてくれよ」
アルガエオスは、ドラドが一つしか石を持っていないのを見て取ると、それを持って再び錬金場へと入って行った。また同じように書物と照合し、本物であることを確認する。
「確かに第二の石だが、たった一つでは役に立たん」
「一つしかなかったんだ」
「まあ、金貨百五十枚で買い取ってやっても良いが」
「なんだ、錬金術師ともあろう者が、金をケチるつもりかよ。お宅、ほんとは似非錬金術師じゃねえの?」
ドラドの言いぐさに、アルガエオスは少々むっとした表情になった。
「俺は金貨千枚くれるって言うから、わざわざトネクトサス沼くんだりまで行ってやったんだ。最初っから百五十枚しか出ないってわかってたら、誰があんな所まで行くもんか。ちぇっ、はした金じゃねえかよ。タウの大錬金術師アルガエオスが聞いて呆れるぜ。聞くと見るとじゃ大違い、結局名ばかりだったってわけか。期待した俺が馬鹿を見た」
ドラドは石を持ってさっさと出て行こうとする。
「そうまで言われて引っ込んでいられるものか。良かろう、たかが金貨の千枚くらいくれてやる」
アルガエオスは召使いに命じ、金貨千枚を宝箱に入れて持って来させた。ドラドは中身を確かめると、嬉しそうな表情一つ見せず、それを持ってとっとと邸から出て行った。
「やったな。巧く行った! さすがに大泥棒だ。銭のことに関しては全く抜け目ないぜ」
オクスは二千枚の金貨を目の前にして大はしゃぎした。
「へっ、錬金術師のくせして金をケチるのかって言ってやったら、やっこさん、腹を立ててすんなり出しやがった。全く他愛もない」
「そりゃそうだ。金を作ってる錬金術師にとっちゃ、金貨なんていくらでも払えるはずだ。何なら、一万枚ぐらいふんだくってやっても良かったなあ」
オクスは幾分惜しそうな表情をした。
「なあに、実際のところ、アルガエオスには金なんか作れやしない。錬金術師ってのは騙りだ。賢者の石だろうが何だろうが、豚に真珠さ。あいつがあんなことやってんのは、下手の横好きって言うか、金持ちの贅沢趣味に過ぎないのさ」
そう言ってドラドはけけっと笑った。
「でも、騙し取ったみたいで後ろめたいな」
ファントムはあまり嬉しそうな顔をしない。
「ほら、また始まりやがった。俺たちはまさに騙し取ったのさ。金持ちからふんだくるのは素晴らしいことだ。これからはおまえもそういうふうに考えるこった」
その言いぐさを聞くと、ファントムには、オクスがドラドに毒されてきたんじゃないだろうかと思えてきた。
「騙し取ったんじゃねえ。相手と真っ当に掛け合っての上だ」
ドラドは不機嫌になった。
「どっちでもいい。稼ぎを分けるとするか」
オクスは金貨を数え始めた。
「俺は要らないよ」
突然ファントムが言い出した。
「貧しい人に分けてやるんだろ? だったら俺の分はみんなドラドに譲るよ」
他の三人はきょとんとしてしまう。
「勘違いするなよ。いいかい、分けてやるにしても、俺はそれなりに働いたわけだ。だから自分の分はちゃあんと差し引く。いつだってそうしてるぜ」
ドラドが言うと、
「そうさ。それに借金はどうするんだよ?」
ムーンも言う。
「じゃあ、借金の分だけ残しといてくれ。あとは要らない」
オクスは何度も頷いていたが、
「まあまあ、そう言うなって。今月の家賃も払わなきゃならないんだ。よし、こうしよう――ドラドが貧乏人にくれてやるのは立派なことだ。だから俺たちは二千枚のうちから一人百枚ずつ頂くことにする。百枚で上等だ。それから、この冒険にはかなりの金がかかっていて、借金を返さなきゃならねえ所もいくつかあるから、他に百枚を経費として差し引く、一人二十五枚ずつだ。残りの千五百枚はドラドに任せる。これでどうだい?」
「よし、そういうことで決まりだ」
三人は百二十五枚ずつ箱から取ったが、ファントムは頑として取ろうとしない。
「いつまで意地張ってんだい。まだまだ重すぎて困る。頼むから百二十五枚ここから抜いてくれ!」
「まあ、同じとこに住んでるから、こいつの分は俺が預かっとくことにするよ」
オクスはそう言って、更に箱の中からファントムの分の百二十五枚を取った。
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