20.賢 者 の 石



 ロカスタの一小村に留まっていたファントムもようやく高熱が下がり、何とか動けるようになった。オクスと二人でタウ目指して帰路につく。タンメンテ、オーヴァールと過ぎ、スヴァンゲル川を越えてジンバジョー平原に入った。サラワンに向けて草原の道を行くと、やがて街道沿いの畑で何をするともなく屯していた農夫たちが、大勢で二人のそばに寄って来た。
「サラワンへは行かない方がいいぞ」
「なぜだ? 俺たちはタウに帰るんだ」
「だったらここから街道を逸れて、沼沿いにタウへ出た方がいい。今サラワンはピグニアに攻められているからな」
 ファントムとオクスは顔を見合わせた。結局街道を逸れ、農夫たちの勧めた通りに進路を取ることにした。
「あの百姓たち、変だとは思わないか? 畑ですることもないのに、手に手に鎌や鋤なんか持って、怪しいな」
「あいつらはきっとアヴァンティナだろう。オーヴァールとエトヴィクの間を分断してるんだ。言ってた通りだ」
「しかしもう攻めてるのか。速いな」
 二人は野や畑の中を歩いて進路をほぼ真南に取り、サラワンとタウを結ぶ街道に出ようと考えた。街道を逸れて二日目にはトネクトサス沼に出くわした。
「この方が早くタウに着けそうだ。しかし歩きにくいには違いないや。おまけにここからは沼だしな」
「早く沼地から出てしまおう。何か出て来そうだからな」
 二人は夜通し歩き続け、翌日には何とか街道に出て、その次の日の夜にようやくタウへと帰って来た。しかし町の門が固く閉ざされていて中に入れない。仕方なく苦心して防壁を乗り越えることにした。
「全くしょうがねえ門番だ。さっさと門を閉めやがって。お蔭でこんな真似しなきゃならねえ」
「きっとピグニアとエトヴィクの戦争を知って恐れてるんだろう」
 翌日、二人は疲れて午まで寝ていた。おもむろに起き出してエローラの店へ行く。
「ずいぶん帰りが遅かったわねえ。あなたたちが死んじゃったんじゃないかって心配してたのよ」
 エローラが低い声で言った。アジャンタは黙ってはいるが、それでもやはり嬉しそうだ。しばらくするとヴィットーリオがやって来た。
「やあ、非常に珍しい人たちが来てるじゃないか」
 ヴィットーリオは二人のテーブルまで来て座った。
「ところでこれだ」
 ヴィットーリオは預かっていたプレトの護符を懐から取り出した。
「ああ、俺のだ。返してもらうぜ」
 オクスが手を伸ばすと、
「ちょっと待った。まず解読の結果を知らせよう」
 ヴィットーリオはオクスが伸ばした手を払いのけた。
「解けたのか?」
 ファントムは興味を示して訊いた。
「少しだけ。まず、ここに刻まれているのは太古文字だ。美術館にある同じ文字の刻まれた古代の遺物と照らし合わせ、いくつか共通点を見つけ出し、ほんの少しだけわかった」
「何て書いてあったんだ?」
 ファントムもオクスも身を乗り出した。
「まず『神』という言葉。次に『世界』。それから『悪魔』。そして『終わる』。それから最後に、『終わりのあと』。これだけしかわからなかった」
「さっぱりわからないぞ」
「これでもよく解けた方なんだぞ。古代の壁画に神話を描いた物があり、それからこれらの言葉が解読できるんだ。しかし残りはさっぱりわからない」
 ヴィットーリオは護符をオクスに返した。
「それじゃ何にも役に立たないな」
「仕方がない。六千年以上前に使われていた死語だからな」
「六千年も前!」
「以上前だ」
「そんなものわかったってしょうがねえさ」
 オクスは護符を懐に押し込んだ。
「とにかくそれを写してライネル博士の研究機関に回しといたから、あと少しは解読できるかもしれないな」
「期待しないで待つよ」
「それよりもう一つ嬉しい報せがあるんだ。ガブリエルの書の写しが手に入ったぞ。完全版だ」
「そりゃ凄い! すぐ見せてくれ」
 ファントムはとても喜んだ。
「ああ、いいとも。僕が写しのまた写しを作っといたから、夜にでも来るといいさ」
「じゃあ今夜行くよ。その前にしなくちゃならないことがあるから。そろそろ行こうか」
「何をするんだ?」
「ちょっとね」
 ファントムとオクスは立ち上がると、パンを齧りながら店を出て行った。
 それからシーファーの所まで行って店を覗くと、シーファーが椅子に掛けてぼうっとしていた。
「おやまあ、ファントム様にオクス様! お二人ともご無事で……」
「何大袈裟なこと言ってんだ」
「お帰りがあまりにも遅いので、これはひょっとすると途中で賊に襲われ、お命を落とされたのではと思い、はて、代わりの剣士をどうしたものかと思案していたところでございますよ」
「ちぇっ、勝手に人を殺すなよ。だけど本当にアヴァンティナに殺されそうになったぞ」
 ファントムもオクスも怖い顔をしてシーファーの前に腰を下ろした。
「それはまたとんだ災難でございましたな」
「とんだ災難もいいところだ。デュラン商館ってえのはアヴァンティナ団だったぜ」
「なんと! そのようなこと、私めは存じませんでしたよ」
「またこれだ。無責任にもほどがある。お蔭で帰りの手間賃をもらい損ねたぞ。どうしてくれるんだ?」
 二人してシーファーに食ってかかると、
「ま、ま、落ち着いて。私めは本当に存じ上げません」
「まっ、今日だけは許してやろう。それより一緒に行ったカルディというのがいたろ?」
「おりましたな。カルディ様がどうかなさいましたか?」
「死んだ。副隊長のハンメルという奴に殺されたんだ」
「な、なんと、おいたわしいことで」
 シーファーは表面だけでも取り繕ってみせた。
「おまえの言い方は一々気に障るな」
「そうでしょうか? なぜでしょう?」
 シーファーは空とぼけた。
「そのカルディの家を教えてくれ。これから知らせに行ってやろうと思うんだ」
「なーるほど。ちょっとお待ちを」
 シーファーは剣士の登録名簿を取り出して調べ始めた。
「あの方はあなた方よりあとで登録された方でございますから、まだ私の方も覚えていないのですよ」
 シーファーはぶつぶつ言いながら帳面を繰っては、視線を素早く走らせた。
「ございました。お住まいは、ええと、海岸通りをグラシア橋の方へ向かって行き、橋の手前の路地をマリンバ通りの方に向かって入って行った左側の四軒目でございます」
「だったらデュラン商館の近くだな」
「左様でございます」
 二人はシーファーの周旋所を出ると、五番街から海岸通りへ出て、やがて言われた路地へ入った。路地裏では痩せた子供たちが遊んでいる。痩せた老人が地べたに座り込んでいる。いかにもタウの貧民街といった所だ。言われた家の前まで来ると、二人は立ち止まった。汚れた壁に付けられた木戸が開いていて、薄暗い家の中が覗けた。中で怒鳴り声がしている。やがて子供の泣き声がしたかと思うと、柄の悪そうな男が小さな女の子を小脇に抱えて飛び出して来た。
 二人が呆気に取られて見ていると、男は女の子を抱えたままどこかへ消えて行ってしまった。子供の泣き声と女の啜り泣きの声だけが残った。オクスが家の中へ声をかけた。
「カルディの家はここかい?」
 しばらくは泣き声だけで返事がない。
「さっきの男は何だろう?」
 ファントムがオクスにそっと囁くと、
「借金取りじゃねえか。借金の形に娘を連れてったんだろ、きっと」
「まずい時に来てしまったな。出直そうか」
「どうせ知らせなきゃなんないんだぜ」
 オクスは土間に両手をついて泣いている女の方を向いた。
「カルディは死んだぜ」
 痩せやつれた女はハッとして顔を上げた。
「なんで?」
「盗賊と勇敢に闘って死んだんだ」
 思わずファントムが言った。金鉱石を盗んで処罰されたとはどうしても言えなかった。
「だから隊商なんて危ないことはあれほどやめとけって言ったのに! これからどうやって食ってくって言うのさ」
 女は土間の土をかきむしって一層泣きわめいた。
「これを……」
 ファントムとオクスは手持ちの金を出し合って女に渡した。二人が使い残していたかなりの額の金貨だ。女は握らされた金をしばらく見ていたが、いきなりそれを土間に叩きつけた。金が音を立てて飛び散る。
「よしとくれ! 憐れみはごめんだよ。なんであんたら息子を助けてくれなかったのさ? なんで盗賊と闘ってあの子だけ死んで、あんたらは生き残ったのさ?」
 怨み言を言うと、女は土間に突っ伏してわんわん泣き叫んだ。二人にはどうしようもなくて、そのままカルディの家をあとにした。

「逆恨みもいいとこだ。こいつがどれだけあの野郎に良くしてやったか知らねえくせに。本当にこれでいいのか? てめえの息子が本当は何をして殺されたか言ってやろうか」
 帰り途でオクスはしだいに腹が立ってきて、一人大声でわめいた。
「おい、そんなこと言うなよ。本当のことを言っちゃおしまいだ。益々悲しませるだけだぞ。俺には家族がないけど、カルディの母親の気持ちはわかるよ。世の中には不幸な人が多いんだなあ」
 オクスはまだカッカしている様子だったが、ファントムの言葉を聞くと、カルディの一家と同じような境遇であるに違いない自分の家族のことでも思い出したのだろうか、突然黙り込んだ。二人は再びシーファーの所へ引き返して行った。
「またおいでですか?」
 シーファーはニヤニヤしている。
「また文なしになってしまったよ。何かいい仕事はないかなあ?」
「あいにくと只今はどこも景気が悪うございまして、人足仕事ぐらいしかございませんが、それでもよろしゅうございますか?」
 二人はしばらく考え込んだが、
「しょうがない。金がねえんだから始まらない。この際贅沢なんか言ってられねえや。人足でも何でもいいさ」
「それに致しましても、あれだけお稼ぎになったお金をもう使い果たしてしまわれたのでございますか?」
 二人とも頭を掻きながら、
「実は、ゆうべ下宿に戻ったら、置いてった金はみんな失くなってたんだ」
 と適当なことを言った。
「あれまあ、それはお気の毒なことで。近頃はどこもかしこも物盗りが大流行りでございますからねえ。昔と違って、こそ泥も隙あらば見境なしにどこにでも入りますよ」
 シーファーは口とは違って、相変わらずニヤニヤしている。
「何だよ、おまえは。人が空き巣に全財産持ってかれたのを喜びやがって」
「いえいえ、滅相もございません。誤解ですよ。ええと、人足仕事でしたな。これなどどうです? 港の荷運び。一日銅三十五」
「銅三十五っ! 相場は銀四だろ?」
 オクスはシーファーに食ってかかろうとした。
「昨今の不景気と日が短くなったことで、どこも日中のお仕事は手間賃の相場が銀三に下がっております。これが一番ましなのでございますよ」
「ちぇっ、この寒空の下で一日働いて、たったの銅貨三十五枚かよ」
 オクスは口を尖らせた。シーファーはそんなオクスの様子を窺ってから、ニヤニヤしたまま二人の後ろの壁の方に目をやった。
「何でしたらあれなどどうでございますか? あえてお勧めは致しませんが」
 二人は後ろを振り返った。壁に貼り紙がしてある。
「何だ? 『冒険者グループ募集。賞金金貨千枚』、何っ! 金貨千枚だと?」
 オクスは驚いて大声を上げた。
「はい、千枚でございます」
「何をすればいいんだ?」
「詳しいことは二十日後に参加者を集めて、募集者の錬金術師、アルガエオス様からご説明がございます。今わかっていることは、トネクトサス沼へ行くということだけです。ですからあえてお勧めはしないと申しましたしだいでして。ですが、賞金の額から言っても、並大抵のこととは思えませんな」
 ファントムとオクスはとりあえず港の荷運び人夫をすることにした。港と言っても、遠い方のアデレート港まで行き、そこで水揚げされる海産物を、アデレート島の中央にある市場まで荷車で運ぶのだ。毎日暗いうちに下宿を出て、オルフォイア通りを延々と歩き、アデレート島の南東にある漁港まで行く。あとは日が暮れるまで漁港と市場の間を何度も往復する。日暮れ前に港で銀貨三枚と銅貨五枚を受け取り、暗くなった通りを下宿までとぼとぼと歩いて帰って行く。
 しかし海から吹きつけてくる初冬の風は日に日に冷たくなり、骨身に凍みた。冷えきった体を温めたくて、オクスは帰りについつい酒場に飛び込んでしまう。元々食うので精一杯の賃金しかもらってないから、三日に一度と決めて、高いアデレート島の酒場をやり過ごし、必ずオルフォイア通りにある安酒場に入るのだが、それでもちょっと一杯ひっかけるだけのつもりで入ったところが、オクスが一杯で済むはずがなく、ついつい度を過ごし、結果は食うための金が足りなくなってしまい、いつも空きっ腹を抱えている始末だった。とうとう売れない雑魚を毎日しこたま安酒場へ持って行き、それと引き換えに飲ませてもらうようになった。
 ファントムはオクスにつき合いきれなくなり、一人で帰って行くようになった。まずエローラの店で残り物を安く食わせてもらうと、その足でラーケンの邸へ直行して、いつもヴィットーリオにガブリエルの書の写しを見せてもらっていた。しかしガブリエルの書は思っていたよりも難解で、特にこの世界に来て日の浅いファントムにはさっぱりわからないことが多かった。そこをしつこくヴィットーリオに迫って教えてもらう。ヴィットーリオも完全には理解していないので、読めば読むほど謎が増すばかりなのだが、それにしてもこの世界の記述と謎めいた恐ろしい内容は、ファントムにとっては衝撃的だった。
「いつまでもこんなことしてられねえぜ」
 ある日、オクスは魚を荷車に積み込みながら言った。
「そうだな。急に貧乏になってしまったな。この分じゃ、来月の家賃が払えないぞ」
 ファントムは洟を啜りながら答えたが、声に元気がない。寝不足が続いて疲れが溜まっている。
「人生ついてない時も何度かあるもんだってことはわかってるんだけど、一旦大儲けの味を知ってしまうと、こんなこと、馬鹿々々しくてやってらんなくなるぜ、全く」
「でもあと少ししたら、例の金貨千枚の話があるだろ。それまではじっと我慢しようよ」
 オクスは海から吹いて来た冷たい風に首をすくめた。
「話の中身が何だろうと、行き先がトネクトサス沼だろうと、とにかく俺は行くことに決めたぜ。絶対に金貨千枚を取ってやる」
「でも話を聞いてみないと、金貨千枚だろ? 命懸けのことに決まってるさ。ヒュドラを退治しろなんて言われたらどうする?」
「決まってるさ。ヒュドラに食われてくたばるか、ヒュドラの首を取って金貨千枚頂き、喉に思いっきり酒を流し込むかのどちらかしかないね」
「行くしかないか……」
 そうやって話していると、すぐに漁港の監督が近づいて来て、二人を怒鳴りつけた。
「口を動かすんじゃねえ、手を動かしな!」
「ちぇっ、はした金しか払ってねえくせしやがって、人をさんざんこき使いやがる。けちな奴ほどこうなんだ」
 オクスはぶつぶつ言いながら、早々と車を曳き始めた。
「もっと積めるじゃねえか! 楽しようったってそうはいかんぞ!」
 監督に引き戻され、魚を山ほど積まされてしまった。

 そうこうするうちに二十日経ち、ファントムとオクスはシーファーに錬金術師アルガエオスの住居を教えてもらい、早速訪ねてみた。五番街をずっと行ったワイユの森の近くに、アルガエオスの大きな屋敷があった。アルガエオスは昔から代々タウの町の有力者だ。二人は召使いに裏庭へと案内された。裏庭には既に一獲千金を狙う冒険者たちが大勢集まっていた。
 しばらくすると、顔じゅう髯を伸ばし、変な模様の服装をした眼光の鋭い男が現れた。
「あいつがアルガエオスか? ちんけな野郎だぜ」
 オクスがファントムに囁いた。男はしばらくの間冒険者たちを見回してから口を開いた。
「さて諸君、今日はこれほど多くの者たちが命をなげうってまで、錬金術師である我輩、アルガエオスの求めに応じ、この世の最高の宝を見出し、この我輩の手元へと持ち帰ってくれることに名乗りを上げてくれたことを大変嬉しく思うと共に、諸君の活躍を切に期待してやまないしだいである」
「誰もまだ名乗りなんか上げちゃいねえぜ。あんたの言うことは大袈裟なんだよ」
 オクスは小声で言ったつもりだったが、それはみんなに聞こえ、笑い声が上がった。アルガエオスは気にも留めずに続ける。
「さて、冒険者諸君には既に各周旋所などにおいて聞き及んでいることであろうが、行き先は魔境、トネクトサス沼である。諸君の払う危険の代償として、目的達成の際には、特に金貨千枚を用意させてもらっていることも知っておるであろう。それだけの価値があることだからだ。ただし抜け駆けは許されない。チャンスは平等に与えるよう、出発は五日後の朝と決めさせてもらった」
「ところで、肝心の宝とは何なんだ?」
 一座の中の一人が質問した。
「今も言ったように、抜け駆けなしだ。それ故、何を持ち帰るかは五日後に申し上げる。しかし少なくとも、諸君ら一般大衆が手に入れたとしても何の価値もない物だから、何度も言うようだが、抜け駆けしても意味がないのだ、わかるかね? その宝とは、熟練した錬金術師にとっては人生の最終目標となる物だが、きみたちには無意味な代物だ。
 くれぐれも言っておくが、宝を見つけ出したからと言って、決して己れの物にしようなどとは考えないことだ。金貨千枚に交換した方がきみたちには都合がいいはずだからな。しかしもったいつけてばかりいても仕方がない。今日は目標地点だけは知らせておくこととしよう。トネクトサス沼にあるナーガの塔だ」
 その晩、ファントムとオクスはヴィットーリオの所へ赴いた。
「その宝とは、紛れもなく賢者の石のことだ」
「賢者の石?」
「ああ。錬金術師の最終目標とは、賢者の石を手にすること。そして、これを見てみろよ」
 ヴィットーリオは二人の話を聞くと、ガブリエルの書の写しを開いた。二人はじいっと書に見入った。
「第十七章に賢者の石の在りかが書かれている。スヴァンゲル川河口のヒューロック島にあるナーガの塔。ここに四つの賢者の石のうち、三つまでが隠されているんだ。アルガエオスはこの内容を知り、早速冒険者たちを集めたに違いない。何しろ自分では危険すぎて取りには行けないからな」
「塔がスヴァンゲル川の河口にあるってわかってるんだったら、わざわざ危険な沼地を行かなくても、タウから船を出せばいいじゃないか」
 オクスの疑問に対し、ヴィットーリオは即座に首を横に振った。
「それはもっと危険だ。リネン岬より西から青銅海岸にかけての海域には、いいか、ザラタンという海獣が棲息しているんだ」
「ザラタン? 何だそりゃ?」
 オクスは首を傾げた。
「ザラタンというのは、大海蛇だと言う者もいる。海竜だと言う者もいる。大蛸だと言う者もいる。要するにその実体はよくわかっていない。島のように巨大な海の化け物で、島と間違えて上陸した船乗りたちがいたそうだ。船乗りたちが上陸した島で焚火をしていると、突然足元の島が海中に沈み、停泊していた船を丸ごと呑み込んでしまった。ラスカまで運良く泳ぎ着いた者だけが生き残れた。
 こんな話は眉唾物だけど、ラスカが金銀の輸入競争でタウに負けたのは実際のことだ。ラスカ港を出た輸送船が次々に海の藻屑と消えてしまったからなんだ。とにかく、プラムトク湾の西側には何か得体の知れない物が潜んでいるに違いない」
「ふうん。じゃあ沼地の中を通ってくしかないか」
 ヴィットーリオは次に地図を取り出すと、二人の前に拡げた。
「ヒューロック島までなら、その距離から言って、四日あれば行って帰って来れそうだ。ただ、何事もなければだ。何事もないはずはないから、四日で帰るのは不可能だ。下手をすると永久に帰って来れなくなるかも」
「縁起でもないこと言うなよ」
「わかってるさ。生きて帰って来るためには万全の対策を立てておく必要がある」
 そう言うと、ヴィットーリオは壁に歩み寄り、一冊の書物をそうっと引き抜いた。
「なかなか上手いじゃないか。壁が崩れなかったぞ」
 二人はからかって拍手した。
「ふざけてる場合か? きみたちは五日後には死ぬかもしれないんだぞ」
 二人とも頭を掻いて謝った。
「悪かったよ」
「そいつは何なんだ?」
「怪物事典さ。何と言っても最大の障害は怪物どもだろう。まずはこれを貸しといてやるから、ようく下調べしておくんだな。それから一つだけ忠告しておくけど、きみたち二人だけじゃ、残念ながらこの冒険の成功はおぼつかないね。魔法使いでも雇うんだな」
 あくる日、ファントムとオクスはエローラの店に居座って、ヴィットーリオから借りた怪物事典で冒険の対策を練った。トネクトサス沼の項目を眺めて子細に検討する。
「要注意はやっぱりヒュドラかな。九つの首は切り離されると、そこから倍の数の首が生えてくるって書いてあるぞ」
「じゃあ、切っちゃまずいな。叩き潰すか?」
 ファントムはじっと事典を見て、
「切ったあと、すぐに切り口を焼いてしまえばいいって書いてある」
「簡単に言ってくれるじゃねえか。その隙に残りの八つの首に食われちまわあ。ヒュドラ様が、さあさ、お焼きあそばせとでも言って、おとなしく首を差し出してくれるとでも言うのかよ。やったこともないくせに、無責任なこと書くんじゃねえや」
 オクスはぷんぷんして言った。エローラやセバスチャンはそれを見て笑っている。
「それだけじゃない。真ん中の首は絶対に死なないそうだ」
 ファントムは事典を見て驚いて言った。
「ちぇっ、じゃあばったり出くわしたら、やっぱり一目散に逃げ出すのが一番だな」
 午になるとヴィットーリオもやって来た。
「やあ、お二人さん、早速作戦会議かい?」
「そうだ。どうやって怪物を防ぐか相談してるところだ」
「で、対策は立ったかい?」
「いや、なかなか名案が浮かばないよ。結局ヒュドラに会ったら逃げることにした」
「ハッハッハッ、そりゃ名案だ」
 ヴィットーリオは大声を上げて笑った。
「こいつはどうだ? メデューサ姉妹。これも恐ろしそうだな。髪の毛が全部蛇。下半身が蛇。睨まれると石にされてしまう。末の妹のゴルゴンは特に凶暴で、人を見れば必ず襲ってくる」
「そりゃ大変だ。そいつに会ってもやっぱり逃げるとしよう」
「だけどこれを書いた人は平気だったんだろうか? よく石にならずに済んだもんだな」
「きっと後ろからこっそり盗み見てたんだろうよ」
 ヴィットーリオはファントムとオクスのやりとりを聞いて溜息をついた。
「全くきみたちは呑気だな。ヒュドラだってメデューサだって、現実に出くわす可能性大なんだぞ。もっともそれまで生きていればの話だけど」
「嫌なこと言うなよ」
「いいか、トネクトサス沼は怪物の楽園だ。仮にきみたちがヒューロック島に辿り着けたとして、それまでに必ずきみたちを襲う怪物がいる」
「そいつは何だ?」
「噛みつき魚だ」
「噛みつき魚?」
 二人にはピンと来ない。お互いに顔を見合わせて首を傾げた。
「見た目は普通の小魚だ。だけどきみたちが噛みつき魚を全く警戒せずにトネクトサス沼を行けば、きみたちは確実に噛みつき魚の餌食になってしまうだろう。こいつは普通の小魚だから危険だとは気がつかない。そこが恐ろしいんだ。
 噛みつき魚は人間や動物の体に吸いついてきたかと思うと、あっと言う間に皮膚に穴を空け、肉を食い破り、内臓を食い尽くしてしまう。もしも体の中に侵入されるようなことがあったら、そいつはもう終わりだ。体は小さいし、群を成しているし、一々剣で突き刺すわけにもいかない。最も厄介な奴らだ。考えようによっては、ヒュドラやメデューサの方がずっとましさ」
 みんなしんとなってしまった。
「やっぱりやめるか。命懸けで他人のために宝を探しに行ってやることもないしな」
 オクスが言うと、エローラも頷いて、
「そうよ、よしにしなさいよ。トネクトサス沼なんて危なすぎるわよ」
 みんなで行くの行かないのとわいわい騒いでいると、そこにシーファーが現れた。
「今更行かないなんて、そりゃあまりにもひどすぎます。ここは是非、是非、トネクトサス沼へ行き、是が非でもあなた方お二人のお力で宝を勝ち取って下さいませ」
 シーファーはテーブルに額をこすりつけて頼んだ。
「おい、シーファー、おまえはあの錬金術師にいくらもらったんだ?」
 オクスが不意に尋ねると、
「いくらって、いくらももらっちゃいませんよ。貼り紙をさせてやった代わりに、はした金を頂くだけでございますよ。もう賭まで始まっておりまして、何を隠そう、あなた方は現在のところ、一番人気なのでございます」
「よお、聞き捨てならないこと言うじゃないか。なんで俺たちが行くって知ってるんだ? てめえ、何企んでんだ? 怪しいぞ」
「いえいえ、それはでございますね、それはつまり……」
 シーファーは口籠もってしまった。
「なんで行け行けってうるさく言うのかわかったぞ。俺たちを賭のだしに使って儲けようって魂胆か? やい、てめえ、ふざけた真似しやがって、このペテン師めっ!」
 オクスはシーファーの胸ぐらをつかんでぐいっと持ち上げた。
「ひ、ひぃー、その手をお、お、お放し下さいませ。く、くるしい。し、し、死んでしまいます……」
「もう勘弁してやれよ。本当に死んでしまうぞ」
 ファントムはオクスをなだめた。シーファーの身勝手で裏表のあるところは気に入らないが、それでもなぜか憎めない。オクスはやっと手を放した。シーファーはそのまま床に転げ落ちると、恐れをなして謝り続けた。
「本当のことを申し上げます」
 シーファーは床に座り込んだまま、しばらく喘いでいた。
「実を申しますと、このところ不景気続きでございまして、手間賃と共に斡旋料も軒並み下がり、おまけに戦争が起こって隊商が動かず、商館からの口が全くなくなり、周旋屋はどこも立ち行かなくなっている状態なのでございます」
「知ったことか」
 オクスは吐き捨てるように言ったが、
「まあ、聴いてやろうよ」
 ファントムがとりなした。
「最初はこんなこと思いもしなかったのですが、周旋屋同士で集まった際に、面白半分に賭にしてしまおうという話が持ち上がり、街で宣伝してみたところ、景気が悪いと賭が流行るものなのでしょうか、予想外の反響がございまして、もう退くに退けなくなっているしだいでして」
 シーファーは言い終わると、愛想笑いを浮かべた。
「俺は賭けられるのが大嫌いなんだ」
 オクスはそっぽを向いた。
「こいつにはアルバで嫌な思い出があるんだよ」
 ファントムがそう言うと、シーファーはしきりに頷きながら、
「そうでございますか。しかしでございますね、賞金は金貨千枚。行き先はトネクトサス沼の奥。この冒険を成し遂げれば、あなた方は間違いなくタウの英雄です。おまけにあと五年は遊んで暮らせます。人足仕事などもうする必要もなくなるのでございますよ」
 シーファーはもうオクスに締め上げられたことなど忘れ、盛んに二人を説得し始めた。
「シーファー周旋所の名誉も懸かっております。一生のお願いでございます。どうかこの私めを助けると思って、是非とも冒険に参加して下さいませ」
 シーファーは平身低頭して頼み込んだ。
「おまえを助けたいなんてこれっぽっちも思っちゃいないぜ」
「そこを何とか」
 シーファーは床に額をこすりつけた。
「でも考えれば考えるほど、これは成功しそうにないって思えてきたんだ。悪く思わないでくれ」
「何をおっしゃいます。あなた方お二人の腕があれば、トネクトサス沼の化け物如きが何でしょう? 十中八九間違いなしでございますよ。何なら魔法使いでもお雇いになればよろしゅうございます。他のグループなど、たいてい五、六人でパーティーを組んでいます。あなた方も魔法使いを仲間にお加えなさいませ」
 ファントムはしばらく考え込んだ。
「雇うといくらかかるんだ?」
「金五十ほどで」
「そんな金がどこにある?」
「いえいえ、名のある者でそれくらいでごさいまして、まあ、金十が相場でしょうか。何しろ魔法使いですからねえ」
 ファントムが黙ってしまったので、シーファーは慌てた。
「もっと安いのもおりますよ。当然でございましょう。安い奴なら金一で雇えますよ」
「俺たちの懐の中を知ってるだろ。金一どころか、銀一も払えねえよ。まだ今月の家賃を払ってないから、ここんとこ毎日、婆さんにギャアギャア罵られてんだぜ」
 シーファーはニコニコしながら再びテーブルに着いた。
「オクス様、こういうことには頭をお使い下さいませ。ですから最初は仲間ということにして、あとで賞金を分けるということにするのでございますよ。もっともタウの名のある魔法使いは、もうその手でほとんど引き抜かれてしまっておりますが」
「そうだ!」
 何を思ったか、その時ファントムが手を打って大声を上げた。
「どうしたってんだ?」
「ほら、ワーレフの言ってたムーンだ。確か魔法使いだって言ってただろう」
「ああ、そんなこと言ってたっけ?」
「ムーンを捜し出そう」
「ちょっと待ってよ。ムーンって、エルフじゃないの?」
 エローラがファントムに尋ねた。
「そうだよ。知ってるのか?」
「ベルモン通りの劇場にお芝居を見に行くと、よくその前で奇術をやってるいかさま大道芸人よ。そうよ、確かにムーンって名前だったわ。あれが魔法使い? やっぱりよした方がいいんじゃないかしら」
「うーん」
 ファントムは溜息をついたが、とりあえずムーンを捜しに行くことにした。

 ベルモン通りの劇場の前まで行ってみると、似顔絵描きや、演奏や踊り、軽業師などの大道芸人、物売りに乞食やルンペンまでたくさんいた。劇場には主に金持ちが芝居を見にやって来るので、金欲しさの連中も大勢集まって来るのだ。だが、ムーンらしき男はすぐに見つかった。道端に、『オリカの大魔術師ムーン、世紀の招霊術師』と書いた大きな看板を立て、手品のようなことをやっている。歳はまだ若そうだ。
 ファントムとオクスはしばらくムーンの奇術を見物していた。しかしムーンの奇術はあまり人気がなさそうだ。通りすがりの者がちょっと足を止めたかと思うと、いくらも経たないうちにフンと鼻先で笑って行ってしまう。ずっと見物している客と言えば、ルンペンが何人か前の方に座り込んだり寝転がったりして、何かわけのわからない者を齧りながら、ムーンがへまをする度に笑い声を上げているだけだ。
「続きましては、世にも不思議な不死身の男。短剣を胸に突き刺されて血を流すが、摩訶不思議、死ななかったらご喝采」
 ムーンはそう言って短剣を自分の胸に突き当てた。カシャッという音がして、胸がみるみる真っ赤に染まっていく。
「ちぇっ、ほんとにいかさま手品師だ。タネが見え見えなんだよ」
 ファントムもオクスもしらけてしまった。ルンペンたちはパラパラと拍手した。
「この通り、ピンピンしてます」
 ムーンは両腕を拡げてみせた。するとルンペンの一人が立ち上がり、ムーンの手から短剣を引ったくったかと思うと、それを自分の胸に何度も何度もカシャッ、カシャッと押しつけた。そのうちばね仕掛けが壊れてしまい、はりぼての刀身が柄の中に入り込んだまま戻らなくなってしまった。見ていたルンペンたちがまたへらへらと笑った。ムーンも一緒になって笑ってごまかした。
「話になんねえ。行こうぜ」
 オクスはファントムの袖を引っ張った。二人が去ろうとすると、ムーンの方から呼び止めてきた。
「ちょっと待ってくれ。これからが本番だ」
 ファントムは懐から銅貨を取り出し、木の器の中に放り込んだ。
「俺たちは手品を見に来たんじゃないんだ。トネクトサス沼へ行くから、魔法使いを捜してるところなんだ。ワーレフからきみのことを聞いたから、ちょっと見に来ただけさ」
 そう言うと、ファントムはムーンに背を向けた。
「待て待て。どうしてトネクトサス沼なんかへ行くんだ?」
「ある宝を持ち帰ると、賞金として金貨千枚が出るからなんだけど、やっぱりやめることにするよ」
「金貨千枚だって! 是非仲間にしてくれ。実は今日食うのにも困ってる有様なんだ」
「だけどきみの腕じゃ……」
「奇術と魔法は別さ。見てろよ」
 そう言うと、ムーンはしばらく辺りを見回した。そろそろ芝居が始まるのか、人が次々に劇場に入って行く。
「あの娘だ。あの娘を見てろよ」
 ムーンは、今し方馬車から降りて来たばかりの、気取った上流階級といった身なりの夫婦とその娘を指差した。
「どうする気だ?」
 ムーンは口の中で何やら唱えると、指先を振り回した。と、途端にシュウッと風が唸りを上げ、中年のおばさんの長いスカートがめくれ上がり、下着が丸見えになった。
「キャーッ」
 中年女は年がいもなく悲鳴を上げ、めくれ上がったスカートを両手で押さえつけた。ルンペンたちはげらげら笑い、拍手喝采、ヒューヒュー口笛を鳴らした。
「どうせなら、若いねえちゃんの方にして欲しいな」
 ルンペンたちが注文をつけると、
「ちょっと的が外れただけさ」
 ムーンは言い訳をした。
「一応魔法が使えるじゃないか」
「他にも何かできるか?」
 ファントムとオクスはムーンを見直し、いっぺんに態度を変えた。
「これは序の口さ。まだまだいろいろと奥の手はあるさ」
「そうか。それじゃあこれからめしでも食いに行こう。食うのにも困ってるって言ってたな。俺が食わせてやろう。残り物だけど、銅二枚で腹いっぱい食わせてくれる所があるんだ。付けも利くし。これからその店まで行って話しよう」
「ちぇっ、自分は飲んでしまって銅一枚持ってないくせに。払うのは結局俺じゃないか」
 ファントムは文句を言った。ムーンは早速商売道具をたたみ、ファントムとオクスについてエローラの店へ行った。
「また食べるの? 朝から食べ通しね」
 エローラは呆れてしまった。
「俺たちはいいんだ。このムーンに食べさせてやってくれ」
「ついでに俺にも食べさせてやってくれ」
 オクスが料理を催促した。ヴィットーリオもシーファーも既に帰ってしまっていたが、三人で新たに冒険の相談をする。
「他にはどんな魔法が使えるんだ?」
「エルフの魔法典中にある六十八の呪文のうち、初級の呪文はほとんど使えるよ。腕力強化、鉄甲防御、滋養回復、諸物耐久、集団催眠、利害識別、夢幻影像、障壁開門、昆虫湧出、苦痛付与、毒物除去、空中致傷、軟体凝固、不具無能、石火散乱、疾風怒濤、冷気凍結、頭脳幻惑、物体爆破、水柱誘導、冒険には欠かせない術ばかりだ」
 ムーンは自慢げに言った。ファントムもオクスもしきりに感心して頷く。
「そんなにたくさん魔法が使えるのか。ところでさっきのは何だ? 疾風怒涛の術か?」
「そうだ」
「あの程度のものか? 怪物の裾をめくったところで始まらねえぞ」
「とにかくこれを見てくれ。トネクトサス沼には恐ろしい怪物がこんなにいるんだ」
 ファントムはそう言って、ムーンに怪物事典を見せた。ムーンはしばらくそれを見ていたが、やがて、
「とにかく言えることはこうだな、この冒険には必ず魔法使いが必要だということ」
「だからきみを仲間にしたんじゃないか」
「もう一つ言えることは、これは絶対に確かなことだが、俺は金を持ってないってこと」
「だからこの冒険で賞金を稼げばいいじゃないか」
 ムーンは首を横に振った。
「実はエルフの魔法には金がかかるんだ。特に高度な呪文には莫大な金がかかる。さっき並べ立てた初級の呪文でも、何もなしでかけられる呪文は六つしかない」
「おまえは魔法を使う度に、一々俺たちから金をふんだくるつもりか?」
 オクスがムーンを睨んだ。
「違う。ほとんどの呪文を使うには、魔法の品が必要なんだ」
「魔法の品ってどんなもんだ?」
「いろいろあるけど、たいていは専門店へ行けば手に入る。これを見てくれ」
 ムーンはそう言うと、古びた革表紙の書物を取り出した。
「これは親父が俺に残してったただ一つの財産だ」
「おまえのおやっさんはもう死んだのか?」
「知らない。俺も見たことない。ただ、エルフだったってことはわかってる」
「なんで?」
 オクスはムーンの言っている意味がわからなくて、訊き返した。
「この俺を見ればわかるだろ? 俺にはエルフの血が混じってる。おふくろは人間だった。だから俺は半エルフなんだ。親父はたぶんエルフの流民で、この町に流れて来た時に俺のおふくろを買ったんだろう。金の代わりにこの呪文の書を置いてったんだ。俺はこいつと引き換えに生まれたんだとさ。おふくろがそう言ってた。金にもならない物だけど、俺には大切な物になったよ。この呪文はきみたちには読めないだろうけど、説明の部分を読んでくれればいい。そこにそれぞれの呪文に必要な品が書いてある」
 ファントムとオクスは呪文の書を覗き込んだ。
「今は便利な物ができていて、そこに何とかの液とか、石とか粉とかが必要って書いてある呪文は、ほんの一部を除いて、専門店に置いてある汎用魔法液、汎用魔法石、汎用魔法粉でそれぞれ間に合う。つまりその三種を手に入れれば、使える呪文の数はぐっと増えることになるんだ」
「そいつはいくらするんだ?」
 顔を上げたオクスが訊いた。
「液は小壜一本で金二十四、石は一袋五十粒程度入っていて金五、粉は同じ大きさの袋に詰まっていて金八」
「そりゃ無理だ」
「だったら宝の持ち腐れになるぞ」
「宝っておまえのことか?」
「決まってるだろ」
「ちぇっ、偉そうなこと言いやがる」
 その日は夜遅くまで怪物事典と魔法典を見ながら三人で相談した。翌日は金の工面に駆けずり回る。まずシーファーの所へ行ってみたが、シーファーはああだのこうだの言って金を出さない。とことん粘ってようやく金貨一枚だけ借りれた。結局午になってしまい、とりあえずエローラの店で安く食べさせてもらうことにする。エローラに頼むと、少しぐらいは貸してくれると言ったが、そこに居合わせたヴィットーリオが口を挟んだ。
「きみたちが借金してもたかが知れてるさ」
 ヴィットーリオは鼻先で笑った。
「じゃ、どうしろってんだ? そうだ、おまえんとこのお友だちを叩き売るってのはどうだ? あれだけありゃあかなりの金になりそうだぞ」
 オクスは蔵書を売れと言っている。
「冗談じゃない。どうして僕がそこまでしなくちゃならないんだ? 冒険に行くのはきみたちだぞ。いいか、そうじゃなくて、きみたちの冒険に投資させるのさ」
「?」
 みんなヴィットーリオの言っていることがわからない。
「わからないか? 街ではこの冒険のことが大評判になっていて、どこでも賭が行われている。だけどいくらきみたちに賭けてもらったって、きみたちは一向に儲からない。勝った奴と賭屋が儲けるだけだ」
「俺たちが賭の胴元を始めるってわけか」
 ヴィットーリオは首を振ると、
「そうじゃない。あくまで投資させるんだ。簡単に言うと、賞金を勝ち取った時に、出資してくれた人に分け前を払うんだ。千枚の金貨が手に入れば、二倍にも三倍にもして返せるだろ? ただの借金じゃ駄目だ。この冒険のことを表面に打ち出して、大袈裟に宣伝するんだ。投資する側にしてみれば、五、六日で金が二倍にも三倍にも膨れ上がるわけだ。賭け事は好きだけど、賭には手を出そうとはしないお堅い人がいる。そういう人たちを狙うんだ。何と言っても、きみたちにしてみれば、明日のご馳走よりも今日の一握りの残飯の方が必要なんだから」
 ファントムは少し考え込んだ。
「話はわかったけど、出してくれる人がいるだろうか?」
「あたしは出すわよ。面白そうじゃない」
 エローラが言った。
「僕にいい考えがある。大学の教授たちを引き込むんだが、特に生物学者が狙い目だ。きみたちはトネクトサス沼へ行ったついでに、あそこでないと手に入らない動植物を採集して戻って来る。これなら彼らは喜んできみたちに金を出してくれるはずさ」
「なるほど、そりゃ名案だ」
 早速ヴィットーリオの取り持ちで出資者を集めることにした。まず美術館へ行くと、面白がって何人かが話に乗ってきて、手持ちの小銭を出した。次にベルモン通りを真っ直ぐ行った所にある大学へ行ってみた。生物学者たちの所へ行き、ヴィットーリオが巧みに説得すると、やがて大学としては現物がないと金は出せないが、それぞれが個人として出資しようということになり、持ち帰る動植物の代金前払いという形になった。金はそのままもらえるが、めぼしい物が見つからなければ金を返すということに決まった。こちらは大口の出資となり、翌日各々が持参する金を取りに行くことになった。
「きみのお蔭だよ、ヴィットーリオ。俺たちだけじゃとても信用してはくれなかったに違いないだろうからな」
 ファントムが礼を言うと、ヴィットーリオは柄にもなく妙に照れた。

「ああ見えて、あの若先生にはなかなか商才があるな。商人にでもなりゃいいのに。俺たちの方もこの商売を始めねえか、注文の品を危険を冒して取って来る、儲かりそうじゃないか。どうだ?」
 翌日の朝から大学へ金を受け取りに行った帰りにオクスが言った。
「ああ、それもいいけど、何しろ大変だ」
「そうだ、注文が多すぎるぜ、全く」
 生物学者たちは金と引き換えにこれこれを持ち帰れと言って、紙にたくさん動植物の名前と特徴を書いて寄越してきた。ついでに特殊な容器を山ほど渡された。三人は容器を麻袋に詰めて大学を出ると、次に金を持ってムーンの知っているデボン橋を渡った所にある魔法専門店に赴いた。
 魔法の店に着くと、ムーンが主とあれこれ話をした。ファントムとオクスには全くわからないので、ムーンに任せきりとなった。
「まず、液と石と粉を一つずつ。それから鈴だな、鈴一つ。あとは……、そう、何か掘り出し物はないかい?」
「今日は竜の牙に鷲の羽根、ピアソーの実、キルシュの薬、それとザクバルがあるよ」
「鷲の羽根もピアソーの実もキルシュもザクバルの砂時計も要らないな、俺には使えないし。竜の牙を見せてくれ」
 主は承知して後ろの棚から箱を取った。蓋のない箱の中に、大きな三角形の牙がいくつも雑然と放り込んである。
「何だ、ワイバーンじゃないか」
「当たり前だ。ドラゴンがうちみたいな小さな店でこんなに手に入るもんか。だけど安いよ。一つ金一だ、どうだね?」
「そうか……。護符はいくらだ?」
「金四十のと八十のとがあるけど」
 ムーンは唸った。
「それじゃあやっぱり牙にしようか」
 ムーンは箱の中の牙をつかんで一つ一つ眺めてみた。
「何だ、虫歯があるぞ。虫歯を金一で売ろうって言うのか?」
「虫歯なんかあるのか? それじゃあ大負けして三つで金二、これでどうだ?」
「よし、買った。三つでいい。金がなくなってしまうからな」
「毎度ありー」
 主は汎用魔法液の小壜、汎用魔法石と汎用魔法粉の袋、聖なる鈴一個、それからワイバーンの牙三個を揃えてムーンに手渡した。これで金貨四十一枚が消えてしまった。
「あーあ、これっぽっちのために、あっと言う間に金が消えちまったぜ。あと少ししか残ってない」
 オクスが情けなさそうに言うと、
「まだ買う物があるぞ」
「えっ、まだ買うのか?」
「あとは蜜と絨毯だけだ。これはその辺で買えばいい。あんまり金はかからないよ」
 それから市場で壺に入った蜜と安くて大きな絨毯を買い、ファントムとオクスは不足している矢を何本か買った。
「あとは冒険中に飲む酒だな」
「酒なんか持ってくなよ。それでなくても荷物が多すぎるんだ」
「馬鹿言え、酒は命の水だぜ。危険な冒険になるほど、俺にはなくてはならない代物さ」
 そう言って、オクスは安くて度の強い酒を二壜買った。食糧はエローラに頼んで、出発までに携帯食を安く作ってもらうことにした。

 そしていよいよ待ちに待った出発の日がやって来た。前日にシーファーがやって来て、五番街を上っていった所にあるマスクートの園へ行くように言った。朝早く腹ごしらえを済ますと、三人はマスクートの園へ向かった。ヴィットーリオ、シーファー、エローラ、セバスチャン、アジャンタの五人も見送りに来てくれた。
「ちょっと荷物が多すぎるんじゃない?」
 エローラが三人のなりを見て言う。
「そう言えばそうだな。ちょっとばかし荷物が多すぎた。少々動きづらいぜ」
 マスクートの園に着くと、既に大勢の人たちが集まっていた。更に続々と詰めかけて来るようだ。
「ああ、これでもうあんたの顔も見られなくなるかもしれないんだね」
 セバスチャンは急に大声を放って泣き出し、ファントムにむしゃぶりついてきた。
「お、おい、待っ……」
 セバスチャンが泣きながら、丸太のような両腕でファントムの頭と首を力任せに抱え込んだので、ファントムは息ができなくなり、バタバタともがいた。オクスとヴィットーリオが慌てて救出したので、ファントムはセバスチャンの恐怖の締め技から辛うじて逃れることができた。
「きみたちなら心配ない。きっとトネクトサス沼から戻って来れるさ」
 ヴィットーリオは三人の肩を順番に叩きながら励ました。
「ありがとう。頑張るよ」
「戻ってもらわないと、生物学の教授や研究生たちに、この僕が金を払い戻さなきゃならなくなるんだ。だから言われた物をちゃんと採集して、必ず戻って来るんだぞ」
「ちぇっ、励ましかと思ったら、てめえの都合のことを言ってたのかよ。ありがたく思って損したぜ」
 やがて主催者のアルガエオスが姿を現す。参加者たちが呼び集められた。
「さて、本日は多数の冒険者たちに集まってもらうことができ、この上ない喜びである。参加組数は実に六十余り、参加者数は二百五十名を上回った。我輩は、必ずや諸君らの中から宝を見事持ち帰る者が現れるであろうことを確信するしだいである。では肝心の目的の宝について述べよう」
 ざわついていた冒険者や野次馬たちが急にしんとなった。
「諸君らが探し出し持ち帰る物は、他ならぬ『賢者の石』である」
 みんな首をひねっている。アルガエオスは構わず続けた。
「これよりトネクトサス沼のヒューロック島へと赴き、ナーガの塔を見つけ出し、そこに隠された三つの賢者の石を持ち帰るのだ。賢者の石四つのうち、三つまでがナーガの塔にあるとガブリエルの書に書かれている」
 再び冒険者と野次馬たちの間にざわめきが起こった。
「その特徴は、拳より一回り小さめで、諸君らにはわけのわからない模様が描かれているから、見ればすぐにわかる。では健闘を祈る」
「三つも見つけるのか、大変だな」
 冒険者たちは口々に感想を洩らした。
 冒険者たちはあまり人通りの多くない町の西門へと向かい、そこから一斉に冒険に出た。西門に冒険者たちが参集すると、後ろからファントムに話しかけてくる者があった。
「よう、おまえさんたちも行くのか?」
 聞き覚えのある声を耳にして振り返ると、そこに怪盗ドラドが立っていた。
「ドラドじゃないか! おまえもトネクトサス沼へ行くのか?」
 ドラドはニヤッと笑った。
「おまえたちにゃ悪いが、お宝は俺様が頂戴するぜ」
「何言ってんだ、おまえ一人で行く気か? そいつは無茶な話だぜ」
 オクスが言うと、
「俺は傭われたのさ、ワイユの奴らにな」
「ワイユの森の民か? 盗賊団じゃないか」
 ファントムが驚いて言ったが、
「何驚いてんだ。俺は元々盗賊だぜ。だけど今回は傭われただけさ。俺はあんな雑魚どもとはわけが違う。正義の味方だ」
「ふん、盗賊に傭われた正義の味方なんて聞いたことがねえや」
 オクスはそっぽを向いた。
「まあ、おまえたちもせいぜい頑張りなよ」
 そう話していると、途端に近くで喧嘩が始まった。冒険者グループ同士の言い合いが嵩じて、とうとう腰の物を抜いての争いになってしまったのだ。周囲は大騒ぎになったが、片方のパーティーの中にいた魔法使いらしいのが何か口の中で唱え、鳥の羽根を飛ばした。するとたちまちのうちに相手側の数人が地面にへばりついてしまい、うんうん呻き声を上げた。勝った冒険者たちは相手の冒険者たちを靴で踏みつけにし、さんざん罵った。
「加重負荷の呪文だ。あの魔法使いは相当できるぞ。気をつけないと」
 ムーンが驚いた表情をして言った。
「なに、最初っから魔法使いだってわかってれば、こっちにも打つ手はあるさ」
 オクスは自信ありげに言った。ムーンは更に辺りをきょろきょろと眺め回した。
「あっ、あれはキューラ姉妹だ!」
 ムーンはそう言って、紫の揃いのマントを身にまとった二人の女を指差した。
「キューラ姉妹って誰だ? 聞いたこともねえぞ」
 オクスが尋ねると、ムーンが答えて、
「キューラとゾーラ。タウの町一番の魔女の姉妹だ。悪戯で校長を豚に変え、魔法学校を退学させられてからというもの、悪党の悪巧みに力を貸してばかりいる、とんでもない不良のあぶれエルフだ。あいつらがこんな冒険にしゃしゃり出て来るなんておかしいなあ。二人傭ったら五日で金貨千枚でも足りやしない。不景気だから背に腹は代えられず、賞金稼ぎをしに来たのかな? それともまた何か悪巧みでもしてるんだろうか?」
 ムーンはそう言って首を傾げた。
「この催しを潰しに来たのさ。雇い主は知らねえがな。底意地の悪い奴らだ」
 ドラドが言った。
「えっ?」
 みんな驚いたが、ドラドは平然としている。
「まっ、俺はあんなあばずれの雌猫どもなんか気にしちゃいねえぜ」
 ドラドはそう言い残して、人混みの中へと消えて行った。
「何だかいろいろとありそうだな」
「とにかくキューラ姉妹は要注意だ。あんな奴らに邪魔されてたまるか!」
 ムーンはキューラ姉妹に余程嫌悪感を感じているのか、顔を歪ませて吐き捨てるように言った。
「何だい、てめえらは? 夜逃げでもするつもりかよ?」
 不意に冒険者グループの一つが、ファントムたちの抱えている多量の荷物を見てからんできた。
「なんて無様ななりしてんだ。行商に行くんじゃねえんだぜ」
「何?」
 カッとなったオクスはそいつの胸ぐらをつかんで持ち上げた。冒険者は宙ぶらりんになったままもがいた。他の仲間は殺気立って剣を抜いた。
「おい、やめとけよ。言いたい奴らには言わせとけばいいんだ」
 ファントムがオクスを抑えた。オクスは片手につかんでいた男をそのまま放り投げた。地面に放り出された男は、痛みに耐えかねて呻き声を上げた。
「腰抜けのくせに偉そうな口きくなっ!」
 オクスの剣幕と怪力に冒険者たちは怖じ気づき、地面に転がっている仲間を引きずってどこかへ逃げて行った。
 いよいよ冒険者たちは一斉にスタートを切った。ほとんどのパーティは北西の方角にあるヒューロック島目指し、一直線にトネクトサス沼へと向かったが、沼を迂回してプラムトク湾沿岸部を通り、目的地へ至ろうと考えるグループも幾組かあった。急ぎ足でなるべく他のパーティより先に行こうとする者たちもいれば、危険は前を行く奴らに被らせて、自分たちは楽に冒険をしようと、あえてあとからついて行くといった者たちもいたが、いずれにしてもいざ冒険が開始されるや、音に聞く魔境、トネクトサス沼の恐怖が全員の頭にあるのか、暗黙のうちに各グループは固まったまま、大集団で進んで行った。

 午後には沼地まで辿り着く。ここで数グループが早くも野営を始めた。危険な沼地で眠ることを避け、翌朝早くから強行軍でヒューロック島まで達する計画を立てた慎重派たちだ。しかし大多数のグループは構わず沼地へと進入して行った。
「さあて、ここからが俺の出番だ」
 ムーンはそう言うと、ファントムとオクスを押し止めた。
「一体何をする気だ?」
 ムーンは絨毯を拡げると、二人に向かって乗れと言う。
「わざわざ沼地を歩いて危ない目に遭う必要はないさ。ここでいきなり天空飛行の高等呪文を使い、他を出し抜いてやるのさ」
 ムーンは呪文を唱え始めた。
「おい、大丈夫か?」
 ムーンは両手を自分が乗っている絨毯に向けた。すると三人を乗せたまま、絨毯がゆっくりと宙に浮かび始め、ある高さまで達すると、今度は沼の方へ向かって進みだした。
「やった! 飛んだぞ!」
「これでヒューロック島までひとっ飛びだ! 宝をさっさと手に入れて、暗くなるまでには戻って来よう!」
「やーい、泥沼を這いずり回ってる地虫どもめ、せいぜい頑張るんだな!」
 オクスは得意になって、真下を歩いている冒険者たちに手を振ったのも束の間、絨毯が突如うねり始めた。
「おい、どうなってんだ、これは?」
「知らないな!」
 荷物がたちまち絨毯の上から転がり落ちる。三人は必死になって絨毯の縁につかまっていたが、少しするとその絨毯の動きも止まった。途端に三人は、絨毯もろともストーンと泥沼の中に落下した。
 泥の中にめり込んだ三人は、もがきながら這い出して来る。泥塗れになって泥沼から上体を出した三人を見て、傍らを通り過ぎて行く冒険者たちが、口々に罵りの言葉を浴びせかけてきた。
「まだ始まったばかりなのに、いきなりこのザマかよ?」
「大した術だ。その呪文は突然墜落とでもいうのか? 俺にも教えてくれないか?」
「いやあ、いきなり楽しませてくれて、お蔭で緊張感がとれて元気が出てきたよ。礼を言うぜ。ありがとよ」
「泥沼を這いずり回る地虫みたいに、せいぜい頑張るんだな」
 さんざん嘲笑され、三人は小さくなって、泥沼に落ちた荷物を掻き集めた。
「てめえが柄にもない呪文なんか唱えるから悪いんだ。このへっぽこ手品師め!」
 オクスがムーンに食ってかかった。
「こんなはずじゃなかったんだが……。昨日はじっくりとこの呪文を覚えたんだ」
「何だ、一夜漬けかよ。生半可な真似するんじゃねえや。恥かくだけだろが!」
 ムーンは恥じ入って小さくなってしまった。やっとのことで草地に這い上がったが、何もかも泥塗れだ。近くの小川の水で、全身についた泥も荷物の泥も洗い落とす。衣服が濡れて冬の寒さに耐えられず、三人は火を起こして体を温めた。
「預かってきた容器のいくつかは壊れてしまったぞ。持ち帰る品の覚え書きも泥だらけで読めなくなってしまったし……」
 ファントムが泥のついた紙を拡げて言うと、
「この際、捨てて行けばいいじゃないか。余計な荷物が減ってせいせいすらあ」
「だけど持ち帰らないとまずいだろ」
「なあに、残った入れ物に適当に虫けらでも詰めときゃあ、それでいいのさ。どうせそんなもん読んだって、何を捕まえりゃいいのかよくわかんねえんだから」
「そりゃそうだけど……。じゃ、入れ物は半分ぐらい捨てて行こうか」
 やっと準備が整い、再出発となった。
「最初から他の奴らに後れを取ったぞ。急がないと」
「滋養回復の呪文を掛けて夜通し歩けば、俺たちがナーガの塔に一番乗りさ。だからこんな遅れなんか遅れたうちに入らないさ」
「今度はほんとに大丈夫なんだろうな?」
「大丈夫さ。墜落することはない」
「当たり前だ」
「日が暮れたら呪文を掛けてやるから、俺に任せとけよ」
 ムーンは胸を張ったが、その時にわかに雨が降って来た。雨だと思ったのは一瞬で、見上げると真上に絨毯が浮かんでいて、その上から男が一人、ファントムたちに向かって小便を飛ばしているのだ。
「馬鹿野郎、なんてことしやがんだっ!」
 顔に小便をひっかけられたオクスはカッとなって怒鳴った。
「畜生、二度と小便を出せなくしてやる!」
 オクスは弓矢を執り、無礼な冒険者のチンポコに狙いをつけた。
「おい、よせよ!」
 ファントムは慌ててオクスを止めた。
「こんなことぐらいでそこまですることはないだろう?」
「そうだ。そんなことぐらいで一々怒るな」
 上から別の男が声をかけてきた。
「あっ、あいつだ!」
 ムーンが指差した。呼びかけてきたのは、町の門前で冒険者たちを地に這わせていた魔法使いだった。魔法使いは何やら口の中で唱えると、手袋をはめた両手をサッと振った。と、たちまち沼から水柱が湧き起こり、それが三人目がけて突進してきた。
「うわあー!」
 三人は強烈な水の勢いに弾き飛ばされた。焚火も消されてしまう。
「あっはっはっはっはっ」
 大笑いしながら魔法使いたちは遠くへ飛び去って行った。
「畜生、覚えてろ! 今度会ったら地獄へ叩き落としてやるっ! 忘れるなっ!」
 オクスは大空に向かって大声でわめいた。

 たとえトネクトサス沼に棲息する凶暴な獣や怪物であろうとも、人間が大勢で群れているうちは、そう易々と手を出しては来ないようだ。だがその群がしだいに分散してくると、間もなく彼らにとっては恰好の獲物へと変わっていく。日が傾くにつれ、だんだんその兆候が顕れ始めた。最初から集団に後れを取ったファントムたち三人も、もちろんその例外ではいられなかった。
 林の中に入った彼らが一休みしていると、突然薮の中から人間の二倍の長さはあろうかという大ムカデが現れた。ファントムがいち早く気づき、傍らに置いてあったラムゼリーを引っつかんだ。みんな大ムカデのあまりの大きさにギョッとした。三人に近づいて来た大ムカデは、まるで蛇のように鎌首を持ち上げた。
「おまえは退がってろ」
 オクスが、武器と言えば短剣一本しか持っていないムーンに向かって言った。オクスはまず探りを入れようと、軽く戦斧を振り回したが、ムカデのくせにこいつの動きが素早い。持ち上げた鎌首をスイッと退いて戦斧をよけたかと思うと、次には鎌首をオクスに向けて突き出してきた。オクスは咄嗟に柄尻の鉤刃を大ムカデの頭にぶつけた。ムカデの頭が少し切れたが、びくともしない。オクスがそうやってムカデの注意を牽いている間に、ファントムが横から踏み込んで、ムカデの太い胴を一刀両断にした。
「やったあ!」
 ムーンが喜びの声を上げたが、ムカデはまだ死なない。二つに切り離された頭の方と尻尾の方が、別々に這って攻撃してきた。
「くたばりやがれっ!」
 オクスは大ムカデの頭に斧を目茶苦茶に叩きつけた。ファントムも尾の方をさんざんに切り刻んだ。とうとう大ムカデは死んだ。
「こいつは一体何を食ってこんなにでかくなりやがったんだ?」
 一暴れしたあとほっと一息つき、ふと大ムカデの潰れた死骸を見ると、いつの間にか人間の頭ほどもある地蜘蛛が何匹か現れていて、ムカデの死骸にたかっていた。
「やれやれ、ほんとにおぞましい場所だぜ、この沼は。これじゃあ息つく暇もないな」
 オクスがぽつっと言った。ファントムは大ムカデの牙を一本だけ切り取った。
「そんな物、どうする気だ?」
「持って帰るのさ。何でも変わった物なら持って帰ればいいじゃないか」
 そう言って、ファントムは大ムカデの牙を容器の中に入れた。
「なるほど、そりゃそうだ。こんな物、町じゃ手に入らないからな。注文とは少しばかり違ってても、勘弁してくれるだろう」
 下草を踏み分けながら更に行くと、何かが木立の間を歩いていた。
「ありゃ何だ?」
 三人はびっくりした。人間ほどもある大キノコが近づいて来たからだ。胴にあたる茎の部分をくねらせながら移動している。よく見ると、それが五つも六つも木立の間から現れた。
「化け物キノコめ!」
「襲って来る気だぞ!」
 三人は油断なく身構えた。お化けキノコはたちまち三人を取り囲んでしまった。オクスが一つのお化けキノコに戦斧をぶち当てると、キノコは真っ二つに裂けたが、たちまち割られた傘の中から胞子を空中に飛ばした。一瞬にして三人の周りが煙って見えなくなった。
「傘を割るなっ! 胴を狙え!」
 ファントムは咄嗟に叫んで剣を薙いだ。ファントムのラムゼリーは、別のお化けキノコの胴に深々と食い込んだ。しかしそのまま剣が抜けなくなってしまった。
「クソッ! 放せ、化け物っ!」
 しかし縦には簡単に裂けたキノコも横には切れず、剣をしっかり胴の中に吸い込んだまま放さない。ファントムはキノコを蹴倒そうとしたが、胴には意外な弾力があって弾き返されてしまった。吸い込んだ胞子のせいだろうか、しだいに息苦しくなってくる。
「おい、ムーン、何とかしろっ!」
 オクスが叫んだ。
「今やってる」
 ムーンは魔法の石を取り出し、喘ぎながら呪文を唱えると、石を宙に放り投げた。石は空中で砕けて飛び散った。すると、お化けキノコたちの体じゅうに突然蛆が湧き出した。蛆たちはたちまちキノコを貪り始めた。
 やがて朦朧とした意識が回復すると、胞子の煙は収まっていた。見ると、お化けキノコたちはみんな、半ば蛆虫に食われて失くなりかけていた。
「やったじゃないか! お化けキノコをやっつけたぞ」
「ほんとだ。おまえの魔法を見直したぜ」
 ファントムとオクスが誉めると、ムーンは胸を張った。ファントムはキノコの傘を少しむしり取り、容器の中に入れた。
 やがて林が切れ、広い湿原に出た。夕日が湿原の向こうに沈もうとしている。遥か先の方には、夕陽を浴びて進んで行く冒険者たちの影が認められる。
「よし、あいつらをこれから追い抜くぞ」
 ムーンはそう言うと、蜜の壺と魔法液の小壜を取り出した。
「この蜜を少し舐めて、それからこの魔法液をほんの少しだけ飲むんだ。滋養回復の呪文で、今日の一日の疲れなんか吹っ飛んでしまうぞ。言ってみれば、瞬間栄養補給だ」
 三人とも蜜を人差し指につけて舐め、それから魔法液をちょっと口の中に入れた。
「何だ、この味は?」
「味なんか気にするなよ」
 ムーンはそう言うや、呪文を唱え始めた。
「どうだ、元気になっただろう?」
「そう言われてみりゃ、頭がすっきりして、何だか体が軽くなったみたいだな」
 さあ出発、と三人が立ち上がった時、後ろの林の方で大きな羽唸りが聞こえた。思わず振り返ると、馬鹿でかい何かが三人の方に突っ込んで来る。三人は咄嗟に身を伏せた。
「蜂だ!」
 人間の倍ほどの大きさがあり、腹は黒い毛に覆われ、両側に飛び出した大きな二つの複眼を持つお化け蜂が、四枚の羽根をぶんぶん鳴らして空中で旋回すると、再び三人の方へと向かって来た。
 鋭い牙で食いつこうとするところを、オクスが鎮魂の戦斧で叩っ斬ろうとした。しかしこのお化け蜂は驚くほど俊敏だった。空中で前後左右上下斜めに自在に体を移動させ、次には尻についた馬鹿でかい針で突いてきた。オクスが斧の柄で咄嗟に弾き返すと、ガキッと音がした。お化け蜂の針は非常に硬く、まるで鋼の矛のようだ。蜂は飛び去ると、再び空中旋回して突進して来た。
 ファントムは弓を引き絞り、シュッと矢を飛ばした。矢は蜂の毛むくじゃらの腹に突き立った。蜂は怒ったのか、一層羽唸りの音を高くすると、今度はファントム目がけて正面から突っ込んで来た。ファントムはサッとカーマン・ラムゼリーを引き抜き、柄を両手に握り締めて振り被った。
「危ないっ! 伏せろっ!」
 オクスもムーンも叫んだが、ファントムは猛烈な勢いで飛んで来たお化け蜂に、真っ向から剣で斬りつけた。
 ファントムの体が後方に吹っ飛び、水辺の葦の中に叩きつけられた。オクスとムーンが慌てて駆けつけると、お化け蜂は体の半分までラムゼリーに切り裂かれ、ファントムの体の上で痙攣している。オクスが首の付け根に斧を入れ、お化け蜂の息の根を止めた。
「重い。早くどけてくれ……」
 オクスとムーンで蜂を動かし、下敷きになっていたファントムを助け出した。
「凄いなあ、こんな化け物を一撃で殺してしまったじゃないか」
 ムーンはしきりに感心してみせた。
「ああ、これか。この剣はよく切れるんだ」
「それにしても、とんでもない化け物ばかりがわんさと出て来やがるぜ」
「この針も持って帰ろう」
 ファントムは死んだ蜂の尻から大きな針を抜き取り、麻袋に入れた。
 三人は暗くなった湿原を行く。やがて風が出てきて、沼地に生えた葦や蒲の穂を揺らした。そしてその風がだんだん暖かくなってくる。沼のあちこちでは湯気が立ち昇った。
「どうなってんだ、これは?」
 遠くに火を焚いているのが見えたので、そちらの方へ行ってみると、先に行った冒険者グループの幾組かが共同キャンプを張っているのだった。冒険者たちは皆裸になり、湯気を立てている沼に浸かっている。
「おまえたち、何してるんだ?」
「見ての通り、温泉に浸かってるんだ」
「いい湯だぜ。おまえたちも入んなよ」
 三人も早速裸になって温泉に入った。
「夜になると温泉が湧いて気温も上がるから、それで虫たちも冬眠しないんだな」
「だから発育も良すぎるみたいだな」
 そうやって温泉に浸かりながらくつろいでいると、突如近くで地響きがしだした。




次へ   目次へ