17.影 の 男
夕陽が空も大地も赤々と染めていた。見渡す限り、乾いたバイテンの荒野がどこまでも続いている。地平線の向こうに、光も弱まってもうすぐ今日の勤めを終え、床に入ろうとしている太陽があるだけだ。
「今日はこの辺りで野宿するか」
オクスは担いでいた麻袋を開き、中から携帯食を取り出した。
「おい、あれは何だろう?」
ファントムが南の方角を指差して言った。
「ええ?」
オクスはファントムが指差した方を見やった。街道のずっと先の方で、豆粒ほどの影が二つ、くっついたり離れたりしているのがわかった。
「何してんだ? 人間か?」
「人間だろうか? 近くへ行ってみようか?」
「いや、あんな遠くまで行くのは面倒だ。どうせ旅人だろう」
オクスは近くにあった石の上に腰を下ろすと、干肉を食い始めた。だがファントムはどうも二つの影が気になって、しばらく目を凝らして様子を窺っていた。しかし二つの影は相変わらずくっついたり離れたりしていて、近づきも遠ざかりもしない。
「何だか様子がおかしいぞ」
「世の中にはおかしな奴も多いんだ。一々気にすんなって」
オクスは干肉を食い続けたが、ファントムはそのまま南へ向かって駆け出した。
「おいおい、何だよ、また悪い癖が始まりやがった」
そう言うと、オクスは干肉を口の中に突っ込んだまま、仕方なく斧をつかんでファントムのあとを追いかけた。
「おーい、待てよー。そんなに急ぐなよー」
近づくにつれ、二つの影はだんだんはっきりしてくる。そばまで行ってみると、二人の男が剣を抜いて決闘しているのだった。一方は灰色のローブを身に着けた長身の男、もう一方は全身黒ずくめで、頭から顎まで黒い布をぐるぐる巻きつけて、両目だけ覗かせている不気味な奴。どちらにも凄まじい気迫が感じられる。二人は素早い動作で数合打ち合ってはまた離れ、近づいては再び打ち合った。
「どうする?」
ファントムは振り返り、後から追いついて来たオクスに訊いた。
「どうするって、どうしろってんだ?」
オクスは喘ぎながら答えた。
「事情も何も知らねえんだ。ほっとこうぜ」
「でも……」
ファントムはどうしていいかわからずに苛々した。
「このままだとどちらかが死んでしまうぞ」
「知ったことか。まあ、じっくり見物してやろうや。決闘の立会人だ」
「そんな! おい、二人ともやめろよ」
ファントムが呼びかけたが、決闘中の二人はもちろん聞く耳持たない。やがて灰色の方が押され気味になり、じりじりと後退しだした。
「おい、やめさせた方がいいんじゃないか? いい加減にやめろってば!」
「ほっとけ、ほっとけ」
オクスは戦斧を自分の体に立て掛けたまま、腕組みして見物している。
「なかなかやるじゃねえか」
黒い方は優勢になると益々勢いを増してきて、盛んに打ち込みだした。とうとう灰色の方が腿を斬られてよろめいた。黒い方は容赦せずに次の太刀を振り下ろす。灰色の方が受け止めたが、斬られた脚がその勢いを支えきれず、片膝がガクッと折れた。立て続けに黒が突いた。それでも灰色は剣で払ったが、払いきれずに肩を突かれた。続いてもう一突き、灰色はよけられずに右胸を貫かれた。
「もういいだろう。そこまでにしとけよ」
とうとうオクスが口を出した。二人の間に割って入ろうとすると、黒ずくめがいきなり躍りかかって来た。オクスは咄嗟に斧の柄で受け止めた。ガチーンッと物凄い音がして火花が散った。隙を衝かれて危ないところだった。
「てめえ、正気の沙汰じゃねえな」
オクスはムッとして、黒ずくめの相手になってやろうと身構えた。ファントムも急いで剣を引き抜いた。黒ずくめはオクスと向き合っていたが、今度はいきなり横にいるファントムに打ってかかって来た。不意を衝かれはしたが、ファントムは何とか相手の剣を受け止めた。夕闇の中に火花が散り、強い衝撃がファントムの両手に伝わってきた。黒ずくめの男の一打にはかなりの威力がありそうだ。
「ふざけた野郎だ。思い知らせてやるぜ!」
オクスはカーっとなって、戦斧を振り回しながら黒ずくめに向かって行った。黒ずくめはサッと飛びすさった。軽快な動きだ。
「てめえ、何もんだ?」
黒ずくめはオクスの問いには答えない。代わりにオクスに向かって突きを入れた。オクスはそれを受けると同時に得意の返し技を繰り出した。しかし黒ずくめはそれを受けると同時に、逆に返し技を出してきた。斧の柄の周りに刃を這わせ、続いて下から上へオクスの腹を切り裂こうとした。オクスはすんでのところで手元に来ていた柄尻の鉤刃で受け止めた。
ファントムが横から助太刀に入ると、黒ずくめはまたもや跳躍して、二人との間に距離を置いた。決して二人同時には相手にしない。片方と渡り合いながらも、常にもう一方の動きを膚で感じ取っているかのように見える。かなり格闘の場数を踏んできているようだ。
「油断ならない相手だぞ」
オクスは気を引き締めた。ファントムとて同じことだ。今度は黒ずくめはオクスに飛びかかる。オクスは柄で受けると見せかけて、サッと斧を体ごと退いた。次には柄尻が素早く黒ずくめに向かって突き出ていた。黒ずくめはサッと跳びすさった。必殺技だったが、黒装束の端を切り裂いたに留まった。その隙を衝いてファントムがすかさず跳び込もうとした。しかしその瞬間に、黒ずくめの左腕がサッとファントムに向かって上がった。ファントムは思わず柄を顔の前に持って行った。
鉄と鉄のぶつかり合う凄まじい音がした。小刀のような物が地面に落ちる。辛うじて弾き返したことがわかったが、相手は手裏剣をどこかに隠し持っていて、目はオクスの方に向けたまま、正確にファントムの顔面を狙っていたのだ。指にかすったようで、血が流れ出して剣の柄を濡らしていた。ファントムは冷や汗がどっと噴き出るのを覚えた。
「畜生! もう許さねえぞ!」
オクスは戦斧を嵐に吹かれた風車のように猛烈に回転させながら突進した。黒ずくめはそれでも斧の動きを捉えているのか、サッと剣を出して回転する戦斧を受け止めてしまった。しかしそこまでだった。ガキッと音がしたのと同時に黒ずくめの手にした剣が真っ二つに折れ、一瞬止まったかと思われたオクスの鎮魂の戦斧の刃が落下した。たちまち黒ずくめの上腕部から血が滴り落ちた。
オクスは更に穂先で突いた。しかし黒ずくめは少しも動揺していないのか、折れた剣でそれを払うと、そのまま後ろへ跳び退がった。ほんのわずかの間、黒布の奥に光る目でオクスとファントムを交互に睨んだあと、サッと身を翻して南へ向かって風の如く逃げ出した。
「逃がすもんかっ!」
オクスは斧を放り出すと、肩の弓を執り、素早く背中の矢筒から矢を一本抜き取ってつがえた。キリリと強弓を引き絞り、走り去る黒ずくめの背中目がけて矢を放つと、ビュンッと矢唸りがして、矢は正確に黒ずくめの背中に届いた。だが黒ずくめは折れた剣を背後に振り、矢をいとも簡単に払い落としてしまった。そのまま振り返りもせずにどんどん突っ走って行く。
「ちぇっ、取り逃がしたか」
オクスは舌打ちをすると、黒ずくめのことは諦め、戦斧を拾い上げた。
「強敵だな」
「ああ」
「何者だろう?」
「知るもんかっ」
オクスは不愉快らしく、吐き捨てるように言った。
「そうだ」
ファントムは刺された灰色のローブの男に急いで駆け寄った。男はまだ息をしていたが、出血がひどく、ぐったりとしている。
「おい、何があったんだ? あいつは一体何者だ?」
頭を抱え上げてみたが、男は瀕死の状態で、もう助かりそうにもない。
「イジート。ディングスタの……手飼いの刺客……」
「!」
「ワーレフに伝えてくれ。タンメンテにいる……。アヴァンティナがサラワンと……オーヴァールの間を分断……して連絡を絶つ……気だ。セイレーンもディングスタに……ついた。オーヴァールに知らせ……ないと……」
男の眼球が動かなくなる。
「おい、しっかりしろ! もっと詳しく話してくれ! おまえの名前は?」
だが、男はもう息絶えていた。
「もう駄目だ。死んでる」
後ろから覗き込んでいたオクスが言った。その様子を黒ずくめの男が遠くの岩陰から窺っていたことに、ファントムもオクスも気づくはずがなかった。
二人は死んだ男を荒野に埋めてやった。持ち物を調べてみたが、手掛かりらしい物は何もなかった。手掛かりは男が残した『タンメンテにいるワーレフ』という言葉だけだ。ファントムはワーレフを知っている。一度だけ会ったことがある。エルフでヘーシンの弟だった。ヘーシンがディングスタに捕らわれたのは知っているが、ワーレフは逃げ延びたのだろうか? この男もかつてはディングスタの一味だったのだろうか?
「タンメンテへ行ってみないか?」
不意にファントムはオクスに言った。
「遺言を伝えてやるのか? ワーレフとかいう奴に」
「そうだ。別に親切でするんじゃない。あいつは聞き捨てならないことを言ってた、アヴァンティナがサラワンとオーヴァールの間を分断すると。ということは、ディングスタはエトヴィクに攻め込む気だ。セイレーンもアヴァンティナも今はディングスタについているのなら、もちろんそのあとはタウを狙うに決まってる」
「なるほど。若先生が考えてた通りになってきたが、それよりずっと素早いな。とてつもない野郎だ、ディングスタって野郎は」
二人は荷を置いてきた辺りに戻ってみたが、暗くて荷が見つからない。
「しょうがない。明日の朝見つけよう」
そう言うと、オクスは地べたに寝転がった。
「夜中になったら交代だ。それまでしっかり番をしててくれよ。あいつが戻って来ないとも限らないからな」
そう言ったかと思うと、オクスはあっと言う間に鼾をかき始めた。
ファントムはディングスタの作戦をワーレフに伝えることに疑問を持った。第三者が関わることではないと思っただけではない。サラワンからオーヴァールへ救援の使者を行かせないことがディングスタの狙いだとは容易にわかる。それならディングスタは流血を極力避けようとしているのではないか。これをもしワーレフに伝えれば、オーヴァールに伝わり、早速大戦争になるかもしれない。それなら知らせるべきではない。エトヴィクが攻められようと関係のないことだ。
そもそもエトヴィクの現在の国王トランツは、正統の王位継承者ではないという。正統の王位継承者は、今アウグステ寺院にいて尼のなりをしているエテルナ姫だ。無論ファントムにとっては王家の血筋の問題などどうでもよいことだったが、チャカタンにいた頃、トランツが国民から嫌われているのを目の当たりに見聞きしていたから、王がトランツであるなら、ディングスタに倒された方がむしろ国民のためであろうとも思える。
あの男の遺言をワーレフに伝えるべきか否か、今になってファントムは非常に迷った。秋の荒野の夜は急速に冷え込んでくる。オクスが寒さに丸くなっているのが、昇ったばかりの下弦の月の淡い月明かりによって認められた。
翌日、明るくなってから荷物を捜すとすぐに見つかったが、朝めしを食おうと中を覗いてみると、袋の中がほとんど空になっていた。帰り途に備えてアルバで買い込んできた食糧がほとんど失くなっていた。
「こりゃ一体どういうこった? もっともっとたくさんあったはずだぞ」
オクスは残っていた食い物のかけらをつまみ出した。それには齧った痕が残っていた。
「袋の口を開けたままにしておいたから、野鼠か何かにやられたのかな?」
仕方なく、二人は残った食糧のかけらを口の中に放り込むと、水筒の水を飲んで早々に出発した。
「タンメンテへ行こうか、それともよそうか?」
途中でファントムが言い出すと、
「何だ、行くんじゃないのか? 俺は行っても構わないぜ。どうせ根なし草の身だ」
「ゆうべ考えたんだけど、ピグニアがエトヴィクを攻めることを、オーヴァールには知らせるべきじゃないかもしれないと思うんだ」
「そんなこと言われたって、俺にはよくわかんねえな。まあ、サラワンに着いてから気の向いた方角に行けばいいさ」
途中で出会った隊商から食糧や水を分けてもらいながら、ファントムとオクスはアルバを発ってから六日目にサラワンまで戻って来た。その晩はとりあえず安宿に泊まり、西へ向かうか南に帰るか決めることにした。
「まずその前に酒だ。酒が入らないと頭の血の巡りが良くならないから、考えごともできねえだろう?」
オクスは自分に都合のいいように理屈をつけて、ファントムを無理やり酒場へ引っ張って行った。
結局その日は宿に戻るとすぐに寝てしまい、どちらへ行くかは翌朝目醒めてからあっさりと決めてしまった。世界一美しいと噂に聞くオーヴァールの都、旧トスニカの町を一度見てみたいというのと、スヴァンゲル川に架かる世界一長い橋を渡ってみたいとオクスが突然言い出したことで、西へ向かうことにした。
ファントムはどうしていいのか自分では決めかねていたので、酒の威力で考えついたというオクスの気まぐれに合わせることにした。別に急いでタウに戻る理由もなかった。タンメンテまで足を延ばすかどうかを決めるのは、オーヴァールに着いてからということにした。
サラワンの町をぶらぶら見物しながら、やがて二人は西の門からトスニカ街道に出た。この街道に沿って真っ直ぐ行けば、四日ほどでオーヴァールに着くはずだ。
「しこたま食糧を買い込む必要なんかなかったな」
四半日も歩くと宿場に出くわし、夕方にはまた宿場に辿り着いた。隊商や旅人の往来も盛んだ。オクスは宿に着くと、四日分として買い込んだ食糧を半分ほど平らげてしまった。
「しかし何か物足りねえなあ。あったかい食い物と酒がありゃあいいんだが」
「まだ食う気か?」
ファントムが目を丸くしたが、オクスは気にしないで、女中を呼んで金を渡すと、料理と酒を運ばせた。
「この世界の人たちがみんなおまえみたいなのばかりだと、たちまち食べ物がなくなってしまうぞ、きっと」
酒を飲みながら大皿のシチューを掻き込むオクスを見て、ファントムは呆れて言った。
ところが翌日宿を出て、宿場町を歩いていると、
「おい、つけられてるぞ」
オクスが囁いた。ファントムは思わず振り返った。離れた所にあの黒ずくめがいた。
「あいつだ、イジートだ」
「ああ、さっき気がついたら後ろにいた」
「まだやる気なんだろうか?」
「人通りのなくなったとこでやる気だろう。あいつはイカれてやがるぜ」
それからは二人して急ぎ足になったが、黒ずくめもそれに合わせてついて来るようだった。
「なんで俺たちを狙うんだろう?」
「あいつが殺した男の遺言を聞いてやったからだろう」
「どうしてそれを知ってるんだ?」
「俺に訊いても知るか。返り討ちにしてやるから、その時あいつに訊いてみろよ」
やがて宿屋の並びが途絶え、街道は畑の真ん中に出た。
「そろそろ襲って来そうだな」
周囲を見回すと、人っ子一人いなかった。
「あそこで待ち伏せてやろう」
オクスの視線を辿っていくと、その先には果樹園があった。熟れた葡萄の実が下がった棚や、林檎の木が植わっている。二人はサッと林檎園の中に身を隠した。息を潜めて木の陰から窺っていると、イジートも葡萄畑の方にスッと入り込んだ。それからすぐに二人ともイジートの姿を見失ってしまった。
「どこへ消えたんだ?」
ファントムがオクスに囁きかけた。
「わからん。見失っちまった」
ファントムは腰の剣をそっと抜いた。とその時、目の前の葉が飛び散り、すぐ後ろの幹に矢が立った。
「弓を持ってるぞ!」
二人は咄嗟に林檎園を駆けた。走っている途中に、今度は目の前で林檎の実が矢に貫かれて飛び散った。
「どこから撃ってるんだ?」
「左からだ。おまえは前へ行って回り込め。俺は反対側から行く」
オクスはファントムの耳にそう囁くと、サッと踵を返して元来た道を逆戻りした。こちらは相手の居場所もはっきりとつかめないのに、向こうはこちらの動きを完全に把握している。待ち伏せして討つはずだったのが、これでは立場が全く逆だ。
「どこから見ているんだろう?」
ファントムは恐怖にゾッとしたが、すぐさま臆病風に吹かれた自分を振り切って、全力で前へ走った。途中で急に左に折れ、一本の樹木の陰に身を潜めた。耳を澄まして周囲の様子を窺ってみたが、何の気配もなさそうだ。神経を張り詰めさせたまま、ファントムはゆっくりと次の木陰へ移動した。額を汗の玉が流れ落ちる。
そのままの体勢で様子を窺いながらそろそろと進むと、地面に敷いてあった藁の中から突如尖った長い物が突き出てきた。反射的に剣で払うと、長い物の先が切れてすっ飛んだ。手槍だった。息つく間もなく、手槍に続いて地面から黒ずくめの男が飛び出て来た。今度は三日月刀を手にしていて、ファントムに向かって猛烈に斬りつけてきた。ファントムは必死に剣で受け交わした。
目の前で何度も閃光が飛び交った。イジートの攻撃は凄まじい。受けるのがやっとだ。ファントムは木を巻くように後退した。イジートの三日月刀に切られて、林檎の枝葉や実がバサバサッと飛び散る。ファントムは夢中で別の木の根元へと跳んだ。それも逃さず、イジートの三日月刀の刃がすぐさま降って来た。
ところがファントムが上体を下げてこれを交わすと、勢い余った刃が木の幹に深々と食い込んでしまった。しめたと思ったファントムが、剣の柄を両手にしてイジートに突きかかろうとしたその刹那、目の前が真っ白になり、次には痛くて目が開けられなくなった。どうやら目潰しを食らったようだ。考える間もなく、ファントムは攻撃をやめて横に跳び、地面の上を転がった。
だがイジートの攻撃は飛んで来なかった。三日月刀が抜けなかったのだろうか。しかし考えているゆとりは今のファントムにはなく、次々に転がって逃げようとした。そこへオクスの駆けつけて来る足音がした。次にバサーッと木が倒れる音が聞こえた。オクスが斧で伐り倒したのだろう。さんざん怒鳴って、イジートに斧を打ちつけているようだ。しかし木が倒れる音や、実が藁の上に落ちる音ばかりがする。巧く攻撃を交わされているのだろう。
やがて音がしなくなった。オクスがファントムに近寄って来る。
「大丈夫か?」
ファントムはオクスの声を確かめると、かざしていた剣を下ろした。
「目潰しでやられただけだ。あいつはどうしたんだ?」
「逃げてったぜ。あの野郎、一体どこに隠れてやがったんだ。木の幹にでもへばりついてやがったのか?」
「地面に潜ってたんだ。もう少しで危ないところだったよ」
オクスはファントムを助け起こすと、街道の方へ連れて行った。
「とにかく早いとこここから離れよう。こういう場所だとかえってあいつに有利だ」
「ああ、わかってるさ。次は開けた場所で徹底的にやってやる。今度こそ息の根を止めてやるぜ」
二人は足早に果樹園から離れた。
サラワンを発って三日目の夕、プレト最大の大河、スヴァンゲル川が見えてきた。川幅の広い中下流域に架かる唯一の橋がこの先にはある。ファントムとオクスは川岸にしばし佇み、ゆったりと流れて行く水と、遥か彼方に浮かんでいる対岸を見た。その向こうの地平線に沈み行く夕日が、川面の揺らめきに淡い光を投げかけていた。その光の中に浮かび上がった小舟と漁師の影が、鮮やかな対比を成している。
やがて荷馬車がごとごととのどかな音を立てながら、西から橋を渡ってきた。この絶え間ない流れの向こうは、二人の知らないサラデー平原であり、この長い橋を渡ると、そこは英雄デロディアの治めるオーヴァールの国なのだ。
「こんなに長いとは驚いたな。これじゃ渡ってるうちに日が暮れちまうぜ。今日はここで寝るとするか」
オクスは川沿いに民家を見つけて指差した。
「ちょうどいい所に家がある。あそこで泊めてもらおう。もう野宿は寒くて敵わん」
「それがいいよ」
二人はその夜は川縁の民家に泊めてもらった。泊めてくれた家の者たちは、親切な漁師の一家だった。その晩は一家からトネクトサス沼に棲息する様々な生き物のことを聞かされた。その中でも特に住民たちが恐れているのが、ヒュドラという首が九つもある蛇の化け物で、その吐く息は草を枯らし、水を有毒にしてしまうという。そのため、スヴァンゲル川下流域の広大なその沼地には、今では人は誰一人として入り込む者はいないそうだ。漁師たちもスヴァンゲル川とランデ川との合流点より下流へは、絶対に舟を入れようとはしないそうだ。
翌朝、二人は漁師の一家に礼を言って別れを告げると、いよいよ長い橋を渡り始めた。その日は偶然にスヴァンゲル川が逆流現象を起こした。九十九年に一度起こり、これが起こるととんでもない災いがやって来ると地元民の間では信じられているのだが、もちろんファントムもオクスもそんなことを知る由もない。ただひたすら不思議な自然の力に見とれていた。
「ヒュドラを退治すりゃあ、たちまち俺たち英雄になれるだろうなあ」
橋を渡りながら、オクスは下流の方を眺めやって突然言い出した。
「そんな恐ろしい怪物になんか出会いたくないよ」
「別に退治しに行くなんて言ってねえぜ」
「トネクトサス沼にだけは入らないように気をつけよう。何だったっけ、ヒュドラとかバジリスクとか巨人とか、いろいろ言ってただろ。聞いただけでも嫌になる。人なんかまさか住んでないだろうな」
「ああ。だいたいあんなとこに入ってく用事なんかあるわけないさ」
ちょうど橋の真ん中辺りまで来た頃、前方から隊商がやって来た。隊商の一団が通過すると、そのあとに、欄干に凭れ掛かって一人でじっと川面を眺めている者が見えた。頭のてっぺんから足の先まで黒ずくめだ。矛を欄干に立て掛けている。
「おい」
ファントムはオクスの袖を引っ張った。
「あいつだ、イジートだ」
オクスは黒ずくめを凝視したまま、速度も緩めずに歩いて行く。
「しつこい奴だ」
ファントムはそう言うと、腰のカーマン・ラムゼリーに手を掛けた。
「今度こそ片をつけてやるぜ」
オクスは鎮魂の戦斧の柄を両手できりりと握り締めた。近づいて行くと、イジートはおもむろに矛を手に執り、二人の方に向き直った。
「一本しかない橋の上で待ち伏せているとは、よっぽど俺たちにオーヴァールへ行ってもらっちゃ困る理由でもあるみたいだな、よう、イジートさんよ!」
オクスは前方の黒ずくめに向かって怒鳴った。返事はない。代わりに矛先を二人の方に向けた。それを見てファントムも剣を抜いた。橋はその長さの割には幅が狭い。
「どうやらここでおまえさんを殺らないと、向こう岸へ行けないようだな」
オクスはそう言うと同時に、イジート目がけて飛びかかって行った。オクスの戦斧とイジートの矛が打ち合って火花を散らす。オクスはそのまま押し込んで、向こう側へ抜けた。反転して今度はゆっくりと身構える。オクスの一瞬の作戦は巧く行った。たちまちファントムと二人でイジートを挟み討つ形勢となった。しかしイジートは少しも慌てた様子を見せない。
「気をつけろ! 何か隠し持ってるぞ!」
ファントムは向こう側に回ったオクスに呼びかけた。それを聞いたイジートは、顔に巻きつけた黒い布の奥に光る二つの目でファントムを睨みつけた。
オクスが再び斬りつける。イジートはそれを受ける。ファントムも同時に剣を薙いだ。その瞬間、イジートの体が宙に舞った。二人は呆気に取られたものの、ファントムは咄嗟の勘で、イジートが自分の後方に飛び降りると悟り、背後に向かって剣を斜めに撥ね上げた。ガキッと鈍い音がした。イジートは黒衣の内側に鎖帷子を着込んでいたようだ。それにしては恐ろしいほどの跳躍力だった。しかし手応えはいくらかあり、名剣ラムゼリーの切っ先は鎖帷子をも断ち切ったようだった。
ファントムの背後に降り立ったイジートは、とっとっとっと数歩後ずさり、それからよろめいたかと思うと、欄干を越えて川の中へと転落した。ドボンッと音がして、水飛沫が上がった。二人は急いで橋の下を覗き込んだ。濁った逆流が橋桁を洗っている。イジートの姿は見えない。
「殺ったか?」
とオクスが呟いたその時、ザバッと水面にイジートの上体が飛び出したかと思うと、瞬時にして口にくわえた筒から吹矢が飛ばされた。ファントムは反射的に片手を顔の前に持って行ったが、
「うっ!」
と呻き声を上げ、オクスが驚いて見ると、手首に小さな矢が突き刺さっていた。イジートはそのまま水の中へと消えてしまった。
「やばいっ!」
オクスは急いで服を裂いて、ファントムの肘を強く縛った。
「毒矢かもしれないぞ!」
オクスは急いで向こう岸へファントムを連れて行き、オーヴァールの兵士に毒消しをもらって手当てしようと思ったが、既に遅かった。ファントムは急に目眩を覚えたかと思うと、次には橋の上にばったりと倒れてしまった。
「しっかりしろっ!」
と言っているオクスの声が聞こえているように思えたが、そのあとすぐに目の前が真っ暗になった。
「やっと気がついたか」
ファントムが目を開けると、そこは宿の一室のようだった。
「どうしたんだろう?」
「あの黒い野郎に毒矢でやられたんだ。幸いあのあと、ちょうど後ろから隊商が来ていて、運良く毒消しを持ってたんだ。それで何とかおまえは命を取り留めたのさ。もう丸二日意識をなくしたままだったんだぜ」
「そうか……。ここは?」
「もうオーヴァールだ。その隊商の車に乗せて来てもらったんだ。今いる所はトスニカの町の宿屋の中さ」
ファントムは黙って頷くと、窓の外に目をやった。もう夜になっていて、ちょうどそこから窓の外に月が見えた。まだ頭がぼうっとしていて、目も霞んでいる。月の輪郭がはっきりしない。ファントムは懐に手を入れた。手もまだ少し痺れている感じだ。彼はプレトの護符を握り締めた。
「こいつのお蔭だ」
「何だって?」
ファントムの呟きの意味がわからず、オクスは訊いた。
「その隊商はどうしたんだ?」
「もう行っちまったよ。心配するな。礼はたっぷりしといたから」
「そうか、ありがとう」
ファントムはまた意識が薄れてきて、深い眠りに陥ちた。
翌朝はまだ暗いうちに目が醒めた。起き上がろうとするとまだ全身が重い感じだが、かなり回復したようだ。オクスは椅子に掛けたまま、天井を向いて眠りこけていた。疲れが溜まっている様子だ。
(もしこいつに出会わなかったら、俺はとうの昔に命を落としてただろう)
ファントムは何度も共に修羅場をくぐり抜けてきたオクスに、改めて感謝せずにはいられなかった。
しばらくしてオクスが目を醒ますと、二人して宿を出た。初めて見るトスニカの町は、噂通りの美しい都だった。建築物の壮麗さもさることながら、街が木々や花々と見事に調和していて、まさに桃源郷と言えた。ファントムは体がふらついていたけれども、街並の美しさに目を奪われて、いつしかそんなことは忘れていた。
街には所々に池があり、穏やかに澄んだ水面に、建物や紅葉した木々の影を映していたり、水鳥が浮かんでいたりする。街中に所々で泉が湧いていたりして、子供たちが遊び戯れていたり、女たちが洗濯していたりもする。トスニカが水の都とも呼ばれる所以だ。
オクスの方はと言うと、こっちはあまり景色などに心を奪われたりはしない質の人間だ。旨い朝めしを食わせる店はないかと捜しているようだ。
朝食をとったあと、二人はオーヴァールの王宮の前までやって来た。王宮前の広場には、朝から大勢の人たちが集まっていた。
「何があるんだろう?」
好奇心も手伝って、二人はしばらく群衆の中にいた。やがてにわかに歓声が上がった。見ると、王宮正面のバルコニーに年老いた男女が姿を現していた。その身なりや、多くの者たちが付き添っているところから、恐らくデロディア王と王妃なのに違いない。
「ありゃあ王様かい?」
オクスがそばにいる男に訊いてみると、
「そうだ」
「これから何が始まるんだ?」
「朝のご挨拶だ」
男は当たり前だろうと言いたそうな顔をしてみせたが、すぐにバルコニーに向かって手を振り始めた。民衆に応えて、王と王妃も手を振っている。
「何だか信じられないなあ。一体どうなってんだ?」
オクスが思わず洩らした。信じられないという言葉にはファントムも同感だった。
「あれじゃあ、簡単に暗殺だってできるぜ。なんて不用心なんだ」
オクスが洩らした感想もそうだが、ファントムにはむしろ、毎朝挨拶に集まって来るこの町の民衆の方が信じられなかった。
「きっと素晴らしい王様なんだろ」
「ああ」
オクスは口をぽかんと開けたまま呆然としている。それにしても、あれがデロディア王だとすれば、何だか拍子抜けしたような気になった。『草原の覇者』とか、『西の蛮王』とか呼ばれたことがあるとはとても思えない見た目の印象だった。確かに柄が大きくて、厚い衣装の下はきっと筋骨隆々としているのだろうが、白い髯を貯えた表情はあまりに優しすぎ、病んでいるのだろうか、よぼよぼしているといった感を免れない。
手を振るのが済むと王は王宮内に引っ込み、民衆は散って行った。
「おかしな国だな」
通りを歩きながらオクスが言った。
「でもいいとこじゃないか」
「そりゃまあそうだけど。あれでディングスタと戦って勝てるかな?」
「さあ、どうだろう」
ファントムとオクスはやがて広いトスニカの町を抜け、再びタンメンテへ向けて旅立った。肥沃なサラデー平原の草原や田園地帯を通り、トスニカを発って三日目の夕方には、スヴァンゲル川上流域にあるタンメンテの町に到着した。
「ここもかなり大きな町だなあ」
町の門をくぐった二人は、しばらく途方に暮れて立ち尽くした。
「来るには来たけど、この広い町でワーレフとかいう奴を捜し出すのは、森の中でキノコを見つけるのとはわけが違うぜ」
「ヴィ・ヨームの時だってすぐに見つかったじゃないか」
「そんなにすぐってこともなかったぞ。そもそもあの人は俺たちがやって来るのを知ってたんだし」
「とりあえず酒場にでも行ってみよう」
酒場と聞いて、オクスは嬉しそうな顔をした。二人は近所に酒場を見つけて入って行った。まずは酒場女にワーレフを知らないかと尋ねてみたが、誰も知らないと答えた。
「エルフなんだ。以前はしばらくアルバにいて、またここに戻って来てるはずなんだ」
「エルフならそんなにいないから、すぐに見つかるでしょうよ。オスト地区へ行って訊いてみたら? あそこにエルフの居住区があるから」
ファントムは酒場女にオスト地区への行き方を教えてもらうと、まだしつこく酒瓶に抱きついているオクスを酒場から引きずり出し、暗くなってしまった通りを急ぎ足で歩いて行った。
「何慌ててんだよ。明日にしようぜ」
オクスは行くのを渋った。
ファントムはオスト地区までやって来ると、灯の燈った一軒の民家の戸を叩いた。戸を開けて出て来た太った女に、エルフの居住区はどこだと尋ねた。女に教えてもらった通りに行くと、確かにその辺りにはエルフがうろついていた。その中の一人を捕まえ、ワーレフを知らないかと訊いてみる。
「知ってるが、何の用だ?」
「ワーレフに大事な話があるんだ」
「じゃあ呼んで来てやるから、ちょっとここで待ってろ」
しばらくすると、とある建物から続々とエルフたちが出て来た。手に手に武器を持っている。
「何だかやばそーな感じだぜ」
言いながらオクスは戦斧を握り締めた。知らないうちに後ろからもエルフたちが集まって来ている。
「何の真似だ、これは?」
ファントムは油断なくラムゼリーの柄に手を掛けて尋ねた。
「裏切り者の手先だ。生かして返すな!」
エルフの中の一人が大声を上げた。
「おい、ワーレフ、勘違いするな! 俺はファントムだ。ディングスタの回し者なんかじゃないぞ!」
ファントムは今し方大声を上げたエルフに向かって声を張り上げた。ワーレフらしき者がファントムの前に進み出て来る。そしてランタンで顔を照らした。
「ああ、こいつなら知っている。みんな、もう構わないぞ。こいつはディングスタの仲間になり損ねた奴だ」
ファントムはワーレフの言いぐさに少々腹を立てたが、そこは我慢して顔には出さなかった。何しろ今は形勢不利だ。このエルフたちを刺激してはまずいと考えた。
「俺に一体何の用だ?」
ワーレフはファントムとオクスを建物の中の一室に招き入れてから訊いた。
「灰色のローブを着た背の高い男を知っているか? そいつからタンメンテへ行ってあんたに会うように頼まれたんだ」
「アーサーだろう」
ファントムはイジートに殺された男の形見の品を取り出してみせた。
「間違いない、アーサーの物だ。で、何を頼まれた?」
ワーレフは身を乗り出してきた。
「そいつは死んだよ」
「何っ!」
「荒野の道で、イジートというディングスタの手下に殺られた。俺たちはたまたまそこを通りかかったんだ」
「イジートだったら少しは知っている。それにしても、アーサーともあろう者が不覚を取るとは……」
ワーレフは顔をしかめたまま黙り込んだ。
「だけどイジートって野郎は結構やるぞ」
オクスが言うと、
「アーサーはダフネ一の騎士だったんだぞ」
「俺たちは目の前で二人の決闘を見てたけど、イジートの野郎の方が実際に勝ったぜ」
「俺たちはそれからというもの、オーヴァールに入るまでの間、何度もイジートから命を狙われたんだ」
ワーレフはじっとしかめっ面を崩さなかったが、思い出したように視線を上げた。
「あいつは常人じゃない。殺しが唯一の生きがいだ。と言うより、あいつには生死ということが全くわかってない」
「ほんとにそうみたいだったな」
「しかしここにいればまず安心だ。ここはオーヴァールだ。ここにいるといい」
「いや、そうもいかないんだ。もう用は済ませたから、俺たちはタウへ帰るよ」
ファントムはそう言って立ち上がった。ワーレフを初めとするここのエルフたちを信用していいのかどうか、彼は疑問に思っていたからだ。
「わざわざ来てくれたんだ。今晩はここに泊まっていってくれ。すぐに部屋を用意する」
「じゃあ、泊めてもらおうか」
オクスが言った。
「アーサーは他に何か言ってなかったか?」
「いや、きみに会えと言っただけだ」
「そうか」
ワーレフは部屋から出て行った。
「あのことは言わねえのか?」
オクスがファントムに囁いたが、
「アーサーには悪いけど、様子を見てからだ。そんな簡単に口にすることができる話じゃないし、まだワーレフの味方につくって決めたわけでもない。それに、このことはワーレフじゃなくて、デロディア王に直接伝えたっていいわけだ。王様に会えるはずがないけど」
オクスは王宮のバルコニーで民衆に向かって手を振っていたデロディア王の姿を思い出してみた。
「あの王様なら結構簡単に会ってくれるかもしれないぞ」
「とにかくエトヴィクとピグニアの問題だし、俺たちはスパイじゃない。ようく考えてから決めようじゃないか」
「まあ、おまえの好きなようにしなよ。俺はもう知らねえぜ。煩わしいのはごめんだ」
二人は戻って来たワーレフに案内され、その晩はエルフの居住区で過ごした。
翌朝タウに戻る二人を、ワーレフはオスト地区の外れまで見送りについて来た。
「タウに戻るんだったら、俺の友人のムーンを訪ねるといい。タウには珍しいエルフの魔法使いだ。きっときみたちの力になってくれるだろう」
「それじゃあ、魔法に用がある時は訪ねてみるよ。ところでワーレフ、アーサーはあんな場所で何をしてたんだろう?」
「何もしてない。俺は必ずあいつの仇を取ってやる。そして捕まった仲間たちを助け出してやる、必ず」
ファントムとオクスはそのままワーレフと別れた。
「これじゃあタンメンテまで何しに来たのかわかんねえな」
「いいじゃないか」
ファントムはやはり、恨みだけに凝り固まっているワーレフには、アーサーの遺言を教えなくて良かったと思った。
「カルディの家にも行かないと」
「ああ、気が重いけどな」
二人はしばらくの間、トスニカの方角へ向かってタンメンテの街中を歩いていたが、急にファントムが立ち止まった。
「そうだ、わざわざここまで来たんだ。この際もう少し足を延ばして、ロカスタまで行ってみないか。ベレスドークを訪ねてみよう」
「あんな奴に会ってどうしようってんだ?」
「いいじゃないか。剣聖サンジェント公を見ることができるかもしれないし、もしかしたら、ダントンとマリオネステもロカスタにいるかもしれない。いや、きっといるはずだ」
二人はタンメンテから北へと向きを変え、三日かけて剣聖サンジェント公の治めるロカスタまでやって来た。ここは緑豊かな首都のトスニカと違い、砂漠の端に当たる乾燥地帯だ。北へ向かって少しばかり行くと、そこにはビヤンテ砂漠が広がっている。しかしステップにある交易の中心地であったため、町の規模はかなり大きい。オーヴァール国内の町にはどこにでも門番はいるが、通行証がなくともすんなりと町の中へ通してくれる。
ファントムとオクスはやがて、ロカスタの城の前までやって来た。公爵の居城は見上げるばかりの巨大な城砦だ。城の門番に名を告げ、親衛隊長のベレスドークに面会したい旨を伝えると、門番の一人が快く承知して城内へと入って行った。
「嫌に親切だな。ここの人間は怪しむってことを知らないのか」
まともには相手にされないだろうと踏んでいたのだが、門番の意外な反応に、オクスはここでも驚かされているようだった。
しばらくすると、ベレスドークが門番と共に拱廊を通ってこちらに向かって来るのが見えた。金糸で縫い取られた深紅の鮮やかなフロックコートを着て、腰にはサーベルを吊るしている。ベレスドークは二人を認めると、満面に笑みを浮かべながら歩み寄って来た。嬉しそうに二人の手を取って言う。
「これはこれは、オクス殿にファントム殿、とうとうご決心なさいましたか。では早速公爵にお引き合わせ致しましょう」
ベレスドークは二人をそのまま城の中に引っ張って行こうとした。
「いえいえ、違うんです。仕官しに来たんじゃありません」
「は?」
ベレスドークは二人の顔をまじまじと見つめた。
「タンメンテまで来たものだから、ついでに寄ってみただけです」
ベレスドークはさも残念そうな顔になったが、すぐに気を取り直すと、
「まあ、ここで立ち話もなんですから、とにかく中にお入り下さい。いずれにせよ、サンジェント公にお引き合わせ致しましょう。公は勇者にお会いになられることが何よりもお好きです。それに、マリオネステ卿も只今登城なさっておられますから、お呼びして参りましょう」
二人は城内の客室へ通された。ベレスドークはすぐに出て行った。しばらく待っていると、侍女を伴って戻って来た。
「マリオネステ卿はお役目がお済みになりしだいいらっしゃるそうです」
そう言うと、ベレスドークも椅子に腰を下ろした。付き従って来た侍女が三人の前に茶碗を並べ、茶を注いで回る。
「マリオネステ卿は帰国と同時にロカスタ全軍の武術総師範にお就きになられ、連日多忙のお身の上でいらっしゃいます。とは申しても、只今は公爵のお話相手をなされておりますから、間もなくやって来られましょう」
「へーえ、そりゃ偉くなったもんだ。それより酒はねえかなあ」
「おいっ」
ファントムはオクスの袖を強く引っ張った。
「わかってるさ。冗談に決まってるだろう。出てくりゃ儲けものと思っただけさ」
ベレスドークはそれを聞いて笑った。
「残念ながら、お酒の方は今しばらく差し控えて頂きます。と申しますのも、恐らくこのあと、お二方には公爵にお目通りして頂くことになりましょうから」
ファントムはその言葉を聞いて、内心少しばかりうろたえた。ちょっと旧友を訪ねて来ただけのつもりだったのに、話がいつの間にかサンジェント公との面会にまで進展してしまっている。
「面白い。相手が剣聖だというんなら、会ってやってもいいぜ」
その大胆な発言を耳にし、ファントムはオクスを睨んだ。
「それより、剣聖とやらのお手並拝見したいもんだな」
「さあ、そればかりはどうでしょうか? 確かに公爵は武芸が何よりお好きでいらっしゃいますが、臣下の前でそのお手並をお見せになるというようなことはなされたことがございませんから」
ファントムは慌てて、
「いえ、とんでもない。こいつの言うことなんか、一々真に受けないで下さい。こっちからお願いすることなんか何もありません」
「なんでだ? 俺は本気で言ってんだぞ」
オクスはむくれた。
「いいから、あまり大それたことは言うなよ。ところでダントンは、いえ、ダントン卿はいらっしゃるのですか?」
「ダントン卿は現在、軍政に参与なさるお立場。只今はこちらにはおられず、王都においでになられております」
「へーえ」
ファントムはダントンの落ち着き払って紳士然とした容貌を思い浮かべた。そうやってしばらく話していたが、話の合い間合い間にベレスドークはしつこく仕官の話を持ちかけてきた。二人はその度に、
「まだ修業中だから」
そう言って断った。
やがてマリオネステが姿を見せた。金の縫い取りのある濃紺のフロックを身に着け、胸には勲章を下げている。
「見違えるほどだ!」
ファントムが思わず声を上げた。
「やめてくれ、やめてくれ。今日は公と談義があったからこんな恰好してるだけだ。こんな物、堅苦しくてたまらないよ」
そう言うや、マリオネステはたちまち勲章の下がったフロックを脱ぎ捨ててしまった。そんなことしていいのかなあ、とファントムは思ったが、途端に昔のざっくばらんでひょうきんなマリオネステのイメージが戻ってきた。
「やっぱりこの人には貴族は似合わないな」
小声で呟いたつもりだったが、マリオネステには聞こえていたようで、
「そうだとも。俺も同感だ。そんなことよりこれから街へ繰り出そうじゃないか。いい女が集まってる店があるんだ」
と呆れたことを言った。ベレスドークはそれを聞き咎めて咳払いをした。
「お二方のお目見えの件はいかが相なりましたか?」
「ああ、そうだった。てっきり忘れてた。公はお会いになりたいとおっしゃって、青龍の間でお待ちになっておられる。しょうがないから、これからちょっと会ってくれるか? 何しろあのお方はこのところ暇を持て余しておられるのでな」
「そりゃ構わないけど……」
「では失礼ながら、お腰の物をお預かり致しましょう」
ベレスドークは二人に向かって手を差し伸ばした。
「なあに、構わんさ。公は剣や斧が殊の外お好きだ。ん?」
マリオネステはそう言ってから、オクスが手にした鎮魂の戦斧に目を留めた。
「オクス、そいつはいい斧だな」
そう言うや、鎮魂の戦斧をオクスの手から引ったくった。
「ああ。ドワーフの村でもらったんだ。トロールを始末してやったお礼にな」
「まずいなあ。おや?」
マリオネステは今度はファントムの宝剣に目をやった。鎮魂の戦斧をそのままオクスの手に押し返すと、ファントムのカーマン・ラムゼリーの柄を執り、サッと引き抜いた。しばらくじっと刀身を眺めている。
「どうしておまえごときがこんな代物を手にしているんだ? 怪しからんなあ」
「それは青い森で盗賊から奪ってきたんだ」
「ちぇっ、おまえはついてるなあ。これはもしかしたらラムゼリーだぞ。まあそんなことはないだろうが」
マリオネステの目はいつの間にか羨望の眼差しへと変わっている。
「そうだよ。カーマン・ラムゼリーだ」
「何っ!」
マリオネステは握り締めていた柄を何度も裏返して見た。
「益々もって怪しからんなあ。おい、こんな物ぶら下げて表を歩いてると、たちどころに喧嘩を売られるぞ。こいつは一角の剣士にとっちゃ、まさに垂涎の的だ。なあ、そうなる前にこいつを俺に譲る気はないか? 大事に使ってやるぞ」
「冗談言うなっ!」
ファントムはカッとなって、マリオネステからカーマン・ラムゼリーを引ったくった。
「冗談だよ。しかしなあ、やっぱりおまえたちは武器をここに置いていけ」
「なんでだ?」
今度はオクスが突っかかった。
「いいか、サンジェント公は大の名剣蒐集家だ。ご自身でもウラヌスとネプトゥヌスという二振りの名剣を持っておられるが、ラムゼリーは一本も持っておられない。オーヴァールにはラムゼリーはたったの二本しかない。
一本は国王陛下がグリフスをお攻めになった際にご入手され、もう一本はメルドール侯爵邸にある。故メルドール大将軍がラスカを攻め陥として降伏させた際、ラスカ王が大将軍に献上した四本のうちの一本だ。残念ながら、残り三本は大将軍の放蕩息子が売り払ってしまい、他国へと流れ、かつては六本のうち五本までがこの国にあったのだが、結局二本だけになってしまった。
実際、国王陛下がご愛蔵なさっていらっしゃるのはランデ・ラムゼリー・グリフスで、これは第四だ。メルドール家に残った一本は、ロンドネア・ラムゼリー・ラスカで、これは第六、ラムゼリーの中では最も価値が低い。とは言っても天下の名剣ラムゼリーには違いないが。ところが他国へ流出したラムゼリーのうちの一本が、なぜか無名の頃のディングスタの手に渡っていたんだ。これが何を隠そう第一と評されたトネクトサスだ。
トネクトサス・ラムゼリー・ラスカ、こんなふうにラムゼリーは刀身の付け根にカーマン半島の文字で、献上する王国の名を刻み込んだから、最後にかつての王国名がつけられて呼ばれている。例えば第三がビブリス・ラムゼリー・タマン。第五がサウトロス・ラムゼリー・エトヴィク。
では第二はどうなったか? 今俺はびっくり仰天して腰が抜けそうだ。第二と評されてはいても、第一と評する者も多いカーマンが、よりによっておまえの手の中に今あるとはな。ラムゼリーは自分の名を剣に銘打つことはしなかった。代わりに献上する王国の名を刻んだ。しかしカーマン・ラムゼリーは他の五本とは違い、どの王国の名も刻まれていない。これは何を意味するのか? もちろん献上品ではなかったということだが、もっと違った意味がありそうだ。なぜならカーマンの眼が柄に埋め込まれているからだ。
とにかくラムゼリーがどんなに値打ちのある名剣かと言うと、大将軍メルドールをして、『ラスカの地など欲しませぬ。爵位も勲章も要りませぬ。代わりにラムゼリーを』と、論功行賞の際に言わしめたくらいだ。その頃ロカスタ攻めを行っていたサンジェント公は、大将軍メルドールがラスカから手に入れたラムゼリー四振りを、国王陛下から下賜されたことなどお知りにならず、のちにロカスタの城と公爵の地位を賜わられてからそのことをお聞き及びになられ、『公爵など受けるのではなかった。ラムゼリーを所望しておけば良かった』と、歯ぎしりしながら悔やまれたという話だ。だからこんなモノ持っててみろ、たちまち有無も言わせず召し上げられてしまうぞ。おい、サムソン、ギルダー」
マリオネステは客室の扉を開け、廊下に侍立していた二人の兵士を呼び入れた。
「しばらくの間、この剣と斧を預かっといてくれ。大事な物だ。代わりに――」
マリオネステは素早くファントムとオクスから武器を取り上げると、部屋の中に入って来たサムソンとギルダーという二人の兵士にそれらを手渡し、それから二人の兵士の腰に下がっていたサーベルを鞘ごと抜き取った。それをファントムとオクスの前にそれぞれ突き出してから言う。
「これでも差しとけ。公から剣士のくせして剣を持たぬのかとか訊かれるとまずいからな。おまえたちならこの程度がちょうど似合ってるよ」
「ちぇっ」
オクスは膨れた。部屋から出て行こうとするマリオネステの姿を見てベレスドークが言った。
「男爵、そのお姿ではいささか……」
「ん?」
マリオネステは自分の恰好を見てから、慌てて脱ぎ捨てておいたフロックコートを取りに戻り、急いでそれを羽織ると、再び廊下に出て奥へと進んだ。
ファントムとオクスは広い廊下を通って、マリオネステとベレスドークに奥へと案内された。サムソンとギルダーの二人もあとからついて来る。階段をかなり上り、更に奥へと進んだ。とある扉の前でマリオネステとベレスドークは立ち止まった。扉の前に侍立していた兵士四人が、サーベルを捧げて敬礼した。
「ここでちょっと待ってろ」
マリオネステは部屋の中へと入って行った。少しすると中からファントムとオクスを呼んだ。サンジェント公は正面の椅子に腰掛けていた。かなり大柄で、髭面が恐ろしい。前に出ると威圧されてしまいそうだ。ファントムもオクスもどうしていいのか礼儀作法もろくに知らなかったが、とりあえず片膝ついてお辞儀した。
「ジャバドゥの弟子、オクスとファントムにございます」
マリオネステが公爵に二人を紹介すると、
「うむ」
サンジェント公は爛々と輝く大きな眼で二人を見据えた。
「ジャバドゥ殿はトスニカでは我が兄弟子であられたお人。天下第一の刀の使い手じゃ。師匠はご息災でおられるか?」
「長いこと会ってないから知らねえな」
オクスが顔を上げ、サンジェント公を睨み返して言った。ファントムはびっくりして頭を下げたまま、
「おいっ」
小声でオクスに呼びかけたが、オクスは片膝こそついたままの姿勢でいたが、平然とサンジェント公を見返している。マリオネステが慌てて、
「こ奴は無骨者故、礼儀作法というものを存じませぬ。平にご容赦を」
公爵に頭を下げてかしこまった。オクスはマリオネステの言いぐさが気に入らなかったようだ。
「ご容赦なんぞして欲しくもねえや。俺は公爵の家来でもあるまいし、会いたくもねえのにマリオネステとベレスドークに無理やり連れて来られただけだ。そこに礼儀作法とか言われたって、そんなもの知るもんかっ!」
そう怒鳴ると、たちまち絨毯の上にあぐらをかいてしまった。
「何じゃと?」
ファントムは体じゅうから冷や汗が噴き出した。マリオネステも言葉がない。下手に何か言おうものなら、かえって公爵を刺激してしまいそうだった。ベレスドークはオクスの声を聞きつけて、扉を開けて中に入って来た。それからはただおろおろしているばかりだ。
しばらく室内の空気が凍りついた。ファントムは、逃げようか、扉を蹴破って外にいる六人の兵士たちを突き飛ばし、武器を取り戻し、でも下にはまだたくさんいる、たとえ城から出られたとしても、オーヴァール国内から逃げ出すのは至難の業だ、どうしよう、とあれこれ悲観的な考えを頭の中で巡らしていた。
しかしサンジェント公が沈黙を破った。
「ワッハッハッハッハッ」
公爵のまるで獅子のような口から洩れた第一声は、扉も震えるばかりの馬鹿でかい笑い声だった。
「こやつは実に面白い奴じゃ。わしに睨まれた奴は、それが敵であろうと震え上がらなかった者は誰一人としておらぬというのに、オクスと申したの、おぬしは大した度胸の持ち主じゃ。ベレスドークが推挙するだけのことはある」
ファントムのみならず、マリオネステもベレスドークもほっと胸を撫で下ろした。
「そう言われたって、仕官なんかする気はさらさらねえぜ。ベレスドークが勝手に言ってやがるだけだ」
オクスは先程のぶっきらぼうな言い方を幾分和らげた。彼には相手の態度が気に入らないと、必ず故意に無礼な応対をしてみせるという悪い癖がある。相手の地位が高ければ高いほどそうだ。否、それが不当な身分差というものに対して無意識に抵抗してしまうという彼の魅力の一つでもあるのだが。
サンジェント公は度量の狭い人物ではなかった。むしろその逆だ。決して礼儀作法などにこだわってそれをとやかく言ったりはしない。単に家臣たちが公爵の物凄い威厳に気押され、みんな堅くなっているだけなのだ。サンジェント公に面と向かって全く気押されることのないのは、オーヴァールにはデロディア王一人しかいない。
マリオネステも、家臣の中では最も率直に公爵に対して物が言える度胸の持ち主なのだが、そのマリオネステでさえ、オクスがあぐらをかいて床の上に座り込んでしまうという突拍子もない行動をとった時には、公爵の怒りに触れ、自分がロカスタ城から追い出されることを覚悟したくらいだ。冗談半分とはいえ、ベレスドークを連れてピグニアへでも仕官しに行こうかという考えも浮かんでいたところだった。
サンジェント公はおもむろに立ち上がった。
「仕官のことは慌てずとも良い。まずはゆっくりと他国の話でも聞きたいものだ。実を言うと、わしも礼儀作法は大の苦手でな、ハッハッハッハッ。ここでは息苦しくなる故、広間にて酒でも酌み交わしながら語り合おうではないか」
酒と聞いて、オクスの頬はたちまち緩んだ。奥にある扉が向こう側へと開く。その広間には既に料理を載せたテーブルが用意されてあった。サンジェント公は広間へと歩いて行く。
「さあ、おまえたちもあっちの部屋へ移って席に着かせて頂くんだ」
マリオネステはファントムとオクスに向かって言い、自分もサンジェント公のあとについて広間の方へ行った。
「こりゃすげえご馳走だ! 鬼のような奴かとばっかり思ってたら、公爵さんも結構気が利くじゃねえか」
オクスはテーブルの上に並べられたご馳走の数々を見て、舌なめずりした。
「おい、少しは言葉を慎めよ」
ファントムはオクスをたしなめたが、
「わかってる、わかってるって。それにしてもこいつはすげえや。ロカスタ料理がたっぷり味わえるぞ。やっぱりここに来て良かったなあ」
「ちぇっ、いい加減な奴だ」
ファントムは苦笑いをして舌打ちした。
晩餐が始まる前に、サンジェント公が従者に主だった重臣たちを呼びに遣らせた。しばらくして重臣数名が順次広間に入って来た。文官のメイソール、ブリューエンに、武官のブレア、レクサム、ハイザムといった面々だ。メイソールとブリューエンの二人の文官は、サンジェント公の補佐官としてデロディア王の勅命によりロカスタに派遣された者たちで、それぞれ伯爵と子爵という爵位を持ち、ロカスタにおいてはサンジェント公に次ぐ位にあった。サンジェント公の部下ではあるが、あくまでも臣下ではなかった。
それに比べて他の三人の武官たちは、実力主義のサンジェント公が自ら要職に就けた者たちで、爵位はないが、公爵のお気に入りの将軍たちだ。サンジェント公は元来内政にはうとく、さほど重んじてはいないためか、武官は重用するが、文官を軽視する傾向があった。それ故貴族とはいえ、メイソールとブリューエンを初めとする高位の文官たちは、少なくともロカスタ城内では肩身の狭い思いをしているようだ。
サンジェント公の直臣の武官で爵位持ちと言えば、ダントンとマリオネステの二人の男爵のみだ。もっとも爵位を下賜されたことで、デロディア王の直臣となったわけだが。
「この度はこの辺境の地へと珍客が訪れた。はるばると……、どこから参ったのだったかな?」
サンジェント公が尋ねた。
「タウです」
ファントムが答えた。
「タウから参られたオクス殿に、ファントム殿だ。かの剣神ジャバドゥ殿の愛弟子であるそうだ」
マリオネステはファントムとオクスの方を向いて小声で訊いた。
「おまえたち、ロクスルーから来たんじゃなかったのか?」
「とうの昔にほっぽり出された」
オクスが答えたが、声が大きかったので全員に聞こえた。
「何じゃと?」
意表を衝かれたサンジェント公はオクスの顔を見つめた。
「ジャバドゥのとこに七日間、その前のドワロンのとこには、ファントムは三日で、俺は一日しかいなかった」
オクスは悪びれもせずに言った。オクスの奴め、余計なこと言いやがって、とファントムは歯痒くなった。恐らくベレスドークが帰国してから、公爵に対して大袈裟に自分たちのことを吹聴したのだと察しがつく。サンジェント公がこの先どんな要求をしてくるかわかったものではないが、オクスの返答には一々冷や冷やさせられた。
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