16.征 服 の 剣



 ファントムとオクスは城壁に沿って東の方へ回り、かつての貧民窟の中に潜り込んだ。たとえドラディンガたちの気が変わり、自分たちを消してしまおうと追って来たとしても、ここに入り込めばまず見つからないだろう。オクスは、昔タウで人を殺してアルバまで逃げて来たばかりの時に、自分が住みついていた辺りへファントムを連れて行った。その頃の知り合いを捜してみる。
「おまえは確か、オクスじゃったな」
 掘っ建て小屋の中で焚火をして寝転がっていた老人が、声をかけてきたオクスの顔を見て、頷きながら言った。
「やっぱりそうか、グルナの爺さんか。俺の面を覚えてたか」
 老人は起き上がりもせずに首を横に振った。
「いんや、その図体を見たんで思い出したんじゃよ」
「そりゃそうだな、もう六年にもなる」
 貧民窟の者は、オクスがこの三年間、壁の向こうの町中では英雄であり続けたことなど知らない。たとえそれを知っていようと、彼らにとってはどうでもいいことだった。
「相変わらずかい?」
「いんや」
 グルナ老人は寝転がったまま首を振った。
「わしらはもう貧乏ではなくなるのじゃ。ディングスタ様に土地を分けてもらった。それだけじゃない。今年の冬は貯えもないので困るじゃろうと、特別にこの秋は年貢を納めんでも良いのじゃ。まるで神様のようなお人じゃ、ディングスタ様は」
 老人の言葉を聞いて、オクスはディングスタを見直した。彼は少年時代を極貧の中で生きてきたから、弱者の味方をするディングスタには元から好意的ではあったのだが。
 一方、ディングスタを嫌っているファントムも、この時ばかりはさすがにオクスと同じ思いだった。仲間を裏切ったことは未だに許し難いが、ディングスタが単なる権力の亡者、暴君であるという考えは否定せざるを得なかった。それを、かつての賤民であったこの一老人の言葉が如実に証明しているのだ。これはどんなに優秀な政治学者の体制批判にも勝るだろう。ディングスタは理想の説を唱えるよりも、実行してしまっているのだから。
 思えば、この町を離れたのがわずかに四ヶ月前のことだ。その時、この貧民窟の者たちが官営農場で泥に塗れて黙々と働く姿を見て、彼らに同情し、身分制というものの不条理さに義憤を抱き、オクスに八つ当たりしたりもした。しかし、そんな自分は不公平を憤るばかりで、ここの賤民一人として、もう少しだけでも楽にしてやることさえできなかった、しなかった。結局自分も口先だけだ。それなら政治学者と少しも変わりない。
 それに比べてディングスタはどうだろう? わずか四ヶ月の間に、あの泥塗れでぼろ一枚着たきりの、あばら屋と官営農場の間を往復するだけの人生しかない、そうであっても食うや食わずの生活を餓死するまで続けていくだけの、見ているだけでも惨めで痛ましいという思いしか抱かせない貧民窟の居住者――賤民たちを解放してしまった。
 いや、解放という言葉は当たっていない。彼らは奴隷ではない。町から締め出され、町の政府の保護を受けずに過酷な生活を強いられ、それでいて土地を小作していて、町の中にいる良民の胃袋を満たすが、その代償としては不充分としか言いようのない、わずかばかりのおこぼれを分配されるだけの、半農奴的な存在だった。
 彼らは奴隷とは違い、貧民窟を離れるのは自由だが、離れたとしても、新天地で一旗揚げようと旅に出るというほどの意気込みも、勇気も、体力も持ち合わせていない。もしかするとそんな考え自体、頭の隅をかすめもしないのかもしれない。言わば弱者たちだ。彼らはここから離れることはできない。神の見えざる運命の手によってそうさせられているのだ。ところが、理不尽だとファントムが思ったそのような賤民の存在を、あのディングスタは瞬時にして消滅させてしまったのだ。これを偉大な救済と言わずして何と言おう?
 ファントムはふとガブリエルの謎の一節を思い出した。『バイテンの岩山に風起こり、弱きを救い、悪を滅ぼす……』その先ははっきりとは覚えていないが、ディングスタのことにぴったりではないか。弱者を踏みつけにして驕りを極めていた貴族制を破壊し、その富をそれまで踏みつけにされていた弱者たちに分配した。
 捕らえた貴族たちに、次々に血の粛清を加えていったことは行き過ぎかもしれないが、彼は決して、かつての驕り高ぶった権力者たちに取って代わっただけではないのだ。『バイテンの岩山に起こった風』とは、もしかするとディングスタのことではなかろうか。ファントムは夢見るような眼差しを宙に漂わせたまま、しばらくの間物思いに耽っていた。
「それにしても、嫌に静まり返ってるじゃねえか」
 オクスが寝転んだままでいるグルナ爺さんに向かって言った。
「みんな寝ちまったのか?」
「寝ちまったのもいるさ。だけどここにはもう、人はあんまり住んでねえのさ」
「どこ行ったんだ?」
「若いもんは兵隊になりに、町へ入って行ったよ。町には刺激が多いからな」
 町へ入って行ったこともないグルナ爺さんはそう言いながら、いつの間にか寝息を立て始めた。
「へっ、呑気な爺さんだ」
「なあ、もう予定もなくなったんだし、明日はアルバに行ってみないか? 町の様子を見てみたいんだ」
「そりゃいい考えだ。そうしよう」
 二人はグルナ爺さんのあばら屋で、藁を被って寝た。
 明るくなってからファントムが目を醒ますと、掘っ建て小屋の中にはグルナ爺さんの姿はもうなかった。土間の中央に石を積み上げただけの竈から、煙だけが細々と立ち昇っている。その上に置かれた鍋の中には粥が煮えていた。ファントムはオクスを起こした。
「なんだ、爺さんの奴、もう野良仕事に出かけたのかな?」
 オクスが伸びをしてふと竈を見ると、粥が煮えていて、いい匂いが食欲をそそった。その脇には空の椀と匙が二揃え置いてあった。
「食ってけってことだ。頂こうぜ」
 オクスは椀と匙を手に取って粥をよそった。
「でも……」
 オクスはファントムが躊躇う意味をすぐに悟って、
「なあに、今年は年貢なしだから、爺さん、大盤振る舞いのつもりなんだよ」
 そう言われても、やはり遠慮してしまう。鍋の中の少ない粥の量が、ここの民の長い間のひもじい暮らしを物語っている。これでも爺さんにしてみれば、自分の何食分にも当たる大盤振る舞いなのだろう。
「気にすんなって」
 オクスは革袋を取り出し、竈の脇に四、五枚の銀貨を置いた。
「これでいいだろう? あんまりたくさんやると、悪い癖がついちまうからな」
 オクスはそう言って粥を啜り始めたが、たとえ銀貨五枚でも、金を手にすることのなかったここの者たちにとっては、大金に違いない。ファントムはそんなことを思いながら、わずかばかりの粥をありがたく啜った。味付けも何もあったものではなかった。

 アルバの町に入ると、二人はまずドワロンの道場へ行ってみた。入口まで来ると、中では威勢よく掛け声が上がっていた。かなりの数の者たちが稽古をしている。道場の中に入ると、奥の方にドワロンが座っているのが見えた。目を閉じたままじっと動かない。
「居眠りしてんのかな?」
 オクスがニタッとして言った。二人はそっとドワロンの方へ近づいて行った。ドワロンの両脇に物音一つ立てずに腰を下ろすと、ドワロンがハッとして目を開けた。首を左右に振り、代わる代わる二人の顔を見た。
「なんだ、おまえたち、いつ戻って来た?」
「ついさっき」
「隙がありましたよ。俺たちが賊だったら、今頃剣鬼の首が道場に転がってたところだ」
 オクスが笑い声を上げると、
「ふん、賊がおまえたち二人なら、今頃賊の首が二つ転がっておったろう。おまえたちに殺気がなくて、おまえたちこそ助かったというものだ。わしはてっきり弟子が座ったのかと思っておったぞ」
「弟子と言えば弟子に違いない。曲がりなりにも元弟子が久しぶりに帰って来たっていうのに、つれないじゃありませんか」
 そうは言ったものの、ファントムにはドワロンの言いぐさが負け惜しみのように聞こえていた。何だか知らないが、元師匠はかなり深刻に考え込んでいたみたいなのだ。
「それにしても、なぜ今頃戻った?」
「いえ、仕事で来たんですよ」
「隊商の護衛をしてタウから。もっとも往きだけでお払い箱になっちまったけど」
 ドワロンはしかめっ面を崩さずに、
「ジャバドゥの方はどうしたのだ?」
「ちゃんと白い森へ行って弟子にしてもらいました」
「とは言っても、一週間でまた放り出されたけど。『外へ出よ。外へ出ればいくらでも真剣勝負の相手には事欠かないというのに、道場などに籠もって架空の敵を相手に剣で空気を切っているなど、どこのどなたか知らぬが、もったいない話じゃ』もしかすると先生のことを指してるのかな?」
 オクスがジャバドゥの口振りを真似てみせると、ドワロンは苦笑した。
「ふん、あのじじいめ、小賢しいことをぬかしおって。相変わらず口の減らん奴だ」
 ドワロンは苦虫を噛み潰したあと、
「そうだ、おまえたちは口ばかり達者になって戻って来おったが、この四月ばかりの間にどれほど腕を上げたか見てやろう。外で充分修業を積んで来たんだったな、確か。さぞかし見違えるほどの剣豪にでもなっておることだろう」
 と皮肉っぽいことを言った。
「ようし、やってやろうじゃねえか」
 オクスが戦斧をつかんで立ち上がった。
「おい、バート、このオクスの相手になってやれ」
 弟子たちは師匠の声を聞いて、一斉に撃剣を中断した。バートと呼ばれた者が進み出て来る。他は全員、木剣を手にしたまま壁際に退がって腰を下ろした。
 この道場は、今ではみんな木剣を使って稽古している。かつて四剣だけでやっていた頃は真剣を使っていたが、未熟な者が真剣などを使って稽古すると、たちまち死人が出てしまうだろうから、それも無理からぬことだとファントムもオクスも納得した。それどころかファントムが入門したての時は、木剣を振らせてもらえるどころか、鉄棒を抱えていただけ。あとは水汲みに行っただけだ。
 オクスは後ろに座っているファントムに戦斧を渡した。弟子の一人がオクスの所に木剣を一振り持って来た。
「何だ、こいつは薪か? こんな物、軽すぎて使ってられねえや」
「長い棒を持って来てやれ」
 ドワロンが言うと、弟子の一人がかしこまって、壁に掛けてある棒を取った。両先に布が巻きつけてある。
「何だい、今度はトンボ獲りに使う子供のおもちゃかよ」
 それを聞いた弟子たちは懸命に笑いをこらえようとした。オクスは不満げだったが、
「得物に注文をつけるようでは、まだまだ未熟者としか言えまいな」
 とドワロンが言ったので、しぶしぶ棒を執った。その棒をぶんぶん振り回してみせる。それを見ている弟子たちは、四ヶ月前に入門して来た時のような馬鹿騒ぎはしないが、かつてのアルバの大競技会の覇者オクスをよく覚えていて、この試合は一瞬たりとも見逃すまいと、真剣な眼差しをオクスに向けているのがわかる。
 一時の興味だけで入門して来た、あのどうしようもない街のチンピラどもをここまで躾けてしまうとは、まさしくドワロンとは剣を指導する天才に違いない。自由放任主義のジャバドゥとは全く好対照だ。ファントムは久しぶりにドワロンに会い、初めて彼の持つもう一つの偉大さを理解した。
「それじゃあ、バートとやら、行くぜ!」
 オクスは呼ばわると、長い棒を戦斧を使う型に構えた。バートの方も一礼したあと、サッと木剣を中段に構えた。
「このオクスは斧の名手だ。他流試合をやる機会は滅多にないのだから、よく見ておけ」
 ドワロンが弟子たちに向かって言った。弟子たちは片時も目を離さずにいる。
 バートは摺り足でじりじりとオクスに近づいた。棒より短かい木剣だから、先制するには接近しなければならない。オクスは長年慣れた目分量で、相手が自分の攻撃範囲内に入って来るのを測っている。
(消極的だ、オクスらしくもない)
 と見ているファントムは思った。
(手加減する気か?)
 そう思った時だった、オクスが右手を棒から外し、左手一本で素早く突きに出た。バートはそれを木剣で払った。
(速い!)
 オクスの突きがではない、バートの剣の返しがだ。ファントムは結構軽く見ていたバートの腕を見直した。もちろんオクスもそうだろう。しかしバートはそこで調子に乗って自ら打ち込もうとはしなかった。
 オクスはもう一度片手突きを入れた。バートはまた払った。払われた棒をそのまま成り行き任せに一回転させ、今度はすかさず横撲りを食らわせた。少々手強い相手になると、オクスが使ってくる合わせ技の一つだ。例えばクヴァーヘンの入口でやり合った黒装束のベレスドークなどは、この後技の方にあっさりと掛かってしまった。
 オクスは馬鹿力に訴えるだけではなく、むしろこの合わせの返し技に多種多様の得意技を持つ、一流の戦斧の使い手なのだ。彼が習い覚えたのは基本の型のみだが、競技会で殺されないようにと自分で必死になって考え出し、とうとう身につけてしまった。今では意識せずともその場その場で臨機応変に、数十種類もの複合技が飛び出して来る。
 ファントムは長い時間かかって、今日初めてオクスの技の冴えがわかった。勢いだけの闘い方ではないのだ。相手をよく見ている。言ってみれば我流なのだが、ここまで来れば、自分独自の流派を独創したと言っても過言ではなかろう。しかし驚くべきことに、バートはこの返しの方も受け止めていた。木剣を梃子にして踏み込み、そのまま接近戦に持ち込んでしまった。そこからは両者激しい鍔迫り合いとなった。
 カンカンカンッと間合いもなく、硬い木と木のぶつかり合う音が道場内に連続して響いた。オクスは躍起になり、一歩飛び退がると、猛烈な速さの一振りをバートに食らわした。それに呼応してバートの木剣が下段から躍り上がり、オクスの棒を斜めに叩いた。バキッとオクスの棒が折れてすっ飛ぶ。そこを逃さずバートが懐に飛び込んだ。その瞬間、バートの心にしてやったりというわずかの隙ができた。
 オクスは折れて短くなった棒を両手でつかんだまま、バートの凄まじい一撃を受け止めると、次の瞬間には待ってましたとばかりに、半身の姿勢で逆手に握った棒をバートの腹に突き当てた。木剣が床に落ちる。
「うっ!」
 とバートが呻いて、石畳に両膝を着いた。しばらく息が詰まってしまったのか、腹を両手で押さえ込んだまま動けないでいる。先に布を巻いた木の棒とはいえ、オクスの力でまともに突かれたら、体を鍛えていない者だと死んでしまっていたかもしれない。
 バートは参ったと一言言うことさえできず、他の弟子たちに運ばれて介抱された。この時、ずっと息を詰めて観戦していた弟子たちの口から、やっと安堵と感嘆の溜息がほうっと洩れた。
「さすがだな」
 ドワロンは一言だけ誉めた。もっともオクスが勝つとは最初から思っていたのだが。
「なかなかやるじゃねえか、おまえ」
 オクスもバートの剣技には少なからず驚かされたようだ。バートはオクスにそう言われると、まだ残っている苦痛に顔をしかめながらも、さも嬉しそうに頭をぺこりと下げた。
「次はファントムの番だ」
 ドワロンが言うと、ファントムは少し間を置いてから、
「はい」
 と返事をした。おもむろに腰を上げる。弟子の一人が木剣を渡した。ファントムは決してもったいつけたのではなく、実は自信がなかったのだ。今のバートの腕前を見て、自分も同じような腕の持ち主が相手だったら、きっとすぐに負けてしまうだろうと思っていた。
「相手は、そうだな、コンスタンツだ」
 壁際に座っていた一人が立ち上がり、道場の中央に進み出た。
(どんな実力の持ち主だろう?)
 ファントムは、コンスタンツという長身で逞しい若者の全身を眺め回した。コンスタンツは黙って一礼した。ファントムは慌ててぎこちない礼を返した。
 町の浪人者に少しばかり基本を習ったことのあるオクスとは違い、彼の場合は剣鬼と剣神という、この世で最強の剣豪五本指のうちの二人に付いたことはあるのだが、ドワロンには鉄棒を抱えて立たされていただけ、ジャバドゥからは剣術とは無関係の、全身から火を噴くようなしごきを七日間受けただけに留まる。剣法の型一つ教わったことがない。
 両者木剣を構えて向き合った。こんな改まってから始める試合など、はっきり言って苦手だ。とりあえず相手の出方を見るしかない。周囲は沈黙のうちに両者を見守っている。コンスタンツはまず青眼に構えた。ファントムは彼を真似た。コンスタンツは右へ移動した。移動しながら木剣をじわじわと上げ、構えを八双に変える。ファントムはそれに釣られて右脇へと剣先を下げていった。
(来るか)
 と思ったその時、コンスタンツは猛烈に木剣を打ち下ろしてきた。ほとんど同時にファントムの木剣が左上へと擦り上がった。コンスタンツの第一撃は何とか弾き返したが、オクスのようにすかさず返し技を入れるような技量も大胆さも、あいにくと持ち合わせていない。
 コンスタンツの第二撃が、同じように左上から襲って来た。今度は木剣を寝かせて受けようとした。ところがこれが見せかけで、コンスタンツは素早く木剣を下げ、左胴狙いに転じた。ファントムは自分であっと驚く前に、反射的に諸手を左腰に持って行っていた。カーン、と木剣が乾いた響きを立てた。間一髪だった。ファントムは思わず跳びすさって体勢を立て直した。
(騙し技が得意なのか)
 そう思ってコンスタンツの足元をちらっと見ると、向きがおかしい。つま先がこちらを向いていない。
(また来るか)
 と思って左へ跳んだ。
 コンスタンツもほぼ同時に同じ方向へ跳び、着地するや否や、左手一本で木剣を薙いできた。ファントムは木剣を右脇に振って打ち返すと同時に、相手の懐へ飛び込んだ。左袈裟に打ち下ろしたが、コンスタンツは目敏く左手一本の木剣で受け止めた。大した膂力だ。残った右手でファントムの肩をつかみ、右足を飛ばした。左足を払われてバランスを失ったファントムは、ストンと石畳に落ちた。
 そのあとは何も見ずに、無我夢中で横に転がった。コンスタンツがすかさず打ってくると思ったからだ。耳元でガキッと木剣が石畳を打つ音がした。更に転がって、不利な体勢を立て直そうと片膝を立てた時、コンスタンツの剣先が目の前に突き出てきた。咄嗟に体を交わす。次には捨て身の片手突きが出ていた。コンスタンツは辛うじて身を交わし、跳びすさって体勢を立て直そうとした。
 お互いに呼吸を整えてからは、また打ち合いになった。打つ、受ける、交わすがだんだん速くなり、激戦の模様を呈してくる。弟子たちは歓声こそ上げはしないが、この二人の息を呑むような熱戦を、いつの間にか身を乗り出すような姿勢になって見守っていた。
「もう良い。それまでだ。きりがないわ」
 ドワロンの制止の声に二人は木剣を引き、互いに礼をした。両者とも肩で大きく息をしている。
「おまえたちの剣には、オクスのような一撃必殺の気構えがない。腰が退けておる。受けに比べて攻めが弱すぎる。まだまだひよっ子だ。そんなことでは敵に勝てはせぬぞ」
 さんざん師匠にけなされて、コンスタンツは肩をがっくりと落として壁際に戻った。ファントムも悄気て俯いてしまっている。目のやり場に困って、何の意味もなくただ石畳の継ぎ目をじっと見つめていた。確かに自分には全く勝ち目はなかったとファントムは思う。彼は知らなかった、今試合をしたコンスタンツと、オクスとやったバートの二人は、ディングスタがドワロンに預けた将軍候補の二人だということを。
 バートは、ディングスタが騎士団強化のために主催したアルバの将軍候補選抜戦で、見事優勝の栄誉に輝いた新進気鋭の剣士だ。幼い頃から競技会を夢見、ひたすら剣技を磨き、ならず者を相手に喧嘩して、一人で十何人もぶちのめしてしまったこともある。競技会を見ていた頃は、鮮烈なデビューを飾り、三年間無敵の覇者を守り続けたオクスの熱狂的なファンであった――いや、それどころか崇拝していたと言った方が良いくらいだが、とにかく寝ても覚めてもオクスを夢見てきたのだ。いわゆる剣術馬鹿、格闘馬鹿だ。
 ところが今日、降って湧いたようにオクスが姿を現し、手合わせができるとなったことは、彼にとっては天にも昇るような至上の喜びであり、そればかりか敗れたとはいえ、憧れの人に誉め言葉をもらったとは、まるで乞食が国王陛下から慰めの言葉を直々に賜わったようなものだった。だから、あばら骨が折れているかもしれないのに、嬉しさに笑いが込み上げて来て仕方がなかったのだ。
 彼は将軍候補選抜戦に優勝し、今を時めくピグニアの最高権力者、最高執政官であり、剣王であるディングスタから直接名剣一振りを下された時の喜びよりも、大闘技場ではなく、この狭い道場でオクスと対戦し、試合後に、『やるじゃねえか』と一言言ってもらったことの方が遥かに嬉しかった。ドワロンは、毎日口を開けば『オクス、オクス』と言っているバートの励みにもなろうと配慮して、あえてオクスとやらせたに違いない。
 それに比べてコンスタンツは、若者で形成されていた旧ビンライムの騎士団予備軍の中で、次世代の騎士団長と注目を浴びていた若武者だった。つまり戦闘のエリート中のエリートだ。ディングスタは騎士団の中枢を務めていた頃からコンスタンツ青年を最も買っており、ピグニアを建国して軍団を一新した際に、彼をすんなりと将軍候補に引き上げた。
 そういうコンスタンツだから、オクス相手ならまだしも、ファントムという名もない若造に勝てなかったことに、すっかり落胆して自信を失ってしまったのだ。二人の態度の違いはここにあった。しかしファントムにはそんなことを知る由もない。彼はコンスタンツを、四ヶ月前に入って来たチンピラの一人だと思っていた。つまりファントムは、自分の実力を自分自身で測り知ることができないのだった。そんなことをしたこともない。
 もしもこれがオクスなら、相手に試合で勝てなかったあとは、『畜生っ!』とでも叫んで、そのあとはけろりと忘れてしまえただろうが、ファントムは彼自身の習性として、ドワロンのきつい叱りの言葉をそのまま真に受け、思い悩んでしまうのだった。
(そうだ、もっと思い悩め)
 口にこそ出さないが、ドワロンは腹の底でそう思っている。オクスのような奴は誉める方が良い。誉められることによって調子に乗り、実力をどんどん発揮していくタイプだからだ。オクスは自分の武芸に対する批判を聞く耳は、残念ながら持ち合わせていない。けなしでもしようものなら、不貞腐れてしまって全く逆効果になってしまう。根が単純だから、おだてるのが一番なのだ。
 ところがファントムは逆で、誉めてはいけない。誉めればこれでよし、これで終わったというふうに受け取ってしまい、それ以上の向上は望めなくなるだろう。彼はけなされ、踏みつけにされることによって自分をもっと伸ばそうとし、いつまでも剣の腕を上げていくことだろう。己れの力を知らぬうちが華だ。ドワロンはそう思っている。
 正直言って、ドワロンはファントムに誰よりも驚かされているのだった。剣鬼ともあろう者が、弟子の前で素直に驚きを表現して見せてはならない。この歳まで生きて来て、若造に度肝を抜かれようとは思ってもみなかった。老剣士は自分の驚きを包み隠そうとすることで必死だったのだ。
 四剣が出て行ってからの道場を引っ張って行く双璧の一方であるコンスタンツに、まさかあれほどまで善戦しようとは。オクスにバートを当てたから、ファントムには気の毒だが、筋としてコンスタンツと手合わせしてもらおう。四、五合保てば良い方かと踏んでいた。入門して来た時から頭抜けていたコンスタンツとバートの二人を、短期間とはいえ、ドワロンは手塩にかけてきたつもりだ。
 白い森へ行き、それからタウへ行ったというのだから、何事もなく旅ができたとは思えない。もちろん修羅場のいくつかはくぐり抜けて来たことだろう。ところが、つい四ヶ月前には頭でっかちで口の減らない世間知らずの少年、肉体に関して言えば、貧弱なという印象が強いだけだった少年が、やがては大国ピグニアの軍団を率いるであろう上エリートの天才剣士を相手に、押され気味とはいえ、引き分けを演じてみせた。
 それどころか前半の劣勢を押し返して、試合が進むにつれ、自分のペースへと相手を引き込んでしまい、互角に立ち回るようになった。あのまま試合を続けさせていれば、恐らくファントムがコンスタンツを打ち負かしていたに違いない。ファントムがその一合一合を次の一太刀への踏み台へと積み上げていったのに比べ、コンスタンツは決定打を相手に与えられずに焦りがつのり、疲労は彼の一振り一振りの鋭さを徐々に鈍らせていくだけだったからだ。
 試合の展開と共に、コンスタンツの精神は下降線を辿り、逆にファントムの精神は上昇線を描いた。そのことはあの時点では、剣鬼の目にのみ明らかだったのだ。
(オクスやバートに気づかれる前に、この試合はやめさせねばならない)
 ファントムのためにではなく、コンスタンツのためにだった。
 幸いなことにと言おうか、惜しいことにと言おうか、ファントムは決定打を持っていなかった。コンスタンツが負けていれば、エリートコースをまっしぐらに歩んで来た彼は、最大の恥辱を受け、下手をすると、彼の剣士生命はそこで終わっていたかもしれない。信じられないという驚き以外にない。
 しかし、自分がかつてファントムの将来性を見抜き、ジャバドゥの下へ遣ったのは正解だったとも思うのだった。
(残念ながら、自分はエリートまでしか育てられない。それ以上の型破りとなると、あの型破りのジャバドゥにしか手に負えまい)
 ドワロンはそう考えていた。
 ドワロンはファントムとコンスタンツの試合を見て、『受けに比べて攻めが弱すぎる』と言った。これは四ヶ月経ってファントムを見た正直な印象だった。その言葉を裏返してみると、『受けが良すぎる』のだ。『敵には勝てはせぬぞ』と言ったことも同じだ。この言葉を言い換えれば、『勝てはせずとも、負けることはない』ということになる。あまりにも受けが強いのに、攻めの決め手を欠いている。そのことをドワロン流に言うと、ああなってしまうのだ。
 これなら、必殺技の二、三を身につけさえすれば、まさに理想的な剣士となるに違いない。しかしそれを教える必要もない。ファントムの剣はオクスの戦斧と同じように、独創的なのだ。これまでは恐らく襲われる側だったから、受け技ばかりが発達したのだろう。それは彼の性格をそのまま反映している。
 そのうち余裕ができてきて、攻勢を掛けられるようになれば、自然と彼はその剣の独創性により、独特の攻め技を自ずと編み出し、やがて自分自身の境地を開いていくに違いない。そうすれば、ファントムの場合は精神も向上するに違いないから、心技一体となって、やがてはあのガブリエルに及ぶようになるかもしれぬ。究極の剣法を通り越した、征服の剣法に――。それまでにはもちろん長い年月を要するではあろうが……。
 ドワロンは若かりし頃の自分とジャバドゥを思い出していた。二人とも世間に天才剣士と謳われていた。しかし二人は剣に対する姿勢も思想も、全く対照的だった。自分はエリートだった。求められてトスニカ(現在のオーヴァールの都)の軍の剣術師範代を務めた。剣聖サンジェント公も、少年時代は自分にひたすら付き従う存在だった。
 しかし同じトスニカに、いや、この世界にたった一人だけライバルがいた。のちに剣神と呼ばれるようになったジャバドゥだ。自分は天才の名を一身に集めたが、自分が天才だとすれば、ジャバドゥはまさしく神童だった。自分が努力で勝ち得たものを、奴は一足飛びに駆け上がってつかんでしまった。奴は道場での稽古を馬鹿にし、度々師範に逆らった。完全に師範を舐め、ある日破門となるが、道場破りとして帰って来た彼は、一刀の下に師範を地に這わせていた。
 怒った自分は仇討ちの試合を申し込み、彼は受けた。しかし自分が通常の木剣を使ったのに対し、彼は細身の木剣を持ち出して来た。その結果、両者の木剣が互いの体を打ち、判定は引き分けとなった。誰の目からも相討ちであったろう、試合をしていた両者以外の目から見れば。しかし事実はジャバドゥの細身が一瞬速かったのだ。それを感じ取れたのは、打たれた自分とジャバドゥ以外にない。
 ジャバドゥは何も言わずに木剣を捨て、トスニカを立ち去った。初めて己れの体を打たれるという屈辱を味わったからだろう。しかし自分とて同じこと。いや、彼以上だ。誰の目にも映らない負けが自分の方にあったからだ。それからというもの、自分は血の出るような修業をして肉体を苛め、やがてトスニカの武将の地位を捨て、奴を追って旅立った。武将の地位など何ほどのことがあろう? 自分は生涯かけてジャバドゥに勝つと誓ったのだ。
 遂に奴を見つけ、白砂海岸で決闘となった。自分は刀を用いた。奴も刀を抜く。しかし結果は勝負なしだった。どちらも相手に手傷を負わせられなかったのだ。その後、数回の決闘を繰り返したが、それっきりだ。結局自分は、ジャバドゥに対しては自分の人生を変えた一敗と、あとは七分けに終わった。やがて自分たち二人は決闘を繰り返すうちに、いつの間にか、お互いに限りない高みに昇りつつあることを知った、あのガブリエルが現れるまでは。
 しかし今ファントムを見ていると、性質は全く違ってはいるが、なぜか若かりし頃のジャバドゥを思い出す。似ている、剣が。
(まさに神童と呼ぶべきかな……)
 ドワロンは腹の底から湧き起こる笑いを抑えるのに懸命だった。

 そのあとは午までオクスが弟子たちに稽古をつけてやった。ファントムは座って見ているだけだ。だが目は虚ろで、何も見ていなかった。四剣がいないことにふと気づき、ドワロンに尋ねてみると、四人とも免許皆伝にして余所へ行かせたということだった。
 それから腹ごしらえをしたあと、広場の方へ行くと、人がたくさん集まっていた。尋ねてみると、新しい布告がこれからあるそうだ。しばらく様子を窺っていると、アルバの執政長官、元ビンライムの子爵で改革派だった、ニカロが演壇に上がった。度量衡統一に関する発表で、緻密な建築様式で知られる旧ダフネの建築家や船大工たちの間で使われていたものに、ピグニア全土が合わせるということになった。
 この世界では、各国、各自由都市、各都市国家において、それぞれ独自の尺度を用いているため、統一後は何かと不便だ。ダフネとクヴァーヘンは同じ尺度を用いているが、アルバにもビンライムにも独自の尺度があり、最大三種類の測量単位が別々に存在していることになる。
 同じ単位を用いていても、ビンライムなどは地方により微妙に違っていたりする。そこで、重さのみは各都市の隊商が換算用に共通して使っていた仮単位を、正式に公用化して使用することにし、その他の長さに関するものは、全て旧ダフネの単位に合わせるという旨だ。
 他に細かい時刻を新たに設定した。これまで民衆の間では、日が昇ったらとか、沈んだらとか、頭の上に来たらとか、ごく大雑把なものであったし、夜などは月を目安にしていたから、長い間の観察や、複雑な計算方法でも知っていない限り、行き違いがよく起こっていた。いずれにしても、曇りの日は勘に頼るしかない。民衆はのんびりしていて、それでも充分事足りたのではあるが。
 そこで、各国で一部の者のみに使用されていた、日時計の目盛りを基準にして出した更に細かい時間の単位を、砂時計で計れるようにして、これを大量生産した。同じように大量生産されたものさし長短二種と、重さを量る分銅一組、液体などを量る枡大小二種、更には計算のできない者たちを対象として用意された、長さと重さを基にした面積や容積などの早見表を用意し、いよいよ各戸に配給するという旨を発表した。
 この政策は、実は民事よりもむしろ軍事を目的として行われたものだった。ディングスタは度量衡統一を、オーヴァールを初めとする敵国に打ち勝つため、是非とも必要としたのだ。これを徹底させれば、より緻密な作戦をもってより的確な指示を軍に与え、思った場所へ思い通り正確に動かせると考えた。
 この世界で統一する必要のないものは、通貨と年月日ぐらいのものだろう。貨幣を使った物の交換方法は、古代アデノン王朝期より、しだいに全土へ広がった。金貨、銀貨、銅貨という順と、それぞれが十倍という基準は、十進法が主に使用されるこの世界では、ごく自然のものとして受け入れられた。
 その後時代を経て、白金貨を金貨の上に置くという動きも一時あったが、これは結局民衆に受け入れられず、すぐにすたれ、今では装飾品としてのみ、白金は用いられている。更にその後、繁栄を誇ったトスニカが財源増大の目的で開発した、小型のエレクトラム(金と銀の合金)貨が金貨の半値として用いられるようになった。
 エレクトラムは優れた合金であったため、高級金属として様々に利用され、全土において貨幣としても高い価値を認められることとなった。エレクトラムの生産により、トスニカは金を買い占め、それに伴い金のみならず、銀の高騰と銅の下落をもたらすこととなった。デロディア王に率いられた精強軍がトスニカを亡ぼした時、王宮の蔵の戸を開くと、金貨ばかりがザーッと溢れ出て来たという。オーヴァールはこの財により、その権勢を揺るぎなきものとした。
 暦に関しては、かつてのダフネで発達した占星術と天文学の功績が大だ。閏年までちゃんとある。この閏をきちんと用いないことには、雨季や河川の氾濫期、そしてもちろん暑さ寒さや四季までが徐々に狂ってきて、特に農耕には大きな支障をきたすため、ダフネの暦――月日の数え方と閏年の使用は重宝がられ、自然に全土へと広がった。
 しかし週という単位は、知っている者は多いが、過去に存在した宗教国家が用いていたものの名残に過ぎないし、特に必要とはされなかったので、用いていない地方の方が多い。
 ニカロは民衆を前にして説明する。
「ビンライムにおられる最高執政閣下の、産業発展のためとのご配慮故、本日より、努めて重量は隊商式、それ以外はダフネ式の新度量衡と併せ、時刻なるものを用い、早々に慣れ親しむように致せ。十五日間、広場において配給を行うが、一揃えにつき銀貨一枚と交換することと致す。
 このことは立て札にても告示致すが、本日来場していない近隣の者にも伝えておくように。では銀貨の持ち合わせのある者は、早速にもここに控えておる係の者の前に整列し、順番に受け取るように。受け取りに際しては、必ず係の者に名と居所を申し渡すこと。二重の受け取りが発覚した場合には罰する故、しかと心得よ」
 ニカロが壇を下りると、立て札が掲げられた。そこには度量衡統一の告示と共に、文盲をなくし、計算に慣れるための義務教育制度実施に関しての説明が、来月広場にて行われるという予告文があった。ディングスタの唱えるピグニア新秩序の確立は、着々と進行しつつあるようだった。
 物珍しさも手伝い、早速長蛇の列ができたり、家に金を取りに帰る者が出たりで、広場はごった返した。警備に出ていた兵士たちは、町民たちを手際よく誘導していく。計量器具は決してちゃちな作りではなかった。これが一揃え銀一なら只みたいに安いもんだと、誰一人として不平を言う者もいなかった。
 そこがディングスタの巧妙さだ。町民としては只でもらうような気分だから、民衆は益々ディングスタを公平な人物だと思い、民心も更に安定するだろう。何と言っても、一揃えの中に含まれている砂時計という珍品をみんな欲しがったのだ。わずか銀貨一枚なら、分銅と砂時計しか必要としないダフネでも、不満なく民衆に徹底させることができる。ついでにこの配給が終わると戸籍簿ができ上がり、一石二鳥だ。
 出費としては赤字でも、将来的な他の利点を考えると、充分に投資のしがいがある。度量衡統一はやがては収益となると考えているのだ。そもそも赤字などすぐに埋め合わせる計算だった。実は各都市の囚人たちに懲役刑として作らせているため、原価は意外に安い。
 更にこの統一単位の計量器具は、政府の専売としている。こののち、次の配給の機会までに買い替えや補充の必要があった場合は、民衆はどの器具であろうと相場値で買わなければならない。年々安定した収入源となっていくはずだ。民衆のこの反応だと、特に砂時計は高値で売れるに違いない。今回の物は宣伝のための試供品でもあるのだ。ピグニア政府は公的な立場を巧く利用して、次々に財源の確保に成功していた。
 他にも、各都市の浮浪者や失業者、果ては乞食やならず者まで集め、ルドネの丘の各種鉱山や採石場へ送り、通常より安い賃金で鉱山夫や運搬人をやらせた。これは雇われた本人たちよりも、むしろ都市の住民たちが、ならず者が減ったと喜んだ。更に最近では、密かにタウの大商人たちと商談をまとめ、金銀の密輸入を行っていた。
 もっとひどい計画も進行中だ。海賊に金をやり、タウの金銀輸送船を襲撃させようというのだ。これは利益には直接つながらなく、出費だが、国家的には大きな利益となる。タウ政府の収益を削り、国力を疲弊させる。海兵に死者も出て、タウの兵力が落ちる。海賊にも死傷者は出ようが、ピグニアにとってはいわゆる傭兵であるため、正規軍には何の損失もない。金銭が将来の敵国を弱めてくれるのだから、この出費は安いものだ。
 ディングスタはこれを悪事とは考えない。悪政を布く敵国の力を弱めるのだから、大いなる正義だ。海賊たちはもちろん引き受け、襲撃回数が今よりぐっと増えるだろう。頼まれなくたって襲って宝を奪うものを、宝はそのまま頂けて、おまけに船を一艘沈める毎に、ピグニア政府が賞金を出してくれるのだ。話は順調に運んでいる。
 更にディングスタには、トラワー諸島を根城とする海賊たちを、タウ占領後はピグニアの海軍に取り立て、リーゼ海から海路オーヴァール攻めに使うという青写真ができ上がっている。さすがにオーヴァールは陸路のみの力攻めでは不足だが、現在のピグニアには海軍がないという弱点があった。
 海賊を正規軍とすれば、タウがピグニア領となった時に、彼らはそれまで襲い続けていた輸送船を、今度は守ってくれる立場に早変わりするのだ。これが巧くいけば、莫大な利益となってピグニアに還元されよう。ここは金の出し惜しみなどして、せっかくの好機を潰してはなるまいとディングスタは考え、使者の人選には慎重になった。
 しかしその前に邪魔者を何とかしなければならない。エマーニア大公がセイレーン党に資金を出しているという情報は、既に手の者がつかみ、報告して来ている。トランツからアヴァンティナ団を断ち切ったように、セイレーン党にもエマーニアに見切りをつけさせねばならない。奴らはただの賊ではないから、正義を世に布いていることを見せねばならないだろう。それと金だ。
 そののち、あのダウヒルの愚か者を何とすべきか。しかし馬鹿は馬鹿なりに使い途もあろう。ただ殺すのではなく、生かしておいて、オーヴァール滅亡に一役買ってもらうこととするか。愚か者が高位にあるということは、それだけ利用価値が高いということだ。
 愚弟が賢王の首を知らず知らずのうちに絞める、これは面白かろう。その前にやはりエトヴィクか。この日、ディングスタはアルバに密かに移って来ていて、これからアヴァンティナ団の者と打ち合わせをすることになっている。ディングスタの策謀は果てしなく湧き出てきた。
 ディングスタの企みなど知る由もないファントムだったが、広場で布告する執政長官ニカロの言葉をそれとなく聴いていて、何か引っ掛かった。その疑問をオクスにそのまま投げかけてみた。
「あのニカロというのは、『ビンライムにおられる最高執政』と言ってただろう?」
「言ってたっけかなあ」
 オクスはもちろんそんなことは一々気に留めていない。
「最高執政って、ディングスタのことだろう、確か?」
「きっとそうだろ」
「昨日ドラディンガは、今日アルバでディングスタに会うのが隊商の目的の一つだと言ってたぞ。おかしいじゃないか」
「あんな奴の言うことなんか信用するなよ。出任せ言ってたのさ」
「そうとは思えないけど……」
 その時、
「オクスだ!」
 と叫んだ者がいた。その声を聞き、四ヶ月間姿をくらましていたオクスがいるのに、周りの町民たちが気づいた。そのあとは大騒ぎだった。みんなオクスの所に押し寄せ、肩を叩くやら、手を握ろうとするやら、やたらに話しかけてきて、オクスは揉みくちゃにされ、話はそれっきりになってしまった。

 広場の前にある礼拝堂の、壊れた鐘楼から鐘の音が響き渡った。それに合わせるかのように、遠くの寺院や礼拝堂でも鐘が鳴った。鐘の音は町じゅうに響き渡った。いつもなら鐘を鳴らしている時分ではなかったのだが、早速砂時計を使った実験が行われ、鐘を鳴らす回数が増やされたのだった。
 寺院の鐘楼の窓から外を眺めていた長い巻毛の男が、鐘の音を聞くと、部屋の真ん中にある円卓にスッと戻り、椅子に掛けるとおもむろに茶器を手に取った。
「アヴァンティナ団のイルオスとハンメルの両名が参りました」
 鐘楼に上がって来た兵士が告げた。
「通せ」
 円卓の上に拡げた地図をじっと眺めていた金髪の男が、顔も上げずに答える。やがて二人の男が狭い部屋の中に入って来た。
「掛けたまえ」
 金髪の男が地図を見たまま言う。入って来たデュラン商館の番頭イルオスと、隊商護衛隊副隊長のハンメルが着座した。
「お約束通り、アヴァンティナの返答を持って上がりました」
 イルオスは懐から手紙を取り出した。金髪の男の方、ピグニア宰相のエルナリクが手紙を開き、それにザッと目を通した。途端に目つきが厳しくなった。
「わずか三千人で十万は高すぎよう。どこまで欲を出すつもりだ」
「はあ、高すぎるとは思いますが、我らは命を賭して他国民に尽くすのだから、それでも良心的な値だとアヴァンティナは申したそうでございます」
 イルオスは、黙っている巻毛の男の方に気をつかいながら言った。
「たかが街道をサラワンとオーヴァールの間で数日間分断するだけだ。命を懸けてと言うほどのものでもなかろう。ピグニアの国庫は底なしだとでも思っておるのか?」
「良い。出そうではないか」
 長い巻毛の男はエルナリクに反して言った。ディングスタだった。
「今回は二十万出そう」
「は、ははー」
 イルオスはかしこまった。エルナリクはキッとなってディングスタを睨むと、
「馬鹿を申すな。少しは財政を与るこちらの身にもなってみろ」
「閣下のご厚情にはアヴァンティナもさぞかし満足し、より一層の忠誠を誓うことでござりましょう」
 イルオスとハンメルはディングスタに対して深々と頭を下げた。
「そうではない。セイレーンのタウ軍港襲撃にも、私は二十万の報酬を約束した。えこひいきはしないつもりだ」
 その言葉を聞いたイルオスは、初めから円卓に着いて、黙ってずっと話を聴いていたもう一人の男の方を向いた。
 どうやらこの男はセイレーン党の遣いらしい。イルオスの顔面にはみるみる不快感が表れた。セイレーン党の男の方もイルオスを睨み返した。互いに自分たちの方が多大の犠牲を払うと、腹の底では考えているようだ。宰相のエルナリクも、敵対している二つの集団にあからさまに互いの報酬額をばらしてしまうディングスタのことを、苦々しく思っていた。これでは駆け引きなどあったものではない。
 しかしエルナリクは、じっとしていても何不自由なく暮らしていけた自分の伯爵という身分をなげうってまで、この男に肩入れしたことを後悔してはいない。ディングスタは相手に絶対に弱みを見せない。余程の大馬鹿か余程の大物でない限り、こんな取り引きをする者はいないだろう。そこが人を惹きつけ、まるで手品のように、あっと言う間に大国を築き上げてしまうディングスタの底知れぬ、凡人には到底理解できない恐ろしさなのだ。
 こうやってより接近して、彼と政治や軍事について論じたりしていると、なおのことそれがよくわかる。
「しかしセイレーンは軍船を使用し、かなりの犠牲者が出ることも承知している」
 エルナリクはまだまだ諦めずに、最後の駆け引きに出た。セイレーン党の遣いは黙って深く頷き、自信のあるところを見せた。
「アヴァンティナは三千人出すと言う。サラワンとオーヴァールの分断に三千人も要らぬが、アヴァンティナのその誠意に対して二十万払おうというわけだ」
 ディングスタがそう言うと、取引は簡単に終了した。
「ところでイルオス」
「何でござりましょう?」
「金鉱石と銀鉱石を一つずつ見せてはもらえぬか? 私はその方面に疎いものでな」
「かしこまりました。下に荷車を待たせてありますから、すぐに取って参りましょう」
 イルオスが立ち上がりかけると、ハンメルがそれを止めた。
「私めが取って参ります」
「ではそうしてくれ」
 ディングスタが素っ気なく言うと、ハンメルはすぐに鐘楼から下りて行った。ディングスタは手元にあった砂時計をひっくり返した。
「この度ピグニアでは度量衡を統一した。これは時間を計るのに用いるのだ。今日から全家庭に配布することにしている」
「我がタウの民衆も、早く砂時計が使えるようになることを待ち望んでいることでございましょう」
 イルオスは歯の浮くような世辞を平然と口に出した。
「ふん」
 セイレーン党の男は不快げにそっぽを向いた。ディングスタは黙って頷くと、立ち上がってまた窓辺へ歩み寄った。しばらくの間、じっと外を覗いていた。やがて寺院から、ローブを身にまとった上背のある男が出て来た。男はフードの影からチラッと鐘楼を見上げた。視線が一瞬合った。男はすぐに顔を伏せ、そのまま足早に歩き去って行く。
「ほう」
 ディングスタは茶を一口啜った。そのあとハンメルが出て来て、寺院の前に屯ろしている人夫たちに何か言った。人夫たちは樽を開け、鉱石を数個ハンメルに渡した。ハンメルはそれを革袋に入れると、すぐに寺院の中へと引き返した。
「イルオス」
 ディングスタはそれを見て、表情一つ変えずにイルオスに呼びかけた。
「はい、何でございましょう?」
「アヴァンティナとは余程不用心な奴だな」
「はあ?」
 イルオスはディングスタの言葉の意味を解しかねて、首を傾げた。
「それとも、アヴァンティナ団の機密を与ろうともいうその方の目が節穴なのか?」
「何を仰せになりますやら」
 イルオスはわけがわからず、引きつった笑いを無理に作ろうとした。
「アヴァンティナに伝えてくれぬか?」
「何でしょう?」
「衛兵などに構っておらずに、パトリオットを潰すことのみに専念せいと」
「はあ、それはもう、アヴァンティナも閣下と全く同じ考えでございます」
 その時ハンメルが戻って来た。鉱石の入った袋をエルナリクに渡す。
「ハンメルとやら」
「ははっ」
 ディングスタに名前を呼ばれてハンメルはかしこまった。
「随分と時間がかかったな。礼拝堂で延命の祈りでも捧げていたのか?」
 ディングスタはそう言うと、砂が落ちきってしまった砂時計を手に取った。
「人夫どもが樽を間違いまして、銀の方がなかなか見つけられずに手間取っていたのであります。閣下にはお待たせを致しまして、誠に申し訳のないことにございます」
「この砂時計の目盛りを見て、今日からピグニア国民は時間というものを正確に知るようになった……」
 ディングスタの無気味な言葉の余韻に、思わずハンメルの顔に汗の玉が流れた。
「セルパニ総統はパトリオットに、アヴァンティナ団を壊滅させるだけでなく、オーヴァールをけしかけて、ピグニアを攻めさせるよう命じているそうだな」
「何のことでしょう? 私めにはそんなことは初耳でございますが」
 セイレーンの使者にも、イルオスにも、エルナリクにさえも、ディングスタの言葉には一瞬驚かされたが、即答してしらばっくれようとしたハンメルだけには、彼の意図することがわかっていたようだ。
「私は、アヴァンティナ団の中にパトリオットが紛れ込んでいて、秘密が筒抜けになっているのを知っている。その秘密がスヴァンゲル川を越え、オーヴァールにまで流れているということもな。さて、そこでだ、その方にはその間者の名を是非知っておいてもらいたいのだ」
 ディングスタは刺すような眼差しをハンメルに向けた。
「ハンメル!」
 エルナリクが怒鳴ったその時には、ハンメルはもう部屋から飛び出し、鐘楼の階段を駆け下っていた。
「ハ、ハンメルが……?」
 イルオスはうろたえた。
「すぐに剣士たちに追わせます。ドラディンガがクロウエン砂漠から戻って来れば、すぐにも片がつきましょう」
「慌てずとも良い。その方はそこにじっと座っておれ」
 ディングスタは落ち着いたまま、イルオスを制止した。
「ははー、恐れ入りましてございます」
 ディングスタは手にした砂時計を逆さにした。
「我が手の者が、奴がパトリオットであることは既につかんでおったぞ。アヴァンティナは一体何をしておるのだ。これでは近々寝首も掻かれようが」
 エルナリクがイルオスを問責した。イルオスは全く頭が上がらないでいる。隣にいたセイレーン党の男が腹を抱えて笑い出した。
「約束の報酬は鉱石の代金と共に、後日こちらから届けよう。その方に任せたのでは、途中で失くしてしまいそうだからな」
 ディングスタの言葉には怒りの響きもないので、かえってイルオスは恐縮してしまって声も出なかった。
「しかし手ぶらでデュラン商館に戻るのも何であろう。手土産の一つも持って帰れ」
 ディングスタがそう言って間もなく、黒布で覆面した男が一人、部屋の中に入って来た。片手に提げた白布の包みから血が滴り落ちている。
「四ブレクかかった」
 ディングスタはレザト(時間の単位)砂時計の十六分割された目盛りを読み、新しく制定されたばかりの時間の最小単位を口にした。黒覆面は何も言わず、円卓の上に血の滴る包みを無造作に載せた。
「開けてみよ」
 エルナリクがイルオスに言った。イルオスは震える手で恐る恐る包みを開いた。今し方逃げたハンメルの首だった。
「この者の名は――」
 ディングスタは黒覆面に向かって顎をしゃくってみせた。
「そうだな。とりあえず、『死刑執行人』とでもしておこうか。もっぱら人を殺すことを職業としている。裏切り者、密告者などを殺すのは特に好きらしい」
「アヴァンティナは閣下に絶対の忠誠を誓っております。裏切るなど、決してそのようなことは……」
 イルオスは必死になって訴えた。先程まで笑い転げていたセイレーン党の男も、今は蒼ざめてしまっている。
「セイレーン党だって、アヴァンティナ以上に閣下のために尽くしやす。これは絶対に嘘じゃありやせんぜ」
 慌ててそう言った。
「わかった。もう良い。我々はこれからエトヴィク攻めを討議致す故、その方らはもう退がって良い」
「ははー」
 二人はあたふたと出て行こうとする。
「待て待て、忘れ物だ。持って行かんか」
 エルナリクがイルオスの背中に声をかけた。イルオスは慌ててハンメルの首の包みをつかみ、さっさと階段を下りて行った。
「ところで先程珍しい奴を見かけた。アーサーだ」
「アーサーとは?」
 エルナリクは知らない。ディングスタのかつての仲間で、クラウプトたちがバローチで一網打尽に遭った時、ワーレフと共に捕縛の手を逃れた者だ。
「ダフネの騎士。ダフネではそこそこ名を知られた奴だ。恐らく今、オーヴァールへ向かったはずだ」
 エルナリクはそれを聞き、先刻ディングスタの言っていた、パトリオットが秘密をオーヴァールに洩らしているという意味がやっとつかめた。
「ハンメルがそいつに洩らしたのだな?」
「そうだ。片づけて来い、イジート」
 ディングスタに命じられ、覆面男は黙ったまま出て行った。

 ファントムとオクスは民衆で混雑する広場を逃れ、寺院の方へと足を運んだ。ガブリエルの書を寺院と礼拝堂で公開していると聞いていたからだ。寺院の中は超満員だった。聴衆の顔を見回すとほとんどが若者で、みんな手に手に筆記具を持ち、僧侶の読み上げるガブリエルの書の内容を書き留めているようだ。
 座席が足りなくて、立ったまま筆記している者も大勢いる。ラーケン教授の弟子のように、ガブリエルの書を筆記してくるためにアルバに派遣された者や、コラールの学校の元留学生などもいるはずだから、恐らく他国者も多いはずだ。
「これじゃあ入れないな」
 オクスは大聖堂の中を一通り見渡してから言った。全く立錐の余地もない。
「でもちょっとだけ聴いていこうよ」
 ファントムは出たがるオクスを引き留めた。
「続いて第二十四章――モンジョヘの村からプラクシー山地へと分け入ると、やがて死者の谷に辿り着く……」
 壇上の僧侶はそこで一呼吸置いた。聴衆が書き終えるのを待っているのだろう。やがて聴衆が顔を上げるのを確かめてから、再び続きを読み始めた。
「この死者の谷から東方を見やると、立ち枯れた木々の間に、精霊の山が雲の上へと聳え立つ雄姿が窺える。……この精霊の山の裏側には生者の谷があり、これらの地名はだてにつけられているのではない。……死者を呼び戻すには山に登れ。……死者の谷から生者の谷へと山を越えよ。……しかし振り返るなら、死者は二度と帰らない。……精霊に意が届いた時、竜が翔び、死者は蘇らん」
 読み手の僧侶が第二十四章を読み終えた途端、聴衆たちはざわついた。かなり前からこの地に留学している者や、熱心な研究者ならこの一節をよく知っている。特に後半の部分は謎の一つであり、有名なのだ。死者の蘇生術という意味では理解できるのだが、誰も行った者はいない。精霊の山は険しく、登れたものではない。それどころか、どれくらいの高さがあるのか全く見当がついていない。
 プラクシー山地の奥深く分け入る困難さに加え、精霊の山近辺には常に霧が発生していて、遠くからはそのとてつもなく高い山を認めることが全くできないのだ。たとえ死者を蘇らせに行ったところで、死者を運んで行った者までが死者となってしまうのが落ちだろう。
 ガブリエルがなぜこの世界における死者の蘇生術を知っていたのかはもちろん謎だが、『振り返るなら』と、『竜が翔び』の部分の解釈で専門家たちは揉めている。結局確かめようがないから、謎のままで終わりそうだ。
「さて、そろそろ行くとするか。俺にはさっぱりわからねえや」
 オクスは耐えきれずに外へ出て行こうとした。ファントムも諦めて礼拝堂から出た。とりあえず寺院の出口にある櫃の中に銀貨を放り込んでおいた。
「聴くのは只だ。金なんか出すこたあねえんだよ。そんなことするのは、せっせと書き取っている奴らと寺の信者に任せとけよ。それより酒でも飲みに行こうぜ」
 オクスの足はもう酒場の方角へ向いている。
 それから夕方まで酒場で飲んでいたが、オクスを知っている者たちが寄って来て、酒場の中はたちまちお祭り騒ぎになった。
「おまえはまだ飲んでるか?」
 しばらくしてファントムは不意に立ち上がった。
「今日は何にも用がねえんだから、もっとここにいようぜ」
 オクスはへべれけになりながら、まだ酒をがぶ飲みしている。たちまちみんなで二つ目の酒樽を空にしてしまった。ファントムが出て行こうとすると、オクスが声をかけた。
「どこ行くんだ?」
「ちょっと。今日は道場に泊めてもらおう。一人で帰っててくれ」
 それだけ言うと、さっさと酒場から出て行った。
 彼はそのまま夕暮れの通りを鍛冶屋へ向かった。酔って少々足元がおぼつかなかったが、自然と足が速くなった。店に入ると、カウンターの向こうでイレーヌがぼうっとしたまま座っていた。彼女は入って来たファントムに顔を向けると、少しの間ぽかんとしていたが、すぐにファントムとわかった様子で、
「ファントム!」
 大声を上げるや、カウンターの向こうから急いで出て来た。
「帰って来たの?」
「ああ」
「お酒臭いわね」
「はは、そうか」
 いざ面と向かうと、お互いそれから言葉がなかった。ファントムは店の中を見回してみた。
「何だか品が少ないなあ」
「ディングスタがたくさん注文してくれたから。作る方が間に合わないくらいよ」
「ふうん」
 奥では鉄を鍛える音がしている。
「おやじさんは元気なのか?」
「ええ。今は四人も雇ってるんだけど、それでも忙しくて、朝から夜中までずっと仕事場よ。お父さんは儲かるって喜んでるわ」
「そりゃ良かったじゃないか。でもディングスタはまた戦争する気なんだろうか?」
「みたいね」
 それからはなぜか話が続かず、ファントムは道場に戻ろうと表に出た。
「待って」
 イレーヌはファントムを追って出て来た。
「ずっとアルバにいるんでしょ?」
「いや、明日タウに帰る」
「タウに……」
 イレーヌは悲しそうな顔をして俯いた。
「先生の言いつけで、タウにいなくちゃいけないんだ」
「せっかくまた会えたのに」
「また会えるさ」
「あたしもタウへ連れてって」
 イレーヌは涙の溜まった目を上げて、哀願するようにファントムに頼んだ。ファントムは首を横に振った。
「ここにいた方がいいよ。タウはもうすぐ戦争になるかもしれない。反政府組織と総統が争ってるし、ピグニアと戦争になれば、攻め込まれるのはエトヴィクやタウの方だから」
「じゃあ、どうしてあなたはそんな危険な所へ戻るの?」
「だからこそ戻るんだ。理由は今は言えないんだけど、とにかくそういう宿命なんだ。ここは平和そうだし、いられるものならここにいたいけど……」
 ファントムは道場へ向かって歩いて行く。
「今晩はドワロンの道場にいるから、明日帰る時にまた寄るよ」
「必ず寄ってね」
「寄るよ」
 ファントムはイレーヌに手を振ると、夜の帳に覆われようとしているアルバの通りを歩いて行った。

 朝目が醒めると、イレーヌが道場に来ていた。ファントムが帰って来て嬉しいのと、もう明日には去って行ってしまうのが寂しいのとであまり眠れず、すぐに目醒めてやって来たのだが、イレーヌはそのことは何も言わない。ただ、少しでも余計にファントムと一緒にいたいのだった。
 オクスは夜中に帰って来て、ぐでんぐでんに酔っ払って寝ている。道場で朝飯をご馳走になり、それから稽古をしばらく見た。オクスは宿酔いで転がっていた。
 今日は昨日と違って稽古をじっくり見ることができたが、どうもファントムには、バートとコンスタンツが飛び抜けて強いように思えてならなかった。別れ際にドワロンはファントムの剣を手に取って、刀身を眺めていた。
「この剣は素晴らしい大業物だ。これは必ずおまえの剣術の技量を上げてくれることだろう。大切にせよ」
 剣を鞘に戻すと、ドワロンはそう言った。ジャバドゥといい、ドワロンといい、その筋の名のある者の目から見れば、ヴィットーリオのようにラムゼリーについての知識がなくてもわかるものなんだなあ、とファントムは感心した。正直言って、自分には剣の良し悪しはよくわからない。この剣が途方もなくよく切れるので、名剣だとわかるだけだ。
 道場の外に出ると、道場のみんなが見送ってくれた。
「何事も焦ることはない。良いな」
 最後にドワロンはそう言ったが、ファントムにはどうも一般的なことを言っているのではないような気がした。剣の腕のことを指しているのか、もうすぐ起こることが確実な戦争のことを指しているのか、それとも……、まさかドワロンといえども、この世の終末のことまで知っているはずもないだろう。ファントムはそれ以上深く考えないことにした。
 オクスはまだ酒気が頭に残っているようで、頭がガンガンすると言っては、虚ろな眼をして通りをふらふらと歩いて行く。
「俺は悪くなかったと思うがなあ」
 何を思ったか、オクスは急に言い出した。
「何が?」
 ファントムはオクスの顔を見た。まだしかめっ面をしている。
「昨日の試合のことさ。ドワロンはあんなこと言ってたけど……」
「え?」
「おまえとコンスタンツとかいう奴の試合さ。あいつは並大抵の腕じゃなかったな。あれだけ使える奴はそうざらにはいねえ。つまりおまえの腕もなかなかだったってことさ」
 オクスにそう言われて、ファントムは昨日のことをまた思い返してみた。しかし、やはり自分ではどうなのかよくわからなかった。
 イレーヌは町の西門までついて来た。ファントムは彼女の気持ちを察して言った。
「たぶんまた戻って来るよ」
「たぶんなの?」
「必ず」
 ファントムは四ヶ月前の反対側の門での別れを思い出した。あの時とよく似ている。あの時と違っているのは、今回はファントムにも少しばかり未練が残ったことだった。少しばかりと言うより、かなり未練が残った。自分はなぜこの世界に連れて来られたのか未だにわからない。もちろん自分の意志で来たのではない。しかし、霧が掛かったような漠然とした道筋だけが自分の前に少しだけ見えていて、その道筋から逸れることは、なぜだか許されないことのようだ。
 できればアルバに残っていたい。でも今は、霧の中を手探りで一歩一歩確かめながら、定められた方角に向かって進んで行くしかないようだ。その先に何が待ち受けているのかはわからないが、寺院で聴いたガブリエルの書の第二十四章にあった、あの精霊の山のように、霧に閉ざされていて、決して遠くからはその姿を認めることはできない。
 しかしそれに近づいたとしても、そのあまりの巨大さに全容が窺い知れず、その時になってただただ圧倒されてしまうものなのかもしれない。しかし、少なくともこの世界の終末図を見たからには、その漠然とした巨大なものに立ち向かうことは、避けたくとも避けられないのかもしれない。
『なぜ俺が?』とはファントムはもう考えなくなっていた。彼には目前のことを裁いていくだけで精一杯なのだ。
(新しい秘文が見つかるのはいつのことだろう? そして、ガブリエルに会えるのは、一体いつのことになるのだろう?)
 ファントムはイレーヌのことをいとおしく思いながらも、早く行かなくてはならないと焦りもするのだった。やがてアルバの方角から鐘の音が聞こえてきた。




次へ   目次へ