14．幽　霊　騒　動

　翌日からファントムがオクスの代わりに市場へ行くことにした。
「すまねえな」
　寝台にうつ伏せになったままオクスが言う。
「あの事件が片づいたから、失業してしまったよ。ちょうどいいじゃないか。市場へ行く前にエローラの店に寄って、食事を運んでもらうように言っとくから、じっと寝てるんだぞ。帰りにシーファーのとこにも寄って、残りの手間賃ももらって来てやるから」
「すまねえな。しかし、仰向けに寝たいよ」
　ファントムは下宿を出るとエローラの店に寄り、昨晩の出来事を話して、朝午晩とオクスの部屋に料理を運んでくれるように頼み、それから市場へ行ってオクスの代わりに運び人の仕事をした。
　夕方になってシーファーの所に寄ると、女房がいて、シーファーはちょうど下宿の方へ行っていると言う。そこで下宿に戻ってみると、シーファーが来ていて、ボルタ婆さんと話をしていた。シーファーはファントムに気づくと、満面に笑みを浮かべた。
「これはファントム様、お待ちしておりましたよ。通り魔をとうとう始末されたそうで、おめでとうございます」
「ああ」
　ファントムは少しも嬉しくなかった。
「今日はご祝儀が出ましたので、お手当てと共に持って参りました。オクス様があのようなことになられましたが、先程お伺いしたところ、お命には別状ないようでよろしゅうございましたな」
　ファントムは裏へ出て水を浴びると、二階へ上がって行った。シーファーもついて来た。部屋を覗くとアジャンタがいた。オクスに何か食べさせている。
「おお、帰って来たか。シーファーが来てただろう？」
「ここにいるよ」
「おまえの分も持って来てくれてるぞ。椅子を持って来いよ。一緒に食べよう」
　ファントムはボルタ婆さんから椅子を借りて持って来た。
「まずこれが五日分のお手当てでございます。お二人合わせて金貨六枚前払いしましたから、残りが金四でございますな。それにお役所の方からお二人に、殺人鬼討伐の慰労金が出まして、金十ずつ、合わせて二十」
　シーファーは金貨を料理の盆の上に積んだ。
「それだけではございません。昨日は衆議会議長のブライトン様をお助けなさったそうで、なんとブライトン様が朝にうちまでやって来られまして、命を助けてもらったお礼だとおっしゃって、お二人に金二十枚ずつ、更にオクス様がお怪我をなさいましたので、お見舞いにと金十、全部で五十でございます」
　シーファーは革袋から金貨二十枚と三十枚数えて出し、また二人の盆の上に積んだ。
「しかしまあ、お二人を見込んでウーリックの難事件解決に行って頂いたかいがあったというものです。これでシーファー周旋所の威信もいくらか回復することでございましょう。また大仕事が入って来ましたら、迷わずあなた方お二人にお頼みします。その時はよろしくお願いしますよ」
　シーファーは用件を済ますと、ほくほく顔で帰って行った。
　それから数日の間はファントムが市場へ行き、オクスは部屋で伏せたままでいたが、ファントムが夕方に市場から帰って来ると、必ずアジャンタが来ていて、オクスの身の周りの世話をしていた。
「そんなにいつもいつも来てくれなくたって構わないのに。店の方があるだろう、アジャンタ」
　ある晩、ファントムは気を遣って声をかけてみた。アジャンタはそう言われても、ただ俯くだけで何も答えない。
「こいつはちょっとやそっとのことじゃ死なないさ。ほっといて大丈夫だよ」
　冗談でそう言ってみたが、なぜかアジャンタが悲しそうな顔をしたように見えたので、ファントムはそれ以上何も言わなかった。

　翌日は午にエローラの店へ行ってみた。
「このところ毎晩アジャンタがオクスの世話をしに来てるけど、店の方はいいのかい？」
　ファントムはエローラにそれとなく訊いてみた。
「あの子、前に市場でオクスに助けてもらったでしょ。あの子なりに恩返ししてるのよ。あの子は何にも言わないけど、結構心配してるみたい。朝午晩と、向こうにいる方が長いくらいよ。でもお店の方はいいのよ、お客の方はさっぱりだから」
　エローラは低い声で言った。
「ふうん、じゃあ今も？」
「そうなのよ。もしかしたらあの子、オクスのことが好きなんじゃないかしら、これはあたしの勘なんだけど」
「ははあ、そうなのか」
　そうやって話していると、そこにシーファーがひょっこりと現れた。
「ああ、やっぱりこちらにいらっしゃいましたね。市場へ行ったらお昼に出てると聞いたもんで、ひょっとするとここかと思ってきてみたら、案の定」
　シーファーはファントムの前まで来て、椅子に腰掛けた。
「私も何か頂きましょうかね」
　シーファーは適当に料理を注文したあと、
「今日は大仕事が舞い込みまして、是非ともファントム様に請け負って頂こうと思い、わざわざこうしてお伺いしたしだいです」
　シーファーは作り笑いを浮かべたが、ファントムはあまりいい顔をしない。
「何だ、仕事って？　商館なら断るぞ」
「いえいえ、本日は商館からの依頼ではございません。しかしどうして嫌なんでございましょうねえ。ウーリックが解決してからというもの、噂を聞いた一流の商館から降るように結構な口が舞い込んで来る。それもあなた様とオクス様を名指しで来て、通常の二倍、所によっては三倍出す所もあろうかというのに、まあ、市場の人足仕事など続けられて、なんて欲のない方なんでしょう」
　シーファーは皮肉めいた口調で言った。
「とにかく商館はごめんだ」
「いえいえ、ですから今日は別口で、れっきとした人助けでございますよ」
　シーファーは料理が出るとむしゃむしゃと食べ始め、話が一時中断した。
「いえね、今日は少しばかり変わった所からのご依頼でして、お手当ての方はそんなによろしいとも言えませんが、何しろ人助けには違いありません。むしゃむしゃ」
「一体何なんだ？　早く言ってくれよ。もうすぐ市場に戻らないといけないんだ」
「はいはい、承知しております。いえね、それが依頼主というのが他でもない、私の店の裏手にあるカファ寺院でして、それがなんと幽霊が出ると言うのでございますよ」
「幽霊？」
　ファントムも、横で聴いていたエローラとセバスチャンも、揃ってシーファーの顔を見つめた。シーファーは食事に気が行っていて、話がまた中断する。
「詳しいことはお聞きしておりませんが、とにかく寺院の方では剣士を四人ほど回して欲しいということで、お手当ての方は一日一エレクトラムでございます……。まあ、寺院ですからあまり高額の報酬を出せないのもわかりますが、ところがですよ、その幽霊を退治すれば、なんと金五十の褒賞金を出そうと寺院側がおっしゃっております」
「へーえ、でももう死んでしまってる幽霊なんて、どうやって退治すればいいんだ？」
　ファントムはあまり乗り気でなかった。まるで他人事のように聴いている。
「そりゃ私には何とも言えませんがね、何しろその幽霊のお蔭で寺院では礼拝も何もあったものじゃない、とこう言われるんですよ。これなら庶民の人助けということになって、ファントム様には喜んで受けて下さるのではないかと思いまして、こうやってわざわざお話を持って来たしだいでございます。まあ、お引き受けになるかどうかは、一度カファ寺院へ行ってからお決めになってもよろしいのでございます。幽霊を退治せずとも、番をしているだけで一エレクトラムになります」
　ファントムは黙って食事を続けた。
「いかがでございます？」
　シーファーが催促すると、
「まあ、考えてみるよ」
「よろしいですとも。何なら今晩にでも話を聴きに行かれてはいかがでございますか？　通りを渡って真っ直ぐ行けば、ここからほんの目と鼻の先です」
　ファントムは引き受ける気になった。
「そうしてみるか。ところであとの三人は決まってるのか？」
「はい。それがうちでは頭数はすぐ揃うのですが、はっきり言ってどれもこれも役に立たない臆病者ばかりでして。では早めに良いご返事を下さい。私はそろそろこの辺で」
　シーファーはそそくさと出て行った。
「全く慌ただしい男だな」
　シーファーの後ろ姿を見送りながら、ファントムは言った。

　その晩は何もすることがなかったので、シーファーに言われた通り、カファ寺院へ足を運んでみた。下宿屋から真っ直ぐ行くだけで、すぐにカファ寺院に辿り着いた。十字の丘の麓の建物には灯りが燈っている。中に入って人を呼んでみた。するとすぐに寺男が出て来た。幽霊退治の依頼のことで来た旨を話すと、寺男は早速ファントムを奥へ案内した。そこは寺の執務室らしく、修道士が三人いて、机に向かって何かしていた。
「この方は例の件でシーファーさんとこからいらっしゃったそうです」
　寺男は修道士たちに告げた。
「それはそれは、よく来て下さいました。およそのことはシーファーさんからお聞きになっておりましょうか？」
「ええ、幽霊が出るとだけは聞いていますが、それ以上の詳しいことは……」
　一人の修道士が溜息をつき、
「さあ、こちらにいらっしゃって下さいませんか」
　そう言って部屋から出て行く。ファントムは彼について行った。しばらく廊下を歩いてから礼拝堂に入った。
「ここなのでございますが、主にお祈りの時なのです、幽霊が現れるのは。幽霊とは申しましても、本当にそうなのかどうかもはっきりしません。壁から突然気味の悪い籠もった声が湧いてきて、やがて幽霊が姿を現し、この礼拝堂の中をうろつき回るのです。それが一人や二人ではなく、十人から二十人、多ければ三十人ほどにもなります」
　ファントムは驚いた。
「そんなにたくさん！」
「ええ。しかし特に礼拝している信者たちに危害を加えるというわけではありません。ただ、信者たちはお祈りどころではなくなり、いくら言い聞かせても、日に日に信者の足が寺院から遠のいていくという有様です」
　話を聞くと、ファントムは幽霊が出て来るという礼拝堂の壁をしばらく触ってみた。白い石の壁には別に変わった所はなかった。
「それで、他の三人の剣士は？」
「既に来て頂いております。とりあえず入口の脇部屋を詰所として空けましたので、今はそちらの方にいらっしゃいますが」
「ところで自分の口から言うのも何ですが、実際のところ、幽霊が相手では剣士など役に立たないと思うんですが」
　ファントムが正直な気持ちを述べると、修道士は頷きながら、
「それはこちらも承知の上です。礼拝の間、礼拝堂で番をして頂ければ良いのです」
「信者の気休め程度にしかなりませんね」
「仕方がありません、幽霊が出る原因には皆目見当がつきませんので」
「じゃあ、とりあえず今晩は様子を見てみることにします」
「では詰所へご案内致します。どうぞ」
　入口の脇部屋に入ると、そこには既に三人の剣士たちが控えていて、茶を喫んでいた。
「ではもうすぐ夕べの祈りが始まりますので、その時になればお呼び致します」
　修道士はそう言い残して去って行った。
「あなたたちはいつから？」
　ファントムは早速三人の剣士に訊いてみた。
「俺たちはみんな今日からだ。あんたもシーファーのとこから来たのかい？」
　剣士の一人がファントムに訊いた。
「そうだ。ところで幽霊相手に一体どういう手を使う気だ？」
「なあに、幽霊なんぞちっとも怖くないさ」
「でも死んでしまってる者は殺せないぞ」
「なんだ、ぶるってるのか、若いの？　幽霊が怖いのなら、悪いことは言わねえ、今のうちにおうちへ帰りな」
「ワッハッハッハッ」
　三人の剣士は揃ってファントムを嘲笑った。
　少しするとまた先程の修道士が呼びに来て、四人は礼拝堂に入った。礼拝堂には信者たちがパラパラとやって来ている。
「あまり入りの方は良くねえな」
　剣士の一人が修道士に向かって言った。
「足は遠のく一方です」
　四人は礼拝堂の四隅に分散することにした。正面に二人、入口の方に二人、ファントムは正面の片側に立った。まず修道士が信者たちを前にして説明した。
「今日から四人の剣士の方々に来て頂いております。皆さんは何も心配なさらずに、お祈りの方に集中して下さい」
「幽霊なんか怖かねえ。俺たちに任せとけ」
　剣士の一人も声を張り上げて自信のあるところを示したが、信者たちにはあまり反応がない。ほとんど期待されていないことが彼らの顔色から窺える。やがて司祭が現われ、夕べの祈りが始まった。
　その祈りの最中のことだった。突然不気味な声がどこからともなく聞こえてきた。
「これが幽霊か？」
　ファントムは耳を澄ましてみた。何か意味のあることを言っているように思えたからだ。しかし司祭を初め、修道士や信者たちの祈りの声が一段と高くなり、幽霊の声らしきものはよく聞き取れない。
　やがて幽霊の声の数が増えてきた。それと競い合うように信者たちの声も大きくなっていく。すると今度は壁から白い物が抜け出て来た。どれも人の形をしていて、宙に浮かんでいる。これは修道士が言っていた通りだ。信者たちは恐ろしさにこらえきれなくなって、とうとう騒ぎだした。
「お祈りを続けるのです！　祈ってさえいれば、神は必ずお守り下さいます！」
　礼拝堂にいた修道士たちは、動揺している信者たちを抑えようと躍起になった。ところが幽霊たちは次から次へと壁を抜け出て来ては、礼拝堂の中を飛び回っている。ファントムも呆気に取られ、しばらくの間その光景を眺めていたが、目の前に来た幽霊の顔を見てみると、目も口も裂けて髪を振り乱し、恐ろしい表情をしていた。全身が半透明で、向こう側が透けて見える。
　信者たちはとうとう大混乱になってしまった。まだ目をつぶり、手を組んだまま一途に祈り続けている者も少しはいたが、ほとんどの者は逃げ出そうと出口に殺到した。
「落ち着くのです。祈りを続けなさい！」
　修道士たちは声をからして叫んだが、もうそんなことは全く効果がなくなってしまっていた。その修道士たちさえ、体はここから逃げ出そうと身構えているのがわかった。
　出口の脇にいた剣士の二人は、剣を盲滅法に振り回していたが、幽霊など斬れるはずもない。さっきの大言壮語はどこへやら、たちまち怖じ気づき、信者たちと一緒になって逃げ出そうとした。出口で押し合った信者たちはとうとう将棋倒しになり、呻き声と泣き声が礼拝堂の中を満たした。司祭ももう祈ることなどやめてしまっている。
　ファントムは急いで出口の方へ走り、積み重なった信者たちを救い出そうとした。しかしみんな自制心を失って暴れているので、簡単には助け出せない。
「早くこの人たちを引き離すんだ！」
　ファントムは呆然としている修道士たちに向かって言った。修道士たちはハッと気がついて、慌てて怪我人を助けに来た。
　そうやって将棋倒しになった人たちを引き分けようとしている時だった。上から何かが降って来た。ファントムはそこらじゅうに落ちて来た物を見た。どう見ても赤黒い血だった。思わず上を向くと、石の天井に赤いしみがたくさんできていて、そこから血が滴り落ちて来ている。それが壁からも床からも湧き出てきた。まるで夕立が降り始めたように、急に血の雨が激しくなってくる。礼拝堂内はもう阿鼻叫喚の世界だ。
　幽霊たちは相変わらず気味悪い声で何か言いながら、礼拝堂の中を飛び回っては、人々の体を通り抜けて行く。失神してしまう者も続出した。もう手に負えないと思ったファントムは、一旦鞘に収めた剣をもう一度抜き、飛んで来る幽霊に斬りつけた。初めから無駄とはわかっていたが、やはり何の手応えもなく、剣は幽霊の体を通り抜けるばかりだった。
　どうにも手の施しようがなく、血に塗れたまましばらくじっとしていると、やがて幽霊たちは出て来た時と同じように、徐々に消えていった。それでも信者たちはまだ混乱していた。あれだけ降り注ぎ、壁から流れ出した血も、嘘のように消えてしまっていた。信者たちはまだ泣きわめいている者、気を失っている者ばかりだ。
　三人の剣士たちはいつの間にか姿をくらましていた。別に幽霊が何をしたというわけではない。怪我をしたのも気絶したのも自分たちのせいだ。一番手に負えないのは恐怖で混乱してしまったこの人たちじゃないか、とファントムはつくづく思った。闇の回廊を見てきたことのある彼は、幽霊が現れても特に驚きもせず、一人落ち着いていた。
　とりあえず怪我人を治療すると、信者はみんな家へ帰らせた。
「血の雨が降るなんて初めてです。こんなことがあって良いのでしょうか」
　修道士の一人がまだ悪夢から覚めきれないという表情で言った。
「俺が見たところでは、幽霊たちは実際には何もしていないようですが、いずれにしろあんな状況ではお祈りどころではありませんね。ここ数日は信者たちを集めるのは差し控えて下さいませんか」
　ファントムがそう言うと、司祭も修道士たちも揃って頷いた。
「これには何か原因があるはずです」
「その原因が全くわからないのです」
　司祭は困り果ててしまっているようだ。
「幽霊は壁から出て、壁の中へと帰って行きましたね？」
「ええ」
「じゃあ簡単なことだ、この礼拝堂の壁を壊して調べてみましょう」
「それは……」
　司祭は口籠もった。修道士たちも苦りきった顔をしている。
「どうしてもそれだけはなりません。聖域を破壊することなど……」
「それなら仕方がありません。まあ、焦らずに何か手掛かりを見つけてみましょう」
　ファントムは寺院をあとにすると、そのままヴィットーリオの所まで行った。
「カファ寺院に幽霊が出るんだ。何かわからないか？」
「ちょっと待ってくれ」
　ヴィットーリオは研究の最中らしく、机に向かって書き物をしている。
「ファントム、下へ行って油をもらって来てくれないか。ランプが消えそうだ」
「ああ、わかった」
　ファントムは一階まで下りて女中から新しいランプをもらうと、再び本に埋ずまった屋根裏部屋まで上がって来た。
「幽霊なんて言われてもねえ、そういう物には僕は興味ないからねえ。今はちょうど論文を書くので忙しいんだよ」
　ヴィットーリオは机の上から目を離さないで、書き物を続けている。ファントムはヴィットーリオの傍らに歩み寄った。
「そこを何とか頼む。じゃあ明日の午、エローラの店にいるから、それまでに調べといてくれ。必ず何か原因があるはずなんだ。こっちは大急ぎなんだ。頼んだぞ」
　そう言い残すと、ファントムはさっさと梯子を下って行ってしまった。
「こっちだって大急ぎで仕上げなくちゃ、発表の日に間に合わ――、おい、ファントム！　ちぇっ、全く身勝手な奴だ」
　ヴィットーリオはプンプンしながら壁の一部に手を掛け、書物を一冊抜き出した。本でできた壁がガラガラと崩れ落ちた。
「全くもう、なんてこった！」

　翌日の午、ファントムは市場を抜けてエローラの店へ行った。店の中に入ってみると、既にヴィットーリオが来ていて、テーブルの上に本や紙を拡げて書き物をしていた。
「なんだ、早いじゃないか」
「美術館の方は休ませてもらってるんだ。何しろこれを早く仕上げないことには」
「そりゃすまなかったなあ」
「ほら、これがカファ寺院に関しての資料だ。僕は宗教には関心ないから、これだけしかわからないよ」
　ヴィットーリオは書物を開いてテーブルの上に置いた。
「僕も忙しいから、自分で読んでくれ」
　ファントムは古びた書物を手に取った。
「――カファ教はタウの平民カファが創始した一神教で、全能の唯一神ルクブラを崇め、その信者たちが集団で祈ることにより、終末の時にはルクブラが現世に姿を現し、信ずる者のみを破滅から救い出すと説いた――。へーえ、カファ教だからカファ寺院というのか。
　それから、――主にタウの下層階級の人々に受け入れられたが、時の領主モンジュオン侯爵が、下層民を救うという教義と、またそれにより民衆が徒党を組むことを恐れ、カファとその主だった弟子たちをタウから追放した。しかし各地へと散ったカファの弟子たちの布教により、瞬く間にプラムトク湾沿岸一帯に広がった。現在ではグリフス、タンメンテ、サラワン、チャカタンなどにおいても信者を増やしつつある――」
「その書物は少し古いからそんなこと書いてあるが、今では世界中に広がってるよ」
　ヴィットーリオは書く手を止めて言った。
「――教祖のカファは十五年の布教ののち、危険を冒して再びタウに入った。しかしこの時はとうとう侯爵の手の者に捕らえられ、裁判の結果、十字の丘において処刑された。カファの遺体は野に晒され、禿鷹や野犬の餌食となったが、カファは天にある神の国に召されて行ったと、信者たちの間では時を経るに従い信じられるようになった――。聞いたことがありそうな話だな」
「そうさ。しかしその先がカファ教の特徴を示してるんだ」
　ファントムは再び書物に目をやった。
「――それからおよそ二百年、カファ教の大司教となったフェノマ・グラシウスはその教義の中で、終末の時にはルクブラ神が弱き者、貧しき者、虐げられし者のみを救済するため、その役目を天に召されたカファに担わせると説いた。しかしカファは残忍な殺され方をしたが故に、救済されるにはその怒りを鎮め、人間の罪を償うための生贄を祭壇に捧げねばならないとした。
　この教義が信じられ、カファ教会内で多数を占めてくるようになると、フェノマ派は聖地である十字の丘にカファ寺院を建立した。しかしカファ教会は分裂、タウではブルン公爵が十字の丘にルクブラ神殿を建ててフェノマ派に対抗、多数の犠牲者を求めるフェノマ派は、しだいに各国の統治者たちからも厳しく弾圧を受けるようになった。
　しかしフェノマ派の数は増え続け、やがてカファ教会内での抗争が表面化し、大量の死者を出したモンジュオン広場での大虐殺へとつながっていく。その死者数は約六百五十。ひいては百二十三年前のサラワンの宗教戦争を引き起こす結果となり、その死傷者はフェノマ派、反フェノマ派、王軍、その他の一般民衆を合わせて約一万五千五百人にも昇った。戦争後、サラワンの町は焼け野となった。
　その後フェノマ派は鳴りを静め、目立った流血事件は起きていないが、フェノマ派は存続しており、今も闇に隠れて禁断の儀式を行い、その祭壇に生贄を捧げ続けている――」
　ファントムはそっと書物を置いた。
「その中にモンジュオン広場とあるのは、今の衛兵舎前のセルパニ広場のことだ。どうだい、参考になったかい？」
　ヴィットーリオは相変わらず書き物を続けている。
「幽霊とどうつながるかわからないけど、とにかく恐ろしい宗教だな。あの修道士たちを見ていると、とてもそんな恐ろしい人たちには見えないけどなあ」
　ファントムは首をひねった。
「もちろんそうさ。もうカファ寺院はフェノマ派のものじゃない。隠れて活動しているフェノマ派が恐ろしいのさ。何しろ闇に追いやられた者たちだ。その書物にある通り、今でも存続しているのなら、それこそ呪術的なものになってるかもしれないぞ」
「うん。でもあの寺院にはそんなことはなかったなあ。だから幽霊とこの話とは直接はつながらないな。 それとも死んだ生贄たちが怨みを残していて、あそこに現れるのかな？　この書物はいつ頃書かれたって？」
「今からちょうど五十年前のものだな。サラワンの宗教戦争が百二十三年前と書いてあることからも割り出せる」
　ファントムはしばらく考えてから、
「そうすると宗教戦争が百七十三年前。その前のモンジュオン広場の大虐殺っていうのはいつ？」
「今から百九十一年前」
「かなり前だな。それじゃあ、ごく最近現れ始めた幽霊とは、やっぱり関係なさそうだ」
「そりゃ関係ないだろう」
　ヴィットーリオは手を振った。
「幽霊は礼拝堂の壁から出て来るんだ。そこで壁を壊してみたらと勧めたんだけど、修道士たちも司祭も駄目だと言うんだ」
「そりゃそうだろう、大事な財産だ。そこに何か埋まってるとでも言うのか？　死体か何かが」
「ありそうなことだろう？　それに壁から出て来た幽霊たちが何か言ってるんだ、どいつもこいつも同じことを」
　ファントムは興奮して言った。
「何て言ってるんだ？」
「よく聞き取れなかったけど」
「馬鹿々々しい。考え過ぎだよ。とにかく壁に穴を空けられれば話は早いんだが、何しろ相手は教会だ。そこが厄介だな」
「ああ。だけどそうしないと次に進めない。何とかもう一度説得してみるよ」

　その日は市場を早めに切り上げさせてもらうと、ファントムはカファ寺院へ行ってみた。司祭に壁を壊すように言ったが、寺院側はやはり承知しなかった。
「このカファ寺院は今でこそすたれてはおりますが、聖地に建てられた由緒正しいカファ教の聖堂です」
　司祭の意志は固そうだ。
「なぜすたれてしまったんですか？」
「それは幽霊騒ぎのせいです」
「それはごく最近のことでしょう。なぜフェノマ派が建てたからだと本当のことを言わないんですか？」
「それは……」
　司祭はびくっとした様子で口を噤んだ。
「カファ教とこの寺院のことは少しばかり調べました。考えられることはただ一つでした。あの礼拝堂の壁の中には、かつてフェノマ派の儀式の生贄となった者たちが埋め込まれている。そうは思いませんか？」
「…………」
「司祭様はそれをご存知なんでしょう？」
「とんでもありません」
「ああ」
　ファントムは司祭の部屋にある椅子の一つに腰を下ろした。
「ようく聴いて下さい。この幽霊騒動を解決しない限り、信者はこの寺院に集まって来なくなります。解決するためには幽霊が出て来る所を調べないとどうしようもありません。幽霊は必ず礼拝堂の壁から出て来るんです。俺は一度しか見てないけど、そうでしょう？」
「ええ」
　司祭は渋い表情をして頷いた。
「だったら剣士なんか集めたってしょうがない。解体の専門家を呼ぶことです。解体屋に積み上げてある石をいくつか外してもらえば、それで事は済みます。何も礼拝堂をぶち壊せなんて言ってませんよ。一度抜き取って壁の中を調べてみたあとは、また元通りに戻してしまえば、何も問題はないじゃないですか」
　ファントムは苛々して言った。
「そう簡単にはいきません。私には教会の尊い財産である聖堂を傷つける権限などありはしません。仮に穴を空けたとして、何もなければどうすれば良いのです？」
　ファントムは溜息をつき、
「なんて石頭だ。あなたは一体誰を怖がってるんですか？」
「もちろん神のお怒りを恐れるのです」
「それじゃあ逆に、もし壁の中に死体がたくさん詰まってるとしたらどうします？　あなたはそれをそのままにして、知らん顔をしていることになりますよ。神はそれは許すんですか？　とんだ神様だ！」
　司祭はぐっと詰まってしまった。
「俺はカファ教の信者でも何でもない。だからこの寺院がすたれようがどうなろうが知ったことじゃない。ただシーファーの周旋所を通して頼まれたから、仕事で言ってるんです。いつまでも幽霊がうろうろしているのを眺めながら、只で報酬を受け続けてるなんてごめんだね。今ここを出て行ったって、いくらでも働き口はあるんだ。わからず屋の司祭なんて真っ平だね」
　ファントムは立ち上がって剣をつかむと、部屋から出て行こうとした。
「お待ち下さい。あなたのおっしゃる通りに致します」
「そう来なくっちゃ。それじゃあこれから早速シーファーの所へ行って、解体屋を頼んで来ますよ」
「そうして下さい」
　ファントムはシーファーの店へ行くと、面倒くさがるシーファーを脅したりすかしたりして、何とか解体屋を呼びに行かせた。
「寺をバラすなんて初めてだ。本当にやっていいのか？」
「ああ、構わない。司祭様にお許しをもらってある」
　ファントムは司祭の顔を見てニヤッとした。
「ただし――」
「天井は落とすなだろ？　餅は餅屋さ、任せときなよ」
　解体屋は指定された壁から石を一つ選び、石と石との継ぎ目を鑿で上手に削り、くさびを打ち込んでいく。横で見ていたシーファーがファントムの袖を引っ張った。
「もしもでございますよ、もしも仮にこの壁を引っぱがした後ろから、ファントム様がおっしゃるように死体が出て来たら、一体どうなさるおつもりですか？　そうなったら只事じゃあ済まないと思いますがねえ」
　シーファーはファントムの耳に囁いた。
「出て来るさ、きっと」
「そんな！」
　解体屋はどんどん作業を進めていく。司祭と修道士たちは固唾を呑んでそれを見守っていた。
「こいつは大きな石盤を交互に積んであるだけだから、取っ掛かりさえ作れば、他の部分はそのままにして抜き出すことができるぜ」
　解体屋は削り取った石の両側の部分に鉤棒を差し込んだ。
「そっちを引っ張ってくれ」
　ファントムは片方の鉤棒を持った。解体屋はもう一方の鉤棒を持ち、石の下にも一本引っ掛けた。
「少し下向きに引くんだぞ。行くぞ」
　二人は一斉に鉤棒を引いた。石盤が少し前に出たようだった。
「何ともないようだ。もう一回行くぞ」
　そろそろと何回も引っ張っていると、やがて石盤が綺麗に外れた。真っ黒な穴が空いたのと同時に、異様な臭いが漏れた。みんな咄嗟に鼻を押さえた。
「灯りを」
　ファントムは修道士からランタンを受け取り、屈み込んで上体を穴の中に入れた。灯りで照らして見ると、近くに何かあるようだ。壁の裏側は空洞になっていて、その中に死臭が充満していて吐きそうになる。
　彼はもっと奥の方に入って灯りで照らしてみた。そこにあった物は、やはりぼろぼろになった人間の死体だった。だがもっとよく照らして見ると、そんな死体が狭い壁の空洞にうずたかく積み重なっていた。
「こりゃひどい」
　ファントムは急いで壁から出た。
「どうでした？」
「これは手に負えない。死骸は一つや二つじゃない」
「とにかく墓地へ運んで、手厚く葬らなければなりません」
「とは言ってももう暗うございますし、人手が足りません。明日の朝のうちに私が墓掘り人夫を集めますから、今日はひとまずこのままにしときましょう」
　シーファーの言うようにすることになり、とりあえず壁の穴はもう一度蓋をされた。

　翌日は市場を朝で切り上げ、昼飯を食ってから寺院へ行った。墓掘り人夫たちが裏の丘にある墓地で墓穴を掘っていた。信者も何人か来ていて人手は充分だ。壁の石盤を取り外すと、また死臭が湧き出した。寺院の裏手に車を用意しているが、問題は死体をそこまで運ぶことだ。ファントムが壁の裏側に入り、鉤棒で死体を引っ掛けて外へ出した。
　出て来た死体は腐乱がひどく、骨が剥き出しになっていたり、皮膚が破れて肉がぼろぼろと散ったりした。礼拝堂側に押し出されて来たそんな死体を見て、みんな腰を抜かした。シーファーと信者の何人かは、たまらずゲーゲー吐いている。司祭も修道士たちも顔を背けてしまい、いたずらに祈るばかりだ。
「早く運んで行ってくれないか。死骸はまだまだたくさんあるんだ」
　ファントムはランタンで暗がりを照らしながら、壁の中から叫んだ。口と鼻を厚い布で覆っているが、気休めにもならない。仕方なく修道士が二人で戸板に載せようと死体をつかんだが、その途端につかまれた死体の両足と両手がもげてしまった。
「ひゃー！」
　シーファーはこらえきれずに礼拝堂から逃げ出して行った。
「おい、何やってんだ。早くその死骸をどけてくれ。次のが出せないじゃないか」
　ファントムはまた壁の中で怒鳴った。
「手足がちぎれてしまいました」
「ちぎれてもどんどん戸板に載せて運び出すんだよ。俺をいつまでもこんな所に閉じ込めておくつもりか？」
　そう言われると仕方なく、修道士たちは目をつぶりながらちぎれた死体の各部分をつかんでは戸板に載せていった。手伝いに来た信者たちがそれを裏へ運び出した。次に壁の中から押し出された死体には蛆が涌いていて、肉はかなり食われていた。鉤棒で礼拝堂側へ押し出すと、床の上に蛆が散った。ファントムは容赦なく次々と死体を押し出していった。その度に死体の頭が取れて転がったり、肉がべちゃっと床に貼りついたりした。
「ちょ、ちょっとお待ち下さい」
　司祭がたまりかねて言ったが、
「待ってどうするんです、臭い物には蓋をしときますか」
「いえ、そうではありません。少しだけ待って頂けませんか。目眩がしてきました」
　ファントムは苛立って穴から出て来た。切れ切れになった死体の各部をつかんでは、次々と戸板に載せていった。
「さあ、こいつも早く持って行ってくれ」
　鼻を押さえて見ているだけの信者に言った。
「わかってるんですか、早くしないといつまで経っても終わりませんよ。死骸はこの裏で山積みになってるんだ」
　ファントムは壁を指差した。
「わ、わかりました。急ぎましょう」
　ファントムはまた穴の中に戻った。今度は骨だけになった死体を押し出した。そうやって次々と死体を出したあと、
「気分が悪くなった。誰か代わってくれ」
　穴から出て修道士の一人に鉤棒を渡すと、礼拝堂の外へ出て行った。そのまま庭へ出て行ってゲロゲロ吐いている。目眩がしてきたので、地面に仰向けに寝転がった。
「なんでこんなことしなきゃならないんだ」
　目をつぶると、今し方の腐り果てた死体がはっきりと瞼の裏に浮かび上がってくる。その気味の悪い光景を振り払おうと慌てて目を開けたが、ふと妙なことに気がついた。
（おかしい……、ヴィットーリオに見せてもらった書物では、確かこの寺院は何百年も前に建てられたはずだ。でもあの死骸はどれもそんな昔のものじゃない。最近死んだばかりのものだ。どう多めに見積もっても一年は経っていないだろう。ということは最近あそこに放り込まれたことになる）
　フェノマ派のことをヴィットーリオが持って来た書物で読んでいたので、死体はてっきり建立時の生贄だろうとはなから決めつけていたが、よく考えてみるとそんなことはあり得ないのだ。
（じゃあ、一体全体何の目的で、誰がどこから入れたんだろう？　解体屋が石盤一つ外すのにもかなり手間取っていた。どこかに秘密の入口でもあるのか、それとも……）
　とファントムは思いつくことをいろいろと考えてみた。すると壁に穴を空けようと言った時に、司祭や修道士たちが渋る様子を見せたのが思い出された。
「まさか」
　ファントムはその考えを打ち消そうとした。司祭も修道士たちも、誰一人としてそんなことをするようには見えない。だいたいあの死体を見ただけで、子供のように怯えているだけではないか。しかしカファ寺院は元々フェノマ派のものだ。あり得ないことでもない。芝居を打っているのかもしれないし……。
　一人であれこれ考えていると、次々に疑惑が湧いてきた。ファントムはそっと立ち上がり、礼拝堂の入口に引き返すと、物陰から司祭たちの方を窺ってみた。修道士たちはおっかなびっくり作業を進めているが、一向にはかどっている様子はない。司祭は相変わらず馬鹿みたいに祈り続けているだけだ。
「やっぱり違うな」
　ファントムは首を横に振った。どう見てもあの者たちが生贄を殺し、壁の中に放り込んだとは思えなかった。
「じゃあ、一体誰がどうやって……」
　あれだけの数の死体を壁の裏に押し込めるのを、この寺院の誰にも見られずに行うのは不可能と言っていい。そもそもこんなに人の多い都会だ。ここまで死体を運んで来る間に、誰かに見られてしまうに違いない。
「それじゃあ、やっぱり内部の者の仕業か」
　ファントムが一人で頭を抱えていると、そこにシーファーが衛兵たちをたくさん連れて戻って来た。
「何だ、一体？」
「お上に届け出て来たのでございます。これは明らかに殺人事件ですからね、一市民として捨ててはおけませんよ」
　シーファーは躍起になって言った。
「こちらはファントム様でございます」
　シーファーは衛兵の隊長に向かって言った。
「ああ、名前は聞いている。ウーリックは見事だったな」
「いや」
「俺は殺人事件専門のゼメキスという者だ。しかしひどい臭いだ。腐ってしまってるな」
　ゼメキスという男は尊大な態度で言った。
「ああ、あっちで今死体を取り出しているところだけど、多すぎて修道士と信者じゃ埒が明かない。殺人専門なら代わりにやってくれないか。死体には慣れてるだろう」
「慣れてるが、好きじゃないな。とにかく見てみよう」
　衛兵たちはぞろぞろと礼拝堂の中へ入って行った。
「こりゃひどい」
　死体を見た衛兵が言った。数名が炬火を手にして壁の中に入る。
「これは大量殺人だ。誰がこんな所に死体を隠したんだ？」
　ゼメキスは布で鼻を覆いながら言った。数本の炬火の灯で壁の中を照らすと、更に死体がたくさんあるのがわかった。
「フェノマ派の生贄だ」
「？」
　どうやらゼメキスたちはフェノマ派のことを知らないようだ。
「カファ教の異端だ。儀式で人間の生贄を捧げるんだ」
「ほんとか？」
「ほんとだ」
　とりあえず身動きができるように、衛兵たちが死体を次々に外へ放り出した。死体の数は二十や三十ではきかない。
「あんた、殺人の専門家ならこの謎が解けないか？」
　ファントムは隊長のゼメキスに訊いてみた。
「まだわからんが、この寺の者が怪しいな」
「そんなことはないと思うけど……」
「白黒はっきりさせてやるさ」
「隊長、こっちに来て下さい」
　壁の内部を調べていた衛兵が炬火を揺らして呼んだ。そっちへ行ってみると、灯に照らし出されて階段があるのがわかった。
「ここはただの壁と壁の隙間じゃない。何らかの目的があって、これだけの空洞が故意に造られたとしか考えられない」
「目的は死体を隠すことだな。間違いない。あの僧侶どもを締め上げてやろう。きっと何か知っているはずだ」
　ゼメキスは急いで出て行こうとした。
「待てよ。死骸とこの秘密の空間は必ずしも一致しないぞ。何しろこの寺院が建てられたのは数百年も前のことだ。それに比べてあの死骸はどれもみんな新しい」
　ゼメキスは鼻先で笑っただけだった。ファントムが穴の外に出ると、衛兵たちが司祭たちを連行しようとした。
「しょっ引いて、檻に閉じ込めておけ。あとでたっぷり絞り上げてやる」
　ゼメキスは無情にもそう言った。
「何言ってるんだ、この人たちがやったという証拠はあるのか？」
　ファントムはゼメキスに食ってかかった。
「ちょっと殺人鬼を始末したからって図に乗るなよ。一平民の分際で、お上のすることに口出しするな！　こいつらがやったのでないと言うのなら、おまえの方こそその証拠を見せてみろ」
　ゼメキスは吐き捨てるように言うと、数名の衛兵に司祭たちを連れて行かせた。ファントムはシーファーの顔を睨んだ。
「こんなことになるとは思ってもいなかったのでございますよ。しかし大変なことになってしまいました。どうしましょう？」
「下手に役人なんか呼ぶからこうなるんだ。何が殺人の専門家だ。誰でもいいから濡れ衣着せて済ませてしまうだけじゃないか」
　ファントムは腹が立って仕方がなかった。
「一体全体どうしましょう？　まさか司祭様が逮捕されるとは……。剣士四人分の紹介料はどうなるのでしょう？　解体屋への支払いもまだですし」
「金の心配するなんて、あきれた奴だな。とにかく証拠を突き止めるしかない」
　ファントムはシーファーのことが不愉快になったが、再び壁の中に入り、炬火をかざして階段の所へ行ってみた。
「この階段がおかしい。ここに必ず何か手掛かりがあるはずなんだが……」
　だが数段しかない階段を上ってみても、ただ壁に突き当たるだけで、この階段に何の意味があるのかさっぱりわからない。その周囲も調べてみたが、やはり手掛かりは何もなかった。死体の崩れた残りや、血がそこらじゅうにこびりついていて、異臭を放っているだけだ。
「ヴィットーリオに助けてもらおう」
　彼は諦めて壁から出た。
「いかがでございました？」
　シーファーが不安そうに訊いてきた。
「ヴィットーリオに手を貸してもらって、今晩にでももう一度調べに来てみるよ」
「では私は司祭様が釈放されますように、お役所にお願いに行って参ります」

　その晩、ファントムはヴィットーリオを訪ねて行った。
「ちょっと手伝ってくれないか？」
「おい、こっちだって忙しいんだぞ。やっと論文が出来上がったところだ」
「じゃあ、暇だろう」
「いや、あの論文はラーケン教授の物だ。僕が代筆してるのさ。これからやっと僕自身の研究が始められる」
　ファントムはヴィットーリオに擦り寄った。
「頼むよ、ちょっとだけ。カファ寺院の司祭が衛兵に捕まってしまったんだ。助け出さないと」
「司祭が捕まろうと、きみには関係のないことだろう？」
「今は雇い主だぞ。行き詰まってしまって、きみの力を借りないとどうしようもないんだ」
「参ったな。そうやっていつもおだてるんだから。じゃあ、ちょっとだけだぞ」
　ファントムは手を合わせた。
「すまん。それじゃあこれから寺院まで来てくれ」
「おいおい、待てよ。わざわざ寺院まで行くなんて誰も言ってないぞ」
　ファントムは有無を言わさずヴィットーリオを引っ張り出した。
　寺院に着くと、衛兵たちが庭先でまだ死体を焼いていた。礼拝堂の中に入ると、灯りを燈して壁の中に入った。
「凄い臭いだな」
「腐った死骸が五十体ほどここに入ってたんだ。問題は、そんなに大量の死骸をどこからどうやってここに運び込んだかってことだ。それと何のためかってこと」
「ふうむ、これはまずフェノマ派の仕業に違いないな」
「こっちに階段らしいのがあるんだけど、どこへ通じてるって訳でもないんだ」
　ファントムは階段のある方へヴィットーリオを連れて行った。
「なるほど」
　ヴィットーリオは五、六段しかない階段を上がり、前の壁を押してみた。
「びくともしない。一体この階段には何の意味があるんだろう？」

　翌朝寺院に来ると、ファントムは礼拝堂の中を調べ、外も歩いて回ってみたが、手掛かりは何も得られなかった。寺男にも尋ねてみたが、何も知らないようだ。そうしていると、やがてヴィットーリオがやって来た。
「全くお手上げだよ。証拠を挙げないと司祭たちは釈放されない。一体どうすればいいんだろう？」
「へーえ、きみがそんなに信心深いとは知らなかったな」
　ヴィットーリオは皮肉を込めて笑った。
「そうじゃないさ。無実の人たちが濡れ衣を着せられて牢に入れられているんだ。助け出さないと。それにそんな無茶をした役人に目に物見せてやりたいだけさ、自分たちの判断がどれだけいい加減だったかってことを」
「まあ、人それぞれだ。僕に言わせりゃ、きみの神経がどうなってるのかさっぱりわからないけどね。ところでいい物を持って来たぞ」
「何だ？」
　ヴィットーリオは手にしていた大きな巻紙を拡げてみせた。
「これは何だ？」
　ファントムは覗き込んで見た。
「美術館で埃を被っていたのをちょっと拝借して来たのさ。かなり古くて見づらいが、この寺院の見取り図だ」
「見取り図？」
「そうだ。さっきこれを偶然見つけて眺めていると、驚くべきことに気づいたんだ。ここを見てくれ」
　ヴィットーリオは図面の一部を指し、
「ここが今僕たちのいる礼拝堂だ。それはわかるだろう？」
「ああ」
「この壁が死体が出て来たという部分。この図でも二重構造になっている」
「なるほど。わざと造ったんだな」
「もちろん。そしてここに扉の印がある。ここがあの用途不明の階段の場所とほぼ同じ位置で、ここから不可解な印が続いている」
　ファントムはヴィットーリオの示した部分を子細に見てみた。確かに扉の印から破線が二本、平行になって図の端まで伸びている。
「これは何だろう、秘密の通路だろうか？」
「恐らくそうだ。この図は見ての通り、寺院の真上から見たと仮定して描かれた物だ。と言うことは、この破線は建物の下にある印だと考えられる。つまり寺院の下には地下道が通ってるってことだ」
「なるほど。じゃあ、その地下道を見つければ、その先に死体の謎を解く何かが待ってるってことか」
　ヴィットーリオは頷いた。
「そう。だけどこの地下道を捜し出すことはお勧めできないな。この図だと、地下道は寺院の敷地外まで伸びているみたいだ。どこまで続いているのかはわからない。しかしその先に待ち受けているのが何なのかは容易に想像がつく」
「フェノマ派か？」
「そうだ。でも甘く見ちゃいけない。少なくとも五十人の人間を殺している者たちだ。狂人としか言いようがない」
　ヴィットーリオは真剣な眼差しでファントムの顔を見た。
「触らぬ神に祟りなし。ドラドの言いぐさじゃないが、今度ばかりは深入りしない方がいいと思うよ」
　ファントムはしばらく黙って考え込んだ。ヴィットーリオが真面目に心配してくれているのはよくわかる。情勢予測学とかいうわけのわからない学問はともかくとして、彼の言うことはまず外れたことがない。
「しかし……、ここまで漕ぎ着けたんだ。あとは扉を見つけて、秘密の通路を捜し当てるまでは何とかやってみよう」
　ファントムは腹を決めた。
「それがきみの場合はそこで終わらない。ずるずると先まで行ってしまうんだ」
「そうかもしれない。でも……」
　それがどんなに危険だろうと、ここでやめられるはずがないじゃないか、とファントムは思う。なぜそうなのかはわからない。
「未知の物は誰だって怖いさ。でも怖いからと言ってそれを避けていたんじゃ、いつまで経っても真実を知ることはできない。結果がどうなるかなんて誰にもわかりはしないさ。前もって結果がわかってることなんて、やってもつまらない。統計により結果が危険と出たからって、やってみないことにはその予測が正しいかどうかもわからないぞ」
　ヴィットーリオは渋い表情になって、
「何だ、それは僕のやっている研究に対する当てつけのつもりか？　いいか、一言言わせてもらうと、きみは情勢予測学を完全に誤解している。この学問の目的は、ある現象の結果がどうなるかを当てることじゃない。悪い状況に陥らないように未然に防ぐこと、これが第一。つまり予防だ。最良の結果を得るための方法を見出すことなんだ」
　ヴィットーリオは自信を持って言った。
「どっちにしたって俺はやるよ。ここで逃げ出したら、ただの臆病者で終わってしまう。いいか、俺は冒険者だ。危険を冒してこそ冒険者だ。冒険者の目的なんてよくわからないけど、このことは俺がやらないと誰もやらない。司祭たちの無実は証明されないんだ」
「司祭が人殺しという可能性だってあるぞ。きみがこの事件の真相をつかむことによって、かえって司祭の罪を重くするかもしれない」
　もちろんそうかもしれない、とファントムは思う。司祭を救いたいがためばかりではない。
「どっちにしたってはっきりさせるべきだ。でないと俺の気が済まない。もっとも俺は司祭たちは無実に違いないと思ってるけど」
「わかったよ。きみは本当に馬鹿がつくほどの正義漢だな。まあ、好きにするがいいさ」
　二人は例の階段の所へ行った。
「これが階段だと考えるからわからなくなるんだ。これは地下道の蓋さ」
　ヴィットーリオはそう言ってしゃがみ込み、階段を力任せに押してみた。真っ直ぐに押すと、少し壁の方に動いたみたいだ。
「手伝ってくれ」
　ファントムも一緒になって押した。弾みがつくと、階段はスルスルと移動しだした。床下に穴が空き、そこに下りの階段が現れた。
「やっぱりだ」
　二人はランタンを手に階段を下りてみた。
「こいつは歯車で動くようになってる」
　ヴィットーリオは今動かした偽の階段の底を指差した。
「この把手を回すと――」
　そう言いながら、壁に取りつけられている把手を回した。すると頭上の偽の階段がまた戻り始めた。
「これで決まりだな」
　二人は狭くて天井の低い通路を進んだ。しかしすぐに青銅の扉に突き当たり、これは押しても引いてもびくともしなかった。
「鍵が掛かってるんだ」
　ヴィットーリオは扉に鍵穴があるのを見つけて指差した。ファントムは鍵穴を覗き込んでみた。
「真っ暗で何も見えないな」
　彼はその辺の壁を探ってみた。
「こっち側に鍵があるはずがないだろ。フェノマ派はあっちから来るんだぞ」
「じゃあ、どうすればいいんだ？」
「とにかくこの通路は別のどこかへ通じているんだ。フェノマ派はそこから入り、この通路を使って寺院の内部に死体を運び込んだ。そのもう一つの入口を外から捜すか、また死体を捨てに来た時に、奴らがここを開けるのをじっと待つか」
　ファントムは唸った。
「そんな！　ここまで来たのに」
「もう一つ、司祭が死体に関わっていたとしたら、鍵がこの寺院のどこかにあるってことも考えられるが」
「…………」
　結局寺男に事情を話して、司祭の部屋を調べさせてもらうことにした。寺男は承知して、二人を司祭の部屋に案内した。
「司祭を救い出すためとはいえ、本人に無断で家捜しするなんて、何だか気分悪いな。泥棒になったみたいだ」
「気にするなって。目的のためだ。この程度のことは必要悪さ」
「でもどこにも鍵はないな。この机に鍵の掛かった引出しが一つあるけど、どうする？」
「んー、そこが怪しい。壊してみよう」
「待てよ。そいつは良くない」
　二人が机を壊すかどうかで揉めていると、そこにシーファーがひょっこり姿を現した。
「只今司祭様方をお見舞いに行って参りました。ご安心下さい。司祭様方は牢の中には入れられてはおりません。裁判所の一室で軟禁状態にされてはおりますが。ところでお見舞いの際に、司祭様から妙なことをお聞き致しまして」
「何だ、妙なことって？」
　ファントムは浮かぬ顔で訊いた。
「司祭様は大層思い詰めてご心労のご様子でしたが、私に礼拝堂のルクブラ像を調べて欲しいとおっしゃるのでございます。それが何のためかとお訊き致しましても、それ以上のことは何もおっしゃりません。ただただルクブラ像を調べて欲しい、とこうです」
　ファントムとヴィットーリオははっと気づいて、急いで礼拝堂に戻った。正面の祭壇の上部に黒塗りの木像が置かれている。
「これがそうか」
　ファントムはルクブラ像を祭壇から取り外して調べてみた。よく見ると像の背中に継ぎ目があった。
「これだ！」
　爪でこじ開けてみると、そこにはやはり青銅の鍵が隠されていた。
「あったぞ。行こう」
　鍵を取り出すと木像を床にごろっと転がしたまま、ファントムはまた壁の中に入り、秘密の地下道を閉じている青銅の扉へ急いだ。
　鍵は鍵穴に巧く合った。そのまま回してみると、ガチンという大きな音が地下道に響いた。扉を押すと簡単に開いた。向こうには地下道が続いている。光は見えない。
「僕はここまでだ」
　ヴィットーリオの声が地下道に反響した。
「勝手にしろよ」
「ああ、勝手にさせてもらう。だけど一人で行くより衛兵を呼んだ方がいいぞ。きみ一人じゃ危険だというだけじゃない。証拠を見てもらわないと意味ないだろ？」
「そうだな」
　ファントムは壁の穴まで引き返し、そこで待っていたシーファーに、衛兵を呼んで来てくれるように頼んだ。
「ゼメキスという奴だ。頼んだぞ」
　シーファーは承知して寺院から出て行った。
　しばらく待っていると、ゼメキスが衛兵数名を連れてやって来た。
「こっちだ。来てくれ」
「こんな物があったとはなあ」
　地下道に下りて青銅の扉の所まで来ると、ゼメキスは驚いて言った。
「じゃあ入るぞ、いいな」
　ファントムは念を押した。通路が狭いので、前に衛兵が二人、ゼメキス、ファントム、後ろに衛兵二人という順で、一列になって進んだ。通路はやがて上ったり下りたり、左右に曲がったりしだした。とある所まで来ると、腰の高さより上に大きな横穴が空いていた。
「調べてみましょうか？」
「よし、入って見て来い」
　ゼメキスは衛兵の一人に命令した。衛兵は横穴に上がり、ランタンをかざして穴の奥へ這い進もうとした。その時衛兵が何かを踏みつけた。
「何かいます」
　言った次の瞬間に衛兵は悲鳴を上げた。
「おい、どうした？」
　ゼメキスが訊いたが、衛兵は答えない。
「まずい。引き出せ！」
　ゼメキスと衛兵がそれぞれ足をつかんで引きずり出そうとした。しかしなかなか引き出せない。やっとのことで引き抜いてみると、衛兵はもう動かなくなっていた。
「一体何が起こったんだ？」
　ゼメキスはランタンで穴の中を照らしてから、わめき声を上げて腰を抜かした。人間ほどの大きさがある大蜘蛛がのそのそと這い出して来たのだ。ファントムは咄嗟に剣を抜いた。
「退がってろ」
　大蜘蛛が穴から首を出したところを見計らい、サッと剣を振り下ろすと、蜘蛛の首が切れて通路に転がり落ちた。首の失くなった胴体は横穴の奥へと這い戻って行く。衛兵を確かめてみると、既に死んでいた。
「毒にやられたんだろう」
「ここは危険すぎる。人数が足りない。すぐに重武装した援軍を呼んで来い」
　醜態を演じたゼメキスは、隊長としての威厳を取り戻そうと、後ろの衛兵に言い訳めいた命令をした。命令された衛兵は急いで地下道を引き返して行った。
　通路はこの先で左右に分かれている。ゼメキスと衛兵が右へ行き、ファントムともう一人の衛兵は左へ行くことにした。左側の通路は少し行くと行き止まりになっていた。
「行き止まりだ。引き返そう」
「いや、待て。何か落ちてるぞ」
　衛兵は突き当たりの壁の前に、キラキラ光る物を見つけた。
「宝石じゃないか？」
　衛兵が光る物を拾いに行くと、途端に床がガターンと落ちた。衛兵は床の斜面を滑り落ちて行った。ファントムは急いでランタンの灯で照らしてみた。だが、落とし穴の底には何本も先の尖った杭が突き出ていて、それに全身を貫かれた衛兵は、既に絶命していた。
　ファントムは急いで分岐点に引き返した。今度はゼメキスの行った右の通路を行く。しばらく行くとまた通路が左右に分かれていた。今度は右へ行ってみる。すると十字路に出た。今度は真っ直ぐ進む。するとまた左右に分かれていた。また右へ行く。すると行き止まりになっていて、そこに人が倒れていた。
「おい、どうした？」
　そう声をかけてから近寄ると、倒れていた人間がいきなり立ち上がって殴りかかってきた。危ういところで身を交わす。
「何するんだっ！」
　と叫んで相手の顔を見ると、そいつは衛兵ではなく、顔がぼろぼろに崩れた死体だった。ファントムは素早く剣を抜き、動く死体に斬りつけた。死体は肩口から腹にかけて斜めに切れ、上部がどさっと床に落ちた。
　ふうっと溜息をついたのも束の間、二つに切れた死体が近づいて来た。ファントムは思わず後ろに跳び退がった。下の方は歩いて来て、残った片手を振り回してくる。頭の方は片手で這って、足につかみかかってきた。もう一度剣を振ると、簡単に上半身と下半身に分かれたが、腰から下だけになった死体は片足でぴょんぴょん跳ねながら、もう一方の足で蹴ってきた。
「こりゃ駄目だ。きりがない」
　ファントムは三つに分かれた死体に背を向けると、その場から走って逃げ出した。しかし死体の方もかなりの速さで追いかけて来る。ファントムは大急ぎで逃げた。そうやってやっと生ける屍をまいたが、気がつくと自分がどの辺りにいるのか、どっちを向いているのか、全く見当がつかなくなってしまった。仕方がないので地下道を歩き回ってみたが、まるで迷路で、いつまで経っても抜け出すことができない。何だか同じ所を何度も行き来しているように感じられてならなかった。
　そうやってしばらくうろうろしているうちに、前方に灯りが見えだした。その灯りはだんだんこちらに近づいて来た。ファントムはランタンをそっと床に置くと、剣を鞘から抜き放ち、いつでも闘えるように身構えた。
「誰だ？」
「ああ、俺だ」
　近づいて来たのはゼメキスと一緒に行ったはずの衛兵だった。
「どうしたんだ？　ゼメキスは？」
「死体が生き返って襲って来て、逃げる時にはぐれてしまったんだ」
「俺の方も襲われたよ。あんたの仲間は落とし穴に落ちて死んでしまった」
「そうか。とにかく武装隊に任せることにして、早くここから抜け出そうじゃないか」
「そりゃそうしたいけど、この迷路から出られないんだ」
　二人はしばらく考えてみたが、じっとしていても始まらないので、とりあえずもう少し歩き回ってみることにした。そうやって地下道を行ったり来たりしていると、偶然にも向こうに明るい大広間が見つかった。大勢の声が響いているのが聞こえる。二人はそっちへ行ってみた。
　物陰からそっと覗くと、これがどうやらフェノマ派の秘密の大聖堂のようで、前の壇上に司祭らしいのが一人いて、何かわけのわからないことを喋っている。その両脇には上半身裸の大男が二人ずつ立っていて、他は信者が五十人ほど、司祭が何か言ったあと、声を合わせて意味不明の言葉を唱えていた。壇には柱が四本立っている。よく見ると、一番向こうの端の柱に男が縛りつけられていた。
「あっ、あれはゼメキスだ」
　思わず大声が出そうになったのを抑えて、ファントムは横にいる衛兵に囁いた。
「やばいぞ。生贄にする気だ。何とかして助け出さないと」
　そう言った時だった。急に頭に強い衝撃を受け、ファントムは気を失ってしまった。

「……として捧げます。異教徒の血と臓物を受け給え。これが我らの罪の償いとなり、願わくは終末の時、我ら信徒を降り掛かる災いの炎より救い給え」
　邪教の司祭が何か唱えている。気がつくと、自分は多数のフェノマ派の信者たちの前にいて、壇上の柱に体を縛りつけられていた。ハッとして見回すと、右側にゼメキス、左側に衛兵が同じように縛りつけられていた。衛兵はまだ気を失っていたが、ゼメキスの方はもう気がついていた。
「これから生贄にされるんだぞ」
　ファントムはゼメキスの方を向いて言った。ゼメキスは恐怖に顔を引きつらせ、何も喋ることができずに震えている。司祭はまた意味のわからないことを言い、正面にある祭壇に祈った。信者たちも同じことをした。
「ではこれより我らがルクブラの神と、偉大なる聖者カファに償いの贄を捧げる」
　邪教の司祭はそう言うと、手にした短刀の鞘を払った。信者たちは歌い始めた。
「助け給え、導き給え、我ら罪深き者たちの悔恨の証をここに受け給え……」
　司祭はそう唱えながら、まずゼメキスの前ににじり寄った。短刀を両手に持ってゆっくりと上げ、刃を天井に向けた。
「助けてくれ、命だけでも……頼む」
　ゼメキスは泣いて司祭に命乞いをしたが、司祭は全く相手にしない。
「やめろ！　殺せば余計罪深くなるぞ。そんなこともわからないのか！」
　ファントムが叫んだが、司祭は全く意に介したところもなかった。短刀をじわじわと近づけ、ゼメキスの腹にゆっくりと突き刺していく。ゼメキスの命乞いの声が呻き声に変わった。司祭は短刀を充分に突き刺すと、ザッと下に切り裂いた。次に割れた腹に両手を突っ込み、両側にガッと開いた。ゼメキスのわめき声が一段と大きくなった。そこから慣れた手つきではらわたを抜き取っては、大男が捧げ持っている盆に載せていった。
　とうとうゼメキスの首がガクッと垂れ下がった。それでもまだ司祭ははらわたを抜き出すのをやめようとしない。とうとう腹の内側を空にしてしまった。辺りは血塗れだ。大男は盆の上に載ったはらわたを祭壇へ運んだ。
「狂ってる。おまえたちはみんな狂ってる、気違いだ！」
　ファントムは叫んだが、信者たちは歌い続けるばかりだ。司祭はまた短刀を執ると、次にファントムの前まで来た。そして何か意味不明のことを言った。今度もゼメキスの時と同じように、短刀の切っ先をファントムの腹にじわじわと近づけていく。短刀がファントムの着ている服を貫いていく。ファントムは目をつぶった。
　ところが司祭は短刀を押す手をはたと止めた。何かが切っ先を妨げている。司祭は両手でファントムの懐を開いた。切っ先に当たっていたのは、ヴィ・ヨームからもらったエレクトラム製のプレトの護符だった。ファントムは目を開けたみた。そして、ヴィ・ヨームが、『この護符を持っていれば、この世界にいる間はプレトの神が必ず守ってくれるだろう』と言った言葉を思い出した。
　しかし、それも今となっては叶わぬこととなった。司祭は護符の存在に気づいてしまっている。薄気味悪い目つきでじろりとファントムの顔を見た。そしてゆっくりと片手でプレトの護符をつかんだ。しかしその瞬間に信じられないことが起こった。
　護符を握った司祭の手からたちまち煙が上がり、それがあっと言う間に腕、肩、胸へと広がり、見る間に全身から煙が立ち昇った。一瞬の出来事だった。司祭は黒焦げになり、消滅して護符だけが壇に残り、聖堂内の篝火に照らされてキラキラと輝いていた。この出来事に信者たちは恐れおののき、ただただひれ伏して祈り続けるばかりだった。
　しかしそれがずっと続いていると、重武装した兵士たちがいきなり聖堂内に突入して来た。全員弩を構え、号令一下、信者たちに向けて矢を乱射し始めた。信者たちは何人も悲鳴を上げて倒れた。邪教の信者たちは大混乱となった。生き残った者たちは逃げ出そうと、恐らく彼らが入って来た入口であろう、後ろにある扉に殺到した。
　それさえ逃すまいと、武装兵たちは楯と手槍を構えて追いかけた。老若男女の区別なく、手当たりしだいに信者たちを背中からブスリブスリと突き刺した。
「やめろ、やめろ！」
　ファントムは叫ぶだけで、柱に縛りつけられていてどうすることもできない。前にいた四人の大男たちは、棍棒を持って武装兵と格闘していたが、多勢に無勢、裸同然の彼らはやがて武装兵たちの手槍に突きまくられ、剣に切り刻まれた。
　騒ぎはすぐに収まったが、秘密の聖堂内は血の海と化していた。ファントムともう一人の衛兵は縄を解かれ助け出された。
「やあ、無事だったか」
　聞き覚えのある声がしたので振り向くと、ヴィットーリオがやって来ていた。
「どうしたんだ？　ここには入りたくないとか言ってたくせに」
「いや、あのあとちょっと気になって、もう一度ルクブラ神の像を調べてみたんだ。すると鍵が入っていた穴に図のようなものが描かれていて、よく見ていると、これは地下道の道順を示してるんじゃないかと思ったんだ。そうしていると衛兵が戻って来て、一人毒蜘蛛に殺られたって言うじゃないか。
　そこで図を分析してみて、地下道は迷路になっていて、寺院の方からだと必ず右の道を通って行かないと罠に掛かるってことがわかった。そこでそのあと、衛兵が連れて来た武装兵たちに通路の進み方を教えたんだ。もう死んだんじゃないかときみのことを心配してたんだぞ」
　ヴィットーリオは一息に喋った。
「そりゃどうも。でも遅すぎたよ。ゼメキスは殺されたし、ここの信者たちも間違っているとはいえ、こんなふうに皆殺しにされてしまった。武装兵を引き留めておいてくれた方が良かったかもしれない」
「贅沢言うなよ。自分の命が助かっただけでもありがたいと思えよ。世の中何でも思い通り、理想通りにいくとは限らないんだぞ」
　ヴィットーリオはそう言うと、ファントムの肩を軽く叩いた。
「まあ、そうだけど……」
　ファントムはプレトの護符を握り締めると、密かにプレトの神と、護符をくれたヴィ・ヨームに感謝した。武装兵の隊長に経緯を話し、事後処理と捕らえられている司祭と修道士たちの釈放を頼むと、自分はさっさとカファ寺院の地下聖堂を出て、下宿屋に帰った。

　二階に上がって来ると、相変わらずオクスが部屋でごろごろしていて、アジャンタが一緒にいた。
「おや、今日は早いな。ちょっと待てよ。おまえ……、何だか臭うぞ」
「死体の臭いが移ったんだろう。危なく殺されるとこだった」
「何やって来たか知らないが、金が充分にあり余ってるっていうのに、なんでそんなにあくせく働きたがるんだ？」
　オクスは気持ち良さそうにアジャンタに体を拭いてもらっている。
「ちぇっ、何があったかも知らないくせに、気楽なもんだ」
　ファントムは腹を立てて、さっさと自分の部屋に戻ってふて寝した。
「あいつ、何カッカしてんだ？」
　オクスはわけがわからずに首を傾げた。