13.ウーリックの殺人鬼



 五番街に出て南へ下って行くと、やがてリーブラ通りと交差していて、両側の角に小さな建物があり、入口に『シーファー周旋所』と書かれた看板が掛かっていた。戸を開けて中に入ってみる。中では初老の男が机の上に貨幣を並べ、一人で銭勘定をしていた。
「おい、おやじ」
 オクスが声をかけると、男は慌てて金を壺の中にしまい込んだ。
「これはこれは、いらっしゃいませ。お仕事をお捜しでございますか?」
「そうだ。おかまのエローラに聞いてきたんだが、何かいい職はないか?」
「ございますとも。少々お待ちを」
 初老の男は机の引出しから帳面を一冊取り出し、紙を一枚一枚めくっていく。
「どのようなお仕事がお望みで?」
「そうだなあ、何でもいいんだが、なるべく実入りのいい仕事がいいな」
「そうでございますねえ……」
 男はまた紙をめくっていく。
「只今のところは、お手当てのよろしいのはあまりございませんな。城壁の修築、港の荷運び、鍛冶屋の手伝い、市場の運搬人と、人足仕事なら常時ございますが、お手当ての方がどれも銀四でございまして」
「銀四……、うーん、もうちょっとましなのはないか?」
 シーファーは渋い顔をしたが、また帳面をめくりだした。
「そうでございますねえ、サンデー酒場の用心棒、これなどはエレクトラムですよ。それから……、ウル商館の夜警、これもエレクトラムですが、どちらも夜のお仕事でございます。深夜手当てが銀一として、人足仕事とお手当ては変わりませんな。しかしこの手のお仕事は楽な時は楽なのでございますが、何か事が起こった時は厄介でございますよ。下手をすると命を失くすことだってあるんですから。それなら人足仕事の方が無難でしょう」
「そうかい。今晩はちょっと用があるから、また明日出直して来るよ。邪魔したな」
 ファントムとオクスが出て行こうとすると、シーファーが二人を呼び止めた。
「お二方ともお見掛けしたところ、剣士の方でございましょう?」
「そうだよ」
「ではこちらにお名前とお住まいをお書き下さいまし。剣士としてご登録なさいますと、不定期にではございますが、お手当てのかなりよろしいお仕事も回って参ります。ただし、普通の方ではできない危険なことばかりではございますが」
「と言うと、例えばどんな仕事だい?」
 シーファーの言葉にオクスは興味を示して訊き返した。
「命懸けのことばかりですが、例えば二日前に他の方々が持って行かれましたが、賊の討伐。それがでございますね、ウーリックの森に近頃、辻斬りが頻繁に起こりまして、それが物盗りではなくてただの試し斬りで、次々に一般市民を血祭りに上げているそうなのでございますよ。
 ところがこの殺人鬼が滅法強くて、衛兵も次々に殺される始末でして、誰もウーリックの森を通れなくなってしまいました。そこでこちらにもお上から、誰か腕の立つ者はいないかと要請が来たしだいでして。このお仕事は夕刻から深夜までの間、ウーリックの森の道を通る人を護衛して行けば、それだけで金一になります」
「ほう、そりゃいいな」
 オクスはシーファーの向かいの椅子に掛けて、机の上に身を乗り出した。
「他にもたまに怪物退治だの、海賊退治だの、隊商の護衛だのと募集が来て、どれも一日金一は下りません。それどころか退治した暁には、これらのお仕事には慰労金とか賞金とかがつきますから、成功すれば一、二年は遊んで暮らせますよ」
 オクスはニヤッとして舌なめずりした。
「へーえ、なかなか美味しい話じゃないか」
「ただし、今までに賞金を獲得された方は一人もおりませんが」
「なーんだ」
「そんなに難しいのか?」
 シーファーはごくりと唾を呑み込むと、
「うちと致しましても、賞金の懸かった仕事を是非とも成功させたいところなんでございますよ。と申しますのは、うちにも結構な額の謝礼が舞い込んで来るはずですから。はずと申しましたのは、うちに登録して頂いた剣士の方々の中には、一度もそんな大仕事を成し遂げられた方がいらっしゃいませんからね。それに宣伝効果がまるで違います。うちの名が上がれば、依頼の件数も自然に増え、うちは万々歳なんでございますよ。
 こんなこと申しますと泣き言になってしまいますが、シーファー周旋所の信用はここのところ下向きでして、最近ではこの近辺の商館も、依頼事をわざわざ離れたオルシテ通りや、二番街や、時には旧城外まで持って行ってしまうような有様でして、それもこれもみんな、うちにはスター不在なのが原因なのでございます。
 一流剣士なら喉から手が出るほど欲しいところでございます。人足仕事の斡旋なら、ギルドから雀の涙ほどの謝礼が、月に決まった額だけ入って来るだけでございますから、正直言って人を送ろうが送るまいが、こちらの収入には関係ないのでございますよ。かと言って全く人を送らないと、いつかは解約されて、その雀の涙も入って来なくなりますから、近頃は仕方なくせこい仕事ばかり紹介しておりますです、はい」
 言い終わるとシーファーは溜息をついてみせた。
「それじゃあ剣士で登録しとこうか」
 二人は名簿にサインした。
「住所は、この向こうの何通りだったっけ、エローラの店の前の――」
「オルフォイア通りでございますか」
「そうそう、その店の裏の路地を入って行った所にある、ボルタ婆さんて知ってるか?」
「あの辺りですと、先日続けて刃傷沙汰のあった辺りでしょうか?」
 シーファーが作り笑いで訊くと、
「そうそう、まさしくその殺しがあった家に今日から住むんだ」
「それなら存じておりますよ」
「じゃあ構わないか、ボルタ婆さんちとだけ書いとくぜ」
「よろしゅうございますとも」
 シーファーは名簿を手に取った。
「オクス様にファントム様でございますね。では大仕事もお回し致しますから、よろしくお頼みしておきますよ。最近は大仕事も余所に回ってしまって、いっそのこと、店を畳んで商売替えでもしようかと思っているところでして、全く情けない……」
 いつまでも泣き言を言っているシーファーを適当にあしらって、二人は再び外へ出た。

 そのまま五番街を下って行くと、やがて海岸に出て、大きな橋が向かいの島へと架かっていた。アルコ大橋と刻まれている。橋の入口では衛兵が通行料を取っていた。
「ちぇっ、橋を渡るのにも金が要るのか」
「この橋を造るには莫大な金がかかってるんでな」
 衛兵はすげなく言った。
 二人は海岸通りをぶらぶら歩いて港を見物した。海岸通りを行くと、またリーブラ通りに出た。河口に大きな橋が架かっている。それを渡ると大きな砂浜があったので、二人は日暮れまで泳いで遊んだ。暗くなるとリーブラ通りから五番街に戻り、ラーケンの屋敷へ向かった。
 玄関で召使いに取り次いでもらう。しばらく待っているとヴィットーリオが出て来た。
「遅かったじゃないか。何してたんだ?」
「海水浴さ」
「さあ、入れよ。夕食の用意ができてる」
 二人は中に入った。ヴィットーリオは広い廊下を奥へと進んで行く。奥の広間にはラーケン教授夫妻らしいのと、子供が三人、他に若者が一人席に着き、傍らにメイドが二人立っている。
「友人のオクスとファントムです。やっと来ました」
「わざわざ待っててくれなくたって良かったのに」
「それにしても、ご馳走になれるとはありがたい」
 ヴィットーリオはラーケン一家を紹介した。もう一人いたのはヴィットーリオと同じく、ここに居候しているラーケンの学僕だった。全員で食事を始めたが、ラーケンの子供たちと弟子はガツガツとよく食った。
「きみたちはチャカタンのヴィ・ヨームさんの所にいたそうだね」
 食事の途中でラーケンが急に言い出した。
「ええ」
「彼の所で変わった物を見なかったかね?」
「変わった物はたくさんありましたけど」
「例えば鏡のような物とか?」
「ああ、鏡から人が出て来るあれ」
「違う。大きな青銅の鏡だ」
「さあ、そんなのあったっけかなあ?」
 ファントムはオクスの方を向いた。
「覚えてないなあ」
 オクスは食う方に夢中だ。大皿の料理を子供と競争して取り合っている。
「未来が見えるソロモンの鏡だ。それを見たのなら是非教えて欲しい。私がヴィ・ヨームを訪ねて行った時は、上手く交わされて何も映してくれなかったが、あれは間違いなくソロモンの鏡だった」
 ラーケンは夕食もそっちのけで、しつこく訊いてくる。ははあ、そういう意図があったのか、とファントムには合点がいった。ソロモンの鏡のことを聞き出すために、こんなにご馳走を用意してわざわざ待ってたんだな。
「見たことありませんねえ」
 食事を早目に終えると、ファントムとオクスはラーケンの質問攻めを逃れ、ヴィットーリオの部屋へ行った。螺旋階段を上がり、更に梯子を上った屋根裏部屋だ。灯りを点けてみると、部屋の中はどこもかしこも本でいっぱいだった。
「ははあ、これがきみのお友達ってわけか」
 明かり取りの下に書き物机があり、他には寝台があるだけ。ところがよく見ると、床一面が本でできていた。
「何だい、この部屋は?」
「上手く組み合わせてるな。隙間もない」
「ハハハ、置く場所がなくてね」
 本が積み上げられていて、壁が隠れて見えない。天井からも鎖で棚がいくつか吊り下げられていて、そこにも本ばかりが載っている。
「よくこんなに本ばかり集めたもんだなあ」
 ファントムは部屋じゅうを見回し、呆れて言った。
「有り金はみんなこれにつぎ込んでるんだ」
「こんなの見てると頭が痛くなってきたぜ」
 オクスは伸びを一つすると、寝台の上にどかっと腰を下ろした。
「あっ、駄目だ!」
 ヴィットーリオがそう叫んだ時には、寝台が音を立てて崩れていた。
「何だ、このぼろベッドは?」
 オクスはシーツをめくった。
「おや?」
 寝台は全てが本でできていた。
「おまえさん、どうかしてるぜ、本の上で寝るなんて」
「しょうがないさ。置く場所がないんだ。もう次は床を高くするか、壁を厚くするしかないな」
「お友達を使ってか?」
 ヴィットーリオは黙って頷いた。
 三人はしばらく話をしていたが、ヴィットーリオの話がだんだん難しくなってくると、ファントムとオクスは全くついていけなくなった。おまけにその話がやたらに長い。話が一方的になってくると、
「そろそろ帰ろうか」
 オクスが痺れを切らして言った。
「ああ。明日はきっと剣を返してくれよ、ヴィットーリオ」
 ファントムは念を押しておいた。
「わかってるさ。これから眼を抜いて、明日の朝にも返そう。悪いんだけど、美術館まで取りに来てくれないか」
 ヴィットーリオは机の上に置いてあったカーマン・ラムゼリーを手に取って言った。
「じゃあ、明日の朝行くよ」
 ファントムとオクスはヴィットーリオとラーケン一家に別れを告げ、下宿屋に帰った。
「婆さん、灯をくれ」
 下宿屋に戻ると、オクスが玄関に吊るしてあるランプを取って灯を入れた。
「一晩で銅一枚だよ」
 ボルタ婆さんが言った。
「なんだ、金取るのか」
「当たり前だよ。油は只じゃないからね」
「ちぇっ」
 二人は銅貨を二枚置き、ランプを持って二階へ上がって行った。
「灯は早めに消しとくれよ」
 ボルタ婆さんは二階に声をかけてきた。
「うるせえ。金払ったんだ、とことん燃え尽きるまで使ってやるぞ」

 翌朝ファントムとオクスはまず美術館へ行った。衛兵に呼んでもらうと、出て来たヴィットーリオは何も言わずにファントムに剣を返した。
「なんだ、カーマンの眼が嵌まってるじゃないか。もう宝冠の行方が解けたのか?」
 ファントムが剣の柄を見てそう言うと、ヴィットーリオは首を横に振った。
「じゃあ、どうして?」
「抜けないんだ。全く歯が立たない。どういうわけか柄が硬くて、鑿も錐も釘も通らない。頭に来て金槌で叩いてみたけど、びくともしない。どうやって嵌め込んだのか知らないが、こうなったら剣を溶かしでもしないと」
 ファントムは慌てて、
「おいおい、無茶するなよ」
「そうだろう。だからいい方法が見つかるまで、ひとまず持ち主に返しておくよ」
「そいつは残念だったな。でも剣は約束通り持ってくぞ」
「好きにしてくれ」
 ヴィットーリオは元気なく美術館の中に入ってしまった。
 ファントムとオクスはエローラの店へ行って腹ごしらえすると、シーファーの周旋所へ行ってみた。
「あいにくですが、新しい口はございませんよ。昨日のままでございます」
「もう金がねえんだ。この際わがままは言ってられない。一番割のいいのをくれ」
「ではこれでございますな、サンデー酒場の用心棒とウル商館の夜警。どちらも一日一エレクトラム」
 シーファーは帳面を指差して言った。
「場所はどこだ?」
「サンデー酒場はリーブラ通りを市場へ向かって行くと、右手にあります。ウル商館はこの裏にある十字の丘の向こう側ですが、リーブラ通りを海岸の方に向かって行き、四番街に折れ、ウル通りと交わる所でございます」
 結局オクスが酒場の用心棒、ファントムが商館の夜警をすることにした。
 シーファーの所を出ると、早速二手に分かれて行ってみた。四番街とウル通りの角に大きな商館が見つかった。ファントムは店の正面入口から入って行った。
「ここで夜警を捜してるってシーファーのとこで聞いて来たんだけど」
「なんだ、それならついて来い」
 店の番頭らしいのが先に立ち、建物の裏手の方へ回って行く。
「仕事は裏庭にある蔵に空き巣が入らないように、一晩中外で見張ることだ」
 番頭は広い庭にある蔵の前まで来て止まった。
「ここだ。日が暮れたらやって来て、翌朝日が昇れば店の方に来て、手間賃を受け取って帰ればいい。聞いてるだろうが、手当ては一エレクトラム。その間にもし賊が現れたら、殺してしまっても構わない。死骸はわからないように処分してやるから。ただ、お若いの、あんた立派な剣を差してるが、腕の方は確かかい?」
 番頭はファントムをじろじろ眺め回した。
「さあ」
「さあってなあ、いいかい、今月に入ってもう二度も賊にやられてるんだ。前の奴は賊に怯えて逃げ出してしまう。その前のは居眠りしていて錠を破られてるのに気づかない。口でだけはでかいこと言ってたが……。まあいいか。とにかく居眠りだけはするな。一人で手に負えなかったら、夜中でも大声出して人を呼ぶんだぞ。この蔵には高価な物がたくさん入ってるんだからな」
「何が入ってるんですか?」
「使用人がそんなこと知る必要ない。じゃあ日が暮れたらまた来い」
 ファントムはウル商館を出て、日暮れまで町をぶらついた。日が沈みかけると、言われた通り、商館の裏庭にある蔵の前まで来て待った。暗くなる前に番頭がやって来た。
「来たか。一つ守ることがあるから言っておく。夜の間はずっと、蔵の前の篝を絶やすんじゃないぞ。薪と油はそこの納屋の中にある。いいか、いつも見張りがいるってことを賊に知らせるためだ。絶対に火は消すな」
 番頭はそう言うと、店の方へ戻って行った。ファントムは言われた通り、納屋から道具を出し、薪を鉄籠の中に入れて油をかけ、火種から火を移した。蔵の番と言っても、特にすることはない。ただ起きているだけだ。篝火が弱くなってくると、油に浸した薪を継ぎ足す。夜が更けてくると町は静かになり、虫の鳴き声が聞こえてくるだけだ。
「退屈だなあ」
 蔵の前にじっと座っていると、やがて眠気が襲ってきた。
「駄目だ、駄目だ」
 ファントムは自分の頬をパシパシ叩いた。眠気覚ましに蔵の周りを歩いてみる。
「オクスはどうしてるだろう。酒場で暴れてないだろうな」
 頭がぼうっとしてきた。横になりたくてたまらない。しかし座っただけで眠り込んでしまいそうなので、彼は立ったまま剣を抜いて素振りをしていた。
 そうやって退屈な時を過ごしていると、ようやく空が白み始めた。しばらく経つと、商館の方でも人が動き出したようだ。
「もういいだろう」
 ファントムは店の方に回ってみた。昨日の番頭がもう起きていたので、手間賃のエレクトラム貨を一枚もらい、四番街からオルフォイア通りに出て、そのまま下宿屋に帰った。
 ボルタ婆さんは起きていて、食堂で朝飯を食べていた。
「おや、朝帰りかい」
「働いてたんだ。これから寝るよ。眠くって仕方がないんだ」
「そりゃご苦労様なことで」
 今にも崩れ落ちそうな階段を軋ませながら二階に上がると、戸を開けたままオクスが部屋で寝ていた。
「一日目は何もなかったみたいだな」
 ファントムはオクスの寝顔を見て微笑んだ。自分の部屋に入ると、壊れかけの寝台に身を投げ出して、すぐに眠り込んでしまった。

 目を醒ますともう夕方だった。便所に下りて行こうとしてふと覗くと、オクスはまだ寝ていた。
「おい、オクス」
 呼びかけてみると、
「うーん」
 オクスは寝返りを打った。
「酒場はもう始まるんじゃないのか?」
「いいんだ」
「いいんだって、どういうことだ?」
「辞めた」
「なんだい、始めたばっかりじゃないか」
「用心棒なんて性に合わねえ」
 オクスはむくむくと起き上がった。そのまま階段を下りて行く。
「おまえ、まさかまた暴れたんじゃないだろうな」
「くだらねえ商売さ。客を脅して銭をふんだくるなんて真っ平ごめんだ」
「店はぶっ壊してないだろうな」
「ちょっとだけな」
「ほんとにしょうがないなあ。辞めたけりゃおとなしく辞めてこいよ」
「あいつらがごたごたぬかしやがるから、頭に来たんだ」
 裏庭に出ると、オクスは井戸端で水を浴びた。それから、
「小便、小便」
 そう言って便所に入った。
「おまえの方はどうだったんだ?」
 オクスは水浴びしているファントムに便所の窓から呼びかけた。
「退屈な仕事だよ」
 ザバーッと頭から水を被る。
「俺も小便だ」
 身支度ができると、二人はエローラの店へ行った。
「聞いたわよ。サンデー酒場を目茶滅茶に壊したんだって?」
 オクスがやって来たのを見つけると、エローラがすかさず言った。
「もう噂が広まってるのかい、やな街だぜ」
「だって地震でもないのに、酒場を瓦礫の山に変えちゃったんだもの、そりゃ大々ニュースよ」
「そこまでやったのか? 何がちょっとだけだ」
 オクスは知らん顔をした。
「これからシーファーのとこへ行って、別の口を見つけて来るよ」
「あんまり無茶苦茶してると、シーファーも職を回してくれなくなるぞ」
「その時はその時さ」
 店を出るとオクスはシーファー周旋所へ、ファントムはウル商館へ向かった。
 翌朝ファントムが下宿屋に戻って来ると、オクスが裏庭で水浴びしていた。
「ずいぶん早いじゃないか」
「ああ。これから市場へ行って運び屋だ」
「まあ良かったじゃないか」
「まあな。だけど銀四は厳しいや」
「贅沢言うなって。これ食うか?」
 ファントムは買って来た腸詰めをオクスに渡した。それから部屋に戻って寝た。オクスは斧を担いで出て行った。

 その晩、ファントムがまた退屈な蔵番をしていると、夜半になって雨が降り出した。
「ついてないや」
 そのまま納屋の中に入って、雨のやむのを待った。そのうち篝火も消えてしまった。そうやってしばらくの間じっと蔵の方を向いていると、暗い中で何かが動いている気配を感じた。ファントムはじっと目を凝らしてみた。確かに誰かが蔵の前にいるようだ。ファントムは剣をつかむと、そっと納屋から出て蔵の扉の方へ忍んで行った。
「誰だ?」
 声を聞いて相手はびくっとしたようだったが、すぐさま短剣のような物を抜いて飛びかかって来た。ファントムは危ういところで剣を出して防いだ。一瞬火花が散る。相手はサッと飛びすさった。どうやら夜目が利くようだ。ファントムは姿勢を低くして、剣を前方に突き出して構えた。
「よう、俺様は人殺しは好かねえ。死にたくなかったら邪魔すんじゃねえ。この前の奴みてえに、すたこらさっさと逃げ出した方がお利口じゃねえのか、よう、坊や。俺様は商売の邪魔されるのが何よりも嫌いなんだ」
 相手が闇の中から話しかけてきた。
「死にたくなかったらとはこっちの台詞だ。泥棒のくせして偉そうな口きくな!」
 ファントムが暗闇に向かって言い返すと、
「泥棒のくせにだと。けっ、利いたふうな口きくんじゃねえや! そういうてめえはどこの何様だ?」
「この蔵の番人だ」
「へへっ、笑わせんじゃねえや。たかが悪徳商人の番犬の分際で、なにカッコつけてんだ。いいか、よく聴けよ、俺様は泣く子も黙る、怪盗ドラド様ってんだ!」
「そんなの知るか!」
 ファントムはキッとなって怒鳴り返した。
「俺様はそんじょそこらの木っ端とはわけが違う。悪い奴から盗んで貧乏人に分けてやる、正義の味方の大泥棒、怪盗ドラド様よ」
「泥棒に正義の味方なんかあるもんかっ!」
「やかましいっ!」
 そう叫ぶと同時に、泥棒は短剣で突いてきた。ファントムは剣を前に出したが、右手の甲を切られていた。
「うっ!」
 そのまま剣を取り落としてしまう。ドラドは息もつかせず飛び込んできた。ファントムは短剣が届く寸前のところで身を交わし、ドラドの腕を抱え込むと、素早く足を掛けた。勢い余って二人とも地面に倒れ込んだ。ファントムは咄嗟に左手の拳を出した。それが巧く怪盗の顎に当たり、ドラドは呻き声を上げた。その隙にドラドの体をひっくり返す。だが向こうもじっとしていない。たちまちぬかるみの中で取っ組み合いになった。そのまま泥塗れの殴り合いがいつまでも果てない。
「ちょいと待てよ」
 二人とも疲れ果てた頃、ドラドが跳び退がって言った。
「おめえ、なかなかやるじゃねえか。でもよく聴けよ、坊や。この蔵の中身はな、汚ねえ品ばかりだ。昔の貴族から没収した財宝を、総統一族が独り占めにして、ここに横流ししてんのよ。そいつをここの悪徳商人が、さも余所の町から手に入れて来たようなふりして売りさばいてんだ。総統一族とここの商人がグルになって、ぼろ儲けしてんのさ」
 ファントムは肩で息をしながら、ドラドの話を黙って聴いていた。
「そんな汚ねえ品物を、おめえは命を懸けて守ってんだぜ。けっ、くだらねえ! 馬鹿々々しいとは思わねえのかよ? 今日はこの辺で勘弁しといてやるが、悪党の番犬になるのはいい加減にしとけよ」
 そう言うと、ドラドは雨の音に紛れてどこかへ姿を消してしまった。ファントムはいつまでもそのままの姿勢で雨に打たれていた。
 朝になってから、ファントムが泥だらけになって顔を腫らし、手の甲に刀傷を負っているのを見つけて、番頭が女中を呼んで手当てをさせた。話を聞くと、祝儀だと言って銀三枚余分にくれようとする。
「いやあ、あんたを見直した。若いのによくやったねえ」
 主人も出て来て話を聞くと、更に金貨一枚つけてやると言う。しかしファントムはそれを断って、いつものエレクトラム貨一枚だけもらって帰って行った。
「あれまあ、こんな雨ん中、どこで泥んこ遊びして来たんだい?」
 食堂で朝飯を食べていたボルタ婆さんが、帰って来たファントムの泥だらけの姿を見て言った。オクスはもう一人の間借り人と二人で肉を焼いて食っている。
「何だい、そのひでえ面は?」
 ファントムは黙って答えない。
「まあいいや、こっち来て一緒に食えよ。昨日の残りもんをもらって来たんだ。おまけに肉や魚をじゃんじゃん運んでやったら、いきなり手当ても銅五枚上げてもらったぜ」
「その前に、その泥だらけの服を脱ぎな。部屋が汚れちまうじゃないか!」
 ボルタ婆さんはテーブルを叩いてわめいた。
「婆さん、何言ってんだい? ここは元から汚れてるじゃないか、はっはっはっ」
 オクスが笑い声を上げた。
「さあて、そろそろ行くか。雨は敵わねえなあ。やんでくれねえかなあ。俺もこれから泥んこ遊びだ」
 そう言って斧をつかむと、オクスは外へ出て行った。ファントムは肉や魚を食べ終わると、部屋に帰って寝た。

 その日は雨でも、市場にはやはり客が多かった。傘をさしている客でかえって混雑するくらいだ。昼前にはその雨も上がった。オクスが市場で肉を運んでいると、アジャンタを連れたエローラに会った。
「仕入れかい?」
「そうよ。あんたがやって来てよく食べるから、しょっちゅう市場にやって来ないとね」
「学者先生は相変わらず来てるのかい?」
「そうよ。お昼はいつも」
「そりゃそうだろなあ」
 オクスはアジャンタの方を見て言った。アジャンタは俯いている。
「そうだ。今日、ファントムの奴が顔をこんなに腫らして帰って来やがったんだ。おまけに手にも包帯巻いて」
「あらまあ、どうしたのかしら?」
 エローラは低い声を出して心配してみせた。
「あいつ、何にも言わねえんだ」
「あの人、夜に商館で寝ずの番やってるんだってねえ。あんたから言って、そんな危ないこと辞めさせなさいな」
「ああ、言っとくよ」
 ところがそれからしばらく経つと、誰かが叫んでいるのが聞こえた。オクスが何気なくそっちを見ると、叫んでいるのが今し方話していたエローラだとわかった。
「助けて! 誰か助けてちょうだい、お願いよう!」
「どうしたんだ? エローラ」
 オクスは近づいて行って声をかけた。
「オクス、早く何とかしてちょうだい! アジャンタがならず者に連れてかれたのよ!」
「何だって!」
 オクスは担いでいた豚を放り出した。
「斧だ! 俺の斧を貸せ!」
 露店の裏まで飛んで行くと、壁に立て掛けてあった戦斧を引っつかみ、オクスはまた駆け出した。
「どこだっ?」
「こっちよ、こっち!」
 エローラはオルフォイア通りを西へ走った。次に左へ折れた。オクスはエローラを追って、人を蹴倒しながら進んで行く。
「一体どこへ連れてかれたのかしら?」
 路地が多くてなかなか見つからない。一々覗いていると、エローラがまた叫んだ。
「いたわ! こっちよ!」
 オクスは路地へ入って行った。人通りのない路地裏にごろつきが四人、もがいているアジャンタを引っ張って行くのが見えた。
「そう暴れるなよ、お姉ちゃん。儲かるいい話があるんだからさあ」
「こいつはかなりの別嬪だぜ。郭に高く売れらあ」
「でも只で売っちまうのももったいねえなあ。売る前に試させてもらおうじゃねえか」
 ならず者の一人が自分のズボンを下ろしながら言った。
「そいつはいい考えだ。えへー、考えただけで涎が出てきたぜぇ」
「我慢できねえや。ここで姦っちまおう」
 ごろつきどもはアジャンタに乱暴し始めた。
「待ちやがれっ! そこのきな臭い四匹の野良犬畜生どもめっ!」
 オクスは戦斧を振り上げて突進して行く。
「何だと? 犬畜生だと? てめー!」
 一人がわめいている間にオクスの斧が唸りを上げ、四人のならず者たちはあっと言う間に斬り殺されていた。それでもオクスはまだ死体をズタズタに切り裂いた。
「野良犬にでも食われちまえ!」
 エローラも飛んで来た。
「まあ、可哀そうに、こんなことされて」
 アジャンタの服はぼろぼろに引き裂かれていた。エローラは自分の着ていた上着をアジャンタに着せ、彼女の肩を抱いてやった。
「大丈夫? 怪我はないの? ないようね、良かった。オクスが助けに来てくれて本当に良かったわ。お礼を言いなさい、助けてくれたのよ」
 アジャンタは恐怖と驚きでまだ震えていた。水溜りが血に染まっている。
「礼なんかいいよ。ちょっとばかし驚かしちまったようだな」
 オクスは戦斧を肩に担ぐと、ゆっくりと市場の方に戻って行った。

 夕方ファントムが目醒めると、ちょうどオクスが帰って来たので、二人してエローラの店へ行った。
「まあ、ひどい顔。一体どうしたのよ?」
 ファントムの腫れて痣のできた顔を見て、エローラが訊いた。
「ちょっとね」
「やくざ者と喧嘩でもしたのか?」
 セバスチャンが言いながら顔を触ってくる。
「痛いじゃないか」
 ファントムはセバスチャンの丸太のような腕を払いのけた。オクスはセバスチャンに家鴨を渡し、
「アジャンタは元気になったかい?」
「ええ。でもショックが大きいから、部屋で休ませてるの」
「アジャンタがどうかしたのか?」
 オクスとエローラのやりとりを耳にして、ファントムが訊いた。
「今日、ならず者に襲われたのを、オクスが助けてくれたのよ」
「へーえ、カッコいいとこ見せたなあ」
 ファントムはオクスの肩をつついた。
「そんなんじゃねえや」
 そこへ扉を開けて、地味ななりをした小柄な初老の男が入って来た。
「こんな所にいらっしゃったのですか。お捜ししましたよ」
「なんだ、シーファーか」
 シーファーはあたふたと二人のテーブルまで近づいて来て座った。
「割のいいお仕事がやっと入りましたよ」
「何だ?」
「先日申しておりましたウーリック事件でございますがね」
 二人はすぐにその事件を思い出した。
「通り魔か?」
「ええ。それがまた剣士と衛兵が殺られまして、元老院のヴィンセント様が斬り殺されたのでございますよ。オルシテ通りの周旋所から助っ人に行っていた剣士が、ただ一人で命からがら逃げ出せただけでございます。そこでですが……」
 シーファーは急に笑顔を作った。
「俺たちが行くのかい?」
「そういうことでございます。いえいえ、勘違いされては困ります。決してうちの名を上げるために、あなた方を危険な所に遣るというのではございませんよ。欠員が出たため、またお役所から要請が参りましたので、お二人様が何か割のいいお仕事をとおっしゃっていましたから、これは打ってつけと、わざわざ親切でこの口をお持ち致したのでございます」
 いかにも恩着せがましい言い方をする。
「何しろ日暮れから人通りのなくなるまでの間だけ、森を通りかかった市民を護衛して行くだけで、一日金一になります」
「そりゃ美味しい話だ」
「でもなんで通り魔が出るとわかっていて、わざわざ森の中を通るんだろう? 遠回りすればいいじゃないか」
「そのようなこと言われましても、私めは存じ上げませんが……。おや、ファントム様、そのお顔はどうなされました? 商館に賊でも入りましたか?」
 シーファーは今頃になって、ファントムの顔が腫れて青痣ができているのに気づき、びっくりして訊いた。
「まあね」
「なあんだ、泥棒と殴り合ったのか」
 オクスが言った。
「それより今のお話、いかがでございます? 他の剣士はみんな怖じ気づいて、何のかんの言って逃げてしまいます」
「俺は今晩からでもいいが、おまえは蔵番の方と重なっちまうなあ」
 オクスがファントムの方を向いて言うと、
「俺はやってもいいよ。蔵番は辞めるよ」
「そりゃまたあっさりと、なんでだ? 賊に殴られたんで嫌気がさしたか? だけどこっちの方がもっと危険だぞ」
「そうじゃないんだ」
 ファントムはしばらく黙り込んだ。
「何だよ、言ってみろ」
「殴り合いをした怪盗ドラドとかいう奴が言い残していったんだけど、あそこの蔵の中身というのは、総統一族が昔の貴族の財宝をこっそり横流しして、ウル商館で売らせてる物らしいんだ。それを聞かされて、俺は誰のために番人なんかしてるんだろうって思うと、もう嫌になってきたよ」
「私は横流しのことなど存じません」
 シーファーは驚いて言った。
「怪盗ドラドってのは、悪いことして儲けてる奴から盗んだ品を、貧乏人の家にまいてくっていう噂よ」
 エローラが言った。
「じゃあ、その話もまんざらでたらめでもないだろう」
 オクスが言うと、みんな頷いた。
「その泥棒に、悪党の番犬だって言われてしまったよ」
「とにかく辞めちまえよ。今日から殺人鬼を捕まえに行こうじゃないか」
「それじゃあ、これからウル商館へ行って断って来るよ」
 ファントムが立ち上がろうとすると、
「いえいえ、その必要はございませんよ。ウーリックの森は嫌がっても、蔵の番人なら飛びついて来る剣士はおりますから、私から夜警の口はどなたかにお回ししておきますよ。ついでにお二人のお名前を急いでお役所に届けなければなりませんので、そちらにもこれから行って参ります」
 シーファーが代わりに立ち上がった。
「日暮れ前にセルパニ広場の兵舎へ足をお運び下さい。お手当てのお支払いは五日毎となっており、私めが頂いて参りますから、六日目の午にでもうちまでおいで下さい」
「と言うことは、五日以内に殺されたら只働きってことか?」
「そこはもう、あのオルシテ通りの逃げ専門の剣士のように、怪我しないように要領よく逃げ回っている方が利口でございますよ」
「そんなに運のいい奴か?」
 オクスが訊くと、シーファーは頷き、
「名は存じませんが、その剣士は逃げ足が速くて、もう十日やって四度も通り魔に出くわしているのでございますが、一度も怪我一つしたことがないそうでして」
「その森に必ず出没するんだったら、兵をたくさん出して捜索すれば、必ず捕まるんじゃないか? どうしてしないんだろう?」
 ファントムが不思議に思って訊くと、シーファーは手を左右に振った。
「もう十日も前からやっておりますよ。それが成果はさっぱりで。全く怪人ですな」
 そう言ってそそくさと出て行った。二人も店を出て、兵舎のある方へ向かった。
 兵舎に着いてから訊いてみると、少ししてから衛兵に森へ連れて行かれた。森の入口まで来ると、他の衛兵が何人か屯していた。
「人が来れば、森の出口まで一緒について行ってやればいいのだ」
 衛兵の隊長が二人に言った。そうしていると、老人が一人やって来た。
「さあ、行こうじゃないか」
 オクスが勇んで斧を担いだ。
「待て。行かなくていい」
 衛兵は誰も動こうとはしない。
「なぜだ?」
「平民はいいんだ」
「どういう意味だ? 平民は殺されてもいいってことか?」
 オクスはカッとなったが、
「違う。平民は襲われはしないのだ」
「何だって?」
 ファントムもオクスもわけがわからなくなって、戸惑った表情をした。
「あれは向こうの沼に住んでいる爺さんだ。いつだって一人で帰って行く」
「そいつは一体どういうことだ? 俺たちは殺人鬼が誰でも見境なく斬り殺していくと聞いてるぞ」
「それは間違ってる。殺人鬼がこれまでに襲撃したのは、大臣、元老院議員、軍の幹部と、それらの一族及び部下だけだ。要するに平民は狙われない」
 衛兵がそう言っていると、またもや男女の二人連れが森の中へと入って行った。森の方からも女が子供の手を引いて出て来た。結局その日は一度だけある将軍の馬車を護衛して行ったが、何も起こりはしなかった。
 ところが翌晩、森の西の入口で衛兵と共に待機していると、森の方から男が悲鳴を上げながら駆けて来た。
「出たあ! お役人が殺られたぞー!」
 その男は息を切らしながら言った。衛兵数名と急いで行ってみると、南北に通じる道との四つ辻に馬車が停まっていた。カンテラで照らして見ると、馬車の中の役人らしい男が胸を一突きされて死んでいた。近くに衛兵が二人、役人の付人らしき男、それから馭者と、合わせて五人、どれも一撃で殺されたようだ。
「相手はなかなかやるな」
 オクスが衛兵の傷痕を見てから言った。
「不意を衝かれたみたいだな」
「しかしこれだけの人数がいっぺんに殺られるなんて……」
 ファントムはただ一人で逃げ出して来た男の方を向いて言った。
「そいつは薮からいきなり飛び出して来て、衛兵二人をまず斬った。俺は慌てて逃げ出したから、それから先は知らないな」
「顔は覚えてないのか?」
「俺はあいつに会ったのはもう五度目だが、暗いし、いつも覆面をしているしで、顔は全然わからなかった」
「おまえはもう南口に戻れ」
 衛兵の隊長が逃げて来た剣士に言うと、剣士はさっさと去って行った。他の者たちで馬車を動かして死体を運んだ。
「ふん、給料泥棒とはあいつのことだ。何のための護衛だ」
 衛兵の一人が吐いて捨てるように言った。
「しかし誰も逃げられないのに、あいつだけどうしていつも逃げ出すことができるんだろう?」
 ファントムは不思議に思って言った。
「あいつは初めっから逃げる気で身構えてるからさ。俺たちより高い金もらっときながら」
 衛兵の一人が言うと、
「何だい、その言いぐさは? 俺たちに対しての当てつけか?」
 オクスは衛兵を睨んだ。
「いや、あんたらのことじゃないさ」
 森の西口の屯所に戻ると、死体を控えの衛兵に引き渡した。

 翌日、オクスは市場の方を午までにしてもらい、ファントムと二人でエローラの店にいると、ヴィットーリオがやって来た。
「やあ、その後どうだい?」
「そうだ、ヴィットーリオ、きみに訊きたいことがあるんだ」
 ファントムが言う。
「何だい?」
 ヴィットーリオは料理を頼んで席に着いた。
「ウーリックの森の殺人鬼のことは聞いているか?」
「聞いてるよ。だけど殺人事件なんて興味ないね。誰が死のうが本人の勝手、僕の学問には少しも役立たない」
「そうか。物知りのきみのことだから、何か見当がつくんじゃないかと思ってたんだけど、きみでも知らないことがあるのか」
 ファントムはわざと挑発するように言った。ヴィットーリオは少しむきになり、
「興味がないって言ってるだけさ。何か手掛かりになることでも与えてくれれば、他でもないきみの頼みだ、骨を折っても構わないよ」
「手掛かりか……」
 ファントムは少し考えてから、
「おとといから俺たちはあそこで護衛をしてるんだけど、行ってみると、聞いていたことと違ってるところがあったんだ」
「何だい?」
「護衛が必要なのは役人関係だけなんだ」
「そりゃそうだろう。この町の一般庶民に、誰が護衛なんかつけるものか」
 ヴィットーリオは一笑に付そうとしたが、ファントムは首を振った。
「そうじゃない。実際に平民は誰も殺されてはいないんだ。平気で森を通ってる。護衛がついた役人や軍人だけが、衛兵や従者もろとも殺されてるんだ」
「まずはめでたいこった」
 役人嫌いのオクスは喜んでいる。ヴィットーリオは少し興味を持ったようだった。
「ほう。それなら金持ちを狙った物盗りか」
「それも違う。持ち物は奪われていない」
「それじゃあ特定の人物をあらかじめ狙ったってことだな。役人ばかりだとすると、何か個人的な恨みでもあったんだろう。どういう奴らが殺されてるんだ?」
「よく知らないよ。俺は名前なんか知らないけど、大臣とか元老院議員とか、結構偉いのが殺されたらしい」
 ヴィットーリオは腕組みして考え込み始めた。
「ううむ、単なる恨みつらみだけではなさそうだな」
「内務大臣のゲオルク、軍政次官のアイトン、元老院議員のヴィンセントとシサエル、昨日は検事のルスト、その他そいつらの部下の役人や家族、合わせて十一人。他に護衛の兵士や傭われ剣士、従者たち。もっともこいつらは巻き添えに過ぎねえがな」
 入口の傍の席に座っていた男が突然言い出した。
「えっ?」
 みんな思わずそっちを向いた。その男は黙々と食事している。
「なるほど」
 ヴィットーリオが頷いた。
「殺された奴らは総統セルパニ三世の政敵だよ。ゲオルク、ヴィンセント、シサエル、この三人はいずれも総統の独裁制に真っ向から反対して、市民選挙による総統の選出を強引に実現しようとしていた反セルパニ派という線でつながる。それでもまだ軍政次官のアイトンと検事のルストを抹殺する意味がわからないけれど」
「ということは、総統の差し金だな。こりゃ厄介だぜ」
 オクスが顔をしかめて言った。
「それだけじゃないな。殺人鬼は一人だけとは限らないぜ。意外な奴に気をつけないと。殺された奴らは鍵を握ってたのさ、総統を独裁者の座から引きずり下ろすことができるだけの鍵をな。あんたらも気をつけな。深入りしないこった」
 入口の男はそれだけ言うと、戸を引いて出て行った。
「何者だ、あいつ?」
 オクスがエローラに訊いた。
「最近たまに来るけど」
「!」
 ファントムは何を思ったか、急に男を追って店の外へ飛び出した。外に出ると通りを見回してみたが、どこへ行ってしまったのやら、あの男はもう姿を消していた。
「いない」
「どうしたんだ? 知ってるのか?」
「いや。だけどどこかで聞いたことがあるんだ、さっきの男の声……」
 ファントムは首を傾げながら、また奥のテーブルに戻って来た。
「タウに来てからか?」
「たぶんそうだ」
「だったら思い出せるだろう」
「ちょっと待ってくれ」
 ファントムはタウに来てから出会って話をした人物とその声を、一人一人思い出していった。
「そうか!」
「思い出したか?」
「なかなか思い出せないと思ったら、顔を見ないで話したんだ。そうだ、あの声に間違いなかった」
「誰なんだ?」
「怪盗ドラドさ」
「怪盗ドラド!」
 みんな声を合わせた。ファントムは暗闇の中でドラドが言っていたことを思い出すと、
「なあ、ヴィットーリオ、ドラドは総統を独裁者の座から引きずり下ろす鍵とか言ってただろう?」
「そう言ってたな」
「この前ウル商館で格闘した時――」
「怪盗ドラドと格闘したのか? それでそんな顔してるんだな」
 ヴィットーリオはファントムの顔を指差して笑った。ファントムは顔の腫れた部分を押さえながら言う。
「そうだよ。奴の顔にも痣があっただろう?」
「で?」
「その時あいつはこう言ってた――総統一族が密かに横流しした旧貴族の財宝が、あそこの蔵にはいっぱい詰まってるって。そいつをごく普通の骨董品としてあそこで売らせているそうなんだ。それなら美術館にあった財宝だとは考えられないだろうか?」
 ヴィットーリオは苦い顔をして、少しの間黙り込んだ。
「なあ、ヴィットーリオ」
 ファントムに促され、ヴィットーリオはやっと口を開いた。
「きみの言うことは充分あり得ることだ。それどころか十中八九そうに違いない。美術館で最近起こっている空き巣事件も、財宝が減っていることに偶然気づいたというだけで、盗難とされてはいるが、実のところ、賊が侵入した形跡が全くないんだ。つまり内部の者が持ち出したってことが充分に考えられる。その可能性大だ。玉石取り混ぜて少しずつ持ち出す。一見ド素人がやったように見えるが、かえって怪しい。
 そもそも僕なんかが入れない区域が美術館内にはかなりあって、もし館長を初めとする責任者たちが、上から指示されてやってるとしたら、誰にも知られずに財宝を外部に持ち出すことができるだろう。殺された反総統派の連中はその証拠をつかみかけていたんだろう。連中は確たる証拠をつかんでから、公然と裁判に持ち込む気だったんだよ。
 だからやり手と言われる軍政次官のアイトンや、検事のルストまで動いたんだ、きっと。これでこの二人が殺された理由も説明がつく。ところがその企てにいち早く気づいた総統側が、彼らを次々に消しにかかった」
「悪い奴だな、総統ってのは」
 ファントムがそう呟くと、みんなももっともだという顔をした。
「なあに、そんなこと日常茶飯事さ。たまたま反総統派が悪事のうちの一つの尻尾をつかみ、それを槍玉に上げようとしたに過ぎない。そんなことは氷山の一角さ。奴らだって悪を正そうとしてやってるわけじゃない。単なる勢力争いだ。
 この町は建前は共和制だ。だけどね、あまりにも総統一派に媚びへつらう者が多い。そうすればいい地位に引き上げてもらえるからだ。だから反総統派の主だった者がほとんど殺害された今、もうこの横領事件は表沙汰にはならないね。残っている大物と言えば、衆議会議長のブライトンぐらいだが、もうブライトンは黙り込んでしまうだろう。百に一つも勝ち目はないからね。だからウーリック事件ももうすぐ終わるよ、立ち消えという形で」
 ファントムはうーんと唸った。
「何とかならないだろうか?」
「無理だね。たとえ証拠をつかんだとしても、僕たち小市民が相手にされるはずない。さっきの男も言ってただろう、深入りするなって。それが賢明だよ。あと少しの間、逃げ回るなり適当にやって、なるべく巻き添えを食わないようにすることだね。こんなとこで正義漢ぶってると、馬鹿を見るだけだ」
 みんな重苦しい気分になった。
「でもなんで、みんなウーリックの森で殺されたんだろう? 危ないとわかってて、わざわざ行くことないじゃないか」
「その理由ならいくらでも考えられる。あそこで反対派が密議していたとか、総統が何らかの圧力をかけて呼び出したとか、例えば誘拐だ。家族も殺されてるだろう? ということはたぶん、家族を誘拐して呼び寄せたんだ。これなら行かざるを得ない。もちろんそういうことは、傭った殺し屋の一味にやらせてるには違いなかろうが」
「美術館でこっそり財宝の横流しを調べてくれないか? そうすればはっきりする」
 ファントムが突如言い出すと、
「おいおい、冗談はよしてくれ。僕はまだ死にたくない。命が惜しければ、入らずの間には入るべからずだ。たとえ証拠をつかんだとしても、そんなもの、銅貨一枚の価値にもならないね。僕はそろそろ仕事に戻るよ」
 ヴィットーリオはそそくさと店を出て行った。
「まあ、俺たちは殺されないように、せいぜい鎧でも着込むとするか」
 オクスがそう言ったが、ファントムはまだ納得できないでいた。とりあえず二人はシーファーの所へ行くことにして、店を出た。
「前払いしてくれ。鎧が要るんだ。どうやらとんでもない相手だとわかった」
 オクスはシーファー相手に談判する。
「前払いと言われましても、困りますなあ。いかほどお入り用でございますか?」
「だから二日後に入るこの五日分の金五だ。二人分で十」
「ご無理というものでございますよ。まだ頂いてもいないものを」
 シーファーはのらりくらりと逃げを打とうとした。
「じゃあおまえから貸してくれ。相手は総統の手先の殺し屋だ。それも一人じゃない。そんな奴らに不意を衝かれたら一溜りもないだろ」
「ないものは貸せません」
「それじゃあ何かい、おまえは俺たちが五日以内に斬り殺されて、それまでの手間賃を丸ごと己れのものにしようって魂胆か? ははあ、そうだったのか。だから俺たちにウーリックの森へ行け行けとしきりに勧めたんだな、金貨五枚の代わりに死ねと。まるで鬼だ」
 オクスはだんだん苛立ってきた。
「とんでもございません。そんな滅茶苦茶なこじつけを言われても困りますな」
「ないとは言わさんぞ。なんならそこにある壺を叩き割ってみるか?」
「まあまあ、お待ち下さい」
 オクスはしつこくシーファーに食い下がって、金貨六枚まで前借りすることができた。その金を持って鍛冶屋へ行ったが、金貨六枚ではとても鎧など買えたものではなかった。しつこく負けさせようとするオクスに辟易とした鍛冶屋が、古道具屋を紹介してくれた。早速行ってみると、ここも大して安くはない。
「もうちょい負けてくれ。この鎖帷子を金三でどうだ?」
「ご冗談でございましょう。金十を金三とは無茶な」
 古道具屋は簡単には首を縦に振らない。
「どうせこんな物、盗品を二束三文で買い取ったんだろうが」
「これまた人聞きの悪いことを。負けるにしても、金三では赤字でございます」
 古道具屋は取り合おうとしない。
「そちらにございます革鎧ではいかがでございます?」
 オクスは古びた革鎧を手に取ってみたが、
「こいつは相当痛んでるな。それにちょっと薄手だ。物の役に立ちそうもねえな」
 革鎧のあちこちを古道具屋に示してけちをつけた。
「よろしゅうございます。それなら大負けに負けて、二着で金六、それでいかが? 売値は一着金五でございますよ」
「しょうがねえ」
 二人は自分の体型に合った革鎧を選んだ。
「ありがとうございました。またどうぞ」
「まあ、ないよりましか」
 二人は服の下に早速薄手の革鎧を着込んだ。

 その晩は何も起こらなかったが、翌晩また役人が殺された。その次の日、殺されたのは小物とはいえ、以前に殺された元老院のシサエル系の者だとわかった。
「大物から小物まで、徹底的に消さないと気が済まないようだ」
 ファントムが言うと、
「その前に必ず止めてやるぜ」
 オクスが鎮魂の戦斧をさすってニヤッと笑った。
「だったら今晩から南口に回ってくれないか。最近は南口から入った者ばかりが殺られている。あっちは剣士が足りなくてな」
 西口の屯所の隊長が二人に言った。二人は言われた通り、南口の屯所へ回った。そこには衛兵の他にはあの逃げ専門の剣士しかいない。
 しばらくそこで待っていると、ビエラ通りから馬車がやって来た。衛兵が馬車を止めて、馭者に問い質すと、
「衆議会議長のブライトン様だ」
 馭者が答えた。この馬車は護衛して行くことになった。馬車の左前に衛兵、右前にファントム、左後ろにオクス、右後ろに逃げの得意な例の剣士がそれぞれついた。
 ファントムとオクスはヴィットーリオの言葉を思い出していた。ブライトンが次に狙われるとヴィットーリオは言っていた。ファントムもオクスも今夜こそは殺人鬼に出会うに違いないと思い、得物を構えながら気を引き締めて進んだ。
「なぜこの森を通るんですか?」
 ファントムがさりげなく後ろに向かって訊いてみると、
「護衛風情がそんなこと知らずとも良い。しっかり護衛しろ」
 馬車の中からブライトンが言った。森の中は真っ暗だ。馬車に吊るしたランタンの灯だけが揺れている。
「あーあ、衛兵は勝手なもんだ、傭われ剣士にばかり危ない役をやらせて」
 それまで静かにしていた逃げの剣士が、急に大声を上げて不満を洩らした。
「何言ってんだ、いつだって真っ先に逃げ出すのは――」
 衛兵がそう言うか言わないうちに、前方の暗がりに突然人影が二つ顕れた。それが抜く手も見せずにいきなり斬りかかって来た。
「ギャッ!」
 たちまち前にいた衛兵が斬られた。ファントムはもう一人とやり合う。
「とうとう来やがったな、殺人鬼め!」
 オクスは斧を振りかざして前に出た。数合打ち合ううちに、たちまちそいつを叩き斬った。ファントムも何とかもう一人を斬り捨てた。ところが次の瞬間、オクスが呻いて前のめりに倒れ込んだ。ファントムがびっくりして見ると、あの逃げ専門だったはずの腰抜け剣士がオクスの後ろに回り込んでいて、背後から襲ったのだった。
「おまえは!」
「そうよ、俺がウーリックの殺人鬼」
 腰抜け剣士はそう言うや、ファントムに向かって剣を突き出してきた。ファントムは辛うじて剣で払いのけることができた。ところが殺人鬼は次々に打ち込んで来る。その凄まじさに、ファントムは交わすだけで精一杯になった。
「俺様の剣を交わすとは、なかなかの腕だ。だがおまえもここまでだな」
 そう言うと、また素早く剣を振った。とうとう剣を受け損ない、二の腕を斬られた。
「ううっ!」
 ファントムは咄嗟に後ろに飛び退がり、間合いを取った。斬られた腕から血が流れ出しているのがわかる。
「じゃあ、おまえが今まで……」
「みんな俺が殺った。おまえも覚悟しろ」
 殺人鬼は再び猛烈な勢いで剣を打ち下ろしてきた。ファントムは剣を横にして受けた。ガッと火花が散る。強烈な勢いに腕が痺れた。殺人鬼はそのままぐいぐい剣を押しつけてくる。その力に押されて、切っ先がファントムの額に触れた。額が切れて、血が滲み出したのがわかる。
 もう駄目かと思ったその時、殺人鬼が呻いた。オクスが鎮魂の戦斧を片手につかんだまま這って来て、斧の先端についた槍の穂先で殺人鬼の背中をブスリと突き刺したのだった。ファントムはサッと身を退くと、次の瞬間には剣を斜めに振り下ろしていた。殺人鬼は肩から胸にかけてパックリと割れ、血を噴きながらどさっと地面に倒れた。
「オクス、大丈夫か?」
 ファントムはオクスに駆け寄ると、自分の上着を裂いてオクスの体に巻きつけ、背中の血止めをした。
「後ろだっ!」
 オクスが叫んだ。ファントムは咄嗟に剣をつかんで振り返った。際どいところで反射的に相手の剣を受けていた。見ると、知らない間にまた四人ほど現れていた。
「どこまで念入りな奴らだ!」
 ファントムが叫んだ時、続けざまに矢唸りが聞こえ、三人の賊が次々に倒れた。ファントムは渾身の力を振り絞り、残った目の前の賊を斬り捨てた。
「誰だろう?」
 すると木の上から誰かが飛び下りて来た。
「深入りするなって言ったのに、言うこと聞かねえからそんな目に遭うんだ」
「ドラドか?」
 声の主が近づいて来た。短弓を手にしている。ランタンの灯で、エローラの店にいた男だとわかった。
「さあ、早いとこ怪我人を連れてってやらねえか」
「俺は平気だ」
 オクスはそう言ったものの、一人では立ち上がれないようで、うつ伏せになったままでいる。ファントムとドラドの二人で、オクスを馬車の中に担ぎ込んだ。斬られた衛兵はもう死んでいた。衆議会議長のブライトンは馬車の中で小さくなって震えていた。
「賊はもう死にました。心配要りません」
「早く医者へ連れて行けよ」
 ドラドが外で馭者に怒鳴っている。
「へ、へい」
 震えていた馭者は怒鳴られると我に返って、慌てて馬車を動かした。
「そうだ、ドラド」
 ファントムは馬車の外を見たが、もうドラドの姿はなかった。
「ドラド、ありがとう!」
 ファントムは馬車の窓から暗闇に向かって叫んだ。返事はなかった。
 馭者は森の西口の方へ向かって馬車を飛ばした。
「大丈夫か?」
「ああ、ぼろでも革鎧を着てたんで、ちょっとはましだ」
 そう言っているオクスの顔をランタンの灯で照らすと、血の気が失せているのがわかった。
「おい、馭者、急いでくれ!」
「へい、急いでまさあ」
 ファントムはブライトンの顔を見た。ブライトンは目を瞑って終始黙っている。
「議長、これで殺人鬼も誰だかわかりましたよ、もちろん金で傭われた殺し屋でしょうが。あなたはこの一連の事件が、総統の差し金だってことはもうご存知でしょう?」
 ブライトンは目を瞑ったまま、深く頷いてみせた。
「これを公表して黒幕の総統を罰してやらないと、殺された人たちも浮かばれませんね」
 ブライトンはやはり黙っていた。
「美術館の財宝横流しの証拠も挙がってるんでしょう?」
「きみは何でもよく知っているな。しかしもうどうしようもない。我々はことごとく消し去られた。もう私のような衆議会議長の力だけではどうにもならん。負けだ」
「そんな。相手が総統とはいえ、ここまで来て悪事を見逃す気ですか?」
 ファントムはブライトンを問い詰めた。
「すまん。私は妻子ある身だ。もう何もできん。許してくれたまえ。私にはもはや、民衆の代弁者たる衆議会議員の資格などない。総統の絶大な権力を打ち破るには、もう他国の力を借りるしかあるまい……」
「他国の……?」
 ファントムはもうそれ以上ブライトンに何も訊かなかった。
 西口の屯所で衛兵たちに経緯を手短かに話して、死体の回収に行ってもらい、馬車をそのまま医者の所へ直行させた。
「命は取り留めたが、まあ、並の人間ならとっくに死んでるところだ。この人は驚くほど生命力が強い」
 医者は傷の手当てを済ますと言った。
「二十日は動いてはならん。安静にして、うつ伏せに寝てなさい」
 治療費はブライトンが支払ってくれ、下宿まで馬車で送ってくれた。
 世間を騒がせたウーリックの森の殺人鬼は遂に片づいた。だがそれだけのことでしかない。政敵を倒して目的を果たした黒幕の総統は、痛くも痒くもない。財宝の横領を初めとする悪事の数々を、これからも平気で続けていくだろう。むしろ殺し屋も死んでしまったことで口封じもできたと、明日になれば総統はほくそ笑むに違いない。
 この際オーヴァールなり、ピグニアなりを、タウに招き入れてしまった方が良いのではないか、それがたとえあのディングスタであろうと……。馬車に揺られながら、ファントムはそんなことを考えていた。
「この勝負はこっちの負けだ」
 彼は包帯の巻かれた右腕を見つめて、気が抜けたようにぽつっと呟いた。




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