11. 汚 れ な き 魂



 やがて気がつく。しばらく気を失っていたようだ。何だか体がべとべとする。ぬるぬるした液体の中に浸かっているようだ。生臭い異様な臭いがする。見ると、周囲が赤く照らし出されたり、真っ暗になったりしている。遠くで時々炎が噴き上がる。背負っていた傷ついた男がいない。オクスの姿も見当たらない。ファントムはそのとろりとした液体の中を動いてみた。
 しばらくその辺りを動き回っていると、急に体が沈んだ。深みがある。慌てて底を蹴って浮かび上がった。液体が口の中に入って来た。異臭が鼻につく。血だ。噴き上げる炎の赤い光で見てみると、遠くの方に陸地があるようだ。ファントムはそちらの方へと泳ぎだした。べとべとした血が体に粘りついて、なかなか前へ進まない。やっとのことで陸地に辿り着いた。どうやら小さな島のようだ。周りは血に囲まれている。
「おーい、みんなどこだー。おーい」
 ファントムはしばらくそのままで考えた。そうしていると、何かが島の方まで漂って来た。炎の光がそれを時々照らし出した。人間のようだ。ファントムは近づいて来たその物体に手を伸ばした。人間がうつ伏せになっている。引き寄せて裏返してみた。顔が血塗れでよくわからない。その顔を手で拭ってみる。光に照らしてみて、それが自分の背負って来た傷ついた男だとわかった。島に引き上げてみる。しかし男はもう息をしていなかった。
「ああ、こっちを選んだのは間違いだった。無謀なことをしてしまった。僧侶の言った通りに引き返しとけば、この人も死なずに済んだかもしれない」
 ファントムは気力が失せてしまって、しばらくその場に座り込んだままでいた。もう何一つする気も失くなってしまった。やがて何かが島に這い上がって来た。
「誰?」
 ファントムは声のした方を向いた。
「王女様……?」
「ああ、良かった!」
「ついて来たんですか。来なければ良かったのに……」
「ついて行くしかないでしょう?」
「ここからは抜け出せそうにないよ」
「そんなこと言わないで。やるだけのことはやってみましょうよ」
「でも、この人を死なせてしまったよ。連れて来たばっかりに……」
 王女は血塗れの男を見て顔をしかめた。
「可哀そうに……。でもあなたのせいじゃないわ。あなたはこの人を自由にしてあげようとした。あなたはこの人を助けたんだわ。結果はこんなことになってしまったけど、この人は恨んではいないわ、きっと……」
 王女の慰めの言葉を聞くと、ファントムは余計に悲しくなってきた。
「あなたは優しい人だな……」
「とにかく出口を捜すのよ。こんな所にじっとしてたって、仕方がないじゃない」
 二人は血の池を泳ぎ始めた。かなり泳いだあと、新しく陸地が現れた。二人は陸地に這い上がった。血の池は終わったようだ。そこは沼のようにぬかるんでいる。
「きゃっ!」
「どうしました?」
「誰かが足を……」
 見ると、沼から手が出ていて、王女の足首をつかんでいた。
「こいつ!」
 ファントムはその手をつかんでねじり上げた。手はすぐに王女の足首を放した。と、今度は手がたくさん沼から出て来た。
「走れっ!」
 ファントムは王女の手をつかんでぬかるみを駆けた。手につかまれては転び、転んでは手を払いのけ、また走った。
「もう駄目よ。走れないわ」
「頑張るんだ。ほら、あそこに丘がある」
 赤い火に照らされて、少し先に丘の影が浮かび上がった。二人は更に走って、黒い丘の斜面を駆け登った。
「もう大丈夫だ」
 二人は丘のてっぺんまで上がって行った。頂上まで行くと人影が見えた。腰に手をやる。鎚矛は失くなっていた。
「ちょっとここで待ってるんだ」
 ファントムは一人で丘の頂まで忍んで行った。しばらく人影の様子を窺う。時々その人影が、地獄の業火に赤々と照らし出された。
「何だ、オクスじゃないか!」
 声を聞きつけて、人影はファントムの方に近づいて来た。
「ファントムか?」
「やあ、良かった。死んでしまったかと思ったぞ」
「俺もだ」
 頂上には乞食もいた。二人の声を聞いて、王女も上がって来た。
「あの男は死んだよ」
「そうか……」
「これからどうする?」
「さあ」
 地獄の業火があちこちで激しくなり、周囲を明るく照らし始めた。するとその赤い火に照らされて、丘の下の方で何かが蠢いているのが見えた。それがしだいに上の方へと這い上がって来る。周囲をぐるりと見渡してみた。
「完全に囲まれてるぞ」
 その蠢く物がだんだん数を増し、彼らのいる丘の頂上目指して上がって来た。
「ミノタウロスの斧は持ってないのか?」
「ああ、失くしちまった」
「俺もだ」
 炎が上がって来た者どもを一段と明るく照らし出した。異様な形をした人間どもだ。手が三本、四本、五本と生えた奴や、ない奴もいる。脚が何本もついている奴もいる。首がなかったり、二つも三つもついていたり、その首が長かったり、一つの頭に顔がいくつもついていたり、痩せこけてあばら骨は出ているが、腹だけ膨れ上がったのやら、奇形ばかりだ。そんなのが百も二百も、次から次へと湧いてきて、みんな頂上に向かって這い上がって来る。
「護符があるでしょ。護符を出して願いをかければ?」
 王女が急に言い出した。オクスは懐を探り、血塗れになっている護符をつかみ出した。
「しかしこんな紙切れが、まさか……」
「駄目で元々、やってみよう」
「それじゃあ」
 オクスは護符を拡げて高く掲げた。
「俺たちを助けてくれ。この地獄から出してくれ」
 オクスが唱えると、突然彼らの真上に明るく輝く光が出現した。それがゆっくりと降りて来る。みんな驚いて見ていると、その光は大きな金色の鳥となり、丘の頂に降り立った。背中に小人が乗っている。
「願いは聞いてやるから、さあ乗りな」
 小人は言った。乞食と王女を乗せると、ファントムとオクスも鳥の背に跨った。
「駄目だ、駄目だ。四人も乗せて飛べやしない。乗れるのは三人までだ」
「そんな堅いこと言うなよ。下には魑魅魍魎どもが迫ってるんだぞ」
「飛べないものは、飛べないんだ。無理言うな。嫌ならやめとくんだな」
「いや、待て。じゃあおまえが行けよ」
 ファントムは鳥の背中から降りた。
「いや、おまえが行け。おまえが行って、王女と乞食を寺院から抜け出させてやれ」
 オクスも鳥の背中から降りた。
「それこそおまえの方が適役だ」
「いいや、俺の体は重すぎる。おまえ行け」
「二人とも早く決めないと、行っちまうぞ」
 小人が催促する。
「じゃあ――」
 ファントムは王女の方を向き、
「俺たちは二人とも残ることにするから、悪いんですけど、王女様はこの男と二人で寺院から逃げ出して下さい。俺たちはどうしても一人だけでは行けない」
「どうして? もう一人乗れるのよ」
「上手く言えないんだけど、どちらか一人だけが行くわけにはいかないんだ。これは男と男の……」
「いつまでごたく並べてんだ。早く行きな。化け物がそこまでやって来てんだぜ」
 オクスが痺れを切らして言った。
「じゃあ、逃げ方を教えておきます。ここから出たら暗くなるまでどこかに隠れていて、僧侶たちに見つからないように大僧正の部屋に忍び込み、その奥にある小さな土の戸を開けて、その中に入るのです。そうすればたちまちのうちにチャカタンのヴィ・ヨームという預言者の家に行けます。そこはもうエトヴィクだから、あとは自由になれますよ。じゃあ早く行って」
 小人は鳥の首に跨り、掛け声を上げた。金色の鳥はまばゆい光を放ちながら、ゆっくりと上昇し始める。
「ありがとう。あなたたちのことは一生忘れないわ。今度会った時は、あなたたちにはエトヴィクの将軍になってもらいます」
 遠ざかる鳥の背中から、王女がファントムとオクスに声をかけてきた。
「将軍なんてどうだって構わないから、できればもう一回迎えに来てくれよ」
 オクスは上を向いて言ったが、小人は答えない。諦めてファントムの方を向き、
「無理しないで、乗ってけば良かったのに」
「いや、もう覚悟はできた」
「それじゃあ、武器はないけど、最後に一暴れして死んでやることにしよう」
 二人は背中合わせになると、迫り来る魑魅魍魎に対して素手で構えた。
「おまえとここまで一緒に冒険できて、楽しかったよ」
「俺もだ。おまえに会えて良かった」
「じゃあ、最後は冒険者らしく、勇敢に闘って、潔く死のうか」
 ファントムとオクスは頂上まで上がって来た化け物どもに立ち向かった。殴る、蹴る、上がって来た魑魅魍魎どもを、次から次へと丘の下に蹴落とした。しかし化け物どもは尽きない。しだいに疲れが溜まり、動きが鈍くなってきた。
 とうとうファントムが化け物につまずいた。化け物どもは上から覆い被さってくる。オクスが助けようとしたが、彼も転んでしまった。転がったまま二人は暴れていたが、遂にファントムが片足を食いちぎられた。オクスも片腕を引き抜かれた。それでも二人は暴れ続けたが、とうとう腕も脚も食いちぎられ、動けなくなってしまった。それでも魑魅魍魎どもはやめない。二人の胴体を貪り始めた。近くでは化け物どもの共食いも始まった。
 とうとう二人は首だけになった。
「俺は何のため、ここに連れて来られたんだろう? こんな惨めな死に方をするためか……? この世は弱肉強食だと思い知らされるためか……? それとも人間の生死なんて、単に不条理なだけなのか……? そんなこと、こうなってはもうどうでも構わないか……」
 ファントムの首はそんなことを思った。意識がだんだん薄れていく。化け物が頭にかぶりついた……。

 たくさんの僧侶たちが合唱している。
「目醒めたか?」
「ここは?」
 ファントムとオクスは起き上がった。
「何だ? 葬式か?」
 そこは広い修道場だった。周りを多くの僧侶たちが囲んで座っている。目の前には癩病の乞食と、尼の姿をしたエトヴィクの王女が座っていた。
「あんたたちも逃げ損ねて殺されたのか?」
「いいや、死んでなんかおらん。ほら、手足もちゃんとついておるじゃろう」
 ファントムとオクスは自分の手足を見た。
「ほんとだ。地獄で化け物に食い尽くされたはずだけど……」
「ここはあの世か?」
「いいや、ここはアウグステ寺院じゃ」
「?」
「あんた、なんか変だぜ。乞食から急に偉くなったみたいな口のきき方するじゃねえか」
「そうか? ハッハッハッハッ」
 乞食は立ち上がり、二人に背を向けると、笑いながら歩いて行く。僧侶たちの合唱はやまない。やがて乞食はこちらを向き、前にある朱色の椅子に座った。
「あっ! 大僧正!」
 乞食の癩で崩れた顔は消えて、大僧正ラムンテの顔に変わっていた。
「こ、これは一体……?」
「はっはっはっ、久しぶりになかなか楽しませてもらいましたよ」
「?」
「まだ正気に戻らんようじゃな。あなた方は闇の回廊の修行を終えられた」
「えっ?」
「つまり今まで見たこと、回廊に踏み込んでから地獄で餓鬼どもに食われるまで、全てが幻じゃ」
「はあ……」
 二人にはまだピンと来ない。
「あそこでは人間の欲望が試されると聞かされたはずです。闇の回廊に踏み込んだ者は誰でも、己れの本性が暴露される。たとえ普段どんなに節制して自分を抑え、聖人と人々から呼ばれるような者でも、あそこの中では関係ない。そのような日常、自分がしている自制というものが、あそこでは全く利かなくなる。人間の本性が剥き出しになってしまうのじゃ。思い出してみるがよろしい、自分自身の取った行動を」
 二人はしばらく思い返してみた。
「恐れ入りました」
 二人とも大僧正の前に深々と頭を下げた。
「いやいや、誤解なさるな。あなた方は稀に見る清らかな心、高貴な精神の持ち主じゃ。わしはそう見ましたぞ」
「いえ、大僧正様を魔王扱いにしたなんて、とんでもないことを……」
「はははは、あなた方はお人が好すぎるな」
「でも、あの死んだ男たちは?」
 ファントムは気になって訊いた。
「幻じゃ。今更気にせずとも良い。誰でももっと惨いことをするものじゃ。全ては幻」
「でも、大僧正様と王女様はここにいます」
「わしとエテルナ姫だけが本物じゃった。あとは鬼もミノタウロスも全て幻じゃ」
「へえー、じゃあ本当に王女様?」
 二人はすぐ前にいる尼僧を見た。
「エトヴィクの現在の王トランツは、王の傍系の血筋。謀反により一夜にして王の一族郎党を虐殺し、自ら王の位に就いた。ただ一人エテルナ姫のみが忠臣たちに守られ、トランツの暴挙から逃れ得た。そしてこの寺院にお身をお隠しなさっておられる」
 エテルナ姫は二人にお辞儀した。さすがに王女だけあって品がいい。
「ここで私は復讐の軍を起こす機会を窺っています」
「そんな美しいお顔をして、復讐なんて考えるもんじゃない」
 ファントムが王女の言葉を遮った。
「いいえ、あなた方にこそ私の軍を率いて欲しいのです。あなた方お二人こそ真の勇者ですわ。お約束したでしょう、今度会った時はあなた方はエトヴィクの将軍だって」
「おっと、そいつは素直に頷けないな」
 オクスも王女を止めようとする。
「なぜです? 私に手を貸して下さい。トランツの一族を同じような目に遭わせてやりたい。私の家族はもう誰もいない。あなた方ならきっと助けてくれると、闇の回廊の中で思っていたのに……」
「よお、大僧正さんよお、あんたはなんで、このお姫様を止めようとしないんですか?」
 オクスはラムンテを責めるように言った。
「わしはいつもお止めしておるのですが……、難しい。ご意志が固くて」
「成功の暁には、あなた方を大臣にしましょう。いえ、国をそのまま差し上げたって構わないのです。私にとって、復讐だけがこの世に残された唯一の生きがい……」
 王女のその言葉にオクスは険しい表情をしてみせた。
「おっと、待ちなよ。そういうお仕着せがましい頼まれ方は頂けねえな。だから貴族なんて嫌なんだ。大臣にしてやる、国をやる。俺たちゃ別に、お姫様の家来じゃないぜ。あんたは偉い王女だから、そんなご大層なことが言えるけど、何の地位も金もない貧乏人はどうだろう? もしお姫様とおんなじように、復讐してやりたいと思ってる奴がいて、自分には力が足りないから、それを誰かに頼むにしても、何も払う物を持っちゃいねえ。泣き寝入りするだけだ。あんたの気持ちはわかるけど、俺は地位や権力のある人のためには働かねえよ。大臣も領主も真っ平ご免だ」
 オクスは投げやりな言い方をした。
「…………」
「それよりも、王女様、お聴きなさい。早まると後悔することになりますよ。あなたはただここにじっとしているだけで、近いうちにあなたの望みは遂げられるでしょう」
 ファントムは王女を慰めるように言った。
「?」
「どういうことかと言うと、エトヴィクは間もなく亡びます。俺たちは預言者のヴィ・ヨームから、近くダフネとビンライムが相次いで亡ぼされるのをまざまざと見せつけられた、ディングスタという、恐ろしい悪魔のような人間によって。やがてエトヴィクも亡ぼされるのは間違いない。たとえ今エトヴィクに戻り、トランツ王を倒すことができたとしても、それはディングスタに滅ぼされるのが、トランツ王からあなたへと交代するということに過ぎないのです。どうです? それでも早く復讐がしたいというためだけで、慌ててエトヴィクに帰りますか?」
「では、どうすればよろしいとおっしゃるのですか?」
 戸惑う王女にファントムは優しく言う。
「待つのです。ガブリエルの書にあります、この世界は争いののち、やがて一つになる、でもその次に魔の手が押し寄せて来ると。これが本当なら、権力者なんて儚い命。つまらないじゃありませんか。いずれ機会が訪れれば、俺たちも手を貸しましょう。でも慌てると馬鹿を見ますよ」
 オクスも頷いてみせた。
「どうやらわしのような老いぼれが屁理屈をこねるより、あなた方の言うことの方が王女様には得心がいったようですな。では、次はあなた方お二人の番です。しかしあなた方にはしばらく、この老いぼれの説教を聴いてもらいましょうか」
 大僧正ラムンテは立ち上がり、修道場から出て行く。二人は彼について行った。やがて二人がやって来た時の大僧正の部屋に入った。
「ここでお話した方が落ち着くでしょう」
「ええ、まあ」
「さて、闇の回廊から出て来たところで訊きたいのじゃが、あなた方のこの世にいる目的は何じゃろう?」
 二人は首を傾げた。
「さあ?」
「はっきり言って、目的なんかねえな。気がついたら生まれてた。頼みもしないのに、親が勝手に産みやがったんだ」
「では、あなた方にとってこの世で何が一番大切かな?」
「自分の命だろ」
「ふむ、もっともな答じゃ。では、何が一番素晴らしい?」
 オクスはしばらく首をひねってから、
「さあねえ。王様にでもなることかな?」
「しかし先程あなた方は、滅びてしまう権力者などつまらんと、自分の口から申されたではないか?」
「そうだ。別に王様になりたいわけじゃねえ。でもそうやって急に訊かれても、よくわからねえな。たぶん王様になるってのは、素晴らしいんだろうなって思っただけさ」
 大僧正はしばらく黙り込んだ。静けさの中で、ひんやりした風が窓から流れ込んで来る。
「なるほど。良いかな、答はこうじゃ――この世で誰にとっても一番大切な物、それはたとえ肉体が滅びるとも残る物、すなわち魂じゃ」
「魂?」
「そう。そしてこの世での目的、それは、その一番大切な魂を清め、高めること」
「…………」
「そして最も素晴らしいこととは、己れの魂がどこまでも清められ、どこまでも高められ、そして遂には、汚れなき魂となることじゃ」
「汚れなき魂……」
 ファントムとオクスはその言葉を呟いてみた。
「そう。この世に生きとし生ける物は全て、魂を持っている。いや、逆じゃ。魂がこの世で肉体に宿った時、それはこの世での生を得る。己れを清め、高めるには、あまりにも短かすぎる生をな。しかし肉体に宿り、この世に生を受けた魂は、初めのうちは目的を知ってはおらぬ。人によっては、一生それに気づかずに死んでいく。よって、必ずしも己れを汚れなき魂へと清め、高めようとはしない。
 だがこれだけなのじゃ、魂にとって必要なのは。清め、高めること。しかし肉体に支配された魂は、肉体の望みこそ己れの本望と勘違いする。権力を得ること、地位を得ること、名声を得ること、富を得ること、愛情を得ること……、どれも肉体が滅びれば終わる。しかしその時になって、肉体を離れた魂は後悔するじゃろう、またもや汚れなき魂に成り損ねてしまったと……。そしてその魂は再び、次に肉体を持って汚れなき魂となる機会を、ひたすら待ち続けるのじゃ」
 ファントムはラムンテ大僧正の説明を聴いていて、クヴァーヘンの死の商人を思い出した。死の商人が質入れしてきた客の魂につける値段は、その人の魂により違っていた。
「では、欲というものを捨てろと?」
「いや。確かにこの寺院でも欲に対しての厳しい戒めを皆行っておる。しかしそれはここにおる者が皆、肉体の欲求に対してあまりにも弱い人間ばかりだからじゃ。その点、あなた方は特に欲を抑える必要はないようじゃ。肉体の要求を聞いてやるということも、また大切なことであるぞ。何しろ肉体は、魂である自分が一番大切にしなければならない持ち物であるからじゃ。しかし、その肉体の欲求が目的と成り下がってしまえば、遂には魂の行いの妨げとなるばかりじゃ。
 肉体の欲望が悪いのではない。欲望のために、本来の目的を達成する行為を放棄してしまおうとする考えが起こることが、恐ろしい間違いなのじゃ。欲とは言わば、魂のためにある試練の足枷じゃ。
 人は誰でも次のことは容易にわかる――『善は善い。正義は正しい』。では、短い一生のうちに魂をできるだけそれに近づけるべきじゃ。それのみを行うべきじゃ。悪と不正を行わず、それに絡んだ欲が湧いてくれば、ただちにそれを捨て去らねばならぬ」
「ようくわかりました。大僧正様のお話はわかり易い。当たり前のことのように思えますが、言われてみなければ気がつかなかったことでしょう」
 ファントムは目的というものが持てそうな気になった。何だか目の前の霧が晴れていくような気がする。オクスの方は、これはわかったようなわからないような顔をしている。
「そう。しかし人間は弱い。弱すぎる。言うほど易しくはない。これほど誰にでもわかり易く、これほど行い難いものはない。ともすれば過ちを犯し、その過ちを認めたくないため、己れ自身に対しても間違ってはいないと歪めて思い込ませようとする。この自己愛のなせる手抜きには気をつけねばならぬ」
「はい」
 大僧正は頷く二人を見て微笑を浮かべた。
「もう一つだけ、気をつけねばならぬことを言っておこう」
「何ですか?」
「もし仮に、ここに神がそのお姿を現し、あなた方にこう言ったとしよう――『天国へ昇るために善を行え。地獄へ落ちぬよう悪は行うな』とな。さあ、それではこれを聞いたあなた方はどうする?」
 何を言い出すのかと思ったら、と拍子抜けしたが、とりあえず二人は答えた。
「もちろん善を行うよ」
「その善ってのが何かによるけど、善を行うだろうな」
「よろしい。では、神が再びそのお姿を現された。今度はあなた方にこうお告げになるのだ――『天国へ昇りたくば悪を行え。地獄へ堕ちたくなくば善を行うな』と。では、こう命じられたあなた方はどうする?」
 今度のラムンテの問いには、二人は少しばかり呆れた。
「そんな無茶な」
「神様がそんなこと言いっこないだろう」
「神は人知の及ばぬ域にあらせられる。何をお言いつけになるかはわからぬぞ。さあ、言えばどうする?」
「…………」
 二人は黙ったまま答えられないでいた。
「簡単には善を行えぬか?」
「そうですね」
「地獄へ落とされるんじゃ、割に合わねえ。善は行えねえな」
「ははは、正直でよろしい。回廊で地獄を見て、懲りたようじゃな」
「あんなとこ、もう懲りごりです」
「二度とごめんだ」
 ラムンテは笑いながら頷いた。
「ふむ、おわかりか? まず、善とは何か、悪とは何かというところからはっきりさせねばならぬ。つまり、世の人はたとえ善人面して善行を積んでいても、必ずそれに対する見返りを期待しておるのじゃ。今あなた方に問うた例は極端すぎるが、大事であれ小事であれ、人は自分の行いに何らかの報酬を求めている。別にそれが金だとは限らぬ。利害で動いておるのじゃ。しかしこれは間違っておる。
 見返りを期待したり、利害により行った善行は名ばかりのもので、善ではない。悪と同じじゃ。それが人目にはどんなに善い行いであろうとも、誰もが善行だと見做そうとも、少しも己れの魂を清めも、高めもしていない。むしろ汚しておるのじゃ。故に善行には決して理由などあってはならぬ。ただただその理由は善故に行う、正しい故に行う、それのみでなければならぬ」
「でも、自分が正しいと思っていても、間違っていることだってあるじゃないですか」
 ファントムは反論した。
「それは仕方がない。人間は皆、未熟じゃ。誰でも必ず過ちを犯す。間違う。しかしだからと言って、開き直ってはいかん。向上を心掛けること。何が善で、何が正しいかを見極める目を養わねばならんな。人間は――つまり魂は、元来その目を持っておるのじゃが、邪念がそれを曇らせる。これは肉体を持った者の宿命じゃ」
「なるほど」
「では最後にこれをお見せしよう」
 大僧正は棚から巻物の一巻を取り、二人の前に拡げてみせた。
「これはガブリエルが、この寺院の地下に魔王ギースを封じ込めてのち、書き残していったものじゃ」
「ええっ!」
「読んでみなさい」
 オクスが巻物を手にし、声を出して読み始めた。
「――私はサバレムへ行った時も、ここプレトに来てからも、まず最初にヨーデムにはない不思議な現象に気づいた」
 いきなりこの地平のことが出てきて、ファントムはあっと驚き、同時に納得もしたが、
「不思議な現象?」
 その言葉には首を傾げた。
「プレトというのはこの世界全てを指しておる。では先を」
 ラムンテが促すと、オクスは再び巻物に目をやった。
「――善というものがあり、悪というものがあるのだ。やがてその理由が判明した。ラバスに善悪の根源があるからだ。それだけではない。この善と悪とが複雑に混ざり合ったものが、数え切れないほど存在し、更にそれが多様化し、時と共に様々に変化していく。根源にある時はたった一つのものだというのに。
 しかし驚いたことに、サバレムやプレトの人々は誰もが皆、この不思議なものを自己の内部に持ち、それを行動源としているのだ。しかし根源が多様化したものを、善・悪とはっきり区別して呼びながら、その区別は実際のところ、あまりにもあやふやなもので、私にはまだ区別がつかない。話には聞いていたが、実際に出会ってみると、やはり善悪とは不可思議なものである」
「?」
「ラバスってどこだい?」
「わからん。伝説の町じゃ。誰も行った者はいない。では最後の部分を読んでみなされ」
 オクスは頷き、続きを読んだ。
「――しかし私一人がヨーデムから、サバレムとプレトを見に来たからなのか、ヨーデムの同胞たちの、この二つの世界を根絶やしにしてしまおうという意見には、どうしても賛成できなくなってしまった。私の意見が通るのなら、せめて一部だけでも選び、残してもらいたいと思うようになった。私はこの二つの世界を知り、愛するようになったからだ。そうなった場合、何を選んで残すかが問題となる。少なくとも私の好むものは残したい、何としてでも……。いずれにせよ、これからヨーデムに戻り、彼らを説得せねば……」
「!」
 読み終えたオクスも、聴いていたファントムも、声が出なくなった。
「驚かれたようじゃな」
「こ、これは……」
「ガブリエルの秘文」
「秘文?」
「ガブリエルの書と関係が?」
 ラムンテは笑い出した。
「ははは、ガブリエルの書として世界中に知られているものには、肝心要の部分が抜けておる」
「あれはディングスタが持っています」
「それでよろしい。あれは誰が見ても良い。しかし、この秘文をこの世界で見た者は、あなた方お二人を含めてほんの数人だけ。これは誰もが見ても良いというわけにはいかぬのでな。恐ろしい内容じゃ」
 二人の顔からは血の気が失せていた。
「根絶やしにされると……」
「そのようじゃな」
「そんなっ! 大僧正はよく落ち着いていられますねえ」
「わしもこれを初めて読んだ時は、心臓が止まりそうになったよ。しかしこれをよく見てみなされ。ガブリエルが、少なくとも一部を救うように努めてくれるはずじゃ」
「一部とは何を指しているのですか? それは彼が好むものだと……」
 大僧正は頷き、
「そうらしい。しかし我々力のない人間に、根絶やしの時までに残された時間を使ってできることは、極めて限られている。まあ、何もかも放り出し、好き勝手に振る舞っても良いが、たとえ根絶やしにされようと、滅びることのない物を、我々は一つだけ持っている。それは何じゃ?」
「魂……」
 二人は大僧正の口ぶりにつり込まれるように、揃って答えた。
「つまり自分は決して滅びない。何をすべきかもうおわかりのようじゃな。これも救われる一部になるためにするのではないぞ。わかればもう行きなされ。行って、自分の信ずる行いをなさるが良い。さあ、チャカタンに戻り、ヴィ・ヨーム殿に尋ねるが良い、ガブリエルの秘文の秘密を」

 ファントムとオクスは限りない恐怖と、漠然とした使命感を感じ、大急ぎで土の戸の中に入った。するともうそこはヴィ・ヨームの秘儀の部屋だった。
「おや、もうお帰りですか?」
 椅子に掛けていたヴィ・ヨームが、秘密の扉から出て来た二人を見て言った。
「いつ帰って来るかぐらいわかってたんでしょう?」
「私は神ではないから、そんなに何もかも知っているわけではありませんよ」
「そんなことより、すぐに――」
「まあまあ、そう慌てずとも、あなた方は七日間何も口にしていないから、さぞやお腹が空いていることでしょう」
「七日間……?」
 そう言われると、二人とも急にひどい空腹感を覚えた。腹の虫が鳴きだす。
「さあさあ、急がなくても、ゆっくりと食事をしながらでもよろしいではありませんか」
 ヴィ・ヨームは立ち上がり、もう食堂の方へ向かっていた。ファントムもオクスも食堂へついて行った。そこではもうマリアが全員の料理を用意して待っていた。
「いよう、待ってました。ありがてえ。この匂いには敵わねえや」
 オクスは早速ガツガツと食い始めた。
「やっぱり今帰って来るってこと知ってたんだ。だって料理は四人分用意してあるもの」
 ファントムがヴィ・ヨームに向かって言うと、
「そのようなこと、気にせずともよろしいではありませんか」
 と笑ってごまかした。
「オクスさん、お代わりはいかが?」
 マリアが訊くと、
「もちろん頂きますよ。七日分食わねえと」
「まあ、この人ったら、ほほほ」
「ハッハッハッ、そう来るだろうと思って、今晩はマリアにたくさん用意させてあるよ」
「人が悪いや」
「アッハッハッ……」
 しばらく冗談で話が弾んでいたが、食事が済むとファントムが言いだした。
「そう、さっき訊こうとしてたこと」
「何だね?」
「ラムンテ大僧正から、ガブリエルの秘文の秘密をヴィ・ヨームさんに訊けって言われたんです」
「おや」
「私はお茶の用意をしましょう」
 食器を片づけていたマリアは、そう言って食堂から出て行った。
「秘文をご覧になったのですか?」
「ええ」
「大僧正はよほどあなた方のことがお気に入られたようですな」
「え?」
「あのような物、弟子にも誰一人として見せたことがありません。しかしあなた方に見せられたということは、大僧正はあなた方お二人に、大きな重荷を背負わされたわけです」
「大きな重荷?」
 その言葉に二人は身震いした。
「あれがもし世間に広まれば、大混乱となり、恐らく多くの人々が自棄になって悪の道へと走るでしょう。決して誰にも洩らしてはいけません」
 二人は頷いた。
「秘密はいずれお教えしましょう。それまではここに留まって、町を見物でもなさっていればよろしい。何か収穫があるかもしれませんよ」
 二人はそうすることにした。
「それで、秘密のことはいつ……?」
「時機が来れば」
「ヴィ・ヨームさん、あなたはガブリエルをご存知なんですか?」
「あまり知らぬ」
「あまりってことは……」
 その時マリアが茶の用意をして入って来た。その隙にヴィ・ヨームはすっと立ち上がり、食堂から出て行った。

 ファントムとオクスはそれから数日ほどヴィ・ヨーム邸に滞在していた。ある日、いつものようにチャカタンの町をぶらぶらしている時、オクスが言いだした。
「俺たちこのところ毎日、こんなふうに何もしないでお散歩ばっかりしてるけど、ほんとにこれでいいのかい? 大僧正に言われたことを何も実行してねえぜ」
「そうだな……。俺たちは重荷を背負わされたらしい。だけど先には進めない。ヴィ・ヨームが秘文の秘密を教えてくれない限り、俺たちは背負わされたその重荷を、どこへ運べばいいのかわからない」
 ファントムはじっと考え込んだ。
「全くだ。もしかすると、秘密なんか知らないんじゃねえか」
「いいや、知ってるはずだ、きっと。ガブリエルのことを言い出すと、あの人は必ず話をはぐらかす。何かとんでもない秘密なのかもしれないと、俺には思えるんだ。何となく、あの人は秘文の秘密を隠したがってるような気がしてならない、秘文の内容を知っている俺たちに対してさえも」
 二人はそのまま河畔の並木道に出た。川沿いをぶらぶら歩いていると、橋の袂に人が集まっているのが見えた。
「何だろう?」
 二人はそこへ行ってみた。
「こりゃおいらの勘じゃあ、ここもえれえことになるぜ」
「次はエトヴィクか?」
「それだけじゃねえんだ。オーヴァールがとうとうジンバジョー平原に侵攻するそうだ。何でも、スヴァンゲル川の向こうに軍を集結させているらしいぜ」
「そりゃ恐ろしいことになるに違いない」
 橋の袂に集まった人々は、そんなふうに噂し合って騒いでいた。
「おい、何の話だ?」
 オクスはわいわい騒いでいる町民たちの中に割って行って訊いてみた。
「大変だぜ。ダフネがビンライムに亡ぼされたんだ」
「ほう」
「ほうって、あんたちっとも驚いてないようだな」
「知ってたさ」
「何だ?」
「で、ビンライムも亡んだか?」
「何だって?」
「まだそこまでは知らねえのか?」
 噂し合っていた者たちは呆気に取られた。
「何言ってやがんだ。ビンライムがなんで亡ぶんだ。大将軍のディングスタってのがアルバを奪って、その後一夜でダフネを攻め陥としてしまう、女王は幽閉される。今やビンライムは旭日の勢いだぜ。それがなんで――」
「そのディングスタってのが謀反を起こして、ビンライムの王を追っ払っちまうってことになってるのさ」
「…………」
「まさか……」
「まあ、いずれわかるだろうよ」
 ファントムは慌ててオクスをそこから引きずり出した。
「あんまり先のことは言わない方がいいぞ。大混乱になったらどうするんだ」
「俺が知ってるのはそこまでさ。あのことは絶対に喋らねえよ」
「当たり前だ。口が裂けても黙ってろ」
「口が裂けちゃあ喋れねえぜ。しかしダフネが陥ちたって噂がここまで伝わって来てるんなら、もうディングスタは謀反を起こしてる頃だろうな」
「うん」
 ディングスタなら必ずもう謀反を起こしているに違いない、とファントムは思った。
「それにあいつらが言ってたが、オーヴァールが動き出したってことだぜ。こりゃきっと大変なことになるぞ」
「根も葉もない噂かもしれないぞ」
「もっと詳しく知りたいなあ。酒場にでも行ってみようぜ」
「そうするか」
 日暮れにはまだ遠いが、二人は町で一番大きな酒場まで足を伸ばしてみることにした。

 町一番の大きな酒場には、まだ満員とはいかないが、結構客が集まって来ていた。二人はカウンターへ行って腰掛けると、酒を注文した。酒場は案の定、ビンライムがダフネを攻め陥とした噂で持ちきりだ。
「よう、こん中に詳しいこと知ってる奴はいねえのかよ」
 オクスはみんなに聞こえるように大声を張り上げた。それを聞いて商人風の男が近寄って来た。
「わしはたまたまその時商用でダフネにいたが、そりゃあ凄いもんだった。ビンライムが兵をこぞって攻めて来てからは、毎日城の外の原っぱで戦ってたが、いつもダフネが劣勢になって、城の中に引き揚げて来た。それからは城壁で守るだけだ。
 そうしているうちに、ある夜、わしは寝入ってから、あまりの騒々しさに目を開けた。わしは怖いもの見たさに外に飛び出した。なんと、ビンライムが夜討ちをかけて、城壁の所で大攻防戦だ。ところがそいつはビンライムの陽動作戦だったとはな。誰も気づかなかった。何しろ王が攻めてるんだから。ダフネの兵はほとんどみんな城壁に集まっていた。
 ところがしばらくすると、モロトフ湖の方が明るくなった。王宮が燃えてたんだ。ビンライムは実は、城壁の防戦で守りが手薄になった王宮を、湖から攻めるつもりだったんだ。わしは慌てて湖へ走った。燃えてる、燃えてる。ダフネの水軍は、いつの間にか姿を現した大艦隊にあっと言う間にやられ、湖から王宮へ火箭がかけられていた。陸に揚がったビンライムの兵は、ドーッと王宮になだれ込み、あっと言う間に城を乗っ取ってしまった。
 女王様は人質に取られ、城壁の方に集まっていた兵士たちは戦意を失くし、結局降伏した。何とかっていう大将軍が――」
「ディングスタか?」
「そうそう、そのディングスタっていう大将軍、強いのなんの、次の日早速ディングスタの命令で、ダフネの主だった貴族は捕まえられ、牢屋に放り込まれたそうだ」
 そうやって噂話を聴いているところに、何者かが酒場の戸を開けて飛び込んで来た。
「大変、大変! 新情報が手に入ったぜ!」
 飛び込んで来た男は息を切らしながらも、慌てて喋ろうとした。
「一体どうしたって言うんだ?」
「新情報とやらを話してみろよ」
「そいつがえれえことになった。ビンライムが失くなっちまったんだ!」
「おお!」
 酒場にいた客はみんな驚きの声を上げ、その男のそばに集まって来た。
「今日、ビンライムから戻って来た奴から聞いたんだが、グローデングラップ王がダフネを降伏させて、ビンライムに帰ってみると、王城の留守を預かっていたグラヴィシュ候が突然叛旗を翻し、帰って来た王の軍を攻撃した。王軍はダフネとの戦いで二万二、三千に減っていたが、ダフネにも三分の一ほど残して行ったから、およそ一万五千。ビンライムの城に残ってたのは約半分の七、八千だが、疲れて城壁まで近づいて来た王軍をいきなり襲った。
 王は怒ってグラヴィシュ候の兵を攻撃したが、そうすると城側は城門を閉じてしまった。ところがだ、ダフネに残っているとばかり思われていたディングスタが、ダフネの降参兵を含めた大軍で王軍のすぐ後ろから追撃して来てたんだ。どうやら二人で謀叛を示し合わせてたみたいだな。王軍は挟み討ちに遇い、とうとう降伏。王軍の将軍、ターラン子爵は討ち死に。グローデングラップ王を初め、パーレル公やトレゾン候などの保守派は一網打尽にされ、残らず牢屋に入れられた」
「へえ、そりゃたまげた話だ」
 客たちは大騒ぎした。
「ところがだ、たまげるのはまだ早いぜ。まだ先がある。グラヴィシュ候とディングスタで領土分け取りかとなった時、グラヴィシュ候が急死した。何でも、毒殺されたらしい。もちろん殺ったのは大将軍ディングスタに決まってる。その証拠に、そのあとすぐに、捕らえられていた保守派の主だった者たちが一斉に処刑された、パーレル公、トレゾン候、プロベラ伯、カーソン伯……。そしてグローデングラップ王は国外追放。
 今やディングスタは大王だ。その領土は旧ビンライム、ダフネの他に、アルバとクヴァーヘンの二つの自由都市に至る。こりゃオーヴァールに匹敵する大領土だ。そして国名を自分の名を取ってピグニアと改め、絶えず彼を陰から支援してきたエルナリク伯を宰相としたんだ。他に執政官という要職を置いて、ことごとく急進改革派の連中で固めてしまった」
「宰相を置いたからには、自分が国王になったってわけだな?」
「いいや、自分では最高執政官だと言ってる」
 客たちは興奮してしまっていた。あちこちで言い争いも始まった。
「しかしアルバだけでなく、クヴァーヘンまで領土だと宣言したからには、エトヴィクも退き下がれないだろう?」
「トランツ王なんて、もうディングスタの相手にゃならないさ。ひたすら大国に媚びへつらうだろうよ。要はデロディア王につくか、ディングスタにつくかだな」
 男は一息にまくしたてた。客たちはそれを聞いてまたがやがやと騒ぎだした。
「どっちについたって、矢面に立たされるのは、俺たちエトヴィクの国民だぜ」
「あんなあくどいことして王に成り上がったトランツのためになんか、誰が死ねるかよ」
「災難だな、全く」
「全くだ。戦争にならないうちに、早いとこ移住してしまうか」
 ファントムとオクスは大騒ぎになった酒場を早々にあとにした。噂はもう町じゅうに広がりつつあるようで、通りでもあちこちに人が集まって、その話で持ちきりになっているようだ。
「さあ、いよいよ動かなくちゃならなくなったようだな」
 オクスが興奮してファントムに言った。
「でもたった二人で何をすればいいんだ? おまけに大変な事態だってわかってても、何をすべきなのかはまるでわからない」
「そう言われると困るな。俺だって実のところ、何をしていいかわかんねえんだ」
「とにかくヴィ・ヨームに訊いてみよう」
 二人はヴィ・ヨーム邸へと急いで帰った。

 屋敷に戻ってみると、マリアがちょうど夕食の支度を終えたところだった。しかしヴィ・ヨームの姿が見えない。
「今日はどちらへ?」
 マリアが二人に訊いた。
「またその辺をぶらぶらと。それよりヴィ・ヨームさんは?」
「今、用があって余所へ出かけてますわ」
「あの人が外出とは珍しい。例の扉を使って遠くまでですか?」
「ええ。でも行き先を言わないで行ってしまったの。でも今晩遅くには戻るって言ってましたから。さあ、お食事にしましょう」
 ヴィ・ヨームがいなくては仕方がないので、おとなしく待つことにして、ファントムとオクスは食事を始めた。
「でも、あなた方がいなくなってしまうと、また寂しくなるわ」
 マリアは溜息混じりに言った。
「え?」
 二人には何のことか見当がつかない。
「あら、ごめんなさい。主人から口止めされてるんだけど、うっかりしてつい先のことを言ってしまうの」
「じゃあ、俺たち、明日にはどっかへ旅に出るんですね?」
「ええ、タウにね」
「そう。じゃあ、いいんだ」
 ファントムは頷いたが、オクスが首を横に振った。
「しかし、目的を聞いとかないとな」
「目的なんか、当分は考えないことよ。未来なんて知らない方が幸せだわ」
 マリアの言葉に二人はびくっとした。
「そう言われると、何だかろくでもないことが起こるような気になってくるなあ」
 オクスがそう言うと、マリアは慌てて首を横に振った。
「ごめんなさい、そうじゃないの。あなた方個人のことじゃないのよ」
「まあ、考えないことにしよう」
「でも、明日でお別れなら、訊いておきたいんですけど」
 ファントムが思い詰めたようになってマリアの顔を見つめたので、
「何?」
「ずっと思ってたんだけど、ヴィ・ヨームさんて、一体何者なんですか? いえ、こんな言い方は変だけど、あの人はまるでこの世の人じゃないみたいに思えて、それで……」
「ほほほ、ヴィ・ヨームは普通の人ですわ。ただ、神様のお言葉を聞ける資格があるというだけのことよ。それと、特別な道具を持っているというだけ」
「あんな道具は一体どこから? やっぱり神様から?」
 それを聞くと、マリアはまた笑った。
「とんでもない。あれらは別の世界の物。別の世界ではごく普通の物です。例えばアポロニウスの扉、例えばソロモンの鏡、みんなファントムさん、あなたが以前にいらっしゃった世界の名がつけられているけど、出所はもう一つ別の世界」
「あのごろつきどもをやっつけた時の鏡の部屋も?」
 マリアはまた笑いだした。
「ホホホホ、あれは私のちょっとした悪戯よ。そうそう、あなた方はちょうどタウへ旅立たれることになるのですから、あの鏡像の術を掛けた小さな鏡を明日差し上げますわ、きっと必要になる時が来るから。
 他にもこの世界にいくつか、別の世界の品が隠れています。この世界では魔法の品物と呼ばれているけれど、本当は別の世界の品物。機会があれば探してごらんなさい。
 まずオデュッセウスの弓。これは弓引かれた者の運命を逆転させてしまう物。次にジークフリートの鎧。これはどんな衝撃にも耐え、力を何倍にもしてくれる鎧。それからカーンの角。これだけは使われないことを祈りたいのですけれど、もしこれの封印を解くと、カーンの角は空をどこまでも飛び、やがて地に墜ちた時には、その地にはもう何も残ってはいないという恐怖の仕掛けです。魔王ギースの封印と共に、決して解いてはならない封印の一つです」

 夜遅くなって、ヴィ・ヨームがいつの間にか戻っているのがわかった。ファントムとオクスは、ソロモンの鏡で見たことが事実となったことを述べ、是非とも未来を教えてくれとヴィ・ヨームにせがんだ。
「明日は俺たち、タウへ行くそうじゃないですか。それならどうしても今夜のうちに聞いておきたいんです」
 ファントムがそう言ってヴィ・ヨームに迫ると、
「マリアかね、余計なことを喋ったのは」
 と苦い顔をした。
「ええ。でもそんなことより、どうかお願いです。秘文の内容を知ってから、居ても立ってもいられないんです。何とかしなければって思うんですが、何をしていいか……」
「仕方がない。ではついて来なさい」
 ヴィ・ヨームは地下の秘儀の部屋へ行く。そうして、脇の部屋からソロモンの鏡を出してきた。
「秘文の内容を知ったからには、見るべきかもしれない。ではこれからお見せすることにしましょう。百聞は一見にしかず。目で見たことは否定のしようがないでしょう。しかし実のところ、私にも完全にはわからない」
「わからないって、あなたにもわからないことがあるんですか?」
 ファントムは意外だという顔をした。
「ある。そこで私は今日、神殿に託宣を受けに行って来ました」
「それで?」
「まあ、まず見てご覧なさい」
 そう言うと、ヴィ・ヨームは呪文を唱え始めた。ソロモンの鏡が明るく輝きだす。知らない町、知らない城、見たことのない風景が、次々に映っては消えていく。
「さあ、ここからだ」
 映像は昼間のものだったが、突然鏡の中の町が昼よりも明るくなった。と、見る間に外にいた人々が湯気を上げ、みるみるうちに消えて失くなった。強烈な暴風が吹いて、建物全てを破壊してしまう。町も城も畑も、一瞬にして全てが砂漠と成り果ててしまった。
 続いて海の景色が映った。穏やかな海が突如煮えたぎり、大津波が起こる。海辺の町に押し寄せた。町は激しく震動し、建物が次々に壊れていく。人々は崩れた建物の下敷きになった。その大きな町はあっと言う間に津波に呑まれてしまった。
 次には荒野が映った。からからに乾いた荒野の彼方から突如大水が出て、見ているうちに水浸しになる。その激流がやがて町や村を押し流して行った。人々はもがいたが、それも束の間、水の中に消えてしまった。
 山が噴火し、溶岩がどんどん流れ出す。麓の村や町がその溶岩に焼かれて炎を上げ、やがて呑み込まれてしまった。そのあとの世界は急に暗くなった。そしてその、人間も他の生き物も全ての物体が消え失せて、光も射さなくなった暗闇の世界に、黒い風だけが轟々と渦を巻いているのだった。
「…………」
「…………」
 ファントムもオクスも驚きのあまり、息をすることも忘れてしまいそうだった。
「未来がこの通りだと、人間に限らずこの世界そのものが、まさしく死に絶えてしまう。つまり根絶やしになる。ガブリエルがその秘文の中に、この世界の言葉を使ってただの一言だけ記した、『根絶やし』の奥底に秘められた恐ろしい意味が、これであなた方には嫌と言うほどよくおわかりになったでしょう」
「…………」
「…………」
「しかし、もう一つあるのだ。それも見てみたまえ」
 ヴィ・ヨームは再び呪文を唱えた。また鏡が輝きだした。今度もまた先程と同じ、滅ぶ前の平和な景色が映っている。すると、またもや空が昼よりも明るくなった。しかし今度はそのあとが違っていた。その日光よりも明るい光を浴びた人々は、先程のように蒸発はしなかったが、バタバタと倒れだした。それっきり動かなくなってしまう。
 ところが倒れたのは半数ほどで、残ったものは倒れるどころか、その光を浴びて、まるで至上の幸福を得たかのようなうっとりとした顔になり、光に向かってみんな微笑んでいるのだ。同じような光景が次々に映し出された。その現象は鏡で見る限り、どの町や村でも同じことだった。
「これは一体……?」
「そこだ、私にもわからないのは。これは明らかにあの秘文の内容――ガブリエルがこの世界の一部だけでも残したいと書いていたことと一致するが、なぜこの鏡に二通りの未来が映し出されるのか? このことだけが未定だとでもいうのか?
 そして、もしそうだとしたら、我々プレトの者たちは、ただただヨーデムの世界の者たちの気まぐれに、この身を委ねているしかないということか、まるで大海の真っ只中で嵐に遭った小さな釣舟が、櫂も失くし、舵も利かず、いつ見えるとも知れない救いの手がいつかは訪れると一縷の希望だけを持って、常に死と背中合わせのまま、荒れ狂う冷たい波間を漂うように……?」
 ヴィ・ヨームは俯いた。ファントムとオクスもじっと考え込んだ。しばらくしてファントムが自信なさそうに口を開いた。
「時期が違うのでは……?」
「それはあり得ない。見ての通り、どちらも元の場面は全く同じなのだ、顕れる人物の顔までが。時期が違うのなら、約半数の人間が二度滅び、残りが一度滅びることになってしまう。それはあり得ない。ほとんどの未来は予め定められているはずのものだが、これに関してだけは定まっていず、二通りの未来のどちらかが訪れて来ることになる」
「では、どちらが?」
「どちらが好ましいと思う?」
「そりゃああとの方がましに決まってますよ」
 オクスは当然のことだというように言ったが、ヴィ・ヨームは必ずしも頷きはしない。
「ではなぜあの光を浴びた者たちは、滅びる者と、喜びに溢れる者とに分かれるのだと思うかね? それがはっきりしなければ、一概に後者の場合が良いとばかりも言えまい」
「なぜって……」
「難しいなあ。大人と子供の違いでもなかったし、男女の違いでもない、老人と若者でもなければ、種族でもない、地域差でもないとすると、それじゃあ……、宗教かな? 信じている宗教?」
 ファントムは思いつくまま言ってみた。
「それも明らかに違っている。老若男女に関わらず、特定の種族のものでもなく、どの町や村においても、約半数だけが信者である宗教なんてあるかね?」
「ないな。じゃあ、何だろう?」
 オクスは頭を抱えた。
「それが私にもわからない。しかし、それが何であるかはともかくとして、後者の未来がやって来るなら、少なくとも根絶やしだけは避けられそうだ」
「それならまだいいんだけど……」
 ファントムも頭を抱えた。しかしヴィ・ヨームがわからないとはどういうことだろう。とにかく何でも構わないから、この預言者から聞き出さなければならないと彼は思った。
「ところで、その時期はいつなんですか?」
「わからない、残念ながら……。しかし、あの場面には私の知った顔もいくつかあった。今からさほど歳も取っていなかったから、近いうちだと言える」
 二人はギクッとした。
「近いうち? およそどれくらい?」
「十年もないだろう」
「十年もない!」
「そりゃ大変だ! とにかく早いとこ何とかしなくちゃ。ねえ、ヴィ・ヨームさん、俺たちの未来はどうなんですか? 俺たちは何をすれば……?」
 オクスが興奮して言った。しかしヴィ・ヨームは黙って目を閉じた。しばらくしてからまた目を開くと、落ち着いた口調で話し始めた。
「自分の未来など知らぬ方が良い。あなた方は自分の信じる通りに行動すれば良いのです。それは既におわかりのはずだ。そのためにあなた方をアウグステ寺院へ遣った。何をすべきかなのかもしだいにわかってくることでしょう、春の氷が融けだすように。
 まだまだ秘文は隠されている。それを見つけなさい。この世は渾沌だ、善悪の絡み合った。それがこれまで延々と続いてきた。決してどちらか一方になろうとはしなかった。しかし、どうやら神はそれを終わらせようというご意志をお持ちのようだ。そんな気がしてならない。
 この世に本当に純粋な者などいようか? 汚れなき魂の持ち主など、ただの一人でもいようか? 残念ながら一人もいまい。ならば神はこの世を根絶やしにされよう、老いも若きも、貧しき者も富める者も、健やかなる者も病める者も、悩める者も驕れる者も、分け隔てなく公平に。全てを純粋になるまで打ち砕かれよう、全てが物質の粒子へと還って行くまで……」
 ヴィ・ヨームは沈黙した。ファントムもオクスも、彼の言葉に底知れぬ恐怖を感じた。しかしそれと同時に、何となく腹が据わってきたような気にもなった。深い霧の彼方に、出口がおぼろげに見えてくるような気がした。ヴィ・ヨームは再び口を開いた。
「預言者とは孤独な者です。神が取るに足りない一人の人間に、自らのご意志をお示しになられる。それが人間にとってどんなに恐ろしいことであれ、理解者が現れるまで、私はその恐怖を心にじっと耐えていなければならない。常に秘密を隠し持って生きていかねばならない。それ故に預言者は、必ずしも神を誉め称えるだけの信仰家にはなり得ないのです。神の存在を信じているのではなく、知っているからです。そしてその神が、必ずしも生ある者に対して慈愛溢れる存在ではないということも――。まあ、それがどうであれ、あなた方はタウへ行けば良いでしょう。それがあなた方お二人の師が与えた次なる使命ですから」
「ジャバドゥ先生が?」
 二人は驚いた。
「そう。タウは今のところ戦火には遠い。かの地でオーヴァールとピグニアとの争いを傍観するのも良いでしょう。しかし、残された時間がわずかであることに変わりはない。何をすべきか、これまでのことをよく思い返し、じっくり考えてみなさい。タウへ行けば、まずこの人物を訪ねてみなさい。いろいろと知恵を貸してくれることでしょう」
 ヴィ・ヨームは一枚の紙片を差し出した。
「ベルモン通り、五番街、美術館前、ラーケン宅、ヴィットーリオ。何者です?」
「ヴィットーリオは、美術館で財宝の鑑定をして生計を立てている若い学者です。人物としてはさほどの者でもないけれど、非常に博識な若者だ。あなた方に不足している物を補ってくれるでしょう」

 翌日、ファントムとオクスはヴィ・ヨーム夫妻に別れを告げ、タウへ向けて旅立った。マリアが鏡像の術を掛けたという小さな丸い鏡をくれた。
「一度だけしか使えないから、絶体絶命の時にね。それからこれは旅でお使いなさい」
 と言って、金の入った革袋もくれた。
「お別れに、あなた方がこれから何をすべきかの助言だけはしておきましょう」
 ヴィ・ヨームは二人に言った。
「あくまでも助言。何をすべきかなどは、自分自身の決めることですから。決して他人に決めてもらうものではない。そこでだが、あなた方にはもう既に答が出ているはず」
「まだはっきりしませんが……」
 ファントムは目を伏せた。
「明らかなことだ。まず魂を清め、高めることに絶えず心を配りなさい。そうして、汚れなき魂となることです。これは慌ててもどうしようもない。そんな一朝一夕にでき上がるものではないからです。具体的に何をするかはご自身で見つけることです。ただ、心配せずともあちらへ行けば、自ずとやるべきことが現れてくることでしょう。つまり、あなた方の魂を高める修業が待ち受けているわけです。
 それよりも、焦って過ちを犯さないこと。ひたすら汚れなき魂のことだけを考えて、地道に生きることだ。大きなことなど考えずとも良いのです。その時が来れば、自然に時代があなた方お二人を必要とするでしょう。その時には、あなた方は嫌でも動かざるを得なくなる。それまではこの世を、そしてこの世の人間とはどんなものなのかを、じっと見つめることです」
 ファントムもオクスも頷いた。
「またお会いできるんでしょうか?」
「時が来れば、必ず。神はあなた方に、必要な人物との出会いを提供されることでしょう。では私からの餞別としてこれを――」
 ヴィ・ヨームは二人に、細かい文字が刻まれたエレクトラム(金と銀の合金)の小さな板を手渡した。
「これは?」
「プレトの護符です。この世界にいる限り、必ずプレトの神がお守り下さるはずです」
 二人は刻まれた文字を見てみた。
「全然読めない」
「その意味はいずれわかることでしょう」
 二人は護符を懐にしまった。
「最後に一つだけお聞きしたいんですが?」
 ファントムが言った。
「何でしょう?」
「昨日、奥さんが言ってたことを聞いて、あとから気がついたんですけど、マリアさんは、俺が別の世界から来たってことを知っていましたよね?」
「ええ。もちろんそれは夫から聞いたことですけれど」
「じゃあ、ヴィ・ヨームさん、もしかしてあなたは、俺の未来だけじゃなくて、過去もご存知なんじゃありませんか?」
 ヴィ・ヨームはそれには答えない。ただ、澄んだ瞳でファントムを見つめただけだ。ファントムは見つめられていると、それだけで、ヴィ・ヨームは知っているんだとわかった。が、なぜだかもう知らなくても構わないという気持ちになった。
「いえ、どっちでもいいんです。過去なんか……、わからなくたって……」
「残念ながら、お答えすることはできかねます。しかし、知らないことが望ましいと思います。なぜなら、あなたがこの世界で余計な過去を持っていないということが、これからこの世界を生き抜いていく強みになるからです。他の人間と違い、あなたは全く過去に囚われずに生きていけるのです。
 言わば、あなたは生まれてまだ間もない。しかし赤子としてではなく、いきなり一人前の体力と知恵と判断力と感受性を備えた若者として、この世界に生まれ出たのです。つまり、先入観に邪魔されることなく、かつ人並みの行動力を持って行動できるということです。これは何と言っても強みでしょう? 過去などというものは、あなたがいずれ元の世界に戻った時、自然に甦って来るでしょう。ただその時に、嬉しく思うか悲しく思うかは知りませんが」

 ファントムとオクスはチャカタンを出て、南サクレスト平原を旅する。数日してエトヴィクの都に着いた。エトヴィクに一泊して、翌朝宿を発ち、町の西門へ向かって歩いていると、子供たちがわいわい騒いでいた。見ると、髪を振り乱した女がわめいていた。
「何だ?」
 オクスは近くにいた男に訊いてみた。
「気違い女だよ。毎日おかしなことを言いながら、街中をうろつき回ってんだ。何かあって、頭がイカれちまったんだろう」
 男はそう言うとどこかへ去って行った。
「恐怖が来る! それが見えないのかい? ほら、すぐそこまでやって来てる!」
 狂女はそこらじゅうを指差して叫んでいる。
「あんたも、あんたも! 巻き込まれたら、もう逃げられない。何してるんだい、さっさとお逃げ! もうすぐやって来る。ぐずぐずしてると、みんな死んじまう! どうして逃げないんだい? そんなことしてるとあんたたちみんな、首のない屍さ」
 通りがかりの者はそれを聞いて笑っていた。

「どっちが気違いなんだろう?」
「ええ?」
 町の門を出るとファントムが言った。
「さっきの女のことさ」
「ああ」
「あの女には見えてたんだろうか? この世界の人たちの運命が……」
「さあね。でも俺たちは知ってるから、あながちあの気違い女のことを笑ってばかりもいられないよな」
「首のない屍か……。何だか不安だな」
「まあ、何とかなるさ。何とかしようぜ」
 オクスはファントムの肩を軽く叩いた。
 二人は南ジンバジョー平原の街道を、タウへ向かって歩いて行く。どこまでも平原が広がっている。陽が照りつける。
「暑いなあ、たまんねえぜ」
 オクスは汗を拭った。空を見上げると、大きな鳥が一羽、回りながら二人について来る。
「あの鳥……」
「鳥がどうした?」
「俺がこの世界にやって来た時にも、ずっとついて来たんだ」
「鳥なんかどこにでもいるさ。おまえは鳥の見分けがつくのかよ」
「いや……、気のせいだろ。きっと別の鳥だ。でもオクス――」
「何だ?」
「おまえは久しぶりに生まれ故郷に帰るんだなあ」
 オクスは少々躊躇いの表情を見せた。
「実はあんまり帰りたくないんだ。何しろいい思い出は何もないからな。でもしょうがねえよな、師匠から行けって言われたんだから。ヴィ・ヨームが言うにも、未来がそうなってるそうだから。でもタウは広いぜ。これから行くベルモン通り五番街なんて、俺の住んでた所からはかけ離れてて、俺はよく知らないんだ。まあ、昔の顔見知りには出会わないように、今のうちにプレトの神様にお祈りでもしておこうか」
「それがいいよ」
「ワハハハハ……」
「アハハハハ……」
 二人の笑い声が空高く飛んで行った。そこには大きな鳥が一羽、相変わらず空中にのんびりと弧を描いていた。





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