10． 闇 の 回 廊
「でも、どうしてわかってたんですか、俺たちが来たってことが？」
「あなた方は今日、私が予言をするということをお聞きになったでしょう」
「え、ええ」
「そんなことよりも、あなた方は旅で疲れていて空腹だ。食事を用意していますから、奥の間へ行ってお上がりなさい」
「ええ」
二人ともまだぼうっとしていて、言われるまま、奥の間へと彼について行った。
「どうぞ、席にお着き下さい」
落ち着いた雰囲気の部屋と調度品、装飾品、照明。決して贅を凝らしたという感じではない。むしろ質素と言った方が良いくらいだが、それでいて、これほど調和の取れた素敵な部屋があろうとは、とファントムは一見しただけで驚いた。
そうやって落ち着いた雰囲気に浸っていると、先程二人を邸内に招き入れた女が料理を運んで来た。
「これは私の妻のマリアです」
女がお辞儀した。
（優しい顔をしているなあ）
ヴィ・ヨームの妻のマリアの顔を改めて見て、二人とも心の底からそう感じた。
「あなた方のお名前は存じ上げておりますわ。ファントム様にオクス様」
「様なんて呼ばれると照れくさいや。そんなふうに呼ばれたのは初めてだ。それだけは頼むから勘弁してくれよ」
オクスは照れながら言った。
「どうぞ、お召し上がり下さい」
マリアは料理を二人の前に並べた。ヴィ・ヨームと自分の分も用意すると、四人は晩餐を始めた。決して贅沢な食事ではない。葡萄酒と、黒パンと、スープの中に何かいろいろと煮込んだ粥のような物と、肉みたいな物が少々あるだけ。だが長いこと、特にロクスルーからここまではあえて危険な道を取って来たため、人心地ついたことがなかったファントムとオクスは、久しぶりにほっとして心からくつろげた。なぜ見知らぬ者にこんなに親切にしてくれるのかという疑問は、この時の二人には全く浮かばなかった。ただ、マリアの作ってくれた手料理に満足しながら、二人は知らない間にはしゃぎだし、これまでの冒険のことをいろいろと夫妻に語って聞かせた。
ヴィ・ヨーム夫妻はただ微笑を浮かべ、二人の話を聴いていた。二人はこの日酒場でヴィ・ヨームが予言者だと聞かされた時は、何となくクヴァーヘンの死の商人のようなイメージを抱いていたが、実際に会ってみると、まるで違っていた。
「でも師匠のジャバドゥはあなたに会って、それから何をしろとは言いませんでした。一体何をすればいいんでしょう？」
話がこのチャカタンに来た目的のことになると、ファントムはそう言ってヴィ・ヨームに尋ねてみた。
「そのことは今のところ、何も気にする必要はありません。とりあえずあなた方はこの館に滞在していれば良いのです。いつか自ずとやるべきことがわかってくるでしょうから。それまではここでいろいろと見ておく物があります。今夜はこれからそれを少しだけお見せすることにしましょう」
食事が済むと、ヴィ・ヨームは二人を地下室へと連れて行った。灯りを点けて、扉を閉める。そこは少し小さめの部屋だった。壁にもう一つ扉がある。二人を腰掛けに座らせると、ヴィ・ヨームはその扉を開けて奥へと入って行った。それから台車の上に取りつけた大きな青銅の板のような物を引き出して来て、二人の前に据えた。その表面はガラスのように滑らかに磨かれていて、青銅のように鈍く光っている。表面の四隅から中央にかけて緩くたわみながら突出している。覗いてみると、ぼやーっと顔が映った。
「これは鏡ですか？」
「そう。これからこの鏡を見ていなさい」
二人は言われた通り、じっと鏡を見つめた。ヴィ・ヨームは二人の横にいて、何かの呪文を唱えた。それから鏡の下の方を触った。すると、鏡の表面がみるみるうちに明るくなり、ある風景が映った。
「あっ！」
ファントムもオクスも驚いた。どこかの町の風景だ。しばらく見ていると、人や馬車が通ったりする。映像の方も動いていく。
「う、動いてる。こ、こいつはアルバだ！」
オクスが思わず叫んだ。
「ほんとだ」
ファントムも興奮している。
「こいつはまるで、目ん玉だけがアルバに飛んで行っちまったみたいだぜ」
二人は食い入るように鏡を見つめた。画面上ではだんだん人通りが多くなってきた。どうやら町の中心部に向かっているようだ。広場の近くまで来ると、そこは人でごった返していた。
「何があるんだろう？」
広場には壇が築かれていて、その前で何人かの男たちが縛られていた。
「あっ、あの中に知ってる奴がいるぞ」
ファントムが指差した。
「誰だ？」
「確か……、そうだ、ディングスタの仲間だ。酒場で会ったことがある。あの中の三人は知ってるぞ。クラウプトとヘーシンとズコーティエだ」
そう言っていると、鏡の中では一人の男が壇上に上がった。
「ディングスタだっ！」
ファントムは思わず叫んだ。
「これは一体全体何ですか？ これから起こる予言ですか？」
「いや、今きみたちが見ているのは、昨日アルバで起こったことだ」
ヴィ・ヨームは静かに答えた。すると、今度は鏡から音が聞こえ始めた。
「おやおや、これまたぶったまげた。今度は耳までアルバへ飛んで行っちまったぜ」
ディングスタが演説を始める。二人はじっと見、じっと聴き入った。それはディングスタがビンライムの軍を率い、アルバの町を併合した日の映像だった。
ディングスタの演説をしばらく聴いていて、ファントムは愕然となった。やがて映像がスーっと消えた。
「なんて奴だ、あのディングスタって奴は！」
「どうしてだ？」
ファントムがなぜ怒っているのかオクスにはわからない。
「あそこに縛られていたのは全員、ガブリエルの書を盗み出した泥棒だって言ってたけど、ディングスタこそその張本人だぞ。俺はアルバにやって来た時、あいつに誘われて仲間に入りかけたんだ。だからあいつら全員が何をしようとしてたか、およそのことは知ってる。ディングスタが俺に、コラールを毒殺しろと言ってきたんだぞ。あいつは仲間を裏切って、それとも騙して利用して、自分だけいい子になってるんだ。
俺がもしドワロン先生に引き止められなかったら、俺だってあそこで縛られて、今この鏡に映っているとこだ。それに競技会のあった日にドットを使って自分が死んだことにして、統領を脅迫しているのも見た。今思えば全部芝居だったんだ。口ではもっともなことばかり言ってたけど、やってることは人でなしだ！」
ファントムはカッとなってまくしたてた。
「だけどアルバの町民は喜んでたぜ。言ってることはなかなかまともじゃないか。弱い者の味方をしようとしてるんだろ？
それにあんなゴミみたいな統領なんか、いなくなった方がいいぜ。俺は悪かねえと思うがなあ。だいたいあのスヴァルヒンまで手なずけてしまってるじゃねえか」
オクスはディングスタの演説に感心してしまったようだ。
「とんでもない！ 俺は今わかったぞ、スヴァルヒンはディングスタとグルだったってことが。アルバの人たちはディングスタが裏で何をしてるのか何も知らないんだ。あいつは町で人気を取るために、今までのことをさも正義のためみたいに言ってきた。でも本当の目的は、仲間を踏みつけにしてでも、自分が英雄になりたいというだけだったんだ。俺は奴のそういうところが許せない！」
ファントムは逆上してしまっている。
「許せないったって、じゃあどうすんだよ。アルバの四剣だって敵わないような五剣君の一人、俺だって敵わないぜ」
「敵わないとか、そんなこと問題じゃない。おいオクス、おまえらしくもないこと言うじゃないか」
「おまえこそ今日はどうかしてらあ。おまえらしくねえぜ」
二人が言い争いを始めると、
「アッハッハッハッ」
二人のやりとりを横で聴いていたヴィ・ヨームが笑い出した。
「早くもやることが出てきたみたいですね。しかしオクスの言うように、今出て行ったところであなた方は彼に敵わないでしょう。それどころか彼に指一本触れられないはずだ。結論を先に言ってしまえば、あなた方の出番はまだまだ、これからずっと先のことです。とは言っても理解できないでしょうから、もう少しお見せしましょう。今まで見てきたのは過去のことですが、これからは未来のことをお見せします」
そう言うと、ヴィ・ヨームは再び鏡の前で呪文を唱え始めた。また鏡が光りだし、映像が甦った。
今度も同じアルバの町のようだ。高級官僚が捕まって牢に入れられる。兵士たちが訓練されている。賄賂を遣った者が町の門前で首だけ出して生き埋めにされている。その反面、町は活気に溢れ、庶民たちは生業に励み、いかにも幸福そうだ。場面は次々に変わっていく。やがて平原で戦いが繰り広げられる。夜にたくさんの軍船から火箭が飛ばされ、城がめらめらと炎を上げた。
「あれはダフネの城だ」
続いて二人とも見たことがない城が顕れ、そこでディングスタが王らしき姿をした者を追放する。するとまた別の城が顕れ、戦が行われている。次にまたディングスタが登場し、多くの人々に囲まれて頭に冠を被せられる。そこでまた鏡は暗くなった。
「これは、まだまだディングスタが他の国を攻め亡ぼしていって、やがては王になるという意味ですか？」
ファントムがヴィ・ヨームに尋ねた。
「そう」
「じゃあ、その先は？」
「今はこれ以上知る必要はありません。あなた方は自分たちのすべきことをすれば良いのです」
「すべきこととは？」
「あなた方は今、一体何をしている最中なのですか？」
ヴィ・ヨームが意外なことを訊いてきたので二人は戸惑ったが、落ち着いて答える。
「剣術の修業中」
「そうでしょう。それならそれを続けることです。このあとのことは、いずれ必要となればお見せしましょう」
その日はもうそれまでということで、二人は寝室に案内された。
翌朝、朝食の用意ができると、マリアが二人を呼びに来た。朝食が済むと、ヴィ・ヨームが二人に言う。
「あなた方は、ともかく剣で生きようとしていますね？」
「ええ」
「ではその前に法を学ぶことをお勧めします。今日はもう未来がどんなふうになるかはあえてお見せしません。代わりに私からお勧めするのは、法を学ぶことです」
「法とは法律のことですか、この国の？」
ファントムが面食らって尋ねた。
「いいえ。法律などは法律学者にでも任せておけばよろしい。あなた方は人間の作った法律などに支配されるような、そんな低次元な方々では決してないはず。私の言う法とは不変のもので普遍のもの、国家が変わろうともこの世がある限り、あるいはこの世界が滅ぼうとも決して変わらない法、全ての者に当てはまる法、すなわち、この宇宙全体を司る法則のことです。その中から人間の真理をまず探り出すことです」
「そんなことが簡単にわかるんですか？」
ファントムは驚いた。一体自分たちにそんなことがわかるのだろうか？ ヴィ・ヨームは自分たちを買い被りすぎてはいないか？
「容易には体得できないでしょう。もちろん自然に身をもって知るのが何よりでしょうが、その体得の難しさに比べ、人の一生などあまりにも短いものです。かく言う私自身も決して体得しているわけではありませんが。私は預言者です。あくまで神がお示しになる前兆を受け、それではいかにすれば良いかを思索する者に過ぎません。私は特に修行を積み、人の道とは何かを追い求めてきたわけでもありません。ですから私があなた方に道を説くのではないのです」
ヴィ・ヨームは微笑を浮かべて答えた。
「じゃあ、誰が？」
「この世界には寺院はたくさんありますが、どの寺院もありがたいというものではありません。また僧侶もそれ以上にたくさんいますが、法を体得した者はさほどいないように思われます。いや、もしかすると一人もいないかもしれない。
そんな中で私がお勧めしたいのは、修行僧の本山であるアウグステ寺院であり、そこにいらっしゃるラムンテ大僧正です。あの方の下へ行き、まず道をお訊きなさい。もちろん、ちょっと聞いただけでは納得できないこともあるでしょうが、きっとわかり易く教えてくれるでしょう。
あの方はそういう道を追求することのみに一生を傾けていらっしゃるお方たちの中でも、最高峰と言える偉い僧侶です。まず道を尋ねてみることによって、少なくともこの世で生きるための参考にはなるでしょう。法を知ることは人間誰にでも必要なことです。剣士であろうと、預言者であろうと、誰であろうと同じこと。まず人間の法を知り、その上で天から与えられた自分の使命に目醒め、迷わずそれを行っていけば良いのです」
ヴィ・ヨームはファントムとオクスをある部屋へと連れて行った。
「とは言っても、アウグステ寺院はプラクシー山地の奥深くにあり、あまりにも遠く、そこに至る道は険しすぎます。ですから私が時間を節約してあげましょう」
ヴィ・ヨームは部屋の向こうの半開きになった扉を指差した。朝なのに扉の向こうは真っ暗だ。
「さあ、あの扉から出なさい。一瞬にしてアウグステ寺院へ行けます。用が済みしだい、またここに戻って来なさい。出た所から入れば、また一瞬にしてここに帰って来れます」
「いろいろと魔法の品があるんですね」
「私は決して魔法使いではない。ただ、いくつかの別世界の道具を持っているだけです。そのことについては、あなた方が帰られてからまたお話しましょう」
二人は扉の前に立った。扉の向こうには全く光というものがない。暗闇がどこまでも広がっていて、果てがないような気がする。
「さあ、恐れずに飛び込みなさい」
二人は順番に、思い切って扉の向こうへと飛び込んだ。
暗闇に体がふわっと浮かんだと思ったら、狭くて薄暗い部屋の中で倒れていた。
「いてっ！」
オクスが起き上がろうとして、天井に頭をぶつけた。小さな土の戸があり、隙間から光が漏れている。ファントムはその戸を押してみた。何とか開きそうだ。力を込めてぐいぐい押す。戸は少しずつ開いた。上から埃が降って来た。
戸の向こうにはもう少し広い部屋があった。上の方にある小さな窓から、日の光が射し込んでいる。その下で頭を丸めた僧侶らしき人物が、壁に向き合って座っていた。二人は狭い出口を通り、穴蔵のような部屋から出た。座っている僧は身動き一つしない。
「あのう、ここはアウグステ寺院ですか？」
僧は体をくるりと二人の方に向けた。
「そこから出て来たということは、ヴィ・ヨーム殿の所からいらしたな」
「そうです。そう言うあなたはラムンテ大僧正ですか？」
「いかにも」
小柄で何の変哲もない僧侶だ。身には粗末な黒い僧衣をまとっているだけ。
「それで、ご用は何ですかな？」
「法を教えてもらいに来ました」
「ほう」
僧侶は二人を代わる代わる見た。
「よろしい。では、あなた方お二人に相応しい法をお教えしましょう。そのためにはまず、あなた方がどのような本性をしているのか見させてもらいますよ」
そう言うと、僧侶は窓から下がっている紐を引いた。外で鈴が鳴っているのが聞こえる。しばらくすると、戸を開けて僧が二人、部屋に入って来て控えた。
「この方々を、闇の回廊へ案内して差し上げなさい」
二人の僧侶はお辞儀して、
「どうぞこちらへ」
と二人に言い、立ち上がった。ファントムとオクスは僧侶たちについて部屋を出た。僧侶たちは長い石畳の廊下を歩いて行く。周囲にはプラクシーの高い山々が聳え立ち、所々に万年雪が残っているのが見られる。風は乾いて冷たい。木々の間を鳥が飛び交い、盛んにさえずっている。
延々と廊下を歩いたあと、前方に洞穴が見えた。僧侶たちは入口で松明に火を点け、洞穴の中へと入って行く。二人は付き従った。
洞穴の中はひんやりとしていた。時々天井から地下水の滴が落ちて来る。洞穴の中はかなり急な上りになっていて、くねくねと曲がっていた。やがて僧侶たちが立ち止まった。遥か上の方に青空が見え、少し明るい、大きな火口のような所に出た。
二人の僧侶はファントムとオクスの方を向いて言う。
「この山を取り巻くように、闇の回廊がつながっています。これは私ども修行僧が必ず通らなければならない修行場の一つですが、私どもがここに入る前に言われた注意を、ここであなた方お二人に申し述べておきます。ここでは主に人間の欲望が試されるのです。ですから欲はできるだけ抑えること。これだけがあなた方の注意しなければならないことです。常に平常心を保つこと。あなた方ならきっとやり遂げることができましょう」
「では、あの鉄の扉を開いて入って行きなさい。部屋は十二あります。先へ先へと進んで行くだけで良いのです。それでは、私どもは戻ります」
二人の僧侶は合掌したあと、元来た道を引き返して行った。オクスは鉄の扉に歩み寄った。
「本当に入って行くか？」
「ここまで来ちゃ、しょうがないだろう」
「何だか気味が悪いんだよな、こんな山奥にこんな物こしらえて。もしもあいつらが、俺たちを捕まえて食っちまう気だったらどうする？
あいつらが妖怪だったら？」
「まさか。いくら何でもそんなことはないだろう」
「でも用心するに越したことはねえだろう。それに、武器も何にも持って来ちゃいないんだぜ」
オクスは自分の腰に手をやってみせた。
「そうだな。剣ぐらい持って来れば良かったかなあ」
「何だかインチキ臭いとは思わねえか？ 話ができすぎてる。俺たちが来たら、待ってましたとばかりに用意ができてんだから」
「どっちにしたって先へ行くしかないみたいだ。早く入って、早く出てしまおう」
「そうだな。運命だと思って諦めるか」
オクスは錆びた鉄の扉を引き開けた。
第一の部屋の中に入ってみると、そこには篝火が所々に焚かれていたが、薄暗く、岩があちこちにたくさんあって、先がよく見えない。鼠が走り回っていた。足元に気をつけながら進んで行くと、壁の窪みで何かが動いているのを見つけた。
「何かいるぞ」
二人はその方に目を凝らしてじっと見てみた。するとそこから何かが這い出して来た。
「乞食か？」
それはどうやら人間のようで、ぼろぼろの汚れた布を体に巻きつけていた。顔は癩病のためか、爛れている。そいつが這って二人の前に出て来た。
「こんな所で何してるんだ？」
オクスは乞食に訊いてみた。
「お恵みを……」
乞食はオクスの足に取りすがってきた。
「お恵みをったって、俺たちゃ何も食うもんは持って来ちゃいねえぜ。金もないし」
「こんな所でどうやって生きてるんだ？ なぜこんな所にいるんだ？」
「私は罰を受けた僧です。ここで鼠や虫を食って、生き長らえています」
「こんなとこにいて、よく気が変にならないなあ」
「それにしても偉そうなこと言いながら、あの坊主ども、結構ひどいことしてるじゃねえか、こんなとこに閉じ込めて。よし、おまえをここから助け出してやるぜ」
オクスは乞食を引っ張って入口の方に戻った。しかし入って来た時の鉄の扉は見当たらない。
「おかしいなあ。確かにこの辺りだったんだが……」
「この闇の回廊は、後戻りできないのです。先へ行くしかありません」
乞食が言う。
「そうか。じゃあ先へ行こう。どうせ部屋数は十二しかないんだから、知れてらあ。今日のうちに出してやるよ」
ファントムとオクスは乞食を伴って先へと進んだ。しかし乞食があまりによろよろしているので、オクスがおぶってやることにした。薄暗い岩の間を通って行くと、やがて鉄の扉が見つかった。今度はファントムが扉を引き開けた。向こうには薄暗い石畳の廊下が闇の中へと続いていた。この廊下がやたらに長い。
そうやって進んで行くと、篝火が焚かれている所にやっと鉄の扉が見えた。ファントムはまた力を込めて扉を引き開けた。扉が開くと、眩しい光が射し込んで来た。
「何だ？」
三人はその中に入ってみた。明るい大きな部屋だ。
「おい、すげえぜ」
オクスが感嘆の声を上げた。その大きな部屋には、床いっぱいに金銀財宝が山のように積まれていた。
「こんなにたくさんの宝物は見たことがねえ。あの坊主ども、こんな山奥にこんなに貯め込んでやがったのか。したたかな奴らだぜ、全く」
オクスは金の延べ棒を手に取った。
「待て待て。さっき言われただろう、欲を出すなって」
「そんなこと信じるのかよ。あいつら、これを奪られたくないからそんなこと言ったんだぜ、きっと」
「どっちにしたって、触らない方が無難だろ。そもそも俺たちはこんな物探しに来たんじゃないぞ」
「まあ、そうだな。やめとくか。あんた要るかい？」
オクスは背中の乞食に金の延べ棒を差し出した。
「そんな、滅相もない。助けて下さるだけで私は充分でございます」
「そうかい。あんたも欲がねえなあ。じゃ、涙を呑んでお宝は諦めるか」
オクスは金の延べ棒を宝の山の上に放り投げた。部屋には左手に鉄の扉がある。ファントムが扉を引き開けた。向こうにはまた暗い石畳の廊下が延々と続いている。廊下を歩いていると、どこからともなく気味の悪い悲鳴が聞こえてきた。
第三の部屋に辿り着き、鉄の扉を開ける。この部屋はまた暗くなっていた。でこぼこした地面に気をつけながら進んで行くと、左手の入り組んだ所が明るくなっていて、どうやらそこから悲鳴がしているようだった。ファントムとオクスはそっと岩陰から覗いてみた。そこには角を生やした鬼が三匹いて、上から鎖で吊るした人間をいたぶっている。見ていると、棍棒で撲ったり、手足に釘を打ちつけたりしているようだ。その度に吊るされた男は悲鳴を上げた。
「助けるか？」
「でもどうやって？ 武器もないぞ。せめて短剣ぐらい持って来りゃ良かった」
ファントムは辺りを見回し、足元から手頃な岩を拾い上げた。
「これでやろう」
「よし」
「鬼たちは向こうを向いているし、あの男を痛めつけるのに夢中だから、後ろからガンとやるのはいいんだけど、ただ、相手は三匹だ」
「とにかく二匹を一発で倒して、もう一匹はその時のことだ。とにかく行こう」
乞食をその場に残し、二人は岩を抱えて鬼たちに忍び寄った。さあやるぞという時に、どうしたことか、鬼の一匹が振り返った。
「何だ、おまえら！」
他の二匹も振り返ろうとした。ファントムとオクスは咄嗟に、それぞれ二匹の頭に岩を打ちつけた。不意を衝かれた二匹は気を失って倒れた。しかし残った一匹が近くに置いてあった鎚矛を素早く手に取り、打ちかかってきた。二人は危ういところで身を交わした。鬼は鎚矛をビュンビュン振り回した。それが岩に当たる度に、岩が砕け散った。
「やい、この馬鹿力だけのうすのろの畜生め。悔しかったら当ててみろ」
オクスが鬼を罵った。鬼は怒ってオクス一人に狙いをつけ、鎚矛を打ち下ろした。ガッ、と岩が砕け飛ぶ。その瞬間を逃さず、オクスは両手で鬼の鎚矛を引っつかんだ。あとは押し合いだ。しかし、オクスも怪力だが、何しろ鬼の馬鹿力はとてつもない。オクスが押され気味になってきた。
ファントムはその隙に鬼の背後をすり抜けた。倒れている鬼の所へ行き、棍棒を引ったくる。再び鬼の背後まで来ると、大きく反動をつけ、鬼の後頭部を棍棒で思いっきり撲りつけた。バキッ、と太い棍棒が折れてしまった。だがさすがの鬼も気を失い、その場に倒れてしまった。二人はほっとすると、その場に座り込んでしまった。
「いやあ、危なかったぜ。もうちょっとおまえが遅れてたら、この俺の頭が砕けてたところだった」
「遅れてすまん」
二人は冷や汗を拭った。
「素手で怪物相手は辛いなあ」
「ああ、限界があるよ」
オクスは倒れている鬼の鎚矛を奪い取った。二人は立ち上がると、吊るされている男の鎖を解いてやった。体じゅう痣だらけ、釘も何本か手足に打たれて、血を流している。
「おい、大丈夫か？ 口はきけるか？」
男は何とか息をしているが、口をきくほど元気はなさそうだ。ファントムは懐に手を入れ、テミルでドワーフの老婆からもらった塗り薬を取り出し、男の傷口に塗ってやった。
「さあ、早いとこ逃げ出そうぜ。こいつらが気がつくと厄介だ」
ファントムがその男を背負ってやり、先へ進むことにした。
出口の扉を開けると、また暗い石畳の廊下が続く。その先にまた鉄の扉。それを開けると、今度は明るい部屋だった。
「さあ、今度は何だ。キマイラか、ドラゴンか！」
オクスが声を張り上げた。ところがそこにいたのは素っ裸の女たちだった。女たちはファントムとオクスを認め、近づいて来た。二人は呆気に取られて立ちすくんだ。
「あらまあ、若くていい男が二人もやって来たわ！」
美女たちは一糸まとわぬ裸体のまま、二人に擦り寄って来ては、体のあちこちを撫で始めた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。きみたちは一体全体、こんな洞穴の中で何してるんだ？」
「そ、そうさ。それも女ばっかり、そんなはしたない恰好でさ。あはははは」
「そんなこと気にしなくていいじゃない。さあ、いらっしゃいよ。あたしたちと楽しみましょう。美味しいお酒もあるわよ」
女たちは二人の肌を唇で撫でたり、胸を押しつけてきたりする。
「お、おい……」
「ど、どうする？ このままじゃあ、たまんねえぜ」
オクスは背負っている乞食を放り出しそうになった。
「駄目だ、駄目だ！ ほら、欲を出すなって言われただろう？」
「だけどこんなことされちゃあなあ。まともな男なら誰だって我慢できねえぜ。」
「いいか、こいつは罠だ。冷静になって考えてみろよ。こんな所に女だけで暮らしてるなんて、おかしいだろう。こんな地の底に……、変だと思わないか？
もしかしたら、こいつらは妖怪か亡霊かもしれないぞ」
ファントムはまるで自分に言い聞かせるように言った。
「そうかなあ」
「抱いたら最期だ。骸骨か何かに変わって、血を一滴残らず吸い尽くされてしまうに違いない」
「あら、そうかしら？ 言ってることと、こっちの方とが食い違ってやしない？」
「おいっ、そんなとこ触るなっ！」
ファントムは女たちを振りほどいて、傷ついた男を背負ったままどんどん前へ進んだ。
「おい、ここの出口はどっちだ？」
「ここは朝に一度開くだけよ。だからあなたたちは、嫌でも今日、ここに泊まらなくちゃいけないのよぉ」
また女たちが擦り寄って来る。
「そんなわけあるもんか！」
ファントムは壁という壁を叩き回った。
「ああ」
二人ともしゃがみ込んでしまった。
結局、その部屋で二人はじっと待たされることになってしまった。女たちは二人に酒や果物をどんどん持って来る。
「なあ、とりあえず酒だけでも頂こうぜ」
「駄目だ！ 酒なんか飲んでみろ、眠り薬か何かが入っていて、それっきりになってしまうぞ。とにかく明日の朝、扉が現れるまで何も考えるな」
それでも女たちは二人の服を脱がそうとしたり、体の上に乗っかって来たり、大事な部分を目の前にチラつかせたりしてくる。二人は立ち上がった。
「目を瞑ってればいいんだ」
ファントムとオクスは立ったまま目を瞑った。すると今度は、女たちは悩ましい呻き声を出して二人に抱きついてきた。ちょっと目を開けて覗くと、女同士で抱き合い、悶え合っている。
「耳も塞ごう」
二人は壁の方を向いて目を瞑り、両手で耳を塞いだ。
「走ろう」
二人揃って部屋の中を走り回る。大声を上げたり、歌を歌ったりした。そうやっていつまでも扉が現れるのを待った。
「寝ちゃ駄目だ。寝ちゃおしまいだ。犯されるぞー！」
「犯されたいよー、畜生！」
二人は翌朝が来るのをひたすら待った。しかし洞窟の中だし、この部屋はいつまでも明るいし、女たちは全く眠らないでいつまでもへばりついてくるしで、一体今がいつ頃なのか、全く見当がつかない。
そうしているうちに頭がぼーっとしてきた。ふと気がつくと、目の前の壁に鉄の扉が現れていた。ファントムは慌てて扉を引き開けた。まだぼーっとしているオクスを促して、傷ついた男と乞食をそれぞれ背負い、出口から飛び出した。
「だけど、ちょっとばかしもったいなかったなあ。あんないい女が七人も八人も……、滅多にお目に掛かれねえぜ。いや、一生お目に掛かれねえかもな」
「夢だ、夢……、幻だ」
二人は暗い石畳を進んで行く。声が回廊の中で反響し、消えて行った。何だか妙に腹が減ってきた。
突き当たりの扉を開くとまた明るい部屋だった。いい匂いが漂ってくる。部屋には大きなテーブルがいくつもあり、そのどれにも贅沢極まりないご馳走が山ほど並んでいた。
「こいつはありがてえ。ちょうど腹ぺこだったんだ」
オクスが料理に飛びつこうとした。
「待て待て」
「なんだい、おまえはいつだって、待て待てと俺のすることを止めやがる。いいか、俺たちゃ別に坊さんになりにここに来たわけじゃねえぜ。何が禁欲だ！
禁欲して人間偉くなれりゃあ世話ねえや！」
そう言って料理にかぶりつこうとするオクスをファントムが押さえつけた。
「おい、ここまでせっかく我慢してきて、ここでこいつに手を出しちゃあ、何にもならないじゃないか。いいか、よく聴けよ」
「なんだい？ 説教する気かよ」
「山ほどの宝、素っ裸の美女たち、ありあまるご馳走、こんな旨い話がただでこの世にあると思うか？
一体これだけたくさんの料理を誰が食べるんだ？ 話ができすぎてる。女ばかりがあんな穴の中に閉じ籠もってたり、宝の山がほったらかしになってたり、現実にあるはずがない。夢だ」
オクスはそれでも納得したがらない。
「夢とは思えないがなあ。それじゃあ、俺もおまえもおんなじ夢を見てるのか？
そいつは変だ。やっぱり夢じゃない」
「夢じゃなければ幻覚だ。大僧正が見させてるのさ。それが俺たちを試してか、何か他に企んでかはわからないけど、なんで山寺にこんなことが起こるんだ？
これは幻術だ。手を出したら、あとでただの笑い者にされるだけさ。笑い者になりたいか？」
「まあ、そう言われてみりゃあ、そうかもしれないな」
そう言いながらオクスがふと見ると、横に大きな樽が置いてあった。蓋を取ってみる。上等な酒の香りが広がった。
「うわあ、こんなに酒が！」
ファントムは慌てて樽に蓋をした。
「要するに、俺たちが欲しがってる物がみんな幻となって出て来るのさ」
「そうかなあ？」
「そうさ。それより早くこの人たちをここから出して、手当てでもしてやった方がいいんじゃないか？」
「そりゃそうだとも。おまえの言う通りにするよ」
二人は向かって左手の壁にある扉へと急いだ。
扉を開け、長い廊下を通り、また扉を開ける。六番目の部屋に来た。ここは薄暗く、部屋と言うよりも洞窟だ。所々にある篝火の光で見ると、岩が点在していて、その間に丸太が架けられ、橋の代わりをしている。底が深く、水の流れる音がする。
「気をつけろよ。落ちたら怪我するぞ」
二人が男を背負いながらそろそろと進んで行くと、下の方で人の呻き声がした。二人は立ち止まって耳を澄ましてみた。
「この下に誰かいるぞ」
下を覗いてみたが、暗くてよくわからない。
「下りてみよう」
ファントムとオクスは怪我人と乞食を岩の上に残し、岩を伝って下に下りてみた。
「誰かいるのか？ どこだ？」
「ここだ……」
今にも絶えてしまいそうな弱々しい返事が返って来た。二人は声を頼りにその辺りを捜した。すると、岩陰の浅瀬に男が一人で浸かったままじっとしていた。
「おい、どうしたんだ？」
「動けるか？」
「ああ、動けるさ。だけど動けないんだ」
「どうしたんだ？」
「頼むからこの足枷を外してくれ。ここは冷たくて敵わない」
二人は水に入ってそっちへ行ってみた。
「なんでこんな所につながれてるんだ？」
「待ってろよ」
オクスは鬼から奪った鎚矛を腰から引き抜き、足枷が取りつけられている岩を叩いて打ち砕いた。
「こっちも頼む」
手の方も水を挟んだ岩に手枷で留められている。オクスはそっちの岩も鎚矛で打ち砕いてやった。
「助かった。ありがとう」
「誰にこんな目に遇わされたんだ？ 鬼どもか？」
「鬼と言えば鬼だ」
「？」
男はびしょ濡れだ。
「とにかくここから出よう。歩けるか？」
「歩けるとも」
ファントムとオクスは岩を這い登り、乞食と傷ついた男を背負って岩を渡って行く。つながれていた男はあとからついて来た。やっとのことで出口に辿り着き、鉄の扉を開けた。今度は石畳の廊下はなく、そこには下の方に川が流れていて、吊り橋が闇の彼方へと続いている。三人は揺れる吊り橋をゆっくりゆっくり渡って行った。
「どうしてあんたはこんな所に入り込んで、鬼なんかに捕まったんだ？」
途中でファントムがつながれていた男に尋ねた。
「俺はアウグステ寺院に修行のため入門したんだが、大変な秘密を知ってしまって、逃げ出そうとした。ところがこの回廊に入り込んでしまったのが運の尽き。たちまち僧侶どもに捕まり、あんなふうにひどい目に遭わされたんだ」
「僧侶がどうしてそんなことを？ 大変な秘密って何だ？」
ファントムは男の意外な言葉に驚いた。
「いいかい。あんたたち何も知らないみたいだから教えてやろう。どうしてこんなとこにやって来たのか知らないが、あんたたちは今、とんでもない所にいるんだぞ。ここはな、闇の回廊といって――」
「知ってるよ」
「いやいや、闇の回廊っていうのは、簡単に言うと牢獄だ。あの大僧正のラムンテの正体を知らないだろ？」
「正体？」
二人は男の言葉にギクッとした。
「そうさ。聞いて驚くな。あいつは悪魔の化身だ。昔、シャーデン高原やサクレスト平原を荒らし回っていた、大魔王のギースだ」
「魔王ギース……、知ってる。確かガブリエルとフオクがアウグステ寺院に封じ込めたと聞いたけど」
「その魔王ギースさ。何かの拍子に封印が解けて、魔王は再び現れたのさ」
「何だって！」
二人とも腰が抜けるほど驚いた。
「とんでもない所に来ちまったぜ。あのヴィ・ヨームに会わなけりゃ、こんなことにはならなかったろうに」
オクスがぼやいた。
「それじゃあ、ジャバドゥも……」
「つまりそういうことさ。ジャバドゥ、ヴィ・ヨーム、ギース、みんなグルだったんだ」
ファントムにはにわかには信じられなかった。
「まさか……。それとも、第一の修業がギースを倒すことだったんだろうか？」
「冗談じゃないぜ。山賊たちはゴブリンで、俺たちは悪魔が相手かよ。ひどい差だ。悪魔なんて死なないんだぜ。生身の人間が相手できるかよ。とにかく信じられるのは自分だけ、易々と他人なんか信じるなってことさ。これだけは勉強になった。さあ、早いとこ逃げ出そうぜ。ジャバドゥも言ってただろう、敵わない相手なら逃げろって」
吊り橋の端まで来て扉を開けた。そこは一面、氷の世界だった。出口を捜したが、ない。
「こりゃやばい。このままだと凍え死んじまうぜ」
入口も消えてしまっているようだ。何しろ壁も床も氷で、出口が見分けられない。
「どうすりゃいいんだ」
オクスは壁の氷を片っ端から鎚矛で撲りつけた。
「寒いよう」
つながれていた男が震え声を出す。
「水に濡れてるからだ。これを着ろ」
ファントムは上着を脱いで男に渡した。
「じっとしてないで、体を動かした方がいいぞ。そうだ、お互いに体をこすり合うんだ」
「畜生、出口が見つからねえ。毛皮ぐらい着てくりゃ良かったよ」
オクスは氷を割るのをやめてしまった。
「でもここには灯もないのに、どうして薄明るいんだろう？」
ファントムは天井を見上げた。上も氷に覆われているが、何となく天井の氷が明るい。
「もしかすると、あの向こうが出口かもしれないぞ」
オクスも天井を見上げた。
「よし、天井に穴を空けよう」
「でもどうやって？ 高すぎて届かないぜ。つるつるの氷の壁を這い上がるか？」
ファントムは辺りを見回した。
「氷だ！ 氷を割って、積み上げよう」
「よし来た」
オクスは再び鎚矛で氷を割り始めた。ファントムとつながれていた男が氷を積む。
「あんまり細かく砕くなよ。積むのが面倒になるから」
「わかってるさ。だけど氷に言ってくれ。どんな割れ方するかなんて、俺にわかるはずがないだろ」
やがて氷の山が築かれると、オクスがその上に上がり、ファントムを肩の上に乗せた。
「よし、早いとこ穴を空けちまえ。寒くて敵わん」
オクスがファントムに鎚矛を手渡す。
「ちょっと待ってくれ。氷を触ったんで、手がかじかんで動かないんだ」
「何でもいいからさっさとやっちまえよ」
ファントムは鎚矛で天井の氷に穴を空け始めた。
「あんまり揺するなよ。こっちの足元はつるつるとよく滑るんだから」
「わかってるよ」
「そうがんがんやるなよ。でっかいかけらがぶつかって、痛いじゃねえか」
「一々うるさいぞ」
そうしているうちに穴がだんだん大きくなってきた。
「あと少しだ。明るくなってきたぞ」
ファントムは勢いよく鎚矛を氷にぶつけた。
「うわあっ！」
氷がいっぺんに割れて、かけらがどかっと落ちて来た。オクスはバランスを失い、氷の山から転げ落ちた。
「いてててて……」
「おまえが慌ててぶっ壊すからだぞ。いてててっ……」
オクスは自分の上着を裂いて綱にした。もう一度氷の山に上がり、ファントムを肩の上に乗せた。
「どうだ、出られそうか？」
ファントムは綱を持って氷の上に這い出た。
「大丈夫だ。出られるぞ」
「よし、上げるぞ」
「ちょっと待った。ここじゃ踏ん張りが利かない。今、綱を岩に縛りつけるから、ちょっと待て」
まず傷ついた男を綱で結わえ、オクスが押し上げる、ファントムが引き上げる。続いて乞食、つながれていた男と上げて行って、最後にオクスが綱につかまり、傷ついた男を除いた三人で引き上げた。
一行はどんどん先へ進んだ。やがて八番目の部屋に着く。扉を開けた途端、中から熱風が噴き出してきた。
「うわあ！」
中を覗くと、入口から細い石の橋が上下にうねり、左右に曲がりながら続いている。その下には真っ赤な溶岩が流れていて、所々で炎を噴き上げていた。
「参ったな。こりゃ地獄だぜ」
「でも、行くしかないだろ」
二人は覚悟を決めた。
「あーあ、同じくたばるなら、美女の部屋で女に囲まれ、酒に溺れながらあの世へ行きたかったぜ。こんな地獄の業火に焼かれる羽目になるとはな」
「そうぼやくなよ。やってみないとわからないだろ」
ファントムとオクスはそれぞれ、傷ついた男と乞食を背負い直した。オクスが乞食を背負って先頭を行く。
「慎重に行くんだぞ。急ぐな」
「急ぎたくても、足がすくんで急げないよ」
「しかし暑いなあ」
「下は溶岩なんだから当たり前だろ。でもなんでこの橋は溶けないんだ」
「真冬の次は真夏、一体どうなってんだよ」
みんな汗をだらだら流しながら進んだ。足元の石が熱せられていて、靴が焼けそうに熱くなってくる。
「なんでこんな目に遇わなきゃならないんだよお」
その時、後ろで悲鳴が上がった。二人は咄嗟に振り返った。あとからついて来ていたつながれていた男が、橋の上で炎を上げて燃えながら泣き叫んでいる。
「あっ！」
ファントムは男の方に片手を伸ばした。
「馬鹿野郎っ！」
オクスが片手でファントムをつかんだ。
「もう助からない。火が燃え移っちまうぞ」
男は炎に包まれ、悶え苦しみながら溶岩の上に転落して行った。二人は顔を背けた。
「俺たちにはどうしようもない。あいつの運命だ。もう忘れろ」
二人は諦めて先へ進んだ。橋は左の方へ折れていく。やがて扉が見えた。ところが扉の前で橋が途絶えていた。下を見ると、溶岩が炎を噴き上げている。扉の前にはやっと足が載せられる程度の余地しかない。
「なんてこった、やっとここまで来たっていうのに……」
ファントムは何か良い方法はないかと考えてみた。
「どうした、今度ばかりは、さすがのおまえさんにも名案は浮かばないか？」
ファントムはがっくり肩を落とした。
「一か八かで飛び移るしかないな……」
「そうだろう。なあに、大したことないさ。たかが両腕を伸ばしたぐらいの幅だ」
オクスは背負っている乞食を下ろした。
「ここで待っていな」
「やめろ、無茶はよせっ！ 足場が狭すぎる。飛び移っても、勢いが強すぎれば溶岩の上に落ちてしまうぞ。もっとじっくり考えてみるんだ」
「このクソ暑いのに考えてなんかいられねえぜ。なに、扉の把手をパッとつかんじまえばいいのさ」
そう言うと、オクスは溶岩の上を飛び越えた。ガンッ、と鉄の扉にぶつかる。咄嗟に扉の把手をつかんだ。
「うおおー！」
把手をつかんだオクスの両手から煙が上がった。熱風で鉄の扉が焼けていたのだ。それでもオクスは把手を放さず、両手で扉を押した。扉が徐々に動いて、オクスは向こう側に転がり込んだ。
「手は大丈夫か？」
ファントムが心配して声をかけた。オクスは向こうで座り込んだまま、しばらく肩で息をしていた。
「大丈夫だ。押して開いてくれたんで助かった。これが引かないと開かないんだったら、今頃灰になってたとこだ」
「じゃあ、そっちへ跳ぶぞ」
「二人はどうする？」
「順番に背負ってく」
「大丈夫か？」
「そっちで捕まえてくれよ」
「よし、任せろ」
ファントムは傷ついた男をまず下ろし、前にいる乞食を背負った。助走をつけて橋を踏み切った。辛うじて向こう側に着地すると、オクスがつかんでくれた。そこに乞食を下ろし、また橋の方に戻る。
「気を抜くな。そっちだって狭いんだから」
「わかってるさ」
今度は傷ついた男を背負うと、また助走をつけて跳んだ。
「やれやれ、なんとか命だけは助かった」
二人は緊張がいっぺんに解け、疲れを感じてその場に伏した。
「もうこんなの懲りごりだ」
「手は大丈夫か？」
「ああ」
ファントムはオクスの両手を見てみた。両掌が黒く焦げている。
「こんがり焼けて、芳ばしい香りがするぞ」
「ふざけんな」
二人はほっとしたこともあって、しばらく大笑いしていた。
「さあ、行くか。こうしていたって、埒が明かない」
ここから先は石段で、上りになっている。上って行くと、やがて扉が見えた。ファントムが開けた。中は薄暗い。そこは倉庫のようで、木箱や樽がいっぱい積み重ねてある。どこからか女の啜り泣く声が聞こえてくる。探ってみると、壁の篝火の下、樽と樽との間で、娘が一人泣いているのがわかった。
「どうしたんだ？」
「さらわれて来たのか？ 若い娘がこんな所に一人で」
娘は顔を上げ、泣きやんだ。
「私はエトヴィクの王女。悪い僧侶たちに誘拐されて、ずっとここに閉じ込められています。お願い、どうか私を助けて」
「わかったよ。じゃあお姫様、あんた歩けるかい？ おぶって行ってやりたいけど、俺たちゃご覧の通り、もう背中が塞がっちまってるんだ」
「歩けます」
「よし、じゃあついて来な」
ファントムとオクスは出口を捜した。
「出口はそっちです。でも向こうでは恐ろしい怪物や悪い僧侶たちが番をしていて、とても出られないわ」
「心配は要らねえよ」
一行はその部屋を出、薄暗い階段を上がって行った。第十の部屋の前に来た。
「ここには怪物や僧侶が待ち構えているんだろう？」
「そうです」
「ちょっと覗いてみるか。ファントム、開けてくれ。指が思うように動かねえ」
ファントムは鉄の扉を少し開けて、中を覗いてみた。明るい部屋の中央に誰かがうずくまっている。
「見張りは一人だぞ」
「よし、俺が相手してるから、その隙に先へ行け」
オクスが言ったが、
「いや、俺がやる。おまえは手が自由に利かないだろ。鎚矛を貸せよ」
オクスは鎚矛をファントムに渡した。更に扉を引くと、その物音を番人が聞きつけたようだ。こっちに向き直って立ち上がった。そいつは人間ではなかった。体は逞しい人間だが、首から上は牛だ。足の先には蹄がある。
「ミノタウロスだ。気をつけろ！」
オクスが叫んだ。
「早く逃げろ。俺が相手する」
ファントムは部屋の中に飛び込み、ミノタウロスに対して鎚矛を構えた。ミノタウロスは一声吠えると、諸刃の斧をつかみ、ファントムに打ちかかってきた。ファントムは交わし、鎚矛で受けた。その間にオクスがみんなを向こう側の扉の前へ連れて行き、扉を開けて外に出した。ミノタウロスは斧をビュンビュン振り回してくる。ファントムは隙を衝いて、鎚矛でミノタウロスの体を打った。鎚矛がビーンと跳ね返った。せいぜいかすり傷を負わせた程度だ。
「駄目だ。鎚矛じゃ効かない。刃物が要る」
ミノタウロスは少しも怯まず、猛烈に斧を打ちつけてくる。オクスが引き返して来て、ミノタウロスを背後から羽交い締めにした。その間にファントムはミノタウロスの手を鎚矛で打ちまくった。ミノタウロスはこれにはたまりかねて斧を落とした。そのまま転がってオクスと取っ組み合った。上から押さえつけて角で突いてくる。オクスは角を押さえて耐えた。ファントムは斧に持ち替えて、上からミノタウロスの首目がけて打ち下ろした。ミノタウロスの首が切れ、傷口から血が噴き出した。
「とりあえず武器は手に入れたな」
「あと二つ部屋が残ってる。この斧はありがたい」
「でも使えるか、そんな手で？」
「いざとなったら何とかなるだろう」
一行は石段を上って次の部屋の前に来た。
「怪物は出た。ということは、次は坊主どもか？」
扉を開けるとやはり僧侶たちがいて、それぞれが棒を持ってこちらを向いていた。
「八人もいるぞ」
「じゃあ、八人とも殺るだけだ」
「扉が消えてしまうとまずいから、すぐに中へ入って、あとはそこで戦いが終わるまでじっと待ってるんだ」
ファントムとオクスは武器を携えて中へ飛び込んだ。残りの三人は言われた通りに何とか中へ入った。
「僧侶の分際で、棒を構えて通せんぼするとは、怪しからん野郎どもだ。今から地獄へ送ってやるから覚悟しろ！」
オクスが怒鳴った。
「待たれよ。早まるな」
僧侶の一人が止めようとする。
「我々はこれから先へ誰も立ち入らぬよう、番をしているだけだ」
「だからそいつが邪魔だって言ってんだ。どきやがれ、クソ坊主どもめ！」
「違う違う。あそこを見てみろ」
僧侶の一人が、入口から向かって左側にある出口らしい扉を指した。そこには大きな文字が刻まれていた。
「これより地獄……？」
「そうだ。この先の十二番の部屋こそ地獄だ。それでも貴公らは先へ行くか？」
「先へ行かねえと出られねえんだ。地獄だろうが行くしかない」
「いやいや、後戻りすれば良い。入口を出口に変える方法を教えて差し上げる」
ファントムもオクスも考えた。
「いいや、やっぱりごめんだ。あんな火炎地獄や氷地獄こそ本当の地獄だ。もう引き返すのは真っ平だ。それにだいたいてめえらの言うことなんか信じられるもんか。さあ来い。切り刻んでやろうじゃねえか」
「そうまで言うのなら止めはしない。行かれるが良い。我々は邪魔はしない。しかし一つだけ忠告しておく。貴公たちは必ず地獄で後悔することになろう。それでもあえて行くと言われるか？」
オクスは聞く耳持たない。
「後悔だったらもうとっくにしてらあ。今更引き返す気はねえ」
「ならば護符を持って行かれよ。危難に遭遇した時、この護符を持って祈れば、一度だけ願いを聞いてくれるはずだ」
そう言うと僧侶は懐から小さな紙切れを取り出し、オクスの方へと差し出した。オクスは警戒しながらそれを片手で引ったくった。
「では、我々はもう何も知らん」
僧侶たちは壁際の方へ行ってしまった。それを見て、一行は十二番目の部屋、『地獄』と刻まれた入口へと進んだ。扉を開ける。向こうにはただひたすら暗闇があるだけ。オクスが乞食を背負い、その暗闇の中へと踏み込んだ。
「わあー！」
「オクス！ オクス！」
返事は返ってこない。オクスは闇の中へと消えてしまった。ファントムは決心してあとを追った。足元には何もなかった。どんどん奈落の底へと、暗闇の中を墜落して行く。
 
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