9.大将軍ディングスタ



 ファントムとオクスの二人がヴィ・ヨームを探しに、クヴァーヘンの西方、南サクレスト平原の町、チャカタンへと旅を始めた頃、ビンライムに戻っていたディングスタは、王に謁見する前に、しきりに軍の指揮官たちと接触していた。そしてある日、やっとグローデングラップ王に帰国の報告をするため、登城して王の側近に取り次いでもらった。
 しばらく待って、謁見の間へ通される。グローデングラップ王は既に広間で待っていた。ディングスタは王の前に片膝を着く。
「只今アルバより戻りました」
「ご苦労であった。で、ガブリエルの書を修得して参ったか?」
「いいえ」
「何?」
 王は眉根を寄せた。
「それでは何故戻って参ったのだ?」
「ガブリエルの書はもはやアルバの町にはございませぬ」
「何だと?」
「何者かの手により持ち主のコラールは殺害され、ガブリエルの書は盗み出されましてございます」
「それは何としたことだ」
 グローデングラップ王は思わず立ち上がった。
「陛下、ご安心下さい。私、ディングスタ・ピグノーが、既に賊どもの居所を突き止めております」
「おお、どこにいるのだ、その賊どもは? すぐにも兵を差し向けようぞ」
「お待ち下さい。あからさまにやれば、逃げられてしまう恐れがあります。私の策をお取り上げ下さいますか?」
「どのような策だ? 申してみよ」
「では、お人払いを願います。まずは陛下のお耳にだけお聞かせしたく存じます」
「では皆の者、退がれ」
 グローデングラップ王は広間にいる重臣たちを退出させた。ディングスタは階を上がり、王の傍らまで進み寄った。
「実は、ガブリエルの書のみならず、アルバとダフネが手に入る策を持って参りました」
「なんと、ダフネまで! 申してみよ」
 王は驚くと同時に喜色を表した。
「まず、ガブリエルの書を盗み出した盗賊どもの居所は突き止めております故、こ奴らを引っ捕らえ、取り返したガブリエルの書をそのままアルバへ持って行きます。既にアルバでは手を打っておりますから、私に兵五千をお預け下さいますれば、一兵も損じることなく、アルバの民衆を我らに靡かせてご覧に入れましょう」
「ふむ、それから?」
「陛下、アルバさえビンライムのものとなれば、ダフネなどた易く陥とせましょう」
 ディングスタは自信満々に言った。
「しかし、アルバを奪れば、ダフネが激しく抗議して来よう」
「それこそ好都合というもの。戦の口実も要らなくなりましょう」
「しかし、ダフネの守りは堅い。モロトフ湖にも守られておる故、城を陥とすとなると、それなりの損害を覚悟せねばなるまい。ダフネ相手に兵を消耗すれば、オーヴァールがこの時とばかりに攻め込んでは来ぬか?」
 グローデングラップ王は心配そうに言ったが、ディングスタは王の不安そうな表情を見て、微笑を浮かべた。
「陛下、よくお考え下さい。オーヴァールがこのビンライムを攻めようとすれば、必ずスヴァンゲル川を渡り、サラワンを通らねばなりません。サラワンはエトヴィク領です。つまり、オーヴァールが我らと戦うには、まずエトヴィクを敵に回さねばならないのです。もしそのようなことになれば、エトヴィクは我らに助けを求めて来ることでしょう。我らはいずれにせよ、エトヴィクをしばしの間、楯として利用すれば良いのです。
 また、オーヴァールが北回りでビンライムを攻めるということもあり得ません。なぜなら、間に広大なクロウエン砂漠が横たわっているからです。大軍を擁してクロウエン砂漠を横断するなど、自殺に等しいことです。つまり、我らはオーヴァールのことなど何も気にせずに、ダフネを攻めれば良いのです。それと、ダフネとの戦いにおける兵力の消耗のことですが、さほどお気になさることではございません。
 なぜアルバを奪るかと申しますと、陛下は湖が邪魔をしてダフネの城は攻めにくいとお思いのようでございますが、ダフネの者たちもそのようにたかをくくっていることでございましょう。そこがダフネの盲点でございます。ダフネも湖に頼って、戦となると、そちらには兵力をほとんど置かないことでしょう。ところが女王の居城は湖上にあります故、三方から舟で攻め立てれば簡単に陥とせましょう。自然の要害が却って仇となるわけです。
 そのためにはアルバから軍を直接青い森に入れ、モロトフ湖まで進ませ、そこで密かに兵員輸送用の簡単な軍船を建造します。陛下おん自らダフネの正面をお攻めになれば、ダフネの兵力は自ずとそちらへ移動しましょう。その隙を突いて水軍がサンドラ女王の居城を奇襲すれば、町自体にさほど被害を与えることもなく、ダフネは丸ごと陛下のものとなるのでございます」
「なるほど。さすがはディングスタだ。そちにはたった今、爵位と領地を授けて遣わそう。男爵だ」
 ディングスタは黙っている。
「不服か? では子爵に致す。どうだ?」
「陛下、私は褒美や爵位欲しさに、これらの策を陛下にお勧め致しているのではございませぬ。あくまで陛下とビンライムの繁栄のためでございます」
「おお、殊勝な心掛けじゃ」
 グローデングラップ王は喜んだ。
「しかしこのことを成功させるには、この私が自ら軍を率いなければなりません。このようなことを申し上げるのは、誠に失礼なこととは存じますが、只今のビンライムの御重臣や将軍の方々では、この役目はまずどなたにも務まりますまい。つまり、アルバを屈服させ、青い森をすんなり通過し、モロトフ湖畔で敵に悟られずに軍船を建造し、ダフネを一夜にして陥落させることができるのは、ビンライムには私をおいて他にはおりますまい」
「わかっておる。そちの力量は余が一番よく知っておる。だからどうせよと申すのだ?」
 グローデングラップ王はディングスタの両手を握った。ディングスタは深々と頭を下げて言う。
「私に軍の指揮棒をお授け下さいませ。全軍を統べる最高司令官にして頂きたいのでございます。と申しますのも、私の現在の地位では、軍は思うように私の命令に従ってはくれますまい。是非、指揮棒を。爵位はダフネを陥としてからで結構でございます」
 王は深く頷き、
「わかった。よくわかったぞ。それほど言うのなら、そちを大将軍としよう。そちに期待しておるぞ」
「では、急ではございますが、これより御重臣、将軍たちをご召集され、早急に今回の作戦と私の大将軍就任とをご公表なされませ」
 グローデングラップ王は早速使者を出し、城内、城下にいる重臣、貴族、将軍を集めた。呼ばれた者たちはパラパラと大広間の方に集まって来た。
「皆揃ったか?」
 王は側仕えの者に確認させた。
 やがて側仕えの者が大広間から戻って来て報告する。
「グラヴィシュ、バローチ両侯爵と、ダルレーリ、ティエレ両子爵、及びペト、ラグマンザ両男爵は領地の任と辺境守備でおいでにならず、トマロー男爵はご病気でご自宅療養中、他の方々は全員お揃いになっております」
「よかろう」
 グローデングラップ王とディングスタは大広間へ向かった。王が玉座に着くと、重臣たち一同は礼をした。王が口を開く。
「余はいよいよサクレスト平原を統一するために、軍を動かすことに決めた」
「おお!」
 群臣たちは歓声を上げた。
「敵はもちろんダフネであるが、その前にアルバを併合することにした」
「アルバを併合とは何故でござりますか? そのようなことをなされると、他国が黙ってはおりますまい」
 臣下筆頭のパーレル公爵が異を唱えた。
「構わぬ。この際、自由都市に関する協約は破棄する」
「恐れながら、オーヴァールを敵に回すことになりまするぞ。陛下はそれでも、あえてアルバを併合なされますか?」
 武官の最高位にあるプロベラ伯爵が言う。
「オーヴァールのことは心配要らぬ」
「なんと。オーヴァールを甘く見られてはおられませぬか?」
「しかし――」
 文官の中で改革派の筆頭、エルナリク伯爵が発言する。
「このままじっとしていたところで、いずれはビンライムもオーヴァールに併呑されてしまいましょう。僭越ながら、私は陛下のご決断こそ時宜を得たものと存じます。むしろアルバを併合、その後ダフネを攻略というのはまさに正道。それでこそオーヴァールに太刀打ちできようというもの」
「黙れ! そのような軽はずみな考え方は、諸国を全て敵に回すことにつながり、ひいては国の滅亡を早めるというものだ」
 保守派のカーソン伯爵が怒鳴った。
「静かにせい!」
 とうとう王が怒りを露わにした。みんなしんとなる。
「余はそちたちに軍事の是非を論ぜよと言うてはおらぬ。聴けと言うておるのだ。余は既に決めた。明日にもディングスタをアルバに遣わし、併合する。その後ダフネが抗議して来れば、断交して戦を始める。オーヴァールが来る前にダフネを亡ぼしてしまい、兵力を増強してオーヴァールに備える。余には充分に勝算があるのだ。ついては来たるべきダフネとの戦のために、ディングスタを軍の最高司令官、大将軍に任命し、ここに指揮棒を授けることとする」
 王の突然の宣言に大広間は騒然となった。側仕えの者が指揮棒を運んで来る。ディングスタは末席から玉座へと歩み寄った。王は指揮棒を手に取り、ディングスタに授ける。
「これよりディングスタ・ピグノーを大将軍となす。よってこれからは、軍の指揮権は全てこの者に委ねたものとする。この指揮棒は余の権威そのものである。戦場においては、武官は全員ピグノーの命令に服従し、決して背かぬと誓え」
 全員声を合わせて誓いの言葉を述べた。しかしプロベラ伯が承服しなかった。
「お待ち下さい。そもそも戦となれば、今までこの私が大将軍を務めて参り、これまで一度も敵に後れを取ったことなどございませぬ。それを、今日の陛下の御沙汰はいかなることでございましょう。恐れ多いことではございますが、私には納得致しかねまする」
「プロベラ伯の申すはもっともなこと」
 パーレル公がプロベラ伯の味方につく。
「そもそも本日の御沙汰は、前代未聞のあまりにも異例な抜擢にございます。これでは爵位を持つ者に示しがつきませぬ。伯爵の面目も丸潰れにございます。陛下、なにとぞご再考をお願い致しまする」
 それを聞いていて、グローデングラップ王の顔面には怒気がみなぎった。
「そういう考えでおるから、いつまで経ってもオーヴァールを上回れないのだ! そちたちの頭は古い。プロベラのこれまで指揮してきた戦は勝って当然、相手は全て弱小部族ばかりであった。しかし今回はそうはいかん。この国の存亡が懸かっておるのだ。故に余は、デロディア王と同じく、実力第一で人選を行うことにした。それでも余の考えに逆らうと申すか?」
 パーレル公もプロベラ伯も、王の怒りに恐れをなして黙った。すると今度はエルナリク伯が口を開いた。
「では、こう致してはいかがでございましょう? プロベラ伯とピグノーが実力で指揮棒を争うというのは」
「いかがするのだ?」
「つまり、決闘でございます」
「望むところだ! 騎士の分際で出過ぎた奴め、思い知らせてやろう!」
 プロベラ伯が興奮のあまり叫んだ。
「ディングスタは良いのか?」
 王が尋ねると、
「伯爵がお望みとあらば、お相手致しましょう。それに、まだ皆様方は私をご信任下さいません。それなら武芸には過ぎませぬが、じかにお見せする方がよろしいことかと」
 そこで全員、城の庭にある闘技場へ行くことになった。ディングスタは代々騎士の家柄であるから、貴族たちは彼が五剣君の一人だという噂は耳にしていても、実際の彼の腕前などは見たこともなかった。
「では始めよ」
 王が試合開始を宣言した。プロベラ伯が腰のサーベルを抜く。ディングスタもソウルイーターをゆっくりと引き抜いた。ディングスタの腕前を知っている者――主に中、下級の武官たちは、誰もがプロベラ伯の首が一瞬にして飛んでしまうと確信した。
 プロベラ伯が早速突きかける。だが次の瞬間には、伯爵のサーベルが宙空に舞い上がり、回転しながら落ちて来て、地面に突き刺さった。全員が注目した。ところがもうディングスタはプロベラ伯の背後にいて、剣を伯爵の肩に当てていた。
「おおっ!」
 どよめきが起こった。みんな何が何だかわからない。伯爵の衣服はズタズタに切り裂かれていた。が、伯爵は傷一つ負っているわけではなく、本人も何が起こったのか全く理解できていない。
「それまでだ」
 王は驚きから我を取り戻すと、そう言った。誰も声が出なかった。ディングスタの腕前を見たことがある者さえ、この出来事には驚嘆してしまった。もはや伯爵側の者は誰一人として、王の命令に異を唱えることができなくなってしまった。

 その夜、ディングスタは兵舎の一室に泊まった。みんなが寝る前に大部屋に集め、ひたすら演説を行った。
「貴族が国を治める時代は、既に過ぎ去ろうとしている。見たまえ、諸君! あの忌まわしいダニどもが国庫から金を吸い上げ、ぬくぬくと肥え太っている様を。その暴慢を諸君は見逃しているばかりか、奴らに服従している。それを当然のことと勘違いしている。そう、勘違いしているだけだ。
 諸君たち兵士が力を結集すれば、果たして貴族たちが束になろうと勝てるだろうか? 答は否だ。貴族にはふんぞり返っているしか能がないのだ。我々はこれよりアルバを制圧し、その後ダフネと交戦することとなった。その力は全て、貴族ではなく、諸君ら兵士の力であるのだ。貴族とはその上に巣食い、甘い汁を吸って、国民たちを踏みつけにしている寄生虫に過ぎないのだ。
 この機会に乗じて、私は国家悪である貴族どもを叩き潰す。実力のない者は去れ――それが私の信条だ。きみたちは私に続け。きみたちの力が結集してこそ、この現在の、国家的、社会的規模の大矛盾を改めることができるのだ、破壊し、そして新しい秩序を築くことが。
 その新秩序こそ、まさに正義である。正義のために戦うのだ! 寄生虫のためにではない! 私に力を貸して欲しい。私は諸君の力を借りて、この世界全てを新しい正義の帝国へと導いていくつもりだ。それも諸君らの助けがあってこそだ!」
 兵士たちは夜の兵舎の一室で、静かに闘志を燃やし、ディングスタに忠誠を誓った。それと同時に他の兵舎でも、エルナリク伯爵を初めとする、ディングスタ支持派の中でも雄弁家たちが、密かに同じような演説を行っていた。ディングスタは上流階級の者たちが誰一人知らぬ間に、急速に軍の中、下級層を掌握していた。そればかりか、エルナリク伯を筆頭とする、改革派の貴族たちをも味方に引き込んでいた。

 ディングスタは夜更けてから、兵舎の個室で床に就いた。窓は開け放たれていて、空には赤い満月がかかっている。
「赤い満月か……。今夜ぐらい来そうだな」
 そう一人で呟くと、彼は壁に立て掛けてあったソウルイーターを手元に引き寄せた。
 風が吹いては、木々の葉を鳴らしていく。窓辺に影が浮かんだ。入口の戸が音もなくスッと開く。ディングスタは目を瞑って身動き一つしない。やがて影が室内に流れ込んで来る、一つ、二つ、三つ、四つと。影たちは手にした刃物の鞘を払った。それが弱い月明かりに鈍く光った。
 次には抜き放たれた四本の刃が、ザッ、とディングスタの体を突いた。しかしディングスタはもう寝台の上にはいなかった。影たちは驚いたようだ。
「何者だ?」
 ディングスタは影たちの後ろにいた。ソウルイーターの刃が鈍く光った。影たちはハッとして振り返った。その時、三つの首が一斉に飛んだ。首を切り離された三つの胴は、しばらくしてバタバタと倒れた。残りの影が慌てて窓から飛び出そうとしたが、ディングスタはその襟首をつかむと、床に引き倒した。
 騒ぎを聞きつけた者が、灯りを持って部屋に駆けつけて来た。
「どうされました?」
「刺客だ」
 ディングスタは刺客の黒い覆面を剥いだ。
「誰の差し金だ、プロベラ伯か? 言え! 言えば命だけは助けてやる」
 刺客は何も言わない。他の兵たちもあとから駆けつけて来た。
「見張りの兵が殺されています」
「よし、拷問しろ」
 ディングスタは兵士たちに刺客を引き渡した。兵士たちは刺客を連れて庭に出ると篝火を焚いた。刺客を裸にして縄で縛り、木の枝から吊り下げ、体のあちこちを松明の火で炙った。その度に夜空に悲鳴が上がった。
「黒幕はやはりプロベラ伯のようです。どうやら今日王宮であったことを逆恨みしているようです」
 兵士の一人が告げに来た。
「それでは見せしめのために、そいつを馬で市中引きずり回し、他の死体と一緒に伯爵邸の門前に捨てておけ」
 兵士は承知して退き下がった。

 翌朝、ディングスタは軍の一部を召集した。王宮の前に兵士たちを集めたあと、自ら王の下に出向いた。
「ディングスタか。軍は調ったか?」
「既に進発の号令を待つのみです。私と共にエルナリク伯に参謀として同行して頂き、メッサナ将軍と兵四千で先発部隊としてアルバへ向かい、途中、ガブリエルの書を取り戻すと同時にアルバを併合して参ります。その後モロトフ湖のダフネ対岸へ向かい、軍船を建造します故、後発部隊としてフローレ男爵を先頭に、バルデトレムセン、ロウマクーザ両将軍に兵卒を率いさせ、資材を直接モロトフ湖畔にお運ばせ下さいませ、彼らとは充分に打ち合わせができておりますから。その後ダフネへの水軍の侵攻準備が調いますれば、お城に使者を遣わせます故、陛下はおん自ら御親征あそばし、このような兵士らの割り当てで、ダフネを正面からお攻め下さいますよう」
 ディングスタは紙に書かれた軍の配分とその指揮官の指定を王に示すと、側仕えの者に手渡した。
「なるほど。これは国を挙げての大戦だ」
「いかにも。しかしビンライムの損失はほとんどございませぬ故、ご心配あそばしませぬよう。つきましては陛下の御親征の際には、王城の留守居役として、グラヴィシュ候を兵共々かの地よりお呼び寄せなさいませ。他にニカロ子爵とペト男爵に候の補佐をさせ、候の兵と合わせ、一万ばかりの兵を城にお残しになればよろしいでしょう。グラヴィシュの地は戦に直接関わることは、まかり間違ってもございませぬ故」
 グローデングラップ王は膝を打った。
「なるほどそうだ。そちの申すことは一々もっともなことだ。余にそちを与えた神に感謝せずにはおれまい」
「もったいなきお言葉にございます」
 ディングスタはグローデングラップ王に暇を告げると、二千の精鋭部隊をメッサナ将軍に、更に二千の精鋭を大将軍直属部隊として自ら率い、ビンライムの城を出発した。

 先発隊はまず西に進路を取り、ビンライム領のバローチの町へと向かった。バローチの町の富豪、クラウプト・ゼルナーの屋敷では、ディングスタのアルバ時代の仲間たちが、彼に騙されているともつゆ知らず、贋のガブリエルの書の筆写を続けていた。
 翌日の夕刻、先発隊がバローチの町の門に着いた時、埃っぽい道の真ん中に、乞食のなりをした大男が寝転がっていた。
「乞食! 邪魔だ、道を空けろ!」
 先頭の兵が怒鳴ると、大の字になって寝ていた乞食は、おもむろに上体を持ち上げた。
「おお、やっと来たか。待ってたぜ」
 乞食は破れ鐘のような大声を上げた。ディングスタが馬で前方に出て来る。
「どうだ?」
「言われた通り、巧くいったぜ。奴らはまだ何も気づいていない。クラウプトの屋敷に揃ってる」
「よし。では、そのむさ苦しいなりはもうやめて、我が直属部隊を率いるのだ」
 乞食の大男はドットだった。
「おう」
 ドットは立ち上がった。ディングスタはバローチ侯爵邸へ使者を遣わし、兵士たちはメッサナ将軍とエルナリク伯に任せ、町の外で野営させることにし、百人の兵士を選び、ドットと共にクラウプトの屋敷へ向かった。
 屋敷に着くと、兵士たちに取り囲ませたあと、ディングスタはドットと兵三十人ばかりを連れ、邸内へと入って行った。玄関で召使いに取り次がせる。
「クラウプトに、ビンライムのディングスタが来たと伝えてくれ」
 召使いはかしこまって奥に下がって行った。ディングスタたちは建物の中へは入らず、前庭で待った。やがてクラウプトとその仲間たちが、ディングスタを出迎えに庭に出て来た。
「やあ、ディングスタ、やっと来たか。遅かったじゃないか」
「みんな待ってたんだぞ」
「それで、首尾の方は?」
 ディングスタが尋ねると、
「もう半分を越えている。あと少しだ」
 クラウプトが答えた。
「そうか……。この者どもを残らず引っ捕らえよ!」
 急にディングスタが叫ぶと、兵士たちは一斉に棒を持って、クラウプトらを無理やり押さえつけた。クラウプトたちはもちろんもがいた。
「一体、何の真似だ! 気が狂ったのか?」
 ディングスタは黙ってそれには答えない。代わりに兵士たちに向かって、
「引っ立てろ」
 と命令した。クラウプトたちは突然のことに全くわけがわからず、暴れたり、ディングスタを罵ったりしたが、もはやどうしようもなくなり、兵たちによって屋敷の外へと引きずられて行った。
 ディングスタは捕らえた面々を確かめてみた。クラウプトの他に、タンメンテのヘーシン、エトヴィクの騎士ルズィエン、同じくエトヴィクの貴族ズコーティエ、アルバの商人のヤーロンとジブラン、ダフネの騎士ラジエン、墓守のヒッポ。
「アーサーとワーレフがいない。ヘーシン、弟はどこへ行った? ワーレフは? ラジエン、おまえの同僚のアーサーはどこだ?」
 ヘーシンもラジエンも何も言わない。
「そうか。言いたくなければ黙ってろ。こちらで見つけ出すまでだ」
「この恥知らずめ!」
 ラジエンがディングスタを罵った。
「おまえは俺たちを利用しただけだったんだな。汚い野郎だ! これから俺たちをどうするって言うんだ?」
 ヘーシンが叫んだ。
「もう一働きしてもらう。ただし、何もせず、何も喋らず、じっとしていろ。ただ黙っていてもらいたいだけだ」
 兵士たちは捕らえた全員に猿ぐつわを噛ませた。
 やがてバローチ候の下へ行っていた使者が、人夫たちに車のついた檻車を曳かせて戻って来た。ディングスタは頷き、逮捕した全員を檻車の中に放り込ませ、兵の駐屯地へと曳いて行かせた。それを木の上からじっと見ている者がいた。たまたま外に出ていて難を免れたヘーシンの弟のワーレフと、ダフネの騎士アーサーだった。
「聞いたか?」
「ああ、聞いた。ディングスタの奴め、許せん……」
 二人は兵士たちが去って行くまで、そのまま木の上で息を潜めてじっとしていた。
「どうする? ディングスタを殺るか?」
「待て、そいつは無謀だ。とにかくこの町から脱出しなければならない。どうするかはそれから先だ。巧く脱出できたら、どこかに潜んで再起を図ろう。このまま一時の激情に駆られて討って出たところで、勝ち目はない。それこそ犬死にというものだ」
 二人は頷き合うと、夜が更けるまで木の上にいた。やがて夜陰に紛れて二つの人影が町の壁を乗り越え、闇の中へと消えて行った。

 ディングスタは翌日、部隊を進発させた。クラウプトたちを入れた檻車は行列の中ほどを曳かせて行く。軍は青い森の北を回り、六日目にアルバに到着した。門番は大部隊に威圧され、黙ってビンライム軍を町に通してしまった。警備兵たちも何も咎めることなく素通りさせてしまう。野次馬たちも集まって来て、何事が起こったのかと見物している。
 ディングスタは兵士たちを町中に分散させ、町民たちを広場の方に呼び出させ、配下の者たちに演壇を築かせた。更に精鋭部隊を統領邸に踏み込ませ、有無も言わせず統領のサンエステを連れて来させる。町の兵士たちには指揮する者もろくになく、ただ唖然として見ているだけで、手も足も出ない。民衆は何が起こるのかと、広場に続々と詰めかけて来た。
 頃合いを見計らって、ディングスタが壇に上がった。民衆は黙って彼を見守っていた。
「私はビンライムの大将軍、ディングスタ・ピグノーだ。今こうしてアルバに軍を動員し、諸君ら市民を集わせた理由を述べよう」
 ディングスタはそこでしばらく言葉を切り、聴衆を見渡した。民衆は息を呑んで彼を見守っている。
「ここに引っ立てて来た者たち、すなわちバローチのクラウプト・ゼルナーを首魁として、タンメンテのヘーシン、エトヴィクのルズィエンとズコーティエ、ダフネのラジエン、そしてアルバのヤーロン、ジブラン、ヒッポ、この者たちはかつてコラールを殺害し、自分たちの利益のみのために、町の宝であるガブリエルの書を盗み出し、バローチの町に潜んでいた極悪人どもだ」
「おおー」
 何が起こるのかと不安そうな面持ちでいた民衆が、それを聞いてどよめいた。クラウプトたちは猿ぐつわを噛まされたまま、もがき、呻くが、どうしようもない。
「しかし心配は要らぬ。私がここにガブリエルの書を取り戻し、こ奴ら悪党一味を残らず引っ捕らえて来た。見よ、町の宝はこの通り戻った」
 ディングスタは懐から自分が持っていた本物のガブリエルの書を取り出し、高々と掲げた。それを見た民衆は大歓声を上げた。
「そしてこの書は、かつての所有者コラールの物でも何者の物でもない。私はこの神聖なる書物に書かれている内容を一切、貧富の差に関わらず、広く市民に寺院を通して公表しようと思う」
 民衆はまたどよめいた。
「更にだ、ここにいる統領のサンエステは、そのことを知りながら、今まで何も手を打とうとはしなかった。知らぬ顔だ。これが果たして統治者と言えるだろうか? この者はあの魔女が襲来し、犠牲者が多大に出た夜、一体何をしていたのか? こそこそと己れの屋敷の奥の間に逃げ込んでいただけだ」
 サンエステはそれを聴いて抗弁しようとしたが、彼の声は民衆の罵る声に掻き消されてしまった。
「私がここに来たもう一つの理由は、つまりこのことなのだ。諸君ら庶民はこういった特権階級の者どもに、ただただ踏みつけにされているだけである。アルバは自由都市の一つである。しかし一体どこに自由があると言うのだろうか? 庶民は重税に喘ぎ、その税でもって特権階級は飲み食いし、遊び呆けている。これが自由都市か? そこで私は武力をもってしても、この町の誤った形態を改めようと思う。つまり私は、この町の虐げられた民を解放するためにやって来たのだ」
 民衆は興奮して大歓声を上げた。
「そして見よ、この町を苦しめ続けてきた、あの青い森の魔女スヴァルヒンを、私は恭順させた。私がいる限り、もう二度と町を荒らすことはないと断言しよう」
 ディングスタは天を指差した。民衆は驚いてその方を見る。と、たちまち空から雲に乗った魔女スヴァルヒンが降りて来た。民衆はびっくりした。
「心配は要らない。もう何もしない」
 ディングスタが叫ぶと、スヴァルヒンは雲と共に去って行ってしまった。この出来事が何よりも、アルバの民の心をディングスタに惹きつけさせた。そして、祭典の日の前夜、魔女がやって来た時に寺院にいた者たちは、この時ディングスタの名前を思い出した。割れんばかりの歓声がいつまでも続き、民衆とディングスタ配下の兵士たちはディングスタを誉め称え、ディングスタは労せずしてアルバの町を手中にしてしまったのだ。
 ディングスタは早速旧体制の改革を断行した。特権階級にあると見做した者たちを全て捕らえ、統領やクラウプトらと共に牢に入れた。
 エルナリク伯をアルバの臨時総督とする。収入が一定額を越えない者は税を納めなくて良いことにする。更にアルバの元兵士たちは全員、次のダフネとの戦いにおける軍船建造のための人夫にしてしまい、連れて来たビンライムの兵士のうち、千を新たにアルバの守りに就かせ、他に、貧民窟から町への出入りを自由にし、そこから屈強な若者を選び、兵士とするため、厳しく訓練させた。
 次に収益を上げるため、富豪たちから任意に――だが実際は半ば強制的に財産の一部を供出させ、町の外の官営農場、貧民農場を合わせ、それまで耕作していた者たちに分配、収穫の半分を納めれば良いこととし、開墾を奨励して、森や草原に耕地を拡げた者には年貢率を更に低くした。ギルドを解散させ、手工業者には免税とする代わり、直接物品を買い上げ、臨時政府が専売権を握り、商人に売ることにした。他国から来た商人に対しても同じこととする。総じて農商工業者に対して税を軽減したわけだ。
 古い役人は一旦解雇し、新たに募集、試験を行い、成績により誰でも能力次第で登用することとした。これに伴い賄賂を全面禁止にし、どんな少額であれ、賄賂を遣った者も受け取った者も厳しく罰することにした。闘技場での賭博は全て公営にし、それまでの賭博屋は全員政府のお抱え、つまり役人にした。潜りの賭博屋はこれまた厳しく罰することにする。
 加えて、後のことになるが、ガブリエルの書を何部か筆写させ、寺院や礼拝堂で僧侶や神官に口述させた。入場自由で無料だが、この町の人々には寺院や礼拝堂で礼拝したあとには必ずお布施を置いていくという習慣があるため、一日を何回かに区切って少しずつ口述させると、それが溜まり溜まってかなりの額に上った。
 町を統治する段取りを済ますと、行政をエルナリク伯に、軍事をメッサナ将軍に任せ、ディングスタはドットと共に三千の精鋭部隊と人夫たちを引き連れ、青い森を横断し、モロトフ湖畔へと向かった。数日かけてモロトフ湖畔に出る。後発のフローレ隊、バルデトレムセン隊、ロウマクーザ隊の兵、合計六千は既に湖畔に到着し、木材の伐採作業に取りかかっていた。
 ここでしばらく駐屯し、二百人乗りの軍船を五十艘造る。駆り集めて来た船大工たちに指揮を執らせ、食糧を運搬する輜重隊もバローチとの間を行ったり来たりして、一ヶ月近くかかる大作業だ。ディングスタは頃合いを見てビンライム城へ軍進発を促す使者を立てた。
 アルバの町ではディングスタの急進的な大改革が熱狂的に歓迎された。だがそんな中にも、彼の政策を喜ばない者ももちろんいた。概して金持ちたちは自分たちが今までよりも損をすることになるため、ディングスタを憎んでいたが、かと言って強大な武力の前には為す術もなかった。

 ディングスタの軍が町に入り、演説を行った日、剣鬼ドワロンは四剣を集めた。
「こういうことだったのか。ディングスタはアルバを支配するつもりでいたのだ」
「しかし、ディングスタのやったことが良かろうが悪かろうが、いずれにせよ他国が放ってはおきますまい」
 ダントンが言うと、
「そういうことだ。つまり戦は避けられん。それも、今度の戦は大々的なもので、なかなかやまぬような気がしてならん」
「我がオーヴァールにすれば、デロディア王はともかく、我々の直接の主君であるサンジェント公は気性の激しいお人故、このビンライムの暴挙を黙って見過ごすはずがありません。加えて、ダウヒルのエマーニア大公ときたら、それこそサンジェント公に輪を掛けたようなお方で、悪く言うと、自制心のかけら一つない方です」
「オーヴァール以前にエトヴィクやダフネが目の前の問題を放ってはおきますまい」
 マリオネステも意見を述べた。
「そうだ。ところがディングスタの方こそ、ダフネやエトヴィクに先制攻撃をかけるはずだ。ビンライムをダフネ、エトヴィクとの戦に駆り立てるため、わざわざアルバを奪ったのだからな。これはビンライムのグローデングラップ王のやり方と言うより、ディングスタのやり方と言った方が良い。なぜなら、奴がこのアルバで急速にやろうとしている改革を聞いたか?
 あの政策は、現存している王国全てに逆らうやり方だ。王制、貴族制を真っ向から否定している。事の善し悪しは別として、あのようなやり方を一武人に許すということはあり得ん。グローデングラップ王がディングスタ一人に巧く乗せられ、躍らされているに過ぎん。ディングスタは王を操っているのだ。そうは思わぬか?」
 四剣たちは頷いた。
「ところが、あのディングスタがビンライムの軍を掌握してしまえばどうなるか? これは由々しきことだ。ダフネとエトヴィクは地理的に見て、ディングスタに押さえられてしまうだろう。それなら自然にオーヴァールと覇権を懸けての大戦争となる。これはこの世界が荒れ果てることを意味している。ディングスタがガブリエルの書を手にした以上、奴は必ず世界制覇をもくろんでいることであろう。奴こそ野望の塊のような奴だ」
「ではどうすれば?」
 ダントンが尋ねると、
「まず避けられん。下手をすると、この世界の人間という人間は滅びてしまうかもしれん。そこまではいくら何でも起こらんだろうが。とにかく、ダントンとマリオネステはトスニカ(オーヴァールの都)へ行き、まずデロディア王に説いて、エマーニア大公と軍を抑えるようにするのだ。ロカスタへも戻り、サンジェント公にもそう説くのだ。おまえたち二人はロカスタに戻って様子を窺っていろ」
「私たちは?」
 ソルダートが訊くと、
「ソルダートとペレクルストも他の町へ行け。ここにいて、ビンライムの兵にでも採られてはつまらん。クヴァーヘンか、いや、あそこも近々アルバのようになってしまうだろう。なら、チャカタンか、それともタウ辺りにいて、落ち着いて情勢を見極めるのだ。決して軽挙はならん。何が正しいのかをはっきりと悟ってからだ」
「先生はどうされるのです?」
 ペレクルストが尋ねた。
「わしか? わしはここに残る。わしはとりあえず、ディングスタが何をするのか、ここにいてじっくりと見てみる。おまえたち四人はもう免許皆伝だ。ここから出ろ。それにしてもダントンとマリオネステはオーヴァールの臣下であるから、自分たちの自由にはなかなかならんだろうが、決して国を争いの方へと導いてはならんぞ」
 四人は旅支度をしてアルバを去って行く。ダントンはトスニカへ、マリオネステはロカスタへ、ソルダートはエトヴィクのチャカタンへ、ペレクルストはタウへ。
「それじゃあ、達者でな」
「また会おう」
 道場を出ると、まずチャカタンへ向かうソルダートが、エトヴィク目指して町の東門を出て行く。他の三人は西門から出た。
 西門を出ると、ロカスタへ向かうマリオネステは、街道の通っていないバイテンの野を横切って、ロカスタまでの近道を行くため西へ向かい、タンメンテの町を目指した。トスニカへ行くダントンと、タウへ行くペレクルストは、サラワンの町までは同じ街道を通って行くことになる。
 二人は広いジンバジョー平原をどこまでも南西へ向かって伸びる街道を行った。
「ファントムとオクスの二人はどうしてるだろう?」
 歩きながら、不意にペレクルストが言った。
「うん。少しは腕を上げたかな」
 ダントンは笑みを浮かべた。
「だけどな、ひょっとすると、もうジャバドゥ先生に放り出されてるかもしれないな。悪い人じゃないんだが、ひどくものぐさなんだ。何だかこれからタウの町でぱったり二人に会いそうな気がするよ」
「だけど先生はよくわかってらっしゃったようだな。アルバがこんなことになった。結局、そのためにあの二人をジャバドゥ殿の所へ遣ったんだろう?」
 ダントンの問いにペレクルストは頷き、
「そうだ。俺は先生がソルダートにそう言っているのを聞いた」
「それなら次も、先生が言ってたように大戦争が起こるんだろうか?」
「そいつは当たって欲しくないな」
 二人は話しながら先のことを思うと、暗い気分になった。日が西に傾き、アルバでこの日、何が起こったかを知る由もない商人の一行が、荷車を驢馬に曳かせながら、アルバへ向かって二人の傍らを通り過ぎて行った。

 同じ頃、ファントムとオクスの二人はアルバがどうなっているかなど何も知らずに、ジャバドゥの下を離れてからは街道を通らず、シャーデン高原からルドネの丘を越え、人も通らない道なき道を行き、時には途中で出くわした怪物や獣とも闘い、やがて南サクレスト平原の、実り豊かなミルフィーユの野に出て、エトヴィク領のチャカタンの町にやっと辿り着き、ジャバドゥに言われたヴィ・ヨームという謎の人物を捜していた。
 二人は町を歩き回ってヴィ・ヨームの居所を訊いてみたが、町の人たちは誰も知らないと言う。
「ちぇっ、薄情な奴らばかりだぜ。どいつもこいつも知らないの一点張りだ」
 オクスはつむじを曲げた。
「もう今日はやめだ。酒でも飲んで寝ちまおうぜ」
 二人は酒場を見つけて入って行った。客が結構入っている。黙って飲んでいると、隣に男がやって来て、話しかけてきた。
「あんたら余所から来たのか? そんなでっけえ大まさかり持って、冒険野郎かよ」
「そうだ」
「どっから来た?」
「白い森だ」
 男は酒臭い息を吐きながら、ファントムとオクスをじろじろと見た。
「へえー、そりゃまた遠いとっからよく来たねえ。白い森で何やってたんだ? 樵か?」
「樵に見えるか?」
 オクスは男を睨みつけた。
「見えねえよ。じゃ、やっぱり冒険者か?」
「そうだ」
「あんた、ヴィ・ヨームっていう男を知らないか?」
 ファントムはその男に尋ねてみた。
「ヴィ……、何だって?」
「ヴィ・ヨーム」
「そんな変てこな名前は聞いたこともねえなあ。ソフィアに訊いてみりゃあ、知ってるかもよ」
「ソフィアって?」
「ほら、あの女だ」
 男は向こうにいる酒場女を指差した。
「おい、ソフィア、ちょっとこっちへ来いよ。この白い森から来た樵の旦那たちが、おまえに訊きたいことがあるんだってよ」
 酒場女が近寄って来た。
「あたいに何の用?」
「この人たちはな、ヴィ、何だったっけ?」
「ヴィ・ヨームだ」
「そう、その、ヴィ、何とかっていう変な野郎を知らねえかって訊いてるんだ」
「ヴィ・ヨーム……? 聞いたことがあるような気もするけど……」
 酒場女は考え込んだ。
「おまえの客かい?」
「違うわよ。お客の誰かがそんな名前を口にしてたような気がするわ」
「どの客だ? ここにいるのか?」
「ちょっと待ってよ。だいぶ前のことよ。いつだったかしら……?」
 ソフィアが考えていると、入口から数人の男たちが入って来た。それまで騒々しかった酒場が急にしんとなった。男たちはどかどかとテーブルの一つに歩み寄った。そこに座っていた客たちを睨みつける。先客たちは酒と器を持ってこそこそと他の場所に移動した。男たちは空いた席にどっかと腰を下ろした。
「酒持って来い!」
 男たちの一人が怒鳴った。
「何だ、あいつら?」
 ファントムがソフィアに訊いた。
「毒サソリのジンバー一味よ」
 ソフィアが囁いた。
「ここらを仕切ってるならず者どもさ」
 隣の男も囁く。
「ふん、ならず者なんか気にすんな。おい、酒だ! こっちに先に持って来い!」
 オクスが大声を上げた。
「や、やばいぜ旦那。あいつら、ほんとに始末に終えねえ奴らだぜ」
 男はびくびくしながら囁いた。客はみんな驚きの眼差しでオクスに注目した。ジンバー一味はオクスの声を聞き咎めて一斉に椅子を蹴った。段平を手に提げ、オクスの方へと歩み寄った。
「てめえはどこの何様だ?」
「ごろつきどもに名乗る名前なんかあるもんかっ!」
 叫ぶや否や、オクスは戦斧を手に執り振り回す。たちまち二人、三人と叩っ斬った。血飛沫が酒場に飛び散る。一人が段平で斬りかかろうとしたが、素早くオクスの斧がそいつの頭を斜めに半分削ぎ落としていた。残った一人が怖じ気づいて逃げ出そうとするのを、オクスはすかさず背中からバッサリやった。一瞬にして片がついた。
「早く酒を持って来い」
 何事もなかったかのようにオクスは席に戻り、給仕に言いつけた。
「は、はい」
 オクスに怒鳴られて、ジンバー一味の所に酒を運ぼうとしていた給仕が、慌てて酒を持って来た。客の中には逃げ出す者もいたが、残った者はみんな呆気に取られて声も出ない。
「す、すげえ……」
 隣の男がたまげて、思わず言った。
「あんた、すげえや!」
「でも、あとが怖いわよ。ジンバー一味は陰険で執念深いから」
 ソフィアが言う。店の者たちが来て、ごろつきどもの死体をどこかへ片づけていった。
「じゃあ、こっちから行って、皆殺しにしてやろう」
 オクスは酒器を置いて立ち上がった。
「待てよ。そんなことよりヴィ・ヨームだ」
 ファントムはオクスの袖を引いた。
「そうだ、ヴィ・ヨームだ。姉ちゃん、思い出せないのか?」
「そうそう、ええっと……」
「あんたたち、ヴィ・ヨームを捜してるんなら、カーマン通りにいるぜ」
 客の一人が声をかけてきた。
「カーマン通りって?」
「ここから二筋北へ行った通りよ」
 ソフィアが答える。
「そこのどこだ?」
「それ以上は知らないなあ。カーマン通りのどっかだ。俺も噂を聞いただけだけど、なんでもヴィ・ヨ−ムってのは、金持ちしか相手にしない予言者だとさ。未来のことが手に取るようにわかるらしいぜ。ただし、値段はとんでもなく高いそうだ」
 ファントムとオクスは顔を見合わせた。
「当たるのか?」
「必ず当たるらしい。外れなしだと言うぜ」
「じゃあ、行って捜そう」
 二人は金を払い、酒場を出た。

 既に日は暮れている。二人はカーマン通りの両側に分かれ、一軒一軒訊いて行った。そうしてある家で教えられた辺りへ行き、その辺の邸を探し回った。そうしていると、遠くに炬火の灯がたくさん見えだした。その灯がだんだん近づいて来る。
「さっきの仲間の仕返しか?」
「かなり多いぞ。二、三十はいそうだ」
「この際まとめて皆殺しにしてやる」
「待てよ。もう無用に殺すのはやめるって決めただろう?」
「じゃあ、どうする?」
「決まってる。逃げよう」
 二人は走り出した。
「おっと、ついてねえぜ。反対側からも来やがった。挟み討ちか?」
 どうやら二人はジンバー一味に挟まれてしまったようだ。
「こっちにいらっしゃい、早く」
 急に二人を呼ぶ女の声がした。見ると、真ん前の大きな屋敷の門が開いていて、その奥にある建物の入口に、手に燈火を持った女が一人立っている。二人は何も考えずに屋敷の方へ逃げ込んだ。
「こちらからお入りなさい」
 二人が正面の開いた扉から入ろうとするのを引き止めて、女は脇にある別の戸を指した。二人は魔法にかかったように、言われる通りにした。中に入ると、口髭を生やした立派な身なりの紳士が待っていた。
「ようこそ。あなた方をお待ち致しておりました」
「ええっ?」
 ファントムとオクスはびっくりして顔を見合わせた。
「驚くことはありません。まずは、あの者たちの最期をご覧に入れましょう」
 紳士はそう言いながら、二人の前に下がっている黒い幕を上げた。そこはガラス張りになっていて、向こうには何も置いていない広い部屋が見える。しばらく見ていると、扉を開け、その部屋の中に二人を追って来た連中が飛び込んで来た。そうやってジンバー一味は次から次へと部屋に入って来たが、やがて驚いたことが起こった。
 その部屋は壁という壁が鏡になっていて、ごろつきどもが鏡に映った自分の顔を見た途端、鏡の中の像がまるで水を掻き分けるように鏡の表面を掻き分けて、部屋の中へと飛び出て来たのだ。ごろつきどもは驚いて、自分とそっくりな鏡像に向かって得物を構えた。飛び出して来た鏡像も、実像に向かって同じように武器を構えた。
「あれは、一体……?」
 ファントムが呟いた。
「彼らは本物と全く同じ者。持ち物も同じなら、心も同じ。そのため、これからお互い死ぬまでやり合うことになるでしょう。なぜならあそこにいる連中はみんな、怯えと、防衛本能と、猜疑心に満たされていますから」
 謎の紳士は淡々と語った。紳士の言ったように、間もなくごろつきどもはみんな、自分と血みどろの殺し合いを始めた。よく見ていると、本物と偽物とは全く闘い方が同じように見える。ただ、もうどちらが本物か偽物かは区別ができなくなってしまった。やがて全員が瀕死の状態で、鏡の部屋にバタバタと倒れた。
 それを見ていたファントムとオクスは茫然自失、開いた口が塞がらない。紳士はゆっくりと黒い幕を下ろした。二人は紳士の顔をじっと見つめた。
「あなたは一体……?」
「私はあなた方お二人が捜しておられる者です」
「ヴィ・ヨーム……?」
「いかにも」




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