5. 白 い 森 へ
翌朝、ファントムはオクスと一緒に、水甕を載せた車を曳いていた。裏通りに面した拳闘場を覗いてみると、早朝からたくさんの門弟たちが稽古をしていた。
「ちぇっ、へっぴり腰の腑抜けばかりだあ」
窓から中を覗いていたオクスが、大声で野次を飛ばした。
「そんなことやって、何になるってんだ!」
オクスがまた窓から怒鳴った。
「やめろよ。他人が何をしようと勝手だろ」
ファントムはオクスの袖を引っ張った。ところが遅かった。オクスの声を聞き咎めて、数人が外に飛び出して来た。
「おまえ、何か言ったか? 何だ、競技会で参ったをした肉屋の腰抜けオクスか!」
出て来た者の中でリーダー格の男がオクスをからかった。
「言ったな。てめえらのやってることは女子供のすることだって思い知らせてやる!」
言うなり、オクスはそいつの頭を片手でつかんで放り投げた。男は向かいの家の壁まで飛んで、叩きつけられた。もうオクスは止まらない。手当たりしだいに拳闘場の門弟たちを叩きのめし、水甕でぶん殴り、道場に乱入してはまた暴れ回った。関係のない門弟が逃げ回るのまで追いかけてはぶちのめした。ファントムがいくら止めても止まらない。
やっとオクスの大暴れがやんだ時には、拳闘場の者たちの中には誰一人立てる者がいなかった。いつの間にか人だかりがしていたが、オクスが悠々と歩き出すと、みんな悲鳴を上げて家の中に逃げ込んでしまった。
「何てことするんだ。只じゃ済まないぞ」
ファントムはオクスの顔を睨んだ。
「おまけに水甕まで一つ残らず壊してしまって……」
「…………」
オクスは答えないで歩き続ける。だが顔色は変わっていた。
「一体どこ行くんだ? 水は汲めないぞ」
「なあに、どっかでかっぱらってくればいいんだ」
「冗談じゃない。泥棒してまでいい子になる気か?」
「じゃあ、このまま逃げようか」
「馬鹿な。子供じゃあるまいし」
「そんなら――」
オクスはくるりと向きを変えた。
「煮るなり焼くなり、勝手にしろってんだ」
そのまますたすたとドワロンの道場に引き返し始める。ファントムもどうすることもできないので、オクスについて行った。
道場に帰ってファントムが訳を話しても、別段ドワロンは怒りもしなかった。
「自分の仕出かした過ちは自分で償え」
そう言うと、手桶を二人に投げて寄越した。
「水甕を失くしたのだから、それで水を運んで来い」
「なあんだ、壊して得した」
思わずオクスが言ってしまった。
「得したか損したか、とにかくあの大甕を満たすまで水を運び続けよ」
ドワロンは道場の隅にある、背丈よりも高い大甕を指差した。
「えっ!」
二人は驚いて目を見張った。
「もちろん、中は空っぽだ」
ドワロンは笑い声を上げた。
「もちろん今日中にあれを水で満たせ。だがぐずぐずしてると、他にすることもあるのだし、寝る時間がなくなるだけだぞ。さあ、とっとと行って来い」
二人は桶を提げて裏通りを駆け出した。町の東門を出るとすぐに青い森がある。森の中を少し行くと泉がある。一度に手桶二杯の水しか持ち帰れない。あの大甕を水で満たすには百杯、いや、軽く百五十杯は要るだろう。最初に泉に着いて水を汲むと、また慌てて走りながらファントムは考えた。
「一回で二杯……、百五十杯……、七十五往復しなければ……。無茶な――」
走りながら、もう気が遠くなりそうだった。
二度目に泉に着いた時だった。
「もうやめた」
オクスは桶を放り出した。
「こんな馬鹿々々しいことができるか」
そう言うと、ザブンと泉の中に飛び込んだ。
「まだ水汲みは始まったとこだぞ。それに俺は三日目、きみはまだ一日目じゃないか」
ファントムがたしなめようとすると、
「俺はな、ドワロンが俺より強いから、肉屋も辞めて入門したんだ。強くなるためだ。水を運ぶために入門したんじゃねえ」
「そりゃそうだけど、最初はしょうがないだろ」
「最初はだって? じゃあ俺たちだけ水汲みで、他の今日入門したての奴らはみんな、道場で稽古中ってのはどういうわけだ?」
「知らないよ。俺にわかるもんか」
「こんな不公平な話があるもんかっ!」
オクスは水に潜った。拳闘場で大暴れしたのも、結局そのことでむしゃくしゃしてたからみたいだ。ファントムはオクスに同情した。言うことはよくわかる。自分だって同じ気持ちなのだ。それにオクスほどの腕の立つ者がと思うと、ドワロンの考えが全く理解できない。
「とにかく戻ってみよう。言うこと言って、それで納得がいかなきゃ、その時辞めればいいじゃないか」
オクスはまだブツブツ文句を言っていたが、ファントムがなだめすかして何とか道場まで連れ帰った。
二人が道場に戻ると、師匠のドワロンが近づいて来た。
「おまえたち二人は今日限り破門だ。先程拳闘場から苦情が来た。あんたとこの門弟は野蛮すぎる、何とかしてくれとな」
「破門……」
「そいつはこっちからお願いするとこだった。手間が省けて助かったぜ。こんなくだらねえ道場なんか、頼まれなくたってとっとと辞めてやらあ!」
オクスはやけになって叫んだ。
「まあ聴け。おまえたち二人はこの道場にはどうも向いていないとわしは思ってな。そこでもっとおまえたちに似つかわしい師匠の所へ遣ることにした。せっかく剣士になろうと考えたのだ、何もここで断念してしまうこともあるまい」
「新しい師匠って誰ですか?」
ファントムが訊くと、
「白い森のジャバドゥだ」
ジャバドゥのことは少し聞いて知っている。ソルダートとペレクルストの前の師匠だが、二人は放り出されたためか、ジャバドゥのことはあまりいいようには言っていない。それにとてつもない気まぐれ者らしい。
「ここで務まらないのに、ジャバドゥなんてなおさら無理じゃないですか?」
ファントムは幾分不満げに言った。
「なあに、人には向き不向きとか、相性とかいうものがあってな、おまえたちみたいなのがジャバドゥに合う。ジャバドゥもきっと歓迎してくれるぞ。それ、ここに紹介状を書いといたから、持って行ってみろ。もっともあの爺さんに紹介状など要らんがな」
ドワロンはファントムに手紙を差し出した。
「ソルダートに道を訊けば良い。ではこの旅費を持って行け。さらばだ」
ドワロンは金の入った革袋を置くと、話もそこそこに奥に引っ込んでしまった。ソルダートはすぐに紙切れを持って、二人の所にやって来た。その紙切れを二人の前に拡げた。地図のようだ。
「簡単に言うと、白い森へは南東の方角へ向かって行けばいいんだが、まずこの青い森を抜けるのは困難だ」
ソルダートは地図に描かれた広い森を指差して言った。
「木が生い茂っていて、必ず道に迷う。遠回りのように見えるが、この青い森の北を迂回して行くのが、本当はわかり易くて近道だ。この通り行くとモロトフ湖に出くわすから、湖畔を南へ下って行くと、ダフネの城がある。早く行きたいならそこから船に乗ればいい。モロトフ湖からプラクシー川を溯って、クヴァーヘンの近くまで行ってくれる。やがて船から高原が見えだすから、クヴァーヘンが近づいたことがわかる」
ソルダートは地図の各部分を一々指し示しながら、丁寧に二人に説明していった。
「ルドネの丘を越えながらクヴァーヘンに着くと、今度はデーモンの道を行く。この街道は一本道だから、シャーデン湖が右手に見えるまで真っ直ぐに行けばいい。シャーデン湖が見えたら街道から逸れ、湖に沿って南へ行くと、ロクスルーの村に着く。ロクスルーまで乗り合い馬車も出てるから、それに乗って行くとなお便利だ。その南が白い森だが、とりあえずロクスルーの樵にでもジャバドゥの居所を訊いてみるといい」
説明が済むと、ソルダートは地図を丸めてファントムに渡した。
「じゃあ、気をつけてな」
そう言い残して、ソルダートも奥へと入って行った。ソルダートは奥に入るとドワロンに言った。
「なぜあいつらをここに置いとかないんですか? 拳闘場のことぐらい構わないじゃないですか」
師匠を責めるような口調だ。
「いや、なに、そんなことわしもどうだって構わん。あいつらを出すのはな、今ここにいると伸びんと思うからだ。あいつらはまだまだ若い。ひよっ子だ。だがな、器は大きい。こいつら凡才とはわけが違う」
ドワロンは、道場で気勢を上げながら、へっぴり腰で撃剣をやっている大勢の新入りの弟子たちを指して言った。
「そういうことですか」
ソルダートはドワロンの意図をすぐに察して頷いた。
「それにしても急なことですね」
「なに、出すなら早い方が良い。わしはこないだのディングスタのことが気になって仕方がないのだ」
「あの首のない死体のことですか」
ドワロンは黙って頷くと、
「奴が何を企んでいるのか読めん。しかし、いずれにしろ良くないことが起こりそうだ。そのためにも奴に敵う剣士を育てておきたい。あの二人は世間を知らん。この町から出たことがない。何よりもまず広い世界に出て、精神の修養を積むことが大事なのだ。あの二人はそれに適っている。それだけの大器だ。純粋な心、正義の心、それに情熱を持っている。決して誰でも外で修業ができるというものではない。あの二人なればこそだ」
ソルダートは納得して、
「なるほど。先生の深慮遠謀には頭が下がります。それにしても、あの二人だけでは外はまだ危険すぎはしませんか?」
「それを乗り越えてこそだ」
ファントムはそんなこととはつゆ知らず、破門されたことにがっかりしていた。オクスはカッカしている。
「体よくお払い箱だ。さあ、こんなとこさっさと出て行こうぜ!」
ファントムは少し考えてみた。
「まあ、とにかくジャバドゥの所へ行ってみよう」
「なんでだ? そんなわけのわからない奴を訪ねて、わざわざ白い森まで。もう剣術なんてごめんだぜ」
オクスはすっかり投げやりになっている。
「そう言うなよ。それじゃあ肉屋に戻るって言うのか? 今朝辞めてきたばかりなのに」
「肉屋には戻らないけど ……」
「それ見ろ、どこにも行く当てがないんじゃないか。こうして地図と金まで用意してくれたんだから、とりあえず行ってみようじゃないか。そこが気に入らなければ、その時はその時でいいだろ?」
ファントムがそう言うと、オクスは少しは気が変わったようだ。
「とりあえずそうしてみるのも悪くないか。それに俺は、いっぺん遠くの町まで行ってみたかったし、そりゃいい考えだ。気に入らなけりゃ、また余所へ行きゃあいいんだしな」
そう言うと、オクスは途端にはしゃぎだした。
「何だこいつ、ころころとよく気の変わる奴だなあ」
ファントムもおかしくなってきた。
二人は道場を出ると、とりあえず旅支度を調えるため、道具屋へ行った。そこで必需品を揃え、次に隣の鍛冶屋へ行った。店にはイレーヌがいた。
「あら、二人とももう道場を追い出されちゃったの?」
「そういうこと」
「まあ、本当? どうして?」
「いいじゃないか、理由なんて。それよりロクスルーへ行くことになったから、装備を調えたいんだ」
「ロクスルーなんてそんな遠くに! 一月以上かかるわよ。でもいきなりどうして?」
「ジャバドゥの弟子になりに行くんだ」
話を聞きつけて、奥から鍛冶屋のおやじが出て来た。
「ロクスルーへだって? そんな危ない。途中に何があるかわからんぞ」
「とにかく長剣があるから、短剣を一本、それから鎧……、鎧は重くなるか。旅に向かないな。短剣を一本だけでいいや」
「短剣ぐらい只でやるけど、どうしても行くって言うのかい? うちで働けばいいじゃないか。二人とも雇ってやるよ。今は鍛冶屋は景気がいいんだ」
ファントムは鍛冶屋のおやじの勧めには全く耳を貸さない。
「行くって決めたんだ。だからおやじさんが言っても聞かないよ」
「そんなに言うんなら、無理に止めはしないが、弓矢は持ってった方がいい。狩りができるしな」
「じゃあ弓矢ももらうよ」
「私も連れてってよ。私も行きたいわ」
イレーヌが言い出した。
「遊びに行くんじゃないぞ。修業だ」
「そうだ。若い娘が冒険なんてとんでもない。何てこと言い出すんだ、この子は!」
イレーヌは父親に叱られ、しょげてしまった。
装備が揃うと、食糧を買いに乾物屋やオクスのいた肉屋へ行った。
「物好きだねえ、ここにいりゃいいものを」
肉屋の禿おやじが言った。しかし止める気もまるでないようだ。
「他に要るものは……」
麻袋に食糧を入れ、それを背負うと、二人は東門に通じる大通りを歩いて行った。
門の所にはイレーヌが待っていた。
「なんだ、連れてかないって言ったろ」
「わかってるわ。見送りよ。気をつけてね」
「うん」
「帰って来るんでしょ。きっと帰ってね」
「わからないけど、いつかは帰って来ると思うよ」
「かならず! 約束よ」
「わかったよ。約束する。じゃあ」
ファントムとオクスは町の門を背にして去って行った。イレーヌの大きな丸い目には涙が溜まっていた。
「冒険野郎なんか好きになるんじゃない」
イレーヌの父親が後ろからやって来て、イレーヌに言った。
「なによ、自分だって昔は冒険野郎だったくせに」
「だからやめた、あんな危険なこと。それに何も得しない。何も残らない。命を失くすだけだ。いつ死ぬかわからんのだ。おまえもあの男のことは忘れろ」
父親に諭されると、溜まっていた涙がイレーヌの目からぽろぽろとこぼれ落ちた。
「忘れられるもんなら忘れたいわよ。でもお父さんのように理屈通りにはいかないのよ。私はいくら言われたって、あの人のやってることは素晴らしいと思うわ。私も男に生まれて来れば良かったって思うわ。だからほっといてよ。もう何も言わないで」
イレーヌはいつまでもファントムたちの後ろ姿を見送っていた。たまに二人が振り返って手を振った。
町の門を出ると、二人は官営農場の中の小道を通って行った。官営農場では貧民窟の者たちが黙々と働いている。
「おい、オクス」
「何だ?」
「なぜこの人たちはここで働いてるんだ?」
「なぜって、賤民だからさ」
「この人たちはずっと町の外に住んでるんだろう?」
「そうだ。貧民窟にな」
「町の中にはやって来ないよな」
「入れないんだ」
オクスはファントムが突然何を言い出すのかと顔をしかめた。
「そいつはおかしな話じゃないか。町の人々が食べる穀物をこの人たちが作って、この人たちは町の品物を買うこともできないっていうのは」
「さあ、おかしいかねえ? 俺はそんなこと考えてみたこともねえな。おまえこそ妙なこと考えるんだな」
「妙なって、この人たちは生まれつきこうなのか。ぼろばかり着て、泥の中で働いて」
ファントムは賤民たちを指差して言った。
「そうだ。貧民窟に生まれたら、賤民と決まってるんだ。官営農場で働いて、少しばかりの分け前をもらって食っていくか、町の門の外で乞食をするかのどちらかだ」
「でも、生まれつきなんて、不公平じゃないか」
「世の中そんなもんさ。俺やおまえがいくら頑張ったところで、王侯貴族にはなれやしない。それとおんなじことさ。こいつらは貧民窟に生まれたのが運がなかったってわけだ。不公平にできてんのさ、世の中なんて。そんなこと考えるのはおまえ一人だけだぜ。こいつらだって考えやしない」
オクスは視線を逸らして、青空を流れて行く雲に目をやった。
「どうもわからない」
「わからなくていいんだ。俺たちに何の関係がある? 知ったことか」
「でも、これがもしかしたらディングスタが言ってた、ガブリエルの書にある、『根源』の仕業じゃないのかなあ」
「何だい、そりゃあ? もうややこしい話はよそうぜ。頭が痛くならあ」
オクスはいきなりあれが旨い、これが旨いと食べ物の話に切り換えた。二人は取り止めもないことを話しながら、官営農場を抜けて行った。
ファントムとオクスは青い森を右にして、ジンバジョー平原の外れを歩いて行く。どこまで行っても同じような景色だ。
「あーあ、どこまで行っても森と平原か。この辺で一休みしようよ」
「そうだな。そう言えば、今日は朝から何も食ってない。昼めしとするか」
二人は木陰に腰を下ろして、麻袋を開けると、干肉と乾パンを取り出して食べ始めた。
「おい、よく食うなあ。その調子だと食糧があっと言う間になくなってしまうぞ」
ファントムはオクスの食欲に呆れてしまった。
「俺は体がでかいから、たくさん食わないと保たないんだ。なあに、食糧がなくなりゃあ、狩りをすりゃいいんだ」
「まあ、そうだな」
食事を終えると再び歩き出した。
「ダフネまでどのくらいかかるんだろう?」
「まあ、十日ってとこかな」
「そんなにかかるのか。遠いなあ」
「だったらどうだ、馬でもかっぱらうか? 馬に乗りゃあ、二、三日で行けるぞ」
「盗みは良くないよ」
「へえー、おまえさんて、本当にお堅いんだなあ」
やがて日が暮れると、二人はちょっと森の中に入った所で休んだ。日が昇る前に目を醒まして歩き出す。そうやって四日経ったところで、青い森の北端に辿り着いた。
「そろそろ食糧が底を突きそうだ。狩りでもしよう」
「そりゃいい考えだ。じゃあ猪でも仕留めて来よう」
二人は森の中へと入って行った。
「おい、綺麗な泉が湧いてるぞ。水を補給しておこう」
ファントムが泉の水を飲み、水筒に入れていると、オクスが肩に鹿を担いでやって来た。
「なんだ、もう仕留めたのか! さすがに早いな」
「元肉屋だ。殺すのは慣れたもんさ」
オクスは早速ナイフを取り出し、鹿の肉を切っていった。
「こうやって薄く切って、荷物にでもぶら下げて、歩きながら干肉にするんだ」
「さすが、元肉屋だ!」
残りは焼いて半分ほど食べた。
「あとは今晩食べることにしよう」
焼いた残りの肉を麻袋に放り込み、薄切りの方を糸で通して、麻袋に結びつけた。二人は水を飲み、立ち上がって火を消した。ところがその時、薮の中から誰か出て来た。
「誰だ?」
「盗賊よお」
見ると、周りからもたくさん集まって来ている。
「死にたくなけりゃあ、持ち物みんな置いてきな」
「何だと!」
オクスは大斧を握り締めた。ファントムも腰から剣を抜いた。
「どうやら死にたいようだな」
盗賊の頭目らしいのが言った。
「何をっ!」
盗賊どもがわっと一斉に襲いかかった。オクスはみんな弾き飛ばすと、スイカ割りのように、パカッ、パカッ、と盗賊たちの頭を斧で叩き割っていく。ファントムもササッと離れた所まで走って、木の幹を背にした。剣など今まで使ったこともない。追って来た賊が突いてきた。ファントムは無我夢中で剣を払うと、次にはザクッ、と盗賊の肩口を斬っていた。
ところがまた一人襲いかかって来た。流星鎚を振り回してくる。ファントムはまた剣で受けた。が、勢いに負けて剣を取り落としてしまった。咄嗟に盗賊に組みついた。そのまま押し倒すと、片手で腰から短剣を抜く。胸を一突き。賊は死んでしまった。
オクスの方は十二人叩き斬って、残った一人が逃げ出そうとするところを、すかさず弓に矢をつがえて放った。賊は悲鳴を上げて転んだ。矢が脚に命中していた。オクスはそいつの襟首をつかんで引きずって来た。
「よう、おまえもなかなかやるじゃないか。二人ぶっ殺したぞ」
ファントムはオクスに声をかけられて、我に返った。
「えっ?」
見ると、自分を襲って来た二人の賊は息絶えている。
「殺ったのか……?」
「そうだ。初めてか?」
「初めてだ。初めて殺した……」
「なるほど。おまえさんは何だかんだ言ったって、人殺しに向いてるのさ」
「…………」
「それよりこいつを生け捕りにしたから、締め上げてみようぜ。宝でも隠し持ってるかもしれねえからな」
オクスは捕らえた賊の生き残りを地面に放り投げた。
「ひえー、お助けをー」
賊の生き残りは命乞いをした。オクスは賊の胸ぐらをつかんだ。
「やい、人を襲っといて、お助けをー、はねえだろが。今からぶっ殺してやるから覚悟しろ」
「何でも差し上げます。宝でも、金でも、何でも。だから命だけはー」
「宝があるのか? じゃあ、宝のありかに案内しろ」
オクスは語気を少し和らげた。
「助けて下さるんで?」
「まだ早い。宝を見てからだ。宝が気に入らなけりゃあ、やっぱりぶち殺す」
「旦那にゃあきっと気に入ってもらえると思いますぜ。きっとお気に召しますとも。何しろバローチやビンライムの隊商から奪い取った 代物ですぜ、ヘヘッ」
「とにかく案内しろ」
オクスは賊を突き飛ばした。賊は片脚を引きずりながら、森の奥へと入って行く。オクスもファントムもあとからついて行く。やがて森の中に小屋が見えた。賊は小屋の戸を開けて入って行く。二人もあとに続いた。
「これがそうでさあ」
賊は大きな宝箱の蓋を開けた。
「わっ!」
中には金や銀がどっさり詰まっていた。
「こりゃすげえ! もう修業なんかやめた。俺たちゃ大金持ちだ!」
オクスがはしゃぎだした。
「おいおい、冗談言うなよ。こんな物のためにわざわざアルバから出て来たんじゃないぞ」
ファントムが語気を荒げて言うと、
「冗談さ、冗談。しかしすげえな、こりゃ。こんなに持ってけないぜ」
「いい物だけもらって行こうよ」
「そうだな。おまえ、どれにする?」
二人は宝箱の中を探った。そうして宝石や金貨を適当に奪った。それからファントムは壁に掛けてある立派な宝剣が目に入ったので、
「これは?」
手に取ってみた。
「そいつはビンライムの商人からぶん奪ったもんで、何でもお城の王様への献上品だったから、頭が愛蔵してたもんでさあ」
ファントムは剣の鞘を払ってみた。見事な刀身だ。
「試してみよう」
「鉄でも切れまさあ」
「それじゃあ――」
部屋の隅に鋼鉄の胸当てが置いてある。ファントムはそれを引きずり出すと、えいっ、と宝剣を振り下ろした。鋼鉄の胸当てが真っ二つに切れていた。
「こりゃあ凄い!」
早速自分の剣と鞘ごと取り替える。オクスも短剣の良さそうなのを取った。
「さあ、もういいだろう。行こう」
「よし、残りはてめえにくれてやる」
「へえ、おありがとうござい」
賊の生き残りは地面に這いつくばった。
「それと、おまえ、馬はいるか?」
「へえ、裏の厩にいやす」
「じゃあ、馬ももらってこう。盗っ人の馬なら奪っても悪かねえだろ?」
オクスはファントムの方を向いてニヤッとした。
二人は盗賊の厩から馬を引き出して跨った。森を出ると、あとは南へ真っ直ぐ向かうだけだ。その日は暮れて、途中で野宿した。次の日も馬でサクレスト平原を駆ける。やがて前方に大きな湖が見えてきた。
「モロトフ湖だ」
「ダフネも近いな」
「今日中に着けるぞ」
二人は湖岸に着くと、しばらく馬を休ませ、自分たちも水浴びした。
「どうした? じっと黙り込んじまって。また難しいこと考えてるのか?」
ファントムがじっと湖面を見つめているので、オクスが横から声をかけた。
「いや。モロトフ湖に来たら、食堂のおやじから聞いたガブリエルの謎の一つを思い出したんだ」
「どんな?」
「はっきりとは覚えてないんだけど、四つの村にそれぞれ賢者がいて、その四賢者をモロトフの湖畔に集めると、バイテンの岩山から起こる、何か悪を滅ぼす途方もないことを教えてくれるというんだ」
ファントムは湖面を見つめたまま言った。
「じゃあ、ちょうどモロトフ湖に来たんだから、四賢者とやらを捜してみるか?」
「ここにはいないんだ。その四つの村の名前さえ忘れてしまったよ」
「なんだ。それじゃあどうしようもないな」
「ああ。難しすぎてさっぱりだ」
「まあいいじゃないか。俺たちは謎解きよりも、まず白い森まで行かなきゃならないんだから。そろそろ行くとするか」
「そうだな」
二人は再び馬に跨り、モロトフの湖畔を南へ向かって進んで行った。湖面に夕日がキラキラ反射している。馬をゆっくり進めながら、オクスがファントムに話しかけた。
「なあ、ファントム、おまえのことは何も聞いてなかったけど、アルバ生まれか?」
「違う」
「どこからやって来たんだ?」
「バイテンの岩山から」
「あんな所に人が住んでるのかよ」
オクスは訝しそうな顔をした。
「住んでないみたいだ」
「おまえ一人で住んでたのか?」
「住んでたんじゃなくて、あそこの洞窟から出て来たんだ」
「バイテンの洞窟から? なんでまた?」
「わからない。フオクという魔術師が俺をこの世界に連れて来た。ついこの間のことだ。だけどその前のことが思い出せないんだ」
「へーえ、変わってるなあ。過去を持ってないのか」
「そうだ。俺には過去がないんだ」
「まあ気にすんなよ。いつか思い出すさ」
「そうだな」
そうだ。自分には過去がない。どういう目的でここにいるのか、全くわからない。改めてそのことを考えさせられると、彼は何だか気が滅入ってきた。湖の照り返しが眩しい。
「俺はな――」
「えっ?」
オクスはしんみりとして、今度は自分の生い立ちを話し始めた。
「俺は実は、タウの生まれだ。アルバじゃ誰にも話したことはないんだが、アルバの人間じゃない。タウの貧しい家に生まれた。兄弟も多くて、俺は盗みをしないとやってけなかった。弟や妹の食う物がないんだ。親父は呑ん兵衛のぐうたら。おふくろは病気で寝たきり。それでガキの頃から盗みで生活してたんだが、とうとうある日、タウの富豪の家に忍び込んだ時に見つかっちまって、追って来た使用人をばらしちまった。十三の時だ。
そのままタウから逃げ出して、遠く離れたアルバまで逃げた。貧民窟に住み着いて、森で狩りをしてるのを肉屋のおやじが見つけ、養子にしたんだ。俺はガキの頃からでかくて化け物と呼ばれてた。力も生まれつき強くて、使用人を一発殴っただけで殺しちまったんだ、殺す気はなかったんだが。肉屋の養子になってからは肉屋で働いてたんだが、肉屋のおやじはある日、俺を近所にいた斧の使い手の所に連れて行き、毎日戦斧を習わせた。何のつもりだったのかはそのあとわかった。
十七になった時、肉屋のおやじは俺に競技会に出ろと言うんだ。で、その時わかったよ、俺を賞金稼ぎに使うため、貧民窟から拾って来たんだって。ところが最初に出た競技会で勝っちまった。何しろ殺らないと殺られるだけだ。俺は必死だった。だがな、三年続けて勝って、俺はつくづく嫌になった。もう充分稼がせたんだし、いい加減やめさせてくれっておやじに頼んだ。おやじはもちろん承知しなかった。いい金蔓だからな。
だけどいつかは負けて死ぬんだ。競技会の時期が近づくと、そればっかり考えてしまう。本当に嫌だぜ、こんな人生。みんなの見世物になった挙句に死んでいくんだ。そこで俺は考えた――いっそのこと負けてやろうって。負けりゃあ、金が入って来ない。おやじも俺を見限るだろう。みんなの前で恥を晒すことになるが、参ったをして負けてやろう。そうすりゃ死なずに済む。そう思ってな」
ファントムはその話を聞いて驚いた。
「じゃあ、あの時、わざとペレクルストに負けたのか?」
「そうじゃない。あれは本当に負けたのさ。わざと負けるつもりだったんだが、あの時は本当に、全然歯が立たなかった。あんな強い奴、今まで競技会に出たことなかったからな。でも運良く殺されずに済んだ。俺は肉屋に戻ると、おやじにやめさせてくれるように頼んだ。今度はおやじもあっさりと、『どこへでも好きなとこへ行きな』、こうだ。腹も立ったが、俺は自由になれるんだって思うと、嬉しくてしょうがなかった。俺には嫌な過去しかない。俺にはおまえみたいに、過去を忘れてしまえるのが羨ましいよ」
ファントムはオクスの意外な一面を知り、何だか彼のことを今まで誤解していたような気がして、ばつが悪くなった。
「へーえ、きみにもいろいろあるんだなあ」
「官営農場でおまえが言ってたことを聞いてると、どうやらおまえがいた世界ってのは、こことはまるっきり違う所みたいだが、この世界ではな、生まれなんだ、家柄なんだ。どんな家に生まれたかで一生が決まっちまう。だから生まれの賤しい者は諦めきれなくて、冒険者になるのさ」
「ふうん、悲しいなあ」
だがファントムには何となく、自分が過去にいた世界もここと大して変わっていなかったような気がした。
「でももう自由じゃないか。生きたいように生きればいいんだろう。誰も咎めたりはしない。それだけでも運がいいんじゃないか?」
「それもそうだ。ものは考えようだな」
オクスは頷いた。日が沈みかけている。二人は馬を駆った。
暗くなってからダフネの城壁に辿り着いた。白い壁の城が湖に飛び出していて、篝火にぼんやりと照らし出されているのが見える。
「今日は街中に入れそうもない。ここで野宿するか」
「そうだな」
二人は焚火をして、遅い夕食をとった。
「ダフネってどんな所だ?」
ファントムが乾肉を齧りながらオクスに訊いた。
「俺もよく知らないが、女王が治めてる。今ある王国の中ではこの王朝が一番古いんだが、最近では国力で他の国に押されてるようだ。何しろ政治を執る奴が古い家柄の者ばかりで固められていて、格式ばかりにこだわっているらしい。女王は男勝りで、結構やるらしいんだが、北のビンライムとの国境がはっきりしてなくて、戦争にこそなってないが、外交で威圧され、領土をどんどん削られているらしい。だから税収も減る一方。軍隊も一番貧弱らしいしな」
「へえー、結構詳しいんだな」
ファントムは感心してみせた。
「なあに、俺のはみんな、肉屋に来る客から聞いた耳学問だ。ほんとか嘘か当てにならないさ」
オクスが謙遜して言うと、
「じゃあ、他の国のことは知ってるかい?」
「ああ、少しはな。何と言っても、今一番強い国はオーヴァールだ。この国はサラデー平原の西の外れから興った新興国家で、デロディア王一代であっと言う間にスヴァンゲル川より西を征服してしまった。この世界は、人が住んでいるとされる土地は大きく三つに分けられる。東からサクレスト平原、ジンバジョー平原、サラデー平原だ。今俺たちのいる所はサクレスト平原の西の端だ」
オクスはソルダートからもらった地図をファントムから受け取って拡げた。
「アルバの町はジンバジョー平原の東の端。これから俺たちは、ここ――」
とオクスは地図を指す。
「サクレスト平原の東の端へ行くんだ。ロクスルーというのは正確に言うと、サクレスト平原より向こうのシャーデン高原の東の端、つまり人の住む東の外れってことになる。デロディア王はこの地図よりずっと西の、サラデー平原を支配している。簡単に言うと、人界の三分の一を有してるってわけだ。
俺の生まれたタウの町は、この地図の南西の端にあるエトヴィクの西方にあり、海に面していて、金銀の中継ぎ貿易で栄えている自由都市だ。人口も最も多く、世界一の大都市だが、儲けているのは一部の商人や特権階級だけで、ほとんどの者は他のどの国の民より貧しい。食糧も不足しがちだ」
「どうしてそんなに貧しいのに、余所へ行かないんだ?」
ファントムにはこの土地のことでよくわからないことが多い。
「みんなわかっちゃいないんだ、自分たちがどれだけ貧しいかってことが。俺は偶然だったけど、タウを出られて良かったよ」
「暗黒都市というのは?」
「噂で聞いたことはあるが、知らないな。誰も知らない、そんなのがあるのかどうかってことも」
オクスは肉をばりばり食べながら話す。凄い食欲だとファントムは呆れた。
「星の砂漠というのは?」
「星の砂漠ってのは、サラデー平原の北の端にあるらしいんだが、誰も行ったことがない。行った奴は二度と帰って来ない。何でもその手前でドラゴンに食われちまうらしい。これもほんとか嘘か知らないがな」
「きみはガブリエルのことは知らないって言ってたな」
ファントムが念のために訊くと、オクスは肉にかぶりついたまま大きく首を振った。
「少しは知ってるよ。実は、町に住んでる者なら誰だってガブリエルのことは知ってる。俺は会ったことがないけど」
「どういうことを知ってるんだ?」
「そいつは町にいればもうさんざん聞いてるだろ。俺もその程度しか知らないな。要するに、ガブリエルってえのはこの世界の人間じゃない。あんたと同じように、余所から来た人みたいだ」
「余所から来た……?」
ファントムには次から次へと疑問が湧き起こってきた。
「アルバに来る前に、バイテンの岩山で会った岩男に聞いたんだけど、この世界の他に、ヨーデムとサバレムという別の二つの世界があるというんだ」
「ああ、そういう噂だ」
「きみはさっき、この世界の人の住む限界ってことを言ったな?」
「言った」
「じゃあ、その先にヨーデムとかサバレムとかいう別世界があって、ガブリエルもそこからやって来て、そこへ帰って行ったんじゃないだろうか?」
オクスはまたかぶりを振った。
「そうじゃない。いいか、教えてやろう。この世界の果ては、やっぱりこの世界なんだ。この世界の南には海がある。エセク海だ。どこまで行っても海だ。この世界の西にも海がある。リーゼ海だ。これもどこまで行っても海だ。この世界の北西は星の砂漠。どこまで行っても砂漠。この世界の北は高原。ビヤンテ高原。どこまで行っても高原。この世界の北東は森。黒い森。どこまで行っても森。この世界の東は山。プラクシーの山。どこまで行っても山。この世界の南東は高原。シャーデン高原。どこまで行っても高原……」
オクスは一々その方角を指差した。
「行った人がいるのか?」
「いないさ。言い伝えだ。まだ言い伝えがある。北の果てまで行くと、そこには黄金郷がある。西の果てまで行くと、そこには永遠の楽園がある。南の果てまで行くと、そこには不老不死の国がある。東の果てまで行くと、そこには神の家がある。三才のガキでも知ってる、この世界に伝わるごく普通の伝承だ。だけどな、ヨーデムとサバレムというのは違うのさ。この地平をどこまで探したって見つからない全く別の地平のことだ」
オクスの話はなかなか面白い。ファントムはしばらくの間、食事も忘れて聴いていた。
「それも言い伝え?」
「ヨーデムとサバレムというのは、百年ほど前にダフネの偉い貴族の天才学者が唱えたという仮説だ。それが広まり、今では通説になっている。みんな本当にあると思ってる」
本当にわからないことが多い世界だとファントムは思った。二人は城の外で眠った。
夜が明けてからしばらく待っていると、やがて城門が開いた。例によってここの門番も通行料をせびる。二人は銀貨一枚ずつ渡して門をくぐった。
「ちぇっ、どこへ行っても銭に汚ねえ野郎ばかりだ。銭なんか渡さずに、いっそのことぶっ殺して通ってやろうか」
オクスが門番の前で大声を上げた。
「物騒なこと言うなよ。今は我慢だ」
ファントムがなだめた。オクスの図体と大斧を見て、門番は刃向かうどころかこそこそと門番小屋へ逃げ込んでしまった。
ダフネの町は早朝とはいえ、アルバに比べると静かで、人もほとんど歩いていない。古い石畳の道が真っ直ぐ続き、両側には石造りの家が並んでいる。時々家の中から声がする。
「静かな町だ」
「この辺はそうだろう。もっと中心の方へ行ってみよう」
二人は馬を曳いて石畳を歩いて行った。時々二階に干してある洗濯物の滴が落ちて来たり、窓を開けた家の台所から朝餉の匂いが流れて来たりする。
「そろそろ腹の虫が鳴き出したぜ。どっかでめしを食わねえか?」
「そうだな」
二人は開いている店を捜した。
「あそこに食堂のような店があるぞ。行ってみよう」
馬を外の並木に繋いで食堂に入ってみる。
「ダフネと言えばモロトフ湖の魚料理だ。おい、魚料理はあるか?」
テーブルに着くとオクスが給仕女を呼んだ。
「いろいろあるわよ」
給仕女が近づいて来て言った。客は他に一人もいない。
「お客さん、旅の人? ちょうどいい時に来たわね。今朝は金と銀の夫婦魚が入ったから、この店の名物料理ができるわよ」
「へえ、そりゃいいな。そいつをもらおう」
オクスは舌なめずりして言った。
「でも高いわよ。失礼だけど、お客さんたちに払えるかしら?」
「いくらだ?」
「金貨で五枚よ。高いでしょ」
「高すぎらあ」
「だって貴族しか食べないもの」
「俺たちは腹が膨れりゃいいんだ。そんなわけのわからん魚に金貨五枚も払えるか」
給仕女は慣れているのか、オクスの言い方にも少しも腹を立てた様子がない。
「じゃあ、定食にすれば? お得よ。銀貨二枚で、ライ麦のパンに、トマトとキノコのスープ、半焼け刺魚一匹、豚の切り身の焼き肉、湖蛇の干物、混ぜ野菜、じゃがいもと玉葱のとろ煮、デザートが汁の多い紅い草の実の甘味漬け。おなかいっぱいになるんだから」
「そりゃ、洒落てるな。じゃあ、それを二人前と、猪あるか?」
「あるわよ」
「猪四分の一と、前足の方だぞ、それから、家鴨は?」
「あるわよ」
そのやり取りを聞いていると、こいつはどんな胃袋をしているんだ、とファントムはオクスに呆れてしまった。
「家鴨一羽。焼いてくれ。それと酒だ」
「よく食べるわねえ。でもお酒は朝はダメよ。どっから来たか知らないけど、ダフネは規則が厳しいのよ。お酒は日が暮れてから、酒場でだけ飲んでいいのよ」
「ちぇっ、久しぶりに酒が飲めると思ったら、くだらねえ規則なんぞ作りやがって。じゃあしょうがねえから、めしだけ大至急持って来てくれ」
オクスは注文が済むと水差しの水をがぶがぶ飲んだ。料理が運ばれて来ると、ファントムが給仕女に尋ねた。
「ここからクヴァーヘンの近くまで船が出てるはずだけど?」
「六日に一便、お城の向こうの桟橋から出てるわよ。クヴァーヘンまでは三日。三日前に出たから、あと三日待たないと」
「三日も待つのか。じゃあ馬で行った方がいいか」
「そういうこと」
オクスが肉を頬張りながら頷く。
「それはよした方が利口だわよ。そりゃクヴァーヘンまで馬の方が早く行けるけど、プラクシー川には橋はないし、渡し舟はあるけど、転覆したり、追い剥ぎだったり、ろくなことないから。それに何より、ここからクヴァーヘンまでの陸路はとっても危険なのよ。山賊は出る、怪物は出る、毒虫、毒蛇がうじゃうじゃ。宿もないから食べ物にも困るし、この季節だと川が氾濫するかもしれないから、川縁で野宿してると、寝てる間に流されちゃうかもしれないし……」
給仕女は早口でペラペラと喋った。
「じゃあ、やっぱり船か」
「桟橋の近くに馬商人がたくさんいるから、馬は売って、船で行くのが無難よ」
「そうか、じゃあ船にしようか」
ファントムはオクスの顔を見た。
「それがいい。たまには楽しようぜ」
オクスは食う方に夢中だ。
「いろいろありがとう。助かるよ」
ファントムは若い給仕女に礼を言うと、食事を始めたが、暇なのか、給仕女はつきっきりであれこれ訊いてくる。料理を食べ終えると勘定を済ませ、給仕女に小銭をやった。
「まあ、ありがとう。また来てね」
二人は食堂を出ると、給仕女の教えてくれた船着場の方へ向かった。この辺りは寂れたダフネでも活気がある。モロトフ湖周辺から魚や農産物を運んで来た小船から荷が積み出されたり、それを売り買いする商人の声が盛んだ。湖面に突き出した城へも小船から荷揚げされたりしている。
「とりあえず宿を見つけて落ち着こうか」
二人は船着場の近くで宿を見つけると、早速中へと入って行った。中には宿の女将がいて、二人を見ると声をかけてきた。
「お二人さん、こんなに朝早く、どこから来なすったの?」
「アルバだ」
「そりゃまた遠くから。さぞかしお疲れでしょう。ゆっくりしてってちょうだい」
「二人部屋はいくらだ?」
「一泊銀貨三枚、前払いでね」
「それじゃあ――」
オクスは金貨を一枚つかみ、女将に渡した。
「船が出るまで三泊だ。つりはいいから、せいぜいサービスしてくんな」
「まあ、こりゃ嬉しいねえ。何でもあったら言っとくれ」
宿の女将は二人を部屋へ案内した。
「なんだ、むさ苦しい部屋だな。まあ銀三じゃしょうがねえか」
二人は荷物を下ろして一息つくと、短剣だけ差して宿を出た。
「まず馬を売っちまおう」
「そうしよう」
船着場の辺りにいた馬商人を捕まえて交渉してみる。
「金五ってとこだな」
馬商人はすげなく言った。
「一頭でか?」
「二頭でだ」
「そりゃ安すぎやしないか。一頭金十で売ってるじゃねえか」
「嫌ならやめな。この程度の馬なら、どこへ行ったって金五以上は出ないぜ。かと言って、船に乗せりゃあ割増料金を取られ、おまけに飼葉に困る、世話は自分でしなきゃならねえ。ろくなことないぜ」
馬商人はなかなか商売上手と見えて、旅人の泣き所を突いてきた。
「どうする?」
「まあいいか。盗賊からかっぱらって来た馬だしな」
「じゃあ金貨五枚だぜ」
馬商人は馬を受け取り、金を払うと、馬を曳いてほくほく顔で去って行った。
「どうもあの馬商人に騙されたような気がするなあ。俺は馬の良し悪しはわからないけど、あの馬の方が売ってる馬よりずっといい馬に見えるけどなあ」
ファントムは不満げに言った。
「まあ、考えないことにしようぜ」
二人は船着場の辺りをぶらついた。と、桟橋の所で激しく言い争っているのが聞こえてきた。何気なくその方へ行ってみると、小船で商売をしている夫婦者が、城の兵士と言い争っているのだった。そこへ野次馬たちが集まって来る。
少しの間聴いていると、どうやら税を納めないのでダフネでの営業はまかりならんとの兵士側の言い分。夫婦側は税が年々上がって儲けにもならないとの言い分。見ている野次馬たちは、はたからああだのこうだのと野次を飛ばす。兵士側はとうとう業を煮やし、夫婦者を引っ立てようとした。
「おい、待ちなよ」
見ていたオクスが急に大声を上げた。みんなギョッとしてオクスの方を見た。
「なんだい、てめえらそれでも兵隊か? 弱い者から金をふんだくる時はやけに強いが、隣のビンライムが脅して来た日にゃあ、手も足も出ねえでこそこそと逃げ出しやがる。そんな腰抜けの鼠みてえな兵隊がどこにある?」
「貴様は何者だ?」
オクスの言葉を聞き咎め、隊長らしいのが前に出て来た。
「只の旅人よぉ」
「余所者なら引っ込んでろ。この国にはこの国の決まりというものがある。余計な口出しすると、牢屋にぶち込んでしまうぞ!」
隊長は強がった。
「へーえ、口出ししただけで牢屋にぶち込むってえのもこの国の決まりかよお」
野次馬たちがどっと笑った。侮辱を受けたと思った隊長は、兵士たちにオクスを捕まえるよう命令した。
「こいつを引っ捕らえろ!」
「おっと、おもしれえ。久しぶりに暴れられるぜ」
ファントムは慌ててオクスを止めようとした。
「待て待て、相手が悪い。盗賊とはわけが違うんだぞ」
「おい、黙って見てな」
オクスはファントムを制した。
「相手が女王様の兵隊だからって、黙って間違ってる野郎の言うことを聞いてられるもんか。さあ、かかって来い、腰抜けどもめ!」
そう言うが早いか、オクスは兵隊たちを殴る蹴る、あっと言う間に全員湖に叩き込んでしまった。野次馬たちは大喜び、水の中でもがいている兵士たちに石を投げたり、罵ったりしている。
「おい、ちょっとやばくないか。このままじゃ済まないぞ」
ファントムがオクスに言うと、
「そうだな。こういう時は、さっさと逃げちまおう」
二人は走って路地裏に逃げ込んだ。そこで一息ついていると、たちまち老婆や子供たちが寄って来て、物乞いをした。
「どこもおんなじだ」
銅貨をやって、二人はそこを離れた。
「三日もこの町に隠れてられないだろ?」
「そうだな。早いとこずらかっちまうか」
二人は宿へ荷を取りに行く。旅支度を調えると、船着場の方へ行った。
「馬は売ってしまったし、船は三日後でないと出ない。どうする?」
「そうだな」
そう話しながら歩いていると、先程の馬商人がいて、馬を売っていた。
「俺たちの馬がまだあるぞ。買い戻そう」
オクスは馬商人に近づいて行き、
「おい、馬商人、この馬二頭を買い戻すぞ。いくらだ?」
「こいつはいい馬だ。一頭につき金三十はもらわねえと」
「何だと? ついさっき二頭で金五以上は出ねえと言ってたじゃないか」
「そんなこと言ったっけ?」
「なにっ!」
オクスは馬商人の胸ぐらをぐいとつかんで持ち上げた。
「あ、あ、あんたたちの駄馬はもう売れちまったよ。こいつは別の馬だ」
「いいや、確かにこの馬だ。見ろ、一頭は前足の蹄の上だけ白い。もう一頭は額に白い斑点がある。ちゃんと覚えてるぞ。てめえ、あくどい商売しやがって!」
オクスは馬商人をぶん投げた。馬商人はドボンと湖の中に落ちた。たちまち近くにいた者たちが騒ぎだす。
「さあ、長居は無用だ」
二人は急いで馬に飛び乗ると、湖に沿って南へ突っ走った。
|