3. 魔   女



 二人は町外れの方へ向かってぶらぶらと歩いて行った。しばらく行くと、気勢が上がるのが聞こえてきた。ファントムは声のする建物の中を覗いてみた。中では四人の男が剣を振り回している。その向こうでは、白い顎鬚を伸ばした老人が床に座っていた。戸口には看板が掛かっている。
「何て書いてあるんだ?」
 ファントムは看板に書いてある文字が読めなくて、イレーヌに訊いてみた。
「ドワロンの剣術道場」
 イレーヌは看板の文字をファントムに読んで聞かせた。中にいる四人の男たちは二人一組になって、気勢を上げては剣を打ち合っている。ファントムはしばらくその様子を覗いていた。男たちは外から覗かれていることなど気にせずに、ひたすら剣を振るっている。
「祭典前夜だというのに、よくもあんなに撃剣ばかりやってられるもんだわ」
 イレーヌは呆れて言った。奥に座っている顎鬚の老人は、試合を見ているのか眠っているのか、少しも動かない。ファントムは黙って打ち合いを見ていた。
「やめーっ」
 やがて剣を振っていた男の一人が言うと、剣を打ち合う音がやんだ。
「ドワロンてのはあの爺さんかな? 何者だろう?」
 ファントムはイレーヌに囁いた。
「知らないわ。うちに剣を買いに来たこともないわよ、あんな人たち」
 二人でそう言っていると、
「若いの、お入りなさい」
 顎鬚の老人が言った。見ると、やはり目を瞑っている。
「あなたのことだ」
 老人に向き合って座っていた男の一人が、肩越しにファントムを振り返って言った。
「俺?」
 ファントムはそろそろと老人の前に行って座った。イレーヌもそのあとに続いて座った。老人はしばらく黙っていたが、やがて口を開くと言った。
「そなたの心には迷いがある」
 見ると、老人はまだ目を瞑ったままでいる。
「迷い?」
 老人にそう言い当てられ、ファントムはびっくりした。老人はまた少しの間黙って目を瞑っていたが、やがてゆっくりと目を見開いた。鋭い眼光だった。
「言ってみなされ。遠慮することはない」
「じゃあ……」
 まるで老人の口ぶりに引き込まれたように、ファントムは口を開いた。
「人を殺そうかどうしようか迷ってる」
 ファントムがあっさりとそんなことを言うのを聞いて、イレーヌは驚いてしまった。
「何のためにだ?」
 老人が尋ねる。
「正義のため」
 老人はそれを聞くと、深く頷いた。
「そなたも腰に剣を差している以上、一介の剣士であろう?」
「いえ、これは……、一度も使ったことがなくて……」
「そんなことでどうして人を殺めることができようぞ。そなたはまだ人を殺傷するということが何なのかわかっておらぬ。良いか、この者たちは――」
 老人は自分の前に並んで座っている四人の男たちの方を顎でしゃくってみせた。
「アルバの四剣と呼ばれる者たちだ。剣においてこの者たちの相手になるものは、この町には一人もいない。またこの世界広しと言えども、この四剣に優る者は、わしの知るところ、片手の指の数しかいない」
「五人……?」
 老人はまた深く頷いた。
「そうだ。一人はこのわし。二人目は剣聖と言われたロカスタのサンジェント公。三人目は白い森の剣神ジャバドゥ。四人目が剣王、ビンライムのディングスタ・ピグノー。そして最後の一人が、偉大なる魔導剣士ガブリエルだ。わしはここにいる弟子の四剣に、まだ剣殺の許可を与えていない。更にこの四剣を上回る先程の五剣君のみが、剣殺の極意を心得ておるのだが、五剣君の誰も無闇に己れの剣を使いはしない」
「俺はその五剣君の一人、ディングスタの指図で人を殺すんだ」
 ファントムはディングスタの名が老人の口から出た時には驚いたが、すかさずドワロン老人の言うことに反駁した。ドワロンはそれを聞くと、しばらく苦い顔をして黙り込んでいたが、やがてぽつりと言った。
「ディングスタの剣は邪剣だ」
「邪剣? 邪剣とはどういう意味だ?」
「つまり……」
 ドワロンはまた少し沈黙してから言った。
「奴の剣は正義を得ていない」
「正義を得ていないとは? あなたの言うことがよくわからない。わかり易く言ってくれないか」
「言ってもわからん」
「説明もしてくれないのに、わかるはずがないじゃないか」
「とにかく、ディングスタの一味からは抜けた方が良い」
 ファントムはだんだん腹が立ってきた。
「そんな納得もできないような勧めには従えないな」
「ここで一勝負して行くが良い。たちまちやめたくなる」
「剣で刺し殺す訳じゃない」
「いや、そなたの腕前では人は殺せないと言っているのではない」
「じゃあ、どういう意味だ?」
 ファントムはドワロンがなかなか核心を突いてこないので苛々し、半ばこの老人に失望していた。偉そうなことを言ってはいるが、結局それには確固とした信念も理論もない。どう較べても、ディングスタの方がずっと筋が通っている。何よりもファントムには、この老人のようなもったいぶった言い方が気に入らなかった。
「そなたはまだ若い」
 ドワロンは落ち着いていたが、ファントムはもう喧嘩腰になっていた。
「若ければ間違っていて、年を取っていれば正しいというのか? そんなの無茶苦茶な理屈だ」
「早まるのではないと言っておるのだ。そなたがもしその人物を殺し、その先後悔したりしないと、今断言できるかな?」
 ドワロンはここで語気を強めた。
「それはできない。だから迷ってるんだ」
「迷ってるのならやめることだ。殺してしまってから悔やんでみても、命は二度と戻らぬのだ。その時になって、そなたは自分を責めることとなろう」
 この言葉にはファントムもいくらか動かされた。
「コラールをどう思う?」
「コラールを刺すつもりか? あんな者殺しても何の意味もない」
「だけどそうしなければ、ガブリエルの書は世間に広められないんだ。いつまでもコラールの金儲けの材料でしかない。奴を殺せば、ガブリエルの書が少なくとも今よりは価値が出てくる」
「殺す以外にも方法はあろう」
 ファントムは首を横に振ってみせた。
「今のところない」
「ではこれからその方法を捜すのだ」
「見つかりっこない」
「そう思い込めばそうなる。そう思わなければそうはならない」
「そんなに巧くいくものか!」
「なかなか頑固な奴だ」
「どっちが頑固なんだ!」
「ふうむ……」
 ドワロンはまた黙り込んでしまった。しばらく道場内はしんとなった。外からざわめきが聞こえてくる。前夜祭にいよいよたくさんの人が集まったようだ。と、老人は何を思ったかスッと立ち上がり、足音も立てずに石畳の床を歩いて、奥へと消えてしまった。それを見て、ファントムもさっさと立ち上がった。そのまま出て行こうとすると、またドワロンが現れて彼を呼び止めた。
「せっかく来たんだ。見る物を見て行きなされ」
 ファントムは振り返って老人を見た。ドワロンは細い長剣を手にしている。
「良いか」
 そう言うと、ドワロンは剣を振り被った。その剣を次には目にも止まらぬ速さで振り下ろすと、カッと硬い音がして、火花が一瞬見えたかと思うと、剣は半ば硬い石畳に真っ直ぐ突き立っていた。ファントムは非常に驚いた。さすがに自分で五剣君の一人と唱えるだけのことはあると思った。
「抜いてみろ」
 ファントムはドワロンに近づいて行って、片手で石畳に突き立った剣の柄を握った。力を入れてみたが抜けない。両手で引っ張ったり、揺さぶろうとしたりしたが、剣はぴくりとも動かない。まるで石畳の床に吸い込まれたかのように突き刺さっている。石は欠けたりひびが入ったりもしていない。
「どうすればこんなことができるんだ?」
 ファントムは剣を抜くのを諦めた。
「そう思い込めばそうなると言ったであろうが」
 ドワロンはそう言うと、剣の柄を右手の親指と人差し指でつまんだ。老剣士の腕がゆっくり上がっていくに従い、剣がスーッと床から抜けていった。ファントムはたまげてしまった。
「凄い力だ……」
「力ではない。これはわしの腕力の為せる業ではなく、むしろ精神力によるところが大きい。良いか、そなたは剣という物が単なる刃物だと思っておるようだが、剣も極めれば、ただ人を斬るというところから、別の境地へと入って行くことができる。その時には剣は武器ではなくなる。
 この境地に達した者は数えるほどしかいない。それまでになるには、剣を踊らせることができるほど剣の修業を積む必要がある。しかしたとえそこまで修業したとしても、新たな境地に誰もが達することができる訳でもない。だがそうなった時には、目の前が開けるのだ。それはまるで、濃霧の中から突然太陽の中に飛び込んだようなものなのだ。所詮、剣というものは、そこへ達するための一つの道に過ぎない」
 老人はそこで言葉を切ると、剣から手を離した。剣は踊りながら宙を舞っていたが、やがて魂が抜けたようにからりと床に落ちて動かなくなった。ファントムは呆気に取られて声も出せずに見つめていた。
「剣聖サンジェント公は、剣には魂が宿ると言った。その剣に宿った魂と対話することは難しい。だがディングスタがなぜ若くして境地を開いたか? それは、確かに彼には生まれながらの天性があったが、奴はある剣を手に入れたのだ。その剣とは伝説に名高い食魂の剣、ソウルイーターだ。奴はとうとう剣に魂を抜かれた。奴がソウルイーターを手にしている限り、わしも奴には敵わんだろう。なぜなら、歩んで来た剣の道は同じだからだ。
 その点では剣聖サンジェント公も、剣神ジャバドゥも同じであろう。だがただ一人、剣魔ガブリエルだけは違う。彼のやり方は全く違っていて、剣など何を使おうと同じだ。そこらに転がっている錆びた剣でも、彼が手にすれば名剣に変わるのだ。それは魔法でも何でもない。彼は剣に頼るということをしない。その点においては、彼だけは剣の達人という範疇には入らない。
 わしが白い森でジャバドゥと共に剣技を磨いていた頃、ガブリエルが一度現れたことがある。彼は我々に剣について尋ねた。我々は答えた。彼は黙ったままで、我々の剣についての意見には頷かなかった。わしとジャバドゥは彼の剣を見せてもらい、それを嘲笑った。少し錆の湧いたなまくらだったからだ。ジャバドゥは冗談半分でガブリエルと手合わせをした。
 ジャバドゥはガブリエルを若造と思って舐めていた。ジャバドゥが力任せにガブリエルのなまくらに一撃を与えた。だが次の瞬間には、ジャバドゥの剣の方が真っ二つに折れていたのだ。わしは驚いて目をこすった。ガブリエルの剣は踊っていたのだ。我々は剣に踊らされていた。わかるかな?」
「…………」
 ファントムはじっと聴き入っていた。
「境地に達するには、剣に身を捧げる方法がある。しかしガブリエルはそのようなことはしていなかった。彼は剣を自分の前に屈服させたのだ。彼の剣は征服の剣だ。彼が魔導剣士と呼ばれるのは、普通の人間からは彼が剣に強く、魔法も使うように見えるからだが、実のところ、彼は魔法を使ったりなどはしない。彼の精神から出た力が全てを為しおおすのだ。剣というものは一つの目に見える形に過ぎない。彼に追いつける者など、一人として現れることはあるまい……」
 ファントムはドワロンの話にいつのまにか惹きつけられていた。
「なぜガブリエルは消えたんだろう?」
「わからぬ。それは誰にも答えることはできない。彼は新しきを追い求める者だ」
「じゃあ、この世の物を知り尽くしたから、他の世界へ行ったということだろうか?」
「そうかもしれん。そうでないかもしれん。憶測するばかりだ」
 ガブリエルがどういう人物なのか、その姿だけはファントムにわかりかけてきたが、その実体は依然としてつかめなかった。
「彼には全ての本質というものが見えるのだ。決してうわべに騙されることがない。つまり、それが強い精神の為せる業だ」
「それを身につけることは不可能なんだろうか?」
「わしの口からどうだとは言えん。ただ、極めて困難なことだとだけは言える」
 ドワロン老人はここで初めて笑った。
「わかりました。コラールを殺ることは見合わせることにします。それを決める力を得るまで、ここでしばらく修業させて下さい」
「それだけのためか?」
「もちろんそれだけではないでしょう。ある程度の力がつけば、きっと剣の力として使います」
「何のためにだ?」
「人のためにです」
 今度はドワロンは皮肉っぽく笑った。
「うむ、それも良いかもしれんな。ただし、わしの剣はあくまで己れ一個の向上にある。人のための剣までは指導できかねる。人のための剣というのは、口で言うほどに易しいものではない。言ってみれば、生殺与奪の剣だ。まかり間違えば悪へと転ぶ。そなたにはまだまだ知る必要がある。そのように軽はずみなことを口にしないためにも……」
 ファントムは少しばかり恥ずかしくなり、弁解しようとした。
「確かに高慢なことを言っているようですが、それでも俺はコラールは別として、青い森のスヴァルヒンだけは必ず倒すと誓ったんです。何もあなたに説かれたから、剣の修業をする気になっただけではないのです。スヴァルヒンには直接の憎しみはありませんが、恩になった者たちがみんな、あの魔女に迷惑を受けています。これを倒すのは善い悪いなどではなく、自分個人の恨みですから」
 ドワロンはファントムの気持ちを察し、顎鬚を撫でながらまた笑った。
「まあ、それも良いであろう。だがこれだけは言える――魔法に、特にスヴァルヒンのような邪悪で強力な魔法の使い手に挑むためには、並大抵の修業では足りんぞ」
「覚悟はできています」
「よろしい。では早速修業に励まれよ」

 ファントムはぶつぶつ文句を言っているイレーヌを追い返すと、四剣たちに並んで石畳の上に座った。ドワロンは再び奥へ行き、太くて長い鉄棒を持って戻って来た。
「そなたはまだひ弱すぎる。剣を振り回す前に、まずは腕力をつけることだ」
 そう言うと、ファントムに鉄棒を渡した。ファントムはそれを受け取った途端、床に落としてしまった。ドワロンは軽々と片手で差し出したが、鉄棒はファントムには支えきれないほど重かった。
「何をしておる! 誰が落とせと申した」
「でも、重すぎて持てません」
「持てなければ抱えておれ。持てないと思えばいつまでも持てない。自分に持てると言い聞かせるのだ」
 ファントムは鉄棒をつかみ直すと、それを両腕に抱え込んで立ち上がろうとした。上体はどうしても真っ直ぐにはならない。
「できる限り最良の姿勢を保て」
 ドワロンは言った。ファントムは顔をしかめたまま、中腰の姿勢で鉄棒を抱えていた。
「では、続けよ」
 ドワロンは四剣に指示した。四剣たちは一斉に立ち上がると、また二組に分かれて撃剣を再開した。
「良いか、余裕を持つのだ。余裕ができれば、この者たちの試合を観察せよ」
 ドワロンはそう言い残して去って行った。
「そんなこと言われたって……」
 ファントムは顔を真っ赤にしながら、四剣の試合を見ようとするのだが、なかなかそれどころではなかった。とうとう重い鉄棒を床に転がして、その場にへたばってしまった。四剣たちは何も言わずに試合を続けている。ファントムはまた鉄棒を拾い上げ、また落とし、また拾い上げと繰り返していたが、遂に腕が痺れて自由が利かなくなってしまった。そのままへたばったままでいると、ドワロンがいつの間にかそばにやって来ていた。
「だらしない。気力が足りぬのだ。そんなことでは剣など手にすることもできぬぞ。さあ、やり直せ」
 ファントムは起き直って再び鉄棒を抱えようとしたが、つかむことすらできないほど腕が痺れていた。
「駄目です。腕が痺れて……」
「何度言えばわかるのだ。できないとは決して思うな。真剣勝負でそう思った時、その者は命を失うことになるのだ」
 ファントムは再び鉄棒を持ち上げようと試みた。そうしているうちに両腕の感覚が戻って来て、何とか重い鉄棒を抱え上げることに成功した。するとその時、外がにわかに騒々しくなってきた。
「あれは何でしょう?」
 ファントムは気になって、首だけドワロンに向けて訊いた。
「気を散らすのではない。今していることに打ち込むのだ」
「はい」
 老ドワロンは平然としている。しかし、外の騒ぎが尋常のものではなくなってきているのがわかる。女子供の泣き叫ぶ声がしきりに飛び交っている。ファントムはイレーヌのことが心配で、気が気ではなかった。少しするとドワロンは外へ出て行った。

 既に日は落ちていたが、祭典のために街中に篝火が燈され、外は明るかった。ファントムは我慢できなくなって、鉄棒を投げ出すと、外へ駆け出した。走って来る女を一人捕まえ、何があったのか尋ねてみた。女は怯えていて要領よく喋れなかったが、何とか事態が呑み込めた。女が言うには、魔女スヴァルヒンの予告が降ったということだった。予告とは何だとファントムが訊くと、広場に夜空から人の手足が落ちて来たのだと言う。
 町は蜂の巣をつついたような騒ぎだった。人が多すぎて、家に逃げ帰れないでいる者でごった返している。宿屋もすし詰めで、入口で押し合って騒いでいる。ファントムはイレーヌの姿を捜し求めた。転んで踏みつけられる者が出ても、あとから来た者は助けようともしない。みんな自分一人が逃げ延びようとすることで精一杯のようだった。ファントムは人の波を掻き分け掻き分け、周囲を見回しながら広場の方へと進んで行った。
 広場では兵士たちが、町の名士や賓客たちを退避させていたが、その兵士たちの手足が震えているのがわかる。
「スヴァルヒンとはそんなに恐ろしい魔女なのか?」
 ファントムにはスヴァルヒンとはどんな魔女なのか、見てみたい気持ちが湧いてきた。しかしそんなことよりも、イレーヌがこの騒ぎの中で怪我でもしていないかと心配で、彼女を捜すことの方が先だった。しかしあまりにも人が多すぎる。これでは到底イレーヌを捜し出すことなど不可能だ。
 そうやって人混みの中で途方に暮れて立ち尽くしていると、突然上空で稲光がした。空に黒雲が広がっていき、その中から翼の生えた醜い生き物が降りて来た。翼獣は広場の真上に来て止まった。その背中の上に、黒いマントを身に着け、片手に銀の竿を持った女が立っていた。
「あいつがスヴァルヒンか!」
 ファントムは空を見上げて、翼獣と魔女の様子をじっと窺っていた。広場には悲鳴と泣きわめく声が満ち溢れた。
 翼獣はしばらくすると更に低く降りて来て、激しく羽ばたいた。背中の魔女は人々の騒ぐ様子を見てニヤリとしたが、やがて口を開くと、声が夜空いっぱいに響き渡った。
「なんと楽しそうに騒いでいること。私は幸せそうな者たちを見ると、つい悪戯をしてやりたくなるのさ。愚かでちっぽけな、何の力も持たぬ弱々しい者どもよ。私がこれからこの手でアルバを破壊する力をよく見ているが良い」
 魔女は天に響くような笑い声を上げると、手にした竿を一振りした。ファントムは唖然としたままスヴァルヒンを見続けていた。どんなに醜くて恐ろしい顔をした老婆かと思っていたら、それどころか、氷のように冷たい顔つきをしてはいるが、まさに絶世の美女と言って良かった。
 魔女の竿の先についた銀の透かし彫りの飾りが閃くと、上空の雲がゴロゴロと鳴りだし、次に稲光が走った。その電光が広場の周囲に植えてある木々に落ち、真っ二つに木々が裂けた。魔女は竿をもう一振りした。すると、倒れた木々がむくむくと起き上がり、ゴーレムに姿を変えた。ゴーレムたちは泣き叫ぶ人々に容赦なく襲いかかって行く。町の兵士たちはいつの間にか姿を晦ましていた。ファントムは慌てて剣を抜こうと腰に手をやったが、剣はドワロンの道場に置いてきてしまっていた。
 再び稲光がして、今度は広場の近くの建物がいくつか砕け散った。その激しいエネルギーのために、建物に入っていた者たちの肉片が飛び散った。それを見て気を失う者もいた。スヴァルヒンはまた竿を一振りした。すると次には砕けた石壁がゴーレムに姿を変えた。もう一度スヴァルヒンが竿を振ると、今度は飛び散った肉片がゴーレムになった。三種類のゴーレムたちは所構わず暴れ狂った。
「畜生! 誰か武器を持ってないかっ、誰か武器をっ!」
 ファントムは叫び続けた。誰も彼に構っている者などいない。彼は逃げ走る人々に倒されたり、立ち上がったりするだけだった。
 やがて広場から人が減った頃、向こうの方から吼えながら、大斧を手にした大男が突進して来るのが認められた。男はゴーレムどもに手当たり次第に斧を振り下ろしている。
「オクスだっ!」
 ファントムは叫んで、大男の方へ駆けて行こうとした。とその途端、後頭部に強い衝撃を受け、前のめりに倒れた。
「スヴァルヒンめ……」
 叫ぼうとしたが、意識がすぐ薄れてしまった。

 一方、ディングスタたちは寺院でファントムを待っていたが、なかなかやって来ない。
「ファントムは何をしているのだ」
「どうせ怖じ気づいたんだろう」
 ドットが笑った。するとにわかに寺院の外が騒々しくなってきた。
「何だ?」
「クラウプト、見て来い」
 ディングスタが命じると、クラウプトは外へ出て行った。少ししてから戻って来て報告する。
「スヴァルヒンがやって来たらしい」
「確かか?」
「手足が降ったそうだ」
「ううむ……」
 ディングスタは腕組みして考え込んだ。
「クラウプト、おまえはコラール邸へ行って、しばらく様子を窺っていろ。もしコラールが戻って来たら、もう一度知らせに来い」
 クラウプトは再び出て行った。
「それからヤーロンはジブランの所へ行き、今夜じゅうに出発できるように支度を急がせろ。ラジエンは墓へ行ってヒッポに小屋に籠もっているように命じ、自分も小屋の中に入って待ち、ガブリエルの書が届いたら、二人でそれを守ってすぐにジブランの店へ駆けつけるように」
「やっぱりやるのか?」
 ラジエンという重武装した男が立ち上がりながら言った。
「もちろんだ。とんだ邪魔物がしゃしゃり出て来てくれたが、それならそれで上手く利用するまでだ。どさくさに紛れて、夜のうちに町の門を開いて出るのだ」
「さすがディングスタだ」
「さあ、急いで行け」
 ヤーロンとラジエンは出て行った。寺院の大聖堂の中には数人が残ったが、その中の一人がディングスタに尋ねた。
「もしもコラールが屋敷に戻って来ていたら、その時はどうするのだ?」
 ディングスタはフッと笑った。
「やむを得ん。死んでもらうまでだ」
 一座はしんと静まり返った。
「私はやると決めたら必ずやり通す。かえって都合が良いではないか。コラールを脅して、直接彼の手から書を受け取ることにする。外が騒いでいる間に、コラール邸の者は皆殺しにして、あとには証人を残さない。コラールが死んでいるのがあとから発見されても、誰もがスヴァルヒンに殺されたと思うだろう」
 それを聞いて一同は納得した。
「スヴァルヒンに罪をなすりつける訳だな」
「ただし、一つ心配なことがある。書がスヴァルヒンに横取りされてしまわないかということだ」
「俺がスヴァルヒンをぶった斬ってやろう」
 ドットが腰の大刀を引き抜いた。
「待て、それは不可能だ。奴は魔女だ。そう易々と刃に掛かるものか。おまえはとにかくコラール邸の者を皆殺しにしろ。書を手に入れてから、スヴァルヒンがそれに気づいて邪魔をするようなことがあった時は――」
 ディングスタは腰の剣に手を掛けた、名剣ソウルイーターに。
「これが黙ってはいまい。あの魔女がガブリエルの書を手に入れようとすることはまずないだろうが、とにかく書が無事に町から出て行くまで、私が奴を牽制しておく」
 一同がしばらく大聖堂で待っていると、クラウプトが戻って来て言った。
「コラールは屋敷に戻っているぞ」
「臆病者めが。で、屋敷に余計な連中が入り込んでいないか?」
「助けを求めて屋敷の中に入ろうとする者はたくさんいるが、高弟たちが誰も入れようとしない」
「聞いたか? コラールとはそういう輩なのだ。殺すに何の余念も要らん。では早速出発するぞ。クラウプトはこれから宿舎へ行け。ズコーティエらに出る必要はなくなったと伝えろ」
 ディングスタがそう言った時、大聖堂の入口から何人かの町民が走り込んで来た。更に何人か、続いて絶え間なく駆け込んで来て、神に祈りを捧げ始めた。
「どうしたのだ?」
 ディングスタが町民たちに訊いた。
「スヴァルヒンが広場に現れたのでございます」
 あとからやって来た者たちは、更に詳しく状況を説明した。大聖堂はたちまち民衆でいっぱいになった。ディングスタは一瞬ニヤッとしたが、すぐに厳しい表情になって、うろたえる民衆を前にして言った。
「よく聴け、善良なる市民たちよ。私はビンライムの騎士、ディングスタ・ピグノーだ。私はたとえ相手が魔女であろうと、手にかけることは好まない。なぜならそれは、一個の生命だからだ。だが、このように被害を受けた者たちを目の前にして、黙って見過ごすわけにもいかない。そこで私はこれから魔女を討ちに行く。たとえ相手がスヴァルヒンであろうと、恐れはしない。私は死を恐れはしない。なぜならば、私は名誉あるビンライムの騎士だからだ。私の剣は――」
 ディングスタは自分の腰の物を高々と掲げた。
「正義の剣であるからだ。心配は要らぬ。おまえたちはここで神に祈っておれば良い。では行くぞ」
 ディングスタは配下の者たちを引き連れて出て行った。民衆たちは歓声をもって彼らを見送った。

 ディングスタ一行はコラール邸へと急いだ。町はどこもかしこも大騒ぎだ。人々はゴーレムどもに追われて逃げ惑っている。コラール邸の前に来ると、クラウプトの言っていた通り、高弟たちが入口で人を阻んでいた。ディングスタは高弟たちの前へと進み出ると、
「貴様らは虫けらにも劣る奴ばら。神に代わって天罰を下す。ドット、殺れっ!」
 ディングスタが叫ぶと、高弟たちは怯んだ。
「おうっ!」
 ドットが吼えると同時に大刀が閃いて、高弟たちの首はまとめて遠くへすっ飛んだ。一同は邸内に躍り込んだ。
「扉を閉めて、鍵を掛けろ」
 ディングスタは最後尾の者に命じた。
「コラールを捜せ。見つけたらすぐに私を呼べ。邪魔立てする者は斬り殺せ」
 一同は武器を手にして四方に散った。邸内には時たま悲鳴が上がった。間もなくコラールが捕まった。ディングスタは腰のソウルイーターを抜き、引き据えられた憐れな老人に突きつけた。
「率直に訊こう。素直に答えたが身のためだぞ。ガブリエルの書はどこだ?」
 コラールは涙ながらに命乞いをした。
「書を差し出せと言っているのだ。わからんのかっ!」
 ディングスタは物凄い剣幕でコラールを怒鳴りつけた。
「書斎の……、壁に埋め込んである……」
 コラールは息を切らしながら言った。
「案内しろ。ガブリエルの書さえ差し出せば許してやる」
 コラールは震えながら、ディングスタを書斎に案内した。コラールが壁の一部を押すと、小さな隠し戸が開いた。コラールは更に鍵を取り出し、隠し戸の奥の鍵穴に入れて回すと、奥にあった鉄製の扉が開いた。
「この中にある」
 確かに黒い革表紙が見える。
「取り出せ」
 ディングスタはコラールに命じた。コラールは躊躇っていた。
「取り出せと言っているのだ!」
 ディングスタはコラールの腕をつかみ、隠し穴の中に無理やり突っ込んだ。
「ギャアーッ!」
 コラールは悲鳴を上げた。隠し穴の口に、先の尖った鉄格子が落ちて来て、コラールの手首を貫いていた。
「こんな罠に掛かるとでも思っていたのか? 愚か者め」
 ディングスタはそのままコラールを引き倒し、剣で鉄格子を突き破った。そしてゆっくりと黒い革表紙の書物を手に取り、頁をめくってしばらく眺めていた。やがて書物を閉じ、笑みを浮かべて言う。
「ドット、この老いぼれをさっさと刺し殺してしまえ」
「ま、ま、待ってくれ。書物を出せば、許してくれると言ったではないか」
 コラールはうろたえて言った。
「何を今更ほざくか、このくたばり損ないめ。この聖なる書物を金で汚し、私腹を肥やした極悪人めが。この私が許しても、神は決して許しはしないぞ。地獄へ墜ちろ、コラール。己が罪を悔いよ」
 ディングスタは剣を振り下ろした。コラールは真っ二つに裂けていた。
「さあ、邸内の者は皆殺しにしろ。ただし、ドットはここに残れ」
 ドットを残してみんな散って行く。ディングスタは剣を鞘に収めると、書棚に近づき、そこから黒革の何も表紙に書かれていないコラールの手記を一冊抜き取った。
「ドット、今からこれを持って墓地へ行き、ラジエンに手渡し、急いでジブランと町を出ろと言え」
 ディングスタはコラールの手記をドットに渡した。
「こいつはガブリエルの書なんかじゃないだろう?」
 驚くドットにディングスタは冷静に言う。
「そうだ。それで良いのだ。今までのことは全て大掛かりな芝居なのだ。まだまだ芝居は続くが……」
「仲間を裏切るのか?」
「ドット、目を覚ませ。ガブリエルの書は誰もが目にすることのできる代物ではないのだ。これは支配者のための書物なのだ」
 ディングスタは本物のガブリエルの書の方を懐にしまった。
「仮に各国の王にこれを読ませたとして、それで何らかの利があると思うか? 王と言えども、この世界全てを治める器の者が一人でもいるか?」
「うう……」
「これは選ばれし者のみのためにあるのだ」
「じゃあ、俺たちの王様、グローデングラップのために、ビンライムに持ち帰ろうとしていたのか」
 ディングスタは軽蔑するようにフッと鼻先で笑った。
「いや、それも違う。我が主グローデングラップ王とて、世界を治める器ではない。また、諸国連合を作ったとて、果たして魔の手に立ち向かえるだろうか? 答は否だ。ただ一人の神に選ばれた皇帝のみがこの世界を統べ治め、それでこそ初めて魔の手に立ち向かうことが適うのだ。そのことがここにはっきりと書かれている」
 ディングスタはガブリエルの書をしまった自分の胸を指さした。
「要するにあんたがその皇帝になる?」
「それしか道はあるまい。異存か?」
「いいえ」
「もはや君臣の礼を重んじる時代ではないのだ。そのような意味のないことにこだわるのは、年老いて時代について行けない石頭の無能者どもに任せておけば良い。今こそ力ある者が世に出ねば、世界は混沌の渦に巻き込まれてしまうのだ。その時に世界を導く唯一の皇帝たる者が、この世界に何人いるか?
 例えばオーヴァールのデロディア王――彼は民を愛し、有能な士を用いること、人後に落ちない。しかし、彼はもう既に穏健篤実な好々爺でしかない。広大なサラデー平原の城々は弟と臣下に譲り、自分は隠居を決め込んでいる。では、その配下のロカスタのサンジェント公はどうか? 彼は剣聖と呼ばれ、その剣の腕においては誰一人及ぶ者がない。デロディア王に見出されてからは頭角を顕し、その武力と統率力によって、次々に敵を屈服せしめ、オーヴァールの領土を拡げていった。しかし彼は所詮、一武人に過ぎん。統治者という点においては、取り立てて誉めるべき所はない。せいぜいロカスタを治めていることがお似合いだ。その他の王侯貴族に至っては話にならん。
 それでは野に埋もれている者はどうだろう? 例えば剣鬼ドワロン、例えば剣神ジャバドゥ。しかしこいつらは己れ一個の向上しか考えられない小乗的な奴らだ。例えばオリカのフオク。いやいや、単なる魔法の専門家に過ぎん。エトヴィクのズコーティエ、ダフネのライゲンツ。駄目だ駄目だ。舌先三寸の軽薄な輩だ。奴らは口の巧さ以外に何の取り柄も持たない。つまり私の見たところ、私以上の者などこの地上に見かけたこともないのだ」
 ディングスタの自身溢れる言葉に、ドットは感動を覚えた。
「俺はあんたについて行く。あんたが死ねと言えば、今すぐにでも死んでみせる」
「ドット、どんな者にも命は一つしかないのだ。粗末にするな。たった一つの命、有意義に使え」
「わかってる。俺は馬鹿だが、生命力だけは人一倍強い」
 ドットは坊主頭を撫でてみせた。それを見て、ディングスタは微笑を浮かべた。
「おまえは大した奴だ。さあ、ラジエンに贋の書を渡して来い。そのあと、一芝居打ってもらうぞ」
「何をすればいいんだ?」
「私はこれからスヴァルヒンと一試合して来る。適当に頃合いを見計らってから消える、魔女に殺されたと誰もが思うようにな。おまえはその辺に転がっている死骸の首を切り、私が消えたあとで、首のない死体に取りすがって大声で泣き叫ぶのだ。
 数日してからおまえはその高弟の胴体を棺に収め、官庁へ行き、ビンライムへの帰国を申し出る。騎士ディングスタ・ピグノーの屍を国に護送するという名目で。その際、なるべく人の目を牽くように大袈裟にやるのだ。そしてアルバの統領に、恨み言の一つや二つも言ってやれば良い。この町で留学中の騎士が事故死したことで、ビンライムのグローデングラップ大王が黙ってはいないだろうとか何とかな。
 そのあとは、ビンライムには戻らずにバローチへ行け。私はその頃にはビンライムに帰って軍を整え始めている。その後私は町の宝、ガブリエルの書を盗んだジブラン一味を引っ捕らえ、書を携え――もちろん贋の書だが、アルバに戻って来る、英雄としてな。ジブランたちには気の毒だが、犠牲になってもらうことにする。これでガブリエルの書とアルバは私のものになる。
 それどころかビンライムは近いうちに私のものとなる。そうなれば、ダフネ、エトヴィクと陥とすことは、赤子の手を捻るようにた易いことだ。そうして周辺の町を従え、あっと言う間に、サクレスト平原からジンバジョー平原にかけての広大な領土を支配する。
 次にタウを押さえ、経済的・人口的にオーヴァールに優るようになってから、いよいよスヴァンゲル川を挟んで、デロディア王と雌雄を決することになる。恐らくサンジェント公とやり合うことになろう。その時、剣聖と剣王との一騎討ちを見るが良い。この食魂の剣と、彼の両手にある剣、天王剣と海王剣が火花を散らすのを……」
 ドットは贋の書を手にして出て行く。ディングスタは広場へ向かった。

 広場ではゴーレムたちが暴れ、町は荒れ放題に荒らされていた。ディングスタは立ち塞がるゴーレムどもを切り捨てながら進んだ。通りには逃げる気力も失せた人々が転がっている。彼は、広場で一人の壮士が大斧を手にして、ゴーレム相手に暴れ回っているのに気づいた。
「あれが怪力オクスか」
 ディングスタは立ち止まり、オクスの闘いぶりを見守った。
「あいつは使える。是非配下にしたいものだ。あれならドットといい勝負だろう」
 ディングスタはチラッと空を見上げた。魔女のスヴァルヒンが翼獣の背に立って、こちらを見下ろしている。彼は視線を再びオクスの方に戻した。オクスは斬りまくっている。ゴーレムは斬られても斬られても、次から次へと湧いてくる。それにもめげず、オクスは疲れを知らないかのように、湧いてくるゴーレムを倒し続けた。
「まずいな。このままでは、オクスはいつかはへばってしまうだろう。あの猛牛も底なしの力持ちではあるまい」
 ディングスタが一人で呟いた時、広場の向こうで声がした。見ると、屋根の上に影が立っているのがわかった。
「己れの力は使わずに、もっぱら目眩ましだけの邪悪なる魔女よ。早々に森へ帰らんか。夜になっては飛んで来て、コウモリと少しも変わらぬ獣めが」
 声は朗々と辺り一帯に響き渡った。スヴァルヒンは声の主を睨みつけた。ディングスタも向こうの屋根の上に目を据えた。その者は暗い中で腕を組んだまま、じっと直立の姿勢でいる。翼獣が不気味な鳴き声を上げて激しく羽ばたいた。巻き起こった風が衣の袂を翻す。下の方から篝火の灯りが微かにその影を照らし出した。
「何者だ?」
 ディングスタは影の方に目を凝らした。
「身の程知らずの憐れな人間よ。それほど死にたいのなら、私が楽にあの世へ送ってやろうではないか」
 魔女は屋根の上の影に向かって叫んだ。
「私の術が目眩ましかどうか、身をもって知るが良い」
 そう言うや否や、魔女は竿を回転させた。炎が影目がけて噴き出す。屋根が爆発し、激しく火柱を上げた。しかし炎がやんだ時には、男はいつの間にか他の屋根に移っていた。
「ええい、小癪な!」
 スヴァルヒンは激しく竿を回転させた。屋根が次々に火を噴いたが、男は次から次へと位置を変えていく。
「ハハハハ、おまえの自慢の魔力もその程度か? ではこちらからお返しするぞ。是非ともこれを受け取ってもらいたい」
 男は屋根の上で弓に矢をつがえ、それをキリリと引き絞った。その姿を燃え上がる火炎がはっきりと映し出した。
「ドワロンか!」
 ディングスタの声が思わず昂ぶった。
「困った奴がでしゃばって来てくれたものだ、クソッ!」
 ビュンッ、と矢が空を切った。スヴァルヒンは慌てて竿でよけようとした。矢は銀の透かし彫りに当たって跳ね返った。その瞬間、次の矢唸りがしたかと思うと、翼獣が吠えた。ドワロンの放った二の矢は見事、翼獣の片目を射抜いていた。
 翼獣は空中を激しくのた打ち回った。スヴァルヒンは咄嗟に竿で宙に四角形を描いた。そこにはもう絨毯ができていた。スヴァルヒンは辛うじてその上に乗り換えた。翼獣は目から血を流し、広場の上空を暴れながらぐるぐる回っては吠えている。
「ハハハハ、児戯に等しい。青い森の魔女とはその程度のものか? 目眩ましばかり使いおって」
 ドワロンが笑った。下にいたオクスは、
「そうか、目眩ましか」
 と唸ると、ゴーレムどもをうっちゃっておいて、壊れた礼拝堂の壁を斧を手にしたまま這い登り始めた。
 やがて鐘楼のてっぺんまで辿り着くと、しばらく様子を窺っていたが、翼獣がのた打ち回りながら近づいて来た時に、ヤアーッ、と奇声を発して鐘楼の壁を蹴った。そのまま空中で大斧を振り下ろすと、斧の刃は飛んでいる翼獣の太い首にガッと食い込んだ。翼獣は大きく吠えて更に激しく暴れたが、オクスは斧の柄を放さない。そのまま柄を伝っていって、翼獣の首にしがみついた。翼獣がいくらもがいて振り落とそうとしても、両手両足でしっかりと絞めつけたまま決して放そうとしない。
 魔女はそれを見ると、オクスに術を掛けようと竿を構えたが、そうするとドワロンの矢が飛んで来て、それを払い落とすので精一杯になってしまう。オクスは頃合いを見計らって斧を抜き取ると、次の瞬間には早業で、翼獣の頭を一撃のもとに叩き割ってしまった。翼獣は一声吠えたあと、広場に墜落した。オクスも背中から放り出されて地面に叩きつけられ、気を失ってしまった。
「待て待て、御老体。そいつは私が相手をする。わざわざあなたが出て来るほどのものでもなかろう」
 ディングスタは一部始終を見ていて、慌てて屋根の上に登って行き、矢を射ている老ドワロンの横に来て言った。ドワロンはディングスタの言うことも聞こえないかのように、弓を引き絞っている。
「老人、聞こえないのか!」
 ディングスタはドワロンの弓を掴んだ。
「邪魔をするでないっ! 青二才めが」
 ドワロンはディングスタの手を振り払った。
「耳が遠いらしい」
 そう言うと、ディングスタは屋根から屋根へと素早く飛び移って行き、最後にタアーッと屋根を蹴った時には、スヴァルヒンの空飛ぶ絨毯の上に飛び乗っていた。ディングスタは絨毯の上でスヴァルヒンを前にして大声を上げた。
「邪悪なる魔女め。このディングスタ・ピグノーが相手になってやる。覚悟しろ!」
 腰のソウルイーターを引き抜くや、魔女に打ってかかった。スヴァルヒンは竿で剣を受け止めた。そのまま押し合った姿勢で二人は動かない。ディングスタは今度は小声でスヴァルヒンに囁いた。
「あいつは剣鬼ドワロンだ。相手になるな。それよりこいつを遠くへ飛ばせ。適当な所で私が転げ落ちるから、そうしたらそのまま森まで飛んで行け。今日はもう充分だ。おまえはこのあと、しばらく森に潜んで出て来るな。私が全て上手くやる」
「身の程知らずの人間め、その高慢な口も、もうすぐきけなくしてくれよう!」
 スヴァルヒンは大声でわめいた。
 二人は空飛ぶ絨毯の上で激しく打ち合っていたが、一向に勝負がつかない。絨毯はしだいに遠のいて行く。やがて遠くでどちらか一方の影が転げ落ちて行った。ドワロンはそれをじっと見守っていた。次には絨毯がドワロンに近づいて来て、頭上まで来ると、それに乗っていたスヴァルヒンがドワロンに向かってさも嬉しそうに叫んだ。
「あの身の程知らずの馬鹿者を刺し殺してやったわ。あっははは」
 老ドワロンはそれを聞くと、飛び去ろうとするスヴァルヒンに向けて、すかさず矢を放った。スヴァルヒンは矢唸りを耳にして咄嗟に身を交わしたが、その時は既に遅く、矢が背中に突き立っていた。
「あうっ!」
 スヴァルヒンは悲鳴を上げたが、素早く片手で矢を引き抜き、そのまま逃げ去った。ドワロンはあえてそれを追わなかった。そしてぽつりと呟いた。
「ディングスタが魔女を操っていたか。それなら放ってはおけぬ。ううむ……」

 その後、ファントムが正気を取り戻した時には夜も更けて、わずかに篝火の燃え残った火だけが影を揺らしていた。立ち上がると、まだ目眩がした。頭がずきずき痛む。周囲を見渡すと、人やら瓦礫やら肉片やらが、所構わず散らばっている。あちこちで呻き声がしていた。
 ファントムはしばらくして我に返った。また周囲を見回してみる。
「そうだ、スヴァルヒンはどうなったんだ? イレーヌは? イレーヌ! イレーヌ!」
 彼はイレーヌの名を呼びながら、倒れている人たちの顔を覗いていった。あれほど暴れ回っていたゴーレムも、今は元の石や木や肉に戻っている。
「一体あれからどうなったんだろう? 気を失ってから……」
 ふと見ると、広場の中央に大きな獣が横たわっていた。近づいてよく見ると、片目には矢が深々と突き刺さり、頭には大きな斧を打ち込まれたまま、血を流して死んでいる。
「こいつはスヴァルヒンが乗ってた奴だ。誰が殺ったんだろう?」
 翼獣の周りを回って見てみると、首にも大きな切り口があった。更に近くを歩き回っていると、大男が倒れているのを発見した。
「オクスだ」
 ファントムは倒れている大男に近寄り、体を揺すった。
「おい、オクス、しっかりしろ。死んじゃったのか? オクス! オクス!」
 オクスはどうやら息をしているようだった。ファントムはオクスを揺さぶり続けた。やがてオクスは目を開けた。全身血潮に塗れている。
「あん?」
「大丈夫か?」
「俺はどうしたんだ?」
「知らないよ。怪我はないか?」
「おまえは誰だ?」
「ファントムだ。ほら、昼間肉屋に来ただろう?」
 オクスはしばらく首を捻っていたが、やがて思い出したように言った。
「ああ、おまえか。ところで俺は、ここで何してたんだろう?」
「知らないよ。俺も気を失ってたんだ。俺が覚えてるのは、きみがゴーレム相手に暴れてたことだけだ」
「ゴーレム……? ああ、そうか」
「思い出したのか?」
「思い出した。ゴーレムをいくらぶちのめしても、次から次へと湧いてくるんで、てこずってたところ、あっちの屋根の上に謎の男が現れた」
 オクスは屋根の一つを指差してみせた。
「そいつはとてつもなく凄い野郎で、魔女もてんてこ舞いだった。そいつが魔女のやることは目眩ましだと言ったんで、俺はゴーレムを相手にするのをやめた。そいつは魔女の乗ってた獣の目を、矢でもって射抜いた。魔女は絨毯に飛び移った。俺は礼拝堂の鐘突き台に登って、飛んできた獣の首筋に斧を打ち下ろし、それから頭を叩き割ってやった。獣が暴れて、俺は振り落とされた。それから先はわからない。たぶん地面に落ちて、気を失ったんだろう」
「あれはきみが仕留めたのか?」
 ファントムは広場の真ん中で血を流して死んでいる翼獣を指差した。
「そうだ」
「大したもんだ」
 ファントムが誉めると、オクスは頭を掻いて照れた。
「どうってことないさ」
「あっはっはっはっ」
「わっはっはっはっ」
 二人は大声を上げて弾けるように笑った。しかしファントムはすぐに今の状況を思い直して真顔に戻った。
「それより怪我人を何とかしないか? 焼け石に水だとは思うけど」
「んー、それじゃあ、寺から坊主でも呼んで来るか。死骸もあることだし……」
「それじゃあ、とりあえずそこの礼拝堂に運び込もう」
 オクスは周囲を見回して唸った。
「まあ、それもいいけど、無駄だと思うぜ。多すぎらあ。こっちはたった二人」
「もう手遅れかなあ」
 二人が途方に暮れていると、人が何人か近づいて来た。




次へ   目次へ