1.もう一つの世界
チャイムが鳴った。高校生たちがガヤガヤと廊下を歩いて行く。帰宅する者、クラブの部室へ向かう者、立ち話をしている者、いろいろいる。その中を、笑みを洩らしながら慌ただしく駆け抜けて行く少年がいた。
立木慎悟はパソコンゲーム狂の少年だ。今の彼の頭の中には、今日発売のロールプレイングゲーム、『ファンタジック・エンパイア』のことしかなかった。授業中は飽きもせずに、ずっと『ファンタジック・エンパイア』の広告記事ばかり眺めていた。隣に座っているクラスメートはそれを見て呆れてしまった。
「イカれてるのかよ」
人差し指で自分の頭をつついてみせる。だが慎悟の耳には誰の言葉も入らない。
「とにかく善は急げだっ」
学校が終わると慎悟は自転車に飛び乗り、駅前のゲームショップ、『ドワーフ』へ急行した。飢えた野良犬が這い回るように店の中を捜したが、目当ての物が見つからない。
「あれはないのっ?」
慎悟はとうとう顔なじみの店の主人に食ってかかった。
「あれって?」
「あれだよ、今日発売の『ファンタジック・エンパイア』っ!」
「ええ? そんなの今日発売だったっけ?」
主人は目を丸くした。
「焦れったいなあ、もういいよ、余所へ行くから!」
慎悟は店を飛び出した。そのまま何軒もショップを回ってみたが、『ファンタジック・エンパイア』など売っていないし、聞いたこともない、とどこでも言う。
家に帰って来ると、体じゅうの力が抜けて、慎悟はへなへなとパソコンの前に座り込んでしまった。
「なんてこった……」
期待していたものがはぐらかされて、どうにも立ち直れない。しばらくして無意識にモニターのスイッチを入れた。
「しょうがない、あれでもするか」
そう独り言を言って、やり慣れたゲームの一つを手に取った途端、モニターに奇妙な映像が映りだした。もやもやした物が映り、だんだん形を成してくる。
「あれっ?」
慎悟は呆然と見とれていた。みるみるそれが文字を形作った。『Fantasic
Empire』
「あれ、あれ?」
続いて背景に古城が顕れ、そこから鎧を着た兵士たちが続々と繰り出して来た。それを見ていた慎悟の顔には、驚きと喜びが満ち溢れてきた。
そのまましばらく見とれていたが、兵士のデモンストレーションはいつまで経っても終わらない。慎悟は待ちきれずキーを押した。
「何だ、これは?」
いくらキーを叩いても、兵士が城から繰り出して来る場面は変わらない。慎悟は自棄になってキーボードを叩きまくった。
「叩いても駄目だ」
背後で声がした。慎悟はハッとして振り返った。長くて真っ黒な衣を身にまとった中年の男が、どこからどうやって入って来たのか、慎悟の後ろに腰掛けている。よく見ると、腰掛けているのではなく、その姿勢のまま宙に浮いているのだった。
「おじさん、誰?」
慎悟は恐る恐るその男に尋ねた。
「そのゲームはそこに座っていても始まらないのだ。私か? 私はおまえを連れに来た。名前はフオク。フオク・ホーケン。魔術師だ」
男は目を細めてみせた。
「連れに来たって、どこへ?」
「行けばわかる」
「なんで俺が行かなくちゃならないんだよ」
「そう決まっているからだ」
慎悟は怖くなってきた。
「俺はどこにも行かないぞ。あんた、俺を誘拐しに来たのか?」
「違う、フオクだ。魔術師フオク。ほら、見ろ」
フオクは慎悟の前のモニターを指した。慎悟が振り向くと、さっきまでのシーンは消えていて、暗い洞窟の内部が映っている。
「そんな馬鹿なっ! ここに入れって言うのか?」
「そうだ、物わかりがいい。さあ」
と言って、魔術師フオクは慎悟の背中を強く押した。
「わっ!」
慎悟が改めて辺りを見回してみると、薄暗くてはっきりしないが、どうやら洞窟の中に入ってしまったらしいとわかった。
「ここはどこなんだ?」
「バイテンの洞窟だ」
フオクはカンテラに灯を入れた。
「帰してくれ、俺の部屋に」
慎悟は洞窟の壁を引っ掻いた。
「そっちは行き止まりだ。さあ行くぞ」
フオクはもう歩き出している。
「どこへ行くんだよう。嫌だあっ!」
慎悟は這いつくばったまま、泣き出しそうになった。
「おおーい、待ってくれえ、フオクー!」
「早く来ないと置いていくぞ」
フオク・ホーケンの声が洞窟内に響く。
「待ってくれ、こんなとこに置いてかないでくれよー」
カンテラの灯はもう遠くなっている。慎悟は慌てて明かりを目がけて走り出した。しかしいくら駆けても灯が近づかない。
「おおい、待ってくれー!」
慎悟は無我夢中で暗い中を駆けた。途中で何度も壁にぶつかり、手や顔をすりむいた。
もうこれ以上走れないと足を止めた時、前方でフオクの声がした。
「出口だ」
慎悟は這って行った。遠くに明るい洞窟の出口が見えた。そこには外界の光がキラキラと交錯し、まるで夢の世界のような気がする。外ではゴーゴーと唸りがしていて、乾いた風が吹き込んで来る。
フオクは出口を指差すと、振り返って慎悟に言った。
「おまえはあの出口を出ると、独力で生き抜いて行かねばならん。だが、おまえはまだまだ未熟で、到底それは適わんだろう。この世界は己れの力だけが頼りだ。力なき者は生命を失うか、あるいは名誉を失い、一生奴隷として生き延びて行くしかない」
慎悟はまるで狐につままれたような気分だった。
「じゃあ、一体どこへ行けばいいんだよ」
自分はすぐに元の部屋に戻るんだと思うのだが、ついそんなふうに訊いてしまう。
「アルバの町」
「そんな所へ行って、一体何になるって言うんだ?」
「私に訊いても知らん。とにかくおまえは招かれたのだ。私の方こそ訊きたい、なぜかとな。ガブリエルに会うことができれば、全てが明らかとなろう」
「じゃあ、そのガブリエルはどこにいる?」
慎悟はプンプンして言った。
「私が知るわけない。おまえが捜し出すのだ」
「そんな無茶な」
「無茶でもおまえが捜し出すしかないのだ」
「どうして俺が?」
「おまえはファントムだからだ」
「ファントム? 違う、俺の名前は……」
慎悟は自分の名前を言おうとしたが、どうしたことか思い出せない。そこで友人や家族や有名人の名を思い出そうとしたが、やはり浮かんでこなかった。
「だから言っただろう。これからおまえはファントムだ。ファントムでなければこの世界では通用しないのだ。それでこそ偉大な魔導剣士ガブリエルを見出すことができるのだ。ではこれをやろう」
フオクは慎悟の掌に五枚の金貨を載せた。
「金貨?」
「この世界では金が要る。それに知恵と力と……。ではさらば」
カンテラの灯と共にフオクの姿は消え去った。慎悟はあらん限りの声でフオクを呼び続けたが、二度と返事はしなかった。仕方なくファントムになった慎悟は、洞窟の出口に向かってとぼとぼと歩き出した。
出口が近づいた。初めて見る別世界に、彼は期待に胸をときめかせ、またそれ以上に不安も抱いた。
「アルバの町……魔導剣士ガブリエル……」
たった今フオクから聞かされた名を忘れまいと、口の中で呟いた。まさか元の世界に戻れないこともないだろう、と楽観的に考えようとした。
洞窟を出ると、辺りは岩ばかりだった。どうやら岩山の中腹のようだ。空は真っ青に晴れて、雲一つない。暑かった。空気が乾いている。日が照りつけて、肌を焼くようだ。
「アルバの町はどこだろう?」
手掛りになる物は何もない。ファントムはしばらく辺りを歩いてみたが、結局岩山を下ることにした。岩山の上にはどう見ても町らしきものはなさそうだったからだ。
「とりあえず山を下りよう」
しばらく岩を伝って行くと、やがて眼下に荒涼とした景色が開けた。見渡す限りの荒野だった。彼は次第に心細くなってきて、ふと後ろを振り返った。もう一度洞窟に引き返し、フオクを呼ぼうかと考えた。
「人違いだろ、きっと。俺なんか町へ行くどころか、のたれ死にしてしまうのがおちだ」
彼は抜けるような青空を見上げ、もう進退極まってしまった。涙が出そうになる。空には高い所に鳥が一羽、翼を拡げて浮かんでいる。かなり大きな鳥のようだ。
「おーい、アルバの町はどこなんだあ! 俺はどうすればいいんだあ!」
ファントムはその鳥に向かって叫んでみた。
「知るもんか!」
足元で声がした。ファントムは驚いて下を見た。すると、少しばかり下の方の岩場から何かが起き上がった。
「誰だ、昼寝の邪魔をする奴は?」
起き上がった者が言った。それを見て、ファントムはあっと口を噤んだ。岩が起き上がったかと思った。そいつは人間のような形はしているが、岩と同じでごつごつした奴だった。目も、鼻も、口も、耳もない頭を持っている。
「きみは……?」
そう尋ねながら、ファントムは足元の岩を拾い上げた。この岩の化け物が襲いかかって来たら、そいつをぶつけてやろうというのだ。
「俺か? 俺はズグだ。おまえは誰だ?」
「お、俺は……」
彼は自分の名前を考えた。
「ファントムだ」
その名前しか頭に浮かんでこない。
「ファントムなら知っている。ファントムがこんな所に何しに来た?」
ファントムとは一体何だろう、とファントムは不思議に思った。
「そうだ、きみはフオクを知ってるか?」
「知ってるとも。そう言えばフオクがここにやって来て、ファントムというのが来たら、どうかしろと言ってたような気がするが……」
「どうしろって言ってたんだ?」
「忘れちまった。俺には脳味噌がないから覚えられないんだ。おまえ、覚えてるか?」
「それはこっちが訊きたいところだ」
ファントムは警戒心も緩み、この間抜けな化け物に少し苛々した。
「うーん、どうしろと言ってたんだっけ? ファントムを、ファントムを、食っちまえと言ってたんだろうか、それとも、ファントムを八つ裂きにしろと言ってたんだっけ……」
ファントムはそれを聞くとゾッとして、
「いやいや違う。アルバの町へ連れて行けって言ってたんだ、きっと」
慌ててそう言った。
「そう言ってたような気もするな。そういうことにしとこう。じゃあ、ついて来い」
ズグは山を登り始めた。
「おいおい、待てよ。アルバの町はこの岩山の上にあるのか?」
「ん? 待てよ、アルバの町……、聞いたことはあるんだが、そう言われてみると、どこにあるのか思い出せない」
「馬鹿な、そんな道案内があるもんか!」
「でも何しろ俺には脳味噌がないから、すぐ忘れちまうんだ」
「とにかく、山を下りた方がいいと思うよ。この上じゃないだろ」
「それもそうだ。じゃ、下へ行こう」
今度は山を下り始める。
「やれやれ、こんな奴について行って大丈夫だろうか?」
ファントムは心配になると同時に少々気抜けして、ズグのことがおかしくなってきた。
岩山は険しかった。麓まで下りるのにかなりの時間がかかった。山の麓の岩の上に二人が腰を下ろした時には、日が荒野の向こうに沈もうとしていた。
「アルバの町はどこなんだろう?」
ファントムは心細げに呟いた。
「なあに、すぐこの近くさ。俺はよくアルバへ行ってたもんだ」
ズグが任せとけと言わんばかりに胸を張った。胸から岩のかけらがぽろぽろと落ちる。
「でも見渡す限りの荒野だぞ。町なんか影も形もない」
「きっとどこかに隠れてるんだろう」
「何言ってんだ。町が隠れたりするもんか。ああ、とんだ道案内をつけてくれたもんだ、フオクの奴め」
ファントムはまた泣きたくなってきた。
「何だって?」
[いや、独り言さ。でも、この近くに町があるのなら、山の反対側かもしれないな」
「んー、いいところに気がついた。反対側だから見えないんだ。そうだ、山の裏側へ行ってみよう」
ズグはさっさと歩き出した。
「だけど、ズグ、きみは目がないのに見えるのか?」
「見えるって? とんでもない。おれたち岩人は何も見えたりなんかしないのさ」
「じゃあ、なぜ見えるとか見えないとかいうことがわかるんだ?」
「そりゃあ、適当に言ってるだけさ。他の奴らがそう言うから、ああそんなものかって思うだけだ」
ズグはどんどん岩山を下って行く。
「ふうん、それにしちゃ、結構上手く歩くじゃないか」
「それはわかるんだ、見えなくたってね。俺たちは目では見ないが、心で見るんだ」
「心……? きみたちに心があるのか?」
「あるさ」
「ふうん」
二人は話しながら岩山の裾を回って行った。しかし途中で日が暮れてしまった。
「おいズグ、もう暗くて歩くのは無理だよ。この辺りで休もう」
「ええ? 暗いと歩けないのか?」
「そうだ。目で見る人間は、暗いと歩けなくなるのさ。もっとも、暗くても目が見える動物もいるけど……」
「それならまた日が昇るのを待つとするか」
ズグはそのまま地面に転がってしまった。ファントムも横になった。だが、不安で眠れるものではない。
「おい、ズグ」
「なんだ、寝ないのか」
「眠れるもんか。何が出て来るかわからないんだぞ」
「ああ、眠ってる間に食われちまうかもしれないものなあ」
それを聞いてファントムはゾクッとした。
「何だって? そんなに危険な所なのか、ここは?」
「まあ、ここら辺りは大丈夫だろう」
「本当か? きみは岩だから食われることはないだろうけど、何しろこっちは生身の人間なんだぜ」
「まあ、心配するな。 現れたとしても、サソリか蛇か、そんなとこだろう。ケンタウロスは夜に襲って来ることはないだろうし」
「冗談じゃない、充分危険じゃないか。こんな所で眠れるもんか!」
「それじゃあ、起きときな。俺は眠るよ。おやすみ」
そう言うや、ズグはもう動かなくなってしまった。
やがて空に月が昇り、やや明るくなった。ファントムは月を眺めて思った。
(ここはやっぱり地球なんだ。月が昇るし、日が沈む……。そうだ、きっと生まれ故郷に帰れるぞ。
生まれ故郷の……)
その先が出て来ない。 自分の生まれ故郷の名がどうしても思い出せなかった。
「どうして思い出せないんだろう? 自分の過去のことに限って……」
そのままファントムは周囲に気を配りながらじっと横になっていたが、心地好い風が吹いて来ると、その日の疲れも出て、知らぬ間に寝入ってしまった。
目が醒めると明るくなっていた。 ファントムは体を起こそうとしてギクッとした。
何かが体にまとわりついている。 両手が動かない。 首を持ち上げてみると、蔓草が体に巻きついているではないか。
「眠っている間に、誰かに縛られたんだろうか?」
周りを見回してみると、遠くの方をズグがふらふらと歩いて行くのが見えた。
「おうーい、ズグー!」
ファントムは大声でズグを呼んだ。ズグは立ち止まって、こちらに向き直った。
「俺の名前を呼ぶのは誰だあ?」
「おいおい、もう忘れてしまったのか? ファントムだ!」
「ファントム? 聞いたことがあるなあ」
「昨日会ったところだろ!」
ファントムはのらりくらりとしたズグの態度に焦れてきた。
「ああ、そうだったっけ。何しろ俺は忘れっぽいんだ」
「しっかりしてくれよ。それより、なんでこんなことするんだ? おまえは俺を誰かに売ったのか?」
「こんなことって何だ? 何しろ俺は忘れっぽくて困るんだ」
そう言うと、ズグはのろのろと引き返して来た。
「なんで俺を縛ったんだ? 薄情者!」
「縛った覚えはないがなあ。やっ、待て待て、今おまえに巻きついているのは人喰い草だ。ほら、ゆっくりと岩陰に引きずられて行くだろう?」
そう言われてみると、ゆるゆると体が引かれて行くようだ。
「おい、ズグ、何とかしてくれ。助けろ」
「心配するな。こんなのはこうして……」
ズグは蔓をつかんでブチブチとちぎった。切られた蔓は這って岩陰に隠れてしまった。
「あいつは月が出ると動き出して、寝ている旅人にそっとからみつき、相手にはわからないようにゆっくりと岩陰へ引きずって行って、食べてしまうんだ。人間だとかドワーフだとか、汗をかく生き物の匂いを嗅ぎつけるんだ」
「そうか、危うく食われるとこだったよ」
ファントムはほっと溜息をついた。
「だけど忘れっぽいきみにしては、よくそんなことを覚えているなあ」
「ああ、そうとも。危ない奴が多いからな。そういうことは忘れるわけにはいかないんだ。あっ、そうだ。思い出したけど、アルバへ行くといい」
「だから昨日からアルバを探してるんじゃないか」
「そうだったっけ。アルバへ行って、コラールを訪ねるといいよ」
ズグはポンと手を打った。その拍子に岩のかけらが飛び散った。
「コラールって?」
「思い出したんだが、コラールはこの世界で生き延びる方法をいろいろと研究していて、それを教えてくれる。あんたがこの世界を旅する気なら、まずコラールの学校へ行くべきだ。コラールは欲が深いから、金が要るがね。それでも行った方がいい」
「ああ、ありがとう。この世界を旅する気なんかないけど、とにかく行ってみるよ。でもズグ、きみの言うこの世界って、一体どこなんだ?」
ファントムがそう訊くと、ズグはしばらく黙って首を傾げた。表情がないので、首を傾げるのが精一杯の意思表示のようだ。
「この世界はこの世界さ。どこって言われたって、ここだとしか答えようがないな。あんたの今いるここさ」
そう言って地面を指差した。
「でもこの世界と言うからには、他にも世界があるんだろう?」
「あるさ。ヨーデムとサバレムだ。でも誰も行ったことはない。言い伝えさ。ただ誰だか忘れたけど、一人だけ行った奴がいる。そいつは妙な魔法を使い、この世界から消えたんだ。それも言い伝えで、嘘か本当かわからない」
ファントムはそれを聞くとピンと来て、思わず大きな声を出した。
「ガブリエルじゃないか?」
「ガブリエル? そんな名前だったっけかなあ」
「フオクが言ってたんだけど、ガブリエルに会えば、全てが明らかになるそうだ」
「フオクって誰だ?」
「きみは本当に物忘れがひどいなあ」
「まあ、気にするなって。で、これから俺たちどうしよう?」
「アルバへ行くんだっ!」
「そうだった」
二人は焼けつくような荒地を歩いて、バイテンの岩山を回って行った。日も傾きかけた頃、家が一軒、荒野にぽつんとあるのが見えてきた。
「家があるぞ。あそこへ行って、アルバの方角を訊いてみよう」
「そりゃ名案だ」
二人は小屋目指して急いだ。夕方になると、風が出て来た。その小さな家は風に吹き飛ばされそうだった。ファントムは戸を叩いてみた。叩くとそのまま壊れてしまいそうな弱々しい木戸だった。
「どなたかな? 今時分、こんな寂しい所にやって来るのは」
中から声がした。二人は戸を開けて中に入ってみた。
「アルバへ行きたいんだが、どう行けばいいか教えてくれるか?」
ズグが訊いた。小さな小屋の中に、小さな老婆が一人で座っている。
「まあ、その戸を閉めて、こちらに来て火に当たりなされ。風が出て来たでのう。今晩は行かん方がいいさ」
老婆は二人の方も見ずに、火に当たったまま言った。二人は小屋の真ん中で燃えている焚火の傍らに腰を下ろした。
「こんな所に旅人がやって来たのは何十年ぶりかのう」
そう言っている老婆は、萎んでしまいそうに小さかった。
「お婆さんはここに、たった一人で暮らしているの?」
ファントムが尋ねると、
「一人じゃよ」
「それじゃあ何十年も人に会ってない?」
「そういうことさ」
老婆はこっくりと頷いた。
「寂しくはないの?」
「寂しくもないが、人が訪ねて来た時は嬉しいね」
「そりゃ良かった」
「そんなことより、婆さんよう、アルバへはどう行けばいいんだ?」
ズグが口を挟んだ。
「まあ、慌てずとも、今夜はここに泊まっていきなされ。ほれ、もうすぐめしも煮えるだろうよ」
老婆は火に掛けてある鍋の蓋を取り、木の匙で中を掻き混ぜた。旨そうな匂いが小屋の中を流れる。ファントムは空腹を覚えた。思えばフオクに連れられてこの世界に来て以来、何も口にしていなかったのだ。
「ほうれ、どうやら食べ頃じゃろう」
老婆は椀を手に取ると、鍋の中身を木匙でよそった。どろどろの雑炊のような物だ。老婆は二人の前にそれぞれ椀を置いた。ファントムはそれを貪り食った。
「おまえさんは食わんのかえ?」
老婆はズグに尋ねた。
「俺は食えねえんだよ。口がないからな」
「おや、そうかい。そんじゃ、そっちの兄さん、たんとおあがり」
「うん、ありがとう」
何とも言えない味だが、空腹を満たすには充分だった。
「さあ、食べたら今夜はおやすみ。明日は朝早く発った方が良いから」
「ああ、ありがとう、お婆さん」
二人はその場に横になった。老婆は動こうとしない。いつまでも弱くなった火を見つめているようだった。
翌朝ファントムが目を醒ますと、老婆は相変わらず座ったままでいた。
「お婆さん、寝なかったの?」
「わしゃ寝れないのさ。青い森の魔女、スヴァルヒンの呪いが掛かっているから」
「なぜ?」
老婆は座ったまま答える。
「わしは死ぬこともできず、永遠に座り続けることになってしもうた。それは、わしの倅がスヴァルヒンと賭をして、負けたからじゃよ」
「そんなひどい話……」
「仕方ない。スヴァルヒンは恐ろしい魔女じゃ。挑んだ倅が間違ってた」
老婆は特に悲しんでいる様子を見せようともしない。もう苦痛に慣れてしまっているのかもしれない。
「息子さんはどうなったの?」
「スヴァルヒンの魔法でゴーレムにされてしまった」
「ゴーレム……」
「あの岩人がそうじゃよ」
「えっ、ズグのこと?」
ファントムは小屋の中を見回した。ズグはいなかった。
「また昨日のことも忘れて、どこかをほっつき歩いてるんだろうよ」
「なんてひどいことを……」
「仕方ないさ……」
老婆は淡々としているが、ファントムは悲しくなった。ズグもこの老婆も、彼にとっては親切な善い人たちだった。
「よし、お婆さん、待っててくれ。この俺がそのスヴァルヒンとかいう悪い魔女を叩きのめして、きっと二人の呪いを解いてあげるから」
「よしなよ。妙なこと考えるもんじゃない。スヴァルヒンは恐ろしい邪悪な魔女じゃ。このわしも同じ魔女じゃが、スヴァルヒンには到底敵わない」
老婆は大きくかぶりを振った。
「わかった。今の俺じゃあスヴァルヒンに勝ち目はないかもしれないけど、うんと修業して、腕を磨いて、いつかきっと青い森の邪悪な魔女、スヴァルヒンを退治してやるぞ、きっと……」
「ああ、ああ、ありがとうよ。あんたは立派な若者じゃ。でも無茶はなさらんようにな。無茶はいかんよ」
「とにかくこれからアルバの町へ行ってコラールの学校に入り、この世界の知識を身につけなければならないんだ。だから、ねえ、お婆さん、アルバへの道を教えてよ」
老婆はしばらく考えている様子だったが、それからふと思い出したように、
「ああ、コラールかい。あれは名士だから、アルバだけでなく、多くの町や村から学生が集まって来ている。そうだね、まずあそこへ行くのが良いじゃろう。そう、そう――」
そう言うと、老婆は木の靴を一足取り出し、何やら口の中でもじゃもじゃと唱えた。
「さあ、これを履いてお行き。こいつにアルバへ向かうように言っといたから」
「そりゃ凄い」
ファントムは老婆の差し出した木靴を履いた。靴を履くと気づいたのだが、今までずっと裸足で歩いて来ていたのだった。
「それからこれも持ってお行き。この中に入って眠れば、毒蛇やサソリから身を守ることができる。アルバまではまだ何日もかかることじゃろうて」
老婆は丸めた寝袋を差し出した。
「ありがとう。助かるよ。ところで、ズグだけど?」
「あんなの放ってお行き。足手まといになるだけじゃ。さあ、早く行った方がいい」
老婆は頷いた。
「それから、途中に黄色い花をつけた木が生えてるが、その実をもいで食べるが良い。但し一本の木につき、実は一つしかもいではならないよ。二つもぐと木が泣くからのう」
「わかったよ。じゃあ、ズグによろしく」
ファントムは立ち上がった。
「そうだ、お婆さん。お婆さんは魔女なら、ガブリエルって知ってる?」
老婆は皺くちゃの顔をしかめた。
「わしの語れることではない」
「そう。じゃあ訊かないよ」
「達者でな」
「お婆さんもお元気で。いつかきっと帰って来るよ。さよなら」
ファントムは老婆の小屋を出た。
「青い森のスヴァルヒン……、必ずやっつけてやる……」
ファントムは一人呟いた。空は抜けるように真っ青だった。強い風が荒野の砂を巻き上げている。大きな鳥が一羽、空高く浮かんでいる。ファントムは荒野を一人歩いて行った。
ファントムは魔法の木靴に任せて足を動かした。そうしていれば、いつかそのうちアルバの町に辿り着くだろう。やがて夜になり、彼は荒野の真っ只中で寝る羽目になった。早速老婆にもらった寝袋に入った。
次の朝が来た。目を醒ました時は、空がほのかに明るくなりだした頃だった。ふと見ると、寝袋の上をサソリが這っていた。ゾッとして、慌てて払いのけた。先を急いで歩き出したが、空腹と渇きで真っ直ぐに歩けない。やがて日が昇ると、急激に気温が上昇しだした。日の光が肌に照りつけて、喉の渇きが益々激しくなってくる。
「水はないだろうか。食べ物は……」
ファントムは老婆の言っていた黄色い花の咲く木を探した。ふらふらしながら進んで行くと、やがて遠くに木が立っているのが見えた。彼は気力を奮い起こして進んだ。太陽は頭上に来ている。
木のそばまで来てみると、老婆の言っていた通り、黄色い花がいくつか咲いていて、瓜のような茶色い実が四つ、枝からぶら下がっていた。彼はその一つを採ってかぶりついた。汁気が多く、食べるとさわやかな気分になった。体力が湧いてくるのも感じられる。彼は根元に腰を下ろすと、その木に凭れ掛かって実を食べ続けた。
実を食べ尽くすと、そこから遠くを眺めてみた。町らしき物は見当たらない。彼は実をもう一つ採るかどうかを考えた。
「二つは取るなと言われたけど……」
だが、先のことを思うと蓄えが欲しかった。
「木が泣くなんて、まさか……」
ファントムはゆっくり立ち上がると、実をもう一つ手にした。
「あと三つあるんだから、も一つぐらい構わないだろう? 文句があるなら今のうちに言ってくれ」
木に向かってそう言った。木はもちろん何も答えはしない。
「それじゃあ、もう一つ頂くことにするぞ」
そう言って実をちぎり取ると、寝袋で巻き込み、再び歩き出した。日が傾いたが、町はまだ見えなかった。
「いつまで歩けば町に着くんだろう?」
ファントムは寝袋に入ると、実を一つ食べようとした。
「いや、これはまだまだとっておこう」
彼は実を寝袋の中にしまった。
「あと一つぐらい持って来れば良かった」
そう独り言を言いながら、疲れに負けて、やがて彼は寝入った。
夜中になって彼は不意に眠りから醒めた。夢の中に女が一人現れて、泣きながら何かを訴えているのだ。
「実のことを気にしてるから、変な夢を見たんだ」
そのまましばらく寝袋の中で目をつぶって横になっていた。ところが夢の中の女の泣き声の余韻が、耳の中に残っていて消えない。耳を澄ましてみると、泣き声は寝袋の外から聞こえてくるような気がする。彼はそっと内から寝袋を開いてみた。顔だけ出して辺りの様子を窺ってみたが、暗くてよくわからない。泣き声はだんだん近くなってくる。彼は泣き声のする方を向いて、目を凝らしてみた。
空には満天に星が散らばっている。その星明かりの中に影が浮かんだ。彼は身の毛がよだつほどゾッとした。頭が冴えてくるに従い、老婆の言った言葉が頭の中を満たした。
「あの木だ……」
実を奪られた木が泣いている。泣きながら、実を奪った者を追って来たのだ。彼は恐怖の余り、動けなくなってしまった。木はそばまで来て立ち止まり、いつまでも泣いている。
「わ、悪かった。これを返すよ」
ファントムは寝袋の中から片手を出して、実を木の方に差し出した。木は泣きやんだ。彼は寝袋から這い出すと、実を両手で捧げ持ち、ちぎり採った辺りの枝につけた。実はみるみる枝にくっついていった。
「俺が悪かった。ごめん。知ってたんだけど、ついきみの子供を取ってしまった。許してくれ。ごめん」
ファントムは木の前にひざまづいた。すると木はすぐに彼のそばを去って行った。ファントムは再び寝袋の中に戻った。
「やっぱり悪いことはできないなあ、この世界でも……」
そう呟いて、彼はまた眠った。
翌朝目を醒ますと、既に東の空には太陽が昇っていた。おもむろに起き出して、寝袋を丸めた。その足元に何か落ちていた。彼はそれを拾い上げてみた。芋のような物だ。細い毛のような根が生えている。彼は芋を割ってみた。芳ばしい香りにつられ、彼は芋にかぶりついた。みるみる体じゅうに力が湧いてくるのを感じる。彼はふと思った。
「これはあの木の根じゃないだろうか?」
木は実を返してもらった代わりに、自分の根を置いて行ったのではないか。彼にはそんな気がした。
「なんて優しい、賢い木だろう」
目に涙がにじんでくる。木が置いて行ってくれた根を大事にしようと、残りを寝袋に巻き込むと、木の去った方に向かって彼は両手を合わせた。
「さあ、魔法の木靴よ、進め!」
彼はまた歩き始めた。
ファントムは日の昇っている間歩き、夜になると寝袋にくるまって眠り、朝になると芋を少しかじってはまた歩き出した。しかし翌朝には芋も食べ尽くしてしまい、空腹と渇きでとうとう歩けなくなってしまった。彼は大の字になって転がった。日が照りつける。空には一羽、大きな鳥が浮かんでいた。
(俺はここで死ぬんだろうか? 死んで、あの鳥の餌食になってしまうんだろうか?
あいつはずっとついて来たけど、俺が早いうちにくたばってしまうことを知っていて、それを待ち望んでいるようだ)
彼はもう、自分の命を惜しむ元気も失くしてしまった。
そうしてしばらく大地に転がっていると、地響きがしだした。
「何だろう?」
彼は頭をもたげてみた。遠くに土煙が立っているのがわかる。
「何かやって来る。もう俺もおしまいだ。逃げる力もない。どうにでもなれ」
そう呟いてファントムはまた目をつぶった。
やがて地響きが近くなり、彼の傍らまで来るとやんだ。
「人間が死んでいるぞ」
そう言っているのが聞こえた。ファントムはそっと目を開けた。馬がたくさんいるのが見える。いや、よく見ると馬ではなかった。馬の体に人間の上半身が載っている。ケンタウロスだ。そのケンタウロスが十数頭ばかり、手に手に矛を持って彼を取り巻いていた。
「目を開けた。死んでいないぞ」
「人間がたった一人で、こんな所で何してるんだ?」
「おい、人間、何か言ってみろ」
ケンタウロスたちは四本の足でばたばたと足踏みしながら、いろいろとファントムに喋りかけてきた。ファントムは目を開けたまま、ケンタウロスの問いかけには答えようとしなかった。
「人間なら、何か珍しい品物を持ってるかもしれないぞ」
「おい、人間、宝を持ってるなら出せ」
「そんな物、持ってないっ!」
ファントムは突然大声を上げた。ケンタウロスたちはギョッとした様子だった。
「宝物どころか、食う物もなくて死にそうなところだ」
ケンタウロスたちはそれを聞くと、ガヤガヤと騒ぎだした。
「そんな奴は放ってはおけない。困っている者なら誰であろうと助けるのが我々の主義だ」
ケンタウロスの代表格らしいのが言った。
「それなら、アルバの町へはあとどれくらい行けばいいか、教えてくれないか?」
「アルバへ行くのか? それならここから近い。我々の足なら半日とはかからないが、人間だとそうはいかないだろう。おまえがアルバへ行きたいのなら、背中に乗せて行ってやっても良い。どうやらもう歩けないようだからな」
ファントムは内心ほっとした。それくらいの距離なら行けないこともない。気力が戻ってきた。だがここはケンタウロスに乗せて行ってもらおうと思い、わざとよろめきながら体を起こした。
「ありがとう。世話になるよ」
一頭のケンタウロスが背中を差し向けた。ファントムはそれにまたがった。
「アルバへ向かえ!」
頭目が叫ぶと、全員一斉に土埃を巻き上げて駆け出した。ファントムは慌ててケンタウロスの体にしがみついた。
日が沈みかけた頃、前方に町の影がおぼろに浮かんだ。
「アルバだ!」
ファントムは狂喜した。
「アルバに着いてからどうするのだ?」
頭目が駆けながらファントムに訊いた。
「まずコラールの所で修業をして、それから腕を磨く」
「それでどうするというのだ?」
「腕に自信がついたら、とりあえず青い森へ行き、邪悪な魔女スヴァルヒンを退治する」
「何だと?」
頭目は驚いたような顔をした。
「スヴァルヒンを倒すだと? そいつはとてつもなく難しいことだ」
「難しかろうと必ずやって見せる。それくらいのことができずに、ガブリエルを見つけ出すことはできないらしいから」
「ガブリエルだって? それはなおさら難しいことだ」
「だけど俺はガブリエルを捜し出すため、この世界に連れて来られたんだ」
頭目は駆けながら、ファントムに感心したようなそぶりを見せた。
「おまえが敵でないことはわかったが、スヴァルヒンを倒すことさえ大変なことだぞ」
「それよりガブリエルを知ってるのか?」
「誰でも知っている。だが、恐らくガブリエルはこの世界にはいないはずだ」
「ガブリエルってどんな人?」
「偉い奴だ。凄すぎて俺にはわからない」
「ふうーん」
ケンタウロスたちが止まった。見ると、夕陽にアルバの町がはっきりと照らし出されている。
「我々は町には近寄らない。だからここからは歩いて行け」
ファントムはケンタウロスの背中から降りた。
「ありがとう。本当に助かったよ」
「礼には及ばん。それより、スヴァルヒンを倒す時が来たなら知らせてくれ。俺はケンタウロス族の族長、ラシコーンだ。その時は我々も手を貸そう。我々は皆、スヴァルヒンを憎む者たちだ」
ケンタウロスたちは手にした矛をサッと振ってみせた。
「ああ、その時はお願いするよ。俺はファントムだ。いつになるかわからないけど、とにかくスヴァルヒンを倒さなければならないんだ。誓ったんだ」
「わかった。修業に励まれよ。ではさらば」
ケンタウロスたちは向きを変えると、土煙を上げてたちまち駆け去った。
「さようならー」
ファントムはケンタウロスたちの後ろ姿に手を振った。
夕暮れの中、背中に赤い夕陽を浴びて、ファントムはアルバの町へと歩いて行った。近づくにつれ、町の姿がはっきりしてくる。外敵の侵入を防ぐためであろうか、町は煉瓦を積み上げた壁で囲まれている。正面に入り口がある。そこから町に入ろうと彼が入り口へ向かうと、今まさに門が閉じられようとしていた。
「待ってくれ。門を閉めないでくれ」
ファントムは門扉を押している二人の門番を大声で呼び止めた。
「誰だ? 町の者じゃないな」
門番の一人がファントムを胡散臭そうに眺め回した。
「商人か?」
「違う」
「町に何の用だ?」
「コラールに会いに来た」
「もう門を閉じる時刻だ」
「まだ開いてるじゃないか。入れてくれ」
「通行証はあるのか?」
ファントムは首を横に振った。
「なら駄目だ。諦めろ」
「諦めるわけにはいかないんだ。苦労してやっと着いたんだ。入れてくれ」
「明日、出直して来い」
「今入れてくれればいいじゃないか」
「悪いが駄目だ。決まりだから」
「明日なら入れてくれるのか?」
「場合によってはな」
「場合によってとはどういうことだ。いい加減じゃないか」
「おまえみたいな怪しい奴は入れられん」
二人の門番は再び扉を押し始めた。
「待ってくれ。怪しい者じゃない」
「誰が信じるものか」
ファントムの目の前で、重い扉がぎこちなく音を立てて閉まった。
「クソッ、わからず屋っ!」
彼はがっかりして、その場に座り込んでしまった。すると、壁際に寝ていた乞食が這い寄って来た。
「旦那、あれじゃあとても入れてくれませんぜ」
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
「出すもの出さなくちゃ」
「通行証か? そんな物ない」
「いやいや、通行証の代わりになる物さえ出せば……」
「それは何だ?」
「つまり、これでさあ」
乞食は片手の親指と人差し指で輪を作ってみせた。
「ははあ、賄賂か」
「そんな大層な物じゃない。ほんの銀貨の一枚ばかりもつかませりゃあ、すんなり通してくれまさあ」
「銀貨一枚か、しょうがない」
「旦那……」
乞食は手を出している。
「いいこと教えてやったんだから、あっしにも……」
ファントムは苦い顔をしたが、フオクからもらってあった金貨五枚のうちの一枚を乞食にくれてやった。
「こりゃ、金貨か……! いやはや気前のいい旦那で。おありがとうござい」
乞食は壁際に這って戻った。ファントムはその晩は諦めて、門の外で寝ることにした。
翌朝、門扉を開く音で目を醒ました。空がほんのりと明るい。
「や? また貴様か。しつこい野郎だ。とっととどこかへ失せろっ!」
門番はファントムを見つけて怒鳴った。
「いや、今日はちゃんと通行証を持って来たんだ、ほら」
ファントムは門番の手に金貨を握らせた。
「そうか、やっと見つかったか。良かった、良かった。さっさと通れ」
門番の一人はそう言ったが、もう一人がそれを見てすかさずファントムの前に出て来た。
「仕方ない。じゃあ、あんたにも通行証を一枚……」
と言ってファントムはまた金貨を取り出し、その門番にも一枚握らせた。
「あんたはなかなか物わかりがいい。さあ、行きな」
ファントムはやっと町に入ることができたが、フオクからもらった金貨は二枚に減ってしまった。
「まあ、金ぐらい何とかなるだろう」
彼は門をくぐると、左右を見回してから、町の中心部へと真っ直ぐ伸びている大通りを歩いて行った。
しばらく行くと、通りにいい匂いが漂ってきた。見ると、左手に食堂らしいのがある。道端に椅子とテーブルが並べられていて、その向こうから食べ物の匂いがしてくる。彼は椅子の一つに腰掛けた。店の奥を覗くと、主人らしい太った男が料理をしているようだ。
「おい、おやじ、食い物をくれ」
ファントムは奥に向かって叫んだ。
「へい、何が食べたいかね?」
料理をしていた男が表に出て来た。
「何ができるんだ?」
「今日は乾肉が砂蛇、禿鷹、猪、羊、鼠で、パンと、豆に芋にとうもろこし入りのスープと、あとは鳥の卵だ」
「じゃあ、肉は羊、パンにスープ、卵をもらおう。肉と卵は焼いてくれるのか?」
「ああ、いいとも。それより禿鷹の肉にしないか? 余ってるから安くしとくが」
「遠慮しとくよ。羊にしてくれ」
かなり待たされてから料理が出た。久しぶりのまともな食べ物に、ファントムは夢中で食らいついた。
「いやにガツガツ食うね。よっぽど腹が減ってたんだな」
ファントムが料理を平らげたのを見て主人が言った。
「何か冷たい飲み物でもないか?」
「今は水しかないね。酒が飲みたいのなら酒場へ行きな」
「ああ、そうか。じゃ、水をくれ」
主人は水差しと木製の器を持って来た。ファントムは器に水を注いでぐいぐい飲んだ。
「ところで、おやじ、コラールはどこにいるのか教えてくれないか」
「ああ、あんたはコラールの学校に入門しに来なすったのか」
「そうだ」
「どこから来なすった?」
「どこからって……、そう、バイテンの洞窟からだ」
主人はたまらずプッと吹き出した。
「ハッハッハッ、面白いお人だ。気に入ったよ。コラールの学校はこの通りの先の町の広場に面しているからすぐにわかるが、最近はこの町の者だけでなく、エトヴィク、ダフネ、ビンライムの騎士や戦士、バローチ、チャカタン、サラワンの富豪や地主の子息、それに遠くタンメンテの町からやって来た冒険野郎など、留学生もたくさん来ていて大変な人気だから、自然と入門料が高くついて、簡単には入れてもらえないぞ」
ファントムは何となく不安になった。
「ふうん、コラールっていう人はそんなに偉いのか」
「偉かないさ。なんで奴らが集まるのかと言うと、これは奴ら留学生自身から聞いた話だから確かなことだが、みんな目的はコラールとこの蔵書だと、口を揃えて言うんだな。特にコラールの所にはガブリエルの書がある。あいつらみんな、それが目当てなんだ」
「ガブリエルの書というのは?」
ファントムはガブリエルの名が食堂の主の口から出たことに興味を示した。
「勇士ガブリエルは幾多の危険を冒しながら、この世界を一人で旅した男だが、このアルバに来てからは、しばらくこの町に滞在していた。その理由はこの世界の記述をするためだった。たまたま富豪のコラールが彼に住居を提供した。ガブリエルは記述を終えると旅立った。その後、ガブリエルを見た者はいない。
彼はバイテンの山を回って北西に進路を取り、クロウエン砂漠を抜けて、アンデントボーテ山脈を越え、サラデー平原を横切り、星の砂漠へ行ったという。もっとも噂だから本当かどうかはわからない。星の砂漠へ行った者は誰一人としていないから、そんな言い伝えができたんだろう。何しろ、サラデー平原から星の砂漠に入るには、黒龍の丘と白虎の峰の間を通って行かなければならないからな。
コラールはついてた。ガブリエルの残していった記述を独り占めして、それを見たがる者から金を取っては少し口述し、また口述を惜しんでは金を取る。そういうわけで、ガブリエルの書を全て読んだ者は、この世界にただコラール一人だけしかいない。奴が決して偉いわけではないのだ。むしろ奴は意地汚い奴さ」
「おやじさんはガブリエルに会ったことがあるの?」
「話をしたことはないが、あのお方がこの町に滞在している間に、何度か通りかかったところを見かけたことがある」
「ガブリエルってどんな人?」
ファントムはさっきまでこの町の大人に舐められないようにと心がけて、変に大人ぶったふりをしていたが、もうそんなことは忘れて少年らしさが出てしまっていた。主人はかえってファントムのそんなところを面白がり、話をいろいろとする気になったようだ。
「そうさな、遠くから見ただけだが、その時はいつも沈んだ表情をしていて、何か物思いにふけっているようで、考え事をしながら歩いていた。数多くの怪物、妖怪、悪党、魔物と闘い、勝ち抜いてきたというから、どんな恐ろしいゴツい奴かと思ったら、何のことはない、体つきがでかいわけでもなければ、醜い顔をしているわけでもない。目は限りなく澄んでいて、いつも物静かで、落ち着いていて、すれ違った者も、こいつがあの有名な勇者ガブリエルかとはとても思えなかっただろう。
ただ、見ただけでその者を魅了する何かがあった。ここにいる間、特に目立ったことは何一つしなかった。だが彼がいる間は、青い森の邪悪な魔女スヴァルヒンも鳴りを潜め、一歩もアルバに近づこうとしなかった。そこでアルバの統領サンエステは、一人娘を与えて彼を後継者にしようとしたが、ガブリエルは相手にしなかった。彼は記述を終えると、人知れず立ち去った。
彼がこの町に長く留まっていることを知ったビンライムの王、ダフネの女王、エトヴィクの王は、彼を召し抱えようと、先を争って遣いを寄越したが、彼はみんな断った。オーヴァールのデロディア王などは、兵を従えて馬に乗り、直々に彼を迎えに来たが、ここに着いた時には既に遅く、もうガブリエルは去ってしまっていた」
話を聴いていると、なぜかまだ見たこともない、何者なのかさえ定かでないガブリエルに、ファントムは強い憧れを抱いていた。
「へーえ。ところで、ガブリエルの書というのはこの世界の記述なんだろう?」
「そうだが?」
「なぜみんなそれを見たがるんだろう? この世界のことはそれほど知られていないんだろうか?」
ファントムは不思議に思って主人に訊いた。
「確かに、この世界の未知の土地のことを知ろうというのも、コラールの所に集まる目的の一つだが、それよりもガブリエルの書に隠された謎を解き、それによって力を得て、この世界を支配しようというのが一番の目的らしい。だがコラールもしたたかな野郎で、ガブリエルの書をどこかに厳重にしまい込んでいて、町の金持ちや各国の王がいくら金を積んでも、売り渡すどころか、決して見せることもしない。全く独り占めさ」
主人の話を聴いていると、コラールというのは、あの老婆が言っていた名士というのにはどうも当てはまらないような気がする。
「でも、そんなに大した物を独り占めしているのなら、コラールはなぜ世界を支配しないんだろう?」
「しないんじゃなくて、できないんだ。謎の言葉を全て知っていても、どの一つだって、コラールには解けていないようだ。そこでコラールはどうしたと思う?」
「さあ?」
ファントムは首を傾げてみせた。
「愛弟子の一人を呼んで、一つの謎を教え、それを解かせる。また別の愛弟子を呼んで、別の一つを教えて解かせる。決して一人に二つは教えない」
「で、解けたの?」
「それが一つも……」
「そんなに難しい謎なのか?」
ファントムの声はだんだん大きくなってきた。
「その内容は知られていない。ただ、学徒の間にはいくつか広まっている。謎の解けない高弟は、それを弟弟子に解かせようとする。そいつも解けなくて仲間に打ち明ける。そうやってやがてはみんなに知れ渡るんだ。噂では謎は七つあるらしい。謎のことが噂になる前に、コラールは七人の高弟を順番に呼んだということだ。七つのうちの一つだけなら、わしもここにやって来る学徒から聞かされたが、わしにはてんで解けんよ」
主人は両方の掌を上に向けてみせた。
「どんな謎?」
「言ってみようか? こうだ――『バイテンの岩山に風起こり、弱きを救い、悪を滅ぼす。オリカ、チャカタン、モンジョヘ、バローチ、四つの村に四賢者。賢者はそれを知っている。しかし賢者も自身では、それを知らせる由もない。モロトフの湖畔に集う時、四賢を集める者こそそれを知る』、
どうだ?」
「さっぱりわからないな」
ファントムも両手を上げた。
「まあ、解けんでもいいさ。それより、コラールのとこに入門したいのなら、口を利いてやろう。昼になれば誰かやって来るから、そいつから高弟に取り次いでもらうといい。その高弟に金貨の一枚でも握らせときゃあ、宿舎にもすんなり入れる」
「入門するのに賄賂が要るのか。それから入門するにも金が要るんだろう?」
「入門するには金貨が五枚必要だ」
「手持ちの金は金貨二枚だけだ」
ファントムは持っていた金貨を取り出して主に見せた。
「おいおい、それじゃあ入門さえ無理だ」
「じゃあ、働いて金を稼ごう。ここで使ってくれないか、おやじさん」
「使ってやりたいのは山々だが、うちにはあんたに給金を払ってやるほどのゆとりがないよ。それよりも、働くなら鍛冶屋か道具屋がいいだろう。最近はガブリエルの謎を解くのが流行りで、みんな冒険に出かける支度をしている。そこで、剣や防具やその他の旅支度の品を買う者が多くて、鍛冶屋と道具屋は商売繁盛、猫の手も借りたいほどだ。
それとも町の兵士になるか、商人の所へ行って運び屋になり、遠い町へ品物を運んで金をもらうか、これはいい金になるが、危険な目にも遇う。それとも……、そうだな、まあ、町を廻ってごらんよ。掛け合って、良さそうな仕事を見つければいい。しかし官営農場でだけは働かん方が利口だぞ」
主人は当たり前のことだと言わんばかりの口ぶりだったので、ファントムは不思議に思ってその理由を訊いた。
「農場が町の外にあって、まず危険だ。それから同じ理由からだが、荒らされ易く、荒らされて収穫が減った時は、分け前も減るからな。あんな所で働くのは、貧民窟へ行った者だけだ」
「わかったよ。いろいろとありがとう。それじゃあ、いくらになる?」
「金のない者からもらうわけにゃいかない」
「どうせないんだから、金貨の一枚や二枚持っててもしょうがない。ほら、置いとくよ」
ファントムは金貨を二枚、テーブルの上に置いた。
「こんなにたくさん。それにこれじゃあ、あんた文無しだ」
「いやいや、またおやじさんに世話になる時が来るかもしれないから、その前払いさ」
「大丈夫か? じゃあ、食いっぱぐれた時はうちに来な。いつでも食わせてやるから」
「ああ、その時は厄介になるよ。それともう一つ、金の価値を教えてくれないか。金貨とか銀貨とかの」
「そんなことも知らないのか?」
主人は呆れてファントムの顔を覗き込んだ。
「知らないんだ。とにかく教えてくれ」
「金貨は銀貨十枚の値打ち。エレクトラム貨二枚の値打ち。銀貨は銅貨十枚の値打ち。つまり銅貨百枚が金貨一枚と同じだ。あんたが今食べたのが、せいぜい銀貨一枚の値段だ」
「わかったよ。それじゃあ」
「この町にはいい奴もいるが、悪党も多いから気をつけるんだぞ。あんたのように金の値打ちも知らないと心配だよ」
|