序  章



 消え去ろうとする一日を逃すまいと、今にも倒れそうな旅人が、黄色い砂漠を這って行く場面があった。足元には影が流され、もはや彼は一人の人間としてではなく、執念の化け物と化した、一個の異様な物体に過ぎなかった。彼は叫んでいた、ひたすらに――「俺はおまえを逃がす訳にはいかない。俺がもしおまえを取り逃がしたなら、俺にはもう生きてゆく甲斐がなくなるんだ。
 彼の言葉は恐らく誰にも通じなかったであろうし、彼が消えて失くなろうと、誰も気にも留めはしなかっただろう。その通り、彼の姿は誰の目にも映らなくなってしまったのだが、行きずりの同じような旅人でも、そのことをいつまでも気に懸けて歩いて行くような者があったとは考えられぬ。砂漠の嵐は男を消した。やがてその男の体は、再び大風が吹いて、あの時と同じように砂丘を移動させる時に、今度は白っぽい骸骨となって、幾人かの旅人の目に、その散らばった寂しい物体が映るかもしれぬ。
 嘆き悲しんだのは男だけではない。それは誰もだろう。だが、男の心情を知った者は幾人もあったとは言えまい。たとえいかほどかの情熱を有した者でも、翌朝が来れば化石となってしまうことを、あの男は知っていた。砂漠に白骨の似合う男。彼は知っていても、自分の持つ力と意志とは釣り合わぬ。たかが一個体の内圧は、全宇宙を覆う外圧には押し潰されることが必然だったのだ。




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