12.地獄の強行軍! 異邦人秘境をゆく


    5月22日 晴 〜 ヴィジャヤワダ 〜 ヴィシャカパトナム

 朝九時頃、ヴィジャヤワダに着く。ここは日本人の来ない(それどころか外国人は全くいない)所だけれど、却って周りのインド人たちは親切にしてくれる。そこでいろいろ方法を教えてもらい、十一時のバスでとりあえずラジムンドリーへ向かった。
 窓が閉まっていて、温室のように暑い。そこで窓を開けると、熱風が吹き込んで来てもっと暑い。だから窓を閉めて我慢することにした。汗がどっと噴き出してきて、サウナに入っているみたいだ。ここは発想の転換――移動しながらサウナに入っていると思えばいいのだ。奇しくもサウナ付きバスではないか!
 しかしやっぱり暑いのだ。バスが停まった時にはみんな窓を開ける。そうすると、暑いのか涼しいのか謎の風が入って来る。バスが走り出すとまた熱風に変わるので、急いで窓を閉める。熱風により焼死する危険性すらあるかもしれない。
 ミネラルウォーターは湯に変わっている。ボトルの中で蒸発し、内側に水滴ができている。バスの内部にある金属部分を触ると、たちまち発火しそうになる。バスの中が特に温室に変わってしまっているということもあるけれど、とにかく今までで一番暑い日だった。

 ラジムンドリーには午後四時頃到着し、次に六時発のヴィシャカパトナム行きに乗り換える。もう汗をかくのがこんなに不快だと思ったことはない。とにかくシャワーを浴びたい。これで金を払ってまでサウナに入ることなど死ぬまでなくなったに違いない。
 クソ暑いにも関わらず、バスの中では寝てばかりいた。やはり夜行バスでは熟睡していないのだろう。5/21のマハーバリプラム 〜 マドラス 〜 (夜行) 〜 5/22 ヴィジャヤワダ 〜 ラジムンドリー 〜 ヴィシャカパトナムに着いた時は5/23の零時を回っていた。アーンドラプラデーシュの長い海岸沿いを、バスを乗り継ぎながら、丸一日以上移動に費やしていたわけだ。
 特にヴィジャヤワダからあとはローカル・バスだから、苦しんだ割にはたいして進んでいないし、ちゃんと眠れない。本当に今はホテルでほっとしている。ここが外国人未踏の地だというのがわかる。まあ、外国人が誰も来たことがないはずはなかろうが。
 ここはTax(贅沢税)ありのシングル175ルピーの部屋で、中級ホテルだが、インドに来て初めて、宿帳記入の際にパスポートがいらなかった。バスルームはそこそこだけど、シャワーが上に付いていなくて、蛇口だけだ。
 しかしそれにしてもここに連れて来たリクシャー・ワーラーにはまたもやムカついた。ホテルが決まると余分な金を要求してきやがったので、めんどくさいから一喝して追っ払う。どこへ行ってもリクシャー・ワーラーには欲深い奴ばかりいる。だからインドの物価がよくわからなくなるのだ。

 今日はバスを待っている時に、中学生くらいの女の子が英語で話しかけてきた。後ろでお父さんが見守っていて、滅多にいない外国人なので、英会話の練習でも試みてみようといったところだろうか。文法的にはいっぱい間違いはあったけれど、通じたのだからいいだろう。
 そしてバスに乗って出発したのだが、バスがある所で停車した時に、たまたまその子が別方面行きを待っているのを見かけた。なんでこっちが先に出たのに女の子が先にいるんだ。僕が窓越しに呼ぶと、女の子も気づいて寄って来た。飴玉を取り出してやろうとしたのだが、「弟と一緒に食べなよ」とつかませようとしても、躊躇って父親の顔色を伺っている。父親は笑顔でOKしたみたいで、やっと受け取った。
 たかが飴玉ぐらいのことなのに、中流階級の子供はみんなこんな感じなのだ。きっと「知らないおじさんからお菓子をもらっちゃいけない」と躾けられているのだろう。そういうのは僕の子供の頃の日本にもあった。もらっちゃいけない理由は、「誘拐されるから」だった。
 小学校や家でそう戒められてはいても、昔ガキだった頃の僕は、駅前のパチンコ屋から出て来たホクホク顔の見知らぬおじさんからたまたまお裾分けのチョコレートをもらい、それからというもの、しばらくの間はパチンコ屋の前で待機するようになったものだ。


    5月23日 晴 ヴィシャカパトナム 〜 ベランプール

 昨夜は遅かったので、今朝は遅く起きた。最後の山場のハードな移動の続きがまた始まる。十二時半のノンストップ・バスでシュリカクラムまで二時間で着いた。これは一番前の見晴らしのいい席だった。
 そこで降りてバスを乗り継ぐのだが、三時半のバスが来ない。四時半頃オリッサ方面行きのバスに乗り、州境に限りなく近づいたが、またもや名も知らぬバス・ステーションで待たされる羽目になった。
 ここは視線が凄い。気がつくと、バスを待っているみんなが僕を見ているのだ。やはり外国人未踏の地だと感じる。しかし一旦話しだすととても親切で、こうやって行けとか、どこそこで降りて乗り換えろとか、バスが来ると一番前の席を取ってくれたり、とても嬉しい。いつの間にか全員が僕を取り囲んでいた。取り囲んだのが人食い人種でなくて良かった。それでも例によって間違った情報もいくらでも入ってくる。それはここがインドだから。
 シュリカクラムからあとの景色は素晴らしい。東ガート山脈は日本の山に似ていて、夕焼けが綺麗だった。すぐそこのはずなのに、州境の町、チュチャプラムになかなか着かない。夜になってしまった。月が綺麗だ。「月焼け」と言おうか、紫色っぽく空が変わっている。

 また乗り換えて、零時半頃ようやくベランプールに到着した。新宿なんかを『眠らない街』なんて言うけど、インドは『眠らない国』だ。何時でも何らかの店が開いているし、いつまでも人がうろうろしている。
 ここベランプールもそういう人だらけだ。リクシャーは多いけど使わずに、ゴパルプールかどっかへ行くのに、朝までバスを待って、バスの屋根の上に上がって寝ていたりする。今も僕のすぐそばで男が寝ている。道端のアスファルトの上にだ。つまり、僕は今、道端のアスファルトの上に座って今日の日記を書いているわけだ。
 人間とは群をなす生き物のようだ。地べたに座り込んだり寝ころんだりするのが平気な誰かがまずそれを始めると、そのことに少しばかり躊躇いを持ってその辺をうろうろしていた人が、遂には見ず知らずの人のそばまで来ておもむろに腰を下ろす。
 眠りこけている男のそばに腰を下ろした僕のそばには家族連れがやって来て、段ボールを敷いて座った。ここは交番のすぐ前なのだ。僕は明かりが欲しいからここに腰を下ろしたのだけれど、路上は決して綺麗とは言えない。
 しかし根負けしたのか、家族連れはそのうちどこかへ行ってしまった。宿でも見つけに行ったのだろう。身なりで何となくそういうことがわかるのだ。とても路上で夜明かしできる感じではなかったが、朝までのわずかばかりの時間、家族全員分の宿泊費を費やすのは馬鹿々々しかったのかもしれない。それとも空いているホテルが見つからなかったのか。
 僕は馬鹿々々しいと思った方だったので、今夜はインド入国初日以来の外での夜明かしになりそうだ。あの時と違い、今回は本当の路上で、連れもいない。つまりインド初の野宿となりそうなのだ。これも記念にはいいだろう。ここは野宿など平気でできる国だ。但し、金目の物を持っている人は度胸が必要だろうが。

 家族連れが去ると、次に牛がやって来た。何の用だと不審に思っていると、家族連れが敷いていた段ボールを前足で押さえ、口で引き裂いて食べ始めたではないか。確かに段ボールを食べている。痩せた牛だ。食う物がないのだろうか。紙を食べるのは山羊と羊だけだと思っていたが、牛も紙を食べるのだ。
 確かに草食動物なのだから、紙を食べられないわけではないだろうけれど、何も硬い段ボールをわざわざ食うこともないだろうに。この牛は、人間に例えてみれば、今夜は分厚いステーキにかぶりつきたい気分だったのかもしれない。それにしても、ここには牛の食う物もろくにないのだろうか。しかし牛だから紙でも食って生きてけるのだろうが、人間に食い物がなくなったらすぐに終わりだろうな、と思った。
 そこで時間を持て余していることもあり、すぐ近くで店開きしている『オールナイト八百屋』へ行った。主人が店番をし、店員が一人、店先でごろ寝している。これもアスファルトの上にだ。せめて店の中で寝ればいいのに。交代で店先でごろ寝しながら、たった二人で二十四時間営業しているのだろうか。
 しかしさすがに真夜中ともなると、客は他にいない。無駄であろうとなかろうと、このおやじは意地だけで店を開けているのだろう。でも退屈なので、ちょうど暇つぶしの相手にはもってこいだ。おやじの方も当然暇で、朝まで相手してやろうという勢いだ。
 僕は段ボールは食べられないので、夜食にぶどうとバナナとマンゴーを次々に買ってみたが、そんなにたくさん食べられるものではない。そこで食い残しを段ボール牛にやろうとしたのだが、こいつ、ちっとも喜ばないばかりか、放り投げてやった果物を一瞥しただけで、プイとどこかへ行ってしまった。段ボールばかりを狙うゲテモノ趣味の牛だったのか。


    5月24日 晴のち曇 ベランプール 〜 ゴパルプール

 とうとう朝まで起きたままでいて、五時半発の乗り合いミニ・バスでゴパルプール・オン・シーへ。『コヴァーラム・ビーチ』というのは、『九十九里浜』みたいな言い方で理解できるが、ゴパルプールのあとに、オン・シー(on―sea)とついているのが謎だ。これから行ってその訳を解明してやろう。このバスがなかなか進まない。しょっちゅう停まっては人を誘っている。距離自体は大したことなく、早く行け、と言う間に着いた。
 水はそんなに綺麗な所ではない。期待はずれというか、予想通りというか。ベンガル湾だから仕方がない。波も荒い。赤痢は完治したものの、普通のうんこがしたくてたまらなくなり、急いでホテルが建ち並んでいる辺りに行ってみると、客引きに誘われた。
 入ってみると、今まで泊まってきた中で一番広い部屋だった。これが100ルピーだと言う。ロボズ・ロッジというとこなのだが、確か、あちらものバイブルの『ロ○リ○・○○ネット』では、『結構高いロッジ』に分類されてたと思う。この広い部屋で100ならちっとも高くはない。シーズンオフだからだろう。
 とにかく今まで泊まった平均的ホテルの部屋の倍の広さはある。シャワールームだけでも、デリーやアーマダバードで泊まった窮屈ホテルの部屋全体の倍の広さがある。客引き(実はここの主人)が言うには、欧米人ばかりが来るので広くなければならないのだそうだ。

 ちょっと一服してから、早速散策に出てみる。とてものどかな場所だ。人はツーリストずれしていない。観光客もインド人しかいない。そして、ゴパルプールのあとに[オン・シー]とつく理由が自分なりにわかった。
 別に海に浮かんだ島なのではない。北の方に小さな入り江があり、そこから海の波が河口に入って来るのだが、その突き出た砂州の浅瀬に立つと、両側から波が打ち寄せて来て、あたかも海の上にいるように感じられる。
 この辺だと水も綺麗だ。引いていく波が陽に照らされ、黄金をまいたように見える。この瞬間、浅瀬の砂が砂金に変わる。本当に海だけしかない所なのだが、苦労してローカル・バスを乗り継いで来た甲斐があった。
 宿の人も変に洗練されてなくて、あったかくていい。メイドのお婆さん(実は主人の母親)は、[this]という英単語一つだけ覚えて、それたけで外人客との全ての用件を済ませてしまう。食事を運んで来ると、「ディス」と言って料理を載せたトレイを指差し、右手を口に持って行って食べる仕種をしたあと、また「ディス」と言って窓際の棚を指差し、にっこり微笑むといった具合だ。
「食べたあとは食器をここに置いといてくれたら下げとくよ」と言いたいのだろう。[this]一語で足りるという物凄い『超英会話』だ。こっちから話しかけるとオリッサ語でペラペラ喋るのでさっぱりわからない。あとはまた「ディス」一語でシャワールームの説明を終えて帰って行った。
 ただ一人、煙草やコーラをたかってくるおっさんだけが鬱陶しい。最初は海辺の店でコーラを飲んで一服していたら偶然やって来て顔を合わしたと思っていたのだが、その時は客引きだとばかり思っていたので何気なく奢ってやると、その後もどこかの店に必ず出没し、まず煙草をたかり、そのあと同じものを飲ませろ食わせろと下卑た笑いを浮かべながら媚びてくる。
 とうとう怒鳴りつけてやると、どこかへ逃げて行ってしまい、この日だけは二度と出没しなかったが、客引きだとばかり思っていたこのおっさん、あとであのホテルのオーナーなのだと判明した。


    5月25日 晴のち曇一時雨 ゴパルプール

 朝は浜辺を散歩。ここは行く所が浜ぐらいしかないので、行動が限られてくる。昼は陽射しがきつくて、部屋で本を読みながらごろごろしていた。例の『リグ・ヴェーダ』は一度読み終えたものの、さっぱり意味がわからず、二度と読む気がしないでほってある。こういう難解な本は旅行に持って来るべきではない。特にインドにインドの本を持って来ても仕方がない。日本にいる時に読むものだ。
 しかし長期間旅行した経験者にはわかるだろうが、そのうち観光にも飽きてきて、暇を持て余すことになる。インドは観光しなければ娯楽もろくにないし、暑さにうんざりして、だんだん出歩くのがおっくうになり、部屋でごろごろして旅行を怠けるようになってくるのだ。そうすると安宿にはテレビさえ置いてないので、本を読むようになる。日本では読書の習慣がなかった人まで本を読むようになってくる。でなければ麻薬に手を出すくらいしか他にすることがない。

 そこで需要と供給の関係が成り立つ。外国人がやって来る観光地なら、「こんなド田舎に」と思えるような所に古本屋が店を出していたりすることがある。外国人旅行者が行くコースなら、新刊本を売っている本屋より、外人向けの古本屋の方がよほど目につくことだろう。
 古本は洋書が多いが、円パワーのお陰で日本人旅行者の数も多く、従って日本書のコーナーもそれなりのスペースを取っていたりする。この店の商品の仕入先は客である。外国人旅行者が、読み終わっていらなくなった本を売り、別の古本を買って帰る。そういうサイクルで本がぐるぐると回っているみたいで、ぼろぼろになった本が多い。メンテナンスをしない貸本屋と言った方が正確かもしれない。
 しかしぼろ本の割には値段はやけに高いのである。日本円に換算してみても、日本の古本屋の百円均一より安くはない。仕入先の性格上、ガイドブックの類が多い。ガイドブックはたいていの人はインドに持って来るわけで、帰りには邪魔になってたぶん二束三文で古本屋に捨てて帰る。インドに来てから突如ネパールへ行こうと思い立った弓外クンみたいな人にとっては貴重だが、おおむね供給過剰で、インドの古本屋ではガイドブックがやけに幅を利かせていたりする。まあ今日はごろごろしたお陰で前日の不眠の疲れもとれた。

 暮れてから浜辺のレストランへ行った。食後のデザートにプディングを注文してみたが、これは日本のプリンとは違い、見た目はどんぶりヨーグルト。やけに美味くて、かなり量があったけど、平らげてしまった。翌日も注文してみたが、見た目は全く同じでも、同じ店で日によってこれほど味が違うのかと思うくらい不味く、スプーンに二、三杯口に運んでその日は食うのを中止した。
 南東の方角の海の上で稲光が凄い。音がしないのでかなり遠くなのだろうが、空がずっと光ってて、ひっきりなしに稲光も走るのが見える。南インドの海辺では雷は珍しくないが、この日のは特に凄まじく、海辺に散歩に来たインド人たちもずっと見とれている。
 立て続けに何度も光っているので、素人の僕でも稲妻を写真に撮れそうだ。たぶん目を瞑って三回シャッターを切ったら、一枚くらいは稲妻が撮れてるだろう。あいにくカメラを持って来ていなかったのだが、それがいつまでも続くので、ホテルに取りに帰ろうかと思い始めた。しかしそうすると、戻って来た頃に稲妻がやんでたら癪なので、なかなかふんぎりがつかずに結局ずっと見ていたが、空が光るのはいつまでもやまなかった。
 そうして見飽きた頃にホテルに引き返したが、戻ってから、財布を失くしているのに気づいた。海辺のレストランを往復しただけだから、どこで落としたかは見当がつく。それで結局レストランまで引き返すことになった。
 財布を捜していると、家族連れのインド人が事情を知って一緒に捜してくれ、テーブルの下に落ちていたのをすぐに見つけてくれた。空を見ると、稲妻はまだ光り続けている。どうせならついでにカメラを持ってくりゃ良かったのに、財布のことだけに頭が行っていて、ちっとも気づかなかった。「俺ってせこい人間だなあ、はぁーあ……」

 ここはツーリストずれしていなくて、つまり人心が荒らされていなくて、穏やかでいい所だ。宿の婆ちゃんも「ディス」一語でよく尽くしてくれる。最近はインド人が寄って来ただけで、善意の持ち主なのか悪意の持ち主なのかすぐわかるようになってきた。言葉がよく通じない方が却ってそのことがわかりやすいような気がする。そうすると、言葉とは意志疎通のための道具なのだが、同時に本心を隠す道具にもなっているのかなあ、なんて気もしてくる。まあ、詐欺師の近づきの文句なんてだいたいお決まりなんだけど。
 仮に地球上の人々がみんな善人だとしたら、何も嫌な思いなどすることはないだろうに。なぜこの世には善悪などというものが存在するのか? それはただ単に、ホモ=サピエンスが前頭葉の発達しすぎた動物だからという理由だけからなのか?
 そうだ、ここゴパルプールになぜ『オン・シー』とあとにつくのかという理由がもう一つ、今日稲妻を見ていて浮かんだ。ゴパルプールの『プール』は『城壁に囲まれた町』という意味だそうだ。で、『ゴパル』はわからないのだが、もしかすると『稲光』のことではないだろうか。そうすると、『海の上で稲妻が光っている町』ということで、「オン・シー」とつながる。どうせ当てずっぽうだから当たってないだろうし、町の名の由来なんかどうでもいいか。やはりもっとも単純な理由で、内陸部に同名のゴパルプールという都市があり、単に区別のために「オン・シー」とつけてるだけなんだろうな、どうせ。


    5月26日 晴のち曇 ゴパルプール

 今日は日中はずっと部屋にいた。最近はこんな調子で、旅行者としての活動を怠り気味である。昨夜、今書きかけにしてある小説のクライマックスの場面が突然浮かんできたので、今日起きてからそこを書いていたのだが、昨夜のようなひらめきがなくて、いいところが思い出せない。一晩眠っている間に天使が右手から去って行ってしまった。思い立ったが吉日、すぐに書き留めておくべきだったなあ。
 まあ、締め切りに追われるご身分でもなし、天使がまた戻って来るまで気長に待とう。というわけで、半日だらだらとつぶした後、夕方になってからまた浜に出かける。砂州の所は潮が退いていて、昨日やおとといとはまた違った眺めになっていた。砂嵐が起こっていろいろな模様ができたり、水の中で流砂が起こったり、素晴らしい。
 ここにも野良犬が多い。からかっていると、ふだん人間に無視されているからか、余計に人なつっこく、しつこくじゃれついてきた。三匹がいつまでもついて来て、とうとう咬みついてきた。じゃれているだけだから強く咬まないので傷はつかないが、世界中でほとんど撲滅されたとされる狂犬病も、インドやネパールにはまだ残っているそうなので、あんまり過度に犬を構わない方が無難かもしれない。
 夜はずっと停電。ロウソクの燈火で日記を書くのもおつなものだが、済んだらあとは寝るしかない。いよいよ日程が詰んできた。明日は移動しよう。


    5月27日 晴 ゴパルプール 〜 プリー

 今日はまたもや一日移動に費やした。朝早く婆ちゃんがコーヒーを持って来てくれた。お別れに記念撮影。たかり屋オーナーに婆ちゃんとのツーショットを取ってもらう。どこで買って来たか忘れたけど、ムーンストーンというのをディスの婆ちゃんにあげた。
 ゴパルプールからベランプールまでのマイクロバスはとんでもなかった。定員二十人ほどの小さなバスに、百人は乗っていたと思う。すぐ近くなのに、一時間はかかった。バスが走っている時間よりも、乗客が乗り降りしている時間の方が長い。バスが停まる度に、次から次へと乗って来る。『立錐の余地がない』どころではない。立つ場所がなくても、今度は人が三次元軸の方向へと入っていくのだ。缶詰のミカンの一房になった気分だ。息苦しい。このままだと窒息死してしまうかもしれない。ところがその缶詰の中だろうと、車掌は運賃を集めに回る。インド人気質恐るべし。
 ベランプールに到着すると、今までずっと座っていたのに、へとへとに疲れてバスから転げ出た。日本の電車のラッシュも凄いけど、どう詰め込んでも乗れなければ、諦めて次の便を待つだろう。インド人は諦めを知らない。ダンプカーの荷台に積んだ砂利よりもひどい乗り方でも乗ろうとする。こんな詰め込まれ方をしたら、牛でも発狂してしまうに違いない。一時間で命拾いした。もし二時間こんな乗り方をしていたら泡を噴いて失神していただろうし、三時間だったら手遅れで死んでいただろう。

 ベランプールからは一時間待ちで、十時半発の公団バスに乗れた。バスはポンコツだが、またもやなぜかNo.1の特等席に座ることができた。切符売り場のおじさんが気を利かせてくれたのだろうか? 外国人ツーリストの来ない場所にはこういった特権がある。昼間の一番前の席は景色はもちろんだが、標識が見えるので、ロードマップと照らし合わせながら、今どの辺りを走っているのかがわかる。
 しかしだ、『ブバネーシュワルまであと何km』という表示が消え、カタックまでとかカルカッタまでとかだけになったので、ブバネーシュワル市内に入ったのだとわかり、降りる用意をしたのだが、降りた所はカタックだった。例によって群がり寄って来たリクシャー・ワーラーたちに尋ねてみたが、予期した答が返って来なかったので初めてわかった。ブバネーシュワルを通り越してしまったのだ。
 すぐにプリー行きのバス停へ連れて行ってもらい、バスはすぐ出発したが、工事中の道路を往復したことも重なり、二時間のロスとなってしまった。ブバネーシュワルの郊外が広いなと思っていたが、実は市街だったのだ。こんな小さな村みたいな所がオリッサの州都なのだから、降り損なうわけだ。カタックの方がずっと大きな町だ。

 とうとう暗くなってしまい、八時頃プリーに着いた。バスに一緒に乗っていた小さな男の子がついて来た。うちに帰るらしいのだが、僕のあとをずっとついて来る。売店でコーラを頼み、ついでに奢ってやろうとした。オリッサ語だからわからないが、男の子は同じくコーラを注文したようで、そうすると店員が大声で男の子を怒鳴りつけた。男の子が小さな声で何か言うと、店員はニコッとしてオレンジジュースの栓を抜いて手渡した。オレンジジュースを飲みながらも、男の子はあまり嬉しそうな顔はしていなかった。このオレンジジュースは色だけオレンジで、非常に不味いのだ。たぶん、小さな子供がコーラなんか飲むなということだったのだろうか。
 まだついて来ようとするので、「早くうちに帰りな」と男の子を追っ払うと、リクシャー・ワーラーを捕まえてホテルに連れて行ってもらった。この辺で降ろしてくれたら自分で捜すと言っているのに、ワーラーは勝手に僕の荷物を持って行きやがる。値段がそれほど安くなかったので断って、断って、三軒目でとうとう根負けして妥協した。値段がちょっと下がっただけで、前の二軒に比べると段違いのぼろ宿だった。「一軒目か二軒目で手を打っとけば良かったかなあ」とも悔やんだが、「こっちの方が海に近いから」と自分を納得させる。
 しかしホテルのオーナーに連れてってもらったレストランで、メニューに『チキン・ヌードル』とあったのを頼んでみると、これがなんと、今までインドにはなかった「腰のある」スパゲッティだった。これまで何度かスパゲッティを注文したことはあるけれど、必ずそばみたいに(醤油のつゆが付いていればそれで問題はないのだが)、どれもこれもふにゃふにゃに茹で上がっていた。
 チキン・ヌードルとはヤキソバだとばかり思って注文したのだが、まさかスパゲッティだったとは。みんなインドでは本物のスパゲッティが食べられないと言う。西洋人もそう言うが、僕は今日間違って食べたのだ。

 しかし今日は嫌なものも見てしまった。チルカー湖の近くの道だったと思う。真っ昼間に誰かが道端で寝ているのが見えた。頭をアスファルトの上に載せている。「インド人はほんとにしょうがないなあ。道端で寝るならせめてもうちょっと引っ込めよ」と思っていたら、バスが近づいた時、それが死体だと一目でわかった。
 バスは死体を交わしてあっと言う間に通り過ぎてしまったが、死体は中年女性で、後頭部から脳味噌のようなものが飛び出ていたような気がする。死体は笑ったままだった。ひき逃げされたのだろうが、即死だったみたいだ。まだ死んで間もないみたいな感じがしたが、カンカン照りの中で、早くもハエがたかり始めていた。
 そこは集落を出たすぐの所で、少し手前に警官がたくさん屯していて、チャーイを飲んだりしてぶらぶらしていたが、あの様子だと知らないみたいだ。誰も知らせないのだろうか? いや、知らせないのだろう。このバスも死体をよけて走り去ってしまった。そう言う僕も誰にもこのことを言わなかった。
 もう少し行くと、でかい鳥が十羽以上、道端に群がっているのが見えた。ハゲタカだ。そこにはひからびた白牛の頭があった。体はハゲタカたちについばまれて、ほぼ骨だけになりつつあるところだった。
 あのままだと、間もなくあの女性の死体もハゲタカの餌食となり、身元さえわからなくなってしまうのではなかろうか。もっとも、チベット仏教だと、鳥に食わせる鳥葬が最高の葬られ方だそうだが。僕は個人的には、日本式の墓石の中にお骨を閉じこめられる葬られ方は好みではない。それなら鳥の餌になった方がましかなあって気もしないでもない。

 それにしても、昼にバスに乗っていて、特に一番前の運転手の隣の席にいると、面白いと言うか、恐ろしいと言うか、周りでいろんなことが起こっているのがわかる。事故車なんて、正面衝突してぺしゃんこになったのが道端にごろごろ転がっている。あんな追い越し方をみんなしているのだから、事故が頻繁に起こっても当然だろう。しかしそれを防ぐのも難しいに違いない。なぜなら、ここがインドだから。
 もう一つは、ひっきりなしに道端でヒッチハイクをしているということだ。強引な奴などは、バスが猛スピードで突っ込んで来るのに、両手を広げてその前に立ちはだかり、とうとうバスを止めて乗り込んでしまう。牛や山羊の群が道を横切ってバスを止めてしまうことにはたまに出くわすが、牛の次に、突っ込んで来る自動車を屁とも思っていないのは恐らくインド人に違いない。



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