10.おお、救世主よ! 女神じゃなかったけど……


    5月6日 晴のち雨 コヴァーラム

 今日は昼めしを食っていると、ルポライターの大鳥さんという人に会い、しばらく話していた。バンガロールのコンピューター産業を取材していると言うのだが、何だかかなり暇そうに見える。奥さんがバンガロールで日本語教師をしていて、旦那はスリランカまで飛行機で米と醤油を買い出しに行った帰りにコヴァーラムに寄ってみたということだ。すげー買物だ。
 話によると、大鳥さんの奥さんはインドのエンジニアたちに日本語を教えているのだが、月給は日本円にして約十万円くらいだそうで、こちらではかなりの高収入になるだろう。それくらいになると、社会的な約束事みたいなものか、召使いも何人か雇わなければならないそうだ。もっとも大鳥さんとは同世代だったので、デビルマンの話とか、まるで幼なじみと久しぶりに出会ったような会話ばかりしていた。
 そのうち仙台一行が来て、仙台さんも今日帰国するということで、仲間が見送りに行くと言う。バスに乗ってからも大鳥さんとずっと話してたら、バスが発車してしまった。あらら、僕は見送りなんかする気ないぞー、と思ったがもう遅い。しょうがない、トリヴァンドラムまで行って、下痢の薬でも買って帰ろう。
 ということで、なぜかわからないが詐欺師にもらった下痢薬の空き袋を偶然持っていて、それを薬屋で見せてみたが、「ない」とすげなく言われた。別の薬屋を見つけてそこでも、「これとおんなじのある?」と訊いてみたが、ここも「ない」だった。こういう時は病気に詳しくないのは困る。症状もどう表現していいのかわからない。結局何も買わず、無駄足だった。

 見送り一行と冷房の効いたレストランを探し、めしを食ったが、インドのレストランには多いが、特に冷房が入っている店はほとんど全てと言っていいくらい禁煙なのには閉口した。嫌煙家の人には素晴らしいことだろうが、煙草を吸うことぐらいが唯一の生き甲斐でしかない僕みたいな人間にとっては迷惑この上ない。
 食後の一服に大鳥さん以外は店を出て、階段の下にたむろしながら煙草を吸うと、また店の中にバタバタと戻って食後のコーヒーを飲むといった具合で、この歳になって体育館裏の不良高校生みたいな真似をしなくてはならないとは、なんとも情けない。
 どうでもいい話だが、僕はコーヒーと煙草はセットでなければならないという主義なので、煙草のないコーヒーなんて、コーヒーじゃない。楽しみが半減してしまう。「ホームランのないプロ野球みたいなものだ」(このフレーズは知る人ぞ知る、と言うか知る人も忘れたであろうかなり大昔の、「クリー○を入れないコーヒーなんて」という某食品CM中の名台詞なのである)
 だがこのトリヴァンドラムの店もやっぱり食べ物は美味かった。どうしてコヴァーラムのレストランはああもことごとく不味い店ばかり集まってるんだろう。一度ビーチから奥の村へと入って行った所にある、地元の人向けのバンブー・ハウスでミールスを(定食:それしかないのだが)食べてみたのだが、安くてお代わりし放題なのはいいが、やっぱり美味いとはとても言える味ではなかった。
 この一行の中に常に目がラリってる奴がいて、インドに来てはずっと麻薬漬けになっているのだが、臭い消しの香を買うということで、次々と店先で香の臭いを嗅ぎながら、「これも違う、あれも違う」といつまでも煮え切らない。こいつに言わせると、「インドにマリファナやりに来ない奴の方が変」なのだそうだ。付き合いきれないから、一人でぶらぶらしてから果物を買ってコヴァーラムに戻った。

 夕方、音がしない稲妻で海の向こうの空一面がいつまでも光っていたので、ホテルを出て見に行くと、途中でどーっと夕立が来た。もの凄いスコールだ。近くにある駄菓子屋で煙草とおやつを買って引き返したが、もう帰り道の路地があっと言う間に小川のようになっていた。
 夜、二日ぶりに『クラブクラブ』に古池さんが来ていたので、麻薬のことを尋ねてみると、昔一通りやったと言って、いろいろと教えてくれた。そして最後には「あれはやっぱりいけない」と結論を言った。経験者がそう言うのだから説得力はあるのだろうが、自分がいろんな覚醒剤も一通りやっといて、それはないだろが。
 インドの麻薬事情についてちょっと述べると、行ってしばらく旅行してみればわかることだが、ごく手軽にできるようになっている。街を(時には田舎だろうと)歩いていると、ほいほいと売人が売りに来て、値段も非常に安い。それでものちにある売人から聞いた話では、その非常に安い値段でも、外国人には十倍以上の値段にして売っているということだった。
 それでも日本人はインドでもこそこそと隠れてやるみたいだが、西洋人はレストランなどで食前のマリファナ煙草一服を堂々と吸いながら談笑していたりする。インド人にとっては元来大麻は習慣的なものだったそうで、罪悪感というものは日本人とはかなり異なるようだ。
 煙草、酒といった他の嗜好品と比較してみた場合、日本だと酒はむしろ『良いモノ』くらいに思われていて、次に煙草、これは『あまり良くないモノ』、そして麻薬は『凄く悪いモノ』で、悪徳の代表物みたいにされているが、インドだとこの価値観は逆である。「健康のためにマリファナだけはやっている」とまで言う人もいる。煙草と酒は宗教的な戒律が絡んでくるので個々人でまちまちのようだが、インドでは酒はまるで『魔性の液体』『悪魔の血液』みたいな扱われようで、もっぱらこそこそ隠れて飲むものらしい。

 だがしかし、虎の巻によると、現在の法律上では麻薬はインドでも重犯罪で、むしろその刑罰は日本より重いかもしれない。対外的な体面上の問題で、かつてのヒッピーのメッカだったゴアは警戒厳重となり、警察による手入れがしょっちゅうあるそうだ。しかしその反面、余所は全くの無警戒状態で、外国人旅行者たちはあっちこっちの地方に散ってやりまくっている。従って麻薬売りのおっさんや兄さんは(年端もいかぬ子供が売りに来る場合もある)あっちこっちにいる。
 しかしいくらインドでは手軽にできるからと言って、ちょっとした好奇心で麻薬に手を出し、運悪く警察に逮捕されて十年以上も牢屋にぶち込まれることを考えると割に合わないのでお奨めはできない。まあ、僕は関係ないので他人が何しようが知ったこっちゃないが。
 僕はむしろ、『乞食のメッカ』カルカッタから乞食と野良牛をデカン高原へと大量強制移動させたインド政府のもう一つの対外的体面政策の方が気になる。文字通り、お客様がいらっしゃる玄関口は綺麗に掃き清めておこうということなのだろうが、当のお客様から言わせて頂ければ、なんかとんちんかんなことしてらっしゃるようですし、もっとはっきり言うと、「余計なことするなよう」だ。身勝手な物言いだけど、お陰でがっかりさせられちゃったじゃないの。


    5月7日 晴のち雨 コヴァーラム

 これでコヴァーラムに一週間いることになるが、南国の穏やかな海というものにはまだ巡り会えないでいる。今日もスコールがどっと来た。これで三日連続だが、今日のは昨日より激しい。どうーっと降ってすぐやむのだが、夕立だったのがだんだん早く降り始めるようになってきた。もう雨季なのだろうか。インドの雨季はだいたい六月から八月までだそうだが、西から東へと移って行くようで、アラビア海側はベンガル湾側より雨季が早くやって来るらしい。

 今日古池さんから聞いた話では、この一月に、バラナシで日本人女性が喉をかっ切られて道端に転がっているのが見つかったということだった。あそこのガンジス川沿いの人気のない所は、夜は危険だという噂だが、たぶんこの人の場合はドラッグがらみのトラブルではないだろうか。
 インドではボられることは日常茶飯事であっても、保証こそしないが、物盗りに殺害されるという危険はまずないだろう。一度ある遺跡でインド人観光客が話しかけてきたことがある。彼は近くで見物していた見ず知らずの僕に向かっていきなりこう言った。
「インド人は確かに悪い奴が多いよ。だけどアメリカ人みたいに殺しはしないね。アメリカじゃいきなりズドンだろ。インド人は騙し取るだけさ。命までは取らないね」
 それをさも自慢げに言うのである。ちっとも自慢にならないだろうが、とは思ったものの、確かにインドにいて財産の危険を感じることはままあるが、インド人と相対して身の危険を感じたことは一度もない。身の危険を感じるのは、バスに乗って移動する時と、血便が出る時(今現在だけど)くらいだ。
 病気になって気づくようになったことだが、『アーユルヴェーダ』という、日本ではエステの一種になっている、インドの伝統医術(日本における漢方みたいなものか)を行っている医院は、至る所にあるようだ。この田舎の浜でもぶらぶしているだけで二、三目に入った。ここだと隔離入院はさせられないとは思うが、ほんとに効くのかどうか疑わしいし、やはり医者は医者だから、医者嫌いの僕は結局前を素通りするだけで、ここにも入らなかった。

 夕方になると、この小さな宿に一人しかいないボーイが帰って来た。昨日かおとといか、
「友達の結婚式に行くんだ。50ルピーくれ」
 と僕の部屋に入って来て無心した。何ともストレートな奴だ。それでもすんなり50ルピーやることにした。まあ、いつも一人で黙々と雑用をしてくれているので、僕にしてみればチップのまとめ渡しみたいなものだ。
 それで結婚式から戻って来ると、前よりせっせと世話を焼いてくれるようになった。お節介までするようになり、僕に向かって意見までするようになったのは余計なことだが、インドにはチップの習慣はないとはいえ、チップをやって少しばかり得することはままある。
 金にしか神経が行っていなくて、金をやるとただつけ上がってくるだけの奴もいるが、相手を見極めて使うと、チップというものはインドではそれなりに効力を発揮するものなのだ。真面目そうな奴にやると、その金額に応じた働きをしなければと感じるのか、急にいろいろと世話を焼いてくれるようになったりする。頼みもしないことを、自分の思いつく限り次から次へと勝手にやってくれてしまう者もいたりする。またそれ以上に感激してくれて、親切心が湧いてくるようだ。僕個人としては、いろんな情報を得るということにおいて、チップはかなり有効だった。

 仙台さんたちと一度、「乞食に恵むべきか否か」という話になったことがある。彼女たちはインドのある所で出会った日本人大学生の言というのを引き合いに出してきた。
「物はあげてもいいけど、お金は駄目だってば」
 その意見に僕は即座に反論した。
「それは日本人の独りよがりだろ」
 インドの多くの貧しい人たちにとっては、金とは単に食べ物を含めての生活必需品に換えることができる媒体に過ぎない。金持ちなら日本人のように、金とは財産として貯め込むだけ、つまり蒐集するだけで価値があるものなのだと思っている人もいるかもしれないが、そんな余裕のある人はインドには少なく、必要でもない特定の品物をもらうより、今必要な物、欲しい物に交換することができる金の方が遙かに良いわけだ。「その気持ちがありがたかろう」といい気になっているのは、どうやら贈り物をした側だけのようだ。
 日本の政治家などが、もらった賄賂を財産としてごっそり貯め込んでいる、またド派手な贅沢をするために使っている、そういう余分な『汚い金』や『浮いた金』と、インドで乞食に恵んでやったり、あくせく働いている人に報酬としてチップをはずんでやる、そういう『実働している金』とを同質のものと考えることがそもそも間違っているのだ。

「だから俺は乞食には金をやるよ」
 仙台さんたちはそれだけで黙り込んでしまった。「俺は乞食にジャンジャンやるよ」と勢いをつけて言いたかったのだが、「ジャンジャン」は思いとどまって省いた。悲しいかな、「ジャンジャン」やれるほど持ってはいないのだ。日本に帰れば僕は貧乏人に逆戻りする。彼らとさして変わらぬレベルとなり、こんなふうに彼らに同情することもできなくなってしまう、くうう。結局、今堂々と述べた論も僕の独りよがりということか……。
 しかし、変に気負い込むことがまずいと思う。「せがんでくる奴らだけにやってたら不公平になる。やるならみんなに平等にやらなくては」などと倫理的に考えてしまうと、その結果は、「与えるべきか、与えざるべきか」という観念的二元論に陥ってしまう。
 そういう全体をどうするかということは政治の受け持つ課題であって、インド旅行者がインド首相になる必要など全くないのだ。それでも完璧な政治などあり得ないので、どこの社会にも必ず綻び目がたくさんあり、例えばインドなら、円高のお陰で海外旅行ができるせめてものお礼として、「どこかの綻び目で小銭を落っことした」くらいに考えていればいい。
 それにしても、友達の結婚祝いもままならないボーイに50ルピーやったのは、一時にやる額としてはやりすぎである。十日分まとめて渡したということで、これはこれでいいのだが、一回限りなら1ルピーでもいい。1ルピーではさすがに感激はしてくれないが。乞食でも1ルピーだと不平を鳴らす奴までいる。しかしオフ・シーズン料金とはいえ、50ルピーはこのホテルの一泊の料金だから、やはり破格のチップである。それでも日本円にするとはした金なのだから、何も見返りがなかったとしても、インドでチップをやって損したなどと後悔する必要は全くない。


    5月8日 曇のち晴のち大雨 コヴァーラム

 波が治まらないどころか、集中豪雨が降るようになった。それがだんだん早くなってくる。七時が、五時、三時、そして今日は一時から。夕立もとうとう昼立になってしまった。明日は十一時からだろうか。あんまりここにいると、そのうち朝立になってしまうことだろう。
 それでもここにはあと二日しか滞在しない予定だが、インド一美しい海であるはずのコヴァーラムに十日もいて穏やかな海を見ることができなかったとなると、ここにはほとんど病気療養で留まっていたことになってしまう。

 大雨が来る前にホテルに戻ったら、オバサンが果物を押し売りに来た。値段を聞いて、いらないと断ったが、ずっと笑顔を崩さず(当然作り笑いだ)、
「ココ、ココ」
 と言いながら手にした小さな椰子の実をナイフで切ろうとする。いらないと何度言っても、言葉が通じないふりをして、笑い顔の仮面を顔面に張り付けたまま、相変わらず、
「ココ、ココ」
 といつまでもやめない。根負けした僕はそれでも意地でココは買わずに、マンゴーとバナナを買った。15ルピーということだったが、あいにくと手持ちに細かいのがなく、50ルピー札を出して、
「つりはあるか?」
 と鉄面皮オバサンに尋ねてみると、今持ってないからうちに取りに帰る、ということを言った。やっぱりさっきまでは通じていないふりをしていただけだ。
 どうせ帰って来ないだろうと踏んでいたが、そのうち大豪雨になった。部屋に入ってマンゴーでも食おうとしてふと思い出した。カバンの中を覗いてみると、やっぱりあった。小さな緑色のマンゴー。触ってみると、緑色のままもうふにゃふにゃにふやけている。5ルピー札を強奪されたお返しに、エローラの山羊飼いの子供からもらったものだ。その時はまだ硬くて食えそうにもなかったからカバンに入れてほっておいたのだが、そのままマンゴーの存在を忘れすぎていた。

 結局、今鉄面皮から買ったばかりのマンゴーとバナナを食べることにしたが、ふと見ると、棚にバナナが一房載っている。そう言えば、おとといトリヴァンドラムへ行ったついでに安売りしていたので買って帰ったのだった。そのまま食べるのを忘れてほってあったのだ。
 よりによってマンゴーとバナナを鉄仮面から買うこともなかった。結果的には50ルピーになってしまったし。営業スマイルに乗せられて、鉄仮面お薦めのココにしとけば良かったかなあ。スコールがやんでも案の定、鉄仮面はつりの35ルピーを持って戻っては来ない。僕はマンゴーも食う気が失せ、棚の上のバナナに並べて放り出した。バナナ、バナナ、マンゴー、腐りかけたマンゴー、と並んだ。
 しかし最近はボられたという気にあまりならないのである。頭脳が鈍りつつあるのか、病気で弱気になっているのか、それとも人間ができてきたのか、いや、最近刺激が足りなさすぎるのだ。思えば北インドのはちゃめちゃな物売りや乞食たちが懐かしくてならない。
 一度、どこかで乞食の女の子が現れたかと思うや、いきなり僕のTシャツの袖をつかんできたことがあったが、金をやらずにいると、その女の子は全体重をかけて僕の袖にぶら下がりやがった。お陰でTシャツの片袖だけがやけに伸びてしまった。
 鉄仮面もその魂胆は初めから見え透いていたのだけれど、そこでシャットアウトしてしまうとそれっきりで面白くも何ともない。それで半ばわざと騙されてやった。つりを取りに帰ると言ってさっさと去って行く鉄仮面の背中が、その正面以上に「うっひっひっ」とほくそ笑んでいるのがありありと見て取れた。まあ、35ルピーは娯楽費ということにでもしておこうではないか。

 ところで、司馬遼太郎先生の『花神』という小説の中に、幕末期、蘭学者の村田蔵六(大村益次郎)が宇和島藩に雇士(藩士ではない一代限りのお雇い武士)として召し抱えられるや、藩主である伊達宗城(むねなり)から、いきなり「黒船を造れ」と命じられるくだりがある。蔵六は黒船自体を見たことがなく、蘭書だけを頼りに造ることになるのだが、その担当は船体であった。
 蒸気機関を受け持たされたのは、「たれかおらぬか」ということで町年寄が推薦してきた名もなき裏長屋の借家人、嘉蔵という者だった。嘉蔵は提灯の修繕を生業としていたが、とてもそれでは暮らしが立つものではなく、家には畳が二枚しかなく、ふんどしは一本しか持っていなかったので、洗濯している間は、嘉蔵の着物の下はふるちん、あまりの世渡り下手に、女房にも逃げられるという始末であった。
 嘉蔵の場合は蔵六よりもひどかった。黒船を見たことがないばかりか、蔵六のように書物を参照することさえできないのだ。それでも驚いたことに、しばらく経ってから、「このようなものではござりませぬか」と、歯車によって自走する箱車をこしらえ、恐る恐る持って来たのだ。蒸気機関とは如何なるものなのか、その原理だけでも想像力のみでひねり出してしまったわけだ。
 かつて緒方洪庵の適塾で塾頭も務めていたこともある蔵六は、この嘉蔵の箱車を見て、かつてないほどに心を躍らせた。それと同時に、身分制に対して憤りも感じる。
「嘉蔵がヨーロッパにうまれておればりっぱに大学教授をつとめているであろう」(原文から筆者引用)
 現在の日本では大学教授と言われてもさほどピンと来ないが、当時のヨーロッパでは人々の尊敬を集めるインテリの頂点であろう。もちろんこの引用部分は蔵六の独白ということになっていて、当然記録には残っていないことであろうから、司馬先生の創作ではあろうが、のちに徳川封建体制を討ち滅ぼしていく百姓出の蔵六ならば、同じようなことを思ったに違いない。

 結局、二人は蒸気船を完成させ、藩侯を乗せて宇和島近海を走らせることにも成功するのだが、なぜこのような話を持ち出したかと言うと、才能が埋もれているという点においては、インドはまさに徳川時代の日本そのものだと思うからだ。
 徳川時代の身分制というものは、支配者が押しつけたものなので、その支配者が倒れればなくしてしまうことができる。が、インドの身分制は大昔の誰かが作ったことにせよ、民衆が頑なにそれを守り続けているわけで、崩れそうには思えない。上層階級が自分たちに都合のいい制度を守ろうとするのは、人間はエゴなので当然のことだろうが、不利益を被っている下層階級まで自ら守り通そうとしているから厄介だ。
 カーストとは元々アーリア人が支配体制確立のために作ったものらしいが、いつの間にか宗教と結びついてしまい、あるいは故意に結びつけたのかもしれないが、自分の宗教の決まりなのだから、それを「不条理だ」などとは考えなくなってしまったようだ。

『不可触賤民』という階層がある。「触れれば汚れる人間」という意味だ。これは友人の目撃談だが、彼が街を見物していると、ベルをずっと鳴らし続けながら、混雑している通りを自転車でやって来る子供を見かけた。一体何のつもりだろうとその子に尋ねてみると、遊んでいるわけではなく、自分が不可触賤民だということを周囲の人に知らせるためにベルを鳴らし続けているのだとその子は答えたそうだ。「自転車が通るから危ないよー」ではなく、「不可触賤民がいるから触れると危ないよー」と自ら知らせているというのだ。
 また彼の別の目撃談では、ある時走って来た自動車が近くにいた子供の足の甲をひいてしまった。運転手は驚いて車から降りて来たのだが、「大丈夫か」と自分がひいたその子の足を触ろうとすると、その子は慌てて足を引っ込め、「ハリジャン(不可触賤民のこと)だ」と言った。「大丈夫、何ともないよ」と言うと、「ああそうか」と運転手はまた車に乗って行ってしまった。その話を聞いた僕もそうだが、目撃した友人の感想も、運転手の反応よりもその子供の態度の方が信じられないのだった。
 あのガンジーでさえ、この『不可触賤民』のことを『ハリジャン(神の子)』と呼んだ。一見誉めているようだが、要するにヒンズー教側からカーストそのものを否定することはできなかったわけだ。ヒンズー教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒といったところに共通する「熱烈な信仰心」(こういう言い方もちょっと違うと思うが、何とも表現のしようがない)あれは日本人には到底理解不能だ。
 これは日本でも存在する一部の狂信的な新興宗教団体信者の盲信性、あれとも違う。体じゅうに染みついて体の一部になってしまったと言うか、世代交代を経るうちに遺伝子情報として組み込まれてしまったとでも言うか、日本人にはない、本能以上の何かのようだ。

 端的な例を挙げると、徳川幕府というものは、その目的は徳川家という一家庭の保存のためにのみ二百六十年間も存在し続けた化け物であった。三代家光を頂点に、徳川家をいかにして生き長らえさせるかという一事だけが将軍と幕府の仕事だった。そのためには身分を厳格にし、それが破られないよう、全ての身分にある者をがんじがらめにしてきた。自家より身分的には上にある公家や天皇まで縛った。
 所詮、制度などとは元を辿れば誰かが自分に都合のいいように作った得体の知れないものであろう。それが長く続けば、多数の者が「あたりまえのこと」と思ってしまうようになる。あたかも真理として宇宙の誕生から存在していたかのような錯覚に囚われてしまっているのだ。これが宗教性を帯びてくると、宗教とは人間誰もが持っている信仰心という心を攻めるものであるから、もはや理論も通じなくなり、それが迷信なのだと理屈によって悟らせることはもう不可能になってしまっていると言ってもいいだろう。
 不可触賤民の中には、身分差別のない仏教、キリスト教、イスラム教などに集団改宗してしまうこともたまにはあるそうだが、それは理屈としてカーストがおかしいなどということより、とにかく一にも二にも、自分の置かれている社会的立場から「今すぐ抜け出したい」、その立場が「嫌でしょうがない」からそうしたのであって、ましてや教義的にヒンズー教自体を放棄しようとしてそうしたのではないようである。

 身分制度というものは、大なり小なり職業選択の自由を制限する。特定の者に富が偏り続けることをその主な目的としているからだろうが、その現象面から見れば、インドのカーストはその最たるものであろう。しかしその点から言うと、身分制が撤廃されているはずの日本においても、建前上は存在していないはずの身分も、それに似たものは未だに根強く残っている。いや、身分制度が廃止されてからのち、新たに生まれたものかもしれない。
 しかし僕はむしろ、そのカーストによって生まれた貧富の差の激しさ以上に、インドの下層階級の人たちを見ていると、「才能が埋もれたままで終わってしまっているんじゃないか」という感想を持ち、そのことを理不尽に思ってしまう。そう考えると、身分制のもう一つの目的とは、才ある者に取って代わられないようにすることかもしれない。一旦チャンピオンとなったボクサーが、いざ自分がチャンピオンになるや、それからは挑戦されても相手にならず、ことごとく防衛戦を避けて逃げ回っているようなものだ。
 もっとも才能などというものは、本人でさえ死ぬまで気がつかないということが多いだろう。しかしそれにしても、インドは日本の徳川期と同じように、発掘されていない金脈が手つかずのまま、掘ってもならぬと禁じられた状態のまま眠っているわけで、非常に惜しいことだと思う。
 まあ、インドは極端な例で、このことはインドに限ったことでもないのだろうが、いずれにせよ、勝負に負けたのなら諦めもつくが、勝負しようにも土俵にさえ上げてもらえないというのでは、どうにも諦めようがないではないか。
 他のどの国でも、才能が埋もれているということは多々あるとは思うが、日本人などはタケノコであって、土から頭を出すことはできる。竹になれるかどうかは運しだいだが、インドのように地表をアスファルトで舗装されていては、頭さえ出すことも適わず、タケノコのまま地中で朽ちていくしかない。


    5月9日 晴一時曇 コヴァーラム

 昨日の日記に「海がいつも荒れてる」と文句をいっぱい書いたからか、今日は今までで一番海が凪いでいた。八時に朝食。そのあとすぐ、監視員が来る前に海水浴。監視員は沖へ出て行こうとする奴を見つけると、すぐに呼び子を鳴らして引き戻そうとするからだ。
 今日はかなり沖まで出られた。それでも波が去ったあとに足が立つ所もある。かなりの遠浅だ。それにしても滅茶苦茶綺麗というわけではない。所詮はインドの海か。しかし少なくとも今はコヴァーラムがインド一綺麗な海とは言えない。これならペナンブールの方がよほど綺麗だった。
「世界一美しい海」と言われるモルジブがこの近くにあるが、旅行狂の仙台さんが帰国する前にモルジブで撮った写真を見せてくれたことがあった。トリヴァンドラムからちょっと出て行ってまた戻って来たそうだが、その時の写真を見せてもらうと、海の水というものが見えなかった。水着で砂浜に寝転がっているのかと思ってたら、これは海の中で寝てる写真だと言う。写真で見る限り、海水と空気の境目がわからないくらい透明だった。

 今日はよく泳いだけど、久々に仕事もした。こんな理想的な執筆活動は日本にいてはできないだろう。海を前にして書くのだ。トーマス・マンは庭先にテーブルを出して小説を書いていたそうだが、青空の下で文章を書くというのは意外にはかどるものだということがわかった。海パン一丁だともっとはかどる。詰まるとすぐ海に飛び込んで気分転換をするのだ。明日でコヴァーラムは最後だから、明日も朝からこれをしよう。
 ホテルに戻ると、例のマンゴーが益々黒ずんでいた。ボーイに訊いてみたら駄目だと言われた。いつもカラスや犬にやっているので、今回はホテルの角につないである仔牛に持ってってやった。でかいマンゴーを一瞬で食ってしまった。さあ、この牛は腐ったマンゴー食べて腹痛になるか、僕みたいに下痢で苦しむがいい。しかしついでに手に涎をいっぱいつけられた。牛の涎はよく粘る。
 面白いので、またマンゴーを取って来てやった。牛は犬と似ている。嬉しいと尻尾を振る。この仔牛は次に僕を見た時は、見ただけで尻尾を振るようになった。おまえを毒殺しようとした犯人だとも知らず、いい気なもんだ。
 思い返してみると、嬉しいと尻尾を振るのは犬と牛だけではなさそうだ。あらゆる動物が尻尾を振っている時は、どうやらみんな喜んでいる時のようだ。ガラガラヘビは喜んでいるのかどうかはわからないけれど、たぶん闘いに喜びを見出だすタイプなのだろう。

 今日は小さな紙幣が底をついてきて、夕食後一括払いということでつけにしてもらった。500ルピー札出すと、釣り銭が工面できなかったと言ってマーフィが戻って来た。どうせ両隣の店くらいしか当たってみなかったのだろうが、ほんとに500ルピー札というものは使いにくい。それなのに近々1000ルピー札までできるという噂がある。
 両替をする時は、あんまりちまちまと少額でこまめにやると、両替屋がなかなか見つからない場所もあるので、僕は一回で100ドルのトラベラーズ・チェックを換えることにしていた。
 そもそも一枚が100ドルのを買って来たから、それ以上細かい両替はできなかったのだが、それでもこれを少額のインド・ルピー紙幣に換えると、かなりの量になってかさばる。この当時だと100ドルで3500ルピー前後だったから、500ルピー札だと七枚で済むところが、100ルピー札だと三十五枚、50ルピー札だと七十枚にもなる。
 札束をホッチキスで留めたのをくれる時もある。これをちぎりながら使っていくと、受け取ってくれない奴もいる。ちょっとでも札が切れているというだけの理由で、「この札は駄目だ、使えない」と受け取らないせこいインド人もいるのだ。とにかく財布の中にいっぺんには入りきらない。
 しかし500ルピー札だと前記のように、いざ使ってみると大変不便なことがわかるだろう。500ルピー札を出すと、偽札じゃないかと疑って透かしを確かめようとする疑り深い奴までいる。だから、札束になろうと100ルピー札や50ルピー札で換えてくれる両替屋の方が気が利いているのだ。
 そういうこともあって、500ルピー札でくれようとする両替屋があれば、「もっと細かい札にしてくれ」と注文をつけるようになったのだが、そういう両替屋の窓口にいる係の者は数えるのが面倒なのか、一旦出してしまうと、「ない」と言って細かいのに換えてくれないことが多い。前もって「できるだけ細かい札にしてくれ」としつこく言ってからトラベラーズ・チェックを出した方がいいだろう。

 そういうわけで、この日は用もないのに、小銭を確保するために、いつも浜辺を徘徊している物売りたちから買物をすることになった。まずシャツくらい一枚あってもいいだろうと思ったので、シャツ売りからいかにも南国風模様の真っ赤なシャツを買った。こいつは泣き落とし型で、「初めての商売なので、上手く売れないんだ」とべそをかくように言ってシャツを売る。
 そういう作戦に出られても、僕は500ルピー札を砕くのが目的なので、買い叩くことにした。最初300ルピーとかで来たので、シャツを手に取って品を見定めるふりをし(品物の値打ちなどは僕にはさっぱりわからないのだが)、
「こいつが300ルピーなんて論外だ」
 と情容赦なく言って突き返す。おやじは今にも泣きそうな顔でどんどん値下げしていって、結局100ルピーで取引成立。
「これしかないぞ」
 と500ルピー札を出すと、当然400ルピーも持っていないようで、おやじはそれを崩しに浜辺の店を回り始める。ようやく戻って来て、まず100ルピー札四枚を確保することができた。
「最初の商売だからしょうがないよ。これじゃ親方に叱られるな」
 とまたもや泣き言を言いながらおやじは去って行ったが、実は僕が自分で選んだこのシャツ、ひどい粗悪品だったということが、のちに洗濯をしてみて明らかになった。洗う度にバケツの水が真っ赤に染まり、そのうち赤シャツがピンクになってきたが、それでも洗っても洗ってもバケツの水が真っ赤になるのはいつまで経っても同じだった。一緒にバケツに浸けてしまった他の衣類にも色が移ってしまった。
 そればかりかこのシャツ、着ているうちにあちこち破けてきたのだ。ずっと着ていたわけでもないのに、結局数週間も保たずしてぼろぼろになり、途中で捨てることとなってしまったのだ。

 続いてもう一枚崩してしまおうと思い、次に必要もないのにサングラスを買った。こいつはいつもは素通りして行くのだが、さっきのシャツ売りが早速
「あの日本人はカモだぞ」と情報を流したのだろうか、すぐにも売り込みに現れた。
 また値切り合戦から始まる。サングラスよりも小銭が必要な僕としては、できるだけ値切るに越したことはない。いくら値切ったからと言って、向こうは損する値段で売るはずがないから、最初はどれだけふっかけているのか、そのひどさがわかろうというものだ。
 インドの物売りの感覚は、一つ売ればいくらの利益という計算の仕方ではないようだ。物に利益を上乗せしていると言うより、物を売る売り手である自分の駆け引きのテクニックをもっていくら利益を上げるかという感じで、従って、自分が上手な商売人だと利益が多く、下手な商売人だと利益が少ない、そんな考え方をしているようだ。どうもお人好しではインド商人は務まりそうもない。
 このサングラスも買い叩いているうち、最初の500ルピーという売値が十分の一の50ルピーまで下がった。そろそろ手を打とうか、もっと値切ろうかと思っていると、マーフィが「50なら絶対得だ」と横から口を挟んできた。自分は買う気もないくせに、サングラスをいくつも掛けたり外したり、鏡で自分のツラを見て悦に入っている。この女ったらしのナルシストめ。それで50で買うことにしたが、これもかなりのちになってから、相当な安物だったということが明らかになるのだ。

 ともかくも使える紙幣を確保し、経済活動が行えるようになった。それでも小銭を使うのがにわかに惜しくなってきたものだから、今日の分は夕食後にまとめて払うぞと言うと、カニ・クラブのオーナーが調理場から顔を出し、
「うちには600ルピーのディナーだってあるんだぞ」
 とさも馬鹿にしたように言いやがった。500ルピー札は崩してから使うものだという僕の金の使い方をさも嘲るような口ぶりだ。そこでムカッときて、
「明日は誕生日だから、明日は500ルピー札で払ってやるぞ」
 と、見栄を張って答えてしまった。
「じゃ、600ルピーのディナーを用意して待ってるからな」
 とオーナーがニタリと笑った。うーむ、600ルピーと言えば、今のホテル十二泊できる金だ。日本円にすると二千円程度なのだが、そうやってインド的に計算すると、使い勝手の悪い500ルピー札も惜しくなってきた。そこで、
「いくら贅沢すると言っても、俺は胃袋が小さいから、そんなには食えないだろなあ」
 と言い訳すると、
「350ルピーのコースもあるよ」
 と来た。うーむ、それにしても七泊分か、一食にそんなに使うのももったいないなあ、とだんだん弱気になってきて、
「よし、明日の腹の調子で決めるよ。今は腹下してるから、やっぱり明日になってから決める」
 と適当な言い逃れを作り、なんとかオーナーの悪魔の誘いから逃げおおせることができた。今の正直な気分としては、悪魔の挑発にも乗らずによくぞ思い留まった、と自分で自分を誉めてやりたいと思います。たとえ600ルピーの豪華フルコースだろうと、あのオーナーの作る料理では、どうにも期待できそうにないのだし。


    5月10日 曇一時晴 コヴァーラム

 ああ、昨日のあの働きは夢か幻か……。今日は早くも創作意欲が湧かなくなり、全然書けなくなった。朝から曇っていたのに、昨日の勢いで八時過ぎには海に飛び込んでいたのがまずかったのか。
 昨日より波が高く、潮も速くなっていて、おまけに引き潮だったのか、調子に乗って沖まで出て、そこで溺れた。これはだんだん岸から離れて行ってるんじゃないかという気がしてきて、しばらく浮いたまま様子を見ていると、灯台が見える角度が違っていた。
「やばい!」と思って全力で岸に向かって泳いで戻ろうとしたが、何としたことか、一分も手足をバタバタさせていると、もうへとへとになってしまった。
『溺れる者藁をもつかむ』ということわざがあるけれど、あれは嘘だろう。藁なんか浮いてたって、溺れている最中にはそれを見つける余裕もない。
 溺れるというのはつまり、「溺れるー!」と思ったことでほんとに溺れるのだろう。その時、精神的にパニック状態となり、死に物狂いで暴れてしまう。それであっと言う間に疲れ、土左衛門になるのを早めてしまうのだ。
 しかしこの時の僕にそんな理屈を考えているゆとりなどなかった。これはあとから思ったことに過ぎない。この理屈通り、南国の海で溺れる僕はバタ狂った。それでもたったの一分で疲れ切ってしまい、いくらか浜に戻れたかなと思って見てみると、浜が更に遠ざかっているではないか。

(ああ、もう駄目だ……)
 人一倍諦めのいい僕は、たった一分の努力ののち、生に執着することをやめようとした。
(疲れるだけ損だ。疲れて力尽きて死ぬよりは、あっさりと安楽死した方が得だろが)
 そう自分に言い聞かせると、体じゅうの力が抜けた。そうすると最後の未練として別の考えが浮かんできた。
(このまま潮に身を任せ、流されて行けばどこかに辿り着かないだろうか?)
 サッと頭に地図を思い浮かべてみる。
(うう、やっぱり駄目だ……。)
 僕の頭の中の地図によれば、このまま浜の反対側に流されて行っても、南極大陸まで陸地はない。南極で氷漬け死体になるよりは、やっぱりここで潔く沈没しよう。実際、今地図を見てみると、南極まで行く手前にアフリカもあるし、そのずっと手前にモルジブ諸島もある。それでもざっと500キロメートルは離れている。ジョン万次郎じゃあるまいし、船に拾われるはずもなかろう。人間、パニックに陥ると、突拍子もないことを考えるものだ。

 と、土左衛門になろうと覚悟を決めた次には、また考えが翻り、再び僕はバタ狂い始めた。おかしな考えがまたもや浮かんできたのだ。
(もしこのまま死ねば、何日かのちに日本の新聞に載るかもしれない、それも実名で!)
『旅行中の伊井田褐太氏、インドの海で溺死!』
 駄目だ駄目だ駄目だ!!! ハゲタカやコブラに食い殺されたよりはましだろうが、それにしてもこんなカッコ悪いことはない。そう思っただけで、どこから力が湧いてくるのか、ぼくはまた南極よりは遙かに近い、向こうに見える浜まで力泳を試み始めたのだ。
 が、しかし、三分ほど暴れ泳いだだろうか、また浜と灯台の角度を見てみて、ちっとも変わっていないことがわかり愕然とした。只今の力泳は、進度0m、せいぜい沖へ流されなかったに過ぎない。あー、またもや疲れて損した。
 いくら泳いでみても、「元に戻らないんです」元に戻れないとわかっていれば、黒飴を持って来れば良かった、って、この時はまだ黒飴マンは生まれていなかったのだけれど。

 ところが不思議なるかな、何の拍子かふと頭が冷静になった。
(波はああやってあっと言う間に浜に押し寄せているのだ。波が浜まで泳ぎ着けるんだったら、俺だって泳ぎ着けないことはなかろう)
 うん、なるほど、と己れの大発見に感心するや、僕はまたもや力泳を始めた。しかし今度は頭を使って泳いだ。波が寄せて来た時に、ここぞとばかりに波に乗るようにしてスイスイと泳ぐ。そして波が来ないうちは、できるだけ沖に流されないように踏ん張る。踏ん張ると言っても、普通に平泳ぎしていれば流されて行かないということがわかった。
 なーんだ、簡単じゃないか。波が来た時にはアメンボサーファー式競泳法、波が去った時は岩にへばり付くワカメ式遠泳法、これを繰り返していると、だんだん砂浜が近くなってきた。そのうち近くに人がいて、腰から上が出ていたので、立ってみると足が着いた。もう浅くなっているのにやっと気がついた。こんな浅瀬でまだ溺れていて損した。
 それでも砂浜に揚がって腰を下ろすと、さすがにげんなりしてしまった。しばらく肩で息をしながら振り返ってみたが、海水浴客たちが楽しそうに遊んでいるいつもの平和な海だ。今溺れたことが遠い昔の夢の中の出来事のようにも思える。
 これでも中学生の時分は、市内の水泳大会で優勝をかっさらったものだ。長いこと運動をしていないとはいえ、なんと情ない。歳を取ったということなのか。そう言えば今日は誕生日だったので、あのまま死んでいれば、なんとも器用な死に方だったのになあ、ちょっと残念、と間抜けな考えも浮かんできたりした。
『伊井田褐太氏、インドで溺れる。誕生日に生まれ誕生日に死す……』

 レストランまで戻って椅子に腰を下ろすと、マーフィが近づいて来て、
「泳ぎ上手いなあ」
 と僕に向かって感心したように言った。笑顔で「グッド・スイミング、グッド・スイミング」と繰り返す。あのなあ、溺れてたんだぞ。誉めてるつもりなんだろうが、こっちはちっとも嬉しくない。でも恥ずかしいから溺れたとは言わない。ムッとしてしかめっ面をしていると、まだ「グッド・スイミング、グッド・スイミング」と繰り返している。
 ちぇっ、と言い返したくなり、代わりに、
「今日は俺の誕生日だぞ」
 と言ってやった。「何かくれ」と言おうとすると、それより先にマーフィが、
「じゃあ、プレゼントくれ」
 と来やがった。なんだこいつは。あのなあ……
「俺がもらうんだろが」
「ああ、そうか」
 マーフィはニタッとして頷くと、
「ハッピー・バースデイ。プレゼントくれ。グッド・スイミング、グッド・スイミング」
 駄目だ、こいつは。

 そして精神的ショックに加え、腹具合まで悪くなり、午にはホテルに戻って寝ていた。朝は早くから椰子の実を落とす音で目を覚まさせられ、昼間は床に伏したままうとうとうたた寝を繰り返す。たまに椰子の実がどこかにドカンと落ちる音で目が覚める。インドでは落ちて来た椰子の実に当たって死ぬ人が毎年何人もいるそうだ。あの椰子売りの鉄仮面ババアの頭上にでも落ちればいいのだ。
 これではいかん、と四時頃になってから空元気を出してまた外出する。晩めしの時、マーフィがまた「おめでとう」と言ってきた。
「じゃあ誕生祝いに600ルピーのディナーにするか」
「350ルピーだろ」
「なんだ、350のにするのか」
「いや、それも言ってみただけ」
 ご馳走はやめにした。いつもよりちょっとだけ奮発したけれど、貧乏性なのか、腹の調子が悪いのに、量ばかり多くして、朝夕合わせて200ルピーも使わなかった。コヴァーラムには十日もいたけど、これでは病気療養していただけだ。それでも明日はまたハードな移動に戻ると思うとゾッとする。


    5月11日 晴時々曇 コヴァーラム 〜 カニャークマリ

 十日もいたコヴァーラムともお別れ。朝、ボーイが部屋にやって来て、次はどこへ行くんだと訊いたので、カニャークマリだと答えると、「あそこは何もないとこだよ」と言われた。襟裳岬みたいな所なのかもしれない。
 ついでに今まで行った場所を訊かれたので、「カルカッタから入って、ここに行って、あそこに行って……」と地図を見ながら地名を羅列しているうちに、ボーイは目を丸くして、
「あんたはすげー!」
 と感激して両手で握手を求めてきた。別に歩いて走破したわけでもなし、ましてやうさぎ跳びや逆立ちでここまで来たわけでもないのだから、そんなに感心されるほどのことでもなかろう。恐怖のバスに半ば以上耐えてきたことは驚嘆してもらいたいとも思うけど。しかし地元のインド人でインド一周しようなんて考える人はいないだろうな。僕だって日本一周は考えなかったもの。
 九時四十五分発のバスでカニャークマリに向かう。このバスがとろとろと遅い。しかしバスが動き出すと、予想に反して元気が出てきた。元気が出てきたのでいつものように歌い出す。「えぇーりぃーものー、はるぅはーああー、なにもぉ、ない、はるですぅ〜♪」

 結局カニャークマリまで三時間半もかかった。たった八十数kmしか離れていないのに、これはインドのバスとしては異例のことだ。通常のインドの(恐怖)バスなら三十分で着いてるとこだろう。
 バスを降りるともう向こうに海が見えていた。あれがインド洋で、その手前はインド半島最南端の陸だろう、きっと。これで三角形の二辺を移動したことになる。残るは一辺。よくぞここまで死なずに来られたものだ。とは言っても、残る一辺上で赤痢のためにくたばってしまう可能性もある。あーあ、どこからついて来たのか知らないが、とうとうインドの端っこまでついて来やがった。その道すがら、増殖した赤痢菌をどれだけまき散らしてきたことだろう。僕はきっと極悪人だろう。
 バスを降りた所にあった店で軽く昼食。ドーナツみたいな物を食ったが、これは日本のドーナツにかなり近かった。最近は日本人にあまり出会わないので、インド人と下手な英語で喋っている。ドーナツとコーラだけで店の主と一時間も喋っていたけど、主もいい迷惑だったろう。
 カニャークマリは狭い。それにコヴァーラムのボーイが言ってた通り、何もないみたいだ。インドで『カニャークマリ(コモリン岬)』という演歌を作ればきっとヒットするだろう。しかし襟裳岬と違い、ここは人が多い。観光客ばかりがひっきりなしに来ている。どこの国にもこういう突端に行きたがる『突端愛好家』がいるものだなあ。

 ホテルにチェックインを済まし、何もないカニャークマリを見物に出かけようとしたら、ちょうど別の部屋から日本人の若者が出て来た。この万根クンも何もないカニャークマリをこれから攻めるということだったので、『何もないとこ愛好家』同士、一緒にホテルを出た。
 万根クンはカルカッタからインドに入り、僕と逆コースでインドを一周するつもりだそうだ。なんだ、同じことを企ててた奴が他にもいたのか、つまらん。六ヶ月ビザなので、かなりスローに動いている。インド入りした時期は僕とあまり変わらないが、要するに彼は、僕が残す一辺を逆向きに辿って来たということになる。「途中でギブアップしてしまえよ」と腹の中では思いつつも、「お互いがんばろう」と励まし合った。
 とりあえずライバルと連れ立って最南端まで行く。すぐ向こうに小さな島が見える。島と言うより、大きな岩と言った方がいい。そこに小さな寺が建てられていて、渡し船に観光客たちが満載され、波に揺られながらその小島まで渡って行く。取り残された観光客たちが小島の上でてんこ盛りになっている。それを見て渡る気が失せた。あんな岩礁、大波でも押し寄せて来たら一溜まりもない。
 岬から見下ろすと小さな砂浜があり、沐浴をしている人もいるが、何しろ浜が狭く、そこに人が群れていて、おまけに水は汚いとは言わないが、綺麗とも言えないところなので、とても泳ぐ気は起こらなかった。
 アラビア海側の方にはちょっと広めの砂浜があり、ここにレストランがあったので、晩めしは万根クンと一緒にここで食べることにした。ジンジャー・フィッシュというのを頼んでみたら、名前の通りの代物だったが、これは美味かった。
 しかしまたもや下痢が再発した。良くなったと思っていたのだが、薬もちっとも効かないようだ。これからまた移動が続くというのに、もう最悪だ。


    5月12日 晴のち曇のち豪雨のち晴 カニャークマリ

 朝、海辺へ散歩に出る。他に行く場所がないのだ。体調が悪いので、そのあとホテルに戻って寝ていた。午に起きて再び外出。郵便局に切手を買いに行くと、途中で万根クンに会った。行く所がないので、約束していなくてもそのうち出くわしてしまう。屋台で一緒にめしを食い、そのあと二人でぶらぶらする。
 夕方、激しい雨。ホテルがすぐそこにあるのだけれど、雨宿りをしなくてはならないほどの豪雨だ。雷がすぐ近くに落ちた。鼓膜が破れそうだ。びっくりしたなあ、もう……。山羊も同じ軒下で雨宿りしている。そのうち犬もやって来た。獣も避けるほどの猛烈な雨なのだ。
 しかしなかなかやんでくれない。道が海の方に向かって少し坂になっているのだが、その道が川に変わっている。軒下に溝があり、激流が押し寄せてくるのを防いでくれているが、カラカラだったその溝も、もはや溢れんばかりになっている。
 とうとう二人とも痺れを切らし、山羊と犬を軒下に置き去りにしたまま激流の中へと突入した。川となってしまった坂道を、網走川を遡る産卵期のつがいの鮭の如く二人で遡り、なんとかホテルに飛び込んだものの、一瞬でびしょ濡れになった。
 着替えてから屋上にある万根クンの部屋へ行き、暇つぶしをする。万根クンはティーバッグの紅茶をミネラルウォーターで入れてもてなしてくれた。沸かしもせず、ボトルの口にティーバッグをそのまま押し込むや、ボトルをシェイクし、力任せに茶を煎じるのだ。これを二人してラッパ飲みにする。この人も僕に劣らずかなりの不精者に違いない。それでも意外や、紅茶は思っていたより素早くできあがった。少なくとも見た目はアイス・ティーらしくなった。

 晩飯を食ったあと子供が寄って来たので、万根クンと二人でからかっていたが、あとで歳を訊いてみると、二十歳だと言った。
「うそだろー」
 二人とも信じなかった。小学生か、せいぜい中学生くらいにしか見えない。嘘をついている奴もいるのかもしれないが、インド人の若者は、どう見ても子供にしか見えないのがよくいる。体もちっこいし、顔もあどけない。
 それから土産物屋を見つけ、冷やかしてやろうと入って行った。表に『定価売り』と大書されていたからだ。どうせぼったくりだろうと思って入って行くと、結構広くて明るい店の中には子供の店員が二人いた。一応歳を訊いてみると、これは二人とも本物の子供だった。小学生が夜遅く商売をしている。
 その一人が、まだ何を買うとも言わないうちから、
「これは1ルピーだよ」
 と土産物を取り出して見せた。慣れてる感じだ。見ると、藁人形みたいな小さな人形だったが、藁人形にしてはそれなりに手が込んだ作りだ。それにしても1ルピーでどう儲けが出るのか、いくら考えてみても謎だ。草で人形を作り、リボンなどをつけて装飾し、ビニールの袋で包装し、店で売る。どこにいくらずつ分け前が行くのだろう?
 とりあえずチビッ子店長お薦めの藁人形を買った。誰を呪うかは日本に帰ってからじっくり考えるとしよう。万根クンも買ったが、彼はそれだけだ。それ以上の買い物はしようとしない。僕は店内を見ていてついついあれこれと買ってしまった。あまりに安いので買わなきゃ損だという貧乏人根性が出てしまった。また荷物が大きくなってしまうだろう。まだ行程が三分の一残っているというのに、この僕の賤し系性質には困ったものだ。


    5月13日 晴のち薄曇 カニャークマリ

 朝、海辺を散歩する。他にすることがないのだ。テトラポットの堤防がずうーっと続いている単調な海岸で、周りには何もない。今日は調子が悪そうだなあ、と思っていたら、突然便意を催す。
 この時、インドで二度目の野グソをするかどうか、真剣に悩む。ホテルの建物が向こうに見えているのだが、回り道して帰らなければならないので、かなり距離がある。あそこまで持ちこたえられるかどうか、自信がない。また、だだっ広いこの海岸には人っ子一人いない。しかしだだっ広い場所で野グソするというのは非常に勇気がいるのだ。
 排便してるとこを他人に見られるということほど恥ずかしいこともないだろう。それなら街中を素っ裸で歩く方がまだましだ。インド人の漁師などは、近くに人がいても浜に出て来て平気でうんこする(砂浜にうんこが点々としているのは実はそれだったのだ)。しかし僕は排泄関係ではどうにも日本人気質が抜けない。尻を手で拭くのもそうだが、インド式を真似るのは無理だ。
 今から速攻でパンツを下ろしてこの場にうんこしたとしても、その間に誰かがここまでやって来る可能性はきわめて低い。ましてや下痢してるから、あっと言う間に済ませることができるだろう。それは頭ではわかっているのだが、なぜか躊躇してしまう。藪の中ならともかく、何もないだだっ広い場所で白昼堂々と野グソするのは非常な不安を感じるものなのだ。例えて言えば、まるで真空の宇宙空間に一人放り出されたような不安を感じる(って、宇宙に行ったことなんかないんだけど)。

 躊躇ってる間にも引き返せばいいのだが、ホテルまで一滴も漏らさずに帰れる自信がない。それでこの場にじっとしたままどうしようかと考え込んでしまっているのだ。『野グソするべきかせざるべきか』、それだけが些細な問題なのだけれど、心身共に具合が悪く、決断力に欠けてしまっていて、いたずらに時間を費やしているばかりだ。
 インド民族とは厠を持たない民族なので、旅行者は排泄行為のことでしばしば苦労する。ましてや下痢になりやすい風土なのだし。
「おお、女神よ、願わくは奇跡を起こしたまえ! 今ここにトイレを一つばかり天より下し下さいませぬか」
 だけどどうせ神様に祈るのだったら、下痢を治してもらう方がよっぽど手っ取り早いには違いない。
「ところが奇跡は起こった!」と言えば言い過ぎだろうが、躊躇しているとやがて、激しい便意が治まってきたのだ。下痢はこらえているとそのうち固まるということを発見。それでも腹痛があるのでおなかを手で押さえ、ふらふらとよろめきながら何とかホテルまで帰り着くことができた。ああー、二度目の野グソをせずに済んだ……おお、女神よ!

 今日は休むことにして、夕方の六時頃まで部屋で寝ていた。それからおもむろに起き出して、ライバル万根と共に浜辺のレストランへ。ボール型にしたかき揚げがあったので食ってみた。偶然だろうが、この店の料理はかなり日本的だ。
 明日はマドゥライへ行くつもりだが、万根クンは六ヶ月ビザなので、何もない所にもしばらくいなくてはならないようだ。僕は逆で、急がなければならない。残りは距離としては約三分の一、時間的にはもう三分の一も残っていない。まあ、間に合わなかったとしたら、帰りの航空券はパーになるけど、一旦バングラデッシュにでも出てビザを取り直すという手はある。しかしそうすると持ち金がやばくなりそうだ。最悪の場合はクレジットカードでキャッシングという手段はあるけれど、それはしたくないのだ。それをすると冒険ではなくなってしまうのだ。
 とにかく残りの移動さえ耐えることができれば何とかなるんじゃないか。いや、何が何とかなるのかよくわからないけれど……。


    5月14日 晴時々曇 カニャークマリ 〜 マドゥライ

 朝七時半のバスでマドゥライへ。まだ早いので万根は頭上の部屋で寝てるだろうから、別れも告げずに出て来た。いつも予約に関しては裏目に出る。今日は座れないと辛いと思ったので、5ルピーの手数料を払って席を予約したら、乗ったバスはがらがら、僕以外には大人二人、子供二人しか客はいない。
 車掌が言っていることはよくわからないが、ナーガコイルまで逆走して、そこで客待ちしているようだ。一時間半は停まっていた。車掌が先に出るバスを教えてくれたが、行ってみると座れそうになかったので、また戻ってこの遅い方で行くことにした。これはローカル・バスだけど、二人掛けでクッションもあっていい。
 結局マドゥライには午後三時に着いた。適当な所に安宿を見つけて部屋を取る。ちょっと散歩に出かけて戻って来ると、狭いロビーに何人も椅子を並べて陣取り、階段の踊り場にあるテレビを見上げている。クリケットの試合をやっていて、みんな目を離そうともしない。
 ものは試しとちょっと見ていたが、W杯か何からしく、ニュージーランド対インドのゲームで、こんな競技が人気あるのかと驚いた。七、八万人は入っていそうな大きなスタジアムが満員になっていて、観客は盛りのついた猫のように熱狂している。テレビを見ているホテルの人や、たぶん近所から見に来ている人たちもテレビに釘付け状態だ。
 あとで外の店にジュースを買いに行ったが、そこでも何人かテレビにかじりついていて、商売そっちのけだ。ちょうど試合が終わり、どうやらインドが負けたみたいだった。店員は外国人の僕に八つ当たりしてきやがった。ムカつく野郎だ。野球を知らないからこんなくだらないスポーツに熱狂できるのだろう。

 こっちのクリケット熱というのはクリケットのない日本では想像がつかないほど凄い。スペインでなんで闘牛なんかに熱狂できるのか理解できないのと同じで、まるで別の惑星に来てしまったような気分になる。空き地や公園で遊んでいるのはほとんどがクリケットだし、プロリーグまである。大雑把に言ってメジャー・スポーツとは、米軍が進駐して来た国は野球で、イギリスに支配されていた国はクリケットで、あとはほとんどサッカーのようだ。
 クリケットは野球の前身らしいが、しかし異星人の僕なんかが見ていると、とても野球の親戚とは思えない。テニスか、そう、ゴルフが最も近いような気がする。まずスピードというものがない。だから見ていて選手にいかにもやる気がないように見受けられる。
 アイスホッケーのゴールキーパーみたいにものものしいフェイスガードを頭から被った打者が平べったい板で力任せに球をぶっ叩いたあとは、ランナー(と言うよりウォーカー?)がだらだらとホームとマウンドの間を往復している。見ているこっちはかったるくてしょうがない。スタンドまで球をかっ飛ばした打者は、打ちっ放しでスコーンと大きいのがたまたま飛んだ時のオヤジみたいな間抜け面して自己陶酔している。
 だからと言って選手にやる気がないのかと言うと、そうでもないみたいだ。ピッチャーマウンドというような、野球みたいに土を盛り上げた所はなく、ピッチャーが後ろの方からどどどーっと勢いをつけて鬼の形相でもって走って来るや、そのまま馬鹿力に任せてホームの方に球を投げつける。投手が球を柱に当てて倒そうとするのを打者が板で妨害するらしいのだが、そのいかにもやけくそに見える猪突猛進の投球ごとに、異星人の僕だけ大笑いをした。異星人にとってはお笑い番組でしかないのだ。まあ、クリケットしか知らないあっちの人が野球を見たら、なんてくだらない遊びしてるんだと思うのかもしれないけれど。

 マドゥライには珍しく本屋があった。バックパッカーの多い観光地には、外人向けの古本屋はあるが、これはみんなバックパッカーが読み捨てて売ったのを別のバックパッカーに又売りする外国人専用の古本屋で、本当の本屋ではない。
 このインド人用の本物の本屋にあるのはほとんどが英語の本で、本棚を眺めているうちにだんだん首が曲がってくるのだが、意外だったのは、中国から輸入してきている本がかなりあったことだ。薄手の『三国志』や『西遊記』などで、これも英語なのだが、本文は簡単に略しすぎててつまらない。しかし挿し絵がたくさんあって、こちらは手が込んでてなかなかのものだ。僕は買わなかったけど、安いし、その挿し絵だけでも買う値打ちは充分にある。
 一応ここはインドなので、僕は代わりに子供向けのインドの昔話を買い、それをレストランで食後に読んでいると、意外な人が店に入って来た。日本語で声を掛けてきたのでふと顔を上げると、コヴァーラムで出会った古池さんだった。インドは広いはずなのに、一度出会った日本人に偶然再会するのはこれで何度目だろう。日本人観光客の外国での行動範囲というものは、かなり狭い範囲に限られているのかもしれない。
 聴けば、ほんの少し前ここに着いたそうだ。カニャークマリでは出会わなかったが、五泊もしていたという。古池さんはカニャークマリが気に入ったみたいで、「いいとこだいいとこだ」と褒めちぎっている。僕より遙かに上を行く『何もないとこ愛好家』なのだろう。

 レストランを出たあと、ウォークマンにつけるスピーカーを買いに行くと言うので、電気屋までついて行ったが、この人は凄い値切り方だ。「高い!」と店員を怒鳴りつけるように言う。ただそれを繰り返すだけだ。うーむ、これはインドでの値切り方としては駄目だろなあ。店員もせせら笑っているだけだ。結局負けてもらえなかっみたいだ。
 ずっと下痢をしていて血便も出るんだという話をたまたましたら、古池さんはいい薬をあげようと言った。そのまま彼のホテルまでもらいに行く。僕の泊まっている宿は騒がしいとこだが、古池さんの泊まっている所は廃墟みたいな建物だった。壁なんか崩れてるし、窓ガラスも割れたまま放ってあったりする。しーんとして人っ子一人見かけない。まるで幽霊屋敷だ。
 幽霊屋敷の一部屋に入った古池さんは、薬を取り出して来て僕にくれた。錠剤が十粒ぐらいパックになっている。薬屋で抗生物質を買おうとしたら、抗生物質はおなかの菌をみんな無差別に殺してしまうので、インドでは既に禁止になっていて、その代わりこれがありますよとばかりに、『dependal-M(ディペンダル・エム)』というその薬を売ってもらったそうだ。
「小便が真っ黄っ黄になるよ、けっけっけっ」
 と笑いながら自信ありげに薬をくれたが、それを飲むと本当にしばらくして小便がオレンジ色になった。きつい薬なので、一度に一錠を半分に割って飲んでいいくらいだそうだ。自分のホテルに戻ってから早速飲んでみたが、効くとは期待していなかった。
 また海辺を離れて内陸に入ったので、『燃える男フルイケ』に再会したことも重なって、恐ろしくホットな夜だった。


    5月15日 曇のち晴 マドゥライ

 朝、外に出てみると、道に水溜まりができていた。夜中に雨が降ったようだ。僕が泊まっている部屋には外窓がないので、時計を見なければ朝なのかどうかもわからない。
 午前中は近くにあるミーナークシ寺院へ行ってみたが、これは凄かった。エローラのカイラーサナータ寺院を見てしまったからには、もう寺なんか見れないだろうなと思っていたけれど、なんのなんの、この寺は充分に対抗できる。もちろん特徴は全然違う。
 誰が言ったのか、『世界三大バカ』というのを昔聞いたことがあった。確か、『ピラミッド』、『万里の長城』、『戦艦大和』、だったと思うが、まあピラミッドのように、何の目的で造ったのかよくわかっていないものまで『バカ』にしてしまうのはちょっとひどいかもしれない。
 ここに来てようやく僕にも『インド三大バカ』が揃った。アーグラーの『タージマハル』、エローラの『カイラーサナータ寺院』、そしてこのマドゥライの『ミーナークシ寺院』だ。
 バカはバカでも、これらは観光客にとっては楽しいバカだ。その三大バカを見に、多くのバカたちが世界中から集まって来る。とにかく圧巻なのが、遠くからでもよく見える、寺院の東西南北にある馬鹿でかいゴープラム(塔門)だ。等身大のお人形さんで高い塔が隙間もなくびっしりと埋め尽くされている。全部で三千三百体の神の像がくっついているそうだが、もちろん数えるまでもなく半ば圧倒されてしまう。いろんな色で塗りたくられていて、見るからにけばけばしい。僕としては、『バカNo.1』の座は、議論するまでもなくこのミーナークシ寺院に差し上げたいと思うのだが、どうだろう?
 よくぞこんなものをおっ建てたと感心してしまった。一体、誰がこんなものを造ろうと考え、誰がこんなものをほんとに造ってしまったのだろう。中に入ってもやたらに広くて迷ってしまう。全部回れたかどうかはわからない。
 ただ、中央にある神殿内には、ヒンズー教徒でない僕は入れなかった。見るなと言われれば見たくなるのがバカの習性で、場所を変えては格子の外から覗き見してみたが、神殿の中で何をしているのか、どこから見ても全く見えなかった。中でどんな怪しい儀式を執り行っているのだろう、とやけに想像をかき立てられる。ここは外から見ても凄いが、中にも味がある。

 寺院内の一角には生きた象がいて、子供が「バクシーシをやるんだ」と言うので、「どうせ鼻で取って飼い主に渡すんだろ」と思いながらも5ルピー札を差し出してみると、札をつかんで主に渡したあと、次にその長い鼻を僕に向かって振り上げた。
「な、何するんだ! 金やったじゃないか」
 と思わずのけぞり顔面蒼白となったが、その鼻で頭をちょんちょんと叩かれただけだったので、あのニシキヘビみたいな鼻に絞め殺されずに済んだ。象使いの飼い主が、「祝福してるんだよ」と言って笑った。なるほどね……、やっぱり象は賢いな……、善人は襲わないか。よしよし、いい子だ。
 しかし今の腰抜けで、またもや冒険者レベルがダウンしてしまった。もうレベルがなくなってしまったんじゃないだろうか。だけどいくら賢いと言っても、象に金の値打ちまではわかるまい。5ルピー札出そうが500ルピー札出そうが、どっちも「ちょんちょん」でおしまいなんだろう。
 この寺に来て祈りを上げているヒンズー教徒の拝み方というのも半端じゃない。拝んでは地面にひれ伏す。土下座より凄い。神像の前でうつ伏せになってしまう。手足をピンと伸ばし、体の前面を(顔面も)全て石畳の床につける。そしてまた起きあがっては拝み、またひれ伏しと繰り返す。どうせ頭の中で唱えているお祈りの文句は「儲かりますように」とかなんだろうけど。

 一旦ホテルに戻って休憩し、三時過ぎにサイクル・リクシャーを捕まえ、ティルマライ・ナーヤカ宮殿へ行く。入ってみると、塗り直しをしているところで、足場に囲まれていてちょっとがっかりしたが、これも大きな建築物だった。
 特に奥の博物館になっているホールは異様だった。インド―サラセン様式というのだそうだが、何かヨーロッパの古い教会に似ている。上の方に悪魔みたいな像やドラゴンみたいな像があるし、ミーナークシ寺院の千柱堂のレリーフなどもそうだったが、翼のある天使や、曼陀羅の横にダビデの星があったりして、不思議な組み合わせだ。
 ところで、長いこと僕を苦しめてきた怪しからん赤痢のことだが、昨日古池さんからもらった薬が効いたのだろうか、もう今日にはすっかり良くなっていた。インドは下痢の本場なので、それ用の薬もやはりインドの薬がいいみたいだ。偶然とはいえ、まさかミスター・フルイケに命を救われようとは思わなかったなあ。これでやっと汚い話題からも遠ざかることができそうだ。



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