9.ついに来た! 恐怖の疫病が我が身にも……


    4月27日 晴 〜 マンガロール 〜

 朝マンガロールに着いた。観光バスはゆっくり座って眠れる(ジャンプの度に起こされるが)という利点があるものの、訳のわからない場所で降ろされるので戸惑ってしまう。ここは市街地図も持っていないし、右も左もわからないので、とりあえずリクシャー・ワーラーのあんちゃんに、長距離バス・ステーションまで連れてってもらうことにした。
 コーチン行きは午後五時発しかないそうだ。また時間が余った。しかし今日は街中でうだうだしていたくない気分だった。ジャンプしたわけでもないのに夜明け前にふと目が覚めたら、ほの明るい中にも窓の外に海が広がっているのが見えたからだ。
 たぶんゴアを経由したのだと思うが、夜中にバスがフェリーで幅の広い河を渡った。フェリーと言っても、車を載せて水の上を動くエンジン付きの鉄の筏なのだが、潮の香がする河(海?)だった。その潮の香の記憶が残っていて、窓から海が見えだしたら、眠っていても潮の香の記憶に呼び覚まされたのだろうか。

 地図を見てもここは海が近い。バス・ステーションのクロークルームに重いリュックを預けると、通りに屯していたリクシャー・ワーラーのおっちゃんの一人に、海辺に連れてってくれと頼んだ。もう一人いた仲間と、どこがいいだろうと相談している。
 なかなか行先が決まらないみたいなので、僕はエローラで買った全土地図を取り出し、「ここに連れてってくれ」と、ペナンブールという所を指差してみせた。丸印が海にへばりついていたからだ。このマンガロールからもさほど遠くはない。二人とも頷く。
「あそこはいいビーチだ」
「10キロメートル、60ルピーかかるよ」
 この際文句は言ってられない。海辺へ行きたい。アラビア海が見たい。
「OK」
 すぐさまリクシャーに乗り込んで出発。市街地を出ると、おっちゃんはリクシャーを運転しながら、途中にある工場の自慢ばかりしている。工場のオーナーでもあるまいに、他人の持ち物を自慢してどうするんだ。僕は海に行きたいだけだから、「あーそう」「へーそう」「ほーそう」と相槌を打ってただけで、おっちゃんの熱弁解説はちっとも聞いていなかった。しかしあまりに熱が入ってくると、このおっちゃん、後ろに乗っている僕の方をずっと見て喋り続けながら運転するから、危なくて仕方がない。

「さあ、着いたよ」
 道の行き止まりにある堤防が切れていて、向こうに白い砂浜が見えた。おっちゃんに料金を支払うと、「めしが食える」と言って、大喜びで帰って行った。早速浜辺に行ってみる。砂浜は広くて長い。水は綺麗だ。びっくりするほど綺麗だった。実際のところ、このあと行ったインドの海で、ここより綺麗な所はなかった。
 乾いた砂を踏む度に、キュッキュッと砂が鳴く。子供が少し泳いでいる他は、大人がパラパラと散歩しているだけ。外国人は全く来ない穴場だ。ただそれだけに、民家こそあるものの、宿泊施設などはちょっとなさそうな雰囲気だ。その方が荒らされなくていいのかもしれないが。
 ここは北緯12〜13度くらいなので、朝から日射しがきつくて、暑いことは暑いに違いないが、意外に感じたのは、海辺の方が街中や内陸部よりずっと涼しいということだ。風もあって、汗もあまりかかない。暑いけど涼しいのだ。その点では体力の消耗度が全然違う。雨季を除けばここはずっとこんな気候の常夏の地なのだろうが、日本の夏よりずっと過ごしやすい気がする。
 とうとう大陸を突き抜けて地の果ての海まで出た! というかつて予想していたあの逆コロンブスの感動は、実はほとんど感じなかったのだが、海はいいな大きいな、早く海辺でのんびりしようと決めた。

 マンガロールは通過地点なので、もうバスに乗りに戻らなければならない。その前に浜の近くのバンブー・ハウスで一休み。木の板と竹の壁に葉っぱで編んだ屋根の掘っ建て小屋に、くすんだ白木のテーブルと椅子が一組。夫婦だけでやっている。
 コーラで喉を潤し、パンケーキとコーヒーで昼めし。バナナを注文して皮を剥いて食べていると、向こうから山羊が二頭やって来た。山羊というのは知らなかったが、警戒心が薄く、と言うより、人見知りしないし人なつっこい。すぐそばまで来て、僕がバナナを食っているのをじっと見ているので、試しに食い終わったバナナの皮を差し出してみたら、ぺろりと食べてしまった。
 山羊さんは短い尻尾を振りながら、「うめー!」と言った。「そうかそうか、それじゃあ」ともう一本房からちぎり取って実を無理やり食べると、皮をもう一人の方にあげた。こいつもぺろりとあっと言う間に食べてしまい、またまた「うめー!」「そうかそうか、おまえたちが何を言っているのかインド人にはわからないだろうが、日本人の俺にはよく通じているんだぞ」
 日本で檻の中に閉じ込められている山羊に紙を食わせてやったことはあるが、その時は黙々と食ってただけで、こんなに感激してはくれなかった。やはり獣にだって美味い不味いの違いはあるのだ。バナナの皮ごときでこんなに感動してくれるんなら、と今度はバナナの皮を剥き、実を差し出してみると、我先にと二頭でおやつ争いを始めた。
「そうかそうか」どうせ一房全部は食えないんだからと、残りもみんな山羊さんにやることにした。どうせ皮まで食っちまうんだし、皮を剥くこともない。「まるごとバナナ」を二頭に次から次へと食わせた。お二人とも「うめー、うめー!」と連呼の雨嵐。山羊は目がエイリアンみたいで怖いけど、短い尻尾をプルンプルン振り回すのがなんともかわいらしい。
 そうしていると、奧にいた主人が気づき、箒を振り上げて「あわわわわわわーっ!」と山羊を追っ払いに来た。山羊は逃げてったが、様子を窺ってからまた戻って来る。人間を恐れない性質のようだ。人間を舐めてかかってるのかもしれない。今度は主人は「あわわわわわわわわわわわわわわーー!」と箒を持って山羊たちを果てしなく追っかけ、やがて山羊と一緒に堤防の向こうに消えてしまった。

 帰りは通りがかりのインド人の学生が、「バスがあるよ」とバス停まで連れてってくれた。バスが来るまでしばらく話していたが、バスの時間が近づくと、話が「金くれ、金くれ」に変わってきた。興醒めして話すのもやめてしまったが、2.5ルピー(10円足らず)でマンガロールまで戻れたのだから、少しはやっても良かったかなあ。
 しかしまた恒例の乗り越しをしてしまい、新たにバスに乗り換えて引き返し、1.5ルピー余計にかかった。(それにしても、こんな低額の料金まできっちりとメモを残してるなんて、俺もかなりしみったれてきてるなあ――執筆中の独白)
 だが、長距離バスは例によってまたまた遅れることとなった。時間を守らないということにかけてはとことん徹底している。『時間を守らない』という慣例を必ず例外なく守っているではないか、さすがインドのバス! と半ば感心する(もう腹も立たない)。そしてこれまた恒例となった『根性ナシ旅行社駆け込み行為』により、午後八時発コーチン行きの予約を取った。
 そうするとほっとしたのか、急に腹具合がおかしくなってきた。バス・ステーションのトイレまで行って用をたす。ここのトイレの入口には「トイレ少年」がいて、大の方を使用した人は、出る時、トイレ少年の手にしたカップに1ルピー硬貨を入れて出て行く。
 腹の調子が悪くなった僕があわただしく駆け込んで来て、ドアが全部塞がっていたのでうろたえていると、足音もなく近づいて来て、声も出さずに「あそこが空きましたよ」という感じで、今人が出て行った所をさりげなく指し示すと、すぐにすーっと入口まで戻って行った。もうベテランの域に達している。入って来た時の様子で、「腹を下してるな」とすぐわかるみたいだ。

 この時は下痢はしていなくて、スッキリして1ルピー硬貨をトイレ少年のカップに入れてバス・ステーションのトイレから出ると、今出した分を入れ直そうと、すぐに通りのレストランに入った。メニューがあったので、そこからなんとなく何なのかわかるようではっきりと何なのかはわからないあやふやな名前の料理を選んで注文してみた。出て来た料理はこれがまた旨い。南インドにいると食い過ぎてしまう。
 アイスクリームなんかもあったので頼んだ。まだ時間をつぶす必要があるので、コーヒーも頼んでゆっくりする。その度に小学生くらいの男の子が皿を下げたりテーブルを一生懸命拭いたりする。中学生くらいに見える男の子は、床に這いつくばるようにして手にした雑巾で店内の床をずっと拭いている。料理を運んで来るのは二十歳過ぎのボーイと決まっている。
 そこで暇を持て余していることもあって、テーブル拭きの少年に尋ねてみると、床拭き、ウェイター、コックという順に出世していくんだということだった。
 ふとさっきのトイレ少年を思い出した。これはカーストの問題だから、理屈を言っても始まらないことなのだろうが、まだこの店は出世があるだけましだ。たぶんあのトイレ少年は(女子トイレだったら「トイレおばさん」がいると思うが)、いや、少年とは限らない、「トイレ少年」は「トイレ青年」となり、やがて「トイレおじさん」となり、遂には「トイレ爺さん」となっていくのだろう。だから女性だったら、「トイレ少女」「トイレ姉さん」「トイレおばさん」「トイレ婆さん」にお目にかかると思うが、要するに何が言いたいかと言うと、きっちり調べてみたわけではないが、ずっとあのまま死ぬまであの仕事をやっているだろうということなのだ。

 インドという所は、職業選択の自由がないばかりか、生まれつきのカースト(身分・階級)により、就ける職業が制限されている。職業が決まっていると言った方が正確だろうか。これは国家の政策ではなく、インドで何千年も続いている宗教的慣習だからなおさら厄介な問題だ。乞食の存在もそうである。乞食という職業になるように、生まれた時から(生まれる前から)決まっている。自分の意志でなった日本のホームレスとは訳が違う(それにしろなりたくてなったのではないのかもしれないが)。
 この現実を目の当たりに見ても僕には何もする力がないので、結局「自分はインドに生まれなくて良かった」という結論しか出て来ないのだが、もし自分がトイレ少年の家庭に生まれていたらと思うとゾッとしてしまう。自分は乞食になるために生まれてきたとしたらどうだろう? 乞食として生まれ、乞食のまま死んでいくとしたら? もし日本にトイレ少年なる職業があったとして、進路相談の席でトイレ少年を希望する子供がいるだろうか?
 もちろん現代社会は分業化されているわけで、人が嫌がる職業もあれば、美味しい職業もあるし、みんながみんな美味しい職業しかしなくなったら、世の中は回らなくなってしまうのだが、トイレ番などという職業はなくてもいいものではないか。こんなこと言うと、当のトイレ少年から、「いや、トイレ番をしたらいくばくかのお金がもらえるから、それで食ってくことができるんだ」と反論されてしまうかもしれない。

 余所者がとやかく言うことではないのかもしれないが、毎日目の当たりにしているインドの人たちは、そのことをどう思っているのだろうか? なんとも感じないのだろうか? いや、日本人にしたって偉そうに言えた義理ではない。明治で身分制は廃止されたとはいえ、現実には今現在も、自然に且つ人為的に成り立った身分みたいなものが充分に存在しているではないか。国家が決めた制度ではないので、それを「身分制」とは呼んでいないだけのことだ。
 会社で役職が上の奴と下の奴――上の奴が偉い、学校で勉強ができる奴とできない奴――できる奴が偉い、収入が多い奴と少ない奴――多い奴が偉い、有名な奴と無名な奴――有名な奴が偉い……、これらのことはちょっと考えてみれば明らかなことだが、何の根拠もない妄想なのである。人間とは、自他との間に是が非でも優劣をつけたがる生き物なのだろうか。
 レストランを出て歩いていると、テーブル拭きの少年が追っかけて来た。ハンカチを置き忘れているのを見つけ、走って持って来てくれたのだった。僕は礼を言ってハンカチを受け取ると、少年と互いに笑顔で「バイバイ」と言い合って別れた。思わずチップを渡しそうになったのだが、すぐに思いとどまってやめた。
 テーブル拭き少年の、あまりにも元気で屈託のない様子が、先程のトイレ少年の常に伏し目がちに利用者にさりげなく気を配っている姿と重なり、金で応えるしか能がないという姿勢がなんとなく嘆かわしくなってきたのだ。
 この子は見返りを当てにしてこのことをしたわけではなく、純粋に親切心でハンカチを届けてくれたのだから、僕の勝手な思い込みだが、ここで金を渡したら一種の侮辱であろう。「金欲しさにハンカチを届けてきたに違いない」と僕が見なしているという意思表明になってしまう。
 円が強いというただそれだけの理由で、日本人はインドでは金持ちになれる。日本にいる時に、親切にされたからといって、やたらに金や物をあげたりはしない。すぐにチップを出そうとするそんな『俄か金持ちの思い上がり精神』をいつの間にか持っていたことが恥ずかしくも思えてきた。


    4月28日 曇のち晴 〜 コーチン

 昨夜はバス休憩でも一歩も外へ出なかった。何回停まったのかも知らない。バスが走り出して、八時頃からずっと寝たきりだった。明け方目が覚め、コーチンには七時前に着いた。
 バスから降りると、まず自分がどこにいるのか知る必要がある。そこで地図を見る。こういう時はリクシャー・ワーラーの客引きは役に立つ。「ここはM6ロードだ」とか、「駅はあっちだ」とか言ってくれる。地図と照合し、おおよその居場所がわかった。
 早くホテルに入ると損するので(南インドのホテルはたいていどこでも二十四時間制)、リクシャー・ワーラーにシーロード・ジェッティまで連れて行ってもらう。だがコーチンの海は期待を裏切って汚かった。曇っていたし、湾の内側だからかもしれないが、とんでもない汚さだった。昨日のペナンブールの透明な海は幻だったのかと思えるほどにコーチンの海の水は茶色く濁っていた。
 がっかりして近くの店に入り、コーヒーを頼んで一休みする。ここの若い主人は親切で、僕にずっと付きっきりでいろいろなことを教えてくれた。こっちは二十四時間制ホテルに合わせて時間つぶししているだけで、たった2ルピーのコーヒー一杯でここまでもてなしてもらっていると、あまり長居するのも悪いような気がしてきて、適当なところで切り上げて店を出た。
 ジェッティの乗り場まで行ってみる。ジェッティというのは渡し船なのだが、名前から受ける印象とは全く違い、ただのポンポン船だ。それにどかーっと乗客が乗り込み、向こう側の島とかあちこちに行ける。コーチンは島の方が観光の名所が多いので、ジェッティはコーチン観光では欠かせない、安くて便利な交通手段なのだが、立ったまま溢れんばかりになっている船の乗客たちを見ているうちに、島へ渡る気が失せてしまった。今日はなぜか元気が出て来ない。

 少し休んでから観光にしようと思い、バス・ターミナルの方に向かって歩きながらホテルを捜し始めたが、満室ばかり。そのうち便意を催し、近くに見つけたホテルの一階のレストランに入り、荷物を下ろして適当に注文すると、トイレを借りようと急いで訊いてみた。泊まり客じゃないのなら従業員用のを使ってくれということだったので、外にいる警備員に案内してもらった。
 案の定、下痢だった。インドに来てこれで三度目の下痢。今回は腹の調子が一番悪い。屁が滅茶苦茶出た。どこにこんなに入ってるのだろうと不思議になるくらい出て来る。体が圧縮ボンベになってしまったかのように、体の容積よりずっとたくさん屁が出た。
 それとも吸った息が屁に変わっているのだろうか。そう考えると、心なしか吐く息の方が吸った息より少なくなっているような気もする。試しに息を止めてみると屁が止まったではないか!(これは嘘だけど)。しかし何かが腹の中で発酵しているのかもしれない。そんな気がする。出した便を見てみると、変な色をしている。うーん、これはやばいかもしれない、と脳裏に不安がよぎる。
 三十分以上トイレに閉じこもり、三十分以上、息を吐くように屁を出し続けたあと、ようやく収まったかと思えた頃には、足が痺れてしばらく立ち上がれなくなってしまった。レストランの席に戻ると、テーブルの上に注文した料理が揃っていたが、ホット・コーヒーはすっかり冷めてしまっていた。それらを口の中に押し込むと、早々にホテル捜しに出た。

 バス・ターミナルまで来てみると、近くにホテルがたくさん並んでいた。その中の一軒に入ってみたが、しーんとしている。中に向かって声をかけてみたが、返事はない。猫の子一匹見かけない。インドではどこへ行っても猫はあまり見かけないけど、廃屋かと思って引き返そうとすると、奥から男が一人やって来て僕に声をかけた。
「部屋は空いてるか」と訊くと、「いっぱいだ」と即座につっけんどんな返事が返って来た。人っ子一人泊まってなさそうな雰囲気なんだけど、「あっそっ」と出て行こうとすると、男は慌てて「空いてる、空いてる」と僕を引き留めに来た。どっちなんだ? 「隣のホテルに行ってみるわ」と言って表に出ると、男は「料金負けとくから泊まってくれ」と猫なで声ですり寄って来た。
 男は僕を部屋まで案内すると、鍵を差し出した。
「隣に泊まってるのは日本人だよ」
「あっそっ」
 ニヤニヤしながら階段を下りてった。
 しばらくするとまた下痢だ。今度は粘液みたいなのが出た。他に形容の仕方がわからない。こんなのは初めてだ。
 思い返してみると、ホスペットとマンガロールでは移動中も含めて安食堂で安物ばかり食っていた。それにアイスクリームとかホーリックとか、やたらに旨いし量は多いし、他にもインドの菓子、甘いか辛いかばっかり。いや、そうではないだろう。これは単に食い過ぎで腹を下したという感じではない。最近は慣れてきて、面倒だからついつい油断して、手も洗わないで手づかみで食ったし、生水は平気で飲むようになったし、もしかすると伝染病かもしれないぞ。

 ベッドに寝転がっておもむろに虎の巻『○○の○き方』を手にすると、薄暗い中でパラパラとページを繰ってみる。確か「インドでかかる伝染病」のページがあったはずだ。あったあった、『風邪、下痢、コレラ、マラリア、A型ウイルス肝炎』とあって、後ろの三つは自己処理不可能となっている。まあそうだろう。読んでみると、コレラではなさそうなのでまず一安心。
 下痢なんだけど、『食物不適合による下痢』――まずこれではなさそうだ。そうすると『感染性下痢』――まずこれに違いなかろう。「潜伏期間が一〜五日」ということは、思い当たる節がありすぎて、原因を特定できない。もっとも原因がわかったところで、「あの店のせいで伝染病になったのだ!」と余計カッカするだけのことで、何のプラスにもならないのでわからずとも良い。『アメーバ赤痢』――これは「熱は出ない」というのは当てはまっている。「イチゴゼリー状の粘液血便」というのは、さっき粘液は出たが、イチゴゼリーには見えなかったなあ。「嘔吐がある」とあるのだが、これはないので、この病気かどうかもはっきりしない。代わりに隣の部屋からゲーゲー吐く声が聞こえてきた。そう言えば隣は日本人だと宿のおっさんが言ってたっけ。さすがに日本語でゲーゲー言ってるな。隣の人とセットにすればアメーバ赤痢になるんだけど。
 と、ブラックジャックにでもなったつもりで自己診断してはみたが、結局答は出ない。要するに病名が何であろうが、医者へ行った方がいいのか行かなくてもいいのか、問題はそれだけなのだが、感染性下痢は「二週間半以上の隔離入院が必要」などと書かれてあるので、ただでさえ医者嫌いな僕は尻込みしてしまった。
 ま、いっか、とバナナを買って来て食べ、日本から持って来ていた下痢止めの薬を飲んだ。別に体のどこが痛いとか苦しいとか、そういうこともないのだが、何となく気分は優れない。洗濯だけして、今日は寝て過ごすことにした。


    4月29日 曇のち晴 コーチン

 夜明け前に目が覚める。下痢は治らない。まず粘液と血しか出ない。そしてトイレから出た途端に必ずまた便意を催し、今度は下利便が出る。必ずと言っていいくらいこの組み合わせで二回出る。ケツの穴も痔になったみたいだ。
 相変わらず屁もメチャメチャ出る。昨日と今日だけで都合、半年分のおならは出してしまった。半年分先払いとは、なんだかもったいないような気がする。俺の屁を返せー!
 ビオフェルミンという日本から持って来た下痢止めの薬を飲んでみたが、全く効かないみたいなので、とうとう必殺技として取っておいたインドの薬を飲むことにした。カジュラーホーの詐欺師からもらったものだ。きついので錠剤を半分に割って飲んだ。そうしろと詐欺師が言っていたからだ。
 日本の薬が効かないというのは、これはただの下痢ではないということになるだろう。コレラや赤痢という病気は日本にはもうほとんどないだろうから、そういう病気に効くようには作ってないはずで、従って日本の薬が効かないということは、そういった日本にはない伝染病だという可能性が高い。
 だいたい血便なんか出たのは初めてだ。証拠の写真を撮っておいたわけではないから、血便とはどんなものかはっきりとは思い出せないが、その時々によって微妙に違っていたような記憶がある。凄いのは、トロみたいのが出た時だ。赤身と白身に分かれてて、まるで生肉みたいだった。その時は腸がはみ出してしまったのかと思い、愕然としたものだ。
 そしてまたビオフェルミンを飲んだ。午までには何とか下痢が収まる。考えてみればあの詐欺師には眠らされただけで、被害と言えばゲロを吐いただけで済んだのだから、一方的に多大な恩恵を受けているような気がしてきた。

 そこで近くの売店へ行き、蒸しパンとバナナとマンゴージュースを買って帰り、試してみる。何ともないようなので両替に出かけた。しかしあまり元気も出ない。ケツの穴が痛いし、すぐにホテルに戻ってうとうとする。
 それでも退屈なので、三時頃になって海の方へ出かけてみた。夜のうちに雨が降ったみたいで、土の道には水たまりができていた。インドに来て初めてのことだ。一度デリーで、ホテルから出ると道が泥田のようにぬかるんでいたことがあったが、歩いているうちに、下水が詰まって溢れ出したのが原因だとわかった。メイン・バザールだけがドロドロになっていたのだ。
 二日続けて曇ったのも初めてのことだ。海の水はやっぱり今日も汚かった。ゴミまでいっぱい浮いている。コーチンの海が汚いのだろう。やっぱり明日コーチンを去ることにしよう。腹さえ何ともなければ、トリヴァンドラムまで行ってしまうつもりだ。ちっとも見物しないでこんなこと言うのも何だけど、コーチンはちょっと期待はずれだった。

 ここの通りや路地裏を歩いていると、「おや、日本人かな」と思うことがよくあった。しかし荷物も何も持っていないし、軽装だし、しぐさが旅行者とは違って地に着いている感じがする。そして現地語で喋っている。そういう日本人そっくりの人が何人もいるので、帰化した人でもなかろうとそのうちわかってくるが、うっかり日本語で声をかけてしまいそうになるくらい、見た目は日本人そっくりだ。
 そう言えば昔テレビで、南インドに日本人そっくりの人種がいて、日本人のルーツではないか、という番組を見たことがある。確かにそっくりだった記憶があるが、するとこの辺りだったのかもしれない。
 面白いもので、日本にいる時は知らない日本人に話しかけたりなんかしないのに、外国で見かけると話しかけたくなるのだ。これも一種のホームシックなのだろうか。まあ正確に言うと、やっぱり『日本語喋りたい症候群』なんだろうけど。しかし考えてみれば、日本の空港から毎日ひっきりなしに外国に向かって飛行機が出ているわけだから、日本人は海外のあっちこっちに常にたくさんいて当然のはずなのだ。
 逆の立場のことを話すと、僕の方もインドに来てこれまでにいろんな外国人と間違われた。間違えられた回数の多い順に並べると、

 1.日本人 ―― これは間違ってない。正しい。

 2.韓国人 ―― インド人からは「日本人か? 韓国人か?」とよく訊かれた。
         それだけ韓国人旅行者も多いということだろう。お互いも見
         分けがつかないみたいで、日本語で話しかけてしまったり、
         朝鮮語で話しかけられたりした。

 3.ネパール人 ―― 日本人とよく似ているらしい。と言うことは、インド人
           にしてみれば、ネパール人はインド人より日本人に似て
           いるということになるが、こっちから見れば、ネパール
           人はインド人によっぽど似ているのだが。

 4.アメリカ人――決して僕が西洋人っぽい顔をしているわけではなくて、外
          国人はみんなアメリカ人だと思っている人が少なからずい
          るのだ。僕の子供の頃は、日本の大人も子供も、白人を見
          ればアメリカ人だと決めつけていたものだ。それと同じ理
          屈で、インド旅行者の国別比率はアメリカが圧倒的なのだ
          ろう。

 5.イギリス人――アメリカ人と同じ理由。インドは第二次大戦までイギリス
          の実質的植民地だったから、外国人はイギリス人と思う人
          がいてもおかしくはない。人口はさほど多くないが、イン
          ドにおける旅行者の国別比率では高いみたいだ。

 6.インド人――じいさんばあさんが全然気にしないで地元の言葉でものを尋
         ねてきたりすることがある。この人たちの辞書には、「世界」
         「国際」「人種」「民族」「国家」などという言葉は存在し
         ない。「地球は丸いのである」なんてこの人たちに向かって
         言ったら、馬鹿にされるだろう。

 7.中国人――最近は台湾人の旅行者が多いらしい。中華人民共和国人だった
        ら、インドではパキスタン人に次いで仇敵扱いされる。理由は
        カシミール問題らしいが、そんなこと政府間の問題で、一般人
        には関係ないだろが、とは思うのだが。日本人には中国人を見
        分けるのは難しいが、なぜか中国人には日本人の見分けがつく
        みたいなので不思議だ。

 8.チベット人――インドには、中国軍に攻撃されて避難してきたチベット難
          民がいるので、よく似ていることもあり、たまに「チベッ
          ト人か?」と訊かれた。このチベット難民に会うと、向こ
          うもよく似ているということで日本人には親近感を持つら
          しい。

 もう一つ、「おまえの宗教は何か?」とよく訊かれることがあるが、「別になし」などと答えると通じないので、それを説明する暇と根気があるならやってみるのもいいが、たぶん徒労に終わるだけだから、「ブディスト(仏教徒)」と答えておくのがいいだろう。「クリスチャン(キリスト教徒)」でもいいが、相手がたまたまキリスト教徒だった場合、聖書の話などになると困るので、追求されない『仏教徒』がもっとも無難だろう。


    4月30日 晴のち曇 コーチン 〜 トリヴァンドラム

 下痢がちょっとましになったが、まだ完全ではない。朝七時のバスでコーチンを出る。アレッピー 〜 クイロンはボートで行こうと予定していたが、下痢のため断念。残念。カヌーみたいな小舟で水路を通って行くらしいが、八時間もかかるので、もし途中で下痢しそうになったらどうしようもない。
 必死に我慢するだろうけど、耐えきれなくなったらどうするだろうか? 恥も外聞もなく船縁の外に尻を出して川にするか、それともお漏らしして知らん顔しとくか、どちらにしても恥ずかしい。究極の選択だ。僕ならどちらを選ぶだろう? んー、もしかしたら川に飛び込むかもしれないな。ワニがいたらどうしよう。それよりは、ボートを岸に着けてもらい、急いで椰子の木陰まで行ってどばーっと噴射する(糞射?)のがベストかもしれない。
 これはのちにボート・クルージングした人から聞いた話だが、途中、ランチタイムで上陸があり、乗客は一軒しかないバンブー・ハウスで昼めしを食うのだが、ミールス(定食)しかなく、魚の唐揚げみたいなのが付いてるそうだが、急いで行かないと魚が切れてしまうらしく、のんびりして遅れて行くと、カレーだけになってしまうらしい。

 バスでは最初は立っていたが、アレッピーの手前から座れた。一番前の座席で、三方向の景色が見えて爽快だ。椰子の木と水路が多く、ボートもたくさん浮かんでいるのが見える。だけどバスがどれだけ無茶な運転をしているのかもよくわかって怖い。短い休憩一度だけだったので、予定通り十二時にトリヴァンドラムに着いた。
 すぐ近くで宿を取る。こういう時はホテルの比較検討なんてしている余裕はない。今や部屋を取る目的は寝るためが五割、うんこするためが五割。風雲急を告げているのだ。そこで部屋に入ると早速念入りにうんこした。バスの中で便意を催さなくて助かった。また粘液と血便だ。あーあ、最近詐欺師に出くわさなくなったなあと思っていたら、今度は疫病にやられる羽目になってしまった。もはや『インドぼられ日記』を『インド下され日記』とでも改題した方がいいのかも。
 しかし出すもの出してしまうと、その分腹が減った。最後の薬を試すためということで、食事をしに行く。巻き貝の中にいるみたいなレストランだった。螺旋階段を上ってくのだが、窓側の方にテーブルが段々になって並べられていて、客が食事したり茶を飲んだりしているのを一々横目に見ながら、空いているテーブルを捜してぐるぐると上って行く。
 かなり上の方まで上ったところでやっと席が空いているのを見つけた。おもむろに腰を下ろし、まず外の景色を愛でる。こういう実用性を無視した建物はまさに僕の好みだ。まあ、途中に空席があったとしても、上の方の席を取っただろう。天才とは高い所に昇りたがるものらしいからな。

 メニューに、『ビーフカレー:10Rs』とあったので、カレーは良くないとは思っていたが、つい食べたくなって頼んでしまった。肉が皿の上にてんこ盛りになっている。口の中に入れてみたが、やっぱり牛肉だ。おお! 感激! 牛肉を食ってこれほど感動したのは生まれて初めてだ。これで35円?!
 日本の超辛口カレーと同じ味。米がなかったのが残念。パロータという、チャパティのクロワッサン版みたいなのにつけて食べた。これはチャパティと違って旨い。フルーツサラダは甘すぎる。アイスコーヒーも甘い。
 インドで「○○カレー」と言った場合、○○が中心になる。「カレー」と訳すよりは、「○○を香辛料で煮込んだおかず」と訳した方がいいだろう。「マトンカレー」なら、羊肉をカレーで煮込んだものと想像した方が近い。だからこのビーフカレーも牛肉はやたらに多いが、ルーが少ない。いろいろあって一概には言えないが、「ベジタブルカレー」や「ターリー」や「ミールス」の場合は、形態が日本のカレーに近く、香辛料の汁をごはんやチャパティにつけて食うものと考えていればいいだろう。
 ただ、カレーと一口に言ってもほんとにいろいろあって、同じ味のカレーは二つとない。日本のカレーより旨いものもあれば、不味いものもある。料理が下手な奴が作れば、本場だろうが不味くて当たり前なのだろうが。例えばソバは日本の食べ物だが、日本人の僕が作ったって不味いに決まってる。だが、インドのカレーは日本のカレーとは違うとは言っても、やはりカレーが嫌いな人は、インドでは食事に苦労するに違いない。
 二日間食事制限をしていたので、今日は食い物のことしか書くことが浮かんでこない。これで腹が治っていれば、明日は待望のコヴァーラム・ビーチだ。治らなければ、トリヴァンドラムの病院行きだ。神に祈ろう、治りますように――。

 そうだ、食い物以外のことも思い出した。ここケーララ州は識字率100%で、教育水準が高いらしい。それがどうしたと思われるかもしれないが、エローラで買った全土地図にはそういう付録が付いていて、それを見ていると、たいていの州は識字率が50%前後なのだ。つまり字が読めない人がたくさんいるということだ。
 意外にも、日本人観光客のよく行く、ガンジス川沿いの人口密集地域は識字率が低く、外国人はなかなか入れない未開の辺境のように思われている(実際にカルカッタの博物館では野蛮人扱いされていた)バングラデッシュの向こう側に飛び出したアッサム地方方面の諸州(この辺はインドと言うよりビルマだろう)は識字率が高いようだ。
 それから夜、街をぶらぶらしていると、本屋が多いのにも気づいた。もう一つ、共産主義者が多いというのも本当みたいだ。トリヴァンドラムは赤旗がちょっと立っているくらいだが、コーチンは凄かった。赤旗のみか、バス・ステーション、ゲストハウス、レストラン、あちこちに、なんと、今は亡き鎌とハンマーのソヴィエト旗が堂々と垂れ下がっているではないか。とっくの昔に本家が滅亡したというのに、落武者がこんな所まで落ち延びて来ているのか。少々怖くなる。まあ、血便、バスの後部座席に次いで、インドで怖いものの一つ。

 しかしこの時期は、南インドの方が北インドより涼しいということがわかった。もちろんヒマラヤは除いてだが。今は北緯八度線の近くにいて、太陽はこの時期、午には北中する。ハイデラバードでもそうだったが、真っ昼間に街中を歩いていると、うっかり方位を勘違いしてしまう。
 もう一つ、もう日本に帰るまでは日本人に出会わないだろうと思っていたのだが、今日いきなり日本人カップル二組に会ってしまった。日本人は世界中のどこにでもいるなあ、と半ば感動。自分のことを棚に上げて何だが、今頃来るなよ、と思った。その片方はこれからコーチンへ行くので、コーチンはどうでしたかと訊いてきた。説明するのが面倒なので、「つまらないとこですよ」とだけ言っといた。
 そう言えば、日本は今GWなのだ。嫌な予感がしてきた。コヴァーラムには日本人があまり来てないことを願おう。ゴールデン・トライアングルで身ぐるみ剥がれてそのまま日本に逃げ帰ってくれ。


    5月1日 晴のちちょい曇 トリヴァンドラム 〜 コヴァーラム

 結局コヴァーラムへ行くことにした。病気が治ったわけではないのだが、病院か海か、行きたい方を選んだだけだ。リクシャー・ワーラーの兄さんが「相乗りで行くのはどうだ」と誘ってきた。見ると、もう既に客が一人リクシャーに乗って待っている。30ルピーだと言うので、安くないなあと思って断ったが、「バスで行くわ」と言うと、親切にもコヴァーラム行きのバス停まで連れてってくれた。
 今度は僕に向かって世間話を始める。見ると、30ルピー出してコヴァーラムまで行く客の方は、リクシャーで待たされたまま苛々している様子だ。おいおい、いつまでも油売ってないで、早く客集めた方がいいんじゃないの。待たされている客に気兼ねして、「ありがとう」とワーラーに言うと、僕はさっさとバスに乗り込んだ。結局ずっと料金が安いバスの方が先に出てしまった。しかしこのバスの車掌はやけに横柄な態度の奴で(インドのバスの車掌に感じのいい人はあまりいないが)、腹が立った。乗客一人一人に一々喧嘩を売りながら料金を搾取しに回っているといった雰囲気だ。

 コヴァーラムに着いてバスから降りると、宿の客引きが二人寄って来た。実はオーナーとボーイだったが、オーナーのBの方がしきりに勧誘してきた。とりあえず、「泊まるとこ決めてるんだ」と言って歩き出したが、ずっとついて来て宣伝しまくる。最初から飛びつかないのがふっかけられないようにする秘訣だ。そんなに言うんなら仕方ないから見てやろうということで、連れて行ってもらう。
 そのホテルは二階建てで部屋が六つしかない小さなものだったが、まだ新しいみたいで、部屋の中は綺麗だし、設備も整っている。ホット・シャワーもある。浜にも近いので、ここでいいなと思って値段を訊いてみると、ダブル・ルームを60ルピーにすると言う。もうすぐオフ・シーズンらしく、部屋代を安くしたことは隣の客には黙っててくれとBが言った。ここはビーチ・リゾートなので、どこのホテルでもオンとオフの料金があるようだ。

 早速浜に行ってみる。コヴァーラム・ビーチはさすがにいいが、思っていたより波が高い。これだと泳ぐのはほとんど無理かもしれない。それでも午後からは海水浴をした。波との格闘という感じ。これが海水と淡水を含めてインドの水に初めて体から浸かったということになる(アーグラーのホテルのバスタブにも浸かれなかったし)。
 浜辺を歩いていると、浜に沿ってズラーッと並んだレストランがしきりに声をかけてくる。でも病院へは行かず、こっちに来て良かった、少なくとも今のところは。理由は、病院が嫌いだからだ。下痢は詐欺師の薬のお陰なのか、かなり良くなったが、代わりにケツの穴が痔になって痛い。
 紅色の夕日が、岩礁と岩礁の間の海の向こうへと沈んで行くのは美しかった。ここにはしばらく居着いて、のんびりしてしまいそうだ。まあ、一人でずっといるのも寂しい話だけど。
 今晩は波を前にしてバラクーダ・ステーキを食った。今までで一番リッチだ。日が沈むと灯台に灯が燈る。気がつくと夜空が晴れていて、瞬くような星空になっていた。沖に漁り火も見える。
「夏は夜……」
 清少納言もこれを見てきっとそう言うだろう。
 おっと、ここは年中夏なのだった。
「年中は夜……」
 か……。これじゃまるで地底王国みたいだなあ。


    5月2日 晴のちちょい曇 コヴァーラム

 今日も浜辺を散歩、それから海水浴(と言うよりまたもや波との格闘技)。それくらいしかすることがない。人は昨日より減った。西洋人は昨日より多く泳いでいる(格闘している)。日本人も見かけたが、泳いではいない。泳いでるの(格闘)は僕だけだ。インド人は波打ち際に座り、寄せ来る波に濡れては喜んでいる。女性はサリーを着たまま海水浴している。
 水は昨日より汚くなったような気がする。気のせいだろうか。もうさすがにシーズンオフなのか(日本で言うと八月下旬の海みたいなもの)、ここはリゾート地のためホテルとレストランが過剰になっていて、どこも部屋余り、テーブル余り状態のようだ。
 夕日は昨日とはまた違って良かった。今日は水平線に沈むのを見た。インド人は夕日が沈むのをたくさん見に来ている。昔の日本にもあったが、インド人たちはみんな夕涼みをする。海辺なら浜に、内陸なら河原や公園、それもない街の真ん中ならとにかく外に出て散歩する。ここでは夕日が沈んだ途端にみんな帰り始めた。これが国民性か。花火大会が終わったあとみたいだ。夏は夜だというのに……。

 午前中、地引き網をやっていたので見物していたが、何十人も束になって引っ張っているが、いつまで経ってもロープしか揚がって来ない。痺れを切らし、別の所へ行ってから戻って来てみると、もう終わっていて、獲れたのかどうか、魚の影も形もなかった。もしかすると地引き網ではなく、綱引きをしていたのかもしれない。
 コヴァーラムに注文をつけるとすれば、食い物はそんなに安くもないし、そんなに美味くもないということだ。僕は宿から真っ直ぐ浜に出た所にある『クラブ・クラブ』というレストランに指定席を取っていた。別に契約したわけではないが、海水浴をしたり休憩したり、その間に小物や金を置いておく場所が欲しかったので、ここで一番気に入ったテーブルを勝手に占領したまでだが、しかしそれには「ここでめしを食ってやる」という暗黙の契約がある。そうしないと泳いでる間はテーブルに持ち物を置いておくというのは気が引けるし、こっちとしても信用できないからで、このやり方は便利なのだが、反面、不味いめしも我慢してそれなりに食わなければならない。まあ、余所の店もたいして美味くないので、一番地の利のいい場所に指定席を取っとくのが正解だろう。
 このクラブ・クラブのボーイはSといい、顔はエディ・マーフィそっくりで、髪の毛がちょっと伸びて角形になっている。こいつがプレイボーイで、仕事中ひっきりなしにギャルをナンパしている。昼間は浜が暑いので、日陰になっているレストランの並びを歩くのだが、この角マーフィ、見境なしに通りがかりの女に声をかけて口説いている。ウェイターをやっているトータル時間よりも、女を口説いているトータルの方が遙かに長い。しかしその様子を観察していると、どうやら見境なしでもないようだ。白人の若い女性にしか声をかけない。だが白人の若い女性でさえあれば、やはり見境なしに誰であろうと口説き始めるのだ。
 この角マーフィが必ず声をかける人間が他にもいて、他ならない僕なのだ。特にめし時が近づくと、「今日は何々があるぞ」とめしの予約を取ろうとする。今晩は余所で食おうと思ったので、マーフィに見つかるとうるさいから、こっそりと裏道を通って別のレストランへ行った。『コーラル・リーフ』というレストランに入ったが、ここは値段は他よりましだった。今日は半日でラージ・ポット(カップ七杯分くらい)の紅茶を二つ、コーヒーを一つも飲んでしまった。下痢のため脱水症状なのか。まだ治ってはいないが、一時期ほどひどくはない。

 ここはリゾート地なので、物売りが結構しつこい。浜辺に並んだ店を行ったり来たりしているだけだから、何度も同じのが来る。フルーツ売りのおばさん、布売りのおじさん、煙草売りの少年、みんな顔見知りになってしまった。おまけに、もう部屋はあると言ってるのに、前を通るとどこでも、「部屋はどうだ。とりあえず見てくれ。今泊まってるとこはいくらだ? うちはもっと安いぞ」としつこい。
 それにしても、日本人は余り来ないでくれと思ってはいたものの、日本語が喋れないのは退屈なものだ。また『日本語喋りたい症候群』になってきた。両隣西洋人、ビーチにも西洋人、他はインド人の商売人、軽く話すくらいしかしない。それ以上できないから。
 なので今の僕は孤独だ。相変わらず白人女性をナンパしまくっているマーフィにはこの孤独は理解できないだろうけど、それもまた良し。しばらくのんびりはできそうだ。でもインドという国は、他の国よりは孤独にはならないと思う。と言うのは、大半が金がらみとはいえ、一人でいるといろんなインド人が話しかけてくるからだ。
 これが日本はもちろんのこと、ヨーロッパやアメリカ、他のアジアなどでは、長期の一人旅だと早いうちに孤独に陥ってしまうだろう。ところがこの国では、「いい加減、孤独にしてくれー」と思うことがしばしばなのだ。今のうちに孤独を楽しもう。


    5月3日 曇のち晴のち雨のち曇 コヴァーラム

 今日は更に波が高くなり、赤潮も出ていた。日焼けが痛むので、今日は海水浴はお休み。浜辺をぶらつくだけ。あとは海辺のレストランで読書。こういう浜辺の長い時間に『リグ・ヴェーダ』は向いていない。縦に読んでも横に読んでも、どこをどう読もうと、未だにちんぷんかんぷんなので、五分も読んでいるとめげてきて投げ出してしまう。しょうがないから自分の本を読むことにする。これなら読めば100%わかる。
 と思って読んでいると、誤植を発見した。急いで赤ペンで書き直す。今更校正してもどうにもならないのに。それでも気になったからしばらく読んでいると、次々に誤植が見つかった。みんな赤を入れた。誤植なのか、元々自分の原稿が間違っていたのかはわからない。たぶん両方あるのだろう。
 そうしていると誰かに「わっ!」と脅かされた。顔を上げてみると、真っ黒に日焼けした日本人らしき女性。
「ああ」
 アジャンターで知り合った仙台さんだった。ずっとコヴァーラムにいたと言う。僕の隣に座ってぺちゃくちゃと小一時間ほど一人で喋りまくってから行ってしまった。暇をこいていた角マーフィがあとで寄って来て、
「おまえ、なかなかやるなあー」
 とにやけた顔で言う。
「そんなんじゃないよ」
 と答えてやったが、
「このこのー」
 と肘でつついてきやがる。こいつは東洋人女性は好みではないらしいが、頭の中はエロ99%なのでしつこくなりそうな予感がしてきた。こんな野郎に弁解してやる必要もないのだが、
「今のは知らない人だよ。俺は有名人だから、日本では顔を知られすぎてるんだ」
 と口から出任せを言ってやった。
「日本では何をしてるんだ?」
「映画スターさ」
 とまた大法螺を吹いてやったが、素直に真に受けている様子だった。

 夕方、インドに来て初めてと言っていいくらいの降雨らしい降雨があった。夕立で、どーっと降ってはすぐに上がったが、もうそろそろ雨期が近づいてきているらしい。インドの雨期はおよそ六月から八月だそうだが、西から東へと移って行くので、アラビア海側は早く雨期が来るそうだ。
 夜は仙台さんと食事する約束をしてしまったので、マーフィに見つからないように、またこっそり裏道を通って夜逃げするように別のレストランへ行った。今日は生理活動以外は誤字を直していただけだ。


    5月4日 晴 コヴァーラム

 今日も午前に泳いで(波と格闘?)、休んで、午後に泳いで、あとは飲み食いして、合間にだらだらと読書しただけ。考えてみれば凄い贅沢だ。インドに来て初めてくつろげる所に来たが、こうやってのんびりしていると、何だか悪い気がしてくる、誰に対してというわけでもないのだが。
 このままこの海辺に長居していると、今度は動けなくなってしまうのではなかろうか。と言うのは、インドでの移動というものはかなりハードだからだ。あの移動時の苦しさを今思うと、このままこの場所で石のお地蔵さんになってしまいたくなる。
 インドに来た時、僕は恐れながらも半ば期待していたカルチャー・ショックなるものを受けなかったわけだが、逆に日本に帰国した時、逆カルチャー・ショックを受けることになるかもしれない。インドが性に合っていたということになるのだろうか。
 だが別の見方をすれば、日本の社会こそが不自然だということになるかもしれない。だからと言って、僕は日本人をやめる気は毛頭ないし、インドに住み着いてしまった人みたいには決してなりたくない。ある意味では刺激の多い国だが、慣れてしまうと、逆に刺激のなさすぎる国ではなかろうか、と最近では思えてきたりするのだ。

 夜はおとなしく『クラブ・クラブ』で一人晩めしを食っていたが、食事中にマーフィが近づいて来て言った。このナンパ野郎にしては妙にうやうやしい態度で、
「あちらの人は日本人で、フルイケという人だ。一緒に話をしてみてはどうだろう?」
 そう言いながら、前の方のテーブルで一人黙々とめしを食っている男性を指し示す。確かに日本人のようだ。それでも僕が何も返事をしなかったので、
「向こうは話をしてもいいと言っているぞ」
 と、かなり恩着せがましい言い方をした。「余計なお世話だ」と言いそうになったが、口には出さず、
「じゃ、あとで気が向いたら話そうじゃないか」
 とだけ言って、あとはマーフィを無視し、黙々と料理を食べながら夜の海を見ていた。
 めしが済んで一服し終えると、「ま、暇だから話してもいいか」と気が変わり、コーヒーを持ってそのフルイケとかいう日本人のテーブルまで行った。この人はそれなりに歳がいっているみたいで、おじさんに見えた。年齢のせいもあってか、最初は互いに会話がギクシャクしていたのだが、「あそこへ行った。ここへも行った。どうだった」と互いのインド経験談をしていると、そのうち打ち解けてきた。打ち解けてくると、今度はこの古池さんはやけに人なつっこい人なのだとわかってきた。
 長年の夢だったカメラマンになろうと決心し、勤めていた建設会社を辞め、コンクールに出品する写真を撮りにインドまで来ているそうだ。葉っぱを吸う目的だけでインドに半年も居続ける奴もいれば、日本人にもいろいろいるなあ。
 今日はその程度のありきたりの話をしただけでホテルに戻ったが、このたまたま話しかけに行った気まぐれが、のちのち大いに自分を救うことになろうとは、この時の僕には知る由もなかった。


    5月5日 晴 コヴァーラム

 今日は一日休養日。寝たきり老人の生活を過ごす。朝、カニ・クラブでめしを食っている最中、急に具合が悪くなった。それで少しでもおなかにいい物をと、ラッシー(インドのヨーグルト・ドリンク)を注文したが、あいにく切らしてると言われた。
「じゃ、カード(ヨーグルト)くれ」
 と言うと、
「カードが切れてるからラッシーができないんだ」
 マーフィはまるで僕に教え諭すような表情になって言った。
「ああ、なるほど。じゃ、しょうがないな」
 マーフィは僕のことを間抜けだと思っていることだろう。そこで料理の残りはいつも僕のテーブルにおねだりにやって来るカラスにみんなやろうと、ちぎっては投げ、ちぎっては投げしていると、やがてそれに気づいたマーフィが箒を持ってカラスを追っ払いに来る。これもいつものことで、マーフィがまた仕事をしにあっちへ行くと、僕がまた食い残しをちぎって投げる。
 わざと空中に投げるのは、このカラス、百発百中で必ずキャッチするので、それが面白くて次から次へと自分の食い物を投げ与えてしまう。カラスももうとっくにそこのところは心得ていて、マーフィが行ってしまうとまたテーブルに戻って来る。それで僕が餌を投げ上げるのを催促するように、じっと僕の顔を見つめたままテーブルの上で待っているのだ。人の顔までちゃんと覚えてしまっているようだ。

 そうするとこのカラスをからかいたくなってきて、空中に投げると見せかけては自分の口に入れ、自分で食べると見せかけてはカラスの不意をついて遠くに投げる。それでも素早く飛んでって、空中で餌をくわえてしまう。じゃあ次はどうしようか、とチャパティの切れ端をじっと持ったままでいると、このカラス、首をかしげ始める。これがまた楽しい。ほんとに首をかしげるのは、人間と同じように、カラスも「ハテナ?」と思っているのだろうか。
 マーフィはカラスにしか当たらないが、僕のことをろくでもない外国人だと思っていることだろう。しかしインドでは店でこういうことをしても特に苦情を言われるでもなし、別にカラスを目の敵にするでもなし、そういう料簡の狭くないところがいいところだと感心するのであった。箒を振り回すにしても、当の本人が面白がってやっているところがいい。
 とにもかくにも腹が痛いので、今朝は食べ残しを大急ぎでカラスの腹の中に詰め込むや、ホテルに戻り、あとは排便と仰臥を繰り返すだけの生活に入った。
 ところが僕はやはり間抜けだったのか、夜になって少し具合が良くなると、離れた所にあるレストランまで足を延ばし、周囲の人たちが飲んでいるのにつられて、こともあろうにビールを飲んでしまったのだ。帰り道で気持ち悪くなり、やっぱり吐いた。病原菌のアルコール消毒失敗……ううう……。
 インドに来てから酒はあまり飲んでいないのだが、この前詐欺師から勧められてウイスキーを飲んで思いっきり反吐を吐いた時も下痢をしている時だった。今回は赤痢かもしれないというのに、何考えてるんだろう。そう言えば、今日は日本は子供の日なのか。こいのぼりが空を泳いでいることだろう――全然関係ないけれど。まあ、祝い酒を飲んだということにしておこう。



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