8.でかくて狭くて近くて遠い これがインドだ!


    4月19日 晴 〜 アジャンター 〜 ダウラタバード

 朝ホテルを出てバスを待っていると、ジープの客引きが寄って来て、鞭を売ってくれと言う。リュックの両脇に縛りつけてはるばるアーグラーからずっと持ち歩いて来た、あのハチャメチャな物売りから買った僕の持ち物の中では最強の武器である。値段は忘れてしまっていたので、30ルピーで売ってやろうと適当に言ったら、すんなり金を出したではないか。とうとう二刀流から一刀流になってしまった。
 そのジープにそのまま乗ることにする。やって来たジープは、アジャンターに出勤して来る人たちでいっぱいだった。二十人近く乗っていたと思う。しかしフォルダプルへ戻るのは僕一人だけ。貸し切り状態だ。たったの5ルピーで行ってくれた。
 フォルダプルに着くと人がわんさと集まって来て、話しかけてくる。例によって腕時計やライターを欲しがる。今度は茶店の若者がいろいろと世話を焼いてくれた。彼もまたアーグラーの鞭が気に入ったようで、これまた30ルピーで売ってやると言うと、あっさり金を出した。早速鞭で地面をそこらじゅう叩きまくり、近くにいる奴らを威嚇し始める。ろくでもない奴に売ってしまった。
 早くも一刀流から丸腰になってしまった。今までずっと変な目で見られるか、バスの荷棚に入らなくて邪魔だったというのに、そういう物ほどこんなにあっさりとなくなってしまうと、何だか寂しい気もする。50ルピーとか言って、高く売ってやれば良かった。
 よし、インド人が欲しがる物がだいたいわかってきたから、売って金儲けしてやろう。北で仕入れたがらくたを南で売るというのもいいだろう。行商して金儲けしながら旅行するというのはなかなか面白そうだ。

 アウランガバードに着くと、バス・スタンドの近くにホテルがたくさん並んでいたので、何軒か値段を訊いてみてから、一番安いとこにした。二泊すると言うと、ダブル・ルームを70×2ルピーに負けてくれた。『ホテル・シャングリラ』中は名前ほど大したことはない。この値段なら当然なのだが。
 これからエローラまで行くのはきついので、その手前にあるダウラタバードへ行くことにした。凄い山塞だ。これなら攻め寄せて来た敵も、途中でへばってしまったことだろう。砦の中にもモスクがあって面白い。兵士にも祈りは欠かせないのだろう。兵士だから余計祈りが必要なのかもしれない。
 上まで登ると喉がカラカラ。しかしこんな山頂に、地下水を溜めてある洞窟があるのだ、溜めてあるのか勝手に溜まったのかは知らないが。砦の上で近寄って来た、イスラム帽をかぶった男が教えてくれた。思わずその水を飲んでしまう。うまいっ!
 飲んでから気づいたのだが、隣にいたおっさん、ウヒョーウヒョーと言いながら、なんだぁと見てみると、上半身裸で体を洗ってやがった。げっ! ところがあとから来た奴らは平気で水をすくって飲んでいる。
 イスラム帽にお礼として10ルピー札やろうとすると、「金なんか」って態度を取ってみせ、受け取ろうとしない。それでもそれからやたらと僕の世話を焼こうとするようになった。砦を案内したり、写真を撮ったり、もう上まで来たんだから、大きなお世話なんだけどなあ。

 へとへとになりながらやっとのことで下まで下りて来ると、ずっとついて来たこのイスラム帽、20ルピーくれと言う。やっぱりか。くれてやる。そうするとまたついて来た。途中にいる物売りからフィルムや絵はがきを買い、それから帰りのバスを待つ間、茶店で休憩していたが、その間もへばりついて来る。
 そのうち子供の物売りが彫刻を売りにやって来た。アーグラーでもアジャンターでもそうだったが、「いらない、いらない」と言っていると、どんどん値が下がっていく。最初は一つ30ルピーと言ってたのに、とうとう五十個セットで100ルピーまで値下がりした。
 まだ行程の半分も進んでないのに、こんな物持ち運ぶと邪魔になるのだが、インドでけちんぼに磨きがかかってきた僕は、その値段故に欲しくなってきた。
「買おう」
 十個1パックになっているヒンズー教の神々やミトゥナ像(男女交合像。どれも超アクロバット的体位)を五十個も買ってしまった。ところがまたもや買った途端に値下げが始まった。今度は六十個で50ルピーと言っている。
 さっさと売り払って遊びに行きたいのかもしれないが、これだと一個1ルピーちょいだ。一体それで儲けなんかあるのだろうかと不思議になってきた。小さな像だが、決してちゃちな作りではない。むしろ精巧な作りの彫刻だ。日本でこんな物作って儲けようとしたら、一個500円くらいにはしないと元も取れないだろう。
 インドで買い物して思ったことは、彫刻は異常に安く、それに比べて絵は思ったよりずっと高いということだった。こうやって買ったはなからいきなり値下げされると、あとのも買わなきゃ損という気分になる。アーグラーの鞭はこの手に釣られて二本買ってしまったのだった。それにしてももうさすがにこれ以上は持ち運べないと思って諦めることにした。

 イスラム帽は僕が子供に金を払うのを見て、欲を剥き出しにし始めた。また20ルピーくれと言う。
「ノー」
「土産を運んであげるからさあ」
 余計なお世話だ。すると今度はジープを止めようと道の真ん中に飛び出した。茶店のおやじに訊いてみると、ここはバス停ではないそうだ。イスラム帽の方を向いて、「あいつを相手にするなよ」というジェスチャーをしてみせる。僕は頷くと、バス停まで歩いて行った。
 イスラム帽はついて来る。
「20ルピーくれよぉ」
 バス停前のジュース屋のおやじもそれを苦い顔して見ている。「バスが来たから早く乗りな」と僕に合図した。このイスラム帽はこの辺を縄張りにしている札付きのたかり屋なのだろう。
 バスが来たので飛び乗ると、中までついて来やがった。車掌が切符を売りに回って来ると、こいつ、僕が切符代を払うと言ったみたいだ。「そうなのか?」と車掌が訊いてきたので、「関係ない」と言って、自分の分しか払わなかった。あとはずっとイスラム帽を無視し続けた。

 イスラム帽はアウランガバードの手前でバスから降り、すごすごとうちに帰って行ったようだ。バスの窓から外を覗くと、ちょうどイスラム帽のしょぼくれた後ろ姿が見えた。こいつの態度に腹を立てていたものだから、ずっと無視していたのだけれど、少しかわいそうな気もしてきた。
 アジャンターの籠かきのおっちゃんも言ってたけど、他に産業がないから、外国人観光客を見つけると、物売りは必死になる。売る物も持ってない奴は、ガイドを買って出たりと、サービス業を始めようとする。こっちにしてみれば有り難迷惑なのだが、当人には別に悪意はないのだ。
 だから金持ってる奴はボられてもいいと思う。知らぬが仏だ。つまるところ、物の値打ちなどというものは個々の価値観によって違っているはずなのだから、そうすると誰でも均一の値段でなければならないというわけでもないだろう。
 僕は外国人ツーリストとしては金をあまり持っていない方だ。だからボられるのも最小限に留めようと躍起になるのだが、それでも外国為替相場が原因で、僕でもインドでは普通のインド人よりは金持ちになってしまうのだから、少しくらいボられるのは構わない。しかしそれでもあくどい奴には一銭も払いたくはないのだ。
 あくどい金儲けしてる奴なんか日本にだっていくらでもいる。インドの物売りが最初にとんでもない値をふっかけてきても、別に悪人というわけじゃない。これがインド式なのだとやっとわかってきた。

 夜、ホテルの前の通りを歩いていると、屋台がたくさん出ていたので、その一つに入って行った。入って行ったと言っても、壁もドアもない。テントの屋根があるだけだ。『パコーラー』と『アウワラー』とかいう揚げ物とパンとチャーイで夕食。18ルピー(50円程度)で済んだ。
 屋台のおやじも客もやけに陽気だ。たぶんこんなとこには下層階級の人しか来ないのだろう。外人が一緒に座って同じ物を食っていると非常に喜ぶ。わいわい騒いでいると、他の屋台からも人が寄って来たではないか。
 親父は手持ちの金をみんな集め、少し英語のできる客に通訳を頼むと、
「カメラを売ってくれ」
 と来た。そう言った口の下からこの通訳の客、
「って言ってるけど、こんなおやじになんか売らないで、俺に売ってくれ」
 と、自分もポケットからありったけの金を取り出してみせる。どちらも全然足りないのだが、二人ともマジだ。それを見たおやじ、
「おまえ、ずるいことすんなよ。俺が先だ」
 という感じで二人が言い合いになった。二人がいくら争ったところで、もちろんカメラを売る気などないのだが、そこでひらめいた――ここぞのために日本から大量に持って来たライターを物々交換に使ってみるのも面白かろう。


    4月20日 晴一時曇俄雨 アウランガバード 〜 エローラ

 朝からエローラへ行った。僕が乗ったバスには、一番前の席で世話焼きのじいちゃんが陣取っていて、乗って来る乗客に一々なんだかんだと教えている。じっちゃんはみんなから無視されていたが、それでもちっともめげる様子も見せず、バス停で停まる度に乗って来る人に声をかけ続けていた。
 しかしこういうお節介焼きがいると、僕なんかは助かるのだ。数字さえ英語で言えないのだが、「この札を出すのじゃぞ」てな感じで5ルピー札を取り出して僕に示す。言ってることは一言もわからないが、言いたいことはよくわかる。どうせ複雑なことなんか言ってるはずもないし。
 お節介じっちゃんは途中の何もない原っぱでバスから降りてった。握手して別れた。人助けをしたじっちゃんはいかにも満足げだった。日頃の空しい努力がとうとう実ったのだ。満足せずにいられようか。

 エローラに着くと、第一窟から第三十四窟まで順に全部見て行こうと思っていたのだが、バスを降りると真っ正面に第十六窟が見え、ついつい引き込まれて最初にその第十六窟(カイラーサナータ寺院)に入ってしまった。すいているうちにゆっくり見ようという考えも浮かんできたからだ。
 やっぱりこれは凄いとしか言いようがない。言葉だけではここの凄さは伝えられない。僕は写真家でもなければ、写真の趣味さえ持っていないのに、この日だけで三十六枚撮りのカメラのフィルムが二本ちょいなくなってしまった。このカイラーサナータ寺院だけで、そのうちの四十枚ほどを使ってしまった。
 これが岩山を彫って造った寺(つまり一つの彫刻の寺)だなんて信じられない。ちょうどインドに来る前にテレビで見てはいたものの、実物を目の当たりにすると、驚きが全然違う。この凄さは写真でも伝えることはできない。どこから写しても一枚に入りきらないのだ。
 裏に登って見下ろしてみると目がくらむ。僕は高所恐怖症なので、その辺にがむしゃらにしがみつきながら、それでも昔の人が手彫りで造った崖下を首を伸ばして見下ろしてみた。これが怖い物見たさというものなんだろう。

 ここは第一窟の方から順に、仏教窟群、ヒンズー教窟群、ちょっと離れてジャイナ教窟群となっている。そこでこのあと第十六窟を出ると、まず第一窟の方へ向かって順番に見て行くことにしたのだが、やはり第十六窟は最後に見るべきだった。これが一番凄いので、このあと他のを見ても感動しなくなった。それでも大したものには違いないのだが。
 しかし暑くてたまらん。全部見てやろうと覚悟を決めてやって来たのだが、途中でギブアップしそうになってきた。それでもせっかく来たんだし、ここはメインの一つなんだから、と考えながら頑張って回ることにした。
 しかしどの石窟も似たり寄ったりで、「見学する」ということはもう目的ではなくなりつつあり、全ての石窟に入って回って出て来る、とりあえず足跡を残してくるという意地だけのために辛抱しながら歩いて回っているようなものだった。もうマラソンみたいなものである。
 しかしそれぞれの石窟に着き、中に入る時は嬉しくなるのだった。なぜかと言うと、石窟の中は外に比べてやけに涼しかったからだ。僕は冬は寒いから嫌いなのだが、インドにいると、冬が一番恋しい季節になる。

 やっとのことで第十六窟の前まで戻って来ると、近くの茶店で喉をうるおし、さあ、今度は第十七窟から先を見に出発! とは言っても、第十六窟を見たあとはどこを見ても大したことないように思えてしまい、やっぱり惰性石窟巡りマラソンに他ならなかった。
 ヒンズー教の寺院のご神体に、『シヴァ・リンガ』というのがあって、ヒンズー教の寺にはよくこれが祀られていたりする。これはシヴァ神の逸物をかたどっているそうで、要するに木や石で造った男根が真っ直ぐ上向きに突っ立っているのだ。ここのヒンズー教窟群にはこのシヴァ・リンガがやたらに多い。一体何を競い合っているのか。
 お参りに来たヒンズー教徒は、堂の真ん中で突っ立っているどでかいポコチンの周りを巡り、先っぽを撫でたりして拝んでいる。どうしても敬虔な気持ちにはなれず、笑ってしまう。横で「あっはぁ〜ん」とか呻いてやりたくなる。だが拝んでる人は真剣そのものの顔つきでアソコを撫でるものだから、余計におかしくてたまらない。シヴァ神はモテモテで羨ましいなあ。

 ここもアジャンターと同じだが、雨季かその直後に訪れるのがいいと思った。滝と緑があるはずだから。地図に載っていないある石窟などは、水が流れていれば、滝の裏側に隠れてしまうようになっている。まさに忍者の隠れ家みたいな所だ。断崖絶壁の小道を通って発見することができた。ここはみんな迂回してしまうみたいで、人もあまりやって来ない。
 ヒンズー教窟群を見終わると、暑さにまたギブアップしそうになる。目の前にある汚い水たまりにでも飛び込んでしまいたくなる。水たまりの上に突き出た枝に、真っ赤な赤トンボがじっと止まっていた。赤トンボが赤いのは当たり前なのだが、こいつは『深紅の赤トンボ』とでも言おうか、全身真っ赤っ赤だった。インドはトンボまで極端だ。
 しかし離れていると思っていたジャイナ教窟群がすぐ先に見えたので、また踏んばって行くことにした。ジャイナ像はどれもすっぽんぽんなのだが、ジャイナ教と言うと、こっちは右に出るものがないほどの禁欲主義の宗教らしい。
 菜食主義というだけでなく、芋とか玉葱とかの植物の根っこも食べてはいけないそうだ。つまり植物さえ殺すことが禁じられている。極めつけは女の人がしているベール。息を吸った時に、顔にとまっている蚊やハエをうっかり吸い込んで殺してしまわないようにとのこと。徹底した不殺生主義だ。

 やった! とうとう六時間ほどかけて全部見て回ったぞ。石窟の中が涼しかったので、可能だったのかもしれない。
 バス停までの帰り道も丘陵地帯を歩いて帰ったが、こんなとこ歩く奴なんて変わり者しかいないのかもしれない。西洋人の若者に一人出会っただけだ。見ると、他の人たちはみんな麓の道を車やリクシャーで上り下りしてジャイナ教窟群まで行き、その間は飛ばして見ないようだ。
 他にもう一組出会ったのがいる。山羊飼いの少年少女三人組。その中のガキ大将が金くれと言ってうるさい、金なんか持ってないぞ、と言ってポケットから煙草を出して吸おうとしたら、運悪く5ルピー札が一緒に出て来た。
「くれくれぇー!」
 と山羊飼いのガキ大将は5ルピー札をひったくろうとする。凄いガキパワーだ。その手をパシパシと払いのけながら、
「じゃ、やるから三人で公平に分けろ」
 と言ってやると、
「うんうん。分ける分ける。くれくれぇーい!」
 また札をひったくろうとする。待て待てとまたガキの手を打ち払いながら、
「5ルピーを三人で公平に分けると、一人いくらだ?」
 と訊いてやると、
「1ルピー、1ルピー」
 と子分二人を順に指差してから、
「2ルピー」
 と自分を指差した。
「駄目駄目。それは公平じゃないだろが」
 と僕が言ってる隙に、もうこのガキタレは5ルピー札をひったくていた。5ルピー札が目にも止まらぬ早業で真っ二つになり、半分だけが僕の手の中に残っていた。やれやれ、まるでうちの犬に餌やる時と同じだ。
「あとでちゃんと分けるんだぞ」
 このガキには適わず、残り半分も手渡してバイバイしたのだが、こいつらはまだついて来た。このとんでもないガキ大将、けなげにも手に持っていたマンゴーをくれた。お礼のつもりなのか。ありがたく頂くことにしたが、手に取ってみると、まだ青くて堅かった。水が涸れた谷川より先にはこの山羊飼いの少年たちは行かないようだった。崖の向こうで何か叫びながら、いつまでも僕を見送っていた。

 バス停まで戻って来ると、近くの庭園レストランで遅い昼食にしたが、食べていると急ににわか雨が降ってきた。慌てて皿を持って屋根の下に移動する。なんで今頃降るんだよう。降るならもっと早く降ってくれ、と言ったってしょうがないのだが。
 帰りはアウランガバードまでジープで10ルピーで帰れたが、やったあ、と思ってジープが出るのを待っていると、客引きがどんどん客を誘って乗せて来る。とにかく座れる場所さえあればどこでも、ボンネットの上だろうと乗って来るのだ。
 途中で停まってちょっと降りたのでほっとしたのも束の間、そこからもっとたくさん乗って来た。途中で何度も停まっては乗ったり降りたりを繰り返し、挙げ句の果てに、テレビを両手に抱えたおじさんまで乗って来やがった。数えてみると、一台のジープに十六人も乗っているではないか。やれやれ……。


    4月21日 晴 アウランガバード 〜

 今日はまた移動に苦戦した。ハイデラバードまでのエクスプレス・バスの予約は取れたのだが、待ちに待っても三時のバスが来ない。車掌やその辺の人に訊いてみても、「知らん」とか、「こっちじゃない、あっちだ」と反対側のプラットホームを教えられたりで、人に訊く度に行ったり来たりしていた。業を煮やし、近くで停車しているバスに乗り込んでって運転手に尋ねてみると、「ハイデラバード行きは来ないぞ」と、こうだ。これがインドか?
 四時半になっても来ないのでとうとう痺れを切らし、近くにある旅行店へ行き、280ルピー(1000円くらい)もしたが、民間のデラックス・バスで行くことにした。これくらいでギブアップしていてはインド旅行者失格だが、僕は我慢ということができない質なものだから仕方ない。ああ、インドではとても暮らせそうもないなあ。
 出発は八時半だということで、今日もまた待ちで一日つぶしたことになる。それでもいつ来るか知れない三時のバスを当てもなく待っているよりは安全だろう(自分の身が安全だという意味ではない)。
 インドにいると近いのか遠いのかよくわからない。今地図でざっと見てみると、アウランガバードとハイデラバードは直線距離で450キロメートルくらいある。インドの地図で見るとすぐそこに見えるのだが、日本に当てはめてみると、東京から盛岡くらいはある。西へ行けば、神戸の先まで行ける。これならすっ飛ばすインドの暴走バスでも一晩はかかるだろうなあ。

 近くの公園に行って時間をつぶすことにする。夕方になると、インドの人たちは外に涼みに出て来る。今の日本では見られない光景だ。この公園にも涼みに来た人がたくさんいた。
 数人の若者グループに近くにある水族館に誘われたので行ってみた。こぢんまりとしたもので、珍しい魚などいないが、結構入場者がいて、食い入るように見ていたりする。ありふれた魚より、僕には空気を送る装置の方が面白かった。ぶくぶくと出て来る泡を利用して人形を動かしている。宝の箱が開いたり閉まったり、ダイバーが浮いたり沈んだり、人魚姫の貝が閉じたり開いたり、マリリン・モンローのスカートがめくれたり、と傑作揃いだ。
 一人でいるといろいろな人が話しかけてくる。何か魂胆があるなしに関わらず、インド人は片時もそっとしておいてはくれないのだ、ほとんど言葉が通じないにも関わらずだ。これがインドか?
 休養予定だったカジュラーホーとウダイプルでもゆっくりさせてもらえなかったし、一体どこへ行けばインド人は僕をそっとしといてくれるのだろう? 今晩からハードな移動が続く。こんなこと書くと弱音か。弱気になる時だってたまにはあるのだ。

 しかしまたもや連れ回される羽目となった。ボーイのおじいさん(別の会社の人だが)に念のために確認してみると、そりゃ乗り場を間違えてるということで、かなり離れた所まで親切に案内してもらって事なきを得たのだが、旅行店から言われた場所でじっと待ってたら、危うくバスに乗り損なうところだった。
 全くここの旅行会社はどうなってるんだ。よくこんないい加減で商売が成り立ってるものだ。これでは上前はねてるだけではないか。おまけにつりをごまかそうとするし。これがインドなのか?
 そうだ。バスはやっぱり遅れる。デラックス・バスとか言っときながら、席はぼろぼろ、ぶっ壊れてる。走り出して恒例のジャンプをしているうちに、座席がだんだん崩れてゆく。飛び上がった拍子に、隣の空席がくるりとひっくり返った。自分の席ではないので関係ないのだが、一応車掌を呼んで壊れてるぞと言ってやると、車掌はひっくり返った席を元に戻しただけで去って行ってしまった。そうするとまたバスが跳ねた拍子にくるりと見事に裏返しになる。気になるからリュックを荷棚から降ろし、その上に載せてでんぐり返らないようにした。
 さあ、これで心おきなく眠るとするか、と思って目を瞑ったが、前の席にいるおばさんが騒々しい。おまけに前の座席がガチャガチャ鳴っている。そのうちヒューッと宙に浮いてドカンと落ちた衝撃で、うとうとしていた僕は目を覚ます。いつものことなのだが、見ると前の座席が壊れ、金具が目の前に刀のように飛び出ているではないか。客を突き殺す気か?
 掃除してないのはどこのバスでも当たり前みたいだが、壊れても修理しようとしない。この調子だと、バス全体が粉微塵になったって運転手は走ってるに違いない。ほんとにおんぼろバス旅行は恐怖だ。これがインドか? そうだ、これがインドなのだ。


    4月22日 晴 〜 ハイデラバード 〜

 今日も移動の待ちで半日費やした。インド半島一周で、大雑把に言って、今はアラビア海岸沿い(西海岸)を南下中のはずなのだが、このハイデラバードはデカン高原の真ん中辺りでややベンガル湾(東海岸)に近い。一旦かなり内陸部に入り込んだことになる。
 もう結構南に来たのだけれど、まだアラビア海は目にしていない。インドの海自体まだ見たことがない。物価の高いボンベイを避けてこういうコースになってしまったのだが、最初に目にする地の果ての海は、インド内陸部の汚い汚い水とは違い、綺麗なものでなければならないというこだわりが僕にはあった。
 しかしこの町もとことん暑い。ここには街からいくらか行った山の上に大きな砦があるらしいのだが、暑さにうんざりして行く気力も失せてしまった。おまけに今夜また移動するつもりだったので、夜になるまで時間をつぶすには、結局街中をうろつくだけになってしまった。

 しかしここでもまたウソの道をさんざん教えられた。インド人から正しい道を聞き出すのはほんとに難しい。だからと言って、本人たちは騙そうとしているわけでもないようだ。自信を持ってでたらめを教える。その自信満々の態度から、この人はその場所を知っているに違いないと思えるのに、その言葉を信じてそのまま行くと、まるで違う所へ行ってしまうのだ。
 そろそろ両替でもしておこうと思い、『フォーリン・チェンジ』と看板に書いてある銀行に入って行くと、「やってない」と言う。だったら看板なんか出すなよ。八百屋に『鮮魚』と看板が掛かっているようなものじゃないか。
 エローラで道路地図を買ったのだが、リクシャー・ワーラーに「ここへ行ってくれ」と地図を見せると、いつまで進んでも行き着かない。二人で変だなあと地図を睨んでいると、結局方角が逆になっているのだとわかってきた。Uターンして引き返す羽目になった。ほんとに地図まで頼りにならない。これがインドなのか?
 この場合は地図が悪かったのだが、この辺りはもう北回帰線を越えていて、真昼に太陽を目印にして方角を判断しようとすると、日本人の僕などはよく錯覚を起こした。もうこの時期になると、南インドでは太陽は南中しないで北中する。
 湖畔でくつろごうと思い、湖まで連れてってもらったが、やっぱり予想通り水は汚かった。おまけにゴミがいっぱい浮いている。結局湖に立ちションして引き返した。
 レストランでめしを食っていると、向こうの席で一人で食っていた巨大なオバサンが何かわめいていた。見ていると、手づかみで飯を口に押し込んだあと、手をびゅんびゅん振って掌についた飯粒を皿に叩きつける。一口食う間に十回くらい手を振り、その間ずっとわめき続ける。口に飯を押し込んだ時だけ一瞬静かになる。あとはずっと飯粒を叩きつけながらわめき散らしているのだ。
 だからなかなか食い終わらない。店にとってはいい迷惑だろうが、店員も全然相手にしないし、他の客も全く無視していた。オバサンがいつから店に来て、いつまでそこでわめいていたのかはわからない。もしかするとBGM代わりにあのオバサンを置いてあったのかもしれない。

 ハイデラバードのバス・ステーションはアジア最大だそうだ。確かにバカでかかった。カルカッタのダムダム空港より広いかもしれない。しかし他と違い、乗り場はわかりやすい。表示も出るし、一応アナウンスもしている。僕には数字の部分しか聞き取れなかったのだが。
 そうしてかなり早めにバス乗り場まで来て待っていたのに、今日はしくじった。ここではエクスプレス・バスの席を予約しておくことができたのだが、知らなくて、バスが来てから乗り込んで、中で切符を買って席に座ろうと思ってたら、既に予約で席は埋まっていた。バスは超満員だった。
 しばらく立ったままでいたが、明朝までこの姿勢でいられるはずがない。我慢できなくなって床に座り込んだ。他の乗客たちも結局はみんな床に座り込むことになった。そうなると今度は床の取り合いだ。我先にと床に腰を下ろす。
 まあ、みんなそれなりに譲り合ってはいるのだが、図々しい奴もやっぱりいた。向かいで顔を合わせていたので一緒に喋っていた若者なのだが、こいつ、自分が眠くなると、周りで座っている人たちを「どけどけっ!」という感じで脇に押しやり、とうとう寝転がってしまった。
 おまけに床に置いてある僕のリュックを枕にしていびきをかき始めたではないか。ムカッと来て、リュックを引っこ抜いてやると、頭が床にごつんと落ち、この図々しい奴もまた目を醒ました。
「俺の枕寄越せ」
 寝ころんだまま言ってやがる。なんてふてぶてしい野郎だ。勝手に自分の枕にすんなよな。僕はふてぶてしい野郎を無視してリュックを背もたれにすると、目を瞑って寝たふりをした。しかしなんと図々しい奴か。「枕貸せ」と言いながら、いつまでも僕の体を揺すって起こそうとする。こっちは狸寝入りだから、いくら揺さぶられても絶対に目を開けはしない。根比べだ。

 とうとう僕が勝った。図々しい奴はやっと諦めて床を枕にして寝てしまった。久々の勝利だ! でも何も得はしていない。こいつのせいで寝られなくなっただけだ。こいつ、図々しいだけでなく、何を食ったのか、ニンニク臭い汗までかくのだ。寝ても起きても周りに迷惑をかけるとんでもない野郎め。
 インドに限らずこういうのはどこにでもいるんだろうけど、『自分を中心に地球が回っていると思っている奴』とはまさにこういう奴のことだろう。地球には地軸は一つしかないと理科で習ったはずだが、インドには地軸は何億本も存在するようだ。
 暑くて暗いバスの床で膝を抱えて眠れずにいると、膝を曲げた拍子に、汗で肌に貼り付いてたジーパンの膝がパシッと見事に横一文字に裂けた。もっとバスに揺られているうちに、もう一方の膝もまた裂けた。一夜にして両膝に穴を空けてしまった。なんだか収容所へ送られて行く捕虜の気分だ。


    4月23日 晴 〜 ホスペット 〜 ハンピ

 バスの外に降りた奴がライター貸してくれと言う。貸すとバスが走り出す。これを狙っていたのか。また同じ手にやられた。二度目だ。この手は流行ってるんだろうか? こうなるとインド人て卑しいなあなんて思ってしまうが、卑しい奴なんかどこにでもごろごろいるということだろう。
 バスの中ではほとんど眠れなかった。夜中に席が空いたので座れたが、ローカル・バスの直角の座席なので、ぐっすりと眠りにつくのは難しい。それでも疲れているのですぐうとうととなってしまう。そうすると窓枠や前の座席の金具に頭をぶつけて目を覚ます。いてててて、と寝ぼけた頭で思いながら目を覚ましかけるのだが、それでもまた寝てしまう。すると、ゴツンとかカチンとか音がしてまた目を覚ましかける。
 しかし慣れというのは恐ろしい。あれだけインドの恐怖バスで肝を冷やされたというのに、もうバスがどんなに飛ばそうが飛び跳ねようが、怖くもなんともなくなってしまった。とうとうローカル・バスが大跳躍をして着地した瞬間に、バキッと音がした。
「てててててっ!」
 ステンレスの窓枠の角に頭が直撃したのだった。ううう……、もしかしたら頭蓋骨が陥没してるかもしれない! そう思いながらもまた寝てしまう。二夜連続の夜行バスはほんとに疲れる。ローカル・バスならなおさらのことだ。一晩で三十〜四十回は頭をぶつけたのではなかろうか。
 朝ホスペットに着いてバスから降りた時は、頭痛がした。おでこに手をやるとこぶができている。そう言えばゆうべ、原始人に寄ってたかって石斧でぼこぼこに殴られる夢を見た。くそーぅ、原始人め、俺の大事な頭を殴りやがって。不愉快な目覚めの朝だ……。

 バス・スタンドでハンピ行きのバスを待っていると、乞食が近づいて来て、大きな鍋を突き出した。さっさと出す物出さねえか、といったふてぶてしい態度の乞食だ。こっちも原始人に殴られたあとで機嫌が悪かったものだから、50パイサ硬貨か何かをポイッと鍋に放り込んでやった。
 ところがこの乞食のじじい、せこい奴みたいで、いくらだったのか確かめようと、今放り込まれたコインを捜している。「今入れたのはどれだ」みたいなことを僕に向かって言っている。そんなことわかるもんか。よく見てみると、大鍋の中には硬貨が溢れんばかりに貯め込まれているではないか。
「おまえ、俺より金持ちじゃないか。半分寄越せ」
 原始人暴行事件でまだ不愉快なままの僕は、乞食のじいさんに食ってかかるように言って手を出してみせた。言葉は通じないみたいだが雰囲気は通じてるみたいで、途端にじいさん、わあわあと何かわめき始めた。
「うるさい、半分寄越せ、じじい!」
 どうせ通じないんだから、と日本語で怒鳴ってやると、握り屋のじいさん、プンプンしながらどこかへ去って行った。やけに傲慢な乞食だった。インドにはいろんなタイプの乞食がいて面白い。停まっているバスの窓から手を差し入れて来る奴も多い。これが、黙ってこちらを睨みつけながら手を出してる奴なんている。これって、物乞いじゃなくて、カツアゲじゃないの?

 ハンピはホスペットから近いので、朝のうちに到着した。カジュラーホーにバスで近づいた時、ここは『桃源郷』かと思ったが、それならここハンピは『黄金郷』か。砂糖黍畑とバナナ園、それに椰子の木、辺りには馬鹿でかい巨石群が散らばっている。インドに来て初めて緑の多い所に来た。素晴らしい眺めだ。
 まだ早いので、バナナ園の中に入って時間をつぶしていると、子供が二人、草刈りにやって来た。一人は置物みたいにおとなしいが、もう一人はやけに陽気な奴で、ぺちゃくちゃとよく喋る。何を言ってるのかはさっぱりわからない。「フェイ・フェイ・フェイ」と言いながら鎌を振り回すので、写真を撮ってやろうとカメラを向けると、こっちを向いておとなしくなる。「バナナの葉を刈れ」と言ってもちっとも通じない。
「フェイ・フェイ・フェイだ、フェイ・フェイ・フェイ!」
 と言って鎌で草を刈る真似をしてやったら、バナナの茎をつかんで鎌で刈るポーズを取った。一応通じたのでこれでいいだろう。二人にガムをやり、自分は煙草を吸い始めたら、フェイフェイフェイの方が煙草を欲しがった。
「子供は駄目だ。フェイ・フェイ・フェイだ」
 また通じたみたいで、諦めた様子だったが、ところがいつの間にか自分で持ってた煙草を吸ってやがる。村の方まで引き返して行くと、ずっとついて来た。
「俺はホテルへ行くんだぞ。もうバナナの葉っぱ持ってうちへ帰んな」
「?」
 ぽかんとしている。そこで、
「フェイ・フェイ・フェイ」
 と言って手を振るとまた通じたみたいで、
「フェイ・フェイ・フェイ」
 と言ってまたバナナ園の方に戻って行った。この一語で何でも通じるとは、『フェイ・フェイ・フェイ』とは便利な言葉である。

 ハンピは小さな村なのだが、昨夜はお祭だったそうで、朝から凄い人出で、縁日みたいな感じで賑わっていた。祇園祭の山鉾みたいなのも出ていた。その辺を適当に捜してシャンティ・ホテルという所に宿を取った。一日50ルピー。ほんとにインドの安宿という感じで、西洋人の若者ばっかり泊まっている。
 宿の人が、「何かあった時のために警察に登録しといた方がいいよ」と言うので、めんどくさいけどパスポートを持って行くと、「寺院の警察へ行ってくれ」と言われた。しょうがないからそっちへ行ってみると、そこでは「元の方の警察へ行ってくれ」と来た。また出た、これがインドだ。面倒なので登録はもうやめにした。
 午にはアチュタラヤ寺院へ行く。人がいない遺跡だ。周囲の景色とマッチしていて素晴らしい。しかしやっぱり暑くて、回っているうちにばててしまう。
 次にピッタラ寺院まで行く。門前でラムネを売っているのを見つけ、思わず頼むと、中身はただのしょっぱい炭酸水だった。ただライムを半分に切ったのと一緒にコップに入れて飲むだけ。しかも冷やしてない。それでも喉を潤して寺院へと入って行った。ちなみに、インドの紅茶はミルクティー(チャーイ)ばかりなのだが、たまにはレモンティー(レモン・チャーイ)もある。だがこれもレモンではなく、必ずと言っていいくらいこのライムがついている。
 ガイドだと言ってしゃしゃり出て来た少年が、ミュージック・ストーンを叩いて曲を奏で、石に刻んである神の名前を教えてくれた。ここで金を要求してくるはずなのだが、してこない。肩すかしを食らった。北インドとは違うようだ。写真を撮ってやったらそれだけで喜んでた。
 川ではインド人たちがたくさん泳いでいたが、やはり水は汚くて、泳ぐ気にはなれなかった。暑くてたまらないのでホテルに戻ることにする。村に戻って来ると、コーラやリムカ、チョコシェークなんかを飲みまくってしまった。
 この村は小さいが、旅行者に必要なものは村の中心部に全て集まっているので、考えようによっては大都市より便利だ。両替屋もある。闇両替ではなく、T/Cも替えられるのだが、但しあまりレートは良くない。ちゃんとした店ではないので、結構上前をはねられるのだ。

 昨夜はまともに眠れなかったので、さすがに疲れてしまい、ホテルに戻ってベッドの上に寝転がると、そのまま眠ってしまった。目を覚ますと真っ暗だった。夜の十時になっていた。「しまった、晩めし食いそびれたぁ!」と焦ってフロントに飛んで行く。このホテルにはレストランはないのだが、こういう奴がよくいるのだろう、何らかの食料は用意してあった。パンケーキとバナナとコーラしかなかったが、何とか飢えずに済んだ。
 ついでにロウソクまでくれた。「ん、なんだあ、停電があるのか」と思ったが、思い返してみると、部屋には電気がなかった。二階建ての建物の各部屋がみんなコの字型に中庭に面していて、ふと見ると、どの小窓にもロウソクが立ててある。風情があっていい眺めだが、これだと部屋の中では暗くて不都合なので、僕はテーブルの上にロウソクを立てた。
 トイレもシャワーも共同で外にあり、トイレへ行く真っ暗な通路で若い男が若い女を脅かして遊んでいる。エネルギーが有り余っているのか、みんななかなか寝ないみたいで、誰かが笛を吹くのも聞こえてくる。山寺に合宿に来たみたいな雰囲気だ。
 僕も起きたところですぐには眠れそうもないので、ぺったんこのパンケーキとバナナを食いながら、どこからともなく聞こえてくる笛の音に合わせて歌を歌ってみた。笛の伴奏は知らない曲だったけど、僕の口からは『津軽海峡冬景色』とか『北の宿から』とか、寒そうな歌ばかりが出て来た。

「冷やしては もらえぬ コーラぁを 暑さ こーらえて 飲んでますぅー♪ 
ああああーーーーーぁ マラッカ海峡 雪げぇーしきぃ〜♪」


    4月24日 晴 ハンピ

 このホテルには西洋人の若者ばかりが泊まっていたが、何人もの若い男たちが昼間は上半身裸になり、中庭に座ってずっと日光浴している。僕が外出して帰って来ても、まだそのままでいる。また出てってまた戻って来ても、まだそのままの体勢でうだうだしている。
「コンニーチワ」なんて日本語で僕に向かって愛想を振りまいたりしていたが、そうやって日がな一日何もしないでいると、上の部屋に泊まっている女の人に、とうとう二階からバケツで水をぶっかけられてしまった。それでも水をしたたらせながら、「サンキュー」なんて一言言っただけで、ちっとも腰を上げようとはしないのだった。
 ここに何しに来てんだろう、なんて神経を疑ってしまうが、しかしここは日本人は全く見かけないが、こういう変な奴らも含めて、西洋人がかなりいる。やっぱりいい所は西洋人の方がよく知っているみたいだ。
 日本人は日程の都合でほとんどの人が北インドのガンジス川沿いだけ回って帰ってしまうみたいだが(デリー、アーグラー、ジャイプル、バラナシ、カルカッタといった辺り)、あの辺は詐欺師とたかり屋の巣窟みたいなもんで、あそこだけ短期間で回った人は、きっとインド嫌いになって帰るだけかもしれない。
 もしインドでリゾートしようなんて思ってるのなら、南インドだけにしといた方がいいかもしれない。南インドも所詮はインドなのだが、あの辺ほどにはひっきりなしに日本人旅行者につきまとっては来ない。
 だが、インドへ行きたいのなら、やはり北インドだろう。あれこそインドだ。刺激が多い、多すぎる。ムカつく、腹が立つ。汚い、暑い、騒がしい、etc. まあ、後ろの五つは南も同じだが。
 それなりに時間的余裕があるのなら、北インドから入ってまずさんざんひどい目に遭っておき、免疫ができたところでおもむろに南インドへと向かい、するとここで肩すかしを食らうので、あとはのんびりと過ごす、と計画しておくのが僕のお薦めのコースだ。どこをどう通るかということより、心構えのことを言っているのである。

 朝は宮殿跡へ行ってみたが、また暑さにめげて早々に引き返して来た。インド人の家族連れがちょうど前にいたので、帰りはついてった。ついてけば村に行き着くだろう。一番小さい女の子がしょっちゅう振り返って「ターター」と言って手を振る。僕も真似をして「ターター」と手を振った。いつまでも「ターター」と二人で手を振り合いながら、それでもあとからついて行く。たぶん「バイバイ」という意味なんだろうとは察したのだが、道を覚えていないので、バイバイしながらもついて行かざるを得ないのだ。
 途中で写真を撮ろうとしたら、またもやみんな直立不動のポーズだ。そういう写真は欲くないんだけど、しょうがない、カメラを向けてしまった以上撮るしかない。すると知らないオバサンがファインダーから見えた。
「おや?」
 インドの心霊写真か、と思ってファインダーから目を離すと、心霊がニタッと笑った。何なんだと思いながらもう一度ファインダーを覗いていると、心霊のオバサン、じわじわと内側ににじり寄って来るではないか。そのうちとうとう家族の横に並んでしまった。
 記念撮影が済んで家族が去ってったあとも、このオバサン、もう一枚撮ってくれ、と手振りで示す。しょうがないからソロで写してやったが、笑顔を振りまいてポーズを決めやがる。なんとも目立ちたがり屋のオバサンだなあ。

 そんなことしてるうちに先に行った家族連れを見失ってしまい、この先で道が二つに分かれていた。片方は荒野の道で、もう一方はバナナ園の中へと続いている。適当に来たもんで、帰り道なんか覚えていない。分かれ道でしばし佇み考える。うーむ……
 たぶんこっちだろう、とバナナ園の道を選ぶ。心霊オバサン夫婦(おとなしくしていたが旦那も一緒にいた)と、これもいつの間について来ていたのか、よれよれのじいさんが揃って「そうだ、そうだ、そっちの道だ」という感じで騒ぎだし、言葉は互いにちっとも通じないのだが、勝手に僕に大賛成した。おいおい、見ず知らずの外人を当てにすんなよなあ。間違ってても知らんぞー。
 そうやって迷い仲間同志四人で進んで行くと、バナナ刈りの少年がいたので尋ねてみた。戻らないと駄目だということだった。それでも行けそうだからと意地を張り、更に進んで行くと、前に自転車に乗っている西洋人が見えた。どうやら行けそうだな。
 サイクリング白人のあとを追っかけて行くと、先の方で立ち往生していた。川が道を遮断している。向こう岸には川に沿って道があった。思い切って跳べば、越せるか越せないかというほどの微妙な幅の用水路だ。でも水は結構深そうだ。
 引き返すのが嫌だったので、うーん、どうすべきか……跳ぶべきか跳ばざるべきか……、とじっとしていると、向こう岸の道をおじさんが走ってく。ランニング・マンに慌てて声をかけて呼び止めてみると、川に沿ってあっちへ行けということだったので、言われた通りに川に沿って行くと、何とか橋が見つかり面目が立ったのだった。

 マタンガ山の麓を辿り、ようやくハンピ村まで戻って来ると、夫婦はいつの間にか煙のように消え失せていて、影も形もなかった。やはりインドの心霊だったのかもしれない。だけどニタッと笑いながらポーズを決めて写真に写る心霊なんて聞いたことがない。しかしよれよれのじいさんの方は枯れ木のように干からびたまま、まだ僕のそばにいた。
 気の毒になり、近くの茶店に入ると、喉がカラカラだったのでコーラを頼み、枯れ木に水をやろうと、「同じのでいいか?」とじいさんに訊くと、「ああ、ああ」と言っている。いいのか良くないのかどっちかわからなかったけど、コーラをもう一つ頼んでじいさんにも飲ませた。
 チューチューとストローで吸ってから、びっくりしたような目つきでコーラの瓶を眺め回している。気に入らなかったのかなあ、と更に様子を窺っていると、またチューチューとやりだしたので、ほっと安心した。コーラを飲んだことないのかもしれない。
 店を出ると、僕のことを「ババ、ババ」と呼びながらしもべのようについて来た。北インドにいる時は「サー」と呼ばれたのだが(ほとんどが乞食からだけど)、ここ南インドに来てからは、これが「ババ」に変わった。はっきり知らないけど、「旦那様」とか、あるいは「師匠」「先生」といった敬称だろうか。「サイ・ババ」とかいうふうに。だけど僕は日本人なので、「ババ、ババ」と呼ばれると、「婆、婆」と聞こえて、あんまりいい気はしない。
 枯れ木じいさん、どこまでもくっついて来るので、とうとうヴィルーパークシャー寺院の門前まで来た時、
「じいさん、ここにお参りに来たんじゃないのか?」
 と門を指差して言ってみたが、「ああ、ああ」で通じてるのかさっぱりわからない。
「俺はこれからホテルに帰って一休みだ。ねんねだよ」
 とおやすみのポーズを取ってみせたが、またもや「ああ、ああ」で要領を得ない。
「ふうー」
 そこで覚えたての「ターター」を出してみたら、これは通じたみたいで、じいさんも「ターター」と返してきた。「ターター」「ターター」と十回くらいお互いに言い合ったあと、ようやくじいさんと別れることができた。

 夕方、マングル山に登りに行った。日中の行動は水分の消耗が激しくてきつい。昨日の最高気温はハンピの近くのバレリーで37℃だったと新聞にあった。しかしもっと暑い気がしてならない。夜は少しましだが、蚊がいっぱいいるので蚊取り線香は必需品だ。蚊取り線香は日本のと同じ渦巻きのがインドにもあり、売店とか安宿とか、どこでも売っている。
 この山は岩山で、そんなに高くないから手軽だが、頂上付近は急なので、足を滑らせて転げ落ちないかとちょっと怖くなった。ほとんど木がないので陰が少なくて苦しいが、上の方に行くと吹きっさらしで風が気持ちいい。
 頂上には無人の寺院があるが、ここでカメラを持ってうろうろしていると、たちまち子供が十人、十五人、大人が四人、五人と集まって来て、写真撮ってくれと言ってうるさい。しょうがないから撮ろうとしていると、わいわい大騒ぎして収拾がつかない。オヤジどももカメラマンに向かってあれこれ注文するし、しょうがない奴らだ。
 写真を撮り終わると、この寺には猿がいたのだが、その猿を見つけ、大人も子供も寄ってたかっていじめ始めた。追いつめて石をぶつける。ほんとにしょうがない奴らだ。猿は勝ち気で、キイーッと鳴きながら歯を剥いて威嚇するのだが、衆寡敵せず遂には寺の中や屋根の上を逃げ回る羽目になった。
 インドでは牛が大事にされてると聞いていたが、実際はそうでもなかった。道路の真ん中でよく寝そべって交通妨害になったりしているのだが、そうすると降りて来た運転手にケツを蹴っ飛ばされて追っ払われたりしている。
 猿も『ハヌマーン』という猿の顔をした神があるので、大事にされているのかと思ってたら、これまでいじめられているところしか見たことがない。猿を見かけたら、インド人たちはまず石をぶつけようとする奴が多い。
 だが、さすがに象はいじめられずに大事にされている。でも当然のことで、象なんかいじめて怒らせたら、踏み殺されるのが落ちだからだろう。


    4月25日 晴 ハンピ

 今日は久しぶりに髭を剃った。宿の近くにテント張りの床屋が二軒並んでいて、前を通る度に、「頭を刈ってけよ」と笑顔で誘われるのだが、座っている客はいつもみんながみんな、つるつるのスキンヘッドなのだ。いくら寺の隣に店があるからって、客の頭を片っ端から坊主にすることはないだろが。
 持って来ていた剃刀の刃がなまくらになってきて、しばらく髭を剃っていなかったので、今日は髭だけ剃ってもらうことにした。髭を剃りながら、「頭もどうだ」と床屋が何度も勧める。「やめてくれぇ。髭だけだ、髭だけでいい」その度に僕は何度も念を押した。黙ってこの床屋に任せてると、つるつる坊主にされてしまいそうだったからだ。
 今日はあまり行動していない。朝の散歩も近くの寺まで。境内の大きな岩の斜面に、誰がしたのか知らないが、うんこが点々と散らばっているのが気になる。あとは洗濯して、めし食って、両替しただけ。だから今日の水分蒸発量は少ない。
 このホテルは部屋以外は何でも共同なので、洗濯も裏の洗濯場へ行ってする。僕は不精なので、洗濯物に石鹸をこすりつけて水でゆすいで干したら終わり。よく乾いてなくても、乾期のインドでは着てるうちにすぐ乾く。石鹸が切れた時はシャンプーで洗濯した。頭を洗ったついでに洗濯物にかける。非常に合理的だ。しかし洗剤はその辺の売店で持ち運びにもじゃまにならない小さな袋入りが売っているので、不精じゃない人はそれを買って使った方がいいだろう。

 中庭に向かって一日中座っているうだうだ病が移ったわけではないのだが、長くインドにいると、うだうだと時間を浪費してしまうのもわかる。今の僕はそうだ。それでもまだ一日中ホテルでじっとしているほどには年季が入ってはいない。日常生活をしにわざわざインドまで出かけて来てるのではないのだ。そこで夕方また散歩に出かけてしまった。
 変なとこを歩いていると、足の裏が痛くなってきた。ウダイプルでひどい目に遭ったあのマキビシのようなでっかい棘が、ここでもゴム草履にざっくりと突き刺さっていた。
 ここまでこんなことはなかったのだが、ここには人間に向かって吠える犬がたまにいる。インドには野良動物が多いけど、野良犬もどこにでもいる。しかし野良犬に限らず、みんなほんとにおとなしいのだ。
 特におとなしいのが野良豚。見た目はイノシシみたいな豚ばかりなのだが、おとなしいと言うより臆病だ。群をなして夢中で残飯をあさっているところを、近づいて行って触ってやろうとしたことが何度かあったけど、三メートルくらいまで近づくと、ブヒヒーと、もう逃げられてしまう。背中と言うか、尻で人の気配を感じているみたいだ。
 僕に向かってずーっと犬が吠えるので、民家からおじさんが出て来て犬を叱りつけた。叱られてるとは犬にはわかるまいが、おじさんが引っ込んだあとも、こいつがしつこい犬で、吠え続けながらどこまでも僕を尾行して来る。こいつは前世が岡っ引きだったのではあるまいか。おじさんがいなくなったことを確かめると、僕は手当たりしだいに石を拾い、この忌々しい犬畜生目がけて投げまくった。

 今晩は昨晩と同じレストランへ食べに行った。不可抗力でもない限り、わざわざ同じ店に二度行くなんてことは、北インドではなかったことだ。これまで出会った、北も南も回ったという人たちが口を揃えて言ってたが、料理は南インドの方が美味いというのは本当だった。
 北にいる時は「インド料理は不味い」という印象を常に持ったものだが、南に来て、「インド料理は美味い」に変わった。昨晩は停電だったので、午は間違えて隣の店に入ってしまったのだが、そこも美味かった。コーヒーも美味かった、インドのコーヒーはみんなミルク・コーヒーだけど。
 店と言っても、路地裏に入って行って、テントが掛かっている路地にテーブルと椅子が置いてあり、その椅子に座ったら、そこは実はレストランなのであった。店なのか何なのか見分けがつかないような所だ。だから店の名前も知らない。品の良さそうな女性が一人でやっている。料理は旦那か誰かが裏で作っているみたいだけど、表には出て来ない。
 昨日の停電の時は、石油ランプ一つで食べてたから、何を食べたかもよくわからない。とにかく出された真っ黒な物を食べたら美味かった。エッグ・フライド・ライス(焼きめし)とか、オニオン・スープとか野菜スープとか、そんなありきたりの物だったとは思うが。しかしここんとこ肉類をほとんど食べてない。心なしか上半身の肉が落ちてきたような気がするではないか。その分、腹の脂肪が増えたような気もする。

 この店にはかの『ロ○リ○・○○ネット』が置いてあったので読んでみた。あの日本の貧乏旅行者のバイブルたる『○○の○き方』のあちゃらモノだ。中庭にずっと座ってるような西洋人の誰かが観光に飽きて、じゃまになったバイブルを店に残していったのだろうか。いいことするなあ。早速利用しよう。
 結構分厚いが、外から見ても、中を開いてみても、電話帳みたいなやつで、味も素っ気もない。しかし英語がとても易しくて楽に読める。英語が苦手だという人にまで保証はできないけれど、高校一年生でも辞書なしで読めるくらい易しく書かれている。ほんとにガイドブックで、最低限のことしか書いてない。なくてもいい単語はことごとくカットという感じ。が、その分、情報量が豊富ということだ。
 そうやって置き捨てられた西洋のバイブルを見ていると、非常に便利な機能が付いているのがわかった。索引で、例えば「ビーチ・リゾート」という引き方ができるのだ。僕はこれからインドの海を楽しみにしていたので、これは便利だ。
「ゴア、コヴァーラム、ディーウ、マハーバリプラム……」という感じで、ビーチ・リゾートだけまとめて見ることができる。でも情報は、「綺麗な浜」とか「とても綺麗な浜」とか簡単に書いてあるだけ。この『綺麗な浜』と『とても綺麗な浜』の違いはのちにそれぞれへ行ってみてわかった。『綺麗な浜』の方へ行ってみると、うんこがいっぱい落ちてたりするのだった。『綺麗』と『とても綺麗』の違いは、主にうんこが落ちているか落ちていないかという違いなのだと思う。
 人の美的感覚というものは誰しも同じではないとは思うが、うーん、これを書いた人はどういう美的感覚の持ち主なのだろう? 目が悪くてうんこが見えなかったのか? その時はたまたまうんこが引き潮にさらわれたあとだったのか? それともインドのビーチだから、うんこが落ちてるのは当たり前の常識だという前提のもとに、うんこはみな無視して砂浜だけ見つめれば、「綺麗な浜だ」ということなのだろうか? それとももしかするとこの人は、うんことは、「とても綺麗」とはとても言えないにしても、「綺麗」くらいに思っているのかもしれない。人の美的感覚というものはわからないものである。


    4月26日 晴のち一時曇 ハンピ 〜 ホスペット 〜

 今朝は早めにホテルを出てホスペットへ行ったのだが、バスは夜までなかった。次はバンガロールへ行こうと思っていたが、どのバスも満席だった。もう列車を待つ根性どころか、ローカル・バスを待つ根性もなくなってきているみたいで、即座にバス・スタンドの向かいにある旅行店に入る。
 バンガロール行きは午後十時三十分発。マンガロール行きは午後五時発ということだったので、予定を変更してマンガロールへ行くことにした。方角が90度くらいずれてはいるが、南へ行くには変わりないのだし、どっちでもいいだろう。一字違いくらいは綿密なスケジュールの許容範囲内だ。
 バス・ターミナルにいると、乞食が次から次へとやって来る。またもや怒鳴り声を上げながら金を脅し乞おうとする奴、おいおい泣きながら寄って来て、金を憐れみ乞いする奴、金をやらないといつまでも声を張り上げて泣いているのだが、これはそれなりに重労働ではなかろうか。ところが泣き乞食の前に平然としゃしゃり出て来て、ふてくされた顔で黙ったまま手を突き出してくる奴までいる。するとじゃましてきた奴を押しのけ、おいおい泣きながらまたもや前にしゃしゃり出て来る。乞食にも熾烈な競争があって大変だ。
 無視していると、いつまでも怒鳴り声や泣き声がやまず、更に同僚のカツアゲ乞食、泣き落とし乞食、だんまり乞食たちが群がり寄って来て、うるさくてしょうがない。急いで売店で買い物を済ませると、バス・スタンドから離れたが、このホスペットという所は特に行く場所がない。

 とりあえず通りを真っ直ぐ歩いて行くと、視界が開け、田舎びてきた。橋の上でぼーっとしていると、川で色とりどりのサリーを着たおばさんたちが洗濯しているのが見えた。小さな川だが、インドにしては意外に綺麗な水だ。
 小さな女の子がこっちに向かって何か言っている。たぶん外人が珍しいのだろう。いい風景だなあと思い、カメラを取り出して向けると、おばさんたちは急に怖い顔になり、洗濯の手を止めてこちらに向き直った。なんでいつもこうなるんだろう。女の子の方は、子供はストレートに感情を表すのでわかりやすいのだが、今まではしゃいでいたのがピタリとやみ、恥ずかしがって体をくねらせ始める。
 この場合はカメラを意識しているだけなのだけれど、カメラを向けて顔色が変わった場合、インドでは写真に撮ってはいけない人だったりすることもあるので注意だ。敬虔なヒンズー教徒とか、イスラム教徒の女性などだ。僕の知り合いが、ベールを着けたイスラム教徒の女性を写真に撮ろうとカメラを向けたら、周りの男たちが途端に血相変えて「駄目だ、駄目だ」とカメラを手で塞ぎに来たということだ。まあ気にせずに、撮っちゃいけないと言われたらやめればいいんだけど。

 インド旅行はまた、時間つぶしでもある。ここんとこバス待ちで半日つぶしてばかりいる。こんな長い乗り物待ちは予定外だから、いつも何をしようかと困る。今日は甘党の店に入った。あのマトゥラーの懐かしの『砂糖黒糖ブドウ糖ショ糖麦芽糖オリゴ糖血糖漬け蜂蜜練り羊羹風ケーキ』みたいなのを見かけたからだ。
 それでもとりあえずチャーイだけ頼んだが、そのうち店の主が自慢の菓子を勧めてきた。「いらないよ」と言ってたのだが、紅茶(チャーイではなかった)をポットで何杯も飲んでたら、そのうちおまけに付けてきてくれた。申し訳に一切れ食べたが、この超スイート菓子は時間つぶしにはいいかもしれない。一口サイズを食べ終えるのに、一時間はかかった。それでも十二分に血糖値が上がりまくった。
 ちょうど客に暇な大学生がいて、いつまでも僕の相手をしてくれた。それとも僕の方が暇こいてる大学生の相手をしてやったのかもしれない。それでも時間が有り余っているので、写真を撮りたいという口実で、店の調理場を見せてもらった。
 大人と子供が何人か、手を真っ白けにしてチャパティを練っていた。チャパティなど、一枚1ルピー(当時で3.5円、今はたぶん2.5円くらい)で買えるが、このチャパティをこねるのは大変な重労働だと見てみてわかった。見学のあとみんな店に出て来てもらって記念撮影。しかし考えてみればわがままな客だったろうなあ、時間つぶしの気まぐれに仕事のじゃままでするし。日本なら局名入りのテレビカメラでも持ってかない限り、ここまでつき合ってはくれないだろう。
 観光名所を回るのもいいが、たまにはこういう『どこも行く所のない場所』にいるのもいいかもしれない。ありきたりの普段の日常が繰り返されているだけなのだろうが、図らずも日本にはない何かに出くわし、あっと思わされたりすることがある。
 それは異国の異質の文化などではなく、たぶん日本にもかつてあったか、今でもどこかにひっそりと埋もれている情緒みたいなもので、だから珍しいとか目新しいとかはちっとも感じることがなく、なぜか懐かしいような気がしてくるのだ。異国の街角でそんな気分になるのは僕だけなのだろうか。バスが出発した。もうすぐ海だ。



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