3.危機一髪! 最悪の知能犯現る
3月26日 晴 〜 サトナー 〜 カジュラーホー
朝の四時頃、車掌が起こしに来てくれたが、僕は既に目を醒ましていた。間もなくサトナー駅に到着した。まだ暗かったが、改札口を出た所にはリクシャー・ワーラーが待ち構えていて、僕の取り合いで二人が激しく争った。サイクル・リクシャーとオート・リクシャーで、
「うちのが安い!」
「うちはオート・リクシャーだ!」
と物凄いパワーで吼えながら僕にアピールしてくる。どうせならこんな野獣どもではなくて、美女に奪い合いをしてもらいたかった。
すると野獣ども、僕がまだ何も言ってないのに、早くも値下げ合戦を始めた。この二人は余程仲が悪いのか、そのうち「俺の客を横取りするな!」「俺が先だ!」といった調子で罵り合いになり、やがてはつかみ合いを始める始末だった。しばらく呆気に取られて見ていたが、すぐにアホらしくなり、二人をほってリクシャー乗り場へと歩き始めた。するとまた二人が僕の行手に飛び出して来て、また必死にアピールを繰り返すのだった。
この猛烈な二人に辟易として、
「わかった。わかったけど、体は一つしかないからな、どちらかにしか乗れないよ」
と言ってやると、
「じゃあ、あんた決めてくれ」
とおとなしくなったものだから、もう一度バス乗り場までの料金を確認した。意外なくらい安かった。それでも急いでいるわけではないので、ちょっとだけ値段が安い方のサイクル・リクシャーに乗ることにしたが、そうするとサイクル・リクシャーのワーラーは、
「ざまあ見ろ!」
とたぶん言って、商売敵を嘲り笑った。オート・リクシャーの方はまだ少年だったが、余程悔しかったのか、くわえていた煙草を地面に叩きつけ、泣きそうな顔になって地団太踏んだり、肩をがっくり落としたりしていた。まるでB級映画のワンシーンを見ているようで、芝居でもないのにこんな仕種ができるものなのか、と僕は感極まり、同時にゲタゲタと笑い出したい衝動に駆られたのだが、そこを必死にこらえて顔はあくまで同情しているように見せかけたまま、この未来の名優に別れを告げたのだった。
バス・スタンド(インドではこう呼ぶ。あるいはバス・ステーション)に着いたものの、まだ早すぎて切符売場は閉まっている。インドで便利だなあと思ったのは、自動販売機などはないのだが、どういう時間帯でも、何らかの店が開いているということが多かったことだ。
この国は人手はあり余っているみたいだ。道端に政府の看板が立っていることがあって、そこには『小家族は幸福家族』などと書いてあったりする。中国へ行った時は、都市の男は二十三歳以上にならないと結婚できないのだと聞いたことがあるが、強制まではしていないものの、この国の政府も爆発的に増え続けている人口を抑制したいようだ。
始発まではまだまだ時間がある。僕は売店でビスケットか何かとチャーイで軽く腹ごしらえをしながら、その辺の売り子たちと話をしていた。物売りの子供が歌を歌いながら近づいて来て、歌を教えてやると言う。その頃一番流行っていた映画の主題歌で、これはどこへ行っても聞こえてくるので知っていた。どうでも良かったのだが暇なので、この子供にヒンドゥ語の流行歌のにわかレッスンを受けた。だけどそれもそのあとすぐに忘れてしまった。
夜が明けかけた頃、切符売場に人が並び始めたので、その後ろに並んでいると、間もなく窓口が開き、切符を売り始めた。僕はここで大きいのを崩しとこうと、500ルピー札を出したが、細かいつりがなかったみたいで(切符売場でさえ小銭が不足するのだ)、しょうがないからと30ルピーに負けてくれた。
更に待ってから自分の乗るカジュラーホー行きのバスがやって来たので、早速乗り込んで窓際の席を取り、座って待っていると、窓の外に汚ならしい二人の小さな男の子がやって来て、僕に何か話しかけてきた。兄弟で、兄の方は片言だが英語を話した。残ってたビスケットをやったが、まだいるので、金を稼いで来いと親にバス停まで物乞いにやらされたのだろうと思ったが、
「小さいお金がないよ」
と言うと、
「日本のコインくれ」
と言う。そこで兄の方に十円玉を、弟には五円玉をつかませると、ふたりとも両手でそれを持って珍しそうに眺めていたが、兄は自分の十円玉と弟の五円玉を見比べ、次には兄の権限で強引に弟の五円玉を引ったくるや、無理やり十円玉を弟に握らせた。んー、穴の空いている硬貨は世界でも珍しいと聞いたが、やはりそうなのか。少なくとも海外では五円は十円より価値があることを知った。
やはり親から物乞い行って来いと朝早く家を出されたのだろうが、その状況下でこの子たちはこの子たちなりに遊びというものを編み出しているのだろうなという気がした。バスが動き出したので、僕はこの小さな兄弟に手を振った。二人も何か叫びながら、いつまでも手を振っていた。
広い平原の一本道に出ると、バスは快調に飛ばした。二時間ほど走った頃、シンバルをこすり合わすような音が、バスのエンジン音と共に聞こえてきた。例によって運転手がインドの歌謡曲を流し始めたのだろうと思っていたが、騒音に混じっているのではっきり聞き取れるわけではなく、いつまでもその規則正しい音が続くし、何だか外で鳴っているような気もしてきた。窓の外に顔を出して見てみると、僕の席のちょっと前の方にある後輪が、ぺしゃんこになったまま回転していた。タイヤがぺたぺたと路面にへばりついているし、シンバルの音の正体は、どうやらホイールが道路に当たっている恐怖の警告音らしかった。
これはまずいんじゃなかろうかとも思ったが、もしかするとタイヤに空気がなくても走るのかもしれない。何しろこれはインドのバスだ。
「行け行け、GO、GO!」
と思ってたら、間もなくパーンと音がして、やっぱりタイヤがパンクした。運転手はやっと気づいてバスを停めた。
男の乗客は全員外へ出たが、ワーワーわめいているだけで何もしない。日が照りつけて暑くてたまらないが、バスの中も熱気が籠もっていてやはり暑い。僕にはヒンドゥ語の知識もパンク修理の知識もないので、なりゆきに任せることにして、道端の岩に腰掛けてみかんを食ったりしていた。
大平原の中の一本道だからか、車はあまり通らない。やがて大型トラックがやって来たのをみんなが前を塞いで強引に停めた。車掌がトラックの運転手に何か言っている。恐らくスペアタイヤをくれと談判しているのだろうが、トラックはお断りだとばかりに行ってしまった。
このままでは埒が明かないとわかったのだろうか、やがて乗客たちはヒッチハイクを始めた。と言うより、車でもバイクでも、やって来たら通せんぼして、強引に便乗してしまうという、カージャックそのものだ。まあ、相手側も嫌な顔せずに乗せていたから、インドでは困った時はお互い様が浸透しているみたいだが、ここでも図々しい奴がやはり勝った。
僕は図々しさではインド人にはとても敵わないことを知っていたし、言葉のハンデもあるので、最後まで順番を待つくらいなら、いっそ歩いて行った方が早いだろうと頭を切り換えた。なに、ここまで二時間もすっ飛ばして来たんだから、カジュラーホーまではあと少しに違いない。ここは決断力がものを言う。僕は荷物を背負うと、さっさと一本道を歩き始めた。
そのままどんどん一本道を行くと、やがて道が上りになり、ちょっとした山あいに差しかかった。目的地のカジュラーホーは間近な予感がする。見よ、日本人の知恵と決断力の勝利だ。そうやって緩い上り坂をくねくねと上がって行くと、途中の道端に二人の男がいた。んー、カジュラーホーはもうすぐだな。
二人の男のそばまで行くと、僕は気軽に声をかけてみた。向こうも笑って返事したが、よく見てみると、片方は警官の制服を着ていて、もう一人は一般人のようだ。
「どこ行くんだ?」
と警官が訊いてきたから、
「カジュラーホーだ」
と答えると、
「俺たちと一緒だ」
と言った。
「じゃあ」
とそのまま二人を追い越して歩いて行こうとすると、
「歩いて行くつもりか?」
と後ろから声をかけてきた。そうだと答えたが、警官は、
「歩いてなんかとても無理だ」
と言った。
「カジュラーホーまでは52キロメートルあるぞ」
うげえ! じゃああんたたちはこんな辺鄙なとこで一体何やってんだ? 片方が警官の服装をしているところからして、もう一人が犯人で、ここまで逃げて来たところを捕まったのかもしれないという名推理が僕の頭に浮かんできた。そう考えてこの二人を見ると、ますますそう思えてきたので、巻き添えにならないように、二人が何者なのかは詮索しないことにしたが、それでも気になったもんだから、
「そんであんたたち何してんの?」
ガードレールに凭れ掛かっているだけの二人にさりげなくそう訊くと、二人はニヤニヤしながら、
「ヒッチハイクだ」
とだけ言った。歩きを断念。この二人と共にヒッチハイクすることにした。
かなり経ってから満員のバスが来て、無理やり乗り込んだ。この警官は意外にも律義な人で、みかんと煙草一本やったら、あとでコーラを奢ってくれたのだが、バスに乗り込む寸前に噛み煙草みたいな物(何と言うのか知らない)をくれて、インド人は香辛料などを混ぜて誰でも噛んでいるのだが、これがまた噛みながらペッペッと唾を吐くものなのに、超満員のバスの通路に立ってるものだから、どこにも吐き場がない。せめて窓際まで行くことができれば、インド人ばりにベッっと吐けるのだが。
今はもう覚えてないが、その味はと言うと、それは何とも言えないもので、はっきり言って、こんな物をよく口の中に入れていられるなあというような代物だ。これは安くて売店の店先にどこでもぶら下げてあって、いろいろな種類があるみたいだったが、僕はもう二度とこのインド人の噛み物を口にすることはなかった。
口を動かすと妙な味の唾液が溜まってくる。バスはとろとろ走ってなかなか停まらない。これをどう処理したものか。前にいる人の後頭部に吐きかけた場合、インドでは許されるものなのだろうか? 僕はじっと口を閉じたまま、口中にある得体の知れない唾液の処理方法をいろいろと思案していたが、緊張などそんなに長く続くものではない。バスが揺れたか何かの拍子に、とうとううぐっと全部一息に呑み込んでしまった。おお、神よ! 日本に帰り着くまでこの身を守りたまえ! 胃の壁が破れませんように。
しかしこのバスはカジュラーホーまでは行かなかった。茶店でコーラを飲んで次のバスを待っていると、店の主が、
「試してみろ」
と言って、黄色い砂糖菓子をくれた。面白い味だったが、ふと見ると、店先に積み上げてある菓子に蝿がぶんぶんたかっていたので、
「甘い物はあんまし食べられないんだ」
とごまかしてそのまま菓子を食うのをやめた。カジュラーホー行きのバスが来ると、警官が中まで案内してくれ、「空けろ、空けろ」と僕に窓際の席を取ってくれた。
「俺はここまでだ」
そう言うと、僕の隣に座っているおじさんに、この人はカジュラーホーまで行くんだから教えてやってくれというようなことを言ってくれたみたいで、今度は隣のおじさんが案内人になった。このおじさんははりきって、バスが走り出すと頻りに窓の外を指差し、
「国立公園だ」
と満面に笑みを浮かべながら自慢げにガイドしてくれたのだが、どこまで行っても「国立公園」「国立公園」で、その言葉しか知らないようだった。
しかしこのおじさんが唯一知ってる英語で自慢するだけのことはあって、途中からは素晴らしい景観になった。谷底を片側に見下ろしながら斜面を高台へと上がって行くのだが、『桃源郷』とはまさにこういう所を指して言うのだろう。
結局そのバスは他の会社のバスで、14ルピー新たに払わなければならなくて、切符を買った時に負けてもらった分を差し引いても高くついてしまい、時間も食ったし疲れもしたけど、それでも楽しかった。ところがこの国立公園のおじさんにカジュラーホーだぞと言われてバスを降りてみると、5キロメートル先のラージナガルまで行ってしまっていることがわかった。
最初は近くにいる村人に、
「カジュラーホーはどっち?」
と訊いて、地図を見ながら歩こうとしたが、どうも地図と村の地形が一致しない。合っているようで合っていない。また訊いてみたが、
「あっちだ」
と言って、地形とは反対の方向を指差す。どうせインド風にでたらめ言ってんだろうと、僕は指差された反対の方角へ向かって歩こうとしたが、若者たちが何人か寄って来て、
「あっちだ、あっちだ」
と頻りに言う。
「?」
そこで地図を見せてみたが、その中に英語のできるのがいて、ここはカジュラーホーではなく、ラージナガルなのだと教えてくれたので、その時初めて乗り越したのだとわかった。そのあんちゃんが道でトラックを止めてくれ、そのトラックにカジュラーホーまで乗せて行ってもらうことができた。あんちゃんは別れ際に、
「ヨギ・ロッジに泊まれ! いいか! ヨギ・ロッジ! ヨギ・ロッジだぞ!」
と、トラックを追っかけながら必死の形相で叫んでいた。
カジュラーホーで降ろしてもらうと、ガイドブックにもヨギ・ロッジというのが載っていたので、そちらの方角へ向かった。トラックの運チャンがうっかりしていて、少し離れた所で降ろされたのだが、景色がいいのでぶらぶらとゆっくり歩いていると、池縁にいた小さな子供たちが寄って来て、山葡萄みたいな訳のわからない実を差し出してきた。これは食ってやらないと悪いかなあと思いながら、小さな房を齧ると、
「1ルピー」
と来やがった。泥と垢に塗れた汚い手でつかんでいた得体の知れない実を、子供心を傷つけまいと我慢して食ってやったというのに、なんだい、ここのクソガキどもは!
それからなかなか景色のいい静かな場所があったので、木陰で一服していると、今度もまた二人の子供が近づいて来て、ガイドしてやると言う。残っていたみかんをやったが、うるさいなあと思っていると、やがておじさんがやって来て(どうしてこういう人気のない所に次々と人が現れるのだろう?)、自分の土産物屋まで来てくれと言う。
「土産なんかいらないよ」
といつものように断ったが、
「場所が悪くて客が来ないんだ。とにかく見るだけでも見てくれ」
と頻りに僕を誘った。まあ、ホテルのある方へ行く途中にあるみたいなので、とりあえずついて行ってやることにした。確かにこんな場所じゃあ迷子以外の観光客は来ないだろうというような場所に店はあった。
中に入ると、チャーイを出したり、ビーリー(煙草か何の葉っぱかわからないけど、細くて短い安物の葉巻)に火を点けてくれたり、大層な歓迎ぶりだ。これはしつこくなりそうだなあと思いながらも、急ぐこともないのでチャーイを飲んでビーリーを吸ったが、このチャーイが美味かった。
ブッダ・ガヤーの日本語詐欺師が「ここにしか本物は置いてないから」と言っていたのと全く同じ品物が、この店にもごろごろしていた。おじさんは次々と土産物を勧めてくる。
「買わないよ」
と言いながら、ちなみに値段を訊いてみると、ブッダ・ガヤーの二十分の一の売値だったので、つい買う気になってしまった。重い銅製の神々の像を五体選び、鐘も気に入ったので、それで値段を交渉して、1000ルピーまで負けさせた。これにブッダの首飾りをおまけにつけてくれたが、それでもボられているには違いないはずだ。あのブッダ・ガヤーの馬鹿野郎がどれだけひどいかがわかるというものだ。しかしその反動でついつい買ってしまったものの、まだまだ先は長いのだ。よりによって重い銅像を買うとは、なんて間抜けな真似をしたのだろう。
外に出て、人気のないカンカン照りの田舎道をホテルの方角に向かってのろのろと歩いていると、少年が自転車を押しながら近づいて来て、日本語で話しかけてきた。日本語を勉強していると言う。少年だと思っていたが、二十一歳だということだった。どうもインド人は年齢が見分けにくい。名前はR。こいつがずっとついて来る。おまけにさっきのガイド志望のガキまでついて来る。ガキがあれこれ言っていると、Rが、
「こいつは馬鹿だから相手にしない方がいい」
と僕に向かって日本語で言った。まあ相手にする気ははなからないけど、しかしひどい言い方だ。ガキの方は何を言われてるのか知らずに、嬉しそうにはしゃぎながらガイドを続けている。喋りながらホテルへと向かったが、Rは、
「これからうちの社長に会ってくれ」
と言った。社長? 一体何のこっちゃ?
トラックを止めてくれたあんちゃんの言っていたヨギ・ロッジが見つかり、そこにチェックインする。ダブルルーム一泊80ルピーだが、一人だということで60ルピーに負けてくれた。ここのオーナーが、Rとガキが僕について入口から入ろうとしたのをどやしつけ、追っ払ってしまった。この恰幅のいいオーナーは僕に向かって、
「あのガキどもは泥棒だ。気をつけろ。泥棒だ、泥棒だ」
と警告するように何度も言った。ふと窓ガラス越しに表を眺めてみると、Rとガキが向かいの建物の入口に腰を下ろして、二人並んでじっと待っているのだった。しかしオーナーの言ったことは嘘ではなかったのだ。
3月27日 晴 カジュラーホー
朝めしを食ってから西群寺院の前まで行くと、
「憶えてる?」
と日本語で訊いてくる少年がいた。少年ではなく、昨日の大きい方のガキ盗賊、Rだった。一緒に寺院を回った。と言うより勝手について来たので、
「宿のおやじがおまえたちは泥棒だと言ってたぞ」
とはっきり言ってやると、
「それはやきもち焼いているね」
と答えた。
この日は朝起きると、一回下痢をした。インド十日目にしてとうとうなったかと思っていたくらいだったが、しかし寺院群見物の帰りがけにも便意を催し、
「ホテルまで我慢できないや」
とRに向かって言うと、
「じゃあそこでして」
と一本の立木があるのを指差したので、慌ててそこまで飛んでった。いや、飛んでは行けなかった。そんなことすると漏れそうだったから。インドにはトイレという代物が通常存在しない。普通の家にはごみ箱の類がないのと同様に、トイレもない。みんな外でするらしい。
さすがに大人は人目につかない所でするらしくて滅多に見かけたことはないが、子供がケツを出してうんこしているのはよく見かける。つまりこの場合の僕だと、ホテルまで戻るか近くに外人向けのレストランでも見つけて駆け込まなくてはならないのだ。
しかしそんな余裕がなくて、僕は約十年ぶりに青空の下でクソした。十年前に歩いて(途中でずるもしたが)旅した時、日本各地でやむなく野グソは数回させて頂いたが(うーん、地球に優しくないなあ。地元の方すみません)、それでも大っぴらにはできず、うーん、こそこそと隠れてしたものだ。
ところがここには背面に木が一本しかない。沖天高く輝くお日様に見守られながら白昼堂々とする、うーん、このタイプの野グソとなると、恐らく小学生の時以来だろう。うーん、古豪復活といったところか。それにしてもクソする姿ほどみっともない恰好もないだろう。知ってる人がいないとはいえ、誰も通りかかりませんようにと祈るばかりだ。
うーん、これが洋式便器に腰掛けてしているのなら、片手で頬杖を突き、ロダンの『考える人』のポーズにもなり、それなりに様になるはずだが、同じ排便でも、うーん、これだと最低の醜態である。「ううん、これが本来の人間の姿である」自然志向哲学で自分を慰めようともしてみたが、「うーん」こうなってはもう、僕の口からは、にわかに襲ってきた腹痛と羞恥との複雑な混在による肉体と魂の悲痛な呻き声が洩れるだけだった。
結局は躊躇していて長引くのはもっと嫌だったから、ドバドバと出してみたが、振り返って見てみると(見なくていいのにどういうわけか見てしまう)、泥水の水溜りのような上に、いつの間にどこからやって来たのか、古豪復活を喜ぶ大応援団(蝿ども)が、まるで蝿のように(当たり前だが)群がっているではないか。一句でけた――!
――群がるは 蝿と乞食と 詐欺師かな
もう少し抒情的にしてみるか。
――この南国の沃土に奇々として腰を据え
我一人蝿と戯る
洩れ出ずるは 木洩れ陽か 切なる呻きか
はたまた自然(じねん)の産物か
今日はそのまま休養しにホテルへと引き返そうとしたが、社長の家は途中だから寄って行け、寄って行け、とRが頻りに勧める。この時点ではまだ疑い一つ持ってはいなかったので、僕はそのまま青年盗賊Rについて行った。Rは土産物屋の前で立ち止まると、
「ちょっと待ってね。社長いるか見てくる」
と横の階段を上がって行った。入口には『ゴータマ・シッダールタ』とカタカナで書かれた看板が掛けられている。Rが戻って来て、上がって来いと言う。階段を上がるとベランダで、その奥に部屋があり、そこの椅子に掛けて待たされた。
少しすると、チビだがインド人にしては肉づきのいいのが出て来た。名前はゴータマ・シッダールタだと言った。あとから考えてみれば、こんな名を名乗っていることだけとってみても怪しい奴だと決まっているのに、僕には一度やられてみてからでないと相手を疑いもしないという抜けたところがあり、自戒してはいるのだが、やはりそう簡単に身に着くものでもなく、資本主義社会ごときでアップアップしているのに、激動の現代社会をサバイバルできるような性格は全然していない。
はっきり言って、冒険は好きなのだが、冒険者向きではない。一度ブッダ・ガヤーで痛い目に遭っているのに、もうそんなことは忘れていた。『日本語で話しかけてくる外国人には注意せよ』という金言をもう忘れている。僕には所詮、使い捨ての金言である。この偽ブッダなる者、あのブッダ・ガヤーのイカサマ野郎より更に日本語が達者だった。
いろいろ話をしたが、おべんちゃらも上手い。まさに詐欺師の中の詐欺師である。しかしこの時はまだそんなこと思いもしない。手下に日本語で社長と呼ばせているので、一体何をしてるんですかとか、日本語が上手い、日本人と変わりませんねとか言うと、
「大阪にインド料理店を持ってるから日本に住んでるんですよ」
と言うので、
「大阪のどこですか?」
と更に追求してみたら、
「大阪の茨木、JRの茨木駅前ね」
と答える。
「茨木なら知ってるから、今度行きましょう」
と僕が言うと、
「もうすぐ中村に引っ越すよ」
と言う。
「中村って、高知の中村?」
「中村ね。私従業員よ」
「?」
従業員は社長なのか?
「じゃあまたすぐに帰らなくちゃなんないんでしょ」
「人に任せてるね。だから半年はインドにいるね」
人に任せるとは、どういう従業員なんだろ? まあ、インドだから何でもありかもしれないな。
それからまだ昼めし食ってないからと言って、奥さんに持って来させた。
「あなたも食べる?」
と言いながら、カレーとチャパティとサラダを皿に分けた。
「今下痢してるから結構です」
と言うと、
「それはいけないね。あとで薬買って来てあげますよ。インドの薬でないと効かないね。だからちょっとだけ食べて」
そう言うので、分けてもらった分は食った。これもあとから考えたのだが、詐欺師が相手を信用させる手の一つで、同じ物を分けて食うから、まさか眠らされることもないだろうと思ってしまうのである。もちろんこの中には眠り薬などは入ってはいない。
それからバイクの後ろに乗せてもらって薬を買いに行ったのだが、その辺りの店は全部閉まっていた。そこのシャッターまで開けてもらい、錠剤と粉薬を分けてもらい、偽ブッダの家に戻って飲んだ。粉薬は水に溶いて飲んだが、こっちは下痢でなくても飲んでいいんだと言って、ゴータマも自分で飲んでみせた。それと錠剤を飲んだら、あっと言う間に下痢は治ってしまった。ホテルに帰って休むと言うと、
「夕方また来てね。お酒飲みましょう」
と言って、Rにホテルまで送らせた。
夕方になってから外へ出ると、Rが待っていた。それでついてくと、ゴータマんちのベランダで酒盛りになった。手下のDとゴリラに似た若者も来ていた。このゴリラがまたひょうきんな奴だった。ゴータマと僕だけが同じ瓶のウイスキーを飲んでみんなで騒いでいたが、手下には酒を飲ませてはやらないみたいだった。ちょっと酔った頃、偽社長が、
「下痢してるからおかゆ食べるといいね」
と言った。しばらくすると、奥さんがおかゆを持って来た。
「食べて食べて」
と偽社長が言うので、この時は疑いもしないで手づかみで食べていると、途端に眠くなってきて、僕は横になって眠りかけてしまったのだが、そうすると吐き気を催してきたので、意識朦朧としたままベランダを這って行き、通りに向かってゲロの雨を降らした。胃に入っている量より、吐いた量の方が多いのではないかと思われるくらい、これでもかっ、これでもかっ、と滅茶苦茶吐いた。
僕は酔っ払ったからだとばかり思っていて、ゴータマと奥さんに目が開かないままの顔で謝ってばかりいたが、それから介抱されて部屋の中で寝かされてたみたいだった。しかしこの時は醜態を演じたと思っていただけだったが、あとから考えてみると、あんなにべろんべろんになるほど飲んではいなかったはずだ。思いっきり吐いたのが良かったのかもしれない。それで完全には眠り込まなかった。体調を崩していたことが、この時は幸いしたみたいだ。
しかしまだこの時点では疑ってもいなかったので、夜明け前に目が醒めると、頻りに恐縮して謝るばかりで、それからホテルに戻ったのだった。
3月28日 晴 カジュラーホー
朝早くゴータマの家の前で休憩していると、バス停の方角から若い日本人が歩いて来た。千葉の銀孫クンという十七歳の高校生で、春休みが過ぎても一人でインドを旅するんだと言っている。なんでも高校が限りなくつまらないそうだ。
「次はどこへ行くんですか?」
と訊いてきたので、アーグラーヘ行くつもりだと答えると、
「それなら一緒に行きませんか?」
そうすることにした。
それからゴータマが、
「今日はどこ行くの?」
としつこく訊いてきたから、あっちの方の景色が綺麗だから、レンタサイクルで行ってみる、と東の山の方を指差してみせると、
「一人で行くのは危ないから、Rについて行かせるよ」
と言って聞かない。Rが来るまではと、バイクの後ろに乗せてもらい、東群寺院まで行って案内してもらった。頻りに「明日は滝へ行こう」と繰り返す。頭に笠をかぶった台湾の老人クラブの団体様みたいなのが来ていたが、そっちは無視して、イタリア人のアベックがいたので、ゴータマはイタリア語で話しかけていた。何だかイタリア人のカップルは彼を避けているような感じだった。
寺院群を見終わると、ゴータマはそのまま僕をRの家まで連れて行った。Rは起きたばかりで、待たされている間は暇潰しに、家に遊びに来ていたガキどもと遊んで過ごした。ふと見ると、白い牛が出入り口に立ちはだかって部屋の中を覗き込んでいた。ギョッとしたものの、同時に感動してしまい、急いでその光景をカメラに収めた。
それからホテルに戻って支度をしてから、隣のレンタサイクル屋で自転車を借り、Rと二人で田舎道を走って東に見えている小山へと向かった。村を離れると本当に静かなもので、だだっ広い草原に山羊飼いの子供が山羊を連れていたりするだけで、のどかな風景がどこまでも続いている。山羊以外にも、牛、水牛、馬、野豚、犬、猫、リス、鳥、コウモリ、何でもいる。しかしやっぱり暑かった。
自転車が無理になってくると、歩いて灌木の間を縫って進み、すぐにばてては木陰を見つけて一服した。岩山は上の方が急すぎて登れそうもなかったので、向こう側が見渡せる所まで行って、しばらく休んでから引き返した。帰りは暑さでへとへとになってしまっていて、小さな物陰を見つけてはすぐに休憩を繰り返していた。
帰ってホテルの部屋でしばらくダウンしてから、『うまいっす大衆食堂』という店へ行った。この店の主は大の日本人びいきで、日本料理(らしき物)ばかりが置いてあり、日本人の旅行者からも「おやっさん」と呼ばれて慕われているらしい。実はこのおやっさんのお蔭で、僕はインドで出くわした最強の悪魔どもの毒牙から逃れることができたのだった。
『親子丼』を注文してみたが、出て来たものは丼ではなく平皿に盛られていた。それをまたフォークで食べると、ちっとも親子丼という感じがしない。
おやっさんはやがて大学ノートを二冊持って来て、それを拡げて僕に見せた。暇つぶしにそれを眺めていたが、ここに来た旅行者たちが書き残していったメモだった。この店が日本人向けだということもあり、客がほとんど日本人なので、日本人が日本語で書いたものがほとんどだった。
だいたいこの店を誉めているか、観光にいい場所はどこかということばかりで、大して面白いことも書かれてはいない。Rが痺れを切らして店まで上がって来て、僕の隣に腰を下ろした。勘定を済ませ、残りの飲み物をゆるゆると飲みながら、そろそろ出ようかと思っていると、おやっさんがやって来て、ノートのあるページをそっと指差してみせた。おやっさんはニコッとすると、そのまま奥に引っ込んでしまったが、そこを見てみると、「ゴータマさんには気をつけろという噂があります」という日本語のメモがあった。
(ははあ)この時初めて僕の頭に疑惑が浮かんだのだった。これまでのことを疑って思い返してみれば、全てが怪しく思えてくる。昨晩の泥酔事件も、結局は眠り薬で眠らされたのだろう。そう考えてみれば、お粥が怪しいと思った。あれは僕しか食べてなかったし、あれを食べたあとに急にダウンしてしまったのだ。
ポケットに入れてあった財布の中身は減ってはいなかったと思うが、僕は物を持ち歩くのが嫌いな質で、なるべく手ぶらで歩きたいから、貴重品などもいつもホテルの部屋に置いて出かけている。今もそうだが、昨晩もインドルピーを少し持っていただけだ。あれだけ手の込んだことをする詐欺師なら、当然インドルピーなど目当てにはしていないはずで、僕の場合はたまたま大金を持ち歩かないので助かったということなのかもしれない。うーむ、今回の敵は強敵なのかもしれん。
Rは日本語がわかるが、字までは読めない。僕はおやっさんに礼を言うと、Rとは何気ない話をしながら食堂から出た。
外に出ると、Dとひょうきんゴリラまで僕を待ち伏せしていた。益々怪しい。僕は鎌を掛けてみようと思い、三人に「来い」と言うと、ホテルの方へ引き返し始めた。
「ここで待ってろ」
と、三人を広場で待たせて、僕はホテルの部屋からもう暑くて不要になったセーターと、意味もなく持って来ていたバンダナを二枚袋に入れ、すぐに詐欺師の手下三人の待つ広場に引き返した。試しに、
「プレゼントをあげよう」
と言って袋の中身を取り出そうとすると、途端にRが慌てだし、
「明日」
と言った。周りで人が見ていないかと気にしているが、それはプレゼントを受け取らないためのポーズなのかもしれない。こいつが僕にやたらにつきまとってくるのは、親玉からの指令で、日本人に日本語で親切にしておけということなのだろう。まだ肝心の金を奪ってはいないのに、この地から去られては今までの出資と労力が水の泡だ。
「明日はどこにいるかわからないよ」
と僕が言うと、ひょうきんゴリラが目先の外国製品に釣られて、
「じゃあ今」
と嬉しそうな顔をして手を出した。僕は、
「袋は使うから中身だけ」
と言って、また土産を取り出そうとした。Rはまた慌てて、
「それは良くない。やっぱり明日もらうね」
と言った。
「それじゃあ」
と僕は、
「山登りで疲れたから、今日はゴータマさんのとこには行かないよ。ホテルに帰って寝るわ」
と言ってやった。Rはまたまた慌てだし、
「明日何時に会う? 明日何時に会う?」
としつこく訊いてきた。やはり臭いなと思った。土産屋の店員をしているのならともかく、こんなに働きもしないで、頼みもしないのに見ず知らずの外国人観光客の世話ばかり焼こうとするのもおかしな話だ。
昼間に山へ行った時には、いきなりRが、
「神に誓って悪いことはしない」
と自ら言い出したものだが、その時こそいきなり何を言い出すのだろう程度に思っていたが、今思えば非常に怪しい。なんでそんなについて来るのかと尋ねると、僕のことを「日本語の先生だから」と言っていたが、そのくせ文字は少しも覚えようとはしない。そのことが今日のおやっさんの無言の忠告を見破ることができなかったという、この詐欺グループの手落ちとなったのだが……。
やはり目当ては外国人の懐に違いなかろう。それならそれでこっちだってじっとやられはしないぜ。あのお釈迦様の名前を騙る悪党ゴータマは確かに大物知能犯に違いない。だが、これまで小者どもにチクチクとやられてきた借りはこの最大の敵にこそのしをつけて返してやろう。今度こそ日本代表の面子にかけて、連敗記録に終止符を打つ時が来た! 待ってろよ、ペテン師どもめ、いーっひっひっひぃー。
3月29日 晴時々曇俄雨 カジュラーホー
今朝は八時過ぎにホテル・サンセット・ビューまで歩いて行った。思い立ったらすぐにもこの地から脱出しようと考えたからで、今日にもアーグラーヘ行こうと日本人高校生銀孫クンをホテルまで誘いに行ったのだ。フロントでボーイに、
「日本人の銀孫っているか?」
と訊くと、
「いるよ」
と答えたので、
「呼んで来てくれ」
と頼むと、ボーイは階段を上がって行ったがまた戻って来て、
「まだ寝てるみたいだよ」
と言った。
「緊急事態だから今すぐ起こして来てくれ」
と言って、僕は紙切れに日本語で走り書きをし、ボーイに手渡した。
しばらく待っていると、やがて銀孫クンが寝ぼけ眼で階段を下りて来た。僕は決して身勝手でこういうことを仕出かしたわけではない。実は銀孫クンも別のインド人につきまとわれているということだったので、被害を未然に防ごうと思ってしたことだったのだが、時既に遅しだったようだ。
昨夜、もう既に絵を900ルピーで買わされたと言っている。その絵を見せてもらったが、小さなボール紙に描かれた見るもお粗末な代物だった。ボられたんだと言ってやったが、強がっているのか、銀孫クンは、
「この絵が気に入ったから」
と繰り返した。まあ、絵の値段などというものは買い手の主観が全てなのだから、本人がそう思っているのならそれでいいか。お金持ちのおぼっちゃまが貧乏旅行のスタイルに憧れて、リュックを背負い、安宿に泊まっているだけなのかもしれない。いずれにせよカモってきた相手が小者で幸いだった。
そのまま銀孫クンを誘って『うまいっす』まで行き、朝めしにした。『みそラーメン』と何かを注文したが、このラーメン、日本のインスタントラーメンに刻んだタマネギをごっそり放り込んであるだけだったが、この店の日本料理で日本と同じ品と言えば、唯一このインスタントラーメンだけだったかもしれない。
この店に来て感激した日本人旅行者が、日本に戻ってから律儀に送り届けて来た食材などを中心に、この店のメニューは賄われているみたいで、それ故に、手を掛ければ掛けるほど元祖から遠ざかり、遂にはインド風になってしまうみたいだ。翌朝もこの店に来て、『広島風お好み焼き』を注文してみたが、丸い卵焼き二枚にチョーミンがどっさり挟まっていた。その上からケチャップをかけようとするからたまらない。
僕はおやっさんに頼んで例のノートを持って来てもらうと、銀孫クンに見せた。悪魔どもには読むことのできない文字で書かれた秘密の指南書だ。
銀孫クンがノートを読んでいる間、僕はおやっさんからヒンドゥ語の特訓を受けた。特訓とは言っても、旅行に最も役立つ言い回しと、あとは数字だけだ。僕はおやっさんの口にする発音とその意味をメモしながら、これは使える言葉ばかりだ、と必死に覚えようとしたが、今手元にあるメモを見返してみると、結局使った言葉は「カムカロウ(負けてくれ)」の一語だけだったことがわかる。残りは一つも覚えていない。
それでもこのインドの金言『カムカロウ』は、北インドの買い物に限ればこのあと何度も活躍することとなったのである。「エクスペンシブ」とか「カム・ダウン」とか言っても駄目なものも、「カムカロウ」と言えばたちどころに店員の顔がニヤけ、「ヒンディができるのか。よし、負けよう」と来るから嬉しい。
こちらが使えるヒンドゥ語と言えば、この一語くらいなものだが、「ヒンドゥ語ができるのか」と言われては、こっちの顔までニヤけてしまう。例えば日本に来た外国人が、英語と母国語以外は『負けてくれ』という日本語しか喋らなかったとすれば、一体どういう印象を持たれるのだろう? 「マケテクダサーイ!」「マケテクダサーイ!」
あとは数字もちっとも覚えられなかった。僕はよくよく記憶力が悪いのか。加えて物忘れもひどくなってきているから、今や僕の脳からは記憶量がどんどん減少していくのみである。最近手書きで文字を書く機会が少なくなり、たまーに手紙なんか書く羽目になった時など、ほんとに漢字が出て来ない。この文章だってパソコンで打ってるからワープロソフトが勝手に漢字に変換してくれ、恥をかかずに済んでいるといったところだ。
「というわけだ」
と僕は銀孫クンに言った。
「俺も詐欺師につきまとわれてんだ」
銀孫クンは納得したようだったが、
「だから今日にもカジュラーホーから脱出しようじゃないか」
と提案すると、実はこの銀孫クン、母親の知り合いでデリーに在住している人に列車の乗車券を全て取ってもらっているから、次は四月一日ジャンシー発アーグラー行きのA/C一等寝台を予約していて、それまで待たなければならないそうだ。明日、明後日はこのカジュラーホーにいる予定だと言う。ジャンシーという所は見所は何もないみたいだが、それでもここにいるよりはジャンシーで泊まった方がまだましだ、と僕は言った。
「どっちにしたって俺は早めに出るよ」
それを聞いて、銀孫クンは動揺したようだった。
「じゃあ明日ここを出て、列車が出るまでジャンシーで二泊待とうよ」
というわけで、そうすることになった。
銀孫クンはアーグラーを恐れているようだった。と言うのも、ガイドブックでは、デリー、アーグラー、ジャイプルの三都市を、『インドのゴールデン・トライアングル』と呼んでいるが、実際のところ、初めてインドに来てデリーから入った日本人旅行者はこのゴールデン・トライアングルで散々な目に遭い、『デリー怖い、アーグラーもっと怖い、ジャイプルもっともっと怖い』となり、「こんな国、二度と来るもんか!」と帰りの空港で捨て台詞を吐き、インド嫌いになってしまうらしい。
そう言えば、バラナシで出会った大学生たち(草上、五谷、兎戸)も、口を揃えてこの三都市の悪口を並べ立てていた。彼らにしてみれば、『ゴールデン・トライアングル』=『魔のトライアングル』に他ならないそうだ。
日本人高校生銀孫クンも、デリー在住の母親の知り合いに全て面倒見てもらっているから、デリーこそ何ともないようだが、この魔のトライアングルにまつわる悪い噂をどこかで耳にして、恐怖心が先走り、いざ一人旅ではまずアーグラーをすっ飛ばしてこのカジュラーホーまでやって来ているみたいだった。しかし恐怖心こそ恐怖である。行ってみればどうってことはないのだ。
店を出ると、案の定、チンピラのDが見張りとして出張して来ていた。適当にあしらって、銀孫クンと二人で東群寺院の方へぶらぶらと歩いて行ったが、ここでもたちまちガキどもが寄って来て、ガイドしてやると言ってどこまでもくっついて来た。二言目には「友達だ、友達だ」とぬかしやがる。やがて帰り途になると、途中で「金くれ」とあからさまに言い出した。ゴータマが詐欺師だと知ってからは、僕はずっと虫の居所が悪かったので、少し教育してやるかと、
「金をやると縁が切れるんだ。そんなの友達じゃない」
とガキどもに説教してやったが、金がもらえないとわかると、ガキどもは唾を吐いてさっさとどこかへ消えて行った。
そのまま歩いていると、学校が終わったみたいで、向こうから子供たちがぞろぞろと歩いて来るのに出くわした。(さっきのガキどもは学校をサボっているのだ)近くまで来ると、この下校途中のガキどもは笑顔で口々に、「ハロー・ルピー」と声をかけてくる。みんながみんなそうだ。「やあ、お金」だと? 俺は金じゃないぞ! 呆れ果てて返事する気にもなれなかった。
更に途中で戸のない家の前によちよち歩きの幼児がいたので、これはいい場面だ、写真に撮っとこうと思ってシャッターを切ると、幼児の母親らしきオバサンが、「金もらって来い、金もらって来い」と頻りに我が子をせきたてているではないか。赤子は理由も知らずに片手を伸ばしたままよちよちと近づいて来た。仕方なくそのちっちゃな掌に1ルピー握らせた。
ほんとにこの村は駄目だと思った。もはやこれは「ツーリストずれしてる」なんてレベルではない。乞食でもないのに、物心つかぬうちから、子供に外人を見たら金を要求するように躾ける。この人口の少ない村のほとんどの子供がそうなのだ。
大人になったらなったで、観光客からいかにして金を巻き上げるかということに明け暮れている。狭い村の村人同士がちっとも信用し合っていない。Aの所へ行けばBとCの陰口を聞かされ、Bの所へ行けばCとAの陰口を聞かされ、Cの所へ行けばAとBの陰口を聞かされる。同じ村人をけなす言葉はいくらでも聞かされたが、誉め言葉は一言も聞いたことがない。ほとんど観光のみで経済が成り立っているにしても、ほんとに悲しい村だ。だから『うまいっす』のおやっさんのような性格の人は、この村にいると日本人観光客と親戚以外とは口をきかなくなってしまうのだろう。
世界文化遺産に指定されたことが、この人心の荒廃に拍車をかけているようにも思えてくる。人の心を退廃させてまで遺跡を守るなんて、一体古代の遺物にそこまで価値があるのだろうか? そうは言ってみても、この僕も村荒らしの一人であるには違いないのだが。ううーむ……
それからヨギ・ロッジの屋上レストランに戻って紅茶を飲んで過ごした。ここのはミルクティーではないので、ポットから何杯も注いでは飲んだ。なんだか体がだるい。直射日光に当たり過ぎたせいだろうか。
それから西群寺院前の屋外レストランで昼めしを食っていると、またRがやって来た。野良犬に餌をちびちびと投げたりしてずっと彼を無視していると、
「晩に来て」
とだけ言ってとうとう去って行った。偽社長はどうやら村の要所々々に手下どもを配置して見張らせているようだ。そこでわざと路地裏を通って行ったのだが、なぜかそこで偽仏陀本人に出くわしてしまった。
「こんなとこで何してるの?」
悪魔の心を持つ偽仏は陽気な口調で訊いてきた。あんたこそこんな何もない路地裏で何してるんだい、社長さんよぉ、とよっぽど訊き返してやりたかったが、何も気づいていないふりをして、いつもの調子で適当にあしらった。恐らく、Rが帰ってから様子がおかしいと報告したのだろう。そこで親玉グレーター・デーモンのご出馬となったに違いない。
お釈迦様の名を騙る不届き者め、今に天罰が下るぞ。僕は銀孫クンと示し合わせ、明朝九時に『うまいっす』で落ち合うことにすると、体が益々だるくなり、咳も出てきたので、明るいうちにホテルに引き返した。
夕暮れ時の屋上レストランで軽く夕食をとっていると、咳をしている僕を見て、ボーイが、
「どうしたんだ? 風邪ひいたのか?」
と訊いてきた。
「そうみたい」
「待ってろ。マッサージ師を呼んで来てやる。マッサージすれば良くなるぞ」
と言って、まだ頼んでもいないのに階段を下りて行った。少しして屋上に上がって来たのは何のことはない、別のボーイだった。こいつはよく僕の所に来ては、「煙草買って来てやろう」とか、「何かいる物はないか、買って来てやるぞ」などと言っては駄賃や煙草の分け前をせびる、便利だがはっきり言ってありがた迷惑な奴だった。
「もしかしてあんたがマッサージ師?」
「そうだよ」
うううう、嫌な予感……。
ボーイは早速僕の脚を揉み始めた。揉んでいると言うよりは、つかんでいると言った方が正確だろう。ツボもへったくれもない。足の筋を違えてしまいそうだ。それでも真剣そのもののしたり顔で『超マッサージ』をし続けるのだ。
このお節介ボーイ、三、四回も脚の筋肉やら骨やらをつかむと、その度に僕の顔を見上げて、「グッド?」と訊く。まさか「バッド」とは言えない日本人、僕はその度にしかめっ面をしたまま黙って頷いてみせた。おーい、せめてこの表情から何かを読み取ってくれよ。
しかし天に我が意が通じたのか、恐怖の荒療治はあっと言う間に終わった。
「もうおしまい?」
「おしまい。グッド?」
にわかマッサージ師はよほど腕に覚えがあるのか、またもや僕の顔を見上げて自信ありげにニヤッと笑ってみせた。
「これで風邪も良くなるよ。はい、マッサージ代、50ルピー」
「なんだって! 高すぎるぞ。バッドだ、バッド、バァーッド!」
「じゃあ、40ルピーに負けとくよ。友達だもんなあ」
くそーぅ、犬にでも食われちまえ! だがこのいかさまマッサージ師の『超マッサージ』のお蔭で、僕は早い時間からぐっすりと不貞寝できた。翌朝には風邪がすっかり治っていたから不思議なものだ。
3月30日 晴 カジュラーホー 〜 ジャンシー
朝『うまいっす』へ行くと、銀孫クンもやって来た。日本人も他にやって来て、話をしたが、みんなデリーとアーグラーではひどい目に遭ったと言っていた。それを聞いた銀孫クンは益々怖じ気づいたようだった。頻りに「怖い、怖い」を連発した。
そのうち韓国人の女子大生がやって来て、僕を見ると嬉しそうに朝鮮語でペラペラと話しかけてきた。僕は朝鮮語がわからないので呆気に取られて彼女を見ていると、待ち合わせしていたらしい日本人の大学生が、
「この人は日本人だよ。韓国人じゃない」
と、ぎこちない英語で説明したので、やっとわかったのか、照れながら英語に変えた。要するにこれから行く場所への行き方を教えて欲しいと言っているのだった。その子から韓国のガイドブックを見せてもらったが、日本のよりはたくさんの場所を紹介しているみたいで、行先の選択の幅が広い。デザインというものはほとんど考えていないが、日本のガイドブックよりはガイドブック然としている。日本のガイドブックは写真が多くて読み物としては余所の物より優れているとは思うが、みんなが行くところばかり紹介してあるから、ガイドブックに合わせて旅行すれば、そこには必ず日本人がいる。
おやっさんは手が空いたところで朝めしを食い始めた。チャパティとダルだけの典型的なインド人の朝めしだ。日本ならば納豆とご飯といったところか。おやっさんは僕に食えと言って、チャパティを分けてくれた。ううううう、ありがた迷惑……。今散々飲み食いしたところだし、よりによってインド料理の中で特に苦手とする二品をご馳走してくれるとは……。
しかしいらないと断れるはずがない日本人。僕は「旨い、旨い」と嘘を言いながら、チャパティをダルに浸して口の中に押し込んだが、これが、うーーーマズイ! どころではなく、インド人であるおやっさんの食い物だから、辛いの何の、今すぐにでも口から火が噴けそうだ。そのあと僕はコーラをがぶ飲みした。
勘定を払おうとすると、かなり飲み食いしたのに、金はいらない、とおやっさんは首を振った。これでお別れだから、「奢りだ」と言う。んー、痩せてはいるが、さすがに太っ腹のおやじだ。僕には悪魔どもの魔手から救われた恩もあるし、何かお返しをしたいと思い、おやっさんの孫にセーターをあげた。この最も暑い季節(インドは四月が最も暑い時期だそうだ)には邪魔になるだけの無用の長物であるばかりでなく、このセーターは一旦は詐欺師の子分のRにやろうとして取りやめたという曰く付きの代物だったので、少し気が引けたが、それでもおやっさんはとても喜んでくれた。当の孫はちっとも喜んではいなかったけれど。それにしても僕にとっては、抱き合って別れを惜しんだのは、インドではあとにも先にもこのおやっさん一人だけだった。
バス乗り場へ向かう道には、なんとまたもやゴータマが待ち伏せしていた。しかし旅支度で歩いている僕の姿を見て、とうとう諦めたようだった。
「もう行っちゃうの? そう」
と言って、何気ないふりを装っている。やはりしたたか者だ。たとえ計画が失敗しても、決して尻尾は出さない。並の詐欺師とは違うなあと思った。遂に僕は最悪の詐欺師の魔手から逃れることができたのだった。
しかし思い返してみると、眠り薬で眠らされた以外は何も被害に遭ってはいない。ご馳走してもらい、観光地を案内してもらい、下痢まで治してもらい、おまけにすやすやと眠らせてもらった。意図したわけではないのだが、結果的には詐欺師たちから美味しいとこだけ頂いて、最後は後足で砂をかけるようにして去って来たような気もする。そう考えると、何だか悪党どもに対してすまないような気もしてきた。
とにかくバスは悪魔の棲みかカジュラーホーをあとにして走り出したのだ。めでたしめでたしということにしておこうではないか。
バスは停まる度にだんだん混んできた。ふと見ると、横でガンジーみたいなお爺さんが立ちっぱなしでいた。どうやらインドでは老人に席を譲るという習慣はないようだ。僕は気紛れに、「ここに座んなさい」と膝の上に座らせてあげたのは良かったのだが、しかしこれが辛かった。爺さん、喜びながらも調子に乗って、僕の腿をクッション代わりに使う。しかしバスはなかなかジャンシーに着かない。
インドではずっと距離感覚がなかった。地図を見たりしても、インド全体と比べて見るものだから、近くと思い込みがちになるが、最寄り駅までバスで行くということで、「ちょっとそこまで」というつもりで考えてしまっていたのが、実際のところ、今地図で距離を測ってみると、最寄り駅までと思っていたカジュラーホー
〜 ジャンシー間の距離は、横浜 〜 名古屋間の距離に匹敵する。時間にしても五、六時間は乗っていただろう。どうやら時間感覚まで麻痺してしまっていたようだ。
そのため、僕の脚まで爺さんの尻の骨に血液の循環を遮られ麻痺してしまった。たまらないので爺さんの重心をずらそうとすると、その度に爺さんは人間クッションに深々と座り直し、またもや同じ部分を痩せて飛び出した尻の骨で集中攻撃するのだった。
うーう……、慣れないことなどするものではない。日本にいる時は他人に座席を譲りなどこれっぽっちもしない人間が、分不相応の親切心を起こしたがためにこういう羽目に陥るのだ。僕はとうとう耐え切れなくなり、爺さんをどけて立ち上がった。こうして立ってる方がよっぽど楽だ。
こっちが座らせといて、ガンジー爺さんに今さら「やっぱり立ってろ、じじい」とは言えないから、席をそのまま譲った。前に座っているおじさんが振り返って見ていたが、感心したような顔つきで僕に微笑みかけた。その習慣がないにしても、やっぱりインドでもお年寄りに席を譲るというのはいいことに見えるのだねえ。しかし脚が助かって実はほっとしたというのが僕の正直な心境だ。
するとすぐにバスが停まり、今度は乗客がどっと降り、空席がいっぱいできた。やはり人には親切にしておくものだ。こうやって神のご加護がたまにはある。前のおじさんがまた僕の方を振り返り、「座れ、座れ」と叫びながら、近くの空いている席を頻りに指差している。慌てなくたって席はもうたくさん空いてるじゃないか。
ようやくジャンシーに着いたが、ほんとに何もない所だった。泊まる所もわからないので、客引きを見つけ、
「この近くのホテル」
と言って連れて行ってもらった。ダブルルームの安いのでも200ルピーするがしょうがない。部屋もあまり良くない。銀孫クンがいるからシェアできて半額で済むが、それにしてもここで二泊もして列車を待つのかと思うと、一日損するような気になった。
行くとこもないので、まだ明るいうちから晩めしにすることにして、庭のレストランへ行って注文した。時間が余ってるから今晩は豪勢に行こうと、タンドゥリー・チキンとか手間のかかる物を注文したにしても、出て来るのがあまりにも遅すぎる。
インドのレストランは概して出て来るのが遅い。ターリーは別として、注文して十五分、二十分で料理が出て来たらまずラッキーな方だ。ミルクシェイク一つに三十分待たされるなんてざらにある。最初の頃は、忘れてるんじゃないかと、よく確認していたものだが、そうではなくて、早く作ろうなんて思わないだけのようだ。どこでもお喋りしながらのろのろ料理している。それでもそんなものかと油断していると、たまに本当に注文を忘れていることもあって、そんな時は永久に注文した料理がやって来ないことになる。
それにしてもここはあまりにも遅すぎる。これはひょっとして鶏を買い付けに行くところから始めているのではないかとも思えてきたりした。
「今作ってるとこだ」
とボーイが言うから、しょうがないのでコーラでも飲んで待とうと注文したが、これもボーイは行ったっきり戻らない。調理場の方へ行って、
「コーラはどうなったんだ?」
と催促すると、
「コーラね」
と言って、平然と冷蔵庫から取り出して栓を抜いている。結局ボーイは調理場まで歩いて戻るうちに注文を忘れてしまったみたいだ。僕と銀孫クンは待っている間に群がり寄って来る蚊どもと格闘し、手足顔を散々食われた。やっと料理が出て来た頃には日も暮れて、ほんとに晩めしになってしまっていた。これがインドなのだ。
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