2.聖地は俗地! 聖なる所に詐欺師あり


    3月22日 晴 ガヤー 〜 ブッダ・ガヤー

 朝、Mにバラナシまでの切符を120ルピーで取ってきてもらった。それからブッダ・ガヤーまで行くのなら、200ルピーでサイクル・リクシャーを雇わないかと言うのでそうすることにした。
 朝めしを食いながら待っていると、間もなくCというおっさんがやって来た。このおっさん、「イスラム教徒で子供が四人もいるのだ」といきなり憐れみを請うような言い方をする。
 リクシャーにはオート・リクシャー(オートバイで客車を引っ張る)とサイクル・リクシャー(自転車で客車を引っ張る)がある。カルカッタには人力車もある。引っ張る運転手のことをリクシャー・ワーラーという。乗客である僕が後ろに座り、このリクシャー・ワーラーのおっさんCが前で自転車をこいで行くわけだ。
 Cは自転車をこぎながらも盛んに身の上話をした。特に『子供が四人』を何度も強調した。だからと言って僕の知ったことか。しかしのちにリクシャーの相場がわかってきた頃、チャーターとはいえ、この200ルピーがぼったくりであることも判明した。
 イスラム教徒だと言うから、走っている途中で午になった時、僕は、
「お祈りしなくていいのか? こっちは待っててやっても構わないぞ」
 とCに訊いてみたが、
「祈りの時間が人によって違うんだ」
 と平気な顔してリクシャーを走らせている。
 田舎道の途中で茶店があったので休憩することにした。インドの紅茶は、茶を入れて、砂糖を入れて、ミルクを入れて飲むというやり方は稀で、鍋の中に水とお茶っ葉と砂糖とミルク(たいてい山羊の)をいっしょくたにして煮込んで作る。どっちにしたってミルクティーには違いないのだが、たいていこのチャーイは甘すぎて、僕はあんまりこればかり飲んでいることはできなかった。
 その店の縁台には、サングラスをかけて、このクソ暑いのに黒い皮ジャンを着た、見るからに悪趣味のおっさんがチャーイを飲んでいた。このおっさん(自分のことを「Kさん」と「さん」付けで呼んでいた)が日本語で僕に話しかけてきた。かなり流暢な日本語だ。
「良かったらブッダ・ガヤーを案内しましょう。もし良かったら」
 と謙虚な口ぶりで言う。
「ガイドなんかいりませんよ」
 と僕が答えると、
「ガイドじゃなくて、いろいろ見せてあげるだけ。サイクル・リクシャーではスジャータ村に行けないね。私のバイクで連れてってあげましょう。私の店でお土産だけ買ってくれればいい」
 そう言うので、間抜けな僕は何も考えずにOKしてしまった。これによって僕はインド一周旅行中最大の散財を、この釈迦が悟りを開いた土地で強いられることとなるのだ。ああ、日本語でたった一言、「結構です」と断っとけば良かった、くくくう。
 あとで思い返せば、ホテルのマネジャーMから始まる数珠つなぎ式詐欺師一味だったのだ。Cが途中で女房に電話するとか言って電話していたが、実はこの悪徳詐欺師に連絡して、ここでカモを待ち伏せようと示し合わせていたのだった。こののちカジュラーホーという所でこの悪徳商法詐欺師を上回る知能犯詐欺師に僕は危うく命を奪われそうになるが、そいつも日本語ペラペラだった。
 かつて上海でも卑しいたかり中国人に出会ったことがあるが、どこへ行っても言えることは、外国へ行って向こうから日本語で話しかけてくる奴がいたら、『ひどい目に遭いたくなければ無視しろ』僕が経験で得た実用的金言だ。いわゆる日本人びいきも中にはいて、全てがそうではなく、親切心だけで話しかけてくれる人もいるにはいるのだが、その確率の悪さから言って、軽く言葉を交わしてからすぐにバイバイするのが無難だろう。外国で外国人の口から日本語が聞けたという、ただそれだけのことで感激してしまってはならない。

 僕は悪徳商法詐欺師Kのバイクの後ろに乗り換えた。Cはチャリンコを必死にこぎながらあとからついて来る。間もなくブッダ・ガヤーに着いた。ここは仏教最大の聖地で、マボーティ寺院という大きな寺を中心に、各仏教国がそれぞれ寺を建てている。それにしてもインドでは仏教徒は非常に少数なので、ここもあまり人がいなくて静かだった。
 シンガポールの空港で乗り継ぎ便を待っている時に、ベンチで座禅を組んでいたお坊さんを見かけたが、その人が偶然寺の一つにいて、仏像を前にしてひれ伏したりして拝んでいた。空港で見かけた時、あまりにも目が優しすぎるのではっきりとその顔が僕の頭の中に印象づいていたため、紛れもなくあの人だとすぐにわかったのだが、遠くから巡礼に来たとはいえ、最初に空港で僕の目を牽いたあの強い第一印象とは違い、そのひれ伏す姿を見ていると、なぜか僕は興醒めしてしまった。
 マボーティー寺院をKに案内してもらったが、
「ここが日本の○サハラさんの上がったとこ。だから入れなくなってるね」
 なにもそんな紹介の仕方をしなくたっていいじゃないか。その下で釈迦が悟りを開いて仏陀となった菩提樹の木を柵で囲っているだけなのだが、某日本人が縁石の上に乗っかって汚したから、柵の中に入る入口二つのうちの一つに鍵が掛けられ、出入り禁止になっているだけのことだ。
「この菩提樹の実を拾って百八個で数珠作るね」
 Kはそう言うと、足元に落ちている木の実を拾ってみせた。
 仏足石なるモノもあったが、故ジャイアント馬場の足形より遥かにでかそうだ。釈迦とは大巨人だったのだろうか? それともプロレスラー? お相撲さん? そんなことを言ってるとバチが当たるかもしれないからよそう。
 釈迦が歩いた跡というのが点々と続いているのもあった。
「この足跡の上を歩いて行くと、悟りが開けるね」
 Kが神妙な顔つきで言った。見ると、日陰になっている足跡の終点には、乞食が死んだように身動き一つせず地べたに寝っ転がっていた。あれが最終的に解脱した姿だとでも言うのか?
「あの人はもう悟りが開けたんですか?」
 寝そべっている乞食を指差して訊いてみたが、Kには聞こえなかったのか、聞こえないふりをしてさっさと先へ進んで行った。
 他の寺も案内されたが、どこかの日本の宗教団体が建てた金ぴかの大仏だとか、ろくな見所もなかった。外国にまで行ってでかい大仏をおっ建て、「俺たちは金持ちだぞー」と日本人の馬鹿さ加減でも自慢したいのか。まさに恥さらし以外の何物でもなかろう。
 絵葉書どうだと売りに来る奴がいた。そろそろ日本の友人に絵葉書でも出そうと思っていたので、
「いくらだ?」
 と訊くと、
「40ルピー」
「高いんじゃないの」
 するとKが、
「こんなのは二つで50ルピー」
 と言って売り子から二束引ったくって僕に渡した。なるほどそういう買い方をするのかと思って金を払った。また別の絵葉書売りが寄って来たが、
「もう買った」
 と言ってそいつに絵葉書の束を見せてさっさと先へ行った。
 Kが神聖な池(なのだそうだ)で魚を放せと言う。ガキに手渡されたビニール袋に入った小魚を池に放すと、Kがそれを写真に撮った。それでおしまい。それで金を取られた。馬鹿にすんな! 魚を逃がしてなんで金取られるんだ! だがこの時は、まだ僕は無知な日本人観光客として穏健でいられた。池から引き返すと、さっきの売りそびれた方の絵葉書売りがまた来たので、
「いらないったら」
 と追っ払おうとすると、
「10ルピー」
 と言って絵葉書の束を差し出した。えっ、安いじゃないか。絵葉書を確かめようとするとKが、
「早く次行きましょう。時間がなくなる」
 と言ってさっさと先へ進んで行く。僕はまだこの時点では騙されているとは思ってもいなかったのだが、さすがにこの時、少し疑惑の芽が吹き始めていた。
 それからネーランジャラー川(メモでもしてないととても覚えていられない名前だ)をバイクで渡り、(建設中の橋はあったがそれは使わず、乾季で水のなくなった砂ばかりの川底を走った)スジャータ村(ほんとはセーナー村らしい。釈迦がバラモンの苦行を抜けて腹ぺこでここに辿り着いた時、スジャータから乳粥を与えられたのでそう呼ばれているみたいだ)にはすぐに着いたが、しかしここも何もない、インドの田舎ならどこにでもある寒村だ。
 両脚がない子供が手で這っていたが、Kが「金をやろう、金をやろう」と何度も言いながら、僕に見せつけるようにしてその子供の手に無理やり小銭を握らせようとした。やるんだったら、いつまでももったいつけてないでさっさとやれよ。子供は両手で歩かなければならないから、握らされた金をすぐ放してしまう。その度にKは一ルピー硬貨を子供の掌に握らせようとする。うんざりしたのか、とうとう子供は逃げてった。
 結局ブッダ・ガヤーは何時間も見物していられるような所ではなかった。

 そのあとKの土産屋へと連れて行かれたのだが、イスラム教徒のリクシャー・ワーラーCもいて、三人でKが出したビールを飲んだ。
「イスラム教徒は酒飲んじゃいけないんだろ?」
 と僕が訊くと、Cは、
「飲んじゃいけないけど、たまにだったらいいよ」
 と平気な顔でビールをがぶがぶ飲んでいる。たまに飲むんだったら禁酒になってないじゃないか、と思いながらも、関係のないことだからそれ以上追及しなかったが、今度は僕が煙草を吸っているのを見て、
「俺にも一本くれ」
 と言い出した。
「煙草もいいのか? イスラム教は禁酒禁煙だって聞いてるけど」
「煙草もたまには吸ってもいいんだ」
 また身勝手な戒律を作って僕の煙草を一本抜き取ると吸い始めた。全く呆れた野郎だ。
 それから出されたコーラを飲んでると、とうとうKが土産買ってくれと言い出した。
「じゃあ、買いましょう」
 ろくな物置いてなかったが、値段を聞いてぶったまげた。100ドルとか200ドルとか平気で言っている。ルピーではない、米ドルだ。
「目茶苦茶高いね。ルピーで売らないの?」
「ここはいい物しか置いてないから」
 ああ、この地獄に墜ちるに違いない聖地の悪徳詐欺師に、これまで何人のお人好し日本人観光客がカモられてきたのだろうか……。
「俺は金をあまり持ってないよ。一番安いのは?」
「数珠ね。お釈迦さんが悟り開いた菩提樹の実で作った数珠。百八個あるのが本物の数珠ね。他のは贋物」
 いくらだったか今では忘れてしまったが、それでも法外な値段を言っている。
「あとは仏像」
 それでも一つ40ドルとか50ドルとか目茶苦茶言っている。
「いいものだから」
 そんな見え透いた嘘に引っ掛かるとでも思ってやがんのか!
「菩提樹の実って確か、寺に落ちてるのを只で拾って来るんだろ。なんでそんなに高いの?」
「それでもお寺にはお金がかかるから」
「うーん」
 バチ当たりな奴め。これはいくら? あれは? と次々に店に並べてあるがらくたを指差して訊いてみても、どれも500ドルとか1000ドルとかはちゃめちゃなこと言っている。
 おとなしい僕もとうとう堪忍袋の緒が切れた。だんだん両者とも口調が荒っぽくなってきた。
「もう買わない。こんながらくたに百倍も千倍も値段つけやがって! とんでもない商売してるな、あんた!」
 その時はもう喧嘩になっていた。
「あの絵葉書売りも金魚売りも、ホテルのMもみんなあんたとグルだろが! おまえもそうだろ、こら、C!」
 大声で罵ったものの、Cは日本語がわからないから、ビールを飲み、煙草をふかしながら、笑顔で片手を挙げてみせるのだった。
「そうだ。うちには四人の子供がいて――」
 こりゃあかん……。
 しかしここであくどいKは熟練した手腕を見せた。
「あなたが案内して欲しいと言ったから、バイクに乗せて時間もたくさん使ったし、ビールもコーラも飲ませてあげた。あなた、うちの店で土産買ってくれると言ったからね」
 怒ったようにそう言った。日本人が恩を売られるのに弱いことを熟知している。ありがたいなんてこれっぽっちも思っちゃいないし、Kが詐欺 100%、親切 0% でこのことをしたこともわかりきってはいたのだが、それにしてもこう言われると、約束してしまったものは仕方がない。
「それじゃあ――」
 と僕はカッカッしながらも、今度はがらくたのうち最も安い数珠を値切り始めた。これがまた簡単にはいかない。結局最後には、
「じゃあ、数珠と小さい仏像二つで60ドル! これインドの買い方ね!」
 そう言うと、10米ドル紙幣六枚をテーブルの上に叩きつけ、がらくたの数珠とちゃちな銅製の仏像を引っつかみ、僕は悪徳商人の店から飛び出した。
「おい、C、帰るぞ! さっさとぽんこつのチャリンコ出せ!」
「もう帰るのか?」
 Cはビールの残りを一息にグイッと飲み干すと、慌ててサイクル・リクシャーを引き出しに行った。
「また来てね」
 Kが店から出て来て僕に言った。
「二度と来るか! これから日本人に会ったら、ブッダ・ガヤーへは行くなって言ってやる!」
 Kもカッカッしてる様子で、
「じゃあ、日本の煙草三箱Cに持たせて。外国人のお客さんに出すから。必ず持たせてよ」
 何言ってやがんだ、クソ野郎、ド畜生めが。よくも抜け抜けとそんなことが言えるな。日本人をなめるのもいい加減にしろ!
 のちにブッダ・ガヤーへ行ったという日本人に会ったが、僕と同じ目に遭い、やはりこの悪辣な詐欺師と喧嘩したということだった。

 靴擦れが膿んで痛いので、途中でビーチサンダルを買い、皮のサンダルはCにくれてやった。道はアスファルトだったが、穴ぼこだらけでよくガクンとなった。その度にCが謝る。
「いいよ、いいよ、気にすんな」
 するとCが言った。
「日本政府に道を舗装する援助金もらったのに、首相が全部飲み食いして使い込んでしまったから、俺みたいに貧乏なリクシャー・ワーラーが困ってるんだ」
「ああ、そうなのかい」
 するとCは急にサイクル・リクシャーを道端に停めた。
「なんだ、小便か」
「いや、違う。女房が明日手術するんで大金がいるんだ」
「あっそう。大変だねえ」
「近所の人たちが恵んでくれたんだけど、まだ半分足りない。四人の子供を食わせてかないとならないし」
「じゃあ頑張れよ」
 Cはなぜかホテルの僕の部屋までついて来た。
「女房が明日大手術で――」
 また始めた。
「なんだ、俺に金出せって言いたいのか?」
 Cは額に手を当てて頻りに懇願のポーズをしてみせた。
「金はもうないよ。おまえの仲間のKにふんだくられたから」
「じゃあ日本に帰ってから送ってくれ」
「あんたのかみさんは明日手術だろ。俺はまだまだインドにいるから、それも無理だね」
「金は後払いでいいんだ」
 こいつも腐った野郎だ。
「じゃあ日本に帰った時に金が余ってたらな」
 それを聞くとCは大喜びして、紙に銀行の口座番号なんかを書いた。
「もしかすると俺の気が変わるかもしれんぞ」
「うんうん、必ずここに入金してくれ」
「よし、日本に帰ってから覚えてたらまた考えてみるわ」
「うんうん、頼む。絶対に覚えててくれ」
「わかったよ」
 誰が送るもんか。そんなこと今日のうちにきれいさっぱり忘れ去ってやる。これが日本式だ。
「ところでなあ」
 とガイドブックを見ていた僕は、
「ここ」
 とブッダ・ガヤーのページを指差し、
「おまえたちのことが書いてあるぞ」
「なんて、なんて?」
 Cは嬉しそうな顔をしてガイドブックを覗き込んだ。
「詐欺師の不良インド人だとさ。これはあのKのことだろ」
 途端にCの顔色が変わった。
「あいつはKなんて名前じゃない! それは偽名だ! あいつはほんとは○○○○というんだ。アラーの神に誓って本当だ!」
「そうか。何人もグルだって書いてある。つまりC、おまえもだな」
 Cはムッとした表情になると、
「俺は今からあいつと一切縁を切る!」
「あいつはとんでもない悪党だったなあ」
「そうだ、そうだ。俺はたった今あいつときっぱり縁を切る!」
「ほんとか? 怪しいなあ」
「ほんとだ! アラーの神に誓って、今もうすっぱり縁を切った。これからはあいつと二度と会わない」
「嘘じゃないだろうな。嘘をついてたら、きっとアラーの神はお許しにならんぞ」
「嘘じゃない! 俺が嘘をついたら、アラーの神はきっと俺を許さないだろう! 俺は地獄に墜ちるだろう!」
 Cは大袈裟な身振り手振りを加えながら言った。
「よし。神に嘘はつくなよ」
「嘘は絶対につかない、アラーの神に誓って! だから日本に帰ったら――」
「なんだ?」
「金送ってくれ」
 一体こいつどういう神経してるんだろ。
「じゃあそういうことで、もううちに帰っていいよ、C。かみさんの看病してやれよ」
「うんうん。でも煙草もらって来いって○○○○が言ってたから」
「○○○○って誰だ?」
「あの悪党のKだよ」
「ああ」
 僕は空港の免税店で買って来てあったセブンスターを一箱Cに渡した。
「三箱持って来いって言われた」
「おまえはあいつとたった今縁を切ったんじゃなかったのか? アラーの神はどこ行った?」
「切った、切った、アラーの神に誓って――」
「そうだろ。誰があんなクソ野郎に煙草やるなんて言った? そいつはおまえにやるんだぞ」
「そうなのか」
「そうだ。あいつに訊かれたら、あの日本人は煙草くれなかったって言えばいい。だからそれはおまえの物だ。きちんとイスラム教の戒律守って、たまに吸うんだぞ」
「うんうん」
 Cはニヤッとしてセブンスターをポケットに入れると部屋から出て行った。

 夜になってから、ホテルの一階のレストランで晩めしを食って部屋に戻ると、マネジャーのMがついて来て、わざとインクの切れたボールペンで何か書こうとした。
「あっ、インク切れた。ペンもらえないかなあ」
 ここはクズ野郎どもばっかりだ。鬱陶しいので筆箱を開けて、
「好きなの持ってけ」
 Mはペンを選び取ると、部屋から出て行った。それから、まだ年端もいかない少年のボーイがやって来て、蚊取りマットをつけてくれたのでチップをやると、図に乗ったのか、置いてあった僕のベルトを自分の腰に巻いてみせた。
「似合ってるよ」
 ベッドに寝転んだまま言ってやった。この子には言葉は通じないが、嬉しがってくれくれという身振りをしながら何か言っている。
「駄目駄目、俺のがなくなるだろが」
 それもわかったみたいで、ベルトを外すと、今度はテーブルの上に置いてあった使い捨てライターを手に取り、点けてみようとするのだが、なかなか上手くいかないので、僕が火を点けて要領を見せてやった。しばらくやってると火が点けられるようになった。
「欲しかったらやるよ」
 そう言って、手振りで持ってけと示すと、ほんとにいいのかというような仕種で驚きの表情を見せながら何かわめいている。
「いいからそれ持って出て行け」
 ボーイはライターを持って出て行った。途端に廊下でドタバタと飛んだり跳ねたりやり始めた。
「ギャーギャオオオォォォー!」
 歓喜のわめき声で絶叫を繰り返しながら、他の従業員に使い捨てライターを見せびらかしていつまでも自慢している。うるさいったらありゃしない。
 結局、お釈迦さんが悟りを開いて解脱した地、ブッダ・ガヤーでは、僕は悟りが開けるどころか、ムカッ腹を立て呆れ返っただけだった。まだまだ修行が足りんのか? あーあ、解脱への道は果てしなく長い……。


    3月23日 晴 ガヤー 〜 バラナシ

 早朝六時の列車でバラナシへ向かった。朝早いのにCとMがホームまで見送ってくれた。もう僕の懐からは何も出ないのに、不思議だ。Cの方は列車が出るまでホームにいたが、「子供が四人もいて」も「女房が明日大手術で」も言わなかった。一晩寝て、そのネタを忘れてしまったのだろうか。
 ガヤーは始発駅ではなく、また車輌を捜して大慌てしたが、乗り込んでから訊いてみると、二等の『ウェイティング・リスト』という切符で、どこかで席が空くまで立っていなければならないのだった。しかしインドの二等車輌というものは、指定席などあってないも同然。結局は図々しい奴が勝つことになっている。
 この前の時は旅慣れた感じの図々しい西洋人を見ていたので、今度は僕も図々しくなってやろうと思っていた。そいつは寝っ転がって横長の席(一応三人掛け)を一人で占領していて、インド人が座りに来ても起き上がろうともせず、うるさいって感じで蝿を追っ払うように追っ払っていた。
 しかしいくら何でもそこまで落ちたくはない。僕が狙っていたのは『荷棚』だった。これはガイドブックで読んで知っていたし、この前もこの目で確認してあった。これは日本の電車の網棚に相当するものだが、それよりはずっと広くて、座席のシートと同じで、占領できれば寝転がれるし、元々人間も乗るだろうことを想定して作ってあるようだ。だから巧くいけば、長旅は指定席で座っているよりこちらの方が快適なはずだ。
 僕は空いている荷棚を見つけると、素早く荷物を載せ、靴を脱いでその上に上がった。まあ脚を伸ばすまでは無理だったが、そのうち乗客が降りて荷物が減り、とうとう横になることができた。ラッキー! インドに来て五日で早くも図々しい奴の仲間入りを果たしてしまった。
 しかし僕はやはり紳士だったのか。また二等車輌の中が混んでくると、荷物を両手に持ったまま立ち尽くしている図々しくない夫婦者がいたので、気が引けてきて、手振りでその荷物寄越せと荷棚に引き上げてやってしまった。こうなったら人が乗り込んで来る度にこれをやってしまい、とうとう僕の領土は膝を抱えて辛うじて荷棚から転げ落ちない程度に縮小されてしまった。
 ところがどうしたことか、早起きした後遺症がここにきていきなり顕れてきた。両の瞼が落ちてくる。そして体が傾いては慌てて目を醒ます。よりによってこんな究極の体勢でいる時に眠気が襲って来なくても……。右に転んでも後ろに転んでも僕は床に真っ逆さまに墜落してしまうだろう。
 いや、下にはインド人乗客たちがうごめいているのだ。体の支えになっているのは荷棚を吊り下げている鉄棒のうちの一本だけだ。僕は朦朧とした意識で命綱であるたった一本の鉄棒に右腕を絡みつかせた。そしてまた転げ落ちそうになっては慌てて目を醒ます、を繰り返していた。
 もうこれは拷問である。こういう手を使ってみてはどうだろう――二晩、三晩と徹夜させた他国のスパイや凶悪犯罪の容疑者を梯子に登らせてしまう。あとは眠気で転げ落ちるか、己が罪を白状するしかないだろう。よく刑事ものドラマで裸電球を当てて眠らせないようにして、容疑者の口を割らせようとしている場面を見たことがあるが、まだまだ甘い。裸電球ではなく、梯子の上に上げるべきだ。
 僕が身を持って考案したこのアイデアを、警察庁か防衛庁は買ってくれないだろうか。日本で駄目なら、FBIやCIAでもいい。それでも駄目ならせめて、007のシナリオライターさん、このアイデア買ってもらえませんか? テロ国家に捕まったジェームズ・ボンドが、恐怖の眠気拷問に遭いながら、それでも朦朧とした意識で梯子の上から見事脱出を図るというクライマックスはいかが?

 もう車輌の中はすし詰めで、立錐の余地もない。三人掛けの席に四人、五人と腰掛けている。インドを列車に乗って快適に移動したければ、A/C(冷房付)一等、A/C 寝台、一等、A/C Chair Car(これは短距離の場合)、せめて二等寝台を利用するのがいいだろう。(値段は高くなるから、貧乏旅行者には二等寝台より上はお薦めしない)だが、退屈したくなければ、二等車輌を選ぶのがいい。混んでくるとかなりの体力の消耗と汚れることを覚悟しておかねばならないが。
 電線の上で感電死しかけている雀の如く、僕は辛うじて墜落せずに荷棚にとまっていたのだが、ふと気づくと、列車がしょっちゅう停車しては、その度に訳のわからない食べ物を手にした売り子やチャーイ売りや、完全にインド化してしまった西洋人(麻のポンチョみたいなのを着て、片手にヤスだけ持っている海神ネプチューンみたいなイカれた金髪野郎、ヒンドゥ語を上手に操る)、きったならしい只乗りの女の子たち(トイレの前に三人で座り込み、駄菓子を食いながらぺちゃくちゃ喋っていた)などが次々と駅ではないとこから乗り込んで来ては、また駅ではないとこで降りて行く。売り子は歩けないくらい混んでいるのに無理やり人をどかせて、「チャーイ、チャーイ」とか「サモーサー、サモーサー」などとわめきながら売り物を持って車内を進んで行く。
 これらの風景を荷棚の上から見下ろしていると、結構面白くて退屈しない。物珍しさも手伝い、僕はようやく拷問から目が醒めかけてきた。
 インド人乗客は誰でも(誰でもと言うのは言い過ぎだが)、近くに座っている見知らぬ者と話を始め、席を譲り合ったり奪い合ったりする。ちょっとでも隙間があれば、腰掛けようとするし、向かいの席の人と人との間に脚を伸ばして乗っけてきたりもする。
 まあ、奪い合い・譲り合いだけなら日本と同じだが、この秩序立っていない、それでもなんとかなっている雑然とした車内の雰囲気は、日本の列車では味わえない。しばらく上から第三者の目で見物していると、なんだかインド人たちが羨ましくなってきた。苦しい窮屈な列車での移動が、なぜか楽しそうに見えてならない。
 ふと見ると、荷棚の隅にチャーイを飲んだあとの小さな素焼きの湯飲みが転がっていたので、それを灰皿にして煙草を吸っていると、向かいの荷棚に膝を立ててとまっていた汚ならしい髪の毛ぼさぼさの男が煙草を口にくわえ、僕の方を見てニッっと笑ってみせた。
 ライター貸そうか、と差し出したが、いらないいらないとマッチを取り出し火を点けた。素焼きの湯飲みがもう一つあったので、今度はそれを男に差し出してみたが、これもいらないとニタッと笑う。なぜ灰皿が必要ないのかを外国人の僕に示そうとしてか、男は火の点いた自分の煙草を思い切りぽんっとやった。煙草の先っぽが飛んで、下に座っているオバサンのサリーの上に落ちたから、下のオバサンはびっくりして立ち上がった。
 また座り直してからは、火がどこから飛んで来たのか上下左右をきょろきょろ見回していたが、上の男がまた灰を下に撒き散らしたので、とうとう下の客が何人か犯人に気づいて荷棚の男を罵りだした。それを見た僕はまた男に湯飲みを差し出したのだが、男は要らないという手振りでまた煙草の灰を下に落とした。下の客たちは呆れ返って黙り込んでしまった。

 線路から乗り込んで来た小娘三人組や金髪の海神も、プラットホームのないとこで次々と降車していった。ドアの開閉係がいるのだが、どう見ても只で乗り降りさせているみたいだ。インド人は金を持っていそうな者にはたかってくる奴が多くて不愉快だが、困っている者がいれば進んで助けてくれる。実に開けっぴろげだ。
 バラナシは乗り降りする客が多いはずだ。列車の速度が遅くなり、駅が近づいたような雰囲気になった。乗客も早々と降りる用意をしている者が何人も見受けられた。
「バラナシか?」
 僕は向かいの荷棚男に訊いてみた。
「バラナシだ」
 俺もバラナシで降りるんだとばかり、灰男は天井に取り付けてある扇風機の上から自分の靴をつかむと、靴を叩いて今度は埃を降らし、吸いさしの煙草を適当に投げ捨て、足の踏み場もない通路へと平気で降りた。
 気がつくともう列車はバラナシ駅のホームに入っていた。僕は急いで降りる用意をしようとしたが、ここで大失態を演じてしまったのだ。移動の時はリュックの横にビニール袋を結わえつけ、そこにミネラルウォーターのボトルを入れて持ち運んでいたのだが、インド製のビニール袋のちゃちなこと、慌ててその中にペットボトルを入れた途端、底が破けてペットボトルが下へ落ちてしまった。
 下へ落ちるのは地球上では当然のことながら、不運なことに、下には乗客のバッグが置いてあった。更に不運なことには、インド製のペットボトルもまた、極めて脆い代物であった。
 まあ、人の頭に落ちた時は砕けないよりは砕けた方が安全だろうから、インドではこの方がいいのかもしれないが、とにかく結果として、落下した僕のペットボトルは下にいる客のかばんの上で粉砕され、まだ多量に残っていたミネラルウォーターをぶちまけてしまった。おまけにそのバッグというのが布製だったものだから、一気に水を吸い込んでしまった。
 乗客は慌ててタオルでバッグを拭いた。僕も慌てて下に飛び下りると、平謝りに謝りながら、ハンカチでバッグに染み込んだ水を吸い取ろうと、取ってつけたような仕種を一応してみせた。
「ソーリー、ソーリー」を繰り返す僕に、下の二人のインド人乗客はタオルで必死に水を吸い取りながらも、
「ここで降りるんだろ。バラナシだぞ。これはもういいから。早く行かないと列車が出てしまうぞ」
 と言ってくれたものだから、僕はほっとしたものの、更に「ソーリー、ソーリー」と繰り返しながら、恐縮して後ろ向きに降車口まで後ずさりして行くと、あとは脇目もふらずに一目散にホームへと逃げ出した。
 ほんとにインドの二等列車で席に座っている時は、火は降るわ水は降るわで、頭上注意しなければならないということを身を持って知ったのだった。

 バラナシ駅に着いたのは午の十二時前だった。ここはホームにまで客引きたちがわんさと押しかけて来ている。こいつらがまたしつこい。めんどくさいからホテルの値段と場所を訊いて、その中の一人に任すことにして、そいつのオート・リクシャーに乗り込んだ。バラナシに来る目的は外国人観光客でなくとも、インド人たちもみんなガンジス河の沐浴場だろう。
 駅と川の中間くらいに位置するホテル・ブッダに連れて行かれた。そこで120ルピーのダブルルームを二晩取った。荷を下ろしてロビーで一服していると、まだ客引きとリクシャー・ワーラーが待っていて、ガンガーへ連れてってやると言う。いくらだと訊くと、あんたの言い値でいいと言う。この『言い値でいい』は余程気をつけなければならない。その時は僕はそんなこと気にしていないから、
「じゃあ、連れてってくれ」
 とまたオート・リクシャーに乗り込んだ。
 とりあえずはガンジス河まで連れて行ってもらった。乾季なのでほとんど水がなく、ちょっと拍子抜けした。川岸は階段式のガート(沐浴場)になっていて、それがどこまでも果てしなく続いているように見える。
 インドと言えば、『カレー』とか『象』とかをまず思い浮かべる人が多いだろうが、『沐浴』を連想する人も多いことだろう。実際、日本のテレビでインドが映し出された時は、必ずと言っていいほど、ここバラナシのガンジス河沿いのガートでインド人たちが束になって沐浴している光景が出てきたりするものだが、この時は沐浴している人の数もそれほどではなく、これも拍子抜けだった。
「早朝に来るとごった返してるぞ」
 と客引きのあんちゃんは言った。そのまま僕を水際まで連れて行った。そこにはボートが待っていて、
「200ルピーだ。明日はお祭で舟が汚れるから、乗るチャンスは今しかない」
 と船頭が、いかにも説得力のないこじつけを言って誘ってきた。別に乗る気はないと言って断った。こういうのは何人乗っても値段は変わらないから、他の旅行者を集めてから乗った方がいい。すると客引きとリクシャー・ワーラーは、
「それじゃ次、土産物屋へ行こうか」
 と来た。
「今着いたとこだろうが。もっと見物させろ」
 と言ってやると、さすがに苦笑いして黙り込んだ。こいつらはせっかちな野郎どもで、さっさとグルのボート貸しや土産物屋を引きずり回して、マージンを受け取って短時間で荒稼ぎしようという輩のようだ。
 しばらくガンジス河を見ていたが飽きてきたので、
「そろそろホテルに戻るわ」
 と言うと、あんちゃんは土産物屋へ行こうとうるさい。リクシャーに乗ってからも盛んに繰り返した。
「買わないぞ」
 と言ってみたが、それでもいいと言う。仕方なく土産物屋へ行かせた。
 土産物屋に着くと、待ってましたとばかりに四人ほどで出迎えに来て、中に入れと奥の間まで引っ張って行かれた。それからチャーイを持って来たが、出された眠り薬入りチャーイを飲んで眠らされて身ぐるみ剥がれた人の話を読んでいたものだから、飲まずにほっておいた。
 少しすると奥からこの店の主だというイカついのが出て来て、買うとも言ってないのに早速シルクの反物を拡げ始めた。
「買わないぞ」
 と、この主にも念を押してみたが、
「よしよし」
 と言いいながら、更に反物をいくつもいくつも次から次へと拡げまくった。
「そんなに拡げても買わんから無駄だぞ」
 と言ってやると、
「ではサリーはいかが? クルーターは?」
 と言って店の者にまたもや持って来させる。
「サリーなんかいらん」
「ではあれは、これは」
 と次々と品物を持って来て、部屋の中が土産物だらけになってしまった。その中に木綿の四角い小さな布があって、そこに染め抜かれている絵が妙に気に入ったものだから、ちなみに、
「これはいくらだ?」
 と尋ねてみると、言い値は思った以上に安かった。ブッダ・ガヤーで思いっきりボられた直後だからそう感じただけなのだろうが、好きなのを二枚、三枚と取ってついつい買ってしまった。店の主はここぞとばかりに高価なシルクをありったけ拡げだしたので、
「そんじゃあもう帰るわ」
 と急いで表へ出た。イカつい主は追っかけて来て値引きを始めたが、はなから買う気はないので、
「バイバイ」
 と言ってリクシャーをホテルへと向かわせた。

 ホテルの前に着くと、リクシャー・ワーラーと客引きは、なんと50ドルの運賃を要求してきた。こいつらも米ドルだ。腹立てて、
「こっちの言い値で構わないって言ってたじゃないか!」
 と怒鳴ると、
「ホテルも見つけたし、川にも連れてったし、土産物屋にも連れてった」
 とてめえの理屈ばかりぬかしやがるので、
「土産物屋はおまえらが勝手に連れてったんだろが! こっちは時間を無駄にさせられたんだぞ!」
 と怒鳴ってやったが、そんなことでハイハイと退き下がるような奴らではない。ほんとに腹が立ってきて、僕はこいつら二人を目茶滅茶に罵りだしたが、英語だとそうはいかないので、日本語とチャンポンになってきた。
 ところがこの聞き取り不能の謎の言葉が効いたのか、急に40ドル、30ドルと下がりだした。うーむ、敵が弱気になったことがわかった今、ここは攻めまくらねばならないはずだ。僕の口からは用意もしていなかったのに出任せが飛び出して来た。
「おまえたちのことと、このホテルの名前を、日本に帰ったらガイドブックに書き立ててやる!」
 そう言うと、僕は二人のインチキ野郎の鼻先に、かの貧乏旅行者のバイブルを突きつけて見せた。
「俺は有名なジャパニーズ・ライターだ。おまえたちの名前ごとここに載せてやる。そうしたら日本の旅行者はもう誰一人ここには来なくなるが、それでもいいのか、え?」
「…………」
「…………」
 もちろんはったりだ。しかしこの瞬間、『詐欺師にははったり』第二の金言が誕生した。二人の顔色がはっきり変わっているのが見て取れた。
「よーし、わからんようだな。それならホテルの人間に言ってやる!」
 僕はリクシャーから降りようとした。もちろんポーズだ。ホテルがこいつらにやらせているわけではなく、客引きは客を連れて来れば幾許かのマージンをもらうということになっているだけで、ホテルの従業員ではない。そんなことは知っていたが、それでも外国人観光客からとんでもない暴利を貪っているということがホテル側に知れれば、こいつらも契約を一つ失くすかもしれないということはわかっているみたいで、慌てて僕を引き留めた。
  客引き:「25ドル」
  僕:「何だって? 聞こえないぞ」
  ワーラー:「20ドル」
  僕:「なぬっ! 5ドルで充分だ! これ以上は一銭も出さんからな!」
  客引き:「15ドル」
  僕:「ん? あんたたち冗談好きだねえ」
  ワーラー:「10ドル」
  僕:「じゃ、6ドル」
 いつまでもこんなことしているのが馬鹿々々しくなってきた僕は、とうとう詐欺師どもに歩み寄りの姿勢を見せた。ちょっと人がいい客引きの方はここで、
「んー、じゃあ6ドルにしとこうよ」
 と折れかけたが、しぶといリクシャー・ワーラーの方が、いや、待て待てと早まる客引きを押し止めて、
「じゃあ7ドルでどうだ?」
 ほんとにしぶとい。こいつらの相手をしているのはほんとに時間と労力の無駄であろう。50ドルを7ドルまで値切れば、日本代表としての面目は立つはずだ。
「しょうがない。あんたの勝ちだ。今回は7ドルにしといてやろう。それも親切心からだぞ」
 部屋に戻って7ドル渡すと、僕はフロントで、
「おまえとこのホテルの名前をガイド・ブックに載せるが、OKか?」(もちろん嘘)
 と従業員に言ってやると、従業員は宣伝してくれるのだと勘違いしてニコッとしたが、途端に客引きとリクシャー・ワーラーの悪党コンビがその従業員にヒンドゥ語で何事か言い、また新たなカモを見つけにオート・リクシャーに二人で乗ってそそくさと去って行くと、従業員の顔色が変わった。

 二人が去ったあと、ロビーに座ってコーラをがぶ飲みしていると、マネジャーがやって来て、
「リクシャーは良かったか?」
 と訊いてきた。
「良くない」
 と答えると、
「いくらだった?」
「7ドル」
「それは高い。ガンガーまで往復すると50ルピーだ。俺に言えば交渉して30ルピーにしてやるよ」
 急にサービス精神を見せ始めた。ははあ、あいつらがあのことをそのまま言ったか。それで支配人がびっくらこいて飛んで来たってわけか。確かにリクシャー・ワーラーや客引きは悪口書き立てられても屁とも思わないだろうが、こういう外国人客でもっているホテルにとっては冷や汗ものだろう。
 このホテル・ブッダは日本のバイブルには載っていなかったが、西洋人貧乏旅行者向けのあちゃら物バイブル、『ロ○リ○・○○ネット』ではお薦めホテルとして紹介されている。こんなつまらぬことで評判を落とされるわけにはいかないだろう。
 実際にここの従業員は皆気さくでホテル自体の雰囲気はいい。食事も外人向けだ。それでガイドブックの記者だとか称する身なりもパッとしない胡散臭い日本人にゴマすってるのか。そうか、思った以上の効果だ。第二の金言は、今や僕の頭上で燦然と輝いている。これだ! これから飽きるまではしばらくジャパニーズ・ライターでぶちかますとしよう。僕は営業スマイルのマネジャーに向かって横柄な態度で、
「ネパールへ行くつもりなんだけど、きみ、なんとかならんかねえ」
 と言うと、マネジャーは即座に、
「私にお任せ下さい。明日、バスの切符をお取りしておきますです」
 またもや営業スマイルでそう言った。このホテル・ブッダは何でも朝飯前でやってのけることができるぞと言わんばかりだ。

 そうやってロビーでマネジャーや従業員相手にうだうだととぐろを巻いていると、汗まみれの日本人の若者がおどおどしながら入口から入って来た。このホテルのチェックインの時に顔を合わせた時、「こんちわー」と軽く挨拶を交わしただけだったが、この若者は僕の所まで近づいて来て、
「鍵失くしちゃったんですよ。今までずっと捜し回ってたんですけど、見つかんないんです。どうしよー」
 とべそをかいている。鍵失くしたくらいで大袈裟なと思い、僕は、
「弁償すりゃいいじゃない。インドの鍵なんか安いだろ」
 と言ってみたが、べそかいてる理由はそうではないようだった。
「ここの鍵じゃなくて、失くしたのは自分の鍵なんです」
 と言って若者はおろおろし続けている。
「その鍵ってもしかして、南京錠?」
「そそそそうです」
「ありゃあ」
 これがどういうことかと言うと、やはりかのバイブルには体験者たちの投稿がたくさんあって、その中にも、「安宿で、従業員が留守の間に部屋にこっそり忍び込んで私の金を盗んだ。だから鍵は自前の物を用意していくことをお薦めする」だの、「列車の荷棚に載せといたら、いつの間にかリュックが盗まれていた。だからチェーンロックで座席の脚に留めておきましょう」といった、『インド人を見たら泥棒と思え』の類の投書もたくさんある。こんなモノを読んでいると、初めての人は当然警戒するだろう。
 僕も一応南京錠もチェーンロックも日本から持って行ったのだが、面倒だから一度も使わず、それでいて空き巣にも置き引きにも一度も遭わなかった。まあ、こんなのはたまたまそんな目に出遭ったか出遭わなかったかの運の差の問題なのだろうが、先入観とは恐ろしい。安宿のボーイとは日本人泊まり客の留守を虎視耽々と狙っているものであり、二等車輌の乗客たちは外国人乗客が荷物から目を離す隙を常に窺っているものであるみたいな記事を、旅行案内にこれでもかこれでもかと並べ立てられていたら、インド人もたまったものではないだろう。
 更に彼が言うには、これは聞いて思わず笑ってしまったが、相棒を部屋の中に閉じ込めてしまったのだと言う。
「はあ?」
 つまり、一人で部屋の中にいて、インド人のボーイが何か寄越せと言ってくると怖いから、誰も入って来られないように、買物に行く間は外から鍵を掛けといてくれと相棒から頼まれてそうしたということだった。ところがその鍵をまんまとどこかで落としてしまった。まあ、笑い話以外の何物でもなかろうが。
「英語がよくできないんです」
 若者は泣きべそで言った。だったら変な小細工すんなよな。
 僕も英語は大して上手くはないが、彼に代わってボーイに状況を説明してやった。ボーイは、
「ガスバーナーで焼き切るから心配するな」
 と大袈裟なことを言うので、
「バーナーで火事になったら危ないだろう。金のこか何かないの?」
 と言ってやると、
「じゃあこれで」
 と鋸で切るポーズをして見せた。
 こうして彼の相棒は無事に救出されたのだが、部屋に閉じ込められていた(それとも閉じこもっていた?)もう一人の若者日本人がどういう奴だったかと言うと、身長190cmの、頭をモヒカン刈りにした、インド人のたかり屋でさえ避けて通るだろう見るからにイカつい野郎。ところが助け出された時にはそのモヒカンもべそをかいてたものだから、僕は青春してる若人二人に急いで背中を向けると、思いっきり吹き出してしまったのだった。


    3月24日 晴 バラナシ

 昨夜は遅くから花火を鳴らして騒ぎ出していたが、今日から『ホーリー』という春の到来を祝うお祭だそうで、どんなお祭かと言うと、とにかく人を見つけたら見境なしに色とりどりの色粉をぶっかけ合って汚し合うという、一目瞭然の派手なお祭だそうだ。今日は朝から既に表が騒々しくなっていた。きっと外にいるインド人たちは派手に色づいていることだろう。
 そう言えば、昨日リクシャーで通りを走っている途中、中央分離帯の上に立っていた子供と擦れ違いざま、水鉄砲で紫色の水をひっかけられた。今日のこの日が待ちきれずにいた勇み足のクソガキに、僕の上着は既に汚されてしまっていた。まあ白い上着だったから、白地に紫の斑点が映えていて、洗濯が面倒なことも手伝い、記念に長いことそのままにしておいたのだが。
 ホテル側は門を閉じて、客に外出するなと言っていた。出ると危ないというのだ。庭に面したレストランには西洋人たちが大勢屯していた。そのテーブルの一つに、特に目立つ奴らがいた。一人は普通だが、一人はTシャツが色とりどりになっているし、もう一人は顔一面濃緑色だった。
「ずいぶん派手な顔色してるねえ」
 僕が日本語で話しかけると、日本語で答が返ってきた。三人とも日本の大学生だそうだ。TK大の草上クンは、朝早くこっそりホテルから抜け出したのはいいのだが、道で縄を張って通せんぼしていたインド人たちに捕獲され、目茶滅茶に色粉を浴びせられ、ほうほうのていでホテルまで逃げ帰って来たということだった。
 もう一人の方、TH大の五谷クンは、ホテルの人の忠告に従ってホテル内でおとなしく待機していたのはいいのだが、そのホテルの従業員から、ホーリーだと言って顔じゅうに色粉を塗りたくられたと、首狩り族のような顔で語った。
 彼らのように派手なファッションをする根性はないので、僕はそのままレストランでホテル・ブッダの戒厳令が解除されるのをおとなしく待つことにした。それにしても、二人以上の西洋人と喋ると、英語が猛烈な速さになり、僕はたじたじになって黙り込んでしまうことになるから、ちょうど椅子が一つ空いていたので、日本人大学生たちのテーブルに移って暇をつぶすことにした。
 インドで日本人が集まると、まず挨拶代わりの会話として、どこそこでいくらボられたという話によくなる。僕たちは互いに自分のボられ話を自慢し合った。ところが五谷クンとなると、まだボられてないと言って羨ましそうに人の話を聞いていたが、ちなみにいくらで物を買ったかとか、リクシャーいくらで乗ったとか聞いていると、それがまさしくボられてんじゃないかとみんなから攻撃された。本人がちっとも気づいていないだけのことで、五谷クンも充分インド人から人並みにボられていたのだった。それを、
「インドは安い、安い」
 と言っているから、ほんとに幸せな奴だ。ボられてたんだと知らされてからも、笑顔で、
「修業だ」
 などとと言っていた。おぼっちゃまなだけなのかもしれないけれど、考えようによってはできた若者だ。
 そうやっていろいろとインド体験馬鹿話をしているうちに、話題がカルチャーショックのことになったので、僕はインド通の垣外さん(正真正銘のオカマのオジサンで、何か語る度にお尻を撫でてくるから怖かった)という人から昔聞いたことのある、『本物のカルチャーショックなるものは――』という話を、さも自分が経験したことがあるかのように三人に話して聞かせた。
「本当のカルチャー・ショックというのはねぇ、発狂するんだ。初日にホテルの部屋で発狂して、しばらく経ってからまた発狂する。そのインターバルがだんだん長くなっていって……云々」
 すると草上クンが自分もなったと言いだした。この草上クンはデリーからインドに入ったそうだが、何もわからないうちにニュー・デリー駅前の悪徳旅行会社(ここにはこの類がごまんとあるのでご注意! 『政府』とか『州』とか会社名の上についているけど、真っ赤な嘘でーす)に多額の金をふんだくられ、いきなりタージマハルで有名なアーグラー・ツアーに連れて行かれ、その夜は裸電球一つのホテルの地下室に閉じ込められるや、とうとう発狂して、その時自分のジーパンをビリビリに引き裂いてしまったということだった。
 更には五谷クンもデリーに着いていきなりオート・リクシャーにはねられ、もう一人のKG大の兎戸クンもネパールのポカラでピザか何かを食い、アメーバ赤痢にかかって入院させられ、ヒマラヤを眺めるどころではなかったという。
「みんなひどい目に遭ってるんだなあ」
 と、僕は顔では同情しながら、実は腹の底で喜んでいたのだが、今思い返してみても、旅行の想い出などというものは、結局はひどい目に遭ったことばかりが鮮明に印象づいて残っていて、人に話して聞かせるとなると、そんなことばかり喋っている。楽しかったことももちろんあるのだが、そっちの方はあまり思い出さないもので、実に不思議なものである。考えようによっては、旅でひどい目に遭うことこそ貴重な体験なのかもしれない。つまり旅とは、『ひどい目に遭いに知らない土地へ行くこと』なのである。

 そうこうするうちにホテル・ブッダの戒厳令も解除されたようで、ボーイが門扉を開けた。レストランで駄べっていた西洋人たちも三々五々連れ立って外へ出て行った。韓国人の大学生Kクン(互いに下手な英語でしかコミュニケーションが取れないのだが、こいつがまたやたらに陽気な奴だった)というのがやって来て、まだガンジス河見てないから行きたいと言ったので、じゃあ行こう行こうということになった。
 このヒンズー教最大の聖地バラナシも、見所と言うと結局ガンジス河の沐浴場ぐらいしかないので、どっちにしたって行くことになったのだろうが。歩いても行けるだろうということで、五人で歩いて行った。
 ガンジス河に近づくにつれ、だんだん景色が聖地らしくなってくる。ここはやはり本物の巡礼者のように、歩いて聖地へと一歩一歩近づいて行くのが正解だったろう。
 人が増えてきて、いろいろな出店や見世物が出ている。でかい音でインドの歌謡曲を流して人だかりがしているので、何だろうと思って行ってみると、何のことはない、低い舞台の上で小さな子供が曲に合わせて(ちっとも合っていなかったが)踊っているだけだった(と言うよりどう見ても目茶滅茶に暴れているとしか思えなかった)。そんな人だかりがあちこちにあった。インドには娯楽というものが欠乏しているのではあるまいか?
 地べたにござを敷いて小銭を山と積んでいる奴もたくさんいた。これは両替屋で、聖地に来て、そこらにごろごろしている痩せこけた乞食にバクシーシをして徳を積もうという調子のいい巡礼者向けの商売で、高額の紙幣を小銭のコインに替えてくれる。しかし上前がはねられるので、100ルピー札出すと90ルピー分の小銭しか返って来ないといった具合だ。しかしこの国ではこういう商売も充分成り立っているようだ。
 インドで常に困ったことの一つに、すぐに小銭が不足してしまうということがあった。店で買物したり、レストランで食事して支払いする時、大きな札を出すと、つりがないということは頻繁にあった。売店だとつりがないから売らないと言われることもままあるし、売り子やボーイが店から出て行って、近所の店を駆けずり回って札を崩してくることもしばしばある。そんなことが日常茶飯事のように行われている。札でも1ルピー札とか5ルピー札とか小さくなるほど、なぜか油が染み込んでてぼろぼろになっているのだが、草上クンなどは、
「あれは食い物屋で、油で汚れた手をタオル代わりに札で拭いてるんじゃないか」
 と推測していたが、そう言ってる割には彼は、触ると二つに切れてしまいそうなきったない1ルピー札を大事に集めていたりするのだった。

 川岸の沐浴場に着くと、舟で向こう岸の不浄の地へ渡らないかと船頭が誘ってきた。韓国人のKクンはよすと言って一人で沐浴場を見物しに行ったが、残りの四人で金を出し合って小舟に乗り込んだ。一人5ルピーだった。水が少ないので向こう岸まではあっと言う間だ。
 だだっ広い砂地の河原に降りると、缶を手にした爺さんが近づいて来て、
「税金寄越せ」
 と缶を突き出してきた。税金とは何だと訊くと、不浄の地に降り立つのには税を払わねばならないなどとぬかしやがる。あまりにもしつこいので、50パイサ(1ルピーの半分。日本円にすると2円弱)という『不浄の地税』をめいめいが払ったが、五谷クンは1ルピー硬貨しかなかったのでそれを払うと、ちゃんとつりを返してきたものだから、
「きっちりしてるなあ。やっぱりほんとに税金なんだろうか?」
 とみんなで不思議がった。
 干上がって砂漠のように広くなった夕暮れ時の河原でしばらくぶらぶらしてから渡し舟に戻って引き返した。しかし聖なる岸に戻ってみて、一体どっちが不浄の地なんだと疑問に思えてきた。
 ガートで子供が僕たちの額の真ん中に色粉をつけに来たが、つけられたあと案の定、金を要求してきたし、カルカッタにもよくいたが、
「マリファナ?」
「ハッシッシ?」
 それにどこで覚えてきたのか、
「マヤクぅ!」
 と声をかけてくる大麻の売人はここにもいるし、聖地の寺院の壁に向かって小便ひっかけてる奴、ここにはありとあらゆる俗が集まって来ているように思える。

 日が暮れてから火葬場に行き当たった。ヒンズー教徒は死ぬと火葬にしてその灰を水に流す。何もこの世に残してはならないらしい。赤ん坊のうちに死んだり、自殺した者は火葬にしてもらえず、そのまま川に捨てられたりするそうだ。中でも自分の灰を聖なるガンジスに流されることを願い、歳を取るとここまでやって来て、死ぬのを待っている者も多いそうで、『死を待つ者の家』という宿舎があるそうだ。
 火葬場のガートにはもっぱら観光客を中心とした見物人の人垣ができていた。薪を組み上げた上に、布で巻かれた遺体が載せられ、下から火が点けられると、ものの三十分ほどで焼けて灰になってしまう。布で巻かれたまま燃え尽きてしまうので、死骸は直接は目にすることができず、生々しさというものは感じられないのだが、人間の肉体など儚いものだなあと思えてきた。
 しかし韓国人のKクンはこれを珍しがり、やたらにカメラのシャッターを切った。僕は火葬場が撮影禁止だと知っていたので、写さない方がいいぞと止めようとしたが、
「わかった、わかった」
 と言いながら、Kクンは平気でフラッシュを焚きまくる。とうとう焼き場の人が怒り出し、Kクンは怒鳴りつけられてしまった。それでもKクンはここが気に入ってしまったようで、
「素晴らしい! 素晴らしい!」
 と連発しながら、明日は朝早く沐浴を見に来ると言っていた。

 帰りもホテルまで歩いて戻ることにした。途中で入ったレストランでめしを食おうとしたが、値段が高かったので、みんな飲み物だけにした。飲み物だけなのに出てくるのがやけに遅い。隣の席に金持ちふうのインド人家族がいたのでちょっと話をしていると、その中の高校生くらいの少年が、
「いい物見せてやろう」
 と言って、何かポケットから出したが、何のことはない女の下着姿の白黒写真だった。それを少年がさも自慢げに見せるので、草上クンは、
「すげーなあ。強烈!」
 などと言ってたが、日本語に戻ると、
「インドにはほんとに娯楽ないんだなあ」
 と僕たちに向かって言った。
 しかし帰りは道に迷ってしまった。なかなかホテルに辿り着かないので、地図を見せながら人に訊いてみると、とんでもない方角に向かっているのだとわかった。インド人は場所を知らなくても知らないとは言わずに教えたがる。訊く人ごとに、「あっちだ」、「いやこっち」と指す方角がてんでばらばらで、道を尋ねても混乱するばかりだった。
 やがて子供たちが案内してやると言ってきたが、また適当な方向に歩いているような気がしてきたので、何度も道行く人に尋ねながら進んだ。
 やっと帰り道の見当がついたので、
「もういいよ」
 と子供たちに言うと、
「案内したから金くれ」
 ときた。こいつらくっついて来てるだけじゃないか。
「今金持ってないから、ホテルまで取りに来い」
 と言うと、諦めもしないでしっかりついて来たが、途中でいろいろくだらんことを言ってからかい、ホテルの前まで来た時には、
「いい子たちだねえ」
 と誉めてやると、金のことはすっかり忘れてしまったようで、握手してそのままさよならした。
 それからマネジャーを見つけて、
「ネパール行きの切符は?」
 と訊くと、
「ああ、ネパール行きたいのか。明日の朝取って来てやる。俺に任せとけ」
 と平然と言いやがる。このおー! とこんな奴に頼んだことを悔いた。
「じゃあ頼んだぞ」
 と言って部屋に戻ったものの、その夜は最初から崩れてしまっている綿密なスケジュールを検討し直さねばならなくなってしまった。


    3月25日 晴 バラナシ 〜

 午前中は例の三人と一緒にめしを食ってうだうだしていた。マネジャー氏を見かけたので、
「バスの切符は?」
 と訊くと、やはりまた忘れていたようだ。しかしさすがに三度続けてすっとぼけるわけにもいかないようで、
「ネパール行きのバスは人気があって、買いに行ったけど売り切れだったんだ」
 と、今度は見え透いた嘘で言い訳をした。まあ、前夜にスケジュールの見直しをして、コース変更せざるを得ないかなあとも思っていたので、腹も立たなかったのだが、カルカッタからネパールを通るコースでここまで来た兎戸クンが、
「三ヶ月でインド半島一周なんてとても無理だ」
 と言い出した。自分はあいにくアメーバ赤痢にかかってしまったが、ネパールに行けば居心地がいいのでしばらく留まってしまうだろうと言うのだ。もう三週間くらいインドにいて、まだガンジス河沿いをうろうろしているだけの草上クンも、
「絶対無理だ」
 そこで僕は地図を出して赤ペンで予定のコースを書き入れてみせた。
 インド半島一周に加えて、ネパール方面とラジャスターン方面に出っ張りがあり、更にアラビア海に一旦抜けてからまた内陸部に入り込み、南の方でまたアラビア海に抜けるという遠回りをすることになっていた。みんなに僕の綿密な予定表を見せると、
「こんな通りには絶対にいかない!」
 と草上クンも兎戸クンも口を揃えてのたまわれた。五谷クンは一人で、
「修業じゃ、修業」
 と訳のわからんこと言っている。
「それはきみだろが」
 んー、そうするとやはり今回はネパールを断念せざるを得ないか……。せっかく『○○の○き方・ネパール』まで買って来たのだが、大前提としてのインド半島一周がある限り、そちらを優先させねばなるまい。そうすると次は西へ向かってカジュラーホーか……、うん、そうするか。

 そうこうするうちに午になってしまい、用事を済ませてしまおうと、四人は二手に分かれた。僕は修業中(?)の五谷クンと二人でサイクル・リクシャーを雇い、エア・インディアのオフィスまで行ってみたが、閉まっていた。
 五谷クンは航空券のリコンファームをしたかったらしいのだが諦めて、次にステイト・バンク・オブ・インディアへ両替に行ったが、日本の空港で買ったV○○Aのトラベラーズ・チェックはここでは交換してくれない。隣にいたオーストラリアから来た四人組の巨大なお姉さんたちも、C○○Y・C○○Pか何かのTCは交換してくれなかったと言っていた。五谷クンのA○○XだけOKということで、彼が長い列に並んで待つ間、何もしないでつき合うことになってしまった。
 インドで両替をする時は、銀行は非常に不便だ。概して市中のマネー・チェンジャーが待たないでいいし、率もいいようだ。但しこれがどれも目立たない場所にあり、捜すのに時間を食ってしまう。時間があればリクシャーを雇う時に予め「マネー・チェンジャー」と言っといて捜してもらうといい。あとはホテルとか闇両替が手軽でいいが、こちらはたいてい率が悪かったりする。ただ、TCではなくてキャッシュ(特に大きな米ドル紙幣)なら闇の方が率がいい。
 五谷クンが両替を済ますと、彼は散髪をしに行き、僕は駅に切符を買いに行った。長い列に並んでかなり待たされたが、あとから考えるとこれでもずっとましな方だった。とにかく並んだかいがあって、今夜のサトナー行きの寝台を取ることができた。しかしさすがにインド・ルピーが欠乏してきた。僕は地図を見て、それからリクシャーを雇うと、今度はインディア・バンクという所へ向かった。
 ところがしばらく捜してから見つかった銀行は、シャッターが下りていた。どうもちっぽけだし、ほんとにここなのかと近くにいた人に尋ねてみたが、やはりここだと言う。更には営業時間は午後二時までだと言われた。ほんとにインドの銀行はサービス精神に欠けている。頭に来て、
「仕事する気あんのかっ!」
 とシャッターの前で日本語で怒鳴ってやった。中国の銀行などでも、やっと自分の順番が回ってきたところで窓口に金を出した途端、十二時になったというので客をほっといてさっさと目の前で昼めしを食い始め、食い終わっても行員同士でぺちゃくちゃとおしゃべりを始め、結局昼休みが終わるまでそのまま待たされたという不愉快な経験をしたことがあるが、これらに比べると、好きにはなれないが、日本の銀行の方が遥かにましだと思った。
 しかし怒鳴ったところで、ここは現実世界である。「ひらけごま!」とシャッターがガラガラと音を立てて開くはずもない。昨日は川の近くでござの上に小銭を積み上げている方の両替屋を見て、修業中の五谷クンは間違ってトラベラーズ・チェックを取り出そうとしていたが、それを腹を抱えて笑っていた僕も、この時は、あの小銭両替屋がほんとに外貨の両替をしてくれはしないかなあ、と本気で考えた。
 三人組との待ち合わせ時間はもう過ぎていることだし、諦めて引き返そうと通りに戻ると、爺さんが近づいて来て、
「ハッシッシをやるか」
 とか、
「リクシャーはどうだ」
「ホテルは?」
 と次々にたたみかけてきた。どうやらいろいろなとこの客引きや仲介を掛け持ちしているようだ。こっちがいらないと答えると、
「チェンジ・マネー」
 とも言ってきた。「んー」なんてグッドタイミングなのだ。このじじいは『地獄で仏』なのか、それとも『地獄でやっぱり悪魔』なのか? じじいはホテルで替えられると言っている。背に腹は代えられぬ僕は、この海の物とも山の物とも知れぬ爺さんについて行くことにした。
「カモン!」
 爺さんは路地裏へとどんどん入って行った。途中、牛が二十頭ほどで路地を塞いでいて通れなかったので遠回りした。
 ホテルに着くとマネジャーが出て来た。こういうとこは上前をはねる。その時のレートからいくと、100ドルにつき100ルピーくらい損なのだが、今はルピーが底をつきそうなので非常時だ。仕方なく両替した。マネジャーはそのあと、
「泊まらないか? 安くしとくが」
 と誘ってきたが、今夜出発するんだと僕が言っても、
「まあ見てくれ」
 とホテルの中から部屋まで案内して回った。このゲストハウスは値段の割にはそこそこいいなあと思ったが、なんせ奥まった所にあって場所が悪い。そのことを言うと、マネジャーは泣き顔になり、
「そうなんだ。客がなかなか来てくれないんだ」
 まあ、あの客引きの爺さんに頑張ってもらえばいいだろう。僕には関係のないことだ。
「がっかりするなよ。ここならそのうち流行るさ」
 と心にもないことを言って、そのままそのホテルをあとにした。

 リクシャーを捕まえてホテル・ブッダまで急いで戻ると、待ち合わせの三時を二時間も過ぎていたにも関わらず、三人が待ってくれていた。今日はくつろぐということになり、九時まで話をして盛り上がった。21:45出発なので、そろそろ出るということで、午に既にチェックアウトしていて荷物は五谷クンの部屋に預けていたのを取ってきてもらうと、僕は三人とホテルのボーイたちに別れを告げ、夜道を歩いて駅へと向かった。
 いい気分で歩いていたが、お祭のせいか、途中で話しかけてくるインド人たちも快かった。また額にホーリーの印をつけられたが、今度はその子供から金は要求されなかった。
 インドの列車に乗るのはほんとに難しい。またもやどのホームから出るのかを行ったり来たりして捜し回り、何とか見つかったものの、今度はまたどの車輌に乗ればいいかを駆けずり回って必死で捜した。とにかく車掌以外の人に乗車券を見せて訊いてもわからない。また「あっちだ」、「いやこっちだ」で、混乱させられるだけだった。
 ようやく車掌を見つけて自分の名前を確認できた途端、列車が動き出したので慌てて飛び乗った。(座席を予約してあれば、自分の名前が載ったリストが出発ホームなどに貼り出されるので確認できるはずなのだが、たいていは車掌がリストを持っていて、車掌を見つけて確認することになる)ところがこの列車、動き出したかと思ったらまた停車してしまい、結局出発が二十分遅れた。この列車はガラガラだった。当日の席が取れたのも当然だろう。向かいに一人だけ客がいたが、この人もサトナーからカジュラーホーへ行くとこだと言った。
 二等寝台車は寝台が三段式になっている。夜も更けてくると、その人がこうするのだと言って、座席と荷棚の中間にもう一つ寝台を作ってみせた。僕は最上段だそうで、そこに上がると最上段にいる他の乗客たちが見渡せた。西洋人ツーリストたちが寝ながら楽しそうに喋っている以外は、客はほとんどいなかった。それにしても、インドでこんなに快適に移動ができたのは、あとにも先にもこれっきりだった。

 話は戻るが、この日は朝に大失敗をしていたことに気づいた。カメラのフィルムがいつまで経っても終わらないので、あまりにも保ちが良すぎるなあとそろそろ怪しく思い始めていた。数えてはいなかったのだけれど、もう五十枚以上は撮っているはずだ。
 シンガポールの空港で乗り継ぎの時に買って来た代物だが、僕は電化製品などはたいてい取り扱い説明書を読まずに使うので、このカメラもフィルムを適当に入れて適当にシャッターを切っていた。枚数表示はあるのだが、ちっとも進まないのはシンガポール製の安物だからだろうと思っていたし、ボタンを押してもカシャッとシャッターを切る音がしないのはシンガポール製の最新型なのかと思っていたのだが、どちらも間違いであることに気づいた。蓋を開けてみて、フィルムが引っ掛かっていなくて空回りしていて、ちっとも先に進んでいないことがわかった。ああ、ここまで写したつもりでいた写真は一枚も写ってはいないことだろう。



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