9. 不 死 鳥 は 死 な ず
大阪シティまで戻って来ると、人間たちが大勢集まって人垣ができていた。何だろうとそこまで行ってみると、縄で縛られた者たちが並ばされていて、斧で次々に首を切り落とされているところだった。
「あれは南部の戦士たちじゃないのか?」
良平は野次馬の一人に訊いてみた。
「そうや」
「負けた者は惨めなものだな」
良平はそう呟くと、人垣をかき分けて処刑場へと進み出た。
「あっ、あんた、助けてくれ!」
縄に縛られた一人が良平に向かって助けを求めた。そいつはいつかの牢番だった。
「頼む! いつぞやの恩を忘れてへんのやったら、頼むわー!」
牢番の悲鳴に似た叫び声が、どんよりと濁った空に響いた。見物している南部の農奴たちはみんな押し黙ったまま、これから何が起こるのかと、好奇心に満ちた眼を良平の方に向けていた。
「なんや、貴様は?」
処刑人の何人かが良平を見咎め、血の滴る斧や段平を手に提げたまま寄って来た。
「おまえたち、サタンの手下どもか?」
「なんだ、人間が偉そうに」
処刑人の一人が良平のそばににじり寄って来た。身長二メートル半、体重三百キロはありそうな巨漢だ。身に着けた鉄の胸当ての端から筋肉がはち切れんばかりにはみ出している。片目が潰れていたが、腕が四本、二本の腕で腕組みをして、残った右手で大きな段平をつかんでいる。その段平からは真新しい血が滴り落ちていた。
「首をすっ飛ばしてやろう、このチビ野郎」
巨漢は良平を見下ろし、片目で睨んだまま言った。
「それで、他に何か言い残すことはあるか、でかいの?」
良平がやり返すと、巨漢は一瞬きょとんとしたが、そのあと処刑人たち全員が大声を上げて笑い出した。
「舐めるな、チビ野郎!」
巨漢がそう言うと、段平がブーンと唸りを上げたが、次の瞬間には巨漢の首が後ろにぽとりと落ちた。
「ゲエー!」
処刑人たちはたちまちパニックに陥った。
「おまえたちもついでに死ね」
良平がそう言うと、他の処刑人たちの首が立て続けにぼたぼたと地面に落ちていた。野次馬たちのざわめきの中、
「ぞ、増長天様!」
縛られていた戦士の一人が良平に声をかけてきた。
「俺はもう増長天でも四天王でもないんだが」
「増長天様、帝釈天様が敵に連れて行かれました」
「どこへ?」
「たぶん、沈黙の塔かと……」
「沈黙の塔?」
「サタンの根城です、海の上に建っている」
「もう間に合わんかもな」
「うううう」
「他の四天王たちは?」
「逃げたみたいです」
「沈黙の塔はどっちだ?」
「あっちです」
良平は戦士が指差した方角へ向かって歩き始めた。
「お一人で行かれるのですか? サタンの本拠地ですぞ」
戦士のその問いかけには答えず、彼は一人で瓦礫を踏み越えて行った。
雨が降り始めた。黒い雨は地面に濁った水溜りを作っていった。辺りに闇が降りようとしている。と、雨水を跳ね飛ばして歩いている良平の前に、一匹の犬が現れた。一瞬、ヘルハウンドかと思って身構えたが、見たところ何の変哲もない、痩せこけた弱々しい野良犬だった。彼は犬を無視してその横を通り抜けようとした。
「行ってはならん」
「?」
良平は周囲を見回してみた。誰もいない。
「空耳か」
そのまま行こうとすると、また声がした。
「俺だ」
良平は振り返った。確かにすぐ後ろから声がしたはずだった。痩せた野良犬が四、五メートルばかり後ろにいて、こちらをじっと見ている。他には誰も見当たらなかった。
「まさか」
良平は自分の考えがあまりにも馬鹿げているとすぐに思え、一人で静かに笑った。
「犬が人間の言葉を喋るのがおかしいか? 今は何でも起こる時代だぞ」
確かに犬が口を動かして喋ったように見えた。
「今のはおまえか?」
もう一度痩せ犬が反応するかどうか、彼は目を凝らしてみた。
「行ってはならん。引き返せ」
犬はまた口を動かして発声した。
「こりゃ驚いた。見たところ、ただの犬じゃないか」
「ただの犬では悪いのか?」
「犬に説教されるとはな」
「内面変異体だ、人間流に言えば」
「なるほど、あり得る話だ。言葉を身に着けたってわけか。それで、わざわざ俺に忠告してくれたってわけだ。ありがとよ」
そう言うと、良平はまた立ち去ろうとした。
「おまえにはサタンは倒せぬ。たとえ倒したとしても、その時おまえは後悔するだろう。一時の勝利に酔い痴れたあと、激しい自己嫌悪の念に襲われるだけだ。おまえがなぜこの地に来て、なぜ戦ったか、その理由を知り、おまえは愕然となる。その時おまえは何よりも、己れ自身を憎み、蔑むことだろう。悪いことは言わん。引き返せ」
良平はギクリとしてもう一度振り返った。
「どうして俺がサタンと闘うことを知ってるんだ?」
彼は犬を怪しんだ。サタンの手下かもしれない。この犬は老いさらばえたヘルハウンドの成れの果てなのだろうか。
「違うな」
まるで彼の心を読み取ったかのように犬は言った。
「俺は一匹狼。仲間などいない。誰も仲間になどしてはくれない、犬だろうとな」
「一匹狼ねえ」
良平は喋る犬をまたじっと見つめた。雨に打たれて夕闇の中に溶けてしまいそうなほど弱々しく、哀れな姿に思えた。しかし彼はまだ警戒心を緩めようとはしなかった。
「だけど、少なくともこの俺を仲間にしようなんて考えないことだ。俺もおまえと同じ一匹狼なのさ。じゃあな」
それだけ言うと、良平は雨の中をさっさと歩き出した。犬はそれ以上は何も声をかけてはこなかった。しかししばらくすると、後方で犬の吠え声が聞こえた。複数の犬の鳴き声だった。良平は気になって、走って引き返してみた。
「キャン、キャン、キャン、キャン」
あの野良犬が他の犬どもに襲われたのかと思ったが、そうではないようだった。大きな犬が何匹も、鳴きながら彼の傍らを駆け抜けて行った。ヘルハウンドたちだった。それは、あの闘うためだけにこの世に存在している獰猛なミュータント犬とはとても思えない、情けない負け犬の姿だった。良平は驚いて前方を見つめた。あの痩せ犬が四つ足でじっと突っ立ってこちらを見ている。その足元では、地獄の狂犬どもが仰向けになり、腹を見せて服従の姿勢を取っていた。
「なんてこった。おまえがこいつらをやっつけたのか?」
犬のことなどどうでも良かったものの、それでも良平は驚きの眼差しで痩せ犬に訊いた。
「一体どうやって?」
「心理攻撃」
痩せ犬が言った。
「心理攻撃? 相手が人間ならまだしも、犬にそんなものが通用するのか?」
「もちろん。犬には犬の弱点がわかる。相手が人間となると、もっと効果は大きいだろうがな。だが、これが俺に仲間がいない理由だ。服従させることはできても、俺は決して仲間と見做されることはない」
ヘルハウンドたちはまだ仰向けに寝そべったままでいた。良平はそのヘルハウンドたちのみっともない姿を見て頷いた。
「おまえの言ってることは何となくわかる。じゃあ、おまえがさっき言ったこと、俺にはサタンは倒せないというのは、つまり、おまえは予知能力も持っていて、未来のことを見通せたってわけか?」
「俺に予知能力はない。おまえの心を読んだまでだ」
痩せ犬は相変わらず四つ足で立ったまま、口を単調に動かした。
「俺の心が読めたとして、先のことまでなぜわかる?」
「おまえがサタンを倒せないというのは、おまえの今の能力を読んだまでのことだ。そしておまえがこれからやろうとしていることは、おまえの潜在意識に埋め込まれた指令を、おまえが忠実に遂行しようとしているだけだからだ」
「指令だと? 何の指令だ? 誰が与えた?」
「何の指令かは知らん。おまえの中にはその内容しかないのだから。だがおまえを見ていると、まるで操り人形が走って行くように見えてな」
「おまえの言ってることがよくわからん」
「当然だ。本人にはわからんように、潜在意識に埋め込まれている指令だからな」
「まあいい。じゃあ、百歩譲っておまえの言う通り、俺が誰かに操られているだけだとしよう。一匹狼であるはずのおまえが、なぜそのことをこの俺に知らせてやろうって気になったんだ?」
「俺を疑うならそれでもいい。突然出くわした、喋る犬の言うことを信じる人間などいるはずもないからな。俺はただ、親切心で忠告したまでだ。おまえには今時珍しく、良心のかけらが残っていたからだ。信じようが信じまいが構わん。ただそれだけの理由だ」
そこまで言うと、痩せ犬はとぼとぼと歩いてどこかへ消えてしまった。
「良心? この俺に良心だって?」
良平は鼻先で笑うと、また西へ足を向けたが、なぜかあの犬の言ったことがいつまでも頭から離れようとはしなかった。
波打つ音が聞こえた。辺りは意外なほど静か過ぎた。滅茶苦茶に壊れた岸壁――いや、正しくは海水が上がって来た陸との境目、あるいは地盤が沈下し残った陸地の終点とでも言えばいいのだろうか、いずれにしろ、良平はその岸壁の上に立って沖を眺めた。黒い海面から、イルミネーションのように様々な灯りが漏れ輝いている高層ビルが一つ、夜空に向かって聳え立っている。
「あれのどこが沈黙の塔なんだ」
良平は潮風の中で不満げに呟いた。海に沈んだものの、偶然倒壊せずに残っているその派手な高層ビル以外、サタンの根城と思われる建物は見当たらない。
「泳いで行くしかなさそうだな」
彼は海の中へと入って行った。暗い海面には沈黙の塔の灯りが映え、色とりどりにきらめいていた。二百メートルほど泳いでビルに辿り着いた。これはあとから造ったものだろう、ビルの周囲は人工的に造園されているようで、草木が植えられていた。ベンチや噴水まであった。
「人でなしの住みかにしては風情があるじゃないか」
そう独り言を言ってはみたものの、サタンがどんな奴なのか、却ってわからなくなってきた。
「サタンも所詮は人の子か」
沈黙の塔の入口周辺には、サタンの手下のミュータントたちが屯していた。
「誰だ!」
良平の姿を見咎めたミュータントたちがぞろぞろと寄って来た。
「おまえたちを相手にしたくはないんだが」
ミュータントたちは手に手に武器を構えて良平に詰め寄って来た。
「そうもいかないみたいだな」
そう言うと、良平は電光を放った。ミュータントたちはバタバタと倒れ、あっと言う間に全員伸びてしまった。と、良平が一瞬息を抜いた途端、何かが猛烈な勢いで頭上に落下して来た。咄嗟に片手を翳して受けたが、気づいた時には良平の上腕部が切れ、血が流れ出していた。
「おまえはダークネス!」
「ふっふっふっ、間一髪のところで俺の刃を免れたな。それだけは誉めてやろう。だが貴様もここまでだ。飛んで火に入る夏の虫とは貴様のことだ。サロメ様が貴様の首を所望しておられる。何を血迷うてここまでのこのこやって来たのだ、増長天? 主に対する忠誠心のつもりか? だが遅かったようだな」
「ふん、俺はフェニックスだ。俺に主なんかない。おまえこそ死にたくなければ邪魔するな!」
言うと同時に、良平の拳が飛んだ。ダークネスはのけ反って交わそうとしたが間に合わず、鎧の胸当てがへこみ、後ろへ数歩よろめいた。
「なかなかやるな。だが暗闇こそ俺の得意とする所。貴様に俺の気配が読めるかな?」
そう言ったかと思うと、ダークネスの姿がスウーッと消えた。良平は幾分驚いたが、神経を張り詰めさせ、ダークネスの気配を読み取ろうとした。辺りはしんと静まり返っている。次の瞬間、ガツッと背中に衝撃を受け、彼は前につんのめった。慌てて体の向きを変えたが、今度は脇腹をザクッと切り裂かれていた。良平は急いで跳びすさると、建物の壁を背にした。これで背後から襲われることはなくなった。
(ダークネスの攻撃もしばらくはやむだろう。しかし全く気配がない。奴はどこにいるんだ?)
良平は周囲に気を配りながら、背中と脇腹にそれぞれ手を当てた。傷口がぱっくり開いて血が流れ出していたが、触っているとあっと言う間に傷口は閉じてしまった。
しばらくじっと見ていると、明滅するイルミネーションの様々な色の光の中に、時たまチラチラと人影が浮かび上がるような気がしてきた。
(もしかすると、この光に幻惑されているのかもしれない)
そう思った途端、
「焼き殺してやる! 食らえっ ダークネス!」
良平の両手が前に伸び、炎が噴き出した。向こうの植え込みに火が移り、めらめらと燃えだした。その時、火に照らされて黒い影が一つ、良平の右前方の地面に映し出されたのが見えた。影は長々とビルの壁にまで伸びていた。
(なかなか大した奴だ。声一つ出さない。だがこれで勝負ありだな)
彼はわざと左手の方に体を向け、そのまま身構えてみせた。しかし油断なく目の隅で影の様子を窺っていた。
「どうした、もうおしまいか? さては逃げたか、臆病者め!」
遠くに向かって大声でそう叫ぶと、影が音もなくゆるゆると近づいて来るのがわかった。やがて細長い剣の影が彼の手前まで伸びてきた。
「!」
良平は声一つ出さず、振り向きざまに左手を影の方に突き出していた。
「ぐはっ!」
そこにダークネスの姿が再び現れた。良平の指先がダークネスの鎧を突き破り、背中まで貫いていた。
「なぜわかった……?」
ダークネスは苦痛の声で訊いた。
「おまえが間抜けだったからだ。あの世へ行けっ!」
良平がそう言うと同時に、ダークネスの鎧の破れ目から赤い炎が噴き出した。
「ぐわあああああああ!」
ダークネスはみるみるうちに溶けていき、最後には灰だけが残った。
ビルの入口には、改造して取り付けたものだとわかる、派手な模様を塗りたくった観音開きの大きな扉があった。力を込めて押すと、中へ向かってゆっくりと開いた。中は真っ暗だった。と、急に眩しい白光が目に飛び込んで来て、良平は思わず片手を顔の前に持って行った。
「沈黙の塔へようこそ、招かれざるお客様」
どこからともなく女の声が響いた。良平はゆっくりと片手を下ろした。明るい光に照らし出されているのはだだっ広い部屋で、床も壁も天井も白一色だった。向こうの正面に人工の滝があり、水が音を立てて流れ落ちている。
入口の両側に向かい合わせに立っていたマネキンがお辞儀した。それと同時に手にした大鎌を良平に向かって振り回してきた。良平はそれを交わしもしないで、それぞれを左右の手で受け止めると、グイッと引いた。マネキン同士が空中で衝突し、バラバラになって白い床の上に転がった。そのマネキンの首が二つとも良平の方に顔を向けて口を開けた。
「ようこそ。死出の旅をごゆっくりお楽しみ下さい」
二つのマネキンの口から出た合成音が声を合わせてそう言った。すると、次に滝の上に人が姿を現した。黒い女物の衣装を身に着けている。黒い手袋、黒い帽子、顔も黒いベールで覆っていて、何者かはわからない。先程聞こえた声の主だろうか。
「おまえは誰だ?」
良平はその女らしき者に向かって訊いた。黒ずくめの女は黙って手招きした。滝の向こう側は一段高くなっている。上がって来いと言っているようだ。良平は小橋を渡り、滝を横に見ながら階段を上がった。女の後ろには何かが一列に並んでいるようだった。すぐにそれが何なのかわかった。長くて太い鉄の串に人の首が突き刺され、床に突き立てられているのだった。
「どう、私のコレクションは?」
「これは……?」
「ここの元支配者たち。それはヴィーナスとその配下。男に媚を売りながらしたい放題のことをしてきたけど、私の癇に障ったから死んでもらったのよ。あの美しい顔も、今は見るも無惨なものね、おほほほほ。その隣はタイコーとその配下」
良平は言われた方に目をやった。
「アシュラを取り逃がしたけど、いいわ、あんな知能の低い獣なんか」
その中には良平も一度出会って戦った、ダイミョーとハタモトらしき首もあった。
「そしてあちらはあなたのお仲間たち」
良平は歩いて行き、そこに並んでいる首を眺めてみた。持国天、広目天、多聞天のそれぞれの首に続いて、帝釈天の首も並んでいた。
「おまえは何者だ?」
良平は黒ずくめの女を睨み返した。
「私はこの大阪シティの女王、サロメよ。そして、近いうちにこの国の女王になるの。その前にすることがあるわ。何かわかるかしら?」
「知ったことか」
「私の未完成のこのコレクションを完成させなくては。足りないのはあと二つ、逃げた夜叉王と増長天の首だけ。でも幸いなことに、今夜その片方が手に入りそうね、ほっほほほ」
サロメはけたたましく笑い声を上げた。良平もサロメに合わせて一緒に笑ってみせた。サロメは笑うのをやめた。
「何がおかしいの。それとも、恐怖で気が変になったのかしら?」
「違うな。あんたは間違ってる。だからおかしくて笑っただけさ」
「私が間違ってるですって?」
「そうさ。俺は親切だから、あんたに正しい答を教えてやろう。ここに並ぶ残り二つの首は、あんたの亭主、魔王サタンと、そしてあんた――」
良平はサロメに向かって指を突きつけた。
「自惚れの強い女王サロメの首だ。わかったかい」
サロメはしばらくの間、良平を見返していた。いや、ベールに隠れてよくわからなかったが、良平に顔をじっと向けていた。やがて言葉を発した。
「勇気があって、凛々しくて、惚れ惚れするような素敵な殿方だわ。四天王みたいな醜い化け物どもの仲間なんかにしておくのはもったいない。是非ともあなたを私のコレクションに加えることにしましょう」
サロメが言い終わった途端、灯りが突然消え、辺りが真っ暗になった。数秒後、向こうの螺旋階段が照明に照らし出された。サロメはその階段にいた。
「あなたは特別。歓迎の用意をして上で待っていますことよ」
そう言うと、サロメは上へ上がって行った。良平はサロメのあとを追おうとしたが、罠が仕掛けられていることに用心しながら、ゆっくりと階段を上って行った。
上の階もただだだっ広いだけで、何の飾り気もない白一色の広間だった。床も壁も白く塗られていて、窓一つない。明るい照明が辺り一面を照らしているだけだ。サロメの姿はそこにはなかった。高い天井を見上げてみても、何もなかった。
「サロメ、どこへ逃げた? 怖じ気づいたのか」
良平は挑発的な口調で言った。サロメの返事はなかったが、代わりに天井から何かが降りて来た。良平は白い部屋の中央に降り立った物に何気なく近づいてみた。ガラス製のサタンの像だった。強い光を受けて輝いて見える。
「こんな物造って喜んでるなんて、おまえたちも結構悪趣味だな。がっかりしたぜ」
良平がそう言うと、どこからともなくサロメの声が響いてきた。
「そこは格闘場なの。まずはあなたのお手並み拝見といこうかしら」
途端にガラスのサタン像が動き出した。良平は咄嗟に跳び退いたが、既に左肩に切り傷ができていた。サタン像のガラスの爪から血が滴り落ちている。サタン像はゆっくりとガラスの翼を拡げた。次の瞬間には良平に向かって突進していた。良平は反射的に右の拳を突き出したが、サタン像には当たらなかった。ガラスのゴーレムは宙に浮かんでいた。
「ほほほほほ、遅いこと。口ほどにもない。そんなおもちゃに手こずってるようだと、とても私たちを相手にするなんて無理な話よ。おほほほほ」
サロメの笑い声が白い広間に響き渡った。
「ふん」
良平は鼻先で笑ってみせた。サタン像が真上からまた攻撃してきた。良平は左腕をサッと上げてガラスの爪をよけようとした。サタン像の右手の爪が左上腕部にザクッと突き刺さった。しかしサタン像は先程のようには飛び上がって逃げることができなかった。良平が左手でそのままサタン像の右腕を捕まえていたからだ。
次には良平の右手が飛んだ。サタン像の首が音を立てて砕け散った。ひび割れた頭が白い床にゴロッと音を立てて転がった。良平はそのまま左手に力を入れた。サタン像の右腕にひびが入ったかと思うと、たちまちバキッと折れてしまった。サタン像が飛び上がって逃げようとする前に、更に良平の右手が胸の中央部を突き上げていた。ガラスの体にはひび割れが走り、翼が崩れ落ちたかと思うと、サタン像の体は宙に浮いていられなくなり、真っ直ぐ床に向かって落下した。床に衝突したサタン像は、脆くも粉々に砕け散ってしまった。あとにはガラスの破片が散乱し、光を受けてキラキラと輝いているだけだった。
「他愛もない。子供騙しだな」
「ふっふっふっふっ、それはお遊びよ。上がって来なさい」
サロメの声と共に壁の一部が開いた。良平は歩いてその中に入った。扉が閉まり、上昇し始めたようだ。
「へーえ、エレベーターまでちゃんと動いてるじゃないか」
やがてエレベーターが停まり、ドアが開いた。出てみると、そこには電灯が燈ってはいるものの、薄暗く、荒れ果てたままになっていた。白骨化した死体がいくつか見えた。
「なんだ、上の方はちっとも片づいてないな」
良平がそう言うと、すぐにまた隣のエレベーターのドアが開いた。
「まだ上に行かせるつもりか。よっぽど高い所が好きなんだな」
エレベーターは最上階で停まった。降りてみると、冷たい風が吹きつけてきた。天井も壁も崩れ落ちている。ビルの外壁のライトが辺りをぼうっと明るくしている以外は、遠くにぽつぽつと小さな灯りが見えるだけだ。あとは暗闇がどこまでも広がっていた。
「沈黙の塔へようこそ」
頭上でまたサロメの声がした。良平が思わず見上げてみると、何かが空中に浮かんでいた。目を凝らしてみたが、暗くて確認できない。良平は火を放った。そこには巨大な円筒が上空に向かって果てしなく伸びていた。暗かったせいか、下から見た時は見えなかったが、どうやって立っているのか、支柱も何もなく、ビルのてっぺんから十メートルほど離れた所から、天空に向かって宙に浮かんだまま突っ立っているのだった。
よく見てみると、真っ黒い円筒の内側を巻くようにして、螺旋階段が上へ向かって伸びているようだった。彼は迷わず床を蹴った。
「ここはあなたの墓場になるのよ。ふっふっふっふっ」
サロメの声がまた不気味に響いた。良平は構わず沈黙の塔の内側に沿って階段を上って行った。しかしかなり上ったと思われたのだが、なかなか頂上には辿り着かない。良平はふと足を止めて見上げてみた。
「どうしたの? もう疲れてしまったわけじゃないでしょう? おほほほ」
またサロメの笑い声が聞こえてきた。
「いい加減に姿を現したらどうだ」
サロメに向かって呼ばわったつもりだったが、声にはならなかった。言葉は口から外へ出た瞬間、スッと消えてしまった。驚いている間もなく、近くに馬鹿でかい目が二つ出現した。良平はその目に向かって攻撃を仕掛けようとした。と、どうしたことか、体が全く動かなかった。二つのサロメの目は良平に向かって、暗闇の中で笑いかけていた。
「ここがあなたの墓場だと言ったでしょ」
サロメが言ったあと、暗闇から悪魔の片腕が飛び出してきて、鋭い鉤爪で良平の胸を深く抉った。
「うわ……」
叫び声にはならなかった。良平は沈黙の塔の中を墜落して行った。身動き一つ取れないまま、やがて全身を激しい衝撃が襲った。彼の体はビルの最上階の床を突き破り、一つ下の階の床に叩きつけられていた。
「ほほほほ、口ほどにもないこと」
サロメは良平の傍らに立ち、ベールを少し持ち上げて見下ろした。
「少し物足りなかったけど、いいわ、あなたも私のコレクションに加えてあげるわね」
そう言って屈み込むと、サロメは良平の首を鉤爪のついた手でつかもうとした。
「それはまだ早いんじゃないか」
良平の手が逆にサロメの喉首をつかんでいた。途端にサロメの体に火が点いた。
「ギャアアアアアッ!」
サロメは慌てて跳びすさった。
「ちょいと早合点だったようだな」
良平は言いながら、ゆっくりと立ち上がった。サロメのベールはあっと言う間に燃え尽きてしまい、若い女の顔が現れたが、驚いたことに、その顔まで炎に包まれ燃え出すと、あとには皺だらけの黒ずんだ老婆の顔が残った。
「おのれぇっ! 私の素顔を見たな」
落ち窪んだ目をぎょろつかせながら、サロメは恐ろしい声でわめいた。
「生かしてはおかぬ!」
サロメは四つん這いになった。着ていた黒服が燃え尽きると、顔だけ老婆の四つ脚獣が姿を現した。茶色い毛のない体には、深い皺が何本も刻まれている。
「女王サロメの正体は、二目と見られぬ醜い化け物か」
良平はわざと挑発するように言った。
「化け物だと! 言ったな。許さん!」
サロメは老婆の顔で牙を剥きながら良平に飛びかかった。その瞬間、良平の全身が火を噴いた。
「ギャアアアアアアアアッ!」
サロメの体は炎に押し上げられ、沈黙の塔の内側を上昇して行く。塔の中はたちまち炎の渦で満たされ、巨大な煙突と化した。
やがて黒焦げとなったサロメの体が、細切れの破片となって降って来た。良平は飛び上がってまた最上階に出た。沈黙の塔は幻のように消えていた。
「サロメは死んだぞ。サタン、出て来い!」
そう呼ばわると、耳を澄ましてしばらく辺りを見渡していたが、冷たい風が闇の中を吹き抜けて行くだけで、何の変化も顕れなかった。
「留守か……」
ぽつりと呟くと、良平はおもむろに歩き出そうとした。突然、床を破って手が現れると、彼の足首をつかんだ。考える間もなく、良平は猛烈な力で床下に引きずり込まれた。次には背中に強い衝撃を受け、体が宙に舞った。気がついて視線を下げると、自分の胸の真ん中を貫いて、鋭い鉤爪のついた掌が飛び出していた。
「サタンか……?」
サタンは無言で、良平をそのまま放り投げた。良平の体は二百メートル近い高さから、血飛沫を上げながら真っ直ぐ地面目がけて落下して行った。ドーンという音が響いた。
ミュータントたちが寄り集まって来た。前庭の石畳を割って地面にめり込んでいる人間の死体を、まるで暇潰しのように眺めている。すぐにサタンが翼を拡げて上空から降りて来た。
「サロメを倒したことは誉めてやるが、この俺に立ち向かおうとしたのは命知らずだったな」
「サタン様バンザーイ!」
サタン配下のミュータントたちは、事のしだいもよくわかってはいないのに、声を合わせて叫んだ。遠くでヘリコプターのプロペラ音がしている。サタンは夜空を少し見上げてから、足元に埋まっている良平の体を片手で引き上げた。自分が空けた胸の穴にもう一方の手を突っ込むと、そこから何か小さな金属片をつまみ出した。
「それは?」
配下のミュータントが尋ねた。
「発信機。悪党どもめ、性懲りもなく次から次へと刺客を送り込んで来やがる」
サタンは吐き捨てるように言った。とその時、サタンの周りにいたミュータントたちが、叫び声を上げると同時に燃え上がった。サタンは振り返った。そこにはオニビが青白い炎に包まれて立っていた。
「あの時の小娘か。命拾いしたことももう忘れたのか? そんなに死にたいか、小娘」
「その人の仇だ」
オニビはサタンを憎しみの籠もった燃える眼で睨みつけていた。
「ふん」
サタンは良平の死体を無造作に放り投げた。
「そんなに愛しいのなら、今すぐこいつの所へ送ってやろう」
サタンは黒い翼を拡げて飛び上がった。しかし急に後ろから突風が吹きつけてきて、サタンは空中でバランスを崩した。背後に忍び寄っていたつむじ風が風を巻き起こしたのだった。それを見て、オニビがすかさず火を放った。サタンは逆巻く炎に包まれたが、前回と同じく、オニビの力では及ばないようだった。
「ふっふっふっふっ、効かんな」
サタンは両足の鉤爪で地面を捉えると、背中の翼をたたんだ。今度はその体がコマのように回転し始める。オニビとつむじ風は後ずさりした。
「今度はこちらから行くぞ」
サタンの体が飛び上がると同時に、オニビの体が猛烈な勢いで弾き飛ばされ、ビルの壁に叩きつけられた。オニビの鋼鉄の胸当てが切り裂かれていた。
サタンは更に跳躍すると、高速で回転したままつむじ風に襲いかかった。つむじ風は急いで旋風を巻き起こそうとしたが、間に合わなかった。目にも止まらぬ素早さで、サタンの鉤爪がつむじ風の腹を突き破っていた。つむじ風はふっ飛ばされ、地面をごろごろと転がったあと、眠るように目を閉じて動かなくなった。腹から胸にかけて肉も骨も内蔵も抉り取られていた。
「小娘、鎧に助けられたが、次はそうはいかんぞ」
サタンは淡泊な口調でそう言いながら、壁に凭れ掛かって胸から血を流しているオニビに歩み寄った。
「悪魔め……」
苦悶に表情を歪ませたまま、オニビが憎々しげに呟いた。
「ふっふっふっ、そうだ、俺は悪魔だ。この世に生きとし生ける全ての者に、死と恐怖の味を味わわせてやる。この世に生まれたことが、後悔以外の何ものでもないということを知らしめてやる。俺はまさしく死の番人だ。死ね、小娘!」
サタンは右手の鉤爪を振り翳した。
「ぐわっ!」
その掌を刀の刃が貫いていた。サタンは刀を抜こうともせず振り返った。白い着物の般若の面が刀を突き出していた。
「おのれ!」
サタンは掌を刀から引き抜くと、般若に向き直った。
「死にたい奴がもう一人いたか」
「死ぬのは貴様だ、サタン」
般若の面がいくつにも分かれ、あっと言う間に分身がサタンを取り囲んだ。
「はっはっはっ、そんな子供騙しがこの俺に通用するか」
サタンはまた翼をたたんで回転を始めるや、猛烈な勢いで般若の分身に次々と体当たりしていった。その度に、サタンの鉤爪と般若の刀が衝突して火花を散らした。
「サタン、死ねい!」
般若の分身が揃って宙を舞った。そうしてあらゆる方向から一斉にサタンに斬りつけた。サタンの全身にいくつもの切り傷ができた。
「ふっふっふっ、さっぱり効かぬな」
サタンは笑顔も作れない気味の悪い悪魔の顔つきのまま笑い声を洩らした。般若の分身は幾分たじろいだかのように見えた。
「次はこっちの番だな」
そう言うと、サタンはまたコマのように回りだした。そうして突如火を吐いた。般若の分身たちは跳躍して炎を避けたが、サタンもそのまま飛び上がっていた。たちまち辺り一帯が火の海と化した。般若は悲鳴を上げて地面に墜落した。もう分身は消えていて、一人の女が苦しげに喘いでいるだけだった。
「とどめだ」
サタンは倒れている般若に歩み寄った。
「待て」
予期していなかった男の声が聞こえたので、サタンは立ち止まって辺りを見回した。心臓が止まっていたはずの良平がゆるゆると起き上がったので、さすがのサタンも驚いた。
「貴様、生きていたのか?」
良平は俯いたままよろよろと歩きながら、サタンの方に近づいて来た。見ると、確かに胸に空いていたはずの穴が塞がっていた。
「ふん、化け物め。今度は二度と生き返れないように、灰に変えてやる」
言ったかと思うと、サタンはカッと口を開いた。たちまち良平の全身は炎に包まれた。しかし良平は燃え盛る炎の中で顔を上げると、ニヤッと笑みさえ浮かべてみせた。
「おい、サタン、自分自身の力がどれくらいのものか、今まで自分の体で試してみたことがあるか?」
「な、何?」
サタンは幾分たじろいだ。慌ててまた良平目がけて炎を吐き出した。その炎の勢いが徐々に弱まっていった。
「どうした、ガス欠か?」
「ううう……」
サタンは柄にもなく呻いた。
「だったらそろそろこの辺でおまえの炎をお返しするぞ」
良平は片手をサタンに向けた。全身の炎が掌から噴き出した。体に火が点き、猛烈に吹きつけてくる炎の勢いに押され、サタンはジリジリと後退して行った。
「ついでにおまけもつけてやるぜ」
もう一方の掌もサタンに向けると、そこからも炎が噴き出した。サタンは吹き飛ばされ、そのままビルに激突すると、壁がガラガラと崩れ落ちた。あっと言う間にビルにも火が燃え移った。
しばらくして、良平は火を放つのをやめた。炎と煙で、サタンがどうなったのかは見えない。やがてサタンが炎の中から姿を現した。
「ふふふ、どうした、若造」
「これくらいでおまえがくたばるなんて思っちゃいないさ」
サタンの皮膚は所々焼けてしまっていて、骨が剥き出しになっていた。骨かと思ったが、そうではなかった。金属のような何かだった。
「おまえは一体何者なんだ?」
良平は突然この化け物に対して疑問を持った。サタンは不気味に笑った。
「ふっふっふっ、その答はおまえが一番よく知っているはずだ」
「馬鹿な。おまえなんか知らん」
「俺はこの世の者ならぬ者。そしておまえは――」
サタンは良平に向かって指を突きつけた。
「俺と同じ運命を辿ることになる」
「何?」
「その答が知りたければ、あとでゆっくり教えてやる。おまえが生きていればの話だがな。ふっふっふっふっ」
サタンはまたもや回転を始めた。
「死ね、若造!」
叫ぶと同時にサタンが地を蹴った。猛スピードで突進して来たが、良平はよけずに片手を突き出した。掌から血飛沫が飛んだ。
「ぎゃあああ!」
悲鳴を上げたかと思うと、サタンは回転をやめた。その右手からは鋭い鉤爪が消えていた。三本の鉤爪は良平の掌に突き刺さっていた。
「おまえは……気が狂ってるのか?」
サタンが呻いた。
「これが最後だ、サタン」
言ったかと思うと、良平はカッと眼を見開いた。空中に青い火花が飛び散り、バチバチと音を立てた。途端に電光が閃き、鉤爪を失ったサタンの右手首に吸い込まれた。
「ぐうぇえええええええ!」
サタンの全身が稲妻に打たれて眩い光を放った。やがて良平が目を閉じると、稲妻は消えていった。体のあちこちから煙を出し、サタンは燻りながら地面にうつ伏せに倒れた。良平はじっとサタンの背中を見ていた。
「時仲」
般若が起き上がって呼びかけた。良平は振り向いた。
「あんた、ここへ何しに来たんだ?」
「オニビ様がおまえを追って行ったからじゃ。お守りするようミロク様のお言いつけで参ったまでのこと。おまえを助けに来たのではない」
「それで、オニビは守れたのかい?」
般若は悔しそうに唇を噛みしめて良平を睨み返したが、何も言い返さなかった。良平はオニビを見つけて歩み寄った。
「鎧を着てたから命拾いしたようだな。サタンと闘おうなんて、無茶な」
「つむじ風が……」
オニビは胸の傷を押さえながら小声で言った。良平はつむじ風の倒れている所へ行き、屈み込んで様子を見てみたが、つむじ風は息をしていなかった。
「もう死んでる」
「ふっ、そなたも存外甘い男よな。死ぬ覚悟もなくて闘えるものか。我らはもとより死ぬ覚悟で来たのじゃ」
「うるさい!」
良平は思わず声を荒げた。
「おまえの物言いにはもううんざりだ。頼むからどこかへ消えてくれ」
良平は抱えていたつむじ風の頭をそっと地面に下ろした。般若は面をかぶり直すと、黙って暗闇の中へと姿を消した。上空で唸りを上げていたヘリコプターのプロペラ音が大きくなった。
二機のヘリコプターがサーチライトで良平たちを照らしていたかと思うと、間もなく近くに降下して来た。着陸したヘリコプターからは、銃を持った人間の兵士たちが素早く降りて来た。遅れて背広姿の男が地上に降り立った。そのまま真っ直ぐに良平の方に近づいて来る。男は良平の顔をチラッと見たあと、地面に伏して動かなくなったサタンの姿をじっと凝視した。再び視線を良平の方に戻すと、
「ご苦労だったな」
良平に向かってそう声をかけてきた。
「なんであんたがここにいるんだ?」
良平は面食らった。背広姿の男は、東京中央政府の元田国防事務次官だった。
「作戦の第一の目的は達成した。裏切り者のサタンは遂に死んだ。もっとも、望月博士を取り逃がしてしまったが、これは私のミスでもある。あの赤坂が反政府組織のスパイだとは気づかなかった。赤坂は恐らく望月を連れて、東京に引き返している頃だろう。なに、心配は要らん。我が包囲網を持ってすれば、奴らを捕縛するのも時間の問題だ」
元田は自信満々に話した。
「一体あんたは何を言ってるんだ?」
元田は良平の顔をじっと見返したが、しばらくして笑い出した。
「はっはっはっ、そうだったな。今のきみには何のことかわかるはずがないのだ。きみの脳には、サタンを消すことと、望月を捕まえて来るという指令だけしかプログラムされていないからな。どういう経緯でこの化け物を倒すに至ったかは知らんが、とにかくきみは目標を見事達成した。私の人選に誤りはなかったというわけだ」
「何だって?」
元田はまたサタンの方に向き直ると、
「薄汚い化け物め、命を助けられた恩も忘れおって!」
そう言いながら、サタンの死体を靴の踵で蹴飛ばした。
「おい、どういうことか説明しろ。俺にはさっぱり訳がわからん」
良平が苛立って言うと、
「なんだ、なんだ、すっかり忘れてしまっているのか。真鍋の腕前も大したものだな。時仲クン、きみは一年ほど前に東京から逃亡を企て、それにしくじり投獄されたのだ。その時一緒に逃げて、射殺されたきみの恋人をクローンとして蘇らせるという約束で、きみは私の親衛隊員になったんじゃなかったかね? どうしても思い出せないのなら、契約書がここにある、これを見たまえ」
元田は内ポケットから紙切れを取り出した。良平はその紙切れを手に取って見た。確かに自分の手になるサインがしてあった。
「まさか……。あんたの親衛隊員だと? 俺は知らんぞ」
「私は約束は守る男だ。理沙とかいったね、恋人の名前は?」
良平は黙って頷いた。理沙のことはもちろん自分の記憶にあるし、理沙が死んだことも、忘れたくても忘れられない記憶としていつも自分の内に存在している。だが、元田は一体何を喋っているのか?
「目が不自由だったそうだな? 心配は要らんよ。真鍋博士の腕は確かだ。うむ、あそこまでいけばマニアだな、人造人間の。そのサタンを人工の怪物として蘇らせたように、理沙も保存してあった細胞から、もう既にクローンとして蘇りつつある、生前と瓜二つのな。今度は恐らく目だって見えるようになっているだろう。
科学の進歩は目覚ましいよ、今世紀初頭に一旦は崩壊したとはとても思えん。少なくともこの分野に於いては、二十世紀の技術を遙かに凌いでいる。SNR社の最新設備を用い、急速培養という技術により、きみが東京に戻った頃には、その目で成人した恋人の姿を見ることができよう。残念ながら、きみの記憶までは理沙のクローンの中に残ってはいないだろうから、しばらく教育を施す必要はあるがね。ともかく、きみにはまだまだ頑張ってもらわなければ。まだまだ邪魔者も多いことだし」
良平は契約書をもう一度、穴の空くほど読んでみた。しかしどう読んでも、元田の言った通りのことが書かれていた。彼は元田にペンを要求すると、念のため、契約書にある自分の名前のサインの上に並べてサインしてみた。どう見比べてみても、自分の字だった。
ところがにわかに、今まで忘れていた光景が脳裏に浮かび上がってきた。「撃て」と言う声と共に、自分の体に銃弾が何発も撃ち込まれた。記憶は一瞬で途絶えた。
「じゃあ、あれは何だったんだ? 望月捜索チームは?」
「きみの発案だったではないか――大阪に入り込み、望月を捜すには人数が必要だと」
「あいつらは犠牲になったのか?」
「最初からそういう取り決めだったろう」
「じゃあ、原口は? 奴はあんたの手下じゃなかったのか?」
「大きな目的を成し遂げるためには、ある程度の犠牲は付き物だ。なに、きみは何も悩むことなどない」
「何を言ってるんだ……? おまえは……、何を言ってるんだ?」
良平は取り乱してしまった。頭の中が惑乱されてどうしようもなくなり、立っていられなくてその場に膝を着いてしまった。次には二人の男の顔が脳裏に浮かび上がってきた。その片方は他でもないこの元田だった。もう一人の男が、
「このまま死ぬか、それとも我々と契約するか選びたまえ」
良平の記憶の中でそう言っていた。どうやら自分は手術室のような場所で寝かされているようだった。
「本当に理沙を生き返らせてくれるんだな」
記憶の中の良平は男にそう言い返した。それに対して男も元田も頷いてみせた。続いてまた別の場面が浮かんできた。
「必ずやサタンを殺してこい。そのためには望月博士を見つけ出さなければならない」
記憶の中で元田が良平に向かってそう言っていた。
「ああああー!」
良平は両手で頭を抱えて叫び声を上げていた。
「ははは、どうしたんだね? 今は余計なことは考えない方がいい。戻って真鍋に復帰手術をしてもらえば、全て思い出すだろう。完璧に思い出すだろうし、納得もできるだろう。復帰手術は、大脳の特定の部分に局部刺激を与えるだけという簡単なものだそうだよ」
元田は笑って良平の肩に手を置くと、軽くぽんぽんと叩いてみせた。その時、何者かがその元田の喉首をつかんだ。
「ひゃっ!」
元田は悲鳴を上げて振り返ろうとした。そこには焼け焦げたサタンの顔があった。
「き、貴様、い、生きて……」
元田の顔が恐怖に歪んだ。
「抜かったな、元田のおっさんよ。自ら死地に赴いて来るとは、あんたも焼きが回ったか」
「ままま、待て!」
サタンは元田の慌てぶりを楽しむかのように、元田の顔に自分の顔を近づけてニヤッとした。けれどもサタンの笑い顔はやはり人間の笑い顔にはならなかった。
「た、助けろ、時仲!」
それが元田の最後の言葉だった。サタンの左手が元田の首をそのまま握り潰していたからだ。良平の顔に元田の血が降りかかった。彼はそれを拭おうともしなかった。兵士たちが慌ててサタンに銃を乱射し始めた。良平の体にも見境なしに無数の銃弾が撃ち込まれた。
「わはははは」
サタンは銃弾などものともせず、翼を拡げて飛び上がると、片手の鉤爪で国連兵たちを次々に切り裂いていった。あっと言う間に兵士たちは全滅した。軽く片をつけると、サタンは良平のそばに戻って来た。
「死んでなかったのか」
「ふふふふ、甘く見てもらっちゃ困る」
サタンはそう言っただけで、良平と再び闘う姿勢は見せなかった。
「俺にはわからない。俺は一体ここに何しに来たんだ?」
「教えてやろう、おまえが俺と同じ運命を辿ると言った意味をな」
サタンは切り落とした元田の首を左手の鉤爪に刺して拾い上げると、満足そうに黙ったまま、しばらくその死に顔を眺めていた。
「俺はこいつがさっき言った通り、真鍋という、気の狂った科学者の手で造られた殺人兵器だ。俺は大戦で戦死した。いや、死ぬ直前に、この元田と真鍋に命を助けられた。そしてすぐに改造手術を受けた、人間兵器というこいつらの構想の下にな。無論、俺の意志など関係ない。俺はその時は、生死の淵を彷徨っていたんだからな。
俺は生き返った時、当然驚いた。鏡に映ったその姿は、悪魔と呼ぶしかないものだったのだから。しかし、一旦命を救われたという恩を受けた以上、こいつらには逆らえなかった。俺の要望など入り込める余地はない。どうせ俺は一度は死んだ身だ。
だが、その時の俺の気持ちがおまえにわかるか? よっぽどあの時死んでいれば良かったといつも思ったぜ。俺は我が身のおぞましさに何度も気が狂いそうになった。その自己嫌悪を紛らわす方法はたった一つしかなかった――戦って、相手を殺すことだ。こいつらは事ある毎に、おまえは無敵の神として蘇ったのだと、俺を慰めるようにして発奮させようとした。こいつらは俺を殺しのために造ったのだからな。それも、私利私欲のための殺し以外の何ものでもない殺しのためにだ。
俺はサタンとして蘇ってから、大戦で何人敵を殺したか知らない。それも大っぴらにはやらない。闇に隠れて次々と殺していくのだ。面白いほど簡単に敵の将校や兵士たちは死んだ。いや、敵とは限らない。敵だろうが味方だろうが、金を受け取り、殺してくれと頼まれた奴らを殺すだけのことだ。元田と真鍋は俺で大儲けしたのだ。
しかし間もなくあのおぞましい戦争も終わった。あの惑星が降って来たからだ。俺は身の置き場を失った。死ぬまで人目につかない所に隠れていなければならないのかと、暗い気持ちになったものだ、信じられないだろうが、この悪魔サタンがだ。俺はいつになったら死ねるのか? いや、そうではなかった。世間に出てみれば、俺みたいな化け物で溢れ返っていたのだ。元田も真鍋も決して善人ではない。俺の使い途をすぐに思いついたようだった。
俺は東京で幅を利かせてた奴らを次々に殺していった。元田と真鍋は奪い取った金品で東京に地盤を築くと、勝手に政府の樹立を宣言した。同じ手で、国連治安維持軍の上層部を買収し、各国に自分たちがこの国の代表者だと認めさせることに成功した。東京中央政府の元首を知っているか? ジョージとかいう腑抜け野郎だ。あいつは実は俺の出来損ないなのだ。つまり人造人間、真鍋の失敗作だ。言葉もろくに喋れない。あれはただの置き人形さ。この元田と真鍋の二人こそ、中央政府の黒幕なのだ。
東京だけでは飽き足りなくなった元田と真鍋は、次に大阪に手を着けた。ここでも俺の出番が巡って来た。国連軍を自由に操れるようになったこいつらに、今更俺は必要なかろうと思っていたのだが、国連軍はここのミュータントどもに敗れてしまった。俺はまたしてもこいつらの命令通り、大阪にやって来たが、今度はこいつらの命令には従わなかった。俺は独立してやろうと考えたのだ。
案の定、元田と真鍋は俺を放ってはおかなかった。次から次へと刺客を寄越して来た。だが、ふふふ、どいつもこいつも話にならなかったな。真鍋博士は俺以上の人造人間は造れなかったようだ。そしておまえを寄越して来た、ただの無力な人間を。元田が考えたことは容易にわかる。この俺を除くには、真鍋の人造人間では不足だということだ。そこでもう一人の天才、望月博士を使おうとした。もちろん望月が力を貸すはずがないことはわかりきっている。しかし結果は成功した。現におまえは望月の人工ミュータントとなっているのだ。つまりこの俺と同じだ。おまえはこれから修羅の道を歩まねばならんだろう。そのことに関しては同情するぜ、悪魔に成り変わったこの俺でもな」
「なぜおまえは望月のことまで知ってるんだ?」
「帝釈天から聞き出した」
「帝釈天?」
確かに帝釈天は望月のことを知っていた。
「おまえが信じたくなければそれで構わん。だが、俺は嘘は言ってない。嘘を言ったところで何にもなるまい。いや、そんなことはどうでもいい。おまえに残された道は二つしかないのだ。戻ってまた奴らの手先となって働くか、俺のように奴らを裏切り、奴らに命を狙われ続けるか」
「道は二つしかないだと……?」
「ふっふっふっ、そのどちらも嫌だというのなら、もう一つ方法がないわけでもないが。俺はいずれ東京に戻り、真鍋を殺すつもりだ。この悪魔サタンの生みの親を、俺のかつての命の恩人をな。まあ、俺がのんびりしてる間に他の誰かに先を越されるかもしれんが。望月は反政府組織の手に渡ったというではないか。どちらにしろ、俺は解放されるのだ」
「それでおまえはどうする気だ?」
「俺の好きなようにするだけだ。俺が悪魔として生まれ変わらされたのなら、それもいいだろう。この世を地獄に変えてやる。そして俺が悪魔なら、おまえも悪魔だ、違うか? 俺は少なくとも自分の意志でこうなったのではない。だがおまえは自ら契約して、人間であることを捨てた。女一人を生き返らせたいがために、おまえは一体何人の命を犠牲にしてきたのだ? おまえに俺が非難できるか。一つ証拠を見せてやろう。左手の甲を見てみるがいい」
良平はサタンに言われるがままに、自分の左手の甲を見た。そこには各頂点に円を持つ正三角形が描かれていた。それを見ていると、彼にはまたしても忌まわしい記憶が甦りかけてきそうな気がしたので、慌ててその模様から目を逸らした。
「これを見るがいい。おまえと同じものだ」
サタンは自分の左手の甲を良平の眼前に突きつけてみせた。
「…………」
「悪魔の烙印だ。良心を悪魔に売り渡した者の証さ」
そう言うと、サタンは背中の翼を拡げて飛び上がった。
「俺と同じ道を歩むがいい、時仲良平。いや、人間を自ら捨ててミュータントとなったのだ。人間の名も捨てるがいい。おまえは望月博士の最高傑作、フェニックスだ。己が欲望を満たすために中央政府の極悪人どもに魂を売り払い、殺人鬼の望月にその肉体までも捧げた。悪魔の道を歩め。それがおまえにはお似合いだ。おまえは本来悪なのだ。自ら悪の道に踏み込んで行った。なあに、別に非難してるわけではないさ。気に病むことなどなかろう。俺のように悪に徹するがいい。そうすれば良心などすぐにどっかへ行っちまうさ、簡単にな。あぁっははははは――」
サタンは良平を嘲るような笑い声を高々と上げながら、暗い夜空に消えて行った。オニビがいつの間にかそばに来ていた。
「恋人が……いるの? その、その恋人のために……」
オニビの言葉が胸に突き刺さった。良平は動揺と混乱のためにまたもや立っていられなくなった。今にもよろめいて、その場に倒れてしまいそうだった。
ビル全体が火に包まれ、崩れ始めたので、オニビは茫然としたままでいる良平を引っ張って、海辺まで避難させた。いつの間にやって来たのか、二人の前にはあの言葉を喋るミュータント犬が四つ足で立っていた。
「おまえか……。おまえの言った通りになった」
良平は犬に向かって力なく言った。
「俺はここに来て、後悔することになった。何も得ることもなく……」
「おまえの記憶は、放っておいてもいつかは甦ってくるだろう。記憶が消されたわけではないのだからな。今のところ、その特定の記憶を意識に取り出せないようにしてあるだけだ。だが、何かのきっかけで一つずつ思い出していくことだろう。その時、おまえの苦しみは今の十倍にも百倍にも膨れ上がっていくかもしれない」
「……どうすればいいんだ?」
犬は無表情のままじっと良平を見返していた。
「そんなこと、俺にはわからん。サタンの言ったように、サタンと同じ道を歩むか、それとも苦しみに耐え続けるか……」
良平は項垂れた。目前に、死んでいったジョウ、山口、万吉、町田、そして京子の死に顔が次々と浮かび上がってきた。田代の泣き顔までが浮かんできた。
「おまえは一体何なんだ? わざわざ俺に賢人めいた言葉で助言しようとし、俺を破滅させたがろうとする」
良平はもう一度犬の方を向いて言った。犬は笑った。笑ったように見えただけかもしれない。
「俺はおまえに同情している」
「ふん、よしてくれ」
「なぜなら、俺も真鍋の実験台だったからだ」
「実験台?」
良平は犬の意外な言葉に面食らった。
「俺は実は体を持っていない。それとも、犬の俺には人間の記憶が植えつけられていると言った方が正しいのだろうか。正確には、俺はミュータント犬ではない。俺の体は、大脳だけ人間の遺伝子を組み込まれて造られたクローン犬だ。母親はただの野良犬。脳の親は誰なのか知らん。人間だとわかっているだけだ。だから俺は体は雌犬だが、自分では人間の時そうだったように、男だと思っている。そしてその俺は脳とはまた別の俺で、この脳に植えつけてある記憶なのだ」
「ややこしい話だな」
「今この犬に命令を送って喋らせている記憶こそほんとの俺自身なのだ。犬の体も、人間の大脳も、どちらも俺が巣くっている住みかに過ぎない。それとも、俺が『俺』と指して呼んでいる自分が、この犬の体、あるいはこの頭の中の大脳の場合は、これらのことを喋らせている俺の記憶は、俺のものではなく、別の大脳にあった記憶だと言った方がわかるだろうか? つまり、真鍋は俺を速成させるため、この記憶の持ち主だった方の俺のこの記憶を、犬の俺の中にできた俺の人間の大脳に移したのだ」
「ややこしいけど、言いたいことはわかったよ。つまりおまえさんは、犬の体が自分なのか、人間の記憶が自分なのか迷ってる」
「俺はサタンとよく似ていて、死が間近に迫っていたから、記憶を生き長らえさせてくれるという真鍋の提案を快く了承した。そこはサタンとは違い、おまえと同じく、自らの意志でしたことだ。だが、まさか犬の体を与えられるとは思ってもみなかった。昔の俺は自分の知能を愛しすぎていた。愚かなことだった。俺にはサタンの気持ちもわかるし、おまえの気持ちもわかるつもりだ」
「つまり同情してくれてるってわけか」
「そうじゃない。俺は実験と称して東京の街中に放り出された。俺は人間から見れば犬だろうが、犬から見れば犬ではないのだ。俺は野良犬の群に何度も襲われた」
「さっきはヘルハウンドどもを懲らしめてたじゃないか」
「あんな能力があることに気づいたのは、つい最近のことだ。それとも、自分の身を守ろうと必死になっていた俺の意識が、その能力を新たに生んだのかもしれない。神の意志に反して造り出されたり、できてしまったクローンやミュータント故に、神でさえ予期しなかった能力を持ってしまうのかもな」
「神も予期していなかった余計な生き物か」
「そんなことは今更どうだっていい。俺はあの頃は無力だった。心がすさんでしまった人間どもには足蹴にされ、飢えて気が立った犬どもには咬みつかれ、一時も惨めな思いが消えたことはなかった。ただただ死にたかった。だがある時、犬どもに苛められている俺を助けてくれ、少ない手持ちの食糧まで分けてくれた人間がたった一人だけいた。それは誰だと思う? 他ならぬおまえだ、良平」
「覚えちゃいないな」
「おまえには取るに足りないことだったろうが、俺にとっては、俺を気にかけてくれる者がいれば、それはかけがえのない俺の同胞なのだ」
良平は苦笑した。
「そうじゃない。野良犬にも劣る奴さ。自分の些細な欲望のために、関係のない者を何人も死なせてしまった。仲間だと思ってた奴まで、実は踏み台にしていたんだ」
「だが――」
犬はもう一度口を開いた。
「そんなおまえでも、どこかに必要としている者が必ずいるということだ。例えばその女」
良平は隣にいるオニビの顔を見た。オニビは黙ったまま良平の目をじっと見返した。
「おまえが気づかないだけのことだ。俺は誰からも必要とされない。おまえが羨ましい。俺はおまえに比べればもっと惨めな存在だ。それでも今は生きようと思っている。なぜかわかるか? 今では俺と似た境遇の者は少なからずこの世に存在している。その者のためには、今すぐ死んでしまうよりは、生き長らえていた方が役に立つ時もあるだろうと思えるからだ。俺が必要とされる日が生きている間に来るかどうかはわからない。それでもいつ来るともしれないその日のために俺は生き延びるのだ。
おまえは生きていれば、また何人も殺してしまう可能性はある。こんな時代だ、それも仕方あるまい。しかし生きてさえいれば、おまえを必要とする者もこれから何人も現れてくることだろう。おまえがこれから受ける苦悩は言葉では言い表せないほど計り知れないものなのかもしれない。要はおまえしだいなのだ。気休めにもならなかっただろうが、この俺に言えることはそれだけだ」
犬はそこまで言うと、良平の前から去って行った。黒い波がいつまでも、眼前で同じ動きを繰り返していた。
やがて彼は立ち上がった。
「どこへ行くの?」
オニビも立ち上がり、良平に不安げな眼差しを向けて訊いた。
「けりをつけに行く」
それだけ呟くと、彼は海に飛び込んだ。
「待って!」
オニビは良平を呼び止めようとしたが、
「おまえには関係ない。ついて来るな」
岸壁を振り返ってそう言うと、良平は黒い海面をかき分け始めた。
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