6. 背 徳 の 科 学 者



 次の日は朝から街が慌ただしくなった。ミュータントや人間の兵士たちが盛んに往き来している。良平たち農奴は道路の瓦礫を片づけたり、逆に瓦礫を運んで道路を塞いだりさせられるばかりで、細かいことはほとんどわからないが、良平は戦争――と言うより殴り込みがあることを確信した。大騒ぎしてくれればくれるほど、こちらには好都合だ。
 夜になった。遠くの方で喊声がしている。戦いが始まっているようだ。宿舎を抜け出して来た仲間を残し、良平は調べておいた見張りの死角となる所へと忍んで行った。有刺鉄線を切断し、フェンスにも穴を空けた。
「さあ、行け」
 全員を促して、フェンスの穴から外へ出した。簡単なことだった。相変わらず遠くで喊声がしていたが、この辺りはしんと静まり返っていて、人通りも全くない。見張りにも気づかれてはいないようだ。
「どうする?」
「北へ行く。とりあえず南部の勢力圏から抜け出さないと。行こう」
 良平たちは暗くて細い路地や建物の廃墟を通って北へ向かった。
「良さん」
 途中まで来ると、暗がりから声をかけてくる者がいた。赤坂だった。京子も一緒にいた。北へ行くということで、途中まで部隊について行き、間もなく隙を見て抜け出して来たのだった。
「実はいい情報を手に入れたよ。望月博士と思われる奴の居所がだいたいわかった」
「ほんとか!」
 みんな狂喜した。
「しっ」
「それで?」
「この大阪の中心部は、東西南北の勢力の緩衝地帯になっているらしい。その地下街のどこかに、ミュータントの医者みたいなことをやっている人間の男がいるそうだ。名前まではわからなかったが、きっとそれが望月博士に違いない」
「地下街か」
「ああ」
「どうするんだ、アニキ?」
「行って捜そう、今すぐに」

 大阪シティの中心部と思われる辺りまでやって来たが、そこは廃墟が手つかずのまま打ち捨てられていて、何の整備も修築もなされていなかった。地下街への入口を捜してみたが、どれもこれも崩れ落ちていて、容易には地下へと下りることができない。しばらくあちこちの下り口を捜してみたものの、篝火で照らしてみると、必ず天井が落ちて塞がっていた。そうこうするうちに、近くで足音が聞こえだした。
「火を消せ」
 慌てて火を消し、全員息を潜めて耳を澄ましてみた。
「そろそろバレたかな」
「戦いがこっちまで拡大してきたのかもしれないぞ」
 その時、
「いたぞ。脱走した農奴どもだ!」
 どこかわからないが、すぐ近くで声がした。良平たちは息を止めた。すぐさまたくさんの足音が駆け足のそれへと変わり、こちらに向かって来るのがわかった。
「なんでわかるんだ?」
 万吉がぽつりと呟いた。
「逃げろ!」
 良平は叫ぶや、声のした方とは逆の方角へ向かって走り出した。考えるまでもなく、全員が良平のあとを追って駆け出した。とある真っ暗な廃墟ビルの中へと駆け込むと、息切れを無理やり抑えながら耳を澄ましてみたが、足音は聞こえなかった。外の様子を窺ってもみたが、誰も追って来る気配はなかった。
「とりあえず捲いたな」
「でもなんであんな簡単に見つかったんだろう? まるで待ち伏せされてたみたいだ」
 万吉が素直な疑問を口にしたが、良平にもそれが不思議でならなかった。そもそも逃げる場所まで決めて脱出したわけではないのだ。ミュータントたちは常にあらゆる場所に情報網を張り巡らしているのだろうか? しかし考えている暇はなかった。また足音が聞こえだしたからだ。
「来たぞ」
「奥へ行こう」
 良平たちは手探りで奥へと進んだ。床が傾いていて、瓦礫が積み重なっていたが、辛うじて進むことはできた。しばらく進んでから足を止めてみたが、ミュータントたちはこのビルも嗅ぎ当てたようだ。建物の中に複数の足音が響いている。
「中に入って来た」
「上だ」
 良平は近くに階段があるのを探り当て、急いで上り始めた。
「愚かな人間どもめ、クックックックッ」
 不気味な笑い声が良平たちの背後から階段を這い上がって来た。それでも良平たちは立ち止まりもせずに上へ上へと階段を上って行った。
「おい、アニキ、これじゃあ袋の鼠じゃねえのか?」
 六階まで上がって来て、それから先は階段が崩れていて上へ行けないとわかると、万吉が心配そうな顔をして言った。
「奴ら、上がって来るぜ」
 確かにあとから階段を上がって来る足音が聞こえる。
「あっちだ」
 良平は万吉の質問には答えずに、廊下を進み始めた。
「どこかに立て籠もって、奴らを迎え撃とうってえのか?」
 良平はまた松明に火を点けた。そしてどんどん奥へと進んで行った。
「そんな物持って逃げてると、すぐ見つかっちまうぜ」
 良平はやはり黙ったまま進み続けた。みんなどうしようもなく彼について行った。
 そしてある所まで来ると、良平は立ち止まり、窓ガラスのなくなった窓から身を乗り出して下の方を覗いた。それから廊下の方を松明で照らした。消火栓の箱に近づくと、戸を開けて消火ホースを引き出した。
「これで下へ下りよう」
 そう言うと、窓の外へホースを放り出した。
「俺から行こう」
 町田がホースをつかんで窓枠に上がった。
「下に残ってるかもしれない。まず三階に行け」
「わかった」
 町田に続いて全員が下りると、良平は松明の火を消し、まだミュータントたちがやって来ていないことを確かめてから、ホースを伝って下へと下りた。
「巧くいったな、アニキ。さすがだぜ」
 万吉は暗がりでガッツポーズを取ってみせた。
「下へ行くぞ。物音を立てるな」
 階段の所まで来ると、上の方で物音がしているのがわかった。
「巧く捲いたようだ」
 ほっとして、良平たちが階段を下ろうとしたその時、
「残念やったな、巧く捲けんで」
 ライトがパッと良平たちを照らした。
「オロチ!」
 オロチに率いられたミュータントたちがぞろぞろと出て来た。振り返ると、奥からもミュータントたちが近づいて来ている。
「広目天様の言った通りや」
「野郎っ!」
 ジョウが落ちていた鉄棒を咄嗟につかみ、オロチに向かって躍りかかった。
「待てっ!」
 良平が止める間もなかった。尖った物がジョウの胸の真ん中を貫いて、背中から出ていた。血飛沫が良平の顔に飛んで来た。ジョウはオロチの尻尾の先でビクビクと痙攣していた。
「死にたいか、人間どもめ」
 オロチは口をカッと開き、細長い舌をちらつかせた。そして尻尾をジョウの体から抜くと、ジョウは床に落ちてそのまま動かなくなった。
「なぜだ?」
 良平は逃げられないと観念すると、オロチに自分たちの行動を見抜けた理由を訊いた。
「広目天様は何でもお見通しや。おまえらが逃げ出すことも、ここに来ることもな」
「…………」

「おい、ばばあ、その肉ちょっとくれ。水くれ」
 老婆は地面に座り込んで、クチャクチャと生肉を噛んでいる。
「おい、ばばあ!」
 万吉が十字架の上から生気の失せた声で呼びかけた。老婆は万吉の方にゆっくりと皺くちゃの顔を向けた。目玉が腐った魚のように白くなっている。老婆は万吉の方に向かって片手につかんだ生肉を差し出した。腐った肉は異臭を放ち、周りを蠅が飛び回っている。
「届かねえよ。こっちまで持って来い」
 万吉は両手に食い込んだ鎖をガチャガチャと鳴らしてもがいた。老婆はニタッとして、また腐肉を自分の口に運んだ。
「いつまでこんなとこに繋いどく気だ?」
 今度は町田が怒鳴り声を上げた。しかし三日も何も口にしていないので、怒鳴り声にはならなかった。老婆は相変わらず腐肉を旨そうに貪り食っている。
「やい、ばばあ、答えやがれ!」
「ヒイッヒッヒッヒッヒィ」
 老婆は黒ずんだ血に染まった白髪頭を揺さぶり、気味の悪い声で笑った。そしてまた肉に食らいついた。
「喋るな。腹が減る」
 良平が言った。
「アニキだって喋ってるじゃねえか」
 万吉がまた鎖をガチャガチャいわせた。
「もう少しの辛抱や。我慢せい」
 老婆が初めて口を開いた。
「おまえたちはな、見せしめや。農奴が足りんのに、殺されるわけないわな。イーッヒッヒッヒィッ」
 老婆はまた肉を食うのに夢中になった。その時、
「うっうわああああ!」
 突然、向こうの端の十字架の上で山口がわめき声を上げた。みんな驚いてそちらを向いたが、山口は口から泡を噴いて激しく痙攣していた。しかしそれも束の間、ガクッと首が垂れたあと、ピクリとも動かなくなった。
「どうした、山口?」
 返事はなかった。
「ばあさん、ちょっとあいつの様子を見てくれないか」
 老婆は知らん顔して指を舐め回している。やがて立ち上がったかと思うと、またしゃがみ込み、その場で糞をした。
 そのうち禿鷹や鴉のような鳥がどこからともなくたくさん飛んで来て、山口の近くで騒ぎだした。
「死によったな」
 老婆は良平の方に白い目を向けて言った。
「イッヒッヒッヒッヒィ」
 それからその場で何をするともなくじっと座り続けていた。
 やがて鳥たちは山口の体をついばみ始めた。野犬や野良猫みたいな獣もやって来て、山口の死骸に飛びつき始めた。鳥と獣たちは激しく獲物を争い始めた。山口の体はあっと言う間に引き裂かれ、形を失くしていった。良平たちはみんな顔を背けた。
「も、もしかして……」
 恐怖が全員の頭をよぎった。
「まだ二十日も経ってねえだろ?」
 万吉が悲鳴に似た声を上げた。
「十二日だ」
 良平がそれに答えた。
「じゃあ、なんで? なんであいつは急に死んだんだよ?」
「余計なことは考えるな」
 良平は答えようもなく、そう言った。
「考えたってどうしようもない」
「そんな! こんなことしてる間に、ウイルスはどんどん――」
「黙れ! 腹が減る……」

 翌日は空がいつもより暗かった。絶えず稲光がして、雷鳴が轟いていた。
「もう四日、何も食っちゃいねえ。水も一滴も口にしちゃいねえ。この分だと、飢え死にしちまうに違いねえ」
 万吉は誰にともなく独り言を言った。
「今日は冬日になりそうだ」
 赤坂が空の稲光を眺めながら言った。老婆は野犬を殺してその肉を相変わらずしゃぶっていた。
 午頃になると、冷たい風が磔刑場の瓦礫の丘に吹き始めた。
「寒なってきよったわ」
 そう言って、老婆はぼろ布を自分の皺くちゃの首に巻きつけた。しかし良平たちは寒さどころではなかった。飢えと渇きと、それ以上の恐怖が彼らを支配していた。いつ山口のように突然死ぬかわからない。そしてあっと言う間に禿鷹と野良犬の餌食となってしまうのだ。鎖に縛られた両手首、両足首から血が滲み出していたが、自分の体重のために麻痺してしまっていて、それにも気づかなかった。

 空が更に暗くなり、風もきつくなってきた頃、何者かが磔刑の丘を登って来た。
「おばば、いつまでもそこにおるのも退屈やろ」
「オロチか。何しに来た?」
「見張りの役、交替してやるで」
「ふん、おまえ、わしが何の見張りをしてるのか知ってんのか? おまえみたいな乱暴者が、農奴を殺さんようにじゃ」
 老婆は白い目玉を剥いて笑った。
「俺が乱暴者やって? おばば、承知せえへんぞ!」
「イィッヒッヒッ、広目天様が言うとったわ、オロチは何とかちゅう脳味噌が足れへんから、すぐに人間を殺すんやってな。おまえは脳足りんや、ヒィッヒッヒッヒィ」
「うるさい、ばばあ!」
「わしはここを動かんでえ。おまえの見張りやさかいな」
「それはおばばの勝手やけど、おばば、肉食いたくないんか、人間の肉?」
「何やて?」
「今は戦が終わったとこで、人間の死体もようけ転がってるで。ヒト食いの奴なんか、さっさと死体をかき集めとるわ。そのうち失くなってしまうやろなあ」
「うう……」
 老婆は慌てだした。
「我慢することない。行って来いや。その間は俺が代わりに見張っといたる」
 老婆は街の方へ向かって丘を駆け下りて行った。
「ばばあめ、他愛もないやっちゃ、へっへへへ」
 風がやみ、雨がぽつぽつと降り始めた。オロチは老婆の姿が見えなくなると、良平たちのそばまで来て、一人ずつ眺め回していった。そして京子の前まで来ると、しばらく彼女を眺めていたが、何を思ったか、両足首を縛りつけてある鎖を解き始めた。
「おまえはええ女やな」
 京子の顔を見上げ、細長い舌をチロチロと出しながら、ニタッと笑った。
「何をする気?」
「こうするんや」
 言うや、オロチは京子の衣服を乱暴に引き裂き、剥ぎ取った。
「や、やめて!」
 オロチは嬉しそうに京子の白い胸を撫で、蛇の舌を伸ばして乳首を舐めた。
「おまえにこのオロチ様の偉大な逸物を味わわせてやろか」
「誰がおまえみたいな獣なんかと!」
 京子は十字架の上で暴れたが、オロチは京子の腿をつかんで強引に引き寄せた。
「いやっ、いやあー!」
 京子は呻き声を上げて更に激しく抗おうとしたが、両手首を縛りつけられていてどうすることもできない。
「ああ、神様、助けて!」
「そうや、その調子や。もっと悶えろ。おまえの神様に見せてやれ、十字架の上で犯される姿をな」
 オロチは嬉しそうに笑い声を上げながら、激しく京子を突いた。
「このヘビ野郎、やめろ! やめねえか! その女から離れろ! それ以上やると、俺が只じゃおかねえぞ! この畜生め! 殺してやる! 俺が殺してやる!」
 隣の十字架の上で万吉が逆上してわめいた。オロチはじろりと万吉を睨んだ。そして京子を放すと、万吉の前までやって来た。
「俺を殺すやと?」
「その女に手を出してみろ、おまえなんか、この千田万吉様がぐちゃぐちゃにすり潰してやる。この醜い蛇の出来損ないめ!」
 万吉は恐れを忘れてオロチを罵った。オロチの口が開き、蛇の舌がシャアッと出た。長い尻尾がゆるゆると持ち上がる。その先が万吉の目の前でゆらゆらと揺れ始めた。
「おいっ、よせー!」
 良平が叫んだ時には、オロチの鋭い尻尾の先端が万吉の喉を貫いていた。
「ぐわっ!」
 万吉はがぶがぶと血を吐いた。オロチが尻尾を抜くと、喉から血が噴き出した。オロチは自分の顔に浴びた返り血を、長い舌を伸ばしてペロペロと舐めた。万吉は首を垂れてもう動かなくなっていた。
「おい、オロチ」
 良平が呼びかけた。
「俺がおまえを殺してやる」
「やめて、時仲さん! もうこれ以上は!」
 京子が涙を流しながら悲鳴を上げた。
「何やと?」
 オロチはニタッとして、今度は良平のそばに歩み寄った。
「どうやって殺す気や? その恰好で何ができる? おまえもこのガキみたいになりたいのか?」
「どうやっておまえを殺すか教えてやろう。耳を貸せ」
 オロチは面白がって良平の口許に尖った耳を寄せた。
「どうするんや?」
「あのな――」
「うんうん」
「こうするんだ!」
 良平は首を前に出し、オロチの耳に噛みついた。
「ギャアー!」
 オロチは悲鳴を上げたが、良平はそのままオロチの片耳を噛み切ってしまった。オロチは傷痕を片手で押さえて良平の顔を見ていたが、
「こいつは返すぜ」
 良平がプッと耳を吐き出し、オロチの顔に叩きつけると、オロチは慌ててその血塗れになった自分の耳を拾い、わけのわからないことをわめきながら丘を駆け下って行った。

 夜中になって、身も心も萎え、万吉の死骸に野犬たちが寄って来ても、もうそれを追い払う気力さえ失せ、ぐったりとなっていた頃、しょぼしょぼと降り続ける冷たい黒い雨を縫って、松明の灯りが磔刑の丘を登って来た。近づいて来た者はオロチだった。手にいろいろと何かを持っている。片手の松明を瓦礫の隙間に差し込んで立てると、ぐったりとなって十字架にぶら下がっている良平の前まで近づいて来た。
「同じ目に遭わせてやる」
 良平は顔を上げた。どうやったのか、オロチの片耳は元通りにくっついていた。オロチは片手に金槌、もう一方の手に鉄の杭を持ち直すと、杭を良平の左掌に当てた。カチーンと勢いよく槌を打つ音がした。
「ううっ!」
 良平の口から思わず呻き声が洩れた。オロチは容赦なく杭を打ちまくった。左手を打ちつけると、次は右手に杭を打った。続けて両足首に杭を打ち込んだ。良平は苦痛に気が遠くなった。
「気を失うな。まだまだこれからや」
 オロチは長い舌をちょろちょろ出しながら、不気味な笑みを浮かべている。そして今度は刃物のような物を手にした。
「人間風情がこのオロチ様に刃向かいよって。思い知らしたる」
 そう言うと、刃物を良平の肩に当て、胸までじわじわと切り下げていった。
「ぐわああああっ!」
 たまらず良平は叫び声を上げた。また意識が薄れていく。
「まだや。くたばるな」
 オロチは良平の頬を平手で張った。次には腹を切ったが、決して深くは刃物を突き立てない。良平が苦しみもがくのを楽しんでいるようだ。
「何してるの? やめて!」
 暗くてよく見えないが、良平がオロチに拷問されているのだと察し、京子が悲痛な声を出した。オロチは手にした刃物を更に良平の膝に突き立て、ぐりぐりと抉った。
「くううううっ」
 良平は必死で耐えようとした。
「どうした? 泣きわめけ!」
 オロチの尻尾が飛んで来て、激しく良平の顔を打った。
「やめて! やめてっ! お願い! 私が欲しいのなら、好きにすればいいわ。だからこれ以上その人にひどいことしないで!」
 京子は泣き叫んでいた。良平は苦痛に顔を歪めながら、京子の方を向いた。額が割れて流れ出た血が、雨の滴と共に目の中に入って来て、よく見えない。
「おまえの望み通り、あとで好きなだけ抱いてやるわ。その前に、よう見とけ。こいつをいたぶり殺してやるからな」
 オロチは嬉しそうに笑い声を上げた。
「やめて! やめて!」
 京子は泣き叫び続けた。オロチは良平の体じゅうを切り裂き続けた。良平はとうとう気を失ってしまった。
「この耳も鼻も削ぎ落としてやるわい」
 その時、
「おい!」
 背後で声がしたので、オロチはギクッとして振り返った。
「誰や?」
 松明は雨で消えかかっていたが、別に青白い炎がぼっと燃え上がった。
「オニビ――?」
「オロチ、これは何のつもりだ? 農奴をいたぶって、只で済むと思ってるのか?」
「ふん、小娘は黙っとけ。俺は羅漢隊の隊長や。俺が何しようと、おまえにとやかく言われる筋合いはないわ」
「そんならあたしも菩薩隊の隊長だ。見たままを帝釈天様に報告してくるけど、それでいいんだな」
「あっ、待て。俺はこいつに耳を噛み切られたから、制裁を加えてるところや。ちゃんとした理由がある」
「広目天様にお許しをもらってのことか?」
「じゃかましいっ! あれこれ訊くな。おまえは何様のつもりや?」
 オロチはカッとなって、オニビの足元に刃物を投げつけた。オニビはそれをゆっくりと見下ろしてから、再びオロチを睨みつけた。
「あたしに喧嘩売ってんの?」
「やったろうやないか!」
 オロチはオニビに向き合うと、尻尾を宙に振り上げた。
「ミロクの妹か何か知らんが、前からおまえのことは気に入らんかったんや。女の分際で隊長なんかになりくさりよって!」
 言うや、オロチの尻尾がオニビ目がけて素早く飛び出した。だがオニビはオロチの尖った尻尾を両手で受け止めていた。
「オロチ、熱い思いさせたげるよ」
 オニビの言葉にオロチはたじろぎ、ずるずると後ずさりした。次の瞬間にはオニビの両手がパッと明るく燃え上がった。尻尾を伝い、真っ赤な炎がたちまちオロチの全身を包み込んだ。
「ぎえええええ!」
 オロチは地面に身を投げ、炎の中でのたうち回った。しばらくしてオニビは手を放した。オロチは悲鳴を上げながら這いずり回っている。
「今日はこれで勘弁しといてやる。消えろっ」
 オニビが言うと、オロチはあたふたと走って逃げ出した。
「そんなんやから、おまえは男に相手にされんのや! あばずれが!」
 オロチは悔しそうに闇の中から叫んだ。
「何っ!」
 オニビはカッとなって、足元から石ころを拾い上げると、オロチが逃げて行った方に向かって投げつけた。
「覚えとれ、化け物め!」
 オロチは捨て台詞を吐いて逃げて行った。
「化け物はどっちだ! 爬虫類め!」
 オニビも負けずに言い返した。

 オニビは火を投げて、消えた松明を再び燈した。そしてしばらくの間、良平の様子を眺めていた。
「ねえ、お願い、その人を助けてあげて」
 京子がオニビに言った。オニビは京子の方を向くと、
「おまえとこの男とはどういう関係?」
「関係なんて……。仲間よ」
「仲間?」
「そうよ」
「おまえたちは夜叉王様の支配民だ。勝手に徒党を組むことは許されない」
「ここに来る前から仲間なのよ」
「黙れっ」
 オニビは松明を京子の顔に近づけた。
「おまえはあたしが戦士に取り立ててやったのに、脱走なんかして――」
「戦士に取り立てて欲しいなんて頼んだ覚えはないわ」
「そんなら農場へ行け!」
 投げやりな言い方だったが、オニビの声はどこか悲しそうだった。
「駄目よ。ねえ聴いて」
「…………」
「私たちは東京中央政府の者に騙されて、β型RVウイルスを飲まされたの。それが発病すれば死ぬわ。もう既に一人死んだのよ。こんなことしてる間に、次々に死んでくわ」
「そんなこと……知らないよ」
「私たちは望月源治というRVウイルスの開発者を捜しているだけなの。ここに来た目的はただそれだけなのよ」
 オニビはしばらく黙ったままでいたが、やがて良平のそばに歩み寄った。髪をつかんで顔を持ち上げると、
「この男はほっといたら死ぬ」
「何とかしてあげて、お願いよ」
 オニビは京子にはわからないようにかすかに頷くと、良平を縛りつけている鎖を解き、血に染まった杭を引き抜くと、彼を背負って丘を下って行った。

 ゴトゴトゴトと、機械の音が規則的に鳴り続けている。淡い白色灯の光が目に入った。良平は思わず体を起こそうとして、全身の傷の痛みに呻き声を上げた。
「じっとしてなさい」
 机に向かって何かしている白髪頭の男の後ろ姿が見える。
「よく生きておったものだ。きみは生に対する執着心がよほど強いと見える」
 白髪頭が振り返りもせずに言った。
「生に対する執着心……? そんなものがこの俺にあるはずがない」
「確かにきみの意識にはない。だからきみにはわからないはずだ。しかし――」
 椅子をギィーッと鳴らして白髪頭が振り返った。
「きみの細胞は切に生を望んでおる」
「一体何が言いたいんだ?」
「別に。事実を言ったまでだ」
 良平はまだぼうっとしている自分の目で、この男を観察した。
「あんた、誰だ?」
「名前はない。そんなものは捨てた」
「へーえ、ミュータントか」
「違う。厳密に言えば、ミュータントと人間を区別することはできない」
「と言うと?」
「遺伝子の命令情報に於いては、無数の組み合わせが存在し得る。同じ人間でも全く同じ組み合わせは二つとない。ミュータントと呼ぶのは程度の問題で、価値観しだいでそのような呼び名もなくなる。ミュータントと呼ばれている者たちは、かつての人間が発現させ得なかった命令情報を何らかの原因で発現させた者たちのことだ。つまりミュータントは新人類でもない。単に眠っていた性質が呼び覚まされたに過ぎん」
 良平はこの男を怪しんだ。ふと見ると、オニビが自分のすぐそばに座っていた。自分の体には、至る所に包帯が巻きつけられていて、所々血に染まっていた。彼はまだ朦朧としている頭で記憶を辿った。そうして、オニビに助けられ、この男に手当され、命を救われたのだという結論に達した。
「急所は外れていたが、かなりの出血があった。動脈も数カ所傷つけられていて、輸血もなしにもう意識を取り戻したことが不思議なくらいだ。つまり、きみは生を切望しているということだ」
「ううっ!」
 良平はまた起き上がろうとして呻いた。
「じっとしてろと言ったではないか」
 良平はふと気づいた。
「あんた、望月博士だろう」
 男は少しの間黙っていた。
「そんな名前は知らん」
「どおりで。さしずめ今の講釈は、ミュータントを生み出したことへの弁明ってとこか」
「きみが何と思おうと構わん」
「ミュータントがどうだと言い訳できたとしても、あんたが大量殺人に手を貸したってことだけは否定しようがないな」
 男はまた少し黙り込んでから、
「きみは何者だ? ここの人間ではないな」
「勘違いしないでくれ。俺はあんたを責めに来たんじゃない。それに、今となってはあんたは命の恩人だ」
「礼ならそこのお嬢さんに言うがいい」
 良平はもう一度オニビを見た。オニビは黙って良平の顔を見つめているだけだ。良平は何も言わず、また望月の方に首を向けた。
「しかし俺はあんたに用があってここまで来たには違いない、こうやって偶然出会えたにしろ」
「まさに怪我の功名だな。私に用とは何だ?」
「RV−β型の解毒剤が欲しい」
「何のために?」
「俺たちは東京中央政府の下司役人に騙され、β型ウイルスを飲まされた」
「それは気の毒なことだ」
「だからあんたを捜してたんだ」
「気の毒だが、解毒剤などはない」
「今ここで造れないのか?」
「そういう問題ではない。RVウイルスの解毒剤などは、今までこの世に存在したことがないという意味だ」
「まさか。中央政府の奴らは、α型の解毒剤のストックが切れたからあんたを捜すんだと言ってたぞ」
「で、私を捜し出せと派遣された?」
「そうだ」
「一杯食わされたんだろう。きみたちの置かれた状況はおおよそ理解できた。東京中央政府とやらは、私にウイルス兵器を製造させる気だ、恐らく次なる大量殺人のために」
「なるほど、そうかもしれない。あんたを連れて帰ることは、俺にとっちゃどうでもいいことだ。だが、俺たちは死を待つ以外ないのか?」
「解毒剤はないが、ウイルスを無力化することはた易い」
「どうすればいいんだ?」
 良平は目を輝かせた。
「別の型のRVを体内に取り込めばいい」
「それはどういうことだ?」
「γ型は非常に危険で勧めることはできないが、きみが仮にβ型を保有しているとすれば、α型を摂取することにより、双方が反応し合い、互いにその活動を停止させる。あとはほっておけば、自然に体外に排出されてしまう」
「そんなことができるのか?」
「RVウイルスの特性の一つだ。それぞれの型は発病の仕方と症状に大きな違いこそあれ、元は同じ性質を持った同種のウイルスだ。その特質の一つに、RVの異型と最もよく結合し易いというのがある。そして結合後は、生物にとっては無害な別の非活性型ウイルスへと変質するばかりでなく、増殖能力も失い、やがて死滅する。大戦中、RVを無差別に撒き散らしたことが、却って汚染に歯止めをかけたのだ。しかしこれも怪我の功名、結果としてわかったことであり、その原因は不明だ」
 良平は望月の話を聴きながらしばらく考えていたが、
「要するに、α型があれば俺たちは助かる。あるのか?」
「私の手元にはない」
 良平は思わず溜息をついた。
「がっかりすることはない。そんな物は探せばその辺にいくらでもあろう。きみがα型に感染しているというのならともかく、β型なら問題はない」
「なるほど。α型感染者に――」
「移してもらえばそれで済む」
 望月は微笑を浮かべた。良平は無理して起き上がろうとした。
「まだ無理だ。今動けば、それが原因で死んでしまうかもしれないぞ」
「十二日で発病して死んだ奴がいるんだ。β型の潜伏期間は二十日から四十日じゃなかったのか?」
「そういう症例が顕れたのなら、そういうことなのだろう」
「いい加減だな」
「最速二十日というのは過去の検証例に過ぎん。絶対とは言えない。記録は破られるものだ」
「今あんたとウイルスについて討論している暇はないんだ。こっちの身にもなってみろ」
「よろしい。ではこうしよう――α型感染者を見つけてここに連れて来よう。きみはここでそのまま寝ていたまえ」
「それはありがたいが、他に仲間も感染しているんだ」
「どこにいる?」
「南部地区で十字架に掛けられている」
 望月は黙ってオニビの方を見た。
「あたしが何とかする。病人もすぐに探して連れて来るよ」
 オニビはそれだけ言い残すと、すぐさま望月の地下室から出て行った。
「紅茶でも飲むかね」
 オニビが出て行くと、望月はカップに紅茶を注いだ。
「長い間何も食べていないようだが、しばらくはこれだけにしておいた方がいいだろう」
「もらおう」
「あのオニビはこの辺のミュータントにしては珍しく親切だろう?」
 良平に紅茶を飲ませながら、望月はそう言った。
「俺もそう思う。なぜだ?」
「先程も言ったが、ミュータントは人間であることに変わりはない。姿形がどれだけ変化しようと、大脳に異常を来たさない限り、人格は元のままだ。たとえ一部の本能を失おうともだ。凶暴になるミュータントも多いが、あくまで人間であった時の性質に過ぎん。
 彼らは突如身に着いた超能力に恐れおののき、変貌した自分の姿に嫌悪感さえ覚える。例外はない。やがて彼らはその嫌悪すべき自己から逃れたいがため、他人に抜きん出た自己特有の能力を駆使してある行動を取ろうとする。それらはかつて力を持った人間が取ってきた行動と何ら変わりはない。自分より弱い者を従えようとすることだ。その行為と結果によって自己の内部にアイデンティティを見出そうとするのだ。これにも例外はない。
 自他の強弱関係を把握した段階で、この行動は終わりを告げ、あとは自己保存を続けていこうとする。しかし、それが把握できていない者、つまり負けたことのない者、あるいは自分の負けを認めようとしない者、こういう者たちは更なる敵を求め、勝ち残ることにより、際限なく自己の価値を立証できる支配というものを拡大していこうとする。ミュータントとはつまり、一種の病名だ」
「あの娘は違うな、オニビは」
「違う。オニビは例外だ」
「あんたは例外はないと言ったじゃないか」
 良平は苦笑した。
「つまり、オニビはミュータントではない。一般化してしまったが、元はある研究所が決めた形態分類――それを元に判断すれば、インナー・ミュータントということにはなるが、私に言わせれば、彼女はミュータントと呼ばれる者の特性を持ち合わせてはいない」
「平たく言えば、人生の壁にぶち当たったけど、ひねくれなかったってことだな」
「そういうことになるだろう」
「じゃあこの俺は、形態としては人間のままだが、中身はミュータントってことになるな。俺は大戦と惑星衝突のあとに性格が歪んだ。幸か不幸か、他人を支配しようなんて考えは顕れなかったが、まあ、あんた風に言えば、本性が顕れたのかもしれない」
 望月は笑い声を上げた。
「きみは特にミュータントに対して偏見は持っていないというわけだ」
「特に持っちゃいないが」
「では、きみはインナー・ミュータントのような超能力を我がものにしたいとは思わないかね」
「そういう気持ちも特に持っちゃいないね。今のままの旧い人間で結構だ」
「しかし、何をするにしろ、今の時代に生き残っていくには、そういう能力があるに越したことはないだろう?」
 良平は訝しげに望月の顔を見た。自分が彼に何か誘導尋問をされているような気がしたからだ。
「あんた、一体何が言いたいんだ? もうミュータント論も人間論もたくさんだ。俺はウイルス感染者からRV−α型を移してもらったら、ここを出て行く。それで終わりだ」
 望月はまた椅子に掛け直した。
「では率直に言おう。私はRVではない、新しいウイルスを開発した。いや、発見して、改良した。それはあの惑星が運んで来た二十一世紀の新種だ」
「あんたはまだ懲りてないようだな」
「充分懲りているとも。今度は罪滅ぼしをする番だ」
「どうやって?」
「悪い方向へと進んでいる世の中の流れに歯止めを掛ける」
「いくら何でも、時流にまであんたが責任を感じることはないだろう。今となってみれば、あんたがRVを造ろうが造るまいが、結果としては、惑星衝突が地球を変えたってことになる。支配者たちが益々独裁化し、支配民たちは益々奴隷化していこうとも、それは自然な成り行きだろう。世の中の乱れに関して、あんたに責任はない、たとえ世界が地獄に変わろうともな」
「しかし私にしてみれば、自分のしたことに対する呵責の念は、どんな形であれ、償いをすることによってしか消せはしないのだ。しかし私は政治家でも軍人でもない。一科学者に過ぎん。そして、私にはウイルスを扱うことしか能がない」
「新種のウイルスを開発して、一体どうしようってんだ?」
 望月はしばらく言うことを躊躇っているようだったが、やがて意を決したように、
「新しい人類を創る」
 良平は呆気に取られ、しばらく沈黙した。
「あんたの言ってることがよくわからない」
「これでインナー・ミュータントを人為的に造る」
 そう言って、望月は机の上から小さなカプセルを取り上げた。
「そいつが新しいウイルス?」
「そうだ」
 望月はゆっくりと頷いてみせた。
「まさか俺にそいつを飲めって言ってるんじゃないだろうな」
「きみは察しがいい」
「冗談じゃない。いくらあんたに命を助けられたからって、俺はそこまで義理堅くもないし、お人好しでもないぜ。あんたの実験のモルモットになるのはごめんだ。自分で試せばいいじゃないか。それが人類に対するあんたの罪滅ぼしってもんだろ。そしてあんた自身が新しい人類になればいい。独裁者どもを次々と打ち倒し、理想の世界を創るがいい。あんたの発想は悪かない。どうあがいたって、人間はミュータントには勝てないからな。そんなことぐらいわかってる。俺は陰ながらあんたを応援するよ。そして、やがてあんたが英雄になり、汚名を返上した暁には、拍手を送ってやろうじゃないか」
「きみ、名前は?」
「俺か? 時仲だ」
「時仲クン、人体実験は既に終了しているのだ。見たまえ」
 そう言って望月は立ち上がった。手にした紅茶のカップを握り締める。見る間にカップは望月の掌の中で潰れ、細かい砂が望月の拳からサラサラと零れ落ちた。
「それがウイルスの威力……」
 良平は驚きの眼差しで、零れ落ちていく砂粒を見つめた。
「驚くのはまだ早い」
 望月はそう言ってナイフを手に取ると、それをサッと良平目がけて投げつけた。
「うわっ!」
 ナイフは枕に突き刺さった。驚いて顔を横に向けると、自分の顔のすぐ横にナイフの柄があった。
「こういうこともできる」
 望月は良平のそばに寄り、もう一度ナイフを手に取ると、その刃で自分の上腕部を切り裂いてみせた。
「見てみろ」
 望月が突き出した腕からは真っ赤な血が流れ出していたが、見る間にその傷口が閉じていき、やがて元通りに治ってしまった。ほんの十数秒ほどの出来事だった。
「驚くべき治癒力だ」
 望月は自分で言った。
「しかしこういうこともできる」
 そう言うと、今度はナイフを同じ上腕部に突き刺した。だが今度は突き刺さらなかった。パキンッと音を立てて、ナイフの刃は真っ二つに折れていた。良平は驚きのあまり、全く口がきけないでいた。
「私は新たにどのような能力を身に着けたのか、まだ充分に把握できていない」
「自分の望み通りになったじゃないか。あんたはこれからこの狭い地下室を出て、地上を征服しに行けばいいだろ」
 良平は驚きからやっと我を取り戻すと、望月にそう言った。
「私はそれほど単純ではない。この程度の力を持ったミュータントならいくらでもいる」
「何だって?」
「恐らくこれと同じあの惑星により運ばれて来たウイルスが変異に関与しているのだろうが、それにしても、ミュータントたちの能力は千差万別だ。それを一々力でねじ伏せて服従させていくことは極めて困難だ。悲しいかな、私には勇気というものがない」
「そこまでいけば、勇気なんて必要ないだろう」
「いや違う。そういう連中はただただ暴力と支配に走っただけで終わった。彼らには意志の力というものが薄い。強い者イコール支配者という公式は歴史上常に当てはまってきたし、惑星衝突後の世界でもそうなりつつある。しかしこれは決して理想の体制ではない」
「何が理想の体制だって言うんだ?」
「のさばる者には消えてもらわねばならない」
「そんなこと言ったって、口で言うほど巧くいくもんか」
「行動に移すことが、理想の実現へと近づいて行く唯一の道だ」
「待ってくれ。あんたの言っているやり方ってのは、結局は『毒を以て毒を制す』じゃないか。だったら、『強い者イコール支配者』という公式はやっぱり崩せないだろう」
「他に方法を見出せないのだから、これも仕方のないことだ。要は、人選一つに懸かっている」
「それなら他人なんか当てにしないで、やっぱりあんた自身がやればいいだろ」
「残念ながら、私は人選から洩れた」
「じゃあ誰にやらす気だ?」
「きみだ」
 望月は即座に答えた。良平は急に傷が疼いてきたこともあって、不機嫌になった。
「冗談はよしてくれ」
「本気だよ」
「俺はこの世が住み易くなることを願わなかったわけでもないが、今じゃそんなことは少しも考えなくなった。とうの昔に諦めてる。あとは今の世を死ぬまでのらりくらりと生き延びていくだけだ」
「それはきみの本心かね?」
「嘘を言ってどうなる?」
「私はきみのような人間が現われるのを待っていた」
「よしてくれ。まるで二十世紀の新興宗教の勧誘だ。俺は信心深くはないんでね」
 良平は望月の真剣な表情を見て、苦笑せざるを得なかった。
「誰かが立たねば始まらないのだ。今現在のこの日本各地の支配者たちはどうだ? どれもこれもただのごろつきどもだ」
「だからって、俺の知ったことか。支配されるのも嫌いだが、支配するのも嫌いだ。支配者なんか、クソ食らえだ」
「ならばその支配者どもを倒せ。支配者などこの世に必要ない」
「簡単に言ってくれるじゃねえか。あんたの理想郷実現のための生贄にされるのはごめんだぜ。何度も言うが、やるんなら一人でやってくれ。止めはしないさ」
「このウイルスは、神が宇宙からもたらした、地上に楽園を創るための種子だ」
 望月は良平の目の前にカプセルを突きつけて言った。
「よしてくれ。あんたも今流行りの救世主思想の信奉者か? あんたは科学者じゃないのか?」
「今のは比喩だ。但し、私は救世主の出現を否定しはしない」
「そいつが非科学的だって言ってるんだよ」
「私は可能性のないことを口にしているのではない。ミュータントにもいろいろいてな、その考え方も様々だ。例えば、ここからいくらか行った山奥の荒れ寺に隠棲している、この辺りのミュータントや人間たちからは、『ミロク』と呼ばれているインナー・ミュータントがいる。あのオニビの実の兄だ」
「そいつがどうした?」
「彼は途轍もない能力を有している。全てが彼の思った通りになる」
「じゃあそいつに頼めよ、そのミロクとやらに。理想郷はたちまち実現だろ」
 望月は重々しく首を横に振った。
「決してその力を使おうとはしない。山寺で毎日を鬱々と過ごしているだけだ。ミロクがその気になりさえすれば、それだけで世界は大きく変わるだろう」
「動かないのか?」
 望月は黙って頷いた。
「それもそいつの勝手さ。とやかく言うことはないだろ」
「なぜ動かないかわかるか?」
「さあね。なぜだ?」
「我々には知りようもない」
「まるで全知全能の神だな」
「そうだ。神としか言いようのない超能力を秘めたミュータントたちが、一人と言わずこの世に存在している。しかしミュータントたちは今、人間と同じく、いや、それ以上に精神を病んでいる。自分の力をどう使っていいかわからないのだ。戸惑い、迷い、最後には安易な方法を選ぶ、昔ながらの方法をな。この一人で病んでいるだけの善良なミュータントたちを結集させ、その秘めた偉大な力を上手く引き出してやりさえすれば、楽土の建設も決して夢ではないのだ。人類が要した数千年という長い時間を待つまでもないことだ。しかし現実は、やはり悪人ばかりがはびこり、善人は自分の殻に引き籠もってしまっている」
「精神科医でも呼びなよ」
「真面目に聴いてもらおう」
「わかったよ。その前に、もう一杯紅茶をくれないか。あんたの話はやけに疲れる」
 望月はまた良平のカップに紅茶を注いで飲ませた。
「彼らは気づいていないのだ、自分たちの力が、その用い方さえ正しければ、どれほど素晴らしいものになるかということに」
「どう用いればいいんだ?」
「私には具体的なことはわからない。私はウイルスのことしか知らない。しかし良き指導者さえいれば、世界は大きく変わり得る。支配者は必要ない。奴らは浪費するだけだ。良き指導者が必要なのだ」
「そんな奴がどこにいる? 俺は見たこともないな」
「彼らが世に出るための土壌が整っていないだけなのだ。この世の中を変えなければならない。そのためにはまず、障害物となっている邪魔者――支配者どもを取り除いていく。今のところ、私にはっきりわかることはそれだけだ」
「あんたの言いたいことはだいたいわかった。それで俺に、救世主が出現するための地ならしをしておけってわけか。ミュータントになって、ミュータントの殺し屋をやれって? 所詮、行き着く所は力と力のせめぎ合いか。古代から何も変わっちゃいないんじゃないか?」
「しかし方法は同じでも、その結果は違ったものとなるだろう。今回はそのあとに待ち受けている者がいるからだ」
 望月はそう言うと、良平の片手を取り、血の滲んだ包帯が巻かれた掌の上に、赤い小さなカプセルをそっと載せた。
「私はこの新ウイルスを、『フェニックス』と名づけた。燃え尽きた灰の中から蘇り、炎を上げながら大空を再び羽ばたく不死鳥だ」
「フェニックス……」
「強制しているのではない。あくまできみに頼んでいるのだ。私はこういう場所に逼塞していて、信用できる者がいない。楽園を望む者が勝つか、それとも地獄の門を開こうとしている者が勝つか、詰まる所、戦わねばならぬということだろう」
「おれが楽園を望む者だとでも?」
「では地獄を望むとでも言うのか?」
「まさか」
「しかし現実にはそのどちらかしかない。その中間などあり得ない。未来は必然的にそのどちらかに収束していくだろう。今はこの地上を地獄に変えようとする勢力が圧倒的に優勢だ。奴らがそれを意図していないとしてもだ」
「俺がこいつを飲んでミュータントになったからって、一人で何ができる?」
「一人とは言わん。次の適任者が現われるのを私は待ち続けよう。そして更にその次の適任者を。きみには分別というものがある」
「ふっ……」
 良平は笑った。
「今は理性を失った輩ばかりが跳梁跋扈している百鬼夜行の時代だ。冷静な眼でもって、正しいことを見分けることができる者は稀少価値なのだ」
「あいにくと俺はそんな眼を持ち合わせちゃいないんでね。悪いな」
 良平はカプセルを望月に返そうとした。望月はそれを押しとどめ、
「これは持っていたまえ。使う使わないはきみの自由だ。ただ、これだけは忘れんでくれ、事を成すのに必要なのは、能力よりも意志なのだということを。理想を抱いた心なくして、このことは決して為し得ないであろう。大いなる心の為す、大いなる戦いなのだ」
 そう言って立ち上がった。
「私にできることはここまでだ」
 最後に微笑を浮かべると、望月は部屋から出て行った。良平は寝たまま望月の後ろ姿を見送った。彼が出て行ったあと、掌に載せられたフェニックスのカプセルをしばらく見つめていたが、やがてそれをすぐ横に吊してあった自分のズボンのポケットに突っ込んだ。また全身の傷が疼いた。






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