3. 逃 亡 の 果 て に



 気がついた時には光が見えた。体が瓦礫に埋まっている。良平は無意識にそれらを払いのけた。ひどい悪臭が漂っている。次に記憶が甦ってきた。ハッとして見ると、理沙がすぐ隣で倒れていた。
「理沙!」
 良平は急いで理沙を覆っているコンクリートの破片を払いのけると、彼女を抱き起こした。
「理沙?」
 彼女の唇に耳を当てると息をしていた。ほっとして思わず溜息をつくと、再び彼女の名を呼び、体を揺さぶった。理沙はゆっくりと目を開けた。
「俺が見えるか?」
「良……」
 良平は黙って理沙のか細い体をきつく抱きしめた。額から頬にかけて血が流れた痕がある。彼はそれを指で優しく拭ってやった。次にはまた記憶が甦ってきて、彼は咄嗟に周囲を見回した。建物はほとんど崩れ去っている。黄土色の空が見えた。向こうには茶色い海も見えた。遙か沖合に何艘かの船が浮かんでいた。
「立てるか?」
 理沙が頷いたので、良平は彼女の体を支えて起き上がろうとした。
「うっ!」
 激痛が走った。右足のふくらはぎに鉄筋が突き刺さっていた。その先にはコンクリートの塊がくっついていた。鉄筋を引き抜くと、血が流れ出した。シャツを引き裂いて傷口を縛ったが、痛みは消えなかった。理沙が彼に肩を貸した。
「今何時だろう?」
 地面の所々に炎が見えた。片脚を引きずりながら、理沙と二人で瓦礫の山を歩いて行くと、タイとマグロと思しき死体が次々に発見された。ただそれは、切断された黒焦げの肉塊に過ぎなかった。良平は黒焦げの死体から腕時計を見つけようとしたが、それは無理なことだった。彼はもう一度黄土色の空を見上げた。太陽は見えないので、今が何時頃なのかはっきりと知ることは不可能だが、この明るさでは、午前八時を回っているのは確かだ。いや、もしかすると、九時か、十時を過ぎているかもしれない。
「何とも情けない話だ」
 良平はがっくりと肩を落とした。しばらく項垂れていたが、また気を取り直すと、
「いや、まだだ。まだ諦めないぞ」
 理沙と一緒に岸壁の方へ行ってみた。
「なんてこった……」
 目の前には彼の求めていた物がいくらでもあった。持ち主のない小舟があちこちに漂っている。潮が満ちて来ていて、暗闇の中を探し回っていた時には遠くにあった物が、今では岸に近づいて来ていたのだ。
「海の上にあったなんて……」
 良平は月の引力を恨んだ。近くで板切れを拾って来ると、岸壁にぶつかっているボートの一艘を、崩れて低くなった所まで引きずって行き、そこからボートの上に降りて、続いて理沙を乗せた。それから板切れをオール代わりにして漕ぎ始めた。しかしボートの進み方は極めて鈍かった。良平は傷の痛みも忘れて力任せに板切れで海面を打ち続けた。
 間もなく肩から腕にかけて鉛を埋め込まれたようになり、掌の皮が破れて血が滲み出したが、やめるわけにはいかなかった。やがて、遠くにぽつんと停泊していた船影がはっきりしてきた。
「あれは――」
 船尾に旗が立っている。オーストラリア国旗だとわかった。船体に描かれているはずの船名を確認しようと試みたが、船首が斜め向こうを向いていて、読み取ることができない。煙突からは黒い煙が出ていた。船は動き始めているのだ。
「待ってくれ! ここにいる!」
 良平は手にした板切れを空中に振り上げた。水飛沫が飛んだ。
「ここだ! 待ってくれぇー!」
 いくら呼んでみても、海面に浮かんだ無情な鉄の塊は、彼らを置き去りにして行くだけだった。代わりに、ボーッと汽笛の音だけを残すと、東へ向かって旅立って行った。良平はオール代わりの板切れを取り落とした。
「良……」
 彼は膝を抱えて俯いてしまった。波が嘲笑うかのように二人の小舟を弄んだ。
「良、また船が来るわ」
 理沙の声に、良平はようやく項垂れていた頭を上げた。大型船が彼らの方に向かって波を蹴立てながら近づいて来る。何気なくその船を見つめていた彼の眼に、わずか百メートルほど先を横切って行こうとする、そのくすんだ船体に描かれた白い文字の並びが飛び込んで来た――『ARTEMIS』
 彼は思わず腰を浮かせた。
「アルテミス……、アルテミス号だ!」
 彼は腕もちぎれよとばかりに、アルテミス号に向かって両腕を振り回した。舷側に人が一人いて、手摺に凭れ掛かりながら景色を眺めていた。良平は大声で呼びかけた。向こうもそれに気づいたようで、こちらに向かって片手を振り返してきた。だが、ただそれだけのことだった。アルテミスはあっと言う間に彼の目の前を通り過ぎて行った。あとは両者の間に波打つ汚れた海面が残り、それがみるみる広がっていくだけだった。救いの女神は足元に漂っていた憐れな人間には気づかず、彼らを拾い忘れて楽園へと帰って行ってしまった。
「俺はなんて間抜けなんだ……」
 アルテミスが通過した余波で揺れるボートの船縁に、彼は額を打ちつけて悔しがった。
「良……、もういいのよ」
 良平は理沙の体を抱き寄せた。涙が溢れてきた。何年ぶりかで彼の流す涙だった。頭上には、ミュータント・カモメたちが四枚の翼を拡げて舞っていた。

 しばらくは絶望感に打ちひしがれ、良平は考える気力を失くしていたが、時が経つにつれ、再び思考が回復してきた。彼は二人に突きつけられたこれからの現実問題と取り組まねばならなかった。
(収監院の役人の死体はもうとっくに発見されているだろう。あの場に理沙がいないことで、彼女が疑われるに違いない。もう引き返すことはできない。ジョージ政府の権力が及ばない場所へ逃げるしかない)
 良平は魔太郎の言葉を思い出した。この日本だけでも、想像もつかない地域がいくらでもあると魔太郎は言っていた。東北では米を作っているとも聞いた。地盤が沈下してできた新水路を通って旧茨城へ行けば、簡単に東北まで抜けられそうだ。しかし彼は寒さのことを思い、やはりそれはやめることにした。
「南へ行こう」
 良平は理沙に向かって言った。
「あなたの行く所へついて行くわ」
 良平はオール代わりの板切れを拾い直すと、またボートを漕ぎ始めた。とりあえず旧房総半島に上陸し、そこから三浦半島に渡る。もう一度ジョージの勢力圏内に入る危険を冒すことになるが、そこを巧く突破することさえできれば、あとは西へ西へと進み、二人が暮らしていけそうな土地を見つければいい。老婆心からだが、東京からはなるべく遠くへと離れたかった。とりあえずは食い物があり、この冬を越せそうな場所を見つけねばならない。

 良平は苦労してようやく房総島へと小舟で漕ぎ着けた。陸に揚がった時には、不眠と空腹と疲労と怪我のため、もう歩けないくらいに弱っていた。しかし気持ちだけがはやり、少しでも先へ進もうとした。
「疲れてはいないか?」
 理沙に尋ねると、彼女は首を横に振ってみせた。
「でもあなたが――」
「俺のことは心配しなくていい。ここには何もない。もう少し先まで行こう。せめて水がある所まで」
 海岸線には破壊の爪痕しか見受けられなかった。海面から煙突が突き出ている。海底には工場群が眠っているのだろう。片足を引きずっている者同士が互いに相手の体を支えているのでは、いくらも進むことなどできはしない。
 空の明るさが失せてきた頃、良平はとうとう体力の限界を感じ、近くで休息を取ることにした。半壊状態で残っている住宅を見つけると、二人でその中に入って早速火を起こし、闇兵衛からもらった携帯食を食べた。そのあとは疲労困憊して、二人ともすぐに寝入ってしまったが、傷の痛みのため、良平は何度も眠りから目醒めた。
 翌朝は暗いうちに、寒さに震えながら二人は目を醒ました。消えてしまった火を再び起こし、ささやかな食事をとってから、二人は楽土を求めて旅立った。夜が明けると、近くに澄んだ小川が流れているのを見つけ、水を両手ですくって飲んだ。
 海岸沿いに少し行くと、半裸の人々がそこらじゅうにごろごろしていた。首がなく、肩に頭がめり込んでいる。両手が異常に長く、手足の指は三本か四本で、水かきがついている。皮膚はまるで両生類のそれで、粘膜に覆われていて、全身に大きなイボがたくさんある。そのミュータントたちが浜辺に魚をたくさん並べ、全員でそれを食っていた。理沙は良平の腕にしがみついてきた。
「大丈夫だ。こいつらは何もしない」
 日本に帰国してからしばらくこの房総島にいた良平は、ここのミュータントたちの習性をよく知っている。『レプティリア・アンフィビアン』――二十一世紀になってから世界中にたくさん出現したこの種の変異体のことを、人間の学者たちはそう呼んで、他のミュータントたちと暗に区別している。彼らは惑星衝突が原因で変異したのではなく、二十世紀末にロシアやアメリカなどが新開発のウイルス兵器を実験するため、世界中にばら撒いたためだという噂がある。ウイルスの潜伏期間中に惑星衝突が起こり、予測を越えた結果が出てしまったというのだ。
 レプティリア・アンフィビアンの特徴は、人間を爬虫類、または両生類と合成したような外見を持つことだが、大脳が退化していて、前頭葉など、脳の特定の部分の働きが極端に制限されてしまっている。大脳が退化したと言っても、そもそも元が人間だったのかどうかも定かではない。
 二人は足を引きずりながら彼らの傍らを通り過ぎようとした。蛙族たちは魚や蛸を両手で挟み、二人の方に差し出した。
「漁のあとの朝食だ。俺たちのことを支配者だと思ってるんだ」
 良平は彼らに向かって首を横に振ってみせた。そして再び理沙に顔を向けると、
「東京湾で採れた魚は食えない。人間が食えば激しいショックを起こす。だけどこいつらは平気だ。慣れてるからな。こいつらに食糧難はないだろう」
 蛙族たちは良平のしぐさがわかったようで、胴が二つある魚や、足が四十本はありそうな蛸を食うことに再び夢中になった。するとその時、近くで悲鳴のような、蛙の鳴き声のような音が聞こえた。見ると、浜辺で遊んでいた蛙族の子供が、巨大な紫色の蟹に捕まってもがいていた。蛙族たちはゲコゲコと騒ぎだした。
 良平はそれを見て、片足を引きずりながら汀まで下りて行くと、ナイフを取り出して大蟹の片爪を片手でつかみ、その間接を切り裂いた。それでも化け物蟹は子供を諦めはしない。十二本ある足をざわざわと蠢かせた。良平は更にナイフを巨大蟹の腹に突き立て、そのままザザッと頭の方まで縦一文字に切り上げた。蟹は暴れ、片方の爪につかんだ蛙族の子供を放したが、良平が続けざまに甲羅を突きまくると、とうとう浜辺にひっくり返ってしまった。
 蛙族たちは近づいて行き、十二本の足を蠢かせているだけの、紫色の化け物蟹を砂浜に引き上げた。すると次には寄ってたかって蟹の肉を食い始めた。先程まで襲われる側だった蛙族の子供まで、蟹の肉を旨そうに食っている。
「やれやれ、なんて奴らなんだ」
 良平は水から上がり、砂浜に腰を下ろした。理沙が近づいて来て隣に腰を下ろすと、彼の首に両手を回した。
「あれも俺たちには食えない」
 ケロケロ鳴きながら蟹の肉を貪り食っている蛙族たちを見ながら、良平は理沙に言った。昔ここに上陸した頃、一緒に日本に戻って来た仲間たちとこの大蟹を食い、全員痙攣を起こして失神してしまった覚えがある。
「あいつらはこれからも世界中で増え続けるだろうな」
 蛙族たちは蟹の肉に満腹すると、良平たちの所に這い進んで来て、順番に良平の足を触っては、また後ずさりしてひれ伏した。
「俺に感謝してるんだ。こいつらは本当におとなしい奴らだ。気をつけなければいけないのは、赤潮族だ」
 良平は理沙に向かって言った。
「?」
 理沙は怪訝そうな表情をしてみせた。
「そのうち出会うさ」
 海水に浸かった傷がまた痛みだし、彼は顔をしかめた。理沙が心配して傷口を触ったが、彼は頷いてみせた。
「消毒ぐらいにはなったろう。そうだ、ここはいっそのこと、赤潮族に力を借りてみるのも悪くないな」
 そう言うと、彼は立ち上がった。まだひれ伏している蛙族たちに向かい、
「天馬駈はどこだ? テンマカケルだ」
 訊きながら、片手の親指と人差し指で輪を作り、それを自分の額に当ててみせた。ミュータントたちは顔を上げると、水かきのついた手で、南の方に見える山の方角を揃って指し示した。
「山の中か。まあいい。それなら途中で奴の手下どもに連れてってもらおう」
「テンマカケルって?」
「赤潮族の首領だ。この島を支配している。奴はジョージが大嫌いだ。奴に掛け合って、伊豆辺りまで連れてってもらおう」
 良平は理沙の手を取ると、再び海岸伝いに南へ向かって歩き始めた。

「大丈夫なの、そんなミュータントなんかに頼ったりして?」
 不安になったのか、理沙が途中でそう訊いてきた。
「ここは全く原始的だが、考えてみれば、支配が確立している。赤潮族が他のミュータントたちを完全に服従させている。人間はいない。あの蛙族たちを見てもわかるが、飢えている者は一人もいない。きみはミュータントを信用しないのか? 奴らを差別するなと俺に向かって言ったのは、誰だったっけ?」
 良平は皮肉っぽく笑ってみせた。
「とにかくこんな進み方をしてたんじゃ埒が明かない。奴らに運んでもらおう」
 そうやって歩いているうちに、前方の建物の廃墟群に人がいるのが見えてきた。二人は警戒心を緩めることなく、そちらの方へとゆっくり近づいて行った。
「ただの人間か?」
 二人に気づいたミュータントが何人か近づいて来た。
「ただの人間だぞ。珍しい」
「ジョージのとこから逃げて来たのか?」
 首と上腕部と膝から下が異常に膨れ上がったミュータントの一人が問いかけてきた。その身長はどれも二メートルを超えていて、みんな頭の毛が逆立っている。ほとんど何にも身に着けてはいなく、膚は赤銅色に輝いていて、全身の筋肉がはち切れんばかりだ。
「そうだ」
 良平は簡単に答えた。
「何しに来た? スパイじゃないだろうな」
 ミュータントたちは手にした棍棒を握り締めた。
「天馬駈に用がある。連れてってくれ」
「お頭に用だと? てめえ、何もんだ?」
「天馬駈の旧い友人だ。昔ここにいたことがある」
 ミュータントの一人が理沙の方を見て、ニヤッとしてから言った。
「その女を寄越せば聞いてやるぞ」
「ふざけるな」
 良平がそのミュータントを睨みつけると、
「おい、てめえ、偉そうな口ききやがって!」
 ミュータントの一人が棍棒を振り上げた。途端に良平は弾の入っていない拳銃を抜いた。そのミュータントの顎に素早く銃口を突きつけると、
「連れてくのか、連れてかないのか、どっちだ?」
 ミュータントはゆっくりと棍棒をつかんだ腕を下ろした。
「へへっ、誰も連れてかないとは言ってねえだろ。早まるなよ」
 赤潮族たちは歩き出した。
「来いよ」
 良平と理沙は共に片足を引きずりながら彼らのあとについて行った。そのまま行くと、軽トラックが停めてあった。
「荷台に乗りな」
「動くのか?」
「当たりめえだ」
「石油があるのか?」
「ある所にはあるものさ」
 理沙を荷台に上げると、良平も上がった。赤潮族の一人が運転席に、もう一人が荷台に上がった。残りの者たちは乗って来なかった。エンジンがかかり、トラックはゆっくりと動き出した。荷台には魚介類や野菜を入れた籠がいくつも置かれていた。
「ここは食い物が豊かだな」
 良平が荷台に一緒に乗っているミュータントに向かって言うと、
「俺たちは税の取り立てに来てるってわけさ」
「なるほど」
 道が悪く、トラックはガタガタとよく揺れた。運転手は瓦礫を交わすため、低速でトラックを走らせながら、何度もハンドルを切った。やがてトラックは坂道を上って山の中へと入って行った。

 しばらくトラックの荷台で揺られたあと、木々の間に大きな建物が現われた。トラックはその建物の前で停まった。
「ここか?」
「王宮だぜ」
「王宮ねえ。結構新しいな」
「新しく建てたのさ」
 するとそこにいた赤潮族たちが寄って来て、荷台の籠を下ろし始めた。良平と理沙も荷台から下りた。
「お頭に客人だ」
 一緒に乗っていた男が、入口で番をしている男に言った。番人は良平と理沙を代わる代わるジロジロと眺め回すと、それから黙ったまま扉を開けた。建物の内部は豪華な造りをしていた。どんどん奥へと進んで行き、ある部屋まで来ると、そこでしばらく待たされた。
 少し経つと扉が開き、年若い赤潮族の男が前後に若い女を従え、部屋の中に入って来た。それから正面の席に腰を下ろした。
「大層羽振りが良さそうだな、駈」
「誰かと思ったら、あんたか」
 天馬駈の額にはもう一つ目があった。その三つの目で良平を見据えて言った。
「外国製の品が多いな」
「輸入している」
「ここに何か支払う物でもあるのか?」
「もちろん金を支払う」
「その金はどこから手に入れるんだ?」
「今頃ここに何しに来た? あんたは会計士か何かになったのか?」
 良平は笑った。
「おまえに助けてもらいたいんだ」
「助けるとは?」
「できれば伊豆辺りへ渡してもらいたい」
「東京へ行ったんじゃなかったのか? この土地を捨てて? もうあそこにも嫌気が差したってわけか」
「よせよ、捨てたなんて言い方。俺はおまえと違ってこの土地の者じゃない。ここの食い物は俺の口に合わない。いつまでもいられるもんじゃない」
「なるほど。で、ジョージの土地はどうだった? 食い物はあんたの口に合ったか?」
「だったら今ここに来はしない」
「そうだろう。あいつは、言ってみれば暴君だ。民を食い物にする奴だ。援助物資も全て己れのためだけに使う。だから東京はいつまで経っても廃墟のままだ。しかしここは違う。ここは着実に復興を遂げつつある。この王宮を見ろ。何よりの証拠だ」
「自分の住みかだけ豪勢にしてか? それならジョージだってやってるぜ」
「何?」
 天馬駈は三つの眼で良平を睨んだ。良平も負けずに両目で睨み返した。しかし天馬駈は微笑を浮かべ、再び口を開いた。
「トキナカ、あんたには昔大変世話になった。俺はこの目のお蔭で――」
 と、額の目を指差しながら、
「みんなから苛められ、除け者にされた。あんたはそんな俺をかばってくれた。あんたがいたお蔭で俺は死なずに済んだんだ」
「そうでもないだろう。その第三の目と同じように、おまえには他人にない特別な力が備わっていた。早晩おまえはその特別な力に気づいただろう」
「いずれにしても、俺はあんたに恩義を感じている。それを忘れたことはない」
「恩着せがましいことを言う気はないが、おまえがそう思ってくれているのなら、俺とこの女を伊豆まで運んでくれないか」
 天馬駈は理沙の方に三つの目を向けた。そしてゆっくりと両目を閉じた。額の目だけが開いたままになっている。
「それはできない」
 天馬駈はすぐさまそう言った。
「なぜだ?」
「理由はこうだ――あそこは伊豆七将の縄張りだ。奴らは野蛮人で、あんたをあそこに送り届けたあとの命の保証ができない。東京の方がまだましだ」
「あとの心配なんかしてくれなくていい。こっちで勝手に巧くやる。俺たちはもう東京には戻れない。たぶんお尋ね者になってるはずだ。そうでなくても、戻る気はない」
 天馬駈はまた両目を開いた。
「ここにいてくれないか。俺たち赤潮族はやがて東京に侵攻する。国連軍が引き揚げたあとにだ。国連軍の後ろ盾を失くせば、ジョージなど案山子だ」
「おまえの考えは立派な考えだ。成功するよう祈ってるよ。だけど俺は自分のことだけで精一杯なんだ。世の中のことなんか考えてるゆとりはない。ここの食い物は俺の口に合わない。放射能とウイルスに汚染された物ばかりだ。食えないわけでもないが、めしの度に一々のたうち回るのはごめんだ。だからここでは暮らせない」
「食っていればそのうち慣れる」
「慣れるまで俺の体力が保たない」
「そうか」
 天馬駈はまた二つの目を閉じた。しばらく沈黙が続いた。やがて天馬駈は目を開けると、今度はいまいましそうに言った。
「あんたも他の人間たちと同じだ。ミュータントを嫌っている」
「別に嫌っちゃいない」
「嘘だ。俺のこの第三の目には人の心の中が見える」
 天馬駈はそう言いながら、自分の額を指差した。
「おまえの思い過ごしだ」
「あんたは意識していなくとも、あんたの深層意識がそう語っているんだ。人間たちの大多数がそう思っている限り、俺は人間たちと戦わなくてはならないだろう」
「やるがいいさ。別に止める気はない。俺はおまえに味方するつもりはないが、だからと言って、人間の側に立って戦う気もない。勝手にやってくれ。俺がミュータントを軽蔑しているとおまえが思いたければ思うがいい。確かにそうかもしれないな。俺はミュータントを嫌っている。そうさ。だけど人間も嫌いだ。誰も信じない。こんな時代に、一体何が信じられるって言うんだ?」
「誰も信じられないのか? ではその女はどうだ? あんたはその女も信じないのか?」
「俺はこの女を守らなければならない」
 良平は理沙の体を片手で抱き寄せてみせた。天馬駈はじっと理沙を見つめたまましばらく黙っていたが、やがておもむろに口を開いた。
「わかった。あんたの希望を全面的に受け入れよう。だが一つ忠告することがある」
 天馬駈は部屋にいる配下の男の一人に合図した。男は駈の所に封筒を持って来た。駈はそれを手に取ると、中身を取り出した。
「こんなモノがジョージ政府から回って来ているが、ここに写っているのはあんたと、あんたの女じゃないのか?」
 手にした大判の写真を良平の方に向けた。
「なんてこった……。いつの間に撮られたんだ?」
 理沙の手を引いている良平の姿がはっきりと写真に写っていた。
「きっと収監院で自動撮影されたのよ」
 理沙が言った。
「あんたは賞金首ってことだ。ここにこれが来てるってことは、東京周辺の支配者たちにも既に同じ物が回ってるということだな。つまりあんたは奴らにとって――この俺も含めてだが、外貨獲得のための美味しい輸出品ということだ」
「何だって?」
「自分の値段が知りたいか?」
 そう言うと、天馬駈は封筒から更に別の紙切れを抜き出した。額の目は良平の方に向けたまま、両目を紙切れにやった。
「百万オーストラリア・ドルだ」
 天馬駈は良平にその紙切れを手渡した。良平は急いで紙切れに目を通した。

  W No. 99 - 830 - 001 - 11 - 000008763
  [ トウボウシャ トキナカ リョウヘイ M 29 ジョージIセイセイフ シハイカミン, サツジンヨウギ Aus $ 1,000,000 ]

  W No. 81 - 830 - 001 - 23 - 000008764
  [ トウボウシャ リサ F 22 ジョージIセイセイフ シュウカンミン, サツジンヨウギ Aus $ 10,000 ]

「東京で一体何をやらかしてきたんだ?」
 天馬駈が訊いた。
「ここにある通り、役人を殺した」
「それだけではないだろう」
「それだけだ。そのあとは理沙を連れてオーストラリアへ密航しようとしたが、しくじった。それでここに来た。逃げる途中で、襲って来た東京のミュータントや無法者どもをやむなく殺しはしたが、それは関係ないだろう」
 駈は良平の手から紙切れを奪い返した。
「いいか、トキナカ、あんたの手配番号は99になっている。最重要、最優先ということだ。役人を殺したぐらいでは、普通はこのナンバーは使われない。リサさんは81になっているだろう。80番台は政治犯、殺人犯などの重罪犯逃亡者だが、1は捕まろうが捕まるまいが、どうでもいいといったくらいのものだ。次の830は逃亡場所、この写真が撮影された所の地区ナンバーだ。次の001は逃亡者の国籍。その次の二桁は性別と属性分類。あんたは11だから、男性の人間。リサさんは23で、女性の保護民。例えば俺なら男性のミュータントだから、ナンバーは12になる。最後は逃亡者の通し番号だ。
 気になるのはあんたに懸かった賞金だ。リサさんには一万オーストラリアドル懸かっている。たいてい賞金がつく時は誰でも一万だ。しかし99のナンバーがかぶせられたあんたには、百万ドルという破格の値がつけられている。これなら誰だってあんたをジョージ政府に突き出そうとするだろう。俺は別だが。どう考えても、役人殺しだけとは思えないがな」
 良平はもう一度天馬駈の手から手配書を引ったくり、それをじっと眺めた。
「いくら考えてみても、俺には他に心当たりがない」
「だったらあんたはジョージ政府に必要とされているということだ」
「何?」
「俺にも詳しいことまではわからんが、凶悪犯を捕まえ、死刑にするだけのために、あのけちなジョージが百万も出すはずがない。つまり、ジョージ政府はあんたを捕らえ、あんたに何かをさせようとしているのかもしれない、あんたにしかできないことを」
「俺に? 何を?」
「知らん。たぶんろくでもないことだろう」
 良平は手配書を天馬駈の手に押しやった。
「伊豆へ運んでくれ。頼む」
「だったらこうしよう――熱海の北にあんたたち二人を船で連れて行く。もっと遠くまで連れてってやりたいが、相模灘には海賊どもが跳梁跋扈していて、抜けるのは危険だ。あんたたちは徒歩で箱根を通って富士へ抜ける。山中を最短距離で、伊豆七将の勢力範囲を突破することになる。護衛も数名つけよう。これでどうだ?」
「それで頼む」
「ではこれからすぐ行こう」

 夜になってから房総島の西端に辿り着いた。車を降りると、向こうには海が黒々と広がっているのが見え、波が岸に打ち寄せる音が聞こえた。浜には船が何艘か繋ぎ泊めてある。天馬駈はここまでわざわざ見送りに来てくれた。
「あんたが無事に逃げられるよう祈っている、トキナカ。また会えるといいな」
「ああ。世話になったな。おまえがジョージを倒したという噂を、日本のどこかで聞けるといいんだが」
 天馬駈は声も出さずに笑った。良平と理沙が一艘の船に乗り込むと、続いて赤潮族の男たちが十人ほど乗り込んだ。
「陸に揚がったら、山嵐たちが先導する」
 天馬駈が言うと、乗組員の一人が頷いた。船はエンジン音を立てて岸から離れて行く。小さな漁船だ。沖に出ると、波が高くなり、風は一層強くなった。舳先に砕かれた波頭が飛沫となり、風に乗って飛んで来た。船はうねりを乗り越えながら、黒い海面を進んで行った。

「もうすぐ着くぜ」
 前にいる山嵐が振り返りもせずに言った。その言葉に良平はふと嫌な予感を覚えた。
「おい、方角はこれで合ってるのか?」
 周囲が真っ暗で、どちらに進んでいるかははっきりしないが、良平にはこの船が何となく北の三浦半島に向かって進んでいるような気がした。
「もう目と鼻の先だってば、へへへへへっ」
「おまえ、まさか……」
「東京に戻んなよ、ひっひっひ」
「てめえ、はめやがったな!」
「なあに、初めから売るつもりだったぜ。何しろ百万だ。いひひひひ」
 良平は周囲の赤潮族たちの様子を窺ってみたが、すっかり取り囲まれていて、これでは手の出しようがなかった。
「駈の指図か?」
「いやあ、駈は律儀者だ。お友達のあんたを助けたい一心でしたことには違いないが、まだまだ世間知らずで困る。みすみす百万を見逃す手があるもんか。俺があの若造の尻拭いをしてやるって寸法さ、へへへっ」
「クソッ!」
「そんなにクサるなって。もうとっくにあちらに連絡してあるから、お出迎えが待ってるだろうよ」
 良平はこの場で何とかする方法はないものかと周囲の様子を窺い続けていたが、強烈に後頭部を撲られて気を失ってしまった。
「へっへっ、下手な小細工なんか考えるんじゃねえぜ」

 気がついた時にはガタガタとひどく揺れる輸送車の中にいた。周りには自動小銃を持った白人の兵士たちがいた。理沙も輸送車の中にいた。このまま行き着く先は容易に想像できる。処刑場で銃殺され、見せしめの晒し者として配給所にある台の上に首だけが載せられ、胴は肥料用に畑に打ち捨てられるだろう。何かここから脱出する方法はないものか……。良平は諦めきれず、黙ってじっとしたままでいながらも、国連兵たちの様子を横目で窺い見ては、隙さえあれば何とか脱走を計ろうと考えていた。
 しかししばらくすると輸送車が停まった。外の状況はわからないが、何やら怒鳴り声が聞こえ、それを聞いて、護送室内にいた兵士が後部のドアを開けると、何人かが外へと出て行った。外はまだ暗かった。護送兵が二人だけ残ったが、油断なく良平に銃を突きつけていた。二人なら何とかならないだろうか、と良平はさもおとなしくしているようなふりをして、二人の兵士の隙を窺った。
 だが、両手首は手錠で繋がれている。外から聞こえてくる声から、瓦礫が進路を妨害していて、その撤去作業をしているのだとわかった。兵士は全部で何人いるのだろうか? これ以外にも兵士を乗せた車はあるのか? 外は闇だ。逃げおおせられる可能性もある。だがたとえこの二人を殴り倒して護送車から脱出できたとしても、理沙も連れて逃げなければならない。やるなら今こそチャンスだが、この場で射殺される可能性だってかなり大きいだろう。
 自由への希望と危険な賭に対する躊躇いにしばらく苛まれたまま、良平が身動きできずにいると、やがて彼の行動を促す不意の出来事が降って湧いてきた。外で銃声が立て続けに聞こえた。国連兵たちの叫び声が聞こえ、外がにわかに慌ただしくなってきたことがわかった。チャンスかもしれない! 聞こえてくる銃声と叫び声からして、銃撃戦が行なわれている雰囲気だ。何者かがこの護送部隊を襲っている――良平の咄嗟の勘は良平自身にそう告げていた。彼はもっと詳しく状況が知りたかったが、目の前に突き出されている自動小銃の銃口がそれを妨げていた。
 彼はゆっくりと顔を上げると、目の前の兵士の顔を見上げてみた。天井の薄暗い室内灯の光で、兵士の顔に陰ができている。だが、若そうな兵士が浮き足立っていることはすぐにわかった。落ち着きなく銃が震えていた。
「あれは何だ?」
 良平はそう言うと、尋ねるふりをしてもう一人の兵士の表情を窺おうと首を回した。二人の兵士は焦って銃口を良平の頬に押しつけると、大声でわめいた。良平は、
「落ち着けよ」
 と、ニヤッと笑うと、手錠で繋がれた両手首をゆっくり持ち上げて二人に示して見せた。その時、鳴り続けている銃声とは違う物凄い爆音がして、少しの間、自分が一体どうなったのか見当がつかなかった。
 我に返ると、護送車が横転してしまったのだとわかった。恐らく襲撃している奴らが手榴弾か何かを投げつけたのだろう。隣で伸びている兵士がもぞもぞと動いた。良平は繋がれた両手で咄嗟にその兵士の銃を拾い上げると、起き上がりかけた兵士の顔面を銃床で激しく打った。兵士は呻き声を上げると、今度こそ本当に気絶してしまった。間髪入れずにもう一人の兵士の側頭部も銃で殴打した。この兵士も頭を抱えてそのまま起き上がれなくなってしまったようだった。
 良平は急いで理沙を抱き起こそうとした。理沙は気を失ってはいないようだった。
「大丈夫か、理沙?」
「ええ」
「逃げるぞ」
 理沙は黙ってこっくりと頷いてみせた。外の銃声はまだやんではいなかった。一体兵士の人数はどれくらいなのだろうか? 国連軍の輸送車を襲撃している奴らの人数は? しかしそれがわかろうがわかるまいが、今逃げるしかないと良平の本能は訴えていた。
「行くぞ」
 両開きの片側が垂れ下がった後部ドアの下をかいくぐるようにして、良平と理沙は繋がれた手を取り合って外に出た。銃弾が地面や廃墟ビルの壁に当たっては炸裂し、そこらじゅうで光っていた。近くで何かが燃えていて、焦げ臭い臭いがした。空はもう明けかけている。
(まだ薄暗いうちにどこかに逃げ込んでしまわなければ――)
 銃弾の応酬がやまないかと、横転した護送車の陰で少し待っていたが、どうやら双方とも暗がりに向けてやみくもに銃を撃っているのか、銃弾のやみ方も不規則で、飛んで来る方向も定まってはいないようだ。良平は護送車の陰から飛び出すタイミングを計ってはいたものの、いつまでも計りきれずに焦りだけが募っていった。
「走るぞ」
 待ちきれなくなった彼は、次に銃弾がやんだかに見えた時に、理沙に向かって小声で、しかし強い口調で言うと、手錠で繋がれて不自由なままの両手で理沙の両手をしっかり握り締めたまま、護送車の陰から思い切って飛び出した。ほんの十五秒も走れば何とかなる。彼は自分に希望を持たせようと、頭の中でそう叫び続けながら、理沙の手を引いてがむしゃらに真っ直ぐ走った。足の傷の痛みのことなどはすっかり忘れていた。
 また銃声が盛んになった。良平は焦った。その時、理沙が転んだ。彼女の手を両手でしっかりつかんでいた彼は、それに釣られて地面に転がった。
「理沙!」
 やはり片足の自由が利かない理沙を自分のペースで強引に引っ張って行くのには無理があったのか。
「理沙」
 彼は這い寄って理沙を抱き起こそうとしたが、今度は理沙の反応がなかった。
「理沙?」
 理沙はもう息をしていなかった。胸が血に染まっているのが、夜明け前の薄明かりでわかった。
「理沙…………」
 良平は理沙の体を抱き寄せたまま、もうその場から動こうともしなかった。

 しばらくして銃声がようやく鳴りやんだ。国連兵が何人か近づいて来たが、興奮している様子で、何事かわめきながら容赦なく銃床で良平を打った。彼は血を噴いて倒れそうになったが、理沙の遺体を抱いたまま放そうとしなかった。その様子を見た兵士たちは、益々彼の顔や背中を撲り続けた。
 良平は気を失いそうになりながら、両脇を兵士たちに抱えられて引っ立てられた。理沙の遺体も兵士たちに運ばれた。良平は今にも気が遠くなりそうだったが、そんなことよりも、愛する者を一瞬にして失くした絶望感に打ちひしがれ、痛みも感じなかった。
 何気なく彼の目に飛び込んで来た光景は、薄暗い中で何度も崩れては元に戻る人間の明るい立体映像だった。両側の廃墟ビルから映写されているレーザー光の筋も見て取れた。これまで住民たちを恐怖により統治してきた政府のトリックがいとも簡単に割れてしまっていた。先程までの銃撃のため、破壊風によって崩れ去る人間の姿を映写するホログラムか何かの装置が壊れてしまったのだろう。しかし良平はもうそんなことには無感覚だった。
「死にたくないよー! あああああ! 死にたくない!」
 若者が地面に転がってもがいているのも見えた。その声には良平も注意を向けた。その顔も知っていた。サブだった。サブは腹を押さえて地面をのたうち回っていた。腹から腸が飛び出ていた。サブは恐らく良平には気づいていないのだろう。たちまち兵士の一人が近づいて行き、至近距離から銃を撃った。サブは動かなくなった。向こうにも死体らしき物が転がっていた。見分けはつかないが、きっと徳山たちの死体に違いない。
(よりによって、俺の目の前で死にに来たか……)
 兵士が良平の背中を銃床で激しくつついた。彼は前に停めてあった軍用ジープに押し込まれようとしたが、その寸前、
「撃てっ!」
 前の車にいた日本人が言った。途端にまた銃声が響いた。良平の体じゅうから血飛沫が飛び、彼はその場に倒れた。
「死んでないだろうな?」
 命令を下した日本人が尋ねた。
「閣下のご命令通り、急所は外しました」
 白人の兵士の一人が流暢な日本語でそれに答えた。
「しかし、このままでは出血多量で――」
「わかっている。急ぐぞ。そっちの女は?」
「女は死んでいます」
「それでいい。計画通りだ」
 男が自分のジープの助手席に戻ると、兵士たちも素早く乗り込み、車を発進させた。

 光が目に入り込んできたが、ぼやっとした影のようなもので、形を成していなかった。ここはあの世なのか? 今目の前にいるのは神か何かか? 影は何か言っていた。
「……契約するか」
 良平は朦朧とした意識のまましばらく影の言うことを聞いていた。
「契約するか」
 影はまた言った。
「……する」
 光の影が動いたかと思うと、何かを顔に押しつけてきた。次に息を吸った途端、彼はまた意識が薄れていった。






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