2. 脱  出



 翌晩、サブは職場に来なかった、次の晩も、その次の晩も。元太たちと襲撃の準備をしているのだろう。良平は憂鬱な気分になった。彼らは確実に死ぬだろう。
 朝、家に戻って来て、理沙と一緒に味気ない食事をとっていると、表で戸を叩く者がいた。闇兵衛の遣いだった。見た目はまだ幼い子供で、闇兵衛が我が子のように可愛がって育ててきた災害孤児だ。
「時仲の旦那、父ちゃんが旦那にこう言えと言ってたよ――手はずは整ったから、明日暮れてから店に来てくれって」
「わかった。他には? 他に闇兵衛は何か言ってなかったか?」
「ええっと……?」
 子供はぽかんとした様子でじっとしていた。
「もういいよ。わかったと闇兵衛に伝えてくれ。よく遣いができたな。偉いぞ」
「ああ」
 子供は用件が済んでもまだ帰らずに、理沙の方をじろじろ見ていた。何してるんだと思ったが、理沙を見ているのではなく、そこに置いてあるラジカセを見ているのだとわかった。
「タツオ、遊んでいきたいのか?」
 良平が声をかけると、
「ううん」
 少年は首を横に振るや、そのまま出て行こうとした。
「待て、タツオ」
「えー?」
「これが欲しいんだったらやるぞ」
 良平はラジカセを手に取って、タツオの所へ持って行った。タツオは嬉しそうにラジカセを両手で受け取ると、
「ありがとう」
 と言いながら、良平の顔を見上げてニッコリと笑った。この子は闇兵衛が拾った時から背が少しも伸びていない。放射能の影響か、それとも地下で暮らしているからかはわからないが、小学生くらいにしか見えない。知能の発達も遅れている。
「タツオ、裏通りを通るんじゃないぞ。迷子になるからな。真っ直ぐうちへ帰れよ」
「ああ」
 タツオを見送ると、良平はまた火のそばに戻って腰を下ろした。
「あれ、あの子にあげちゃっていいの? 情報が入って来なくなるわよ」
「別に構わないさ。どうせ放送は政府の流すデマばかりだ。それにもう要らなくなるんだ。理沙、よく聴け」
 良平は理沙の両肩を両手でつかんで自分の方に向き直らせた。
「明日の夜、俺たちはここから逃げ出す」
「えっ?」
「たぶんオーストラリアへ行くことになるだろう」
「誰が?」
「俺と、おまえと、二人が」
 理沙の表情が変化を見せないので、喜んでいないのではないかと少し戸惑ったが、
「行くのか行かないのか?」
 良平が声を高くすると、
「行くわ、もちろん。あたしを連れてってくれるのね」
 そう答えたので、彼は内心ほっとした。
「いいか、今日はおとなしくしといて、明日、暗くなったら収監院を抜け出して来い。俺はフェンスの外まで行って待ってる。荷物なんか持って来るなよ。何も持って来るな」
「持って来る物なんて、何も持ってないわ」
「そうか。俺も何も持ってない」
 良平がそう言うと、二人は声を揃えて笑った。
「明日の朝はここには来るなよ。もしものことが起こるとまずい。今日と明日は農場でもおとなしくしていて、決して奴らに逆らったりしちゃいけない。できるな?」
 理沙は黙って頷いてみせた。
「明日の夜になれば、俺たちは自由だ。夜が明ければ、貨物船の甲板から太平洋を眺めてるだろう。年が明ければ俺たちは、夢の国オーストラリアにいる。おまえがいつも待ち望んでいた楽園の到来は、2014年じゃなくて、2012年には現実のものとなるんだ」
 良平は興奮してそう言うと、たまらず理沙の唇を吸った。

 昼間寝ていると、突然誰かが部屋に飛び込んで来て、彼を呼び起こした。物盗りかと思って慌てて飛び起きると、ナイフをつかんで身構えたが、入って来たのは茜だった。
「一体どうしたんだ? 血相変えて」
「サブが、サブが」
「サブがどうした?」
「サブが帰って来ないのよ、昨日の朝からずっと。前の夜に魔太郎のとこに銃を受け取りに行ったっきり」
 茜は泣き出しそうになっていた。
「仕事に行ってるはずはないんだけど、もしかして良さんだったら知ってるかもって思って……」
「仕事には来てないな。あれ以来あいつには会ってない」
 良平はナイフを床に転がした。
「先生が、破壊風にやられたんじゃないだろうかって言うのよ」
「まさか。たぶん魔太郎のとこで何かトラブルでも起こしたんじゃないか」
「あたいもそうかもしれないって言ったんだけど、先生も元太も尻込みしちゃって」
「わかった。俺が魔太郎のとこへ行ってみよう」
「ありがとう。やっぱり良さんは頼りになるわ。でも寝なくていいの? 夜の仕事は大変でしょう?」
「いや、今晩は休むつもりだったから、別にいい。今すぐ行こう」
 良平はコートを着ると、ナイフを拾い上げ、鞘がないのでタオルをぐるぐる巻きつけ、それをコートの内ポケットに突っ込んだ。部屋を出ると、茜もついて来た。
「おまえはついて来るな。今どこにいるんだ、元太のとこか?」
「みんな元太のとこにいるわ」
「じゃあ、あとから行く。おまえは先に戻ってろ」
 良平は一人で魔太郎の根城へ向かった。魔太郎に会ったことはないが、居場所のおおよその見当はついている。

 黄土色の空が黒灰色に変わり、やがて濁った雨が降り始めた。良平はコートの襟を立てただけで、気にせずに、少し辺りを見回してから、そのまま地下鉄への崩れかけた下り口を、瓦礫を踏み越えながら下りて行った。
 プラットホームには篝火が燈っていた。人が住んでいる証拠だ。その辺りには人の気配はなかった。彼は線路の方に身を乗り出し、左右を眺めた。反対側の車線にも行って同じことをする。遠くに灯りが見えた。彼は線路に飛び下りると、灯りの見える方へと歩いて行った。
 途中で焚火をしている所に男が四人いて、その中の一人が良平の姿を認めると、すぐさま立ち上がり、片手を良平の胸に当てて押し止めようとした。
「おっと、ここに何の用だい? この先は行き止まりだぜ。あんたは道を間違えたんだ。元来た道を引き返しな」
 他の三人も鉄パイプを手にして立ち上がると、良平に近づいて来た。
「魔太郎に用がある」
「聞こえてないのか、あんた。こっちには誰もいねえって言ってるんだ」
 良平は男を無視して、
「おい、魔太郎! 出て来い!」
 大声で呼ばわった。男たちは殺気立ち、手にした鉄パイプを振り翳した。
「よお、兄さん、死にてえのかよ」
 目の前にいる男が拳銃を抜いて良平の腹に突きつけてきた。良平は男の顔を見てニタッと笑ったあと、一瞬のうちに男の腕を捻り上げ、そいつの背中に銃口を当てた。
「手を出すな、チンピラども。こいつの内蔵が飛び散るぞ」
 男たちは鉄パイプを構えたまま動かない。
「おい!」
 向こうに停まっている地下鉄の車両の窓から、首を出して呼びかけてくる者があった。
「こっちに連れて来い!」
 声が地下道に反響して行った。三人の男たちは手にした鉄パイプを下ろした。良平は捕まえていた男を放すと、奪った拳銃を地面に放り投げた。そのまま車両の所まで行くと、中にいた大男が手でドアを引き開け、梯子を下ろした。車輌の中には、タキシードに蝶ネクタイ、髪も綺麗に刈った、紳士然とした男が立っていた。良平は少々驚いた。
「魔太郎か?」
 タキシードの男は笑顔を作ってみせると、
「私は執事兼参謀のミスター・イロハ」
 そのふざけた名前に、良平は思わず吹き出してしまった。
「おかしかったですかな? それなら光栄の至りです。ご主人様があなた様にお会いしたいと申しております。こちらです。どうぞ」
 ミスター・イロハは先に立って二輌目へと歩いて行く。イロハのカツカツという靴音と、靴底が剥がれてしまってペタンペタンという良平の靴音とが妙にバランス良かった。
「これは……」
 良平は思わず呟いた。車輌内には暖房が利いていた。ミスター・イロハは察し良くすぐに答えた。
「電気でございます。東京には一つしかない政府の発電所から拝借しているのでございます」
「拝借と言うと――」
「盗んでいるとも言います」
 ミスター・イロハは二輌目へと通じるドアを開け、連結部に吊るしてある舞台の緞帳のようなカーテンを引き開けると、もう一つのドアも開けた。車内の有様を見て、良平は目を見張った。室内の装飾や家具は、まるで二十世紀の高級ホテルのロイヤル・スイート・ルームでもあるかのようだ。誰の作かは良平にはわからないが、額縁に入った油絵まで掛かっている。車内の真ん中辺りにソファーと大理石のテーブルが置いてあり、和服に日本髪の若い女が六人座り、正面に顎髭を伸ばした紋付き袴の初老の男が座っていて、女たちに酌をさせながら杯を傾けている。その向こうにはやはり和服の女たちがいて、琴を奏でていた。
「お連れして参りました」
「うむ」
 顎髭の男が頷くと、ミスター・イロハは奥の三輌目へと入って行った。
「突っ立ってないで、掛けたまえ」
 地下鉄魔太郎が言うと、良平は我を取り戻し、魔太郎の向かいの空いているソファーに腰を下ろした。
「少しばかり驚かれたようだな、無理もないが。上では恐怖政治が幅を利かせておる。しかしある所には物はあるものだ」
「あんたに訊きたいことがあって来た」
「まあまあ、慌てなさんな。上の人間と話ができるのは滅多にないことだ。わしの唯一の趣味は、人と会って話をすることだ」
「悪いが、あんたとゆっくり話してる暇はないんだ。おとといの夜、ここに若い男が小銃を借りに来ただろう? サブという奴だ」
「あいつはあんたの仲間かね?」
「そうだ」
「それなら悪いことは言わん。国連の物資に手を出すのはよしたまえ。あんな小僧っ子と組んでたんじゃ、命がいくつあっても足りやしないよ」
「だからやめさせようとした」
「説得できなかったか」
「あんたに上の人間の気持ちを理解しろったって無理だろうが、たとえ十中八九しくじるとわかっていても、やらざるを得なくなっちまうんだ。そういうもんなんだ。なぜサブを捕まえた? 親切心からか?」
 魔太郎は大声を上げて笑った。
「わしはああいうこそ泥が大嫌いでね。約束の品を借りて帰るついでに、契約外の品物まで持ち帰ろうとしおった」
「何をしたのか知らないが、勘弁してやってくれ。罰はもう充分だろ」
「なに、ウイスキーの一瓶くらい、欲しいと言えばくれてやったものを、こっそりくすねようなんてするからねえ。そういう根性が気に入らなかっただけだ。わしはビジネスマンだ。若いもんに社会のルールの一つも教えてやろうという親切心だよ」
「社会のルールだって? ふん、笑わせてくれるじゃないか。それじゃあ、あんたはルールに則って商売を続けてるとでも言いたいのか? 一体どこが? 輸送部隊を銃撃して援助物資を強奪することは、ルール違反にはならないのか?」
「それは政府の作ったルールだ。あの日本人だかアメリカ人だかわからない、ジョージ一世とかいう、この国の首相だと勝手に称している、あの愚か者のためにあるルールだ。わしはそんなものは認めていない。なあ、くだらん議論はよそうじゃないか。酒が不味くなる。きみも一杯やらんかね、時仲クン」
 良平はギクッとした。
「なんで俺の名前を?」
「わしは東京一の情報通だ。情報を握ったからこそ闇の帝王になれた。これからは情報だよ、時仲クン。情報を一手に握った者こそが勝ち残る。もっともあんたのことは闇兵衛さんから聞いたのだ」
「闇兵衛から?」
「うちのお得意さんだよ、あの方は」
「ああ」
 隣の女が良平に酒を注いで差し出した。
「日本酒だよ」
 良平はそれを一口飲んでみた。
「こんなモノをどこから?」
「ある所にはあると言っただろう。舶来品ではないよ。輸入には違いなかろうが、国内から輸入している。東北地方のある所だ。そこでは今でも米を作っている」
 良平はテーブルの上に並べられている料理の数々を眺めてみた。ここ数年来口に入れたことのない物ばかりだ。
「遠慮せずに食べてくれたまえ。きみはわしの大事なお客さんだ。しかしわしはきみにこう尋ねたいね――なぜそんなに急いでこの国を捨てようとするのか? きみには先のことが見えてはいない」
「先のことなんか見えてたまるか。それよりなぜあんたは俺がこの国を出ようとしていることまで知ってるんだ?」
「上の人間の気持ちはわしにも少しぐらいは理解できる」
 魔太郎はたこ焼きを口の中に押し込むと、ニタッと笑ってみせた。良平もソーセージをつまんで口に入れた。
「いや、そうではないかもしれない。闇兵衛さんから聞いただけだ。きみの脱走の手助けを頼まれてね。まあ、そっちの方は彼の口から直接聞いてくれたまえ。闇兵衛さんはきみに相当惚れ込んでいるようだ。わしはきみが羨ましいよ、今時無一物で他人の信頼を得ることができるなんて。所詮わしは物を手段としてしか人の心を引き寄せられん。この女たちだってそうだ、わしの持つ富に群がり寄って来る蜜蜂どもだ」
「俺はあんたにも感謝しなけりゃならなかったんだな」
「気にすることはない。だがわしがきみに言いたいのはこういうことなのだ――この国も捨てたもんじゃない。今でこそ国なんてものは影も形も失くなってしまってはいるが、時仲クン、日本は必ず復活するよ。ジョージなんて、吹けば飛ぶような紙切れだ。奴は惑星衝突の時に、あの大混乱をものともせず、ひたすら宝石、貴金属の類をかき集めて回った。奴は日本一の大泥棒だ。奴の弟は外交官をしていたから、真っ先に外国とコンタクトを取った。しかしそれだけだよ、奴が成功した理由は。奴には国連軍という後ろ盾がある。それが失くなれば、ただの湿気たじじいだ。わしは世間から思われているような人間とは少し違う。決して悪党のボスで満足しているわけではない」
「やがては上でのさばっているじじいを押し退け、闇の帝王から表の支配者へと成り上がるってわけか」
「それも違う。きみは知らない、わしなど所詮、ただの人間だ。日本政府と称している奴ら、つまりジョージの勢力が及んでいるのは、旧東京だけ。あとはせいぜいその周辺地域がいいところだ。日本の一地方勢力に過ぎん。きみはその他の地方がどんなものか知っているかね?」
「俺は戦争から逃げ帰って、日本の沖まで来た時、沿岸警備隊と名乗って襲って来た海賊どもから逃れるため、貨物船から海に飛び込んだ。泳ぎ着いた所は房総半島のどこかだった。あそこでは赤潮族というミュータントどもが幅を利かせていたな」
「正確には房総島と言うべきだね」
「ああ。もう日本列島と切り離されてしまってる。惑星衝突の影響で、南極の氷が融けて海水面が上がったんだとラジオで聞いたことがある」
「確かに鹿島―習志野ラインと銚子―千葉ラインの間が海に沈み、成田空港も今では海底にある。三浦半島の先端は館山湾に入り込み、浦賀水道は航行不能、今では犬吠埼水道が東京湾の出入口になっている。しかしきみの聞いた政府の見解は明らかに間違いだ。確かに南極の氷が融け、ハワイには氷山ができている時代だ。この気候・気象激変の主な原因は、衝突のショックで安定していた地軸がぶれ、]字運動をするようになったためだと考えられる。地形の変化は海水位の上昇のためだけではない。それだけならこの辺りも海中に没しているはずだ」
「言われてみればその通りだな」
「主な原因は横からの圧力による褶曲運動、つまり地表面に皺が寄ったのだ。だから沈んだ部分と盛り上がった部分が各地にある」
「なるほど。あんたは大した学者だ。ところで、地質学の講釈はもう結構だから、そろそろサブを返してくれないか」
「あいつはまだ帰りたくないそうだよ」
 良平は嫌な予感がして、思わず立ち上がった。
「心配することはない。死んではいない。眠っているだけだ。きみはもう少しわしの話の続きを聴くべきだ。座りたまえ」
 仕方なく、良平は再び腰を下ろした。
「話を本題に戻そう。この日本だけでも、きみの想像を遙かに超えた者たちがたくさん存在している」
「ミュータントか」
「だが、きみの知っている赤潮族や、この東京に多くいるミュータントたちからは想像も及ぶまい。彼らは人間とは呼べないかもしれない。突然に進化して、もはや別の何者かに変化してしまっている。元が人間だから、姿こそ人間に近いだろうが、超人とでも呼ぶしかあるまい。
 彼らの間でも既に支配者層と被支配者層とが確立されつつあり、二十一世紀の原始社会は第二段階に入ったと言えよう。過去の日本史に当てはめてみれば、大和時代辺りだろうか。群雄割拠の次に起こることは明らかだ。それは統一だよ。つまり、やがてはこの東京地区にも彼らのうちの誰かが攻め込んで来るだろう。たとえジョージが国連軍の威勢を借り、束の間の独裁者気分を楽しめたとしても、彼らがやって来れば、あんな人間の軍隊など一撃で粉砕され、奴らの支配は儚くも崩れ去るに違いない。
 わしが表の支配者に成り上がるだと? とんでもない。わしなどただのひ弱な人間だ。我々は被支配者層だ。支配するのは彼らだ。きみがここを去るのは早すぎる」
「どっちにしたって支配される。あいにくと俺はあんたのように、ジョージ一世が倒されるのを見届けたいがためだけに、あと何年もこの地に留まっていられるだけの忍耐は持ち合わせていないんだ」
「きみは誤解している。わしはなにも支配されることが嫌だとは言ってない。最後には素晴らしい支配が訪れるのだ」
「あんたも近頃流行りの新興宗教に凝ってるみたいだな」
「わしは宗教的見地により言っているのではない。科学的な根拠があってだ。二十世紀に、一体誰が今日の日本の姿を想像し得ただろうか? 同じことが、きみがこれから行こうとしているオーストラリアについても言える。現在のオーストラリアやインドネシアの繁栄は、いつまで続くという保証はどこにもないのだ。悪いことは言わない、もう少しここに残って、この国の行く末を見届けたまえ」
「俺はあんたを誤解していたよ。あんたは本当は親切な善人だ。二十世紀の世の中でも、あんたのような人は珍しかったろうさ。あんたは確かに日本中のこと、外国のことまでよく知っている。だけどな、魔太郎さん、あんたには、あんたの頭の真上を歩いている連中の実状は全く理解できていない。俺たちが何を思って毎日を生きているか、ちっともわかっちゃいない。そうさ、あんたにわかるはずがない。どうせ俺は目先のことしか考えることのできない、ちっぽけな人間さ。残念ながら、あんたのありがたい忠告が聴けるほどの耳を持ち合わせちゃいないのさ。だから話もこれで終わりだ。あんたの用件は聞いてやったんだ。上の人間の話が聴けたんだ。これで充分だろ。今度はこっちの用件を聞いてもらう番だ。早くサブを出せ。あいつを自由にしろ」
「残念だね。きみのような人間には残っていて欲しかったが……、仕方あるまい」
 魔太郎は手元にあるボタンを押した。すぐに向こうのドアが開いてミスター・イロハが姿を現わした。
「時仲クンが小僧っ子のお迎えだ。彼は友人思いだ。実に見上げた男だよ」
「では時仲様、こちらへどうぞ」
 ミスター・イロハに促され、良平は三輌目へ行った。そこには装置の類がぎっしりと並んでいて、何人ものスタッフが操作していた。
「ここは情報センターといった所でございまして、例えばあれらのモニター・テレビを通して、あなた様のご来訪などは前もって知ることができるわけです」
 駅のいろいろな場所がいくつものテレビ画面に映っている。
「いえ、単なる監視カメラでございますよ。モニターをこちらに運び込んだだけです」
 他にもコンピューターやレーダーの類が見受けられたが、ミスター・イロハはそれらの説明はあえてしなかった。
 四輌目は食堂車になっていて、五輌目では魔太郎の手下たちがくつろいでいた。ミスター・イロハはそこにいた何人かに黙って指先だけで指示した。手下たちはドアを開けて六輌目へと入って行った。ついて行くと、そこは倉庫のようだった。いろいろな品物が所狭しと積み上げられている。
「大した財産だな」
 良平が言うと、
「車輌はまだまだ延々と繋がっております。これはごく一部でございます」
 ミスター・イロハは得意気に言った。なるほど魔太郎はジョージ以上の富豪かもしれない、良平はそう思った。
「お好きな物をお土産にどうぞ」
「いや、いい」
 そうは言ったものの、やはり良平は魔太郎を羨む気持ちが湧いてくるのを否定できなかった。
「ではいかがです、フィアンセのお嬢様にお召し物などは?」
 良平はミスター・イロハにそんなことを言われ、びっくりしてしまった。イロハは大きな段ボール箱の蓋を開けて中身を見せた。
「いかがです、毛皮のコートなど? 上ではエネルギー不足で、これから凍死の季節を迎えるそうではありませんか」
 良平は目を見張ってしまったが、すぐに首を横に振った。
「そんな物を上で着ていると、あっと言う間に命を失くしてしまう。『人を見たら泥棒と思え』――嫌な文句だが、二十一世紀じゃ常識だ」
「世知辛い世の中でございますなあ。ではありふれたお洋服でも」
 ミスター・イロハは女物のコートを取り出した。
「女性用でございますが、お嬢様のサイズはいかほどのものでしょう?」
「だいたいそれくらいで合うと思うが、できれば古着にしてくれないかな」
「あいにくとここにはございませんが、これを汚せば済むことでございましょう」
「それもそうだな。すまない、ありがたく頂いとくよ」
「どういたしまして」
 良平は女物のコートを受け取った。その時、向こうのドアが開き、サブが魔太郎の手下たちに引きずられて来た。ひどく痛めつけられた様子で、顔には痣ができ、一人では立っていられないようだ。手下たちは乱暴にサブを放り出した。
「兄ぃ……」
 サブは良平の姿を認めると、床に倒れたまま声を洩らした。良平は屈み込んでサブを起こしてやった。鼻の穴と口の隅に血が固まっていて、両瞼が腫れ上がっている。
「二度と馬鹿な真似をするんじゃないぞ。魔太郎が寛容な人間で助かった」
「カンヨウって何だ?」
「バカ」
「時仲様、主はこの方の申し出にあまり乗り気ではございませんが、一旦契約したものは反故にはできないと申しております。いかがなさいますか?」
「悪いが、ミスター・イロハさん、こいつの言い出した話はなかったことにしてくれ。小銃を借りるのは、なしだ」
「承知致しました。そのように伝えておきましょう」
「兄ぃ、それじゃあ俺の顔が立たねえよ」
 サブが呻いたが、
「そんなもの立たなくていいんだ。さあ、帰るぞ」
 良平はサブの体を支えて立ち上がった。
「隣の控え室からお帰り下さいませ」
 手下たちが屯している五輌目の扉を開けて梯子を下ろしてもらうと、良平はサブを連れ、線路の上を引き返して行った。
 元太の住む廃墟ビルまで来ると、他の四人がいて出迎えた。
「もう馬鹿な考えはよすんだな。襲撃計画は没だ」
 みんな何も反論しなかったので、良平は元太たちが諦めたものとばかり思っていた。

 それから翌晩が来るまでの間、良平はじっと自分の部屋に籠もっていた。理沙は言いつけられた通り、今朝はここにやって来なかった。良平は窓辺に座って、暗くなるのをじっと待ち続けた。
(いよいよだ)
 彼はおもむろに立ち上がると、この部屋で燃やされる最後の火を消した。部屋の戸を閉めたあとも、長い間住み慣れたこの古アパートには何の未練も感じないかのように、二度と振り返ることもなく、木枯らしの吹く暗い舗道を真っ直ぐ歩いて行った。
 女子収監院のフェンスの前まで来ると、中の様子を窺ってみたが、農場には人影もなく、風がヒュルヒュルと吹き抜けて行くだけだ。建物の所々の窓がほのかに明るい。中では火が焚かれているようだ。良平はしゃがみ込み、ミスター・イロハから理沙にともらった女物のコートを地面にこすりつけた。それからしばらく暗がりで、理沙の姿が現われるのを目を凝らして待っていたが、彼女はなかなか現われない。
(まだ逃げ出すチャンスが見つからないのだろうか? それとももしかすると、既に建物の反対側へ出てしまっているのかもしれない)
 彼は収監院の周囲を歩いてみようと足を動かした。ちょうどその時、風の唸りに混じって、建物の方から複数の女のかん高い声が聞こえてきた。悲鳴のようだった。中の様子を詳しく知らない良平は気を揉んだ。悲鳴は続いている。彼はたまらずフェンスを乗り越えると、建物目ざして駆け出した。
 見上げると、悲鳴は二階か三階の灯の燈っている辺りから聞こえてくる。農場へ通じている出入口の所まで行き、中を覗いてみると、男が二人でトランプか何かをしていた。良平は懐からナイフを取り出した。戦場を抜け出した時からずっと持っている戦闘用の物だ。巻きつけたタオルをゆっくりとほどくと、理沙のコートで見えないように隠した。
 覚悟を決め、ガラス戸を押して建物の中へと入って行く。テーブルに向き合っている役人二人はトランプに熱中していて、良平に注意を向けようとはしなかった。
(巧くすり抜けられるかもしれない)
 そう思った彼は、そろそろと階段の方へ向かおうとしたが、役人の一人が不意に彼の方に目を向けた。
「何もんだ? どこへ行く?」
 役人は手にしたカードを放しもしないで、座ったまま彼に問いかけてきた。良平は笑顔を作ると、彼らの方に体を向け、
「ここは収監院だろ?」
 言いながら、テーブルの方に近づいて行った。
「そうだが、おまえはここに入りたいのか? だけど来る所を間違えたようだな。おまえの行先は牢獄だ」
「へっへっへっへっ」
 もう一人が軽薄な笑い声を上げた。次の瞬間には笑い声を上げた役人の喉が、良平の手にしたナイフによってかき切られていた。役人は血を噴きながらその辺りをバタバタとつかんだあと、椅子から転げ落ちた。残りの一人はカードを放り投げると、急いで逃げようとしたが、その時には良平の左手に口を塞がれ、ナイフで背中を突き上げられていた。役人は床の上に落ち、動かなくなった。
「おまえの行先は地獄だ」
 死体に向かってそう呟くと、理沙のコートを拾い上げ、階段へ向かった。
(誰にも気づかれていない)
 良平は辺りの様子を窺ったあと、足音を立てないようにして階段を上がった。二階の廊下に出ると、耳を澄まして灯の燈っている部屋の様子を窺ってみた。だが悲鳴は続いていたものの、この階からのものではないようだった。彼は更に階段を上がった。
 悲鳴が近づいたのがわかった。火が焚かれている部屋を次々に覗きながら、彼の足取りはしだいに速くなっていった。そしてとうとう悲鳴の出所に辿り着いた。
 その部屋の中で繰り広げられているおぞましい光景を彼は目にした。収監院の役人たちが少女たちを犯しているのだった。この部屋には目の見えない者たちが集められているのだと、少女たちの様子を見て良平はすぐに察することができた。彼の目はすぐに理沙の姿を捉えた。鼻の下を伸ばした一人のいやらしそうな中年男に追いかけられながら、理沙は一人で逃げ回っている。当たり前だ、彼女には見えるのだ。しかし他の少女たちは着ている物を剥ぎ取られ、這いずりながらまだ抗っている者もいれば、既に男たちの慰み者にされて呻いている者もいたし、裸にされたままほったらかしにされ、耳から入って来る悲鳴に釣られて泣きわめいている者もいた。
 扉は内から鍵が掛けられていた。良平はすぐさまガラス窓を叩き割った。驚いて呆気に取られている強姦者たちの髪の毛を次々に鷲づかみにしながら、その頸動脈を切り裂いていった。彼女たち全員に視力がないのが幸いだと彼は思った。
「良!」
 役人全員を殺し終えると、理沙が胸の中に飛び込んで来た。彼女の華奢な体をぎゅっと抱き返すと、
「ゆっくりしてられない。行くぞ」
 そう言って、ナイフをポケットにしまった。理沙の手を引いて行き、彼女の体を抱き上げると、壊した窓の外へと出した。自分も窓枠を乗り越えようとして、ふと理沙のコートを忘れそうになったことに気づき、足元から拾い上げた。
 廊下へ出て耳を澄ましてみたが、誰かが駆けつけて来る足音は聞こえなかった。少女たちの悲鳴の数は減ったものの、まだ完全にやんではいなかった。
(もう少し泣き続けていてくれ)
 悪いとは思いながらも、良平は心の中で、憐れな少女たちにそう願わずにはいられなかった。
「他の人たちをあのままにしておくの?」
 理沙が小声で訊いてきた。彼女もいくらか後ろめたさを感じているのだろう。
「構ってられない。おまえ一人で精一杯だ」
 理沙の肩を抱きながら、良平は急いで階段を下りた。
 一階まで下りてみると、あの二人の死体はまだそのままだった。
(まだ知られていない!)
 良平は理沙の手を引き、ガラス戸をくぐり抜けると、暗い農場の中を突っ切った。
「俺がこんな野蛮人だったって知って、驚いてるんだろう?」
 良平は理沙の顔も見ずに言った。
「ううん。あなたは頼もしいわ。好きよ。あたしはどこまでもあなたについて行く。死んだって構わないわ」
「死ぬなんて言うな。絶対に生きるんだ」
 良平は暗い畑の中で急に立ち止まると、理沙の両肩をつかんだ。
「絶対に死のうなんて考えるんじゃない。いいな。生きてさえいれば、いつかは必ずいいことがある」
「そうね。必ずいいことが起こるわ」
 フェンスを乗り越えると、良平は理沙にコートを着せてやった。
「これは?」
「魔太郎にもらったんだ。魔太郎って知ってるか?」
 理沙は首を横に振った。
「そうだろうな。知る必要もない。思った通り、おまえにぴったりだ」
「あたし……」
「え?」
 暗がりの中だが、理沙の表情が急に曇ったように思えた。
「何だい?」
「あたし、何もされてはいないのよ」
 先程の集団レイプを彼に目撃され、理沙はそのことを気にしているようだった。良平は急に哀れを催すと同時に、今までになく彼女のことが愛おしく思えた。
「信じてくれる?」
「ああ、わかってるさ。もうそんなことは言うな。早く行こう」
 理沙は良平の胸に顔を埋ずめてきた。
(憐れな娘だ、俺よりも何倍も、何十倍も苦しんできている。俺はこれまで自分以外の人間の不幸など考えてみたこともなかった。考える余裕がなかった。だけどそれを思ってみれば、俺の不運なんてたかが知れてる。きっとおまえを幸せにしてやるよ)

 二人は灯りのほとんどない夜の街を通って、やがて地下街に下りた。良平には真っ暗闇の崩れた階段を下りることは大変だったが、理沙には何でもなかった。
 最初の篝火が見えると、闇兵衛が既にそこまで来て待っていた。
「これはまあ、なんと綺麗なお嬢さんだ」
 闇兵衛は理沙を見るといきなりそう言った。
「さあ、急ごう。途中まであっしが案内するぜ」
 闇兵衛は地下道を先導して行った。二人は黙ったまま闇兵衛のあとについて行った。別の出口から地上に上がると、瓦礫が散乱している大通りを進んだ。
「闇兵衛、どこへ行くんだ? 方角が違うじゃないか」
 闇兵衛は東の方へ進んでいた。
「これでいいんだよ。港へ行けば危険が多すぎるだろ。だから江戸川まで行ってボートで海に出ると、沖に貨物船が待っててくれるって仕組みなんだよ」
「なるほど。考えたな」
「あっしが考えたんじゃないんだよ。魔太郎さんとこのイロハさんだ」
「ああ、あの人か」
「知ってんのかい?」
「昨日会って来た。魔太郎にも」
「そりゃまた結構なことで。良さんたちが乗る船は、ギリシャ船籍のアルテミスという船だが、オーストラリアのファー・イースト・シッピング・カンパニーという会社の持ち船だ。オーストラリアの国旗を揚げてるからね。魔太郎さんがフィリピン人の船長とも、船会社の支配人とも話をつけてくれていて、二人のために船室も用意してくれているはずだから、良さんはお嬢さんと二人で、何の気兼ねもなく船旅を楽しんでおくんなよ」
「すまん、闇兵衛。恩に着るよ」
「なんの、それも無事船に乗り込めてからの話だい」
「魔太郎にも礼を言っといてくれ。思えば、昨日はあの人に随分ひどいことも言ってしまったよ。きっとひがんでたんだな。ついでに謝っといてくれ」
「わかったよ」

 しばらく行くと、闇兵衛が不意に立ち止まった。前方をじっと窺っている。街灯が燈っている所に兵士が屯していた。
「検問だな」
「仕方ない。裏道を行くとするか」
 闇兵衛は路地裏に入って行った。
「危なくないか、夜に? こっちはミュータントの――」
「兵隊に捕まれば身も蓋もねえ。良さん、もしもの時はこれを――」
 そう言うと、闇兵衛は懐に手を入れ、拳銃を抜き出した。良平はそれを手に取った。
「随分古い銃だな」
「骨董品だよ。だけどミュータント、おっと、どちら様が相手でもそれで充分。あっしも一丁持ってるしねえ」
 闇兵衛は拳銃をもう一丁抜き出すと、銃口を良平に向けてみせた。
「抜かりはないな」
「もちろんだとも」
 二人は拳銃を持った手をポケットに入れると、再び歩き出した。

 裏道をしばらく歩いていると、良平が闇兵衛に向かって急に小声で言った。
「つけられてるぞ」
「なるべくならこいつは使いたくはねえんだけど」
「気を抜くなよ」
「がってんだ」
 何者かが足音も立てずにヒタヒタと忍び寄って来ている。いつの間にか相手の数が増えていることに良平も闇兵衛も気づいた。理沙が良平の左腕をぎゅっと握り締めた。良平は右手をポケットから抜くや、サッと体を反転させた。闇兵衛が懐中電灯のスイッチを入れて後ろに向けると、身長一メートルほどのミュータントたちの姿が、弱い光の中にいくつか浮かび上がった。ミュータントたちは、棒の先に紐で石をくくりつけた手製の石斧を手にしていた。
 次の瞬間、小人ミュータントたちが一斉に石斧を振り翳して良平たちに飛びかかった。良平と闇兵衛の銃口が次々に火を噴いた。ミュータントたちは地面に倒れて痙攣していた。闇兵衛が懐中電灯で照らしてみると、こいつらの顔はトカゲの皮のような皮膚をしていた。闇兵衛はすぐに懐中電灯のスイッチを切った。ミュータント街を夜間に灯りを燈しながら歩くということは、襲ってくれと宣伝して回っているようなものだ。
「腕は衰えてないな、闇兵衛」
「良さんの方こそ。しかし弾の予備はないよ。なるべくなら使わないように」
「ああ」
 廃墟と化した夜の街は、自分の今いる位置が全くつかめない。
「隅田川は越えたから、もうかれこれ本所辺りだろ」
「隅田川? 川なんか越えてないぞ」
「さっき越えた大きな断層、あれがそうだよ。隅田川も荒川放水も、傾いて水が全部流れ出しちまいやがったからねえ。なに、歩きはあと半分だよ」
「地下に住んでるくせに、よく地上のことがわかるな」
「なあに、昔の記憶を辿ってるだけさ。当てにゃあならんよ。とりあえずあっちへ向かって行きさえすりゃあ、水が流れてる。江戸川は水が流れ込んだ方だからね」
 良平は不意に嫌なことに思い当たった。
「もし橋や鉄橋が落ちてたらどうなる?」
「まあ、落ちてるだろうなあ」
「ボートで海へ出られないかもしれない」
「だいじょぶだって。川底に沈んでらあ。小舟が進んで行けるだけの水さえ流れてりゃあ、東京湾まで出られるだろ」
「それだといいんだけど」
 その時、理沙が急に良平にしがみついてきた。
「どうしたんだ?」
 良平は周囲に注意を払った。目を凝らしてみると、前方に何かいるような気がする。彼はまた拳銃を握り締めた。ゆっくりと近づいて行くと、人間が一人倒れていて、そのそばにミュータントが屈み込み、一人で何かを貪り食っていた。闇兵衛は懐中電灯のスイッチを入れ、ミュータントに向けた。ミュータントはちぎられた人間の腕を両手でつかんで、それにかぶりついているのだった。顔に光を当てられたミュータントは、うううっ、と犬のように唸り声を洩らし、闇兵衛を睨んだ。自分の獲物を横取りされると思ったのだろう。
 闇兵衛は光を倒れている死体の方に向けた。まだ若い白人の男だ。ヘルメットとブーツと自動小銃が近くに散らばっている。腕と脚が引き抜かれていて、血だらけの上着の袖とズボンがぺしゃんこになっていた。
「アメリカ兵だな」
「まだ新兵のようで。間抜けだねぇ」
「何も知らずにこんな所に入り込んだんだろう。可哀そうな奴だ。まだ歳も若い」
「外人に同情してやることなんかねえってば。奴らの味方じゃねえか」
「俺には他人に同情してやることはできないが、やっぱり憐れだ。こいつは来たくてここに来たわけじゃないだろ。政治に強制されて、行きたくもない場所に送られただけだ。自ら進んで中東へ行った俺たちよりも、ずっと不幸だとは思わないか?」
「そう言やそうだけど、一々同情してたらきりがないね」
 闇兵衛はそう言いながら、落ちている自動小銃を拾い、死体の腰のホルダーから、拳銃を抜き取った。
「いいモノが手に入ったねぇ」
「M―16系みたいだが、わからないな」
「あっしらの知らない最新型だろう。アメリカもロシアもぼろぼろになったけど、武器産業だけは今もって栄えてるらしいから」
 ミュータントがいつまでも唸り続けるので、良平たちは早々にその場を離れた。

「そろそろ本番だな」
 地面の起伏が激しくなってくると、闇兵衛が言った。廃墟ビルがほとんどなくなり、倒壊した建物の瓦礫で辺り一帯が埋まっていた。所々で焚火をしているのが見える。
「この辺にゃあ国連軍がほとんど入り込んで来やがらねえ。無法者の自治区だね」
 闇兵衛は自動小銃を構えた。焚火を囲んでいる連中は良平たちの方を見ていたが、闇兵衛が小銃を彼らに向けているためか、襲って来ようとはしなかった。
 しかし、次の焚火に群がっている連中の傍らを通り過ぎようとした時、
「おっ、見ろよ、女だぜ」
 一人が気づいて言うと、たちまち全員が近寄って来た。
「よお、ねえちゃん、俺たちの焚火の仲間に入らねえか」
 一人が理沙の腕をつかもうとしたので、良平はそいつの胸を突き飛ばした。男は仰向けにひっくり返った。途端に他の者たちが刃物を取り出した。
「へっへっへっへっ」
 男たちは良平たちを取り囲んだ。
「美味そうなおねえちゃんだ」
「おねえちゃん、お友達の肝を焼いて食わせてやるぜ」
「へっへっへっへっ」
 途端に闇兵衛が小銃を連射した。男たちがバタバタと地面に倒れる。生き残った奴らは何も言わずに一目散に逃げて行った。
「弾の無駄遣いはやめとこう。この銃は弾の出が良すぎる」
 闇兵衛は逃げて行く奴らを無視した。
「他の道を通ろう。これじゃあいつかは殺されちまう」
「通れるものならとっくの昔にそうしてらあ。地割れがひどくて時間がかかり過ぎるんだ。行けるとこまでこのまま行こうじゃないか」
 焚火が点々と続くでこぼこ道を抜けるまでに、小銃と拳銃の弾は完全に失くなってしまった。寒さに震えながらかなりの距離を歩いた頃、ようやく目の前に幅の広い川が流れているのがわかった。斜めに傾いた河原の一カ所に焚火が見える。
「たぶんあれだな」
 闇兵衛は焚火の方へと進んで行った。
「やっと来なすったか」
 火に当たって煙草をふかしていた二人の男が立ち上がった。
「魔太郎さんとこのタイさんとマグロさんだよ」
「ほんとはこんな情けねえなめえじゃねえんだがよ、海辺の仕事を任されてるもんで、とりあえずこう名乗ってるのさ」
 タイかマグロのどちらかが言い訳をしてみせた。
「そんじゃあ闇兵衛の旦那、あとは俺たちに任せてくんな」
 闇兵衛は良平の肩を叩いた。
「あっしはここまでだ。なあに、きっと巧く行くって。こいつは当座の軍資金と携帯食だよ」
 そう言って良平に数十枚の紙幣の束と紙包みを手渡した。
「すまん、闇兵衛。気をつけて帰れよ」
「明るくなるのを待って帰ることにするよ。一人じゃあんなとこ、とてもとても」
 良平はタイたちの方を向いた。タイとマグロは黙って頷くと、水辺へ行き、ボートを川に押し出した。
「さあ、乗ってくんな」
 良平と理沙がボートに乗り込むと、タイとマグロはオールを操った。
「お嬢さんと二人で幸せにな」
「ありがとう。タツオを立派な大人にしてやれよ」
「わかってるって」
「また機会があれば会いたいな」
「いい時代が来ればきっと会えるって」
 ボートは流れに従って進んで行く。
「この分だと、明るくなる前に船に乗り込めますぜ、旦那」
 ボートを漕ぎながら、タイかマグロのどちらかが言った。良平は夜空を見上げた。もうここ何年ものことだが、空には月も星も出てはいなかった。

 一時間も行かないうちに、潮の香が漂ってきているような気がした。川幅が更に広くなり、河口が近づいたようだった。とその時、
「何だ、ありゃあ?」
 タイかマグロが叫んだ。声に釣られて見てみると、川の中に柱が何本も突っ立っていた。更に近づいてみると、鉄格子の檻のように、鉄骨が規則正しく並んで立てられているのだとわかった。
「いつの間にこんなモノ植えやがったんだ? つい一月前まではなかったぜ、こんなモノ」
「これじゃ通れねえぜ」
 タイとマグロはどうするかで、意味のない言い争いを始めた。鉄骨は高々と聳え立ち、天まで伸びているのではなかろうかと良平には思えてきた。ジョージ政府は、川を下って国外逃亡を企てる国民が出てくることを読んでいたようだ。それとも過去に何度もそういう例があり、労働力の減少を阻止しようとこういう措置に出たのかもしれない。
(ろくに都市を復興させようともしないくせに、こういうことだけは素早い。だがどちらにしたって俺には関係なくなるんだ)
「仕方がない。ボートを捨てよう」
 湧き上がってきた、政府に対する憤りをすぐさま消し去ると、止めどのないタイとマグロの水掛け論に終止符を打たせようとした。
「だけど船は沖合四キロの所で待ってるんだぜ。この真冬に泳いで行くわけにもいかねえだろが」
「海岸を歩いて、またボートを探せばいいじゃないか」
「そりゃそうだ」
「それしかなさそうだな」
 タイとマグロはボートを向こう岸へと寄せ始めた。崩れかけた堤防をよじ登ると、四人は歩いて海の方へ向かった。海岸沿いを探して行ったが、ボートの類は一切見当たらなかった。良平はしだいに焦りを募らせ始めた。
「おい、船はいつまで待っててくれる予定になってるんだ?」
「さあねえ、あちらの腹次第だろ。こっちからは、遅くとも十時頃までには行けるだろうって伝えてあるけど」
「時計持ってないか?」
「持ってるけど」
「何時だ?」
「ちょっと待ちなよ。ええっと……」
 タイかマグロのどちらかがライターを点け、腕時計を眺めた。
「まだ四時にはなってねえ。この時計は正確じゃないが、そこそこってとこだ。まだ六時間以上ある」
「夜が明けるまでに舟を見つけりゃ何とかなるさ」
 タイとマグロは楽観的だ。良平は仕方なく、また海岸を歩き出した。しかしバラバラになってしまって使い物にならないボートやクルーザーの残骸こそ見つかりはしたものの、海の上に乗り出す術は見出せなかった。
「泳ぐことになりそうだな」
 良平はタイとマグロに皮肉めいた恨み言を言うと、とうとうひび割れた岸壁に座り込んでしまった。
「諦めるのはまだ早いぜ」
「諦めちゃいないさ。考えてるんだ」
「そうかい」
 タイとマグロも腰を下ろすと、煙草を取り出して一服始めた。
「やるかい?」
 良平も一本もらって煙を大きく吸い込んだ。
「貨物船の方からランチで迎えに来てはくれないだろうか?」
「連絡さえ取れればだがな」
「何とか連絡を取ることはできないか? 船会社に連絡して――」
「電話も無線も何にもないんだぜ。無理だ」
 波が岸壁に当たって、チャップチャップと音を立てている。まるでそれが波に嘲笑われているかのように聞こえた。良平は首を回した。近くに大きな建物が黒々といくつも建ち並んでいるのがわかった。
「そうだ。舟がなければ作ればいい。何か水に浮かぶ物さえあれば、筏が作れる」
「それもそうだ」
 良平は火の点いた煙草を投げ捨てると、後ろの建物に向かって行った。そこは、半分ほど崩れた工場の廃墟のようだった。四人は瓦礫を踏み越えながら、建物の入口へと進んだ。
「ドラム缶みたいな物でいい。探してくれ」
「わかったよ。それじゃあ手分けして探そうぜ。これを持ってけよ」
 良平は懐中電灯を受け取った。タイとマグロはまた煙草に火を点けると、懐中電灯を翳しながら二人から離れて行った。良平は理沙の手を引きながら、そこらじゅうを探し回った。大きなタンクのような物が横倒しになって錆びついている。壊れた何かの機械の残骸もあったが、欲しい物はなかなか見つからない。
「ここには役に立ちそうな物はなさそうだな。他を探すか」
 理沙の方を向いてそう言った時、どこかで閃光が閃くのが目に飛び込んで来た。凄まじい爆音が轟いたかと思うと、次の瞬間には天井が降って来た。理沙が悲鳴を上げたのはわかったが、何が何だかわからないうちに、良平は意識を失くしていた。






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