1. 荒 廃 都 市
薄汚れた街路を木枯らしが吹き抜けて行く。乾いた砂埃を巻き上げながら、道行く人々の間を通り抜けると、嘲りながら去って行く。通行人たちは一瞬はたと足を止め、全身をこわばらせて身震いした。それでも所々綻びのある舗道の上に落としたままの視線を上げようともせず、次の瞬間には自分の両足を交互に前へ出した。あとは今まで通りの無感動な景色が続くだけだ。しかしその顔にはどれも、しばしの安堵を得たようなほっとした表情が、一つの例外もなく浮かんでいることは確かだった。
「なんて嫌な所だ、この街は」
良平は、すぐ斜め前や真後ろを歩いている者にも聞き取れないくらいの小さな声で囁いた。
「ギャアアアー!」
突如上がった悲鳴が自分の喉から出たのではないかと思い、彼はその瞬間、息が詰まった。だがいつものように、次にはそれが自分のものではないと考えることができた。今そう考えることができたということが、標的がこの自分ではなかったという証拠になる。彼は俯いたまま、悲鳴のした前方に上目遣いに視線を向けた。
数メートル先で男が――どう表現すれば良いのだろう、身悶えているというのでもなく、硬直しているというのでもない。死んでいる――そう、もう死んでいるには違いないのだろうが、その表現も的確ではない。ここの人々が陰で言うように、『風化していく』と言うしかないかもしれない。
彼は男が目の前で風化していくのを見た。しかしそれも二、三秒の間の出来事に過ぎず、それが男なのかどうかも、彼が見た時には判別できなくなっていた。先程の悲鳴が男の声だったから、そいつはきっと男だったのだろう。憐れな男の輪郭は既にぼやけていて、次にはそれらがザザザッと道の上に落ちた。男の着ていた薄汚れた衣服と、穴の空いた革靴だけが舗道の上に残っている。悲哀を催す暇もない、もうそこには砂塵しか残っていないのだから。別に驚くこともなかった、毎日のように見慣れている光景だったから。ただ、それが自分でなくて良かったと誰もが思っただけだ。
また冷たい風が吹いて来て、良平の足元で砂埃を舞い上げさせた。
(死体が舞っている……。風に吹き飛ばされて、この俺の体にぶつかって来る砂粒は、こないだまでは生きていた。生きてこの通りを歩いていた。どれもこれも人間の化石の粉が混ざり合った物だ。俺は今、その死人どもを体じゅうにかぶって歩いている)
彼は身震いしたくなった。
(だけどあんな死に方じゃあ、この世に怨念を残す暇もなかったろう)
しかし彼はすぐに、たった今、頭の中を巡った考えを消し去ろうとした。あのことに関しての嫌な噂が囁かれていて、その噂を本気にはしていなかったものの、思い出すとゾッとしてしまったからだ。
(五分後には俺がああなるかもしれない)
それだけ思ったあと、彼は自分の頭の中を空にした。
家に戻って来ると、理沙が来ていた。
「おかえりなさい」
彼女はすぐに良平に近づいて来ると、コートを脱がせた。人が激減してしまった今は、住む所に困ることは全くなかったが、彼はこの崩れかけた古アパートをあえて選び、そこに住み着いていた。その方が安全だからだ。
「これは何だ?」
良平は、部屋に置いてある真新しい花柄の布張りの椅子に気づいて言った。
「これって?」
「椅子だ」
「いいでしょ、これ。スチール製のパイプ椅子よりずっといいと思わなくって?」
理沙は良平の汚れたコートを手にしたまま、花模様の椅子に腰掛けてみせた。
「どうしたんだ、これ?」
「拾って来たのよ。あたしに買えるはずないでしょ」
「どこから?」
「センタービルからよ」
「あんなとこへは行くなっていつも言ってるだろっ!」
良平が上げた怒鳴り声にも、理沙はめげる様子も見せず、
「でもこの椅子はすてきでしょう?」
恋人の同意の言葉を期待するかのように、彼に向かって笑みを浮かべてみせた。良平は理沙の笑みには応じず、
「ああ、ああ、素晴らしいよ。だけど身の危険を冒してまで取って来るほどの物か?」
早口でまくし立てた。
「身の危険なんて全然なかったわ。この椅子とお揃いのがもう一つあったから、あなたとあたしにちょうどいいと思って、二つとも持って帰ろうとしたんだけど、も一つの方は、近くにいたミュータントに先を越されちゃったの。残念だわ。二つ揃ってれば最高なのに」
「命の代わりに椅子を奪られただけでも幸運だった。二度と行くな、あんな場所へ。おまけに夜出歩くなんて、どうかしてる」
「夜でないと、こんな物持って帰れないじゃない。あなたは差別意識を持ってるわ、ミュータントたちに対して。いけないことよ。ミュータントたちにもいい人はいるわ」
良平は急に疲れを覚え、所々破れたベッドに身を横たえると、今までの怒りをすぐに忘れてしまった。
「あいつらはな、ミュータントにならなかった人間を妬んでるんだ。人間が一人でいるのを見つけると、徒党を組んで襲って来る」
「そういう人たちばかりじゃないわ」
「ミュータントみんながみんなそうだとは言ってない。そういう奴らがいるから、一人で危険な場所へは行くなって言ってるんだ。ミュータントだけじゃない。普通の人間だってそんな奴らがごろごろしてる。差別だと言いたけりゃ言うがいいさ。俺は現実問題を言ってるだけだ」
彼は継の充たった布団をかぶると、目を閉じた。理沙は、部屋の真ん中で燃えている釜の中に板切れをくべた。
「ねえ、良、あなた、一日くらい仕事休めないの? たまには二人っきりで、どこか静かな所へ遊びに行きたいわ。海辺とか」
「無理言うなよ。半日働いて、一日分の食糧しかもらえないんだ。一日休んでみろ、一日飯抜きだぞ」
「じゃあせめて、昼間働いて、夜帰って来るようにしてよ。それだと二人でいられる時間ももう少し長くなるわ」
「駄目だな。今の仕事は割がいいんだ。半日で二人分もらえる。おまえの分まで稼げる。他にもっといい仕事があるならそれをしたいが、今のところはこれしかない。奴らの仕事だが、仕方ない、食うためには。理沙、頼むから今日は寝かせてくれないか。疲れてるんだ」
「ごめんなさい。今日も風化を見たの?」
良平は目を瞑ったまま頷いてみせた。
「もうすぐ2011年も終わるわ。そしたらあと二年よ。きっといいことが起こるわ」
理沙は毎朝良平に向かって言う決まり文句を今朝も繰り返した。
「食べてけよ。今日は肉がついてた。偽物だろうけど」
理沙に話の続きを喋らせたくなくて、四角い白い塊と黒い塊を彼女に向かって差し出した。彼女はそれを受け取ると、火の上に鍋を掛け、水差しから水を注ぐと、オーストラリア産の小麦の塊と、インドネシア製の人造肉を鍋の中に滑り込ませた。
「あたしね、収監院を出ようと思うの」
「え?」
「ここであなたと一緒に暮らしたいわ。ねえ、駄目?」
「だけど勝手に出ていいのか?」
「あそこは嫌よ。農作業中は何度も鞭で打たれるんだもの」
「だけど法律が――」
「法律ですって! 一体誰が決めた法律よ! 体が不自由になった者を保護するって言って、あんな所に閉じ込めて、実際にやってることは強制労働じゃないの。もう嫌よ! あんな所、もう嫌……」
理沙は泣き出した。良平は慌ててベッドから飛び起きると、彼女の体を抱き抱えた。
「わかった、わかった。考えよう」
「あたしは目が見えないんじゃないわ。何もかも見えてるわ。この街がどうなってしまったのかだって、あなたがどんな顔をしているかだって、ちゃんと知ってるわ。でもあいつらはそれを認めようとはしないのよ、医学的にはあたしは完全な盲目だから。もう嫌よ、あんな所! もう嫌……」
理沙は良平の胸に身を委ねると、光を失ったその両目で涙を流した。
「この街を離れて、二人でどこか遠くへ行こう。きっとどこかにいい土地があるはずだ。日本になければ、そうだ、オーストラリアかインドネシアへ行けばいい。考えれば方法もきっと見つかるさ」
やがて理沙は収監院の農作業をしに帰って行った。片足を引きずりながら彼女が去るのを窓越しに見届けると、良平は黄土色に濁った空をチラッと見上げたあと、またベッドに戻り、疲れきった体を横たえた。
2004年以降、人類は三種類に分かれた。元のままの人間でいる者と、放射能やウイルスなどにより外見が大きく変化した者、もう一つは何らかの機能を失った者――これは政府の分類だ。障害を持つ者は今の世の中では生きては行けないという理由で、政府がこれを保護するという名目から、法律を作って彼らを収監院という所に収容し、仕事を与え、食物を与えている。しかしそれは建前で、実質的には彼らは支配者たちの奴隷に他ならない。弱者を上手く利用しているに過ぎないのだった。
理沙たちはあの悲惨な出来事の被害者で、名目上は恩恵を受ける立場となってはいるものの、実際のところ、役人たちから「半端者」と呼ばれ、蔑まれ、鞭打たれ、家畜並の扱いを受けている。
(しかし理沙は――)
良平は思った。理沙は医学者によれば全盲かもしれないが、実際は見えている。視覚機能は失われているのかもしれないが、少なくとも外界を完璧に感じ取ることができる。それどころか、夜中に真っ暗闇のセンタービルまで行って、この椅子を拾って来たりしているのだ。彼女はきっとこの花柄が気に入ったに違いない。彼女には夜も昼も関係ない。光ではなく、レーダーのように、波長か何かを感じ取ることができるのかもしれないが、科学にはあまり詳しくない良平には、その理由まではよくわからない。
(しかし――)
理沙はあの出来事の生き残り組となったが、片脚が不自由になり、光を失っただけに過ぎないではないか。目は見えているのと同じだ。だったら収監院に入れられる筋合いはない。現に毎朝、農作業が始まる前に収監院を抜け出して来て、この部屋で俺と朝食を共にしてまた帰って行く。彼女に言わせれば、収監院で出される食事は味が全くなく、気に入らないからそうしているのだそうだが、意識はせずとも自由を欲しがっているのは疑いようもない。
「何が保護だ」
その言葉が良平の口から吐き捨てられるように飛び出した。そのあとすぐに、彼はまたあの嫌な噂を思い出してしまった。彼はまた理沙の問題を黙って考えることにした。
良平が理沙と知り合ったのは、都市復興作業と政府が称する夜間の土木作業従事者から解放され、朝の街をねぐらに向かって歩いていた時のことだ。決まってみすぼらしいなりをした娘が何をするともなくぶらついていて、ごく自然に顔見知りになった。
彼女は占いが好きな娘で、占いのことをよく話した。こんな時代だから、未来に希望を持ちたいと思うのも無理からぬことだと良平は思った。それが決まって最後には必ず、もうすぐ救世主が現れて、世界は楽園になるのだという話に行き着く。それは西暦2014年から始まるのだと言うのだ。
理沙の話を聴いていると、良平は心が安らいだ。だが毎日2014年の話をされると、いささかうんざりしてくる。彼には先のことなど考えているゆとりなどない。今日生きて行くだけで精一杯だ。彼は正直言って、何も未来に希望を持ってはいなかった。
(ではなぜ俺はこんな苦しみの中でさえ生きていこうとするのだろう? いっそ自殺してしまったら楽じゃないか)
しかし彼の答はいつも一つしかなかった。『なぜ生き延びようとするのかはわからない』
(俺は本能だけで生きている人間だ。野生の獣と何ら変わりはない。犬や猫、いや、蚊や蠅や虻とだって同じだ。だけど理沙はどうだろう? 彼女は間違いなくインナー・ミュータントだ。そうだ、彼女をあの牢獄から救い出してやらなければならない。救い出したからと言って、ここも地獄には変わりないが、俺が今死なずにいる理由は、一つだけはっきりしている――理沙がいるからだ。別にいつ死んだって構わないが、彼女を自由にしてやるために、とりあえず今は生き延びよう。俺には彼女にそうしてやる義務がある。つまり俺は、彼女を愛しているのだ)
良平は、夜間の重労働で疲れきった体にも関わらず、目が冴えて眠れなくなってしまった。隙間風に震えながら、もう一度釜に木切れを放り込んで火を起こし、しばらく名案はないかと考えていたが、すぐにまた釜に蓋をして火を消すと、砂埃を吸い込んで重くなったコートを羽織り、急いで部屋から出た。
崩れたビルの林を急ぎ足で抜け、良平は少し行った所にある女子収監院へ行ってみた。廃墟となった高校の校舎か何かを利用し、その狭いグランドを畑にしている。彼はもっと近づいて、農作業をさせられている収監民たちをしばらく眺めた。
「馬鹿な!」
思わず口をついてその言葉が出た。監督をしている役人たちは確かに力任せに鞭を振るっているわけではないが、まるで猛獣使いだ。理沙の背中や脚に痣ができていることは、彼は既に知っていたが、理沙はまだましな方だろう。他の者たちには、労働などには耐えられない体をしている者がたくさんいる。それでも役人たちは少しも容赦しないで、むしろ弱々しい者になるほど執拗にいたぶり続けていた。腰から下がなく、鞭で打たれては両手で這いずり回りながら、雑草を刈っている子供までいた。
「畜生……」
理沙から聞いてはいたが、初めてその実情を目の当たりに見てみると、激情が体じゅうを駆け巡り、到底それを抑えることができなくなってきた。だが彼は込み上げてくる憤りを、理性でもって無理やり抑えつけようと懸命になった。ここで出て行ったところで何にもならない。数人の役人を殴り倒したあとは、捕らえられて処刑されることはわかりきっている。もしかするとあの破壊風が即座にどこからか吹いて来て、自分の肉体は三秒のうちに石の粉と変わり、風に吹き飛ばされて行くだけかもしれない。
良平は錆びついたフェンスを握り締めることによって、迸り出ようとする憤怒の叫びを辛うじて押し殺した。そのまま農場の方に背を向けると、スタスタと元来た道を引き返して行った。理沙は鞭打たれる上半身だけの少女に目をやりながら、黙々と農作業を続けていたが、遠目にも、彼女が無情な役人たちに対して怒りを覚えていることが、良平にははっきりと感じ取れた。しかし自分が遠くから彼女の様子を眺めていたということまでは、いくら何でも気づいてはいないだろう。
良平はしばらく鬱々としながら、時たま風が砂塵を巻き上げていく通りを歩いていたが、部屋へ帰って寝る気にはなれなかった。
(闇兵衛の所へ行ってみるか。あいつは情報通だし、機転も利く)
良平は崩れ落ちた瓦礫の山を踏み越え、裏通りの方へ入って行った。途中で地下街への下り口に入り、ひびが入ったり、所々砕けたりしている階段を注意深く下って行った。暗い地下道には篝火が点々と燈っていて、足元を照らしてくれている。
そのまましばらく進んで行くと、やがて明るい場所に出た。そこには篝がたくさん燈されていて、人もたくさん集まっていた。この上はちょうどミュータント街と人間街の境界線辺りだ。ここでは人間とミュータントが入り混じっている。人々はやけに騒がしく、活気に満ち溢れているように見えた。
「よう、時仲の旦那じゃありやせんか! 今日は本格的な冬に備えて、いろいろといいモノを揃えてありやすぜ。店に入ってゆっくり見てってくんなせえよ」
地下街の店舗の廃墟の前で、良平は若い男に声をかけられた。男の呼びかけには答えず、彼はその店の奥を覗き込んだ。しばらく中の様子を窺っていたが、やがて口を開いた。
「闇兵衛はいるか?」
「いやすけど、何の用でやす? 旦那様は滅多なことじゃあ他人様にはお会いしない主義でして」
「闇兵衛に会いたい。取り次いでくれ」
「買い物じゃねえんで?」
良平はムカッとなって、男の胸ぐらをつかんで引き寄せた。
「いつまでも無駄口叩いてるんじゃねえ。さっさと取り次げ。それともその不細工な面を肉団子にされたいのか」
押し殺した低い声を男の耳の中にねじ込んだ。男は少々怖じ気づき、
「何も会わせねえなんて言ってねえじゃねえかよ。おっかねえんだから、もう」
良平の腕を振りほどくと、他の客の波をかき分けながら奥へと入って行った。
「ったくもう、今日はやけに虫の居所が悪いや。仕事クビにでもなったのかねえ。ったくもう」
男はぶつぶつ文句を言いながら奥へと消えた。しばらくして中年の男が出て来て、
「よう、良さん、ここんとことんとやって来なかったけど、何してたんだ? まあ、話はあとだ。とにかく奥に入ってくれ。久しぶりに一杯やろうじゃねえか。お上ご禁制の上等なこれがある」
酒を飲むポーズを取ってみせた。店の奥の闇兵衛の部屋には、今時信じられないほどの品物が揃っていた。良平は革張りのソファーに腰を下ろした。闇兵衛はグラスにウイスキーを注いで持って来た。
「たまには顔を見せてくんねえと、寂しいじゃねえか。何しろあんたはおいらの命の恩人だ。まあ、遠慮せずにやってくんな」
闇兵衛は良平に酒を勧めた。
「今日はあんたに相談したいことがあって来たんだ」
「何でも言いつけとくれ。何しろあんたはおいらの命の恩人だ。そりゃできねえなんて言いはしねえよ」
「景気が良さそうだな、闇兵衛」
「お蔭様で。それもこれも、みんなあんたにこの命を救ってもらったからには違いねえ。まあ、何だね、若気の至りって言うにはちいっとばかし歳を食い過ぎてたが、これでも、あの馬鹿どもに煽られて戦争に行ったことを今でも後悔してるんだぜ。いっぱしの正義感ぶっちゃってさあ、全くもってお笑い種だねえ」
闇兵衛は自嘲している様子でもなく、まるで他人事のように自分の愚行を笑ってみせた。
「俺も同じだ。未だにそのことが悔やまれて仕方がない」
「だから中東で良さんにそそのかされて、いや、ごめんなせえよ、誘われて敵前逃亡したことは、今では正解だったとつくづく思ってるんだよ。一緒に脱走した奴らの半分は、途中でくたばっちまったり、どっかへトンズラしちまったりしたけど、あの時逃げ出してなけりゃあ、あの一週間後には得体の知れねえ化学兵器を浴びて、アラビアの砂漠のど真ん中で、銃を握り締めたまま腐れ死んじまってたんだ。あんなもの、どう見たって戦とは言えねえね。殺し比べさ。赤坂や町田なんかもたまにここに来るけど、良さんには感謝してるっていつも言ってるぜ。あのあとインドの辺りをうろついてる間に、例の星がドカーンだ。あの時この国に残ってなかったお蔭で――」
闇兵衛はその続きを言おうとして、慌てて口を噤んだ。彼の言おうとしたことなど、聞かなくても良平にはわかっている。ミュータントにならずに済んだと言いたいのだろうが、ミュータント相手に商売もしている闇兵衛にとっては、『ミュータント』という言葉自体が禁句なのだ。
「言いたいことはわかってるよねえ?」
「ああ」
「今となってみりゃあ、全て運が良かったということさねえ」
「運が良かったか」
「そうだよ」
良平は闇兵衛のように楽天的な心持ちにはどうしてもなれない。2004年の小惑星衝突の時、他の者たちと同様に死んでいれば良かったとよく思う。あと一週間前線から逃げずにいて、化学兵器に殺られていたとしても、今のようにこんな惨めな生きざまを続けているよりは、ずっとましだったかもしれない。
しかし自分は幸か不幸か、全世界四分の一の生き残り組に入ってしまった。何とか日本に戻って来たものの、その時には自分の持っている記憶と重なり合うものは、この土地には何一つ残ってはいなかった。
「ところで相談ってえのは何だい?」
「頼みたいことがあるんだ」
「何だい?」
良平はグラスを手に取り、ウイスキーを口に含んだ。闇兵衛はすかさずボトルの栓を抜き、良平がテーブルの上に置いたグラスに酒を注ぎ足した。
「オーストラリア辺りへ行きたいと思ってる」
「ははあ、この国に愛想を尽かしたのかい。その気持ち、わからないでもねえが、何ならあっしと一緒に闇商人をやってみてはどうだい? 今時こんなに美味しい商売は他にねえぜ。他ならぬ良さんのことだ、その気があるんなら、あっしの相棒になって頂きやしょう。それが嫌なら、この近くで店を開いてみてはどうだい? 初めのうちはこちとらで仕入れの面倒を見させてもらうが」
「いや、闇商人になる気は全然ない。俺にはあんたのような商才が全くないことくらいちゃんとわかってる。とにかく脱出したいんだ。オーストラリアか、でなかったらインドネシアに……」
闇兵衛はしばらく黙り込んだ。
「無理だろうか?」
「なあに、他ならぬ良さんの頼みだ、何とかしてみせやしょう」
「オーストラリアの貨物船に乗り込めさえすれば、あとは何とかなるだろう」
「問題は港の検閲だけど、良さん一人くらいなら何とかなるだろうよ。向こうでの当座の金もあっしに任せておくれよ。大きい声じゃ言えないが、もっぱら国連の輸送車を襲うのを生業としてる連中を知ってるから、オーストラリア・ドルだって手に入るよ」
「闇兵衛、本当のことを言うと、俺一人じゃないんだ」
「ってえと?」
良平は少しの間黙った。闇兵衛に全てを打ち明けたくはなかったが、このことを言わないわけにはいかない。彼は意を決すると、再び口を開いた。
「女を一人連れて行くつもりだ」
途端に闇兵衛の顔がにやけた。
「するってえと、駆け落ちってことかい? 遙か海の向こうまで。こりゃ歴史に残る駆け落ちだ。良さんも隅に置けないねえ」
「闇兵衛、頼むから真面目に聴いてくれ」
「こりゃどうも」
「俺一人ならどうでもいい。何とかなる」
「まあねえ。良さんは心配なかろうが……」
「その女というのは、今は収監院に入れられていて、あそこでひどい仕打ちを受けてるんだ」
「収監院か。てえっとあの……」
「医者が見れば全盲だが、実はちゃんと見えてる。片脚が少しばかり不自由なだけだ」
「それだったらあんなとこ、逃げ出すのは訳ないねえ」
「だからそこまではこっちで何とかする。港の検閲をかいくぐる方を、おまえに何とかしてもらいたいんだ」
闇兵衛はしばらく考えてから答えた。
「ようござんす。あっしにお任せ下さいまし」
「どれくらいかかる?」
「なるたけ急ぎやしょう。だけど、四、五日は要るね。その間に何とか」
「おまえに任せる」
「よし。手はずが整いしだい、おっつけこっちから遣いをやるよ」
「すまない、闇兵衛、恩に着るよ」
「なあに、どうってことないさ」
その日は眠ることもできず、良平はずっと脱出のことを考えていた。日が暮れてから、気だるい気分で建設現場まで行った。黙々と穴掘り作業をしていると、近くにいた若者が隣に来て穴を掘り始めた。
「よう、良兄ぃ、調子はどうだい?」
若者は穴を掘りながら小声で言った。良平は何も答えなかった。
「儲かるいい話があるんだけどよう、仕事が終わってからちょっとばかしつき合ってくんねえかなあ」
「今日は駄目だ」
「なんでだよ? 兄ぃに特に予定なんかねえだろう」
「今日は帰ってすぐ寝る予定になってる」
若者は苦笑して、良平の方に顔を向けた。
「なあ、ちょっとだけだからさあ。頼むよ」
「どこ行くんだ? おまえの湿っぽくて黴臭い部屋か?」
「地下鉄魔太郎、知ってるだろ?」
「儲かる話ってのは、追い剥ぎのことかい」
「今回は違うんだよ。大きい声じゃ言えねえけどよ、国連の輸送車をやるんだよ」
「なあ、サブ、間違っても、あんな奴らの仲間にはなるなよ」
その時、上の方から現場監督をしている役人の叱咤する声が飛んで来た。
「こら、そこ! 喋ってないで働け!」
サブはまた穴掘りに専念しているふりをした。しかし更に声の調子を落として喋り続けた。
「俺さあ、ほんと、やんなっちゃったんだよ、毎日こんなことしてんのが。もっと楽したいって兄ぃは思うことないのかよ、腹いっぱい食って、好きなように暮らしたいって」
「誰だってそう思ってるさ」
「魔太郎の野郎なんて、ほんといい生活送ってるぜ、地下鉄に隠れ住んでることを除きゃあ。あいつめ、いい女を何人も囲ってて、毎日々々牛肉や豚肉食ってやがる。酒だって、ウイスキーにビール、ワイン、何でもござれだ。全く羨ましいぜ。それもこれも、国連の輸送車を襲ってるからさ」
サブはしばらく穴を掘るシャベルの手を止めた。また上から怒鳴り声が降って来た。
「やれやれ」
彼は仕方なくまた手を動かした。
「おまえ、本物の酒を飲んだことあるのか?」
「ねえよ。俺が中学の時に世界がこんなんなっちまいやがったから、ろくすっぽ楽しみも経験せずじまいさ。闇市の本物の酒にはとてもとても手が出ねえ。合成酒しか知らねえよ」
「だからって、魔太郎の手下になるのは早とちりだ」
「乗り気じゃないな」
「あいつらは闇の人間だ。だけどおまえは違う。おまえには魔太郎の真似なんかできやしない」
「そう決めつけてくれんなよ。俺はまだ魔太郎と一緒に仕事するなんて言ってねえぜ。同じようなことをするかもしれないって言っただけだ。穴掘りには飽き飽きしたぜ。だいたい今やってることって何だ? 政府の公共事業だってか? あのじじいの住むお城を造ってやってんじゃねえかよ。ざけんじゃねえよ。勝手に首相だとかぬかしやがって、どこの馬の骨かわかんねえくせしてよ。どさくさ紛れに東京を乗っ取りやがって」
「サブ、黙れ。そんなことは絶対に言うな」
「わかってるよ。だけど話だけでも聴いてくれないかなあ。元太も乗り気なんだ」
「元太も誘ったのか?」
「あいつから誘ってきたんだ。あいつが良兄ぃを誘って来いって俺に命令したんだぜ」
「わかったよ。じゃあ、元太と話そう」
「悪いな。じゃ、仕事が終わってから」
サブはまた離れて行った。
翌朝、サブと一緒に通りを歩いている時、良平はまた風化を見た。すぐ前を行く女があっと言う間に消えて失くなってしまった。二人は何事もなかったかのようなそぶりをして通り過ぎた。
「兄ぃは破壊風の出所を知ってるかい?」
しばらく行ってから、サブが白い息を吐きながら言った。
「知らんな」
「俺は通風口じゃないかと思うんだ」
「通風口じゃないだろう」
「奴らが国連に頼んで、人工衛星を使ってやってるって噂だぜ」
「どうしてそんなことがわかるんだ?」
「知らねえよ。噂だよ。それよりも、問題はどういう奴らが狙われるのかってことだろ? 俺にとっちゃ、そっちの方が重大問題だぜ。そいつを知っちゃいねえから、いつもビクつきながら、鼠みてえにチョロチョロと表を歩かなきゃなんねえ。例えばさっきのお姉さんが、なんで粉にされちまったか。職場で奴らに逆らったのか、三、四日仕事をすっぽかしたのか、禁止されてる小説をこっそり手に入れて読んでたのがばれちまったのか、それとも、明るいうちに品物を失敬してうちに戻るところをうっかり撮影されちまってたのか? なんで狙われるのか、その理由さえわかってりゃあ、毎日こんなに我慢しながら過ごすこともねえんだ。そうだろ?」
「そうだ」
「こいつも噂だけどよ、奴ら、人の心を読み取る機械をそこらじゅうに隠してるってんだ。その機械の近くを通った時、(あいつらめ、死んじまえ)なんて考えて歩いてると、途端にあの破壊風が吹いて来るんだってさ」
サブの言っている噂は、この辺りの者たちなら誰でも聞き知っている。噂の出所は定かではないが、誰からということもなく聞かされていて、部屋から外へ出ている時は、良平はいつでもそのことを気にしながら行動しなければならなかった。いつもそんな状態でいるから、支配者たちに対する反感が湧き起こって来ても、すぐさまそれを忘れてしまおうとする習慣が身に着いてしまった。
もしかするとその噂通り、現在頭の中で考えていることを見通してしまう、レントゲン写真の装置みたいな物があちこちに隠されていて、いつでも政府に対する不満分子を排除しようと、虎視眈々と獲物を狙っているのかもしれない。これまで見てきた、破壊風によって風化させられた者たちは、そういう習慣を身に着けていないため、いつまでも腹を立てながら歩いている。反政府的な考えが持続しているから、その金属探知機みたいな物の前を通過した時には、当然網に掛かってしまうだろう。
ということは、考えを持続させないように努めている者にしても、探知機に掛かる確率が低いというだけで、絶対に引っ掛からないということにはならない。それどころか、いつかは偶然の一致が起こることだろう。ムカッと来た時がちょうど探知機の前を通り過ぎようとしている時だったら……。
(つまり、噂通りだとすれば、必ずいつかは引っ掛かる。つまり、そのうち砂粒になってしまうということだ)
しかしそれは本当なのだろうか? 人の心を読むことなどできるのだろうか? どうも信じる気にはなれない。かと言って、そんなことは絶対にあり得ないと断言する自信もない。どちらかはっきりさせるためには、あまりにも情報が不足し過ぎている。
(結局、化石にされるまでビクビクしてないといけないわけか)
闇兵衛などは、「だから地下で暮らせばいいんだよ。破壊風なんて、地下にはこれっぽっちも吹きやしないからねぇ」会う度にそう言うのだが、良平は、空を見ずに暮らす人間たち、いわゆる『闇の人間』になる気にはどうしてもなれない。彼らは地上の人間やミュータントたちよりは遙かに裕福だ。いち早く地下へと潜り、闇の商売を始めたことは正解だったのかもしれない。しかし彼らはそれで終わりだ。彼はそう思ってしまう。
(俺は今の生活を続けているうちに、どうやっても希望など持てない人間に成り果ててしまったとばかり思い込んでいたが、実のところ、無意識の底ではまだ希望を持ち続けているのかもしれない。本当は理沙のように、救世主の到来を、この荒れ果てた不毛の大地がやがては楽園へと変貌することを、心の奥底で待ち侘びているのかもしれない。だから美味しそうな餌を目の前にぶら下げられても、飛びつくのを躊躇ってしまうのかも。ただ、それを素直に信じることを、俺の経験によって作られ、蓄積されてきた知識群がどうしても拒んでしまう。俺自身の脳が、俺自身の脳の欲求を拒絶しているだけなのかも。2004年までなら、まさかこうなるなんて夢にも思いはしなかったことだ。世界がこうなってしまうことはもちろん、俺の人間がこういうふうに変わってしまうなんてことも……)
彼は今し方サブと喋っていて、改めて肝に銘じておこうと思った自戒を忘れ、いつになく長々と考えを巡らせてしまった。
「どうしたんだよ、良兄ぃ」
サブが不意に声をかけてきたので、良平はようやく我に返った。
裏通りに入り、途中にある真っ二つに折れてしまっている廃墟ビルに入ると、再び先程の思考が甦ってきた。これもまた悲しい習慣だ。建物の中に入った途端、それまで我慢していた思考の停止命令が条件反射的に解除され、堰を切ったように脳内に思考の激流が迸り始めてきた。
良平はごく平凡な家庭に生まれ育ち、前世紀は人並みに過ごしてきた。しかし諸外国の圧力により、中東戦争への参戦を余儀なくされた当時の日本政府は、その後幾度となく欧米政府から突きつけられる兵員の増派強要に応えるべく、国内世論の批判なく若者たちを戦争に駆り立てるため、プロパガンダによって志願兵を募る方法を考えついた。国会議員が音頭を取り、マスコミ十八番の煽動により、無見識な一般ボランティア運動が盛り上がるや、たちまち民間から湧き起こった義勇兵運動がしだいに功を奏し、刺激の足りない日常に倦んでいた日本中の多くの若者たちを熱狂させ、国を挙げて馬鹿げた干渉戦争に付和雷同させることに成功したのだ。それにより、世界中の多くの若者たちと共に、多くの日本の若者たちも見知らぬ相手と殺し合いを演じ、中東の大地で無意味に死んでいった。
良平も例外ではなく、学生の時に義勇軍に志願した。わずか一ヶ月足らずの訓練の後、アカバ湾方面の最前線へと送られた。だが、実際に戦場へ行ってしばらく経つと、ほとんど誰もが疑問を抱き始めた。「一体何の目的で、誰のために戦っているのか?」その答は誰にも見出すことができなかった。誰もが揃って思うことは、「自分たちは他人の口車に乗せられ、海を渡って人殺しに来た浅はか者に違いない」ということだけだった。生きて帰ることができたならば、「あの提灯持ちどもを残らず絞め殺してやりたい」そう思いながら弾を撃ち、次々に死んでいった。
この戦争は実質上、アメリカ対ロシアの二軍事超大国の威信を懸けた戦いに、その他の国々がそのどちらかに同調、あるいは追随するという形になったが、もう一つの軍事大国、中国が大軍を送り込んで介入してくると、もうこの世界大戦は先の全く見通せない泥沼の中の戦いとなってしまった。
毒ガス弾頭、ウイルス弾頭が各地で炸裂しだす頃から、良平は脱走のことを密かに考え始めるようになった。頭の中でその計画が成った時、彼は自分の小隊の兵士たちを説得して回った。話のついでに冗談めかして切り出してみたところ、思った以上に各員が乗り気だったし、結局彼の小隊以外にも集団脱走に参加する者がたくさん出た。上官や他の隊の者まで誘うことはさすがに怖くてできなかったが、どこから伝わったのか、脱走計画はかなりの数の者に知れ渡っていたようだった。
それでも予想に反して、脱走を企てた者たちは易々とパキスタンまで逃げおおせることができた。煽動に乗せられてやって来た似非義勇軍であったには違いないが、もはや戦場全体から規律も秩序も士気も、全く失せ果ててしまっていたのかもしれない。彼らを追跡して来る者など、遂に一人も見かけることがなかった。しかしすぐさま日本に戻ることははばかられ、途中で病死する者も現れると、彼らは長い間大陸に留まるはめになり、一行は徐々に離散していき、最終的に良平と共に日本へと戻って来た者は闇兵衛など、ほんの一握りの数になってしまっていた。
だが、西暦2004年9月26日、地球のどこかに衝突した小惑星の影響で、地域差こそあれ、全世界に大天変地異が巻き起こった。その時、世界は同時に震撼した。ある者は、火山の大噴火と大地震と大津波と大嵐と大洪水が一度に襲って来たのだと思い込み、またある者は、長きに亘る環境破壊のつけがとうとう人類に跳ね返って来たのだと思い込み、またある者は、神の裁きの時が訪れたのだと思い込み、またある者は、宇宙から侵略者の手が伸びて来たのだと思い込み、インドにいた良平たちは、アメリカとロシアが核ミサイルの撃ち合いを始めたのだと思い、思わず西の空を見上げたが、二本足で立っていられるような状況ではなかった。
幸い彼らのいる地域は小さな被害で済んだものの、その後、日本の惨状を伝え聞くに及び、そのまま大陸に留まることに意を決した者が多かった。しかし良平はその逆で、今こそ故国の土を踏む機会が巡って来たのだと感じた。苦心に苦心を重ねてようやく日本に戻って来た良平たちは、もちろん脱走の罪で捕らえられることもなかったが、目にした光景の想像を絶するあまりの悲惨さに、皆が皆、呆然としたままいつまでも言葉を口にすることができず、知らず知らずの間に喉から嗚咽だけが漏れていたのだった。
崩れかけたビルの三階のある部屋に入ると、そこには男二人、女二人のグループが待っていた。
「やっぱり連れて来たな」
男の一人が良平に気づいて言った。
「サブから話は聴いただろう、良兄ぃ」
「元太、おまえもとうとう拾い屋から強盗へと鞍替えするってわけか」
元太はフッと笑い、埃をかぶった事務机の引き出しをガタガタいわせながら開けた。
「煙草やるかい?」
新品の煙草の箱を取り出すと、一本抜き取ったあと、残りを箱ごと良平の横にある事務机の上に放り投げて寄越した。
「こりゃ、本物じゃねえか!」
たちまちサブが煙草の箱をつかみ取った。
「おい元太、おまえは死にたいのか?」
「国連の輸送車を襲うんだ。相手は完全武装した国連軍の正規兵、死ぬ覚悟でいないと」
「どうやって戦う? 鉄パイプを持って撲りかかるか?」
「自動小銃が弾付きで借りられるんだよ、魔太郎の所から」
「あいつはレンタル業までおっ始めやがったか」
「四割だ。四割払えば残りは丸ごと俺たちの物になる。翠がここんとこ毎日偵察していて、輸送ルートを探り当ててある」
若い女の一人が頷いてみせた。
「地割れでトラックのスピードが鈍るとこがあんのよ。おまけにそこは道幅が極端に狭くなってて――」
「ふん、前から企んでたってわけか。おまえらは、ほんとにどうしようもねえ奴らだな」
良平は翠の言葉を遮って言った。
「兄貴は乗り気じゃないみたいだぜ」
元太は天井に向かって煙を噴き上げると、不満げにそう言った。
「良さん、あんたは中東の生き残りだ。戦闘には慣れてる。俺たちは残念ながら、銃一つまともに撃ったこともない」
五人の中で一番年上らしい、眼鏡をかけた男が言った。
「銃の撃ち方なんて忘れた。覚えてたって、おまえたちになんか教えてやるもんか。ふん、俺を利用しようって魂胆か。笑わせるんじゃねえ」
「そりゃ誤解だよ、兄貴。これが巧くいけば、俺たちはみんな贅沢ができるんだぜ。兄貴も理沙にもっといい服を着せてやれるし」
「おい、元太!」
良平は元太に歩み寄るや、その胸ぐらをつかみ、机の上に座っている彼を引きずり下ろした。
「知ったふうな口きくな! 理沙だと! 気安く呼ぶんじゃねえ! 理沙はおまえたちみたいな不良とは違うんだ。引きずり込むな!」
「は、放してくれよ。気に障ったんだったら謝るからさ」
良平は元太を放すと同時に突き飛ばした。
「ふん、言ってくれるじゃないの。不良だって? あたいたちを不良にしたのは誰なのさ? 奴らじゃないの」
もう一人の女が良平の言いぐさに反発するように言った。
「誰がこんなふうにしたかだって? 俺に訊くな。誰も彼もだ。みんなそう思ってるだろうさ、自分以外はみんな悪人だって。一々他人を怨んでたらきりがない。だけどな、茜、おまえのような考え方をする奴のことを、甘ったれって言うんだ、覚えとけ。政府を打倒しようなんていつも演説ぶってたおまえは、一体どこへ行っちまったんだ? 敵わないとわかりゃあ、今度は強盗か?」
茜はふくれて黙り込んだ。広いオフィスの廃墟には、しばらく沈黙の時間が流れた。
「甘ったれだって何だって構やしないさ」
やがて眼鏡の男が沈黙を破って口を開いた。
「良さん、俺たちはいつ粉にされるかわかりゃしない。今度は自分が狙われるんじゃないだろうか? 今朝殺られるか、それとも夕方か? みんな疑心暗鬼に囚われだしてる」
「ギシンアンキって何だ、それ? 先生よぉ、星が墜ちたのは俺が中学二年の時だ、だから俺は英語で言われるとよくわかんねえんだよ。なるたけ日本語で言ってくれよ」
サブが口を挟んだ。
「日本語だ」
「みんな疑り深くなってるってことよ」
茜が説明してやると、サブは頷いた。
「だけど働きに行かないと、その日一日食いっぱぐれる。病気で寝込めばたちまち栄養失調だ。俺はもう疲れたよ。もうそんなに若くもないんだし」
「徳山さん、あんたの口からそんな言葉を聞かされるとは思ってもみなかったよ」
「笑ってくれ。俺だって、昔高校教師をしていた頃には、まさかこの俺が将来泥棒をするなんて考えてもみなかった。だけど人間とは本当に弱いものだねえ。金目当ての殺人事件がテレビのニュースで報道されているのを見ると、早く死刑にしてしまえってテレビの前でわめいていたこの俺が、今じゃこんなこと企んでる」
良平は何も答えなかった。
「兄貴、頼むよ、仲間になってくれ」
強がっていた元太が、今度は神妙な顔つきになって懇願した。しかしやはり良平は首を横に振った。
「仕方がない。無理強いはできない。やるもやらないも、良さんの自由意志の問題だ。若造二人に小娘二人、それに、こんな体力のない四十男の五人だけでやるしかないさ」
徳山は悄気てみせた。
「そんな言い方はやめてくれないか。俺だって、余所の家に押し込んで人を殺し、そいつが持ってる食い物を奪って逃げてやろうかってしょっちゅう思うことがある。別にあんたたちがやろうとしてることを咎める気はない。成功の見込みがないから止めてるんだ。仮に襲撃に成功したとして、奪った品を持って逃げるのもまた一苦労だぞ。逃げられたとしても、その品をいつまでも隠しておけるか? たちまち誰かに奪われてしまうぞ。魔太郎たちは本物の悪党どもだ。資金も、人も、道具も、計画も、全て準備に抜かりがない。だから成功もする。だけどあいつらだってこれまでに何人も死んでるんだってことを忘れるなよ」
それを聞いて、徳山は大きく溜息を一つついた。
「それでも俺はやるよ。しくじったって、国連兵に撃ち殺されたって構わない」
「俺も死ぬ覚悟はできてるよ。めぼしい物はもうほとんどなくなった。拾い屋は廃業さ」
元太も言った。翠と茜も揃って頷いてみせた。良平は隣にいるサブの方に顔を向けた。
「俺も……」
サブは燃え尽きかけた煙草を指に挟んだまま、俯いて小声で言った。良平はしばらく黙って何度も頷いていたが、
「おまえたちが成功するよう祈ってるよ」
それだけ言うと、彼らに背を向け、埃をかぶった事務机しか残っていない廃墟オフィスの出口へ向かった。
「なあ、良兄ぃ」
サブが良平を呼び止めた。
「何だ?」
良平は出口の所で振り返った。
「俺たちはこれからも仲間だよな?」
サブは寂しそうな目つきをしてみせた。良平は何も言わず、ゆっくりと頷いてみせただけだった。
「ずっとずっとそうだよな?」
今度は彼は頷きもしなかった。サブたちは恐らく死ぬだろう。自分は理沙を連れて日本から逃げ出す。いずれにしても危険を冒すことに変わりはない。留まるか逃げるかだけの違いだ。なぜ彼らを引き留めることなどできよう。
「いい時代がいつかやって来るといいわね」
茜が冷たく言った。良平は黙ったまま笑ってみせると、今度こそその場を立ち去った。
(あいつらとはもう二度と会わないかもしれない)
ぼろぼろになった階段を下りながら、彼は思った。この地に流れて来てから、ずっと仲間として助け合ってきた五人だ。この街では仲間がいなければ生きてはいけない。この時代では誰もが本性を剥き出しにしているから、相手がどんな奴かはすぐにわかる。裏切る奴は多いが、裏切りそうな奴もすぐわかる。
(あいつらはいい奴らだ。だけどこれでお別れだ。もう俺には理沙しかいない)
彼は目を瞑ると、崩れた階段の途中でしばし佇み、物思いに耽った。
|