28.無知なる旅人来りて……



 セミリエとクリッシーが四人のそばに近づいて来た。
「とうとうやったわね」
 ファントムは銀の宝冠を拾い上げた。
「これもきみたちのお蔭だ。ありがとう。ところで、コーディアとウミアットはどうしたんだ?」
「何か用があるみたいだったけど、よく知らないわ」
「とにかくおまえたちには礼をしなきゃならねえ。好きなのを選びな」
 ドラドは櫃の中から盗んできた鳥人の財宝を全て取り出した。セミリエとクリッシーは宝を一つ一つ手に取っては、嬉しそうに眺めていた。
「おっと、宝冠は駄目だぜ。マーキーみてえに駄々をこねるんじゃねえぞ」
 セミリエとクリッシーは気に入った宝を見つけて自分のものにした。
「コーディアとウミアットの分も持ってってやんなよ」
 セミリエとクリッシーはまた適当に宝を取ったが、
「おかしい。グリフス王の聖杯が失くなってる」
 ドラドが気づいて言った。
「ウミアットがヒスル王の所へ持ってったわよ」
「何だって! そいつは一体どういうつもりなんだ?」
「あねさんが、マーキーに仕返しするんだって」
「よくわかんねえが、俺たちは早いとこ山を下りた方が良さそうだな」
 ドラドは急いで残りの宝を全部麻袋に放り込んだ。
「もうちょっと盗ってくりゃあ良かったのによ」
 オクスが言うと、
「これで精一杯だったんだ。これでも小さくて値打ちのある物を選んだんだぞ」
「その財宝を持って帰ってどうするんだ?」
 ファントムが訊くと、
「おまえなあ、また只働きする気か? もう三つしか残ってねえが、こいつを持って帰って、俺が売りさばいてやる。盗品を売る闇のルートがあるんだよ。裏市場だから少しばかり安くなるが、それでもこの三つを売っただけで、ざっと金貨五十万枚ってとこだな」
「そりゃすげえ。俺たち、もう食いっぱぐれることはねえな」
 オクスが舌なめずりした。
「だけどそんなに持ってたってしょうがないよ。ドラド、おまえ、いつものようにまいてやれよ」
「その言葉を待ってたぜ。そんじゃあこうするか、俺たちの取り分は一割、残りはまいてやる。これでどうだ?」
「金貨五十万枚で売れたとすれば、一割ってことは、五万枚か。一人につき一万二千五百枚。おまえ、結構欲深いなあ。多すぎるよ。第一俺たちの下宿にはそんなに置いておく場所もないぜ」
「じゃあいくらにする?」
「一人百枚でいいんじゃないか?」
 ファントムが言うと、オクスとムーンは少々不満げな顔をした。
「もうちょっともらいてえなあ。あれだけ苦労したんだぜ」
「俺は女神の護符まで買ったんだ。サントスの楯も。もうちょっと欲しいよ」
 ドラドがそれを受けて、
「いいか、こいつは相当な宝なんだから、俺たちが百枚取ろうが千枚取ろうが同じことさ。だからこうしよう、一人千枚だ。これでおめえたちも今年一杯は人足仕事なんかせずに済む」
「おまけに今年一杯は思いっきり酒も飲めるしな」
 オクスは嬉しそうな顔をしてつけ加えた。
「魔法の品も買える、魔法衣だって、一番高い女神の護符だって」
 ムーンも嬉しそうに言った。
「それでも残りは四十九万枚以上。だいたいおまえは金をまいて行くのがどれだけ大変か知らねえだろ。俺は五十万なんてべらぼうな金は今まで手にしたことはねえ。まくだけで、俺の仕事は今年一杯休みなしよ。それまで金をどこに隠しておくかで一苦労さ。とにかく宝は一つずつ売らなきゃな。わかったかい。もう文句なしだぜ」
 ファントムがまた賢者の石の時のように強情を張ると面倒なので、ドラドはピシャリと言うと、一人でとっとと山を下り始めた。
「そんじゃあ、鳥人のねえちゃんたちよ、達者でな」
 ファントムとオクスは宝冠をそれぞれ自分の麻袋に入れた。
「今度ばかりはおまえが何と言おうと、一千枚頂くからな。それだけの働きは充分にしたはずだ」
 オクスがファントムに向かって言った。
「わかったよ」
 ファントムは峰の上から遠くを見渡してみた。霧のためにあまり遠くまでは望めないが、地形を一通り確かめたあと、尾根を歩いて行くドラドを呼び止めた。
「ドラド、どこへ行くんだ?」
「決まってるじゃねえか、タウに帰るんだ」
「だけどそっちへ行くと、奇怪岩があって越えられないぞ」
「そんなことはねえさ。道具があるから大丈夫だ」
 ドラドはまた歩いて行こうとした。
「だけど、ヒスル王の家来たちに出くわすとまずいんじゃないか?」
「だったらどうすんだよ」
「反対側に下りよう。あそこにある谷は、たぶんスヴァンゲル川の支流の方だと思う。あれを下って行けば、タンメンテまで行ける。帰りはオーヴァールの方へ出ようよ」
 ドラドは引き返して来た。
「なるほど。麓までは見えねえが、こっちを下りた方がいいかもしれねえな」
 四人は峰の西側を下り始めた。
「それじゃあ、セミリエ、クリッシー」
「機会があったらまた会いましょう」
「コーディアとウミアットによろしく」
 セミリエとクリッシーは飛び上がった。ファントムたちは二人の鳥人に向かって手を振った。

 それから彼らは凍てついた谷に下りると、アンデントボーテ山脈を下ってタンメンテの町を目指したが、途中で吹雪に遭い、その日は先へ進むことが困難になった。岩にできた大きな裂け目を見つけ、そこに身を潜めると、吹雪が去ってくれるのを待つことにした。
 ようやくのことで吹雪がやむと、既にその日は暮れようとしていたので、先へ進むのは諦めた。
 翌朝は空に一点の曇りもなく晴れ渡っていたが、魔法が切れて、たちまち凍えてしまいそうになった。ムーンは急いで諸物耐久の術を掛け直した。
「今日中には何とか麓まで辿り着けるだろう。頑張ろう」
「ここまで来りゃあ、もう成功したも同然さ。見ろよ、この辺は川の氷が融け始めてる」
 オクスが嬉しそうな顔をして言った。
「だけど油断は禁物だ」
 少し行くと視界が開け、遠くにサラデー平原が広がっているのが見渡せた。更に行くと、滝の真上に来ていた。見下ろすと、まだ岩壁が凍りついてはいるものの、水も少しだけ流れ落ちている。
「ここはロープで下りよう」
 ドラドはロープを取り出して、近くにある岩に結びつけた。岩を下りようとしていると、何かが空から近づいて来るのに気づいた。
「鳥人だ。白い羽をしているぞ」
「ライル族だ」
 三人、四人と飛んで来たが、それ以上は増えない。白羽の鳥人たちは空中で羽ばたきしながら、ファントムたちの様子を窺っているようだ。
「襲ってくる気かもしれないぞ。狙いは俺たちの宝か?」
「でも四人しかいないところを見ると、狙いは宝冠じゃないだろう」
「まず俺から先に下に下りる。あいつらを見張っててくれ」
 ドラドはロープにつかまると、スルスルと崖を下り始めた。浮かんでいた鳥人たちは素早く弓矢を手にした。
「弓矢で襲ってくる気だ。ドラド、気をつけろよ」
「あいつらは俺に任せとけ」
 オクスは弓矢を手に執った。一人を狙って矢を放ったが、巧く体を交わされてしまった。
「くそっ!」
 たちまち鳥人が矢を射返してきた。三人は咄嗟に岩陰に身を伏せた。今度は鳥人の一人が崖の向こうへ回り込み、ロープにつかまっているドラドを狙おうとした。オクスが急いで矢を放つと、今度こそ鳥人に命中した。その鳥人は白い羽をバタつかせて逃げて行こうとしたが、途中で力尽きて墜落してしまった。残った三人が再び矢を射掛けてきた。
「畜生、ふざけた野郎どもだ」
「俺に任せろ。まとめて吹っ飛ばしてやる」
 ムーンはそう言うと、ワイバーンの牙を二つ取り出した。
「鳥野郎どもを粉微塵にしてやれ!」
 オクスがわめいた。ムーンは物体爆破の呪文を唱えると、飛んでいる鳥人たちに向かってワイバーンの牙を二つまとめて投げつけた。
「伏せろ!」
 大爆音が立て続けに二つ起こった。雪や岩のかけらが上から降って来る。再び上空を見上げてみると、そこにはもう鳥人たちの姿はなかった。白い羽根がふわふわと辺りを舞っている。雪の上には真っ赤な肉片が所構わず飛び散っていた。
「ざまあ見ろ」
 オクスは得意げに大声を上げた。とその時、にわかに地響きが聞こえてきた。
「何だ、あれは?」
 三人は驚いて周囲を見回してみた。ゴゴゴゴゴゴという轟音がだんだん大きくなってくる。
「やばいっ! 雪崩だ!」
 上から白い激流が谷間を猛烈な速さで駆け下って来る。
「やばいっ! 隠れろっ!」
「ドラド、雪崩だ! 気をつけろ!」
 下のドラドに知らせると、三人は岩陰に身を隠そうとした。しかし雪崩の勢いの強さには逆らえず、三人はたちまち雪の流れに足元をすくわれ、流されてしまった。
「うわあああー!」
 三人の体は宙に浮かんだ。たちまち崖下へと転落して行く。崖下に落ちても、雪崩はまだやんでくれない。まだまだ流され続け、とうとう白い雪の中に埋もれてしまった。
 ドラドは崖からロープでぶら下がっていたので、運良く雪崩に埋まらずに済んだ。雪崩が去ると、ドラドは急いでロープを伝って下りて来た。慌ててその辺の雪を掘り返してみたが、三人の姿は見つからない。下の斜面を覗いてみると、ずっと下の方で雪を掻き分けてオクスが顔を出した。
「ぶはあー! 死ぬかと思った」
 雪崩に押し流されても、鎮魂の戦斧だけは手放していない。ドラドは急いでそこまで下りて行った。二人で辺りを捜していると、雪の上に靴が片方落ちていた。オクスが靴を拾い上げようと手にすると、これが重かった。
「足だ」
 急いで引っ張り上げてみる。ムーンが出て来た。
「しっかりしろ! 雪崩を起こしやがって、この馬鹿が」
 ムーンは正気を取り戻した。
「ひどい目に遭ったなあ」
 三人は更にファントムを捜したが、見当たらない。
「もっと下まで流されたんだろうか?」
 曲がりくねった谷間の向こうまで行ってみると、また断崖になっていて、その下には窪地があった。
「あっ、あそこだ! あそこにファントムが倒れてるぞ!」
 ムーンが叫びながら指差した。
「おーい、大丈夫かあ!」
 大声を上げて呼びかけると、下の方で何かが動いた。三人は思わずそれに目をやった。
「何だ、あれは……?」
 そいつは雪の上を二本足で歩いていた。真っ白でふさふさの毛に全身を覆われていて、動いていないと見失ってしまいそうだ。
「でかいぞ」
「あれはもしかすると……雪男……」
「何?」
 雪男は、倒れているファントムの方へ向かっていた。
「まずいぞ。ファントム、起きろ! 目を醒ませ! 雪男だ!」
「よし、射殺してやる」
 オクスはそう言ったが、雪崩で肝心の弓が失くなっていた。矢筒は肩にぶら下がっていたが、矢は一本もなかった。
「畜生! こんな時に!」
「ムーン、魔法で雪男をやっつけろ」
 ムーンは頷いたが、
「駄目だ、道具がない! 荷物がどっかへ行ってしまった」
「何とかしろ!」
「じゃ、疾風怒濤!」
 急いで呪文を唱えると、両手を振った。ヒュウーッとつむじ風が巻き起こり、雪を巻き上げながら進んで行ったが、雪男には全然効果がなかった。長い全身の毛を逆立てただけで終わってしまった。
「クソーッ、じゃあ、これではどうだ、苦痛付与!」
 また呪文を唱え、両手を前方に突き出した。雪男がビクッとした様子でこちらを振り返り、それから三人の方を見上げたが、一声吠えたあと、また向こうを向いてファントムの方へと歩き出した。
「全然効いてないじゃねえかよ!」
「ファントム! おい、早く起きろ! 起きるんだ!」
 するとファントムの体が少し動いた。どうやら気がついたようだ。
「雪男だ。逃げろ!」
 三人の声が聞こえたようで、おもむろに上体を持ち上げた。岩にでもぶつかったのか、頭から血が流れ出している。雪男が目の前まで迫って来ていることに、ファントムはやっと気づいた。恐ろしそうな化け物を前にして、反射的に腰に手をやったが、名剣カーマン・ラムゼリーはもうないのだった。仕方なく短剣を引き抜いた。しかしこの大きな雪男の長い手に捕まれば、短剣など役には立たないだろう。
「待ってろ。今助けてやる!」
 オクスはそう叫ぶと、鎮魂の戦斧を握り締め、遥か下の窪地へと飛び下りた。
「あっ!」
 ドラドとムーンは驚いて崖下を見下ろした。雪が舞い上がり、オクスの姿が背丈よりも高く積もった雪にすっぽりと埋まり、全く見えなくなった。
「ええいっ、どうすりゃいいんだ!」
 守護戦士との闘いで矢を全て使い果たし、冠の朽木を突き刺そうとして短剣も役に立たなくなってしまっている。ドラドは地団太踏んだ。ムーンは何か効果のある呪文はと考えていたが、適当なのが見つからない。二人はただただ焦るばかりだ。雪男がファントムを前にして、両腕を上げて一声吠えた。
(こんな物じゃ間に合わない)
 ファントムは観念して、短剣を捨てた。ふと妙なことが頭に浮かんだ。
(これも、富の宝冠を奪った報いかもしれない……)
 そう思うと、急にまた目をつぶり、仰向けに寝てしまった。体に力が入らなかったということもあるが。
(死ぬ時とはこういうもんなんだろうか……いやに諦めが良くなる。別に思い出は何も頭に浮かんでこないし、未練も残らない……後悔することも何もない)
 意識がまた薄れていきそうになった。
(闇の回廊で死を経験した時……、そう、あの時は無様だった……、幻で……ほんとに死ぬわけじゃなかったのに……生に執着していた……、自分一人の命だけのことだというのに……。汚れなき魂……か…………なれなくたっていい、汚れなき魂になんか……なれなくてもいい……、それだって、自分一人のことに過ぎないじゃないか……、別に天国へ行けなくたっていいし……、救われなくたっていい……。オクスたちが富の宝冠を持って行ってくれるだろう……。俺はやることをやった……)
「そうじゃないわ」
 急に女の声が聞こえた。
「あなたは、あなたのやるべきことを、まだ何一つやり遂げてはいない。死ぬのはまだ早すぎるわ」
 目をつぶったままなのに、目の前にキルケーが立っていて喋っているのが見える。
(何もしていない……?)
「そうよ。あなたは生きねばならないわ」
 それだけ言って微笑んだあと、キルケーはファントムに背を向けて去って行った。
「待ってくれ、キルケー! 俺が何一つやり遂げていないなんて、俺は何をすればいいんだ? 何を? 教えてくれ、キルケー、俺は何を――」
 そこで目が醒めた。
「うなされてたぞ、キルケー、キルケーってな」
 オクスとドラドとムーンの顔が覗き込んでいる。
「……?……俺はどうしてたんだろう?」
「今日はここに足止めだ。雪に埋まっちまった宝を見つけ出すのに一苦労だったぜ」
「え……?」
「まさか雪男に助けられるとはな。おまえもついてるぜ」
「雪男だと思ってたけど、どうやら女だったようだよ。傷ついたおまえを介抱してくれたんだ。母性本能ってやつかな」
 頭がズキズキ痛むのに気づいた。手をやると、布が巻かれていた。
「相当強く頭をぶつけたみたいだ」
 ゆっくりと辺りを眺めてみると、洞穴の中のようだった。もう暗くなっていて、奥の方では焚火の向こうで雪男が――いや、雪女が、肉を火に炙っている姿が見えた。
「おまえのことが気に入ったみたいだ。まだ独り身で、ここに一人で住んでいるらしい。言葉は喋れないみたいだけどな。どうだ、おまえ、彼女をもらってやる気はねえか? なかなかいい嫁になりそうだぜ」
 オクスが神妙な顔つきでそう言ったあと、三人揃ってけたたましい笑い声を上げた。
「もらってやる……?」
「こいつ、打ち所が悪くて、イカれちまったんじゃねえか?」
 ドラドがファントムの額に手をやりながら言うと、また三人で高笑いした。ファントムが目醒めたのに気づくと、雪女が焼いた肉を持って来た。長い腕でファントムの上体を抱き起こすと、大きな手に握られた骨つきの肉をファントムの口元まで持って来た。
「へへへっ、こいつのことを赤ん坊だと思ってやがる」
 また三人で大笑いした。

 翌朝、雪女の洞穴を出ると、上空に鳥人が飛び回っているのに気づいた。
「またうろついてるぞ」
 オクスが胡散臭そうに言ったが、その鳥人たちもこちらに気づいて降りて来たのを見ると、
「違う。あれはコーディアたちだ」
 ドラドがいち早く気づいて言った。コーディアたち四人は更に下降して、ファントムたちのいる所に近づいて来た。しかし、馬鹿でかい毛むくじゃらの化け物がそこにいるのに気がつくと、咄嗟に剣を引き抜いた。
「イェティだ!」
 鳥人たちが殺気を見せると、雪女は凄まじい声で吠えた。
「待て待て、こいつは敵じゃねえ。ファントムの命の恩人だ」
「何だって?」
「こいつの恋人だぜ」
「いや、かあちゃんだ、かあちゃん」
 コーディアたちは警戒しながらも地上に降り立った。
「おめえたち、まだ俺たちに用があるのか? 分け前はちゃんとやっただろう」
「さては、俺たちのことが忘れられずに、夜も眠れなかったんじゃねえか?」
「冗談言わないでよ。分け前はちゃんと頂いたわよ。あたしが来たのは、ファントム、あんたに用があってよ」
 そう言うと、コーディアは一本の剣をファントムの前に突き出した。
「これは……!」
 ファントムは驚いて、しばらくはその剣に手も触れられずにいた。
「どうしたのさ、その頭は?」
「ムーンの馬鹿が雪崩を起こしやがって、岩に頭をぶつけやがったのさ。それをこの雪女に助けてもらったってわけさ。まだこいつは完全には正気に戻っちゃいねえぞ」
 オクスが言うと、ムーンは済まなさそうに小さくなった。
「これを、どうして……?」
 ファントムはそろそろとカーマン・ラムゼリーを手に取った。
「決まってるじゃない、マーキーから取り返して来たのさ。あんたに返すよ」
「ヒスル王に襲わせたのか?」
「そうよ」
「良かったな、大事な剣が戻って来て。鳥人のねえちゃんたちに親切にしといたかいがあった」
 オクスはそう言ってファントムの肩を叩いた。
「それじゃあ、今度は本当に行くよ」
 コーディアたちは飛び上がった。
「おめえたちは立派な女盗賊だ」
 ドラドが言うと、コーディアたちは振り返って、空中で止まった。
「あんたたちも、人間の男にしちゃあ、なかなかやるじゃないの。守護戦士に勝つところを見れなかったのが残念だよ」
「人間でも、あたしはあんたたちが好きよ。コーディアねえさんも、あんたたちの中の誰かが好きみたい」
 クリッシーが言うと、
「ナマ言うんじゃないよ、小娘のくせに」
「俺も鳥人の女が好きになったよ、俺は半エルフだけどね。今度会った時は、結婚しようか?」
 ムーンが言うと、みんな笑った。
「この雪女とは仲良くするんだぜ。こいつはいい奴だ」
 オクスが言うと、コーディアが、
「何さ、そんな気味の悪いのと仲良くするなんて、あんたたち、どうかしてるよ!」
「なんだ、雪女にやきもち妬いてんのか? そうか、わかったぞ、コーディアの好きなのは――」
 オクスは山じゅうに響き渡るような大声を上げた。
「ファントムだ!」
「馬鹿言うんじゃないよ! 誰が好きなもんか! あんたたちになんか、もう二度と手を貸してなんかやんないよ!」
 コーディアは一人でさっさと飛んで行く。
「気のつええ女だけど――」
「あれでも結構純情なんだな、へっへっへっへっ」
「へっへっへっ」
 オクスとドラドは顔を見合わせて笑った。
「じゃあ、またいつか会いましょう。結婚してくれるって言ったことは、忘れずにちゃんと覚えとくからね」
 ウミアットとセミリエとクリッシーは、四人に向かって手を振ると、背中の翼を羽ばたかせ、先に行ってしまったコーディアのあとを追い、長い髪を風に靡かせながら遠くへ飛んで行った。

 麓に近づくに従って、荒涼とした岩と氷雪だけの世界は徐々に消えていき、植物の数が増え、木々も生い茂ってくるようになった。陽光を受け、雪も融けだしている。いつの間にかせせらぎが、雪融け水を集めた急流へと変わっていた。携帯食と綺麗な渓流の水で食事をとり、日光を浴びながらしばらく休憩していると、林から誰かが出て来た。ゆっくりと四人の方に近づいて来る。
「あの謎掛け爺さんじゃねえか?」
「なんでこんな所にいるんだろう?」
 老人は四人の近くまで来ると口を開いた。
「宝は手に入れたか?」
「手に入れた」
「では約束じゃ、おまえさんたちを祝福してやろう」
「謎掛けじじいの祝福なんか要らねえな」
「宝を見せてみろ」
「なんでだよ?」
「いいから見せろ」
 ファントムとオクスは麻袋を開け、それぞれ宝冠を取り出した。老人は片目でそれをしばらく眺めていたが、やがてニヤニヤしながら言った。
「どうやらこの二つの冠を被る資格のある者は、まだおらぬようじゃ」
「と言うと?」
「今の支配者たちには、この冠の力を使いこなすことは到底できんということじゃ。おまえさんたち、こいつをどうする気か知らんが、しばらくはとっておいた方が良いぞ」
「とっておくって、どれくらいの間?」
「二年か、三年か、それくらいかな。その金と銀の両方を次に被るべき者は、もうこの世に生まれ出てはおるが、今のところ、その二人は王でも王妃でも何でもない」
「それは誰?」
「そこまでは知らんが、二人とも今は平民じゃろうな」
「お節介な爺さんだぜ。さっさとどっかへ行っちまいな」
 オクスは煩わしくなってきて、老人を追っ払おうとした。
「悪いことは言わんから、その力を焦って使ってはならんよ。わしの言うことを信じなされ」
 老人はそれだけ言うと、また林の方へ引き返して行った。林の中に入ると、すっと消えてしまった。
「あれ、消えちまったぜ」
「そんな馬鹿な。まだその辺にいるさ」
 不思議に思って林の中まで老人を追っかけてみたが、どこにもいない。ただ、その辺りには白い霧が漂っていた。
「薄気味悪いじじいだ」
「だけど宝冠が二つあることもあらかじめ知っていた。今言ってたことも、守護戦士が言ってたこととつながるじゃないか」
「何かの化身だったのかな? それとも妖精か、仙人か、悪魔か……」
「ふん、あんなじじいの言うことなんか、気にすることはねえ」
 再び麓に向かって歩きだすと、オクスたち三人はすぐに老人のことなど忘れてしまったが、ファントムには妙に気になって仕方がなかった。
 とうとう山を下りた四人は、川に沿ってタンメンテの町へと向かった。平地に下りて来ると、枯木が芽吹き、草が幾分緑を帯びていて、風はまだ冷たいが、山の上でのことが遠い昔のことのように思えたりもした。
「雪山にいる間に、下界には春がやって来ていたか」
「風がやけに暖かく感じられるな」
「ここまで来れば、もう邪魔する奴もいないだろう」
「しかし考えてみれば、よく宝冠を取って帰って来れたもんだ」
「でもあの謎だけは未だにわからない。よくあんな謎が解けたな、ファントム」
 ムーンが感心して言った。
「うん。たまたま運が良かっただけだよ」
「あの謎解きを教えてくれ。どう考えたって俺にはわからないよ。なぜ同時に着いたのに、竜の弟が勝ったのか、なぜかかった日数が違うのか、いくら考えてもわからないから、歯痒くなってくるんだ」
「そうだな、それは――」
 ファントムはちょっと考えていたが、
「俺にはちょっと説明ができないよ。タウに帰ったら、ヴィットーリオにでも説明してもらってくれ。ヴィットーリオなら種明かしができると思うよ」

 四人は何日かかけてサラデー平原からジンバジョー平原へと入り、やがてタウの町に戻って来た。
「俺は早速裏市場でお宝を金に換えてくる。金に替わりしだい、おまえたちの所へ持ってってやるよ。まあ、三、四日ってとこかな。そん時また会おうぜ。じゃ、あばよ」
 日が暮れるのを待って防壁を乗り越え、町の中に入ると、ドラドは一人でどこかへ行ってしまった。ファントムたちは五番街を通ってラーケン邸へ向かい、ヴィットーリオを誘ってからエローラの店へ行った。
「これが伝説の富の宝冠か……」
 ヴィットーリオは富の宝冠を見せられると、物珍しそうにいつまでも眺め回していた。
「あんなに危険な冒険もなかったな。四人とも殺される寸前まで行ったし、雪崩には遭うし」
「よく帰って来れたものねえ」
 オクスが探索行のあらましを語って聞かせると、エローラたちはしきりに感心した。
「四人って、もう一人は誰だい?」
「ドラドだよ。アディオプから一緒だったんだ」
「ふうん。それにしても、よく凍死しなかったもんだ」
「ムーンの魔法も今回は効いたし、鳥人の女盗賊たちにも助けられたし、これを持って帰れたのは奇跡だよ。もうあんな冒険は二度としたくないね」
「全くだ」
 オクスもムーンも相槌を打った。
「どうせ忘れた頃にまた出かけるんだろ」
「あんな生死の境を行ったり来たりするような冒険は、もうやろうと思ってもなかなかできないさ。冠の守護戦士って奴は、本当に恐ろしかった。勝てたのが不思議なくらいだ。最後の謎解きでファントムが解いた謎は、答を聞いてもよくわからない」
「へーえ、どんな謎だい?」
 ヴィットーリオが興味深そうに訊いたので、ムーンは守護戦士の出した謎をヴィットーリオに話して聞かせた。ヴィットーリオは一通り聴き終えると、
「なるほど。それはなかなか面白い謎掛けだな」
「きみにはわかるかい?」
「ふむ……。その正確な答というのは一概には言えないけど、たぶんファントムはこう答えたんだと思う――兄のフィアス・ドラゴンが十日かかり、弟のセンサブル・ドラゴンは九日で行けた。どうだい、違ってるかい?」
「驚いたね、その通りだ」
 ムーンもオクスも目を丸くした。
「この答が最も一般的だ」
「なんで三匹の竜が出くわすんだ?」
 オクスもムーンも、なぜヴィットーリオにも謎が解けたのか理解できない。
「そうか。きみたちにわからないのは無理もない。いいかい、きみたちは大地がどこまで行っても平らだと思ってるだろ」
「当たり前だろ」
「当たり前じゃない。それは迷信だ。ほとんどの人々は迷信の方しか知らないが、本当はこうだ――この大地は地平じゃなく、地球なのさ。つまり僕たちは大きな大きな毬の上に立っていると考えればいい。天文学者はみんなこのことを知っている」
「じゃあ、大地は丸いって言うのか?」
「そうだ、丸いんだ」
 ヴィットーリオはきっぱりと言ったが、オクスは首を傾げた。
「そいつはおかしい。だったらこんなふうにじっとしてられるはずがない。滑り落ちちまわあ。だとしたら、海の水はなぜ流れ落ちないんだ? いつもおんなじだけ溜まってるじゃねえか」
「それはつまり、簡単に言うとだなあ、地球が大きいからなんだ。きみが下だと思っている方向は、どこまで行っても下なんじゃない、球の中心までだ。それより先に行くと、上になってしまう。ここのちょうど裏側で暮らしている人がいるとすれば、その人はきみとは逆さま向いて立っているはずだ」
 オクスは訝しげな表情で、
「ほんとかい。そいつらは一日中逆立ちしながら生きてるのか? おかしな奴らだぜ」
「違う。僕たちと同じで、足で歩いてる。あーあ、だからこういう奴に説明するのは嫌なんだ。話が全く進まない」
 うんざりしてきたヴィットーリオが話をやめてしまおうとすると、ムーンがなだめて、
「まあ、そんなことはいいから、地面は丸いとして、どうして時間がずれるのか教えてくれ。『時空歪曲』の原理がわかるかもしれない。魔法使いとしては、是非とも知っておかなきゃならないことだ」
 ヴィットーリオは気を取り直すと、また喋りだした。
「時間がずれたわけじゃない。そのことはあとで説明するとして、話を元に戻すぞ。平面を正反対に行けば、決して出くわすことはなく、離れて行くだけだが、球面だといつかは出くわすということがわかるだろ?」
「ああ、わかる」
「まあ、現実にはそんな理屈通りには行かないと思うけど、例えば太陽が東から昇って西へ沈んだあと、夜が明けてみるとまた東に来てるってことも不思議だとは思わないか?」
「そう言われてみればそうだな」
「なるほどそうだ」
「あれは球の周囲を回っていると考えれば不思議ではなくなる。夜というのは、太陽が裏側に隠れてしまっていて、ただ単に光が届いていない期間のことに過ぎない。本当は太陽が地球の周りを回っているんじゃなくて、この地球の方がくるくると回転している結果なんだけど――」
「そんなら振り落とされちまう」
 オクスがまた不満げな表情で言った。
「地球の中心へ向かって引かれる力の方がずっと強いから、よっぽど速く回転しない限り、そういうことは起こらないんだよ。しかし、そう言うとまたきみたちにはややこしくなるだろうから、太陽が地球の周りを回っているということにする。この謎に関しては、どちらにしても問題はない。太陽が地球を一回りして再び同じ位置に戻って来ると、これで丸一日経ったことになる。これはわかるだろ?」
「それはわかるよ」
 熱心に聴いているムーンは頷いた。ヴィットーリオは続ける。
「この竜の兄弟は地球を回ったんだ。二人合わせて一周したことになる。弟は太陽を追いかけて飛び、兄はその逆に向かった。この時点でもう勝負はあった。弟がいくらゆっくり飛び、兄がいくら急いで飛んだとしても、西へ向かった者が必ず勝つようになっている。だけど話をわかり易くするため、二匹の飛ぶ能力は全く同じとして、二匹が再び出会った場所は、飛び立った場所のちょうど裏側だったということにしよう。父親のドラゴン・ロードは南へ向かって飛び、兄弟の出会いそうな辺りに目星をつけ、先回りしていた。そこへ二匹が同時にやって来た」
「なるほど、なるほど」
 ムーンは何度も頷いた。
「もちろん二匹が飛んでいた時間は全く同じだ。一月一日の真昼に出て、一月十日の真昼に着いたんだから、九日かかったということになるが、実際は九日と半日飛んでいたことになる。なぜなら、裏側の真昼は表側では真夜中だからだ。だから出発地点で言えば、一月十日の夜更けに兄弟は裏側で出会い、裏側だからそこは真昼だった。弟は太陽と同じ方向に飛んでいるから、ドラゴン・ロードを見つけた時に頭上にあった太陽は、出発してから数えて、九度目の太陽だった。しかし兄は太陽に逆行しているから、日没と日の出の回数が弟より一回だけ多い。従って、ドラゴン・ロードに対して弟は九日かかったと答え、兄は十日かかったと答えた。言ってみれば、冠の守護戦士とやらが出した謎は、実に科学的な謎だね。わかったかい?」
 ところがムーンもオクスも首を傾げたままだった。
「わからねえな」
「俺もよくわからなかった」
「うーん、言葉で説明しても、きみたちにはわかりにくいか。じゃあやってみよう」
「何をするんだ?」
 ヴィットーリオは立ち上がった。
「僕が太陽になって、ファントムが地球になる。きみたち二人は竜の兄弟になって、こちら側からファントムの立っている所の向こう側までゆっくり進んで行けばいい。その間に太陽の僕がきみたちの外側を、日数を数えながらぐるぐる回る」
「ここは狭すぎる」
「じゃ、外へ行こう」
 四人は外へ出た。
「僕が通り過ぎて行く度に、太陽が沈んで行ったのだと考えればいい」
 表へ出て実験をしたあと、店の中に戻って来ると、
「不思議だ。なぜなんだろう?」
「なぜだかわからないけど不思議だ」
 オクスとムーンは顔を見合わせた。
「それにしても、きみはよくそんなことを知ってたな、ファントム」
 ヴィットーリオは感心したように言った。
「ごく一部の人間しか知らないことだぞ。一般の人たちに、大地が丸いとか、回転しながら太陽の周りを回っているなんてこと言うと、必ず馬鹿者扱いされるに決まってる」
「うん。だけど俺は初めからそんなもんだと思ってた。地面がどこまでも平らだなんて考えもしなかったけど」
「誰から教わったんだ?」
「知らないよ」
「こいつは昔のことは何も覚えちゃいねえ。記憶喪失者だ。しかしもしかすると、偉い学者か何かの弟子だったのかもしれないな。そうだ、それに、剣術の上達がやけに早いところを見ると、昔は剣術をやってたのかもしれねえぞ」
 オクスが言うと、
「そうかなあ、そうとは思えないけどなあ」
 ファントムは首を傾げた。
「それは本当か? 昔のことを忘れてしまったのか? それはいつからだ?」
「この世界に来てから」
「何だって? それはどういう意味だい?」
「よくわからないよ。フオクに連れられて、バイテンの洞窟を出て来てからのことしか覚えてないんだ」
「フオクって、もしかして、あのオリカの大魔術師のフオク・ホーケンのことか?」
 今度はムーンが驚いて尋ねた。
「そうだよ」
「そりゃ凄い!」
「フオクって、そんなに凄いのか?」
 ムーンはファントムのその言い方を非難するかのように目を剥いた。
「当たり前じゃないか! 近頃はどうしてしまったのか、とんと噂を聞かなくなってしまったけど、オリカのフオク・ホーケンと言えば、世界最高の魔法使いだ。今現在、『大魔術師』という称号を持ち、エルフの魔法典六十八の呪文を全て使いこなせるのは、フオク・ホーケンをおいて他にいない。特に第六十八番の『時空歪曲』という呪文は、これまでにもフオク・ホーケン以外には誰一人として会得した魔法使いがいない。
 それどころか、フオク・ホーケンは六十八の呪文の多様術をいくつも持っているそうだから、エルフの魔法界にはたった二人しかいない『大魔導師』も、四人しかいない『大妖導師』も、ただただ大魔術師フオク・ホーケンを仰ぎ見るだけの存在でしかない」
「そう言うおまえは何なんだ?」
 オクスが横槍を入れた。
「俺なんかもちろん、何の称号も与えられていないよ。俺がオリカの妖魔伝堂へ行って称号授与を自らねだったとしても、今の俺の実力じゃあ、一発で落第させられてしまう。門前払いだ。妖魔伝堂が魔法使いに与える称号の位階は全部で九つある。第九位――修学士、第八位――中位司士、第七位――統徒、第六位――妖導師、第五位――魔導師、第四位――魔術師、第三位――大妖導師、第二位――大魔導師、そして第一位が大魔術師。古くは大魔術師の下に『大妖術師』が、魔術師の下に『妖術師』があって位階は十一だったそうなんだけど、妖怪や悪霊の類を操る妖術使いとよく混同されたから、妖魔伝堂はそれを不本意に思い、その二つは廃止されたそうだ」
 さすがに魔法のことに関してまではよく知らないようで、ヴィットーリオも熱心にムーンの話に聴き入っていた。そのヴィットーリオがムーンに質問した。
「その実力はどれくらいのものなんだ?」
「俺が第九位にもなれないとは言ったけど、例えばタウの魔法学校の校長、イェル・ケルネル・ミノスタールでも第六位の妖導師だ。弟子を持ち、エルフの魔法典を伝授することができる資格を持つには、最低でもこの第六位の妖導師の称号が必要だ。『師』という意味を表す『イェル』という尊称をつけてその名を呼ばれる人たちは、第六位以上の称号を持っている魔法使いだけなんだ。オクスとドラドに不意討ちで射殺されたけど、タウ一の魔女と評判を取っていたキューラ姉妹は、称号は持たなかったけど、その実力はイェル・ケルネル・ミノスタール以上だった。彼女たちにしても、せいぜい第五位の魔導師がいいとこだろう」
「スヴァルヒンはどうなんだ? あいつは凄い魔女だぜ」
 オクスが言うと、
「スヴァルヒンは違う。エルフ六十八の呪文もいくつか使うらしいけど、俺たちとは全くの別流派で、魔界の力を使うみたいだ。妖魔伝堂ではスヴァルヒンみたいなのは、黒魔術師と呼んで蔑んでいる。でもその実力は認めざるを得ないと思うけどね」
「あのナーガを倒した時に、俺に魔法を封じ込めた鏡をくれたマリアさんはどうなんだろう? あの術をおまえは知ってただろう?」
 今度はファントムが訊いた。
「ああ。マリアさんという人のことは、俺は聞いたことがないんだけど、推し量ってみると、その実力は相当なもんだ。まず『同体鏡像』という術自体が高等呪文なんだけど、魔力を品物に封入するということにはまた別の技術が要るんだ。普通これは、魔導師と妖導師の仕事で、例えば雪山で俺たちがお世話になったサントスの楯なんかは、オリカで魔導師や妖導師の手により魔力の封入が為されたあと、デボン橋の魔法店が仕入れて来た物なのさ。悔しいけど、俺なんかにはその魔力を引き出すことしかできない」
「あはは、だから危なっかしいとは思っていても、魔法が効いたんだな」
 オクスが笑うとムーンは不貞腐れた。
「そうだよ。悪かったね」
「そんなことはないよ。俺たちには魔力を引き出すことさえできやしない。ムーンの力は大きかった」
 ファントムはそう言ってムーンを誉めた。
「それなのさ。マリアさんの話に戻るけど、ナーガの塔ではファントム、おまえでもちゃんと『同体鏡像』の魔力を引き出すことができた。それは、いいかい、魔力封入の技術が更に高度だということなのさ。そんなことは魔導師や妖術師にはできない。そもそも同体鏡像の術というのは、魔法典によれば、魔法の品の魔力を引き出す呪文じゃなくて、普通の鏡を使って行う本物の魔術だ。だからファントムが持ってたような鏡は、オリカの町へ行っても手に入らないと思うよ。マリアさんと同じことができる魔法使いと言えば、『妖魔伝堂の妖魔師』と総称される、大魔導師と大妖導師の六人だけだろう。つまり第二位、第三位に匹敵する実力の持ち主で、それならたとえスヴァルヒンにだって、術だけで対抗できるだろうな」
 ファントムは頷いたが、それでも疑問に思い、
「そんな人が、なぜあまり知られてないんだろう?」
「それはたぶん、マリアさんという人が、俺みたいに魔法典だけを手にして独学で魔法を会得して、その多様術まで研究して成功を収めたか、それとも魔術師の道を選んだか」
「魔術師の道を選んだ? どういう意味?」
「妖魔師、つまり魔導師や妖導師は、魔法の伝授を仕事にしたり、魔力の封入を生業にしたりと、消極的なことしかしない。だから魔導師の称号を得たほとんどの人は、その上の魔術師の称号は取ろうとはしないで、平和に暮らすことを望むのさ。だけど第四位以上の称号を望むなら、妖魔伝堂の命を受け、魔術師の修業を積み、その実績も上げなければならないんだ。
 これは称号だけの問題だけど、実際に自分の魔力を駆使して世のために役立てようとする魔法使いのことを、特に魔術師と呼ぶんだ。もちろん第二位の大魔導師と第三位の大妖導師たちは、第四位の魔術師を経てきた魔法使いたちなんだけど、大魔導師や大妖導師の位を授けられると、オリカの妖魔伝堂の要職に就き、魔術師、魔導師、妖導師を育成し、魔法使いたちをリードしていかなければならないから、実際に白魔術として魔法を世に行使するのは、第四位にある魔術師たちなんだ」
「おまえは魔術師を目指しているわけか」
 オクスが訊くと、ムーンは恥ずかしそうにこくりと頷いた。
「まだまだだけど……」
「ところで、ガブリエルも剣魔とか魔導剣士って呼ばれているけど、それも何か関係があるのか?」
 ファントムが訊くと、
「剣魔というのは五剣君としての呼び名だろ。きみたちの師匠が剣神と呼ばれるのと同じで、世の人がその剣の腕を敬って名づけたものだろう。そっちの方は俺はよくわからないよ。だけど、一般の人がガブリエルのことを魔導剣士って呼ぶのは、本当は出所があって、人によって勝手な理由をつけて、いつの間にかそう呼ばれているのだとみんな思っているだろうけど、真実は――」
「妖魔伝堂が外部の者に与えた名誉号」
 ヴィットーリオがすかさず言った。
「よく知ってるなあ」
「それくらいはね」
「ガブリエルはフオク・ホーケンと共に、魔王ギースをアウグステ寺院に封じ込めた。その魔力においても、『魔導師』に匹敵するということで、妖魔伝堂からただ一人外部の者に贈られた名誉号で、『魔導剣士』と言えば、ガブリエル以外には指さないんだ。
 それと同じことで、魔法と関係ない人たちは大魔術師とか、魔術師とか平気で使っているけど、俺たち魔法使いにしてみれば、そんな言葉を無闇やたらに口にすることはできないんだ。フオク・ホーケンも、第一位の大魔術師なのに、『イェル』という尊称を名前の上に被せてはいない。その理由は――これも魔法学校で立ち聞きした話なんだけど、フオクは若い頃は、妖魔伝堂の下にある、第七位の統徒までを育てる大賢聖院を出て、史上最年少の『統徒』となった。魔法使いたちのリーダーとでもいった位階だ。
 大賢聖院は名門で、例えばタウの魔法学校の学生たちが位階を取りたいと思った場合、規定の魔法を習得し、校長が許可を出すと、オリカの町まで出向き、大賢聖院で試験を受けなければならないんだ。落第すればまた出直してくる。それも第八位の中位司士までで、タウの魔法学校を出たぐらいでは第七位の統徒にはなれないんだ。
 だけどフオク・ホーケンは大賢聖院を出てすぐに妖魔伝堂に入ると間もなく、妖導師の位階も取らずに妖魔伝堂を離れてしまった。位階にこだわるばかりで、魔法を少しも世のために役立てようなどと考えない周囲の同門者たちのことが嫌になったんじゃないかと俺は思うんだけど、本当の理由は知らない。とにかくフオク・ホーケンは位階ではなく、本物の白魔術師を目指して旅立った。
 その結果、フオク・ホーケンは数々の魔物に打ち勝ち、退散させた。一般の民衆は妖魔伝堂に先駆けて、彼のことを『偉大なる大魔術師』と呼んだ。やがてその噂も妖魔伝堂に伝わると、妖魔師たちも石頭じゃないから、彼を何度も呼び戻そうとしたんだ、妖導師の試験を受けてくれって。でもフオクが耳を貸すはずがない。
 妖魔伝堂は彼を統徒のままでほっておくと、外聞が悪いと思ったらしい。また彼の下へ遣いを送った。第六位、第五位を飛び越して、今度は魔術師の試験を受けてくれって。フオクは鼻先で笑っただけで、妖魔伝堂からの遣いを追い返してしまったそうだ。タウの魔法学校の校長、イェル・ケルネル・ミノスタールはフオク・ホーケンの崇拝者だから、どこまでがほんとで、どこからが作り話かわからないけど」
「それからどうしたんだ?」
 三人はムーンに催促した。
「結局魔王ギースを打ち破ったことが決め手となって、妖魔伝堂から無条件で第一位の大魔術師の称号を贈られたんだ。第七位の統徒から、間を五段階飛び越えて、最高の称号を得たことになる。もっとも、フオクは大魔術師の称号を自分では認めていない。妖魔伝堂が勝手に唱えていることになってしまっている。それを受けると妖魔伝堂の制約を受けることになるから、フオクは受けなかったんだろうと思う。フオクは自分のことを魔術師としか呼ばない。だからイェル・フオク・ホーケンと呼ばれると、フオクは怒るらしい――これは校長の作り話かもしれないけど。
 魔王ギースを封印することがどれだけ困難なことだったかと言うと、当時ダフネのサンドラ女王の依頼を受けた妖魔伝堂は、四人の魔術師をギースの砦に送った。だけどみんな殺されてしまった。当時最高の力を持つと言われ、『白光の魔術師』と呼ばれていたイェル・トマスターン・ドゥーノが急遽呼び戻されたけど、魔王ギースには敵わなかった。彼は死こそ免れはしたが、失明し、両脚も失い、白光の魔術を使えなくなった彼は、魔術師を引退せざるを得なくなった。その後、彼は妖魔伝堂の妖魔師に迎えられたけど。現在の妖魔伝堂の大魔導師二人のうちの一人が彼だよ。
 妖魔伝堂に残されたたった一つの手段は、妖魔伝堂を捨てた統徒フオク・ホーケンの下へ赴き、妖魔師六人自らが頭を下げて頼み込むことだけだったんだ。でもフオクは依頼を簡単に引き受けた。妖魔伝堂のメンツのためにではなく、悪逆非道の魔王を倒すためにだ。だけどフオクの偉いところは、自分の力を決して過信しないところだ。ドゥーノが敗れたということを聞き及ぶに至って、相手の実力の相当に高いことを悟り、魔力だけでギースに勝つことは不可能だと察したんだな。そこでフオクは剣魔ガブリエルを捜した。
 残念ながら、二人がどのようにして魔王ギースと闘い、打ち勝ったのかは誰も知らない。闘いはギースの砦で行われたらしいんだけど、誰も見ていなかったし、二人ともその時の様子を誰にも語り伝えてはいないから。ただ、ギースのむくろはアウグステ寺院へと運ばれ、その地下に封印された。ギースは決して死なないそうで、むくろを打ち捨てておくと、また復活してしまうらしいから。
 第一位の大魔術師というのは、六千年近い歴史を持つ妖魔伝堂においても、その列伝には五人か六人の名前しか刻まれていないんだ。俺は列伝を見たことがないから、はっきり何人だとは言えないんだけど、現在たった一人しかいない大魔術師フオク・ホーケンとは、千年に一人出るか出ないかの、それくらい凄い大魔術師なんだ。
 それどころか、歴代の大魔術師だけと比べてみても、全く見劣りしない。そのいい例を一つ挙げてみると、エルフ六十八の呪文を魔法典として集大成した大魔術師、イェル・ヨブステン・メゾキエルだ。彼はその秘伝、エルフ六十八の呪文を伝授され、それを習得し、その後大魔術師となって、初めてこの魔法典を書物として著した偉大な人物で、その魔力も、『幽体分離』、『時流制止』、『死者蘇生』という最高の術まで自由に操れたという凄腕だ。その大魔術師イェル・ヨブステン・メゾキエルでさえも、第六十八番だけは使えなかったというくらいだ。どれだけ難しい呪文かと言うと、魔法典の解説の欄にも、第六十八番の『時空歪曲』の所だけは、『時空軸を歪める極めて高度な術にして、その効果は測り難し』としか書かれていない。その術をフオク・ホーケンは使いこなせるというんだ。俺なんかは、第六十八番の呪文を読んだって、全くちんぷんかんぷんだよ。
 魔法学校の校長の言いぐさじゃないけど、フオク・ホーケンは、『正真正銘の本物の偉大な魔術師』だった。校長はよく妖魔伝堂の悪口を言っていたけど、フオク・ホーケンのことは誉める以外したことがない。ほとんどの魔法使いはたとえ人助けをしても、多額の見返りを要求するけれども、フオク・ホーケンはびた一文受け取ったことがないからさ。キューラ姉妹なんかは、金のためには平気で悪に手を貸す典型的な例で、殺されたのも、その悪行の報いさ。
 イェル・トマスターン・ドゥーノが大魔導師に迎えられ、その就任の儀式を行うに当たって、『イェル』を持つ第六位以上の魔法使いたちが妖魔伝堂へ招待された時、校長もオリカへ行ったんだけど、その時、かつての白光の魔術師は儀式のあとの講演でこう言ったそうだ――『大魔術師とは何か? それは魔力の強さだけでは決して到達し得ない聖域である。己れの欲望を全て捨て去り、真理のためには命をも捨てて闘える者のみが、大魔術師となる資格を持つ。私は両眼両脚を失ってみて、初めてそのことが見えた。私はこの度妖魔伝堂に入って大魔導師となり、大魔術師への道を諦めざるを得なくなったが、幸いにして、我々はフオク・ホーケンという最高の大魔術師を持つことができた』とね。
 俺は小さい頃から魔法学校の窓際で、外から立ち聞きしていたけど、校長のイェル・ケルネル・ミノスタール先生が語る大魔術師フオク・ホーケンの話が好きで、一冊の魔法典だけを手にしながら、夏は日に照らされて汗に塗れ、冬は風に吹かれて寒さに震えながらも、雨が降り出そうとも、その話が終わるまでは窓際を離れられなかった。いつしか俺は、フオク・ホーケンみたいな魔術師になるんだって思ってた」
「なかなか偉いじゃねえか。おまえも頑張れよ」
 オクスが言った。
「だけどそんな大魔術師フオク・ホーケンにこの世界に連れて来られたというファントム、おまえは間違いなく凄い人物に違いない」
「そんなことないよ。残念だけど、俺は何も特別な力を持ってない。フオクからはガブリエルを見つけ出すように言われただけだ。俺にしてみれば、フオクは変わった人だという印象しかないな。俺に金貨五枚くれて、まずアルバの町へ行けとだけ言って、そのあとすぐにバイテンの洞窟に消えてしまったんだ」
「ちょっと待てよ」
 急にヴィットーリオが言うと、何か思いついたような様子で、しばらく考え込んだ。
「何だよ、何か閃いたのかよ?」
「そうだ。もしかして――」
 それだけ言うと立ち上がり、急いで店から出て行った。
「あいつ、どうしちまったんだ?」
 しばらく店にいたが、ヴィットーリオはいつまで経っても帰って来ない。三人は店を出るとこにした。ムーンはオルフォイア通りを東へ向かって帰って行く。
「じゃあ、また会おう」
 ムーンが行ってしまうと、ファントムとオクスも下宿に戻ったが、下宿屋の前まで来ると、
「ちょっとヴィットーリオを見てくるよ」
 ファントムはヴィットーリオのことが気になり、そのまま一人でラーケン邸へと歩いて行った。

「何だよ、勝手に帰ってしまって」
 ファントムが非難めいた口調で言ったが、
「ちょっと待ってくれ」
 ヴィットーリオは机に向かって熱心に書物に見入っていた。
「何を読んでるんだ?」
「ガブリエルの書だ」
 ファントムもそれを覗き込んだ。ヴィットーリオは何度も頁をめくり、行ったり来たり読み返していたが、ようやく顔を上げた。
「何かわかったのか?」
 ヴィットーリオは頷きもせず、
「きみはこれを読んだろ?」
「読んだよ」
「それで、何かわかったかい?」
「難しくてよくわからなかったな」
「難解なのは誰にとっても同じだ。ではこの第四十章からあとはどうだった?」
「終わりの部分だろ。特にわかりにくかったな」
 ヴィットーリオは今度は頷いた。
「そうだろう。誰もまだ解読できていない。しかし僕は今日新たに未解読の部分がわかった」
「そりゃ凄いや。何がわかったんだ? 教えてくれ」
「まあ、そう慌てるな。わかったような気がしただけかもしれない。まだ確証は持てないでいる。直感さ。それをこれからはっきりさせていく。ここじゃ何だから、下の居間へ行こう」
 二人は机と椅子一組以外には本ばかりしか置いていない屋根裏部屋を出た。居間に下りて来ると、長椅子に腰掛けて落ち着いた。ヴィットーリオはポットとカップ二つを持って来て茶を入れた。
「まず、情勢予測学というものについて少し説明しておこう」
「別にいいけど……。今しなきゃならないことか?」
「そうだ」
 ヴィットーリオは普段にもなく押し被せるように言うと、話し始めた。
「この学問は始まってまだ間もない。最初の頃は、ラーケン先生などごく少数の先駆者たちが、細々と専門以外の趣味としてやっていたことだ。しかしそれは十年ほど前からがらりと様相が変わった。そのきっかけは、他でもないガブリエルの書だ。この時から情勢予測学は、急速に専門分野として確立していくことになる。だから今でも情勢予測学者たちにとってみれば、ガブリエルの書というのは僧侶にとっての聖典みたいなものだ。未来を知るという能力は人間には備わっていない。それでもあえて未来を読もうとするのが情勢予測学だ。だからその拠り所となる物は極めて少ないと言える。その少ない拠り所を元に、日夜あがき続けるのが情勢予測学者の宿命だ。
 最近の情勢予測学というのは、文献学みたいなことばかりやっている。しかし、解読を誤れば大失敗するが、解読さえ正確にこなしさえすれば、必ずや正しい未来を示してくれる唯一の文献が『ガブリエルの書』なんだ。事実、四十、四十一、四十二の各章は、最近起こった大きな出来事を正確に予言していた。これは事後はっきりしたことだ。コラールの改ざんさえなければ、我々はそれらの出来事を正確に予知することができたはずだ」
「改ざん? コラールがしていたのか?」
 ヴィットーリオは険しい目つきをして頷いた。
「かつてそのガブリエルの書はアルバのコラール一人が所有していて、金を取りながら少しずつ口述するということをしていたから、情勢予測学者のみならず、なかなかガブリエルの書を完成させることができなかった」
「そのことは知ってるよ。コラールは確かに意地汚い奴だったみたいだ」
 ファントムも頷いた。
「それでもまだ、金を取ってまで嘘をついているとは誰も思ってもみなかった。ところがこいつがとんだ食わせ者だった。本当のことを言うと、完成できたのは、唯一の所有者だったコラールが死んで、ディングスタが書を世間に公開するようになってからだ。ディングスタがガブリエルの書の公開を始めると、情勢予測学会は大混乱に陥ってしまった。なぜかと言うと、コラールが十年間にわたり世間にちびちびと洩らしていたガブリエルの書というのは、贋物だったからだ」
「えっ、贋物!」
 ヴィットーリオはファントムのカップに茶を注ぎ足した。
「完全な贋物というわけじゃない。コラールが口述用に使っていた写本は、コラールによってかなりの部分に手が加えられていたことが、ディングスタの原本公開によって明らかになった。お蔭で情勢予測学者も、ガブリエルの書だけを専門に研究している研究者ならなおさらのこと、みんな一からやり直さなければならなくなってしまった。コラールの改ざんがどんなにひどいものかと言うと、例えばここだ――」
 そう言うと、ヴィットーリオはガブリエルの書の写しを開き、ファントムに示した。
「第五十章――彼方より無知なる旅人来りて我が意を行わんとす。偉大なる賢者の招きたる者なれば、無知なりと云えどようよう理を詳らかにし、その行い正しからん。旅人この世を闇と成し闇に仕え、闇に背き闇を光と成すも、世の人が謗り免れ得ず。やがて去りぬ。無知なる旅人去りしより幾許となくして世は滅せん。無に帰したりと云えど旅人再び帰りなん。然らば我を伴いて、世を滅せんとせし者をこそ滅ぼさんや。斯くして我が意は成れり。地は光満ち花咲き乱れ喜び溢れんとす。地は楽園へと変われりと云えども、世の人無知なる旅人を忘る――ガブリエルの書の最終章だ。聖なる書物はこの恐ろしいばかりに予言めいた文章で終わる」
 ヴィットーリオは茶を一口啜った。
「そこも俺は読んだけど、全然意味がわからないよ」
 ファントムは首を横に振った。天井を仰いで静かに笑った。
「まあいい。これをコラールはどう口述していたかと言うと、こうだ――彼方より多くの民来りて我を迎えんとす。我偉大なる賢者を招くに当り、無知なる者どもと云えどようよう理を知るに及んで、その行いを正さん。しかれども闇に仕え光を闇と成さんとする者悉く我が怒りに触れ、やがて去りぬ。無知なる者どもは去り、滅せんとす。而して偉大なる賢者我を伴いて世を治め、我が意を代行す。斯くして地は光満ち花咲き乱れ喜び溢れんとす。地は楽園へと変わるに及び、世の人賢者の子孫を永劫に讃え、その限りに於いて未来永劫に世は栄え、無知なる罪人を忘る」
 ファントムはびっくりして、ヴィットーリオの顔をまじまじと見ていた。
「よく意味はわからないけど、まるっきり違うじゃないか」
「ガブリエルの書の研究者たちは、コラールとはどれだけ愚か者だったかということが、今初めてわかった。本当に、殺しても飽き足りぬほどの罪人だ。僕は以前からおかしいとは思っていた、ガブリエルが自分の威光を振りかざそうなどとするだろうか? 全くもって馬鹿々々しいことは、この贋の最終章においてコラールは、ここに出てくる『賢者』というのを自分になぞらえている。ガブリエルがそう予言したことにして、暗に自分を、そればかりか子々孫々にわたって支配者とするように仕向けようとしている。
 こんなおめでたい内容の作り話に変えといて、原文にどれだけ重大な秘密が隠されているのか、奴には何もわかっちゃいない! 愚かなことに、我々情勢予測学者は、つい最近までこの馬鹿げた改ざん文を解読しようと躍起になっていた。あの愚者以下の愚者たるコラールのお蔭で、情勢予測学は十年遅れた! あの欲惚け妄想じじいの屍を墓から掘り出してズタズタに引き裂いてみたところで、この恨みだけは晴れはしないよ! あのクソじじいが生きていたら、今この手でなぶり殺しにしてやるところだ!」
 コラールのことを余程腹に据えかねているのか、ヴィットーリオはだんだん興奮してきて、テーブルをガンガン叩いてわめき始めていた。
「まあ、そんなに興奮するなよ。コラールはもう死んだんだ。たぶんディングスタに殺されたんだろう。本当のガブリエルの書の内容が知られるようになって良かったじゃないか」
 ファントムは懸命にヴィットーリオをなだめようとしたが、なかなか収まらない。こいつがこんなに荒れるなんて、よっぽど怒ってるんだろうなあ、と思った。ヴィットーリオはようやく怒りを収めると、
「まあいい。正しいガブリエルの書で僕が気づいたことを言おう。まずこの文章は、『魔の手の予言』とは違う全く別の恐ろしい未来の出来事を指している。そしてわかっていることと言えば、『偉大なる賢者』というのは大魔術師フオク・ホーケンのことを指しているのだということ。これは今ではもう研究者誰もが確信している。問題は、この最終章で最も重要な役割を演ずる、賢者に招かれ彼方よりやって来る『無知なる旅人』だ。
 『無知なる旅人』はこの世を闇に変え、その闇に仕えるが、次には闇に背き、その闇を光に変える。しかし民衆は旅人を許さずに彼、もしくは彼女を追放し、そうすることによって結局この世は滅んでしまう――ここまではわかる。次からよくわからなくなる。この世が滅んでから旅人は再び戻って来る、『我』――つまりガブリエルを伴って。旅人とガブリエルは二人して、この世を滅ぼさんと企てる者を逆に滅ぼす。そうなれば、『我』――ガブリエルが企てた通りになるという。
 どうなるのかと言うと、この世が、光満ち、花咲き乱れ、喜びに溢れる楽園へと変わるというのだ。この『楽園』というものがどういうものかということが、これよりずっと前の部分で少しだけほのめかされている。こうだ――『一切の不安、恐怖、苦悩、絶望、悲哀、憤怒といった人間誰もが持つ負の感情を、全く喚起させることのない環境であることを楽園と呼ぶことにしよう』
 どういうことか、僕にもよくわからない。この世が滅亡したあと、新たに人類が生まれるということなのか? ガブリエルは一体どういうことを企てているというのか? 再び帰って来るのなら、では今どこにいるのか? わからないことだらけだ。しかし僕はついさっき、『無知なる旅人』の謎が解けたかもしれないと直感した。これは恐らく僕以外には誰にも解けないはずだ。なぜならそれには理由がある」
 ヴィットーリオは急に落ち着きを取り戻した。今まで興奮して立ち上がっていたが、ゆっくりと長椅子に腰を下ろすと、冷めかけた茶をまたカップに注いでゴクゴクと飲んだ。そしてファントムの顔を見た時には、自信に満ち溢れた微笑を浮かべていた。
「で、どう解けたんだ?」
 ファントムはそんなヴィットーリオがいつになく気味悪くなって、急いで訊いた。
「それは今は言えない。まだ確証がないからね。だけど追々明らかになる。今ここで是非ともきみに訊きたいことがある」
「何だい?」
「他でもない、きみ自身のことだ。さっき店で言っていたことを確認したいだけだ。きみはフオク・ホーケンに連れられてこの世界にやって来た?」
「そうだ」
「それ以前のことは覚えていない?」
「ああ。思い出せないんだ」
「じゃあ、その時のことでいい、この世界にフオク・ホーケンに連れられてやって来た時のことを思い出してくれ、なるべく詳しく」
 ファントムは記憶を辿り、やがてその時のことを話し始めた。
「あれは去年のことで、そう、夏の初めぐらいだったと思う。バイテンの洞窟の中で、フオクはカンテラを手にして出口へと向かって行った。出口に着いて、俺がどこへ行くのかって訊くと、フオクはアルバの町だと答えた。そんな所へ行ってどうするんだって訊くと、フオクは知らないって言う。俺は招かれたんだとしか言わない。それもガブリエルに会えば明らかになるんだって。全てが明らかになるって。じゃあそのガブリエルはどこにいるんだって訊いたら、フオクはそんなこと知らないって全く身勝手なこと言うんだ。なんで俺が捜し出さなきゃならないんだって訊いたら、俺がファントムだからだって、ほんとに無茶苦茶だ。俺はファントムなんて名前じゃない。だけどそれ以前のことはいくら思い出そうとしても何一つ思い出せないんだ。フオクは俺がファントムでないとこの世界で通用しないし、ファントムだからガブリエルを見つけ出すことができるんだって言った。それだけ言って、金貨を五枚くれると、すぐに洞窟の中に消えてしまったよ」
「ふうん、なるほど」
 それからファントムは、バイテンの洞窟を一人で出てからタウの町にやって来るまでのことを、ヴィットーリオにざっと話して聞かせた。しかしアウグステ寺院で大僧正ラムンテに見せられたガブリエルの秘文のことと、預言者ヴィ・ヨームに見せられた未来の終末図のことだけは言わなかった。
「よくわかったよ。ありがとう。ところで、明日大学に来てみないか?」
 ヴィットーリオは急に話を変えた。
「別にいいけど」
「今ラーケン先生は情勢予測学の講義で、本物の方のガブリエルの書を取り上げているんだ。特に第四十章から第五十章にかけての予言書の部分をだ。ちょうど明日の午後その講義がある。僕も午後からは大学へ行って、その講義の助手をやる。と言っても、座って聴いているだけだけど。その授業にきみも連れて行くよ。午にエローラの店で落ち合おうじゃないか」
「それでいいよ。じゃあ、もう遅いから」
 ラーケン家のメイドが通りすがりに、不快そうな顔をして行ったものだから、ファントムはすぐに立ち上がった。
「きみのことは明日の朝ラーケン先生に伝えておくよ」

 ファントムが帰ったあと、ヴィットーリオはまた長椅子に腰を下ろし、一人でガブリエルの書の写本を睨んでいた。そして独り言を言った。
「無知なる旅人か……。灯台下暗しとはこのことだ」
 ヴィットーリオは一人でニヤニヤしながら、カップの中に残っていた冷めた茶をがぶりと飲み干した。
「フオク・ホーケン、ディングスタ・ピグノー、ドワロン、ジャバドゥ、ヴィ・ヨーム、ラムンテ――わずか一年足らずの間に、その世界じゃ第一級の人物とばかり出会っている。これは偶然では済まされないはずだ。これは間違いなく『我が意』に従って動いているからだ。間違いない。僕は全くついてる」
 ヴィットーリオは写本に目をやったまま、ポットからカップに注ぎ損なって、茶がテーブルを濡らしていることに気づかずに、まだニヤニヤしていた。
「何が無知なる旅人なもんか。無知どころか、記憶を消されていて、自分のことが何もわかってはいないだけさ。あんな謎を解いたということ自体、只者じゃない。タウでは天文学者を除いて、このヴィットーリオ以外には解けそうもない難問だ。ましてや、賢者の石と富の宝冠まで取って来てしまうとは、他の誰にも真似できやしない……。そうか! もしかすると、ヴィ・ヨームは彼にソロモンの鏡を見せたかもしれないぞ。明日問い詰めてやろう」
「ヴィットーリオさん、少しお静かになさって下さいませんか。もう遅うございますよ」
 向こうの部屋からメイドが声をかけてきた。
「ああ、すみません、すみません」
 ヴィットーリオは表情を急に暗くして呟いた。
「しかし……、この地を闇と成し、闇に仕え――か……」
 彼は空っぽのカップを口に運んだまま、じっと物思いに耽っていた。




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